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長崎開港物語 第35回 長崎料理ここに始まる。(七)

2015.02.12

特集・坂本龍馬と長崎料理・かすてら(其の三):一、はじめに

亀山焼染付芯切(越中文庫)

亀山焼染付芯切(越中文庫)

長崎はいま坂本龍馬で沸き返っている。

 先日、本誌の編輯子より「今回は龍馬と長崎料理を特集して下さい」との連絡があった。そう言われてみると私は戦後昭和二十九年七月三日・毎日新聞長崎地方版に同年七月より連載させて戴いた「巷説長崎風土記」の一章に「亀山の白バカマ」と龍馬と亀山社中のことを書いていた。之が始めて戦後、龍馬と長崎のことを書いた文章であったと言われる。
 次いで昭和三十三年春、司馬遼太郎先生が龍馬の資料収集のため来崎され、次いで親和銀行頭取北村徳太郎先生がわざわざ亀山社中の一人・二宮又兵衛の墓を訪ねて私の処にこられた事を思いだしている。
 そして此れ等のご縁で私が平成十二年新人物往来社特集「検証・坂本龍馬」には「長崎時代の坂本龍馬」を書かせて戴いた事を編輯子は知っておられたそうである。

二、龍馬はじめて長崎に

 龍馬の研究では、先年亡くなられた宮地作一郎先生編輯の「坂本龍馬全集」に先ず目を通さなければならないし、最近は前述の新人物往来社より十数冊の龍馬関係資料が出版されている。此れ等の資料を参考にして、龍馬が何時、最初に長崎へ足を踏み入れたか、其の当時の事より考えてみる事にした。元治元年二月二十二日(一八六四)軍艦奉行に任命された勝海舟は長州藩とアメリカ等四カ国連合国との問題解決の為、一行二十名と共に熊本・島原・神代経由で愛津村(現在愛野)に着き其の夜は同村庄屋宅に一泊、翌二十三日船に乗り千々岩灘(橘湾)を渡り長崎に到着している。
 この一行の中に龍馬・近藤長次郎もいたのである。当時、龍馬は文久二年三月(一八六二)土佐藩を脱藩し江戸に行き勝海舟の門下生となり、翌年、海舟が神戸に開いた私塾「海軍塾」に入塾し、塾頭となり操海技術・洋学などを学んでいたので、海舟の長崎行きには塾生として同行を認められたのである。この時の海舟と各国との交渉は不調に終わり、四月四日には海舟の一行は長崎を出発し前路を逆に長崎より舟で愛津に渡り神代・島原経由熊本に渡っている。
 この結果もあって、七月十九日長州藩は京都蛤御門の変で幕府軍と争い敗れ、更に其の翌八月五日には英米仏蘭連合艦隊の長州藩下関砲台の砲撃に合い大いなる衝撃を受けている。 この間のことを龍馬はどう見ていたのであろうか。

三、長崎滞在中の海舟と龍馬

長崎菓子屋の図(鼎左秘録)

長崎菓子屋の図(鼎左秘録)

 

 海舟と龍馬の長崎における宿舎は下筑後町の唐寺福濟寺と記してある。福濟寺は由緒ある黄檗宗の唐寺で有名な大雄宝殿・青蓮堂があり、其の二堂の間には大きな書院もあったし、近くには永聖院・興徳庵・霊鷲庵等の末庵もあったので従者の人達もゆっくりと分宿できたと考える。また海舟にとっては前回来崎の時にもうけた一子梅太郎も寺のすぐ近くの西坂の実家に元気に育っていた。
 海舟は前回の長崎滞在のとき当時の素封家で松平春嶽・貿易商グラバー等とも親しく交わり、且つ文人としても有名であった小曽根乾堂(けんどう)(一八二八~八五)に多大の援助をうけ且つ親交があったと記してある。乾堂は当時、福濟寺よりあまり遠くない本博多町(現万歳町)の坂上天満宮の隣に居を構えていた。
 今回も当然、海舟は乾堂と逢い親交を重ねたに違いない。そして其の座席で海舟は塾頭である龍馬を将来のある人物として紹介したはずである。それは其の翌年慶応元年四月(一八六五)龍馬を援助する薩摩藩士小松帯刀と共に再び船で長崎に来た時、長崎における援助者が乾堂であった事でも知られる。乾堂は龍馬を志ある大いなる人物として認められていたのであろう。
 龍馬は再び鹿児島に引返し翌慶応二年(一八六六)六月三日、亀山社中所有のワイル・ウエフ号が五島有川町江ノ浜塩谷崎沖で転覆した事もあって新妻お竜を連れて長崎に急ぎ、お竜は小曽根邸に預け自分は亀山社中の同誌を連れて五島に渡り江ノ浜の墓地に慰霊碑を建てている。(その慰霊碑は江ノ浜の墓地内に現存している)
 この間、龍馬が鹿児島に行き長崎不在中に亀山社中の同志で龍馬の代役として活躍していた近藤(上杉)長次郎がユニオン号を六万ドルでグラバー商会より購入、その代金は長州藩より支出、所属は薩摩藩とし使用は薩長共用、航海運用の実務については亀山社中という協定書の事より種々と問題が起こり、更に其の文章に無断で龍馬の名を長次郎が記した事より慶応二年一月十四日本博多町小曽根邸の庭園内の茶室で自殺するという事件が起きていた。龍馬はこの知らせを聞いたが急ぎ長崎にも行けず、前述の六月長崎を訪れた時、長次郎の墓碑に「梅花書屋氏墓」を記し供養したと伝えられている。(墓碑は現在、長崎寺町皓台寺後山小曽根家墓域内にある)。

四、龍馬と西洋料理

 龍馬はブーツを履き、ピストルを持ち、当時としては珍重された写真にまで映像を残しキー付の懐中時計を持っていたと言うほどハイカラ好みの人物であった。その故に編輯子は「新しい知識に興味を持ち続けている龍馬は、西洋料理を食べ、南蛮菓子のカステラも必ず食べたはず」と言われる。
 そう言われてみると、亀山社中があった旧長崎村伊良林郷字垣根山のすぐ近くには我が国最初の西洋料理専門店「良林亭」が亀山社中が結成された頃には大いに繁昌し、亀山社中のいた慶應年中には旧位置より稍下の次石の地に「自遊亭」と店名を改め営業しているし、その下の伊良林本直には、其処にも和洋食料理で有名な料亭「藤屋」があり、其処に龍馬が行った事は土佐藩士佐々木小四郎宛書簡に「時に藤屋に出かけた」と記してある。たぶんに龍馬も洋食を堪能したでありましょう。

(以下次号)

第35回 長崎料理ここに始まる。(七) おわり

 

長崎開港物語は長崎歴史文化協会理事長、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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