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長崎開港物語 第44回 長崎料理ここに始まる。(十六)

2015.03.06

(前段落)

二、長崎南蛮料理

 長崎の開港は、1568年9月エイズス会のトーレス神父が口之津(島原)より福田(長崎)・大村へと向かう途中、長崎に立ち寄り、Gヴィレラ神父に長崎での布教を命じたことにより、1570年9月頃トラパス船長の船が長崎の港を測量、翌年の春ポルトガル船が貿易のため入港、これより蛮船の長崎貿易は開始されている。当時の南蛮船の記録によると、「新しい長崎の町は岬の上にあり、其処には教会を中心に千人ばかりの人たちが居た」とある。
 当時のポルトガル船の人達は街で宿泊する人は少なく、船内で多く食事をしていた。それは食生活の違いがあったからであったと言う。それはポルトガル(南蛮)の人達はパンや牛肉・バター類を主食にしていたからである。
 然し時代と共に新しい長崎の町の食生活は変化している。1580年 当時、長崎方面を支配していたバルトロメ大村純忠は長崎・茂木の地をイエズス会に寄進している。之によって長崎地方の諸文化は急速にキリ シタン文化・欧州の食文化に変化している。1614年、長崎の街に居住していたメスキータ神父は通信文の中に次のように記している。

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 長崎の町ではヨーロッパと同じ食事ができるし、ヨーロッパでは高価である牛のゼラチンもある。この料理を我が国の人達は南蛮料理とよび珍しいものとして楽しんでいる。現在でも其の名残は残っている。

パン、カステラ、ヒロス(ヒロウス)テンプラ、ビスカウト、カルメラ、コンペイトウ、ヒカド、チンダ酒(ぶどう酒)等。食器のコップ(Copo)もポルトガル語である。

三、長崎オランダ料理

 1641年6月25日(寛永18)幕府の命により平戸オランダ商館は長崎出島の地に移転が命ぜられオランダ船は長崎に入港してきた。然し出島に居住するオランダ人には数々の制限があった。例えば許可無く出島の外に遊歩する事。日本産の牛(肉)は食せぬこと。出島内でパンを作る事(パンは奉行所指定のパンを食する事)。出島内居住のオランダ商館員はカピタン外十数名とする事等。
 然し1720年(享保5)吉宗の洋書解禁令以後、我が国の近代化が進み出島オランダ屋敷内の食文化にも注目されるようになり、毎年12月末(旧暦)「オランダ正月」という日があり、之の日には出島カピタンより長崎諸役人に招待がありオランダ料理の宴席があった。 この事が江戸でも評判となり、有名な蘭学者大槻玄澤も「天明五年長崎日記」(1785)の中に其の時のオランダ料理を紹介した事や「長崎名勝図絵」にも大きく記述された事等で広く世に知られるようになった。其の一文に
和蘭(オランダ)・食事をなすや箸を用いず三叉鑚(ホコ)・快刀(ハアカ)・銀匕(サジ)の三器を以す。ハアカを操(と)りて肉を截割(きりさき)、これを匕(サジ)に掬ひ(すくい)とりて喫し喰也・・・
 この出島洋食の風は1859年(安政6)の開国令により、各国との自由貿易、各国領事館、居留地の設置と共に本格的な西洋料理が全国に普及していった。長崎では文久3年(1863)秋、我が国最初の西洋料理専門店「良林亭」を長崎伊良林郷次石若宮神社前に草野丈吉が開業、その看板には次のように記してあった。

料理代 御一人前金三朱、御用の方は前日御沙汰願上けます 但し六人以上の御方様はお断わり申上候

 当時の料理は、ターフルにのせバンコ(椅子)に座り、パン、フルカデル、ソップ、カルマチ、タルタ、ボートル、ブラド、チンダ酒を食したと記してある。

四、唐船料理

染付三川内焼

染付三川内焼

 長崎に唐船が初めて入港したのは秀吉が朱印船貿易開始以後のことである。当時の長崎の街は全てがキリシタンの街であったので佛教を主にした唐船の人達は長崎の対岸・水之浦(稲佐)方面に停泊、1602年(慶長7)には福建省出身の唐船主欧氏、張氏が中心となり菩提寺集会所を兼ねて稲佐の地に悟真寺(浄土宗)を創建している。1605年(慶長10)徳川幕府は当時大村氏が所領地としていた長崎の大半を公領地とし長崎代官に支配を命じキリシタンの禁教を厳しくしている。
 これ以来、唐船の人達は全て街中に宿泊居住し、1620年(元和6)には長崎最初の唐寺(含媽祖堂)を風頭山の下・寺町に建立している。長崎に居住する唐人を長崎奉行所では住宅唐人とよび、唐人女子の来航は禁止いていたので、其の婦人は全て長崎の人達であった。次に奉行所では在留唐人の中より学のある人を選んで唐通事に任命、其の人達には日本姓を用いることを許している。例えば陳氏は穎川(えがわ)氏。馮氏は平野氏等である。
 唐船の入港は、1684年(貞享1)清国が遷海令を解禁した事によって例年30艘内外であったのが急に100艘以上となり、大混乱となったので長崎奉行所は1689年(元禄2)十善寺郷に急ぎ唐人屋敷を造り唐船の入港は70艘までとし、唐人も出島のオランダ人同様、許可なく自由に街中を歩く事を禁じている。当時の長崎の街では既に大いにシッポク料理が流行しており、その珍味はすでに京都・江戸方面にまで知られていたと「嬉遊笑纜」は記している。
 次いで1771年(明和8)には江戸、京都の書林より「新撰会席しっぽく趣向帳」・1784年(天明申辰)には「卓子(しっぽく)式」1822年(文政5)には江戸八百善より「江戸卓袱(しっぽく)料理」等が出版されている。長崎の人足立正枝(1855~)の「長崎風俗シッポク料理」には次のように記してある。

一、小菜五皿乃至七皿 刺身、湯引、取肴、等  一、大鉢一個 玉子蒸他見計ひ。  一、中鉢一個 鰻かばやき他季節物。  一、丼 三個乃至五。 味噌吸物、  煮物他 其の他。 南蛮漬、そぼろ煮、鶏水たき、ヒカド、けんちん、胡麻豆ふ、  更紗汁、岡部(鮨) (以上)

(完)

第44回 長崎料理ここに始まる。(十五) おわり

長崎開港物語は長崎歴史文化協会理事長、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

 

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