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このブログを運営しているみろくやは、昭和39年に長崎で設立されました。設立以来、長崎名産品である長崎ちゃんぽん、皿うどんを製造・販売しています。このブログでは私達の情報だけでなく、愛してやまない長崎のことも綴っていければと思います。私達を通じて、少しでも長崎に触れていただけたら幸いです。

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ちゃんぽんコラム第467号 【松陰先生、長崎を駆け巡る】

2015.01.28

 少しずつ伸びる日差しに春の兆しを感じている方も多いはず。あと1週間もすれば立春です。松森神社(長崎市上西山町)ではロウバイが水仙に似た甘くさわやかな香りを漂わせています。境内の梅はつぼみがいまにもほころびそう。植物たちは静かに、大胆に春に向かっています。

梅のつぼみもふくらんで(松森神社)

梅のつぼみもふくらんで(松森神社)

 今回ご紹介するのは、大河ドラマで注目を浴びる幕末の志士、吉田松陰(1830-1859)の長崎での足跡です。長州藩士の松陰は志しが高く、むちゃなことでも失敗を恐れず行動する人物として知られています。明治維新で活躍した人物を多く育てた私塾・松下村塾では、心優しき熱血先生として慕われ、身分や階級にとらわれず、「共に学ぼう」という姿勢で塾生に接していたと伝えられています。
 ところで長州藩は、他の藩へ遊学することを奨励するなど、江戸時代を通じて人の育成に力を注ぎ、藩内には私塾や寺子屋が数多くあったそうです。そうした環境のもとで生まれ育った松陰は、20歳を過ぎると東北各地から南は九州熊本まで各地をめぐりました。そのなかで長崎を訪れたのは21歳と24歳のときでした。
 松陰が著した『西遊日記』には、1850年(嘉永3年/21歳)に平戸や長崎などを訪れ、どこで、誰と会い、何を思ったかなどが簡潔に記されています。この日記によると、松陰は諫早(永昌)~古賀~矢上を経て9月5日(旧暦)に日見峠を越えて長崎へ入り、長州藩屋敷(長崎市興善町)に到着。その日の短い日記には、よほど印象的だったのか、長崎市中では所々に木戸が設けられていることが記されています。

長州藩屋敷跡(長崎市興善町)

長州藩屋敷跡(長崎市興善町)

 

 翌6日朝、西洋砲術を学びに来ていた人と一緒に、西洋砲術家・高島秋帆の息子、高島浅五郎を訪ねています。また、午後には舟を雇って停泊するオランダ船や唐船の近くを乗り回したとあります。いかにも好奇心旺盛な若者らしい行動です。その後、崇福寺(長崎市鍛冶屋町)に行き清国人のお墓を見たり、後山の高台から長崎のまちを眺めたりしたことが記されています。
 7日、諏訪神社(長崎市上西山町)に参拝。平戸藩屋敷(長崎市大黒町)へ行き名刺(紹介状)を差し出したとあります。松陰は晴れ男だったようで、長崎入りしてから9月11日までの1週間、晴天に恵まれ唐人屋敷や出島のオランダ屋敷を訪れ、さらにはオランダ通詞のはからいでオランダ船に乗り込んだりもしています。時間をいっときも無駄にしない松陰の動き。その合間には、『海防説階』という書物を写したりもしています。短めの内容だったそうですが、いかにも松陰らしいエピソードです。

松陰も上った秋帆旧宅の階段

松陰も上った秋帆旧宅の階段

松陰も訪れた諏訪神社(長崎)

松陰も訪れた諏訪神社(長崎)

 

出島にも足を踏み入れました

出島にも足を踏み入れました

 

 このあと、長崎をいったん離れ平戸でしばらく過ごし、再び長崎へ向かいます。今度の滞在は11月8日から12月1日までの約1ケ月間です。福岡藩と佐賀藩が長崎港警備にあたっていた西泊番所に行ったり、再び高島浅五郎と会ったり。また、ある唐通事と親交を深めたことがうかがえる記述もみられます。
 長崎でのある日、松陰は春徳寺(長崎市夫婦川町)の後山にある唐通事・東海氏の墓を見学。背後の城址に上り長崎のまちを一望しながら、江戸時代初めに貿易港として賑わう長崎を静かに去った長崎甚左衛門(それまでの長崎の領主)に思いを馳せています。過去も未来も独自の視線で見通した吉田松陰。彼の眼に当時の長崎はどのように映ったのでしょうか。

東海氏のお墓。背後の山が城址

東海氏のお墓。背後の山が城址

 

◎参考にしたもの/『吉田松陰全集 第九巻』(山口県教育会)、『藩と県~日本各地のつながり~』(赤岩州五、北吉洋一)

 

 

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