第681号【近代活版印刷の祖・本木昌造のこと】
令和8年熊本地震の後、各地で大雨による災害が起きています。被害に合われた方々に心からお見舞い申し上げます。一日も早く復旧し、安心安全な暮らしができますようお祈りいたします。 9月初め、多良岳の上に連なっていたのは、真夏の雲。その日の最高気温は36℃でした。その後、曇りや小雨の日が続き、気温はようやく下降傾向に。中島川では、炎天下では見かけなかったアオサギが、川面を歩いていました。ただ、涼しさを感じるとはいっても、長崎の日中の気温はまだ30℃台。引き続き暑さと大雨への対策は必要です。 さて、今回は、江戸時代末期から明治時代にかけて活躍したオランダ通詞で、印刷技術者でもあった本木昌造(もとき しょうぞう)(1824〜1875)をご紹介します。昌造は、長崎の新大工町出身。11歳のときオランダ通詞を家業とする本木家の養子となりました。好奇心旺盛で才気あふれる昌造は、家業を継ぐ一方で、造船や製鉄、さらには航海術など西洋の技術を習得。なかでも、昌造の興味を強く引いたのは、西洋の印刷でした。 当時の日本の印刷は、木に掘った文字を紙に写し取る「木版印刷」。それは、職人たちが手間をかけて作るもので、ものによっては、かすれて読みづらいものもあったようです。通詞の仕事を通して手にする、西洋の本の克明に刻まれた文字は、「活版印刷」といって、あらかじめ金属で文字の型(活字)をつくっておき、それを組み合わせて機械を使って印刷するもの。昌造は、木版印刷よりも早く明確に印刷できるこの技術が、国の発展に寄与すると考え、活版印刷機を手に入れて、見よう見まねで木製の活版を作るなど、試行錯誤をしたと伝えられています。 時代は、幕末の激動期。通詞としての仕事も忙しくなり、長崎に来航したロシア極東艦隊司令長官プチャーチンに同行したり、日本各地を飛び回ったりしながらも、活版印刷への情熱は消えることはなく、長崎奉行に働きかけ、1869年(明治2)「活版伝習所」(現在の長崎市興善町・長崎市立図書館付近)を設立しました。 その後、アメリカ人の印刷技師ウィリアム・ガンブルから伝授された技術、「電胎法(でんたいほう)により、銅で型どった丈夫な活字をつくることに成功。「活版伝習所」にほど近い場所に、私設の「新町活版所」を設立し、日本における印刷企業の産声をあげました。現在、その跡地に建つ「〜近代活版印刷発祥之地〜新町活版所跡」の碑の文字は、当時、昌造らが鋳造した活字をもとにしたものだそう。また、現在の長崎市役所前には、いまから150年ほど前に昌造らが作成した新聞の活字を再現した「長崎市役所」「長崎市議會」の銘板が設けられています。 新聞や書籍、雑誌など、活字を扱う業界の基礎をつくりあげ、印刷物をとおして、当時の日本人に新たな世界、知識に触れる機会をつくり、ひいては新時代の文化を生み出すことに貢献した昌造。その人生は濃密で、印刷関係以外でも、多くの偉業を残しました。1875年(明治8)52歳で亡くなった昌造は、大光寺(長崎市鍛冶屋町)に葬られました。もっと、その人となりについては、さらに研究がなされ、後世に語り継いでほしい人物です。 ◎参考:『本木昌造先生略伝〜追録 新町活版所の記〜』
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