第426号【長崎開港時のお殿さま、長崎甚左衛門】

 仙台でようやく桜が見頃を迎えた先週、長崎では早くも庭木のサクランボや青梅がたわわに実っていました。風に運ばれてくるのは、新緑や花々の甘い匂い。まちへ出て、ぶらぶらと歴史散策するのにはもってこいの季節です。



 

 緑に包まれた諏訪神社に隣接する長崎公園に出かけると、遠く長崎港を見つめる男性の銅像が目に留りました。胸には十字架を下げています。400年余前、長崎が南蛮貿易港として開港した当時の領主、「長崎純景(すみかげ)」こと、通称「甚左衛門(じんざえもん)」です。



 

 甚左衛門(1548?-1621)は、鎌倉時代以来、長崎を治めていた長崎氏の14代目。その砦は、春徳寺(長崎市夫婦川町)の裏山で、「城の古址」と呼ばれる丘にあり、ふもとに館を構えていました(現在の桜馬場中学校あたり)。当時、館の周囲には、たいへん素朴な集落が形成されていました。それが、開港前の長崎の姿。中央では、その地名を知るものもないような九州の一寒村でありました。

 



 そんな土地の領主だった甚左衛門。群雄割拠の戦国時代にあって、領地拡大を狙う周囲の豪族に、たびたび攻撃を受けていました。甚左衛門は、大村の領主であった大村純忠の家臣となり、その支援を得て領地を守ったといわれています。

純忠といえば、日本初のキリシタン大名として知られていますが、甚左衛門も1563年純忠とともに横瀬浦(当時、純忠が南蛮貿易港として開いたところ)で、洗礼を受けたと伝えられています。その後、純忠の娘「とら」を妻としたことからも、純忠との親密さがうかがえます。

 

 キリスト教の普及に熱心だった甚左衛門は、館の近くにあった寺社をイエズス会の神父に提供。そこには、トードス・オス・サントス教会という長崎最初の教会が建てられました。まもなく純忠と甚左衛門は、長崎を南蛮貿易港として開くことをはかります。彼らは、貿易による大きな利益に加え、キリスト教による精神的な喜びと、教会の勢力とを背景に、領民を守り、戦乱の世を生き抜こうと考えたようです。



 

 1570年、長崎開港が決定すると、純忠の意向で、港に突き出した岬の先端に6つの町がつくられました。甚左衛門はこの町建てを直接指揮することはなかったそうですが、その間、近隣豪族の攻撃から、長崎を守り続けたといわれています。

 

  開港から十数年後の1587年、秀吉は禁教令を出し、長崎を没収。同年、純忠も亡くなります。まもなく徳川の世となり、あらためて長崎は幕府直轄の地に。大村藩主・喜前は、その代償として時津の700石を領地として与えようとしましたが、甚左衛門はそれを受けず、長崎を去りました。筑後の田中吉政(キリシタンだったと言われる)、横瀬浦などを転々とし、最晩年には時津に移り住み、70余年の生涯を閉じたと伝えられています。



 

 長崎市中心部から車で30分。西彼杵郡時津町の山あいの小島田という地域に長崎甚左衛門のお墓があります。昔から甚左衛門の墓守をしているという家の方によると、毎年、命日の1212日近くの土曜日に、近所の法妙寺(日蓮宗)のお坊さんにお経をあげてもらっているそうです。この日は、ご近所の方々がそれぞれ農作物を持ち寄り、地域の公民館で炊きまかないをし、子ども相撲(33番の取り組み)を行うなど、地域の絆を育む行事として定着しているとか。領民思いだった甚左衛門の影響力は、時空を超えて生き続けているようです。



 

◎参考にした本/長崎県大百科事典(長崎新聞社)、時津町郷土史(時津町)












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