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  • 第44回 長崎料理ここに始まる。(十五-二)

    (前段落)二、長崎南蛮料理 長崎の開港は、1568年9月エイズス会のトーレス神父が口之津(島原)より福田(長崎)・大村へと向かう途中、長崎に立ち寄り、Gヴィレラ神父に長崎での布教を命じたことにより、1570年9月頃トラパス船長の船が長崎の港を測量、翌年の春ポルトガル船が貿易のため入港、これより蛮船の長崎貿易は開始されている。 当時の南蛮船の記録によると、「新しい長崎の町は岬の上にあり、其処には教会を中心に千人ばかりの人たちが居た」とある。 当時のポルトガル船の人達は街で宿泊する人は少なく、船内で多く食事をしていた。それは食生活の違いがあったからであったと言う。それはポルトガル(南蛮)の人達はパンや牛肉・バター類を主食にしていたからである。然し時代と共に新しい長崎の町の食生活は変化している。1580年 当時、長崎方面を支配していたバルトロメ大村純忠は長崎・茂木の地をイエズス会に寄進している。之によって長崎地方の諸文化は急速にキリ シタン文化・欧州の食文化に変化している。1614年、長崎の街に居住していたメスキータ神父は通信文の中に次のように記している。▲高麗茶碗長崎の町ではヨーロッパと同じ食事ができるし、ヨーロッパでは高価である牛のゼラチンもある。 この料理を我が国の人達は南蛮料理とよび珍しいものとして楽しんでいる。現在でも其の名残は残っている。パン、カステラ、ヒロス(ヒロウス)テンプラ、ビスカウト、カルメラ、コンペイトウ、ヒカド、チンダ酒(ぶどう酒)等。食器のコップ(Copo)もポルトガル語である。三、長崎オランダ料理 1641年6月25日(寛永18)幕府の命により平戸オランダ商館は長崎出島の地に移転が命ぜられオランダ船は長崎に入港してきた。然し出島に居住するオランダ人には数々の制限があった。例えば許可無く出島の外に遊歩する事。日本産の牛(肉)は食せぬこと。出島内でパンを作る事(パンは奉行所指定のパンを食する事)。出島内居住のオランダ商館員はカピタン外十数名とする事等。 然し1720年(享保5)吉宗の洋書解禁令以後、我が国の近代化が進み出島オランダ屋敷内の食文化にも注目されるようになり、毎年12月末(旧暦)「オランダ正月」という日があり、之の日には出島カピタンより長崎諸役人に招待がありオランダ料理の宴席があった。この事が江戸でも評判となり、有名な蘭学者大槻玄澤も「天明五年長崎日記」(1785)の中に其の時のオランダ料理を紹介した事や「長崎名勝図絵」にも大きく記述された事等で広く世に知られるようになった。其の一文に和蘭(オランダ)・食事をなすや箸を用いず三叉鑚(ホコ)・快刀(ハアカ)・銀匕(サジ)の三器を以す。ハアカを操(と)りて肉を截割(きりさき)、これを匕(サジ)に掬ひ(すくい)とりて喫し喰也・・・この出島洋食の風は1859年(安政6)の開国令により、各国との自由貿易、各国領事館、居留地の設置と共に本格的な西洋料理が全国に普及していった。長崎では文久3年(1863)秋、我が国最初の西洋料理専門店「良林亭」を長崎伊良林郷次石若宮神社前に草野丈吉が開業、その看板には次のように記してあった。料理代 御一人前金三朱、御用の方は前日御沙汰願上けます但し六人以上の御方様はお断わり申上候当時の料理は、ターフルにのせバンコ(椅子)に座り、パン、フルカデル、ソップ、カルマチ、タルタ、ボートル、ブラド、チンダ酒を食したと記してある。四、唐船料理▲染付三川内焼 長崎に唐船が初めて入港したのは秀吉が朱印船貿易開始以後のことである。 当時の長崎の街は全てがキリシタンの街であったので佛教を主にした唐船の人達は長崎の対岸・水之浦(稲佐)方面に停泊、1602年(慶長7)には福建省出身の唐船主欧氏、張氏が中心となり菩提寺集会所を兼ねて稲佐の地に悟真寺(浄土宗)を創建している。 1605年(慶長10)徳川幕府は当時大村氏が所領地としていた長崎の大半を公領地とし長崎代官に支配を命じキリシタンの禁教を厳しくしている。 これ以来、唐船の人達は全て街中に宿泊居住し、1620年(元和6)には長崎最初の唐寺(含媽祖堂)を風頭山の下・寺町に建立している。 長崎に居住する唐人を長崎奉行所では住宅唐人とよび、唐人女子の来航は禁止いていたので、其の婦人は全て長崎の人達であった。次に奉行所では在留唐人の中より学のある人を選んで唐通事に任命、其の人達には日本姓を用いることを許している。例えば陳氏は穎川(えがわ)氏。馮氏は平野氏等である。 唐船の入港は、1684年(貞享1)清国が遷海令を解禁した事によって例年30艘内外であったのが急に100艘以上となり、大混乱となったので長崎奉行所は1689年(元禄2)十善寺郷に急ぎ唐人屋敷を造り唐船の入港は70艘までとし、唐人も出島のオランダ人同様、許可なく自由に街中を歩く事を禁じている。 当時の長崎の街では既に大いにシッポク料理が流行しており、その珍味はすでに京都・江戸方面にまで知られていたと「嬉遊笑纜」は記している。 次いで1771年(明和8)には江戸、京都の書林より「新撰会席しっぽく趣向帳」・1784年(天明申辰)には「卓子(しっぽく)式」1822年(文政5)には江戸八百善より「江戸卓袱(しっぽく)料理」等が出版されている。長崎の人足立正枝(1855~)の「長崎風俗シッポク料理」には次のように記してある。一、小菜五皿乃至七皿 刺身、湯引、取肴、等  一、大鉢一個 玉子蒸他見計ひ。一、中鉢一個 鰻かばやき他季節物。  一、丼 三個乃至五。 味噌吸物、煮物他 其の他。 南蛮漬、そぼろ煮、鶏水たき、ヒカド、けんちん、胡麻豆ふ、更紗汁、岡部(鮨) (以上)(完)第44回 長崎料理ここに始まる。(十五) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第43回 長崎料理ここに始まる。(十五-一)

    はじめに 私が初めて「食の文化史」らしき論考を書くようになったのは、昭和三十年二月(一九九三)国際文化都市建設法の施行により長崎市平野町に長崎国際文化会館が新設され其の三・四階に新たに長崎市立博物館が再開、私が同館の研究員として勤務する事になったときより始まっている。同館には先輩として有名な林源吉、島内八郎の両先生がおられた。 当時、私は復員後、公務の傍ら県立図書館の永島正一先生を中心に古賀十二郎、渡辺庫輔両先生を指導者に集まっておられた地方史研究会に参加させて戴いていた。 其の頃、渡辺先生が国の「調理師法施行」により「地方における料理史教育担当者」という事で料理に関する小冊子の執筆と監修のお仕事があり、其の助手として私に「手伝わせてあげよう」と言われた事が私の長崎料理史研究の発端となっている。 次いで昭和五十年の初め頃、当時の諸谷長崎市長より観光長崎宣伝の上には「食の文化―其の地の名物料理」が必要であるから横浜に負けないで「西洋料理発祥の地・長崎」という事を大いに宣伝して下さいとの依頼があった。 この事は長崎司厨士会(柴田周義会長)にも伝えられ「西洋料理発祥の碑」の建立と其れを証明する「記念誌」を発刊する事になった。この発刊誌の原稿を依頼されたのが私であった。 其の本の発刊は昭和五十七年四月、本の題名は「長崎の西洋料理―洋食のあけぼの」と名付け、東京の第一法規社より出版していただいた。そしてこの本は大変好評であった。▲中国白磁染付小壷(越中文庫) 次いで、長崎の日本料理関係の方々が「長崎名物・シッポク料理」の本も出版してほしいとの依頼があり、「長崎卓袱料理」をナガサキ・イン・カラー社より出版した。 丁度其の頃、みろくや前社長山下泰一郎氏が長崎異国趣味の食品としてラーメン料理各種を製作、大いに評判となっておられた。 私と山下前社長とは同期の桜で、或る時私に「社報の『味彩』に何か書きなさいよ」と言われた。其のときは酒の宴席でもあり、私は簡単に引き受けてしまったのが「長崎料理ここに始まる」である。 其の第一号は平成四年十一月の発刊で題名は「西洋料理編(一)」とある。 一、長崎食文化概論 食文化の原点は其の土地の地形(位置)・地質・気温の影響により形成されると言われている。更に其の地形における各国異文化との交流によっても変化してゆく事も忘れてはならない。 我が国の食文化、特に長崎県においては其の地理的位置によって異国との交流が多く全ての文化が形成されている事に気付かされるであろう。 次に長崎県下の食文化の変遷については、年間の降水量・気温の変化・潮流の変化等の事についても考えておかねばならぬそうである。 私に是れら戦後に於ける新しい食文化研究を指導して下さったのは大阪の地に新設された国立民族博物館石毛直道館長、熊倉功夫教授であり、又長崎純心大学(当時短大)が「長崎地方史研究室」を新設して下さった事により研究を継続することができた。 長崎県下に於ける新しい食文化の始は「縄文時代末・対馬に朝鮮半島より伝えられた稲作文化に始まる」と先輩方よりお聞きした事がある。 次いで奈良時代の食文化については『肥前風土記』に次の記述がある。「島々には多くの白水郎(あま)あり、鮑(あわび)・螺(さざえ)・海藻(め)・海松(みる)あり」。また高来の郡(こおり)・土歯(ひじわ)の池(※現在の雲仙市千々石町)には「荷(はす)・菱(ひし)・多く生いたり」次いで『続日本紀』光仁天皇・宝亀七年(七七六)の記録には遣唐使船が順風を待って五島合蚕・田の浦に「留る事数回」とある。「五島編年史」の著者中島功先生によると「五島の遣唐使船は南路と言い、文武天皇(六九七年)以後の通路であったようである」と記してあり、桓武天皇延歴二三年(八〇三)には弘法大師空海も渡唐の時、五島の田の浦・久賀島に寄泊したと記してある。▲中国色絵付双魚瓶(越中文庫) このように古代より五島・平戸方面が遣唐使船の宿泊地であってみれば其処には多大の珍しい異国の食文化が移入されていた事であろう。 更に之の長崎県下の海の通路は時代とともに大いに発展し、やがて野母崎・脇岬方面にも寄港地が開かれいる。 鎌倉時代になると更に多くの知識人が之の交路を利用し宋朝の文化を移入し、我が国の食文化の上にも多いに変化を齎(もたら)している。そこには亦、禅僧を中心にした新しい大陸文化の移入があった。 そして、其の頃の交易文化の中心地は博多であったので文永十一年(一二七四)、弘化四年(一二八一)元軍は博多の街を攻撃している。然し暦応四年(一三三八)足利尊氏が征夷大将軍に任命されて以来は対外政策に変化があり、暦応三年(一三四一)足利幕府は天龍寺創立のため元に貿易船を派遣している。次いで一三六〇年代になると倭寇が高麗侵略の記事があり其の倭寇の根拠地は平戸・伊萬里方面(松浦黨)であったと記してある。 この倭寇の航路は次の時代の唐船(明末・清初の貿易船)南蛮船の来航ルートに繋がっている。 一五五〇年(天文十九)春、長崎県下に初めて来航してきた南蛮船(ポルトガル船)は平戸の港に入港している。当時の平戸には朝鮮や中国の船も入港し貿易が行われ、街は賑わっていた。其の翌年一五五一年にはザビエルも来航し我が国初期のキリシタン布教が開始されている。この南蛮船の来航は我が国食文化の上に大きな変化をもたらしている。 一五六〇年のフェルナンデス神父の書簡には次のように記してある。平戸の町にはポルトガルと同じ食物があるが其の量は少い。僧侶のみは牛肉を食べない。(以下次号)第43回 長崎料理ここに始まる。(十五) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第42回 長崎料理ここに始まる。(十四)

    前回にも記しましたが、私は昭和五十五年一月十一日より同年末の十二月十九日まで四十二回にわたり、西日本新聞に「長崎味覚歳時記」という長崎県下の食の文化史を書かせて戴いた。以来、私は長崎県下の食文化の楽しさとその歴史を勉強させて戴いた事を今しみじみと思い出し、これ迄に各方面よりお寄せ戴いたご支援に感謝申し上げている。本冊子には前回迄に平戸、大村、五島方面の事を記したので今回は島原方面の食の文化を訪ねる事にした。一、原山支石墓群の籾痕土器と稲作文化▲蘭染付小花瓶(伊万里焼) 我が国に最初に稲作が始まった事について戦前は弥生時代とされていたが、戦後の考古学の研究によりその稲作発祥の時期に新説が取り上げられている。この新説についての第一歩を踏み出されたのが島原市在住の古田正隆先生の発見から始まると言っても過言ではない。 私が古田先生の許を訪ねたのは戦後の昭和二十四・五年頃であった。古田先生はたしか朝鮮より引き上げられ島原港地区で奥様が旅館を経営され、ご本人は考古学の研究に専念されておられたとお聞きした。 戦後当時の長崎には長崎大学内に文学部がない事もあり考古学専攻の先生方がおられなくて、私は長大医学部法医学教室で考古学的人骨も研究しておられた内藤先生をお訪ねし色々とご教示を戴いた思い出がある。其の時、内藤先生から「島原の古田氏を訪ねてみなさい」と言われた。 当時、島原と言えば宮崎康平先生が有名であられた。先生は時々長崎上筑後町の勧善寺に滞在されておられたので、私は宮崎先生の許に出かけ「ヤマダイ国」のお話をお聞きし、其の時、古田先生をご紹介していただいた思い出がある。 古田先生の功績は今考えると日本の考古学上によせられた大いなるものがある。其れは我が国における稲作は弥生時代からであるとされていた事に対して古田先生が北有馬町原山(現南島原市)の梶木遺跡の発掘によって縄文時代晩期(二四〇〇年前)の「山ノ寺式土器」を現在認定されている土器に籾の庄痕を発見された事によって、稲の渡米には水稲とは別に大陸より陸稲が既に渡米していた事を論考されている。そしてその遺跡には支石墳も発見され現在は国指定史跡に認定されている。 私は原山の史跡地を訪ねた事がある。其地は島原市より雲仙に登る国道の最上段にありすぐ近くに雲仙があった。こんな山の上に古代人は住み、我が国で最古の稲作をしていたのである。いったいこの稲作の籾は何処より運ばれたのであろうか、支石墓文化と関係があるのであろうか等と考えてみた。県下の支石墓文化遺跡としては北松の鹿町(現佐世保市)にも国指定史跡大野台支石墓群があるし、北松田平町の里田原史跡(県文化財史跡)にも支石墓や水田の跡もあり、この地と共に県下稲作文化の遺跡が発見されている。 我が国の食文化の伝来発祥については、稲作の文化は第一に考えねばならぬ事である。其の第一歩の発見が島原の古田先生にあった事は島原の稲作を中心にした食文化研究には意義深いものがあると私は考えている。二、須川ソーメン昭和五十九年、発刊の長崎県大百科辞典(長崎新聞社編集)には「本県を代表する食品工業として、島原半島の手延素麺が挙げられ、全国生産の五分の一を占め、兵庫県に次ぐ大産地である事は意外と知られていない。島原半島では西有家町の須川地区を中心に産地形成が進み須川ソーメンとして知られている」と記してある。 一体に我が国に於けるソーメンの歴史は古い。勿論初期のソーメンは「手のべソーメン」であり現在のように多産の製麺機、ヨリ機、掛機が発明導入されたのは明治末年から大正期にかけてからである。(一九八八年長崎県高技研究会編輯・長崎県の自然と生活)▲陶製桃置物(中国無錫) 須川地区を中心に須川ソーメン業が大いに発展した理由として同書には三つの事をあげている。 第一は奈良の三輪のソーメン業者より昭和三十年頃より下請け加工産地として出荷量が急増した事。第二は他県での製品は二回工程であるのに須川での工程は一回。次いで島原方面は気温が高く強力粉の比重が高い。第三には他産地より労働力が安かったからである。 須川ソーメンは昭和五十五年頃より韓国ソーメンの輸入や冷夏や製造者名の事などにより現在は生産をやや「手控え」ているとの事である。然し県下では「須川ソーメン」の名は有名である。 ソーメンの歴史を記してあるものとしては、江戸時代の医学者寺島良安が三十有余年かけて大成した「和漢三才図絵」百五巻に詳しい。 ソーメンの事は其の巻第百五に次のように記してある。  索餅(そうめん・ソンビン)和名は牟岐奈。「語林」に魏の文帝が何晏に熱湯餅を与えたとあるは、索餅のことであり、ソーメンの始めは漢と魏の間に始められたと考える。・・・・・・索餅とは俗にいう素麺の事である。・・・・・・我が国にては七月七日(たなばた)に之を贈る。備前の三原、奥州の三春の産は細く白くして良いもの也。予州・阿州のも劣らない。和州の三輪のものは昔から有名であるが佳くない。大阪で最も多く造って四方で発送する。 ソーメンは明治時代以前は全てが「手のべソーメン」であり全国各地でつくられていた。長崎のソーメン資料としては一六〇二年長崎のイエズス会で編纂された「日本ポルトガル辞書」(原本ポルトガル語)に次のように記してある。Somen.ZoRo.(ソーメンの婦人語)Somenya(ソーメンを売る店、又は造る家)Vdon 小麦粉をこねて非常に細く薄く作ったものでソーメンのようなものでQuirimugi(切麦)のような食物の一種 これによると長崎・島原地方でもキリシタン時代すでにソーメンが作られていた事がわかる。参考資料としては長大教授西川源一先生著「須川船の研究」を一読しておかれるとよい。(以下次号)第42回 長崎料理ここに始まる。(十四) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第41回 長崎料理ここに始まる。(十三)

    私が本稿を「みろく屋」前社長山下泰一郎氏の御依頼を受け第一輯を掲載したのは平成四年十一月であり、それより今年は二十年となった。 私は昭和二十四年頃より自分の興味もあり、長崎県下の各種文化の調査のため歩き回り、その中には「食の文化」関係も多くあった。その資料の中より本輯の三十七号に対馬、三十八号に小値賀、三十九号に西彼杵、四十号に福江方面の事を記したので今回は諫早方面のことを記す事にした。一、はじめに▲岩田義實氏作品(佐賀の陶芸家) 我が国の歴史研究基礎資料として第一に取り上げねばならぬのは「風土記」であるとされている。風土記の編輯は和銅六年(七一三)に始まるという。現存する風土記は出雲・播磨・常陸・豊後の五風土記のみであるが、完本は出雲風土記のみで、他は多く文章が失われている。肥前風土記もその大半が失われている。 肥前風土記は肥前地方すなわち現在の長崎・佐賀両県の地方史である。天平五年(七三三)頃の編纂とされ、其の内高来郡内には郷九所。里二十一。駅四所。烽五所。と記してある。 現存する「肥前風土記」内には「土歯池」と「峯湯泉」の二つの記事のみが残っている。峯湯泉の説明文の中に湯は「出南高来峯西南の峰」とあるので当時より「高来の郡」は南高来・北高来と分かれ、その南北高来の交点が愛(相)野であったという。 高来を古くは「タク」と読み、次いで「多加久」と呼んだとある。意味は高い山がある処という。そして、南北に高い山がある処となれば南に雲仙、北に多良岳という事になる。現在のように長崎県南高来郡・北高来郡となったのは明治十一年からである。二、諫早の事 承平年間(九三一~)編纂された和名抄に高来郡新居(ニイ)郷とあり、之の新居郷が現在の諫早駅付近であるとされ、更にニイの語は転じて西郷になったと説明されている。(諫早市史)次に諫早小野地区には古代の条里遺構や古墳も多く残っている。その故に諫早の農耕の歴史は古く豊な農地が多かった。 延長五年(九二七)編の「延喜式」には「船越駅」の名があり、鎌倉時代の建久八年(二九七)には「伊佐早村 田畠五十丁ばかり」と記してある。(宇佐八幡宮御神領大鐃)この事より当時諫早地方には大分県の宇佐八幡の所領地があった事がうかがえる。三、食の文化▲伊万里焼小盃(越中文庫) 前述のように諫早地区は古代より開拓された豊な土地であったので多くの戦乱もあった。天正十八年(一五九〇)龍造寺政家は豊臣秀吉より諫早地区に二万二千五百石を受領している。更に江戸時代の記録をみると、本明川を中心とした大洪水の記録が九回もあり大きな災害にあっている。 然し諫早の人達はこの全ての災害にもめげず復興している。豊な農地と藩政の協力があったからである。 諫早藩では毎年正月七日前後、藩内各村日割りを決め定められた場所で農家の人達を招いて「フンミャア」があった。フンミャアと言うのは「振舞」という言葉の方言であり、この時に用意された料理は次のようであった。 大魚 一切。鯨(鱠)一切。大根 二切。盛切飯 三枚とも竹へぎ也。酒 京焼茶碗。尤 飯は精米一升に餅米三合さし(諫江百話) 次に諫早の食文化と言えば、諫早おこしに、鰻の蒲焼である。共に贅沢なお持てなしである。 現在のような諫早の鰻料理には何時頃より始まったのであろうか。「嬉遊笑覧」をみると「元禄頃にはかばやきなかにしや」と記し、安永頃(一七七二)より江戸前うなぎが売り出されたと記してあるので其の後、柳川・諫早方面にも伝わってきたと考えている。但し正徳二十二年(一七一二)発刊の和漢三才図会には次のように記してある。 馥焼(かばやき)中ぐらいの鰻をさいて腸を取り去り、四切れか五切れにし、串に貫いて正油あるいは味噌をつけて、あぶり食べる。味は甘香(かんばし)くて美(よろ)し、あるいはナデ醋(す)にひたして食べることもあり。多く食べると、頬悶して死ぬることあり。之は酸を得て鰻肉が腹中で膨張する故なり。 オコシは平安時代に我が国に伝えられた興米仁に由来すると嬉遊笑覧は記している。諫早のオコシは鎖国時代・唐船により伝えられた中国の麹と黒砂糖を巧みに利用し生産された銘菓であるとお聞きしている。四、おわりに 私は昭和三十年頃、諫早小野地区の歴史に興味を持ち同地区代表の小川充弘氏に大変お世話になった。 小川さんが諫早ではドウキンが一番うまいので食べに来なさいと言われる。ドウキンは諫早の魚屋には売っていないので潟スキーに乗って獲りに行くので私にも一緒に来ないかと言う。私は潟スキーには乗れないので、小川さんの家で待っていた。ドウキン料理は頭を落とし肝は別の皿に入れ、魚の身は塩でもんで良く洗い、鍋に先ず魚の肝を入れて炒りやきにする。そしてその油が出たところで魚の身を入れ、ミソで味をつけ、煮汁で干大根を煮付ける。美味である。 数日後、再び小野の高橋義久先生より電話あり、潟スキーで獲れたアゲマキを食べにこないかと言われる。「アゲマキの天ぷらは諫早で一番うまいぞ」と言われる。然し私が一番舌鼓を打ったのは高橋先生の奥様が「最後におのみになって下さいね」と言われて出された貝の煮汁でした。私は今でも其の味は頭に残っている。(以下次号)第41回 長崎料理ここに始まる。(十三) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第40回 長崎料理ここに始まる。(十二)

    一、はじめに▲平安清峰煎茶碗(越中文庫) 今回も前回に引き続き長崎県下の食文化を記録させて戴くことにした。 五島の歴史は古く古事記、風土記にも既にその地名が記されている。そこには、五島の古名で値嘉島(ちかしま)とある。値嘉島の由来については同書に「景行天皇(六世紀の頃)志式島(現在の平戸市志々伎町宮浦)の行宮(あんぐう)に在り、海中に八十余島を見られ、之の島・遠しと雖も(いえども)猶近く見ゆ、値嘉と言うべし。そこには八十余の値嘉島あり、小値嘉には領主大耳、大値嘉には垂耳あり。島には船停二ツあり。一ツは相子田浦(現在の青方)、一ツは川原浦(岐宿町川原)。又、遣唐使の船は美禰良久(三井楽)に至る。値嘉島の浦には鮑(あわび)螺(さざえ)、鯛、鯖、雑魚、海くさ等あり。この島に住する者は白水郎。容貌は隼人に似て恒に騎射を好む。その言語・俗人に異なる」と記してある。この文より古代五島方面に居住していた人達は、初期の日本民族としては早くより大陸の異民族の人達に接していたのではなかろうか。 五島と大陸の文化交流の手じかにある資料としては長崎県教育委員会編の「考古学遺跡一覧」によると、次のように五島における縄文遺跡は大陸に面した県下離島の中では一番多い。然し弥生・古墳時代遺跡になると其の数は減少している。 次に大崎熊雄先生著の「長崎県の和牛」によると「福江市の大浜貝塚より箱式石棺風のものに人間の遺体と共に牛の遺骸が葬られており、死者の祭りに牛が一緒にいたという事は日本最古のものであろうと九州大学の鏡山教授、同志社大学酒詰教授が折紙をつけられた」と記しておられる。 牛馬が大陸より我が国に渡ってきたのは縄文時代からという。その遺跡が福江島にある事は之も大陸文化と五島との農耕・食文化の交流を物語る資料とかんがえてよいものである。二、五島の食文化 風土記には五島(値嘉島)の産物として次の名をあげている。 檳椰・木欄・梔子・木蓮子・黒葛・篁篠・荷あり。海には鮑・螺・鯛・鯖・雑魚・海藻・海松・雑魚菜あり。牛馬に富む。 五島の地形は米麦の耕作には適しなかったので、農耕を中心とした前記の弥生・古墳時代遺跡数にみるように五島における同時代の遺跡数が減少しているのであろう。 然し五島の港は古代の韓国に渡る交通の要路であったことは万葉集十六巻に美禰良久(みみらく)より舟を出し対馬に渡ろうとて海中に歿した筑前志賀村の白水郎荒雄追悼の歌に次のようにある。 みみらくの我が日の本の島ならば けふもみかげにあはましものを 次に遣唐使の南路として大津浦(博多)より五島経由の航路が定まったのは宝亀七年(七七六)頃からであったと記してあるので之の頃より五島の食文化にも異国食文化の影響が次第にみられるようになったと考えている。三、大宝寺のシソの葉千枚づけ▲伊万里焼小壷(越中文庫) 私が五島の文化財を訪ねて各方面の先生方にお世話になったのは昭和二十五年の後半からであった。当時、五島玉之浦の大宝寺室町時代の年号応安八年(一三七五)の年号を刻んだ県文化財の梵鐘や其の他古文書もあるとお聞きしたからである。大宝寺は弘法大師が大同元年(八〇六)唐より帰国の時、我が国に上陸され立ち寄られた寺であるとされている。 この時、大師は唐の国より持ち帰られた当時の我が国にはなかった薬草シソの実を寺に植え、一日祈願の護摩を焚き、其の薬草シソの葉の「千枚づけ」の製法を寺人に教え、其の製法が今に伝えられているとの事。 当時、若い私が其の製法をお尋ねしたところ、八十三才の老僧四十三世川端覚禅老師は心よく次のように教えて下さった。 「シソの葉ができる夏の土用のうちに、寺内関係者の人達がご奉仕で其の葉を摘まれ、きれいな寺の水で洗い、一枚ずつ丹念に型を整え塩であさく漬ける。それを二十枚ばかりずつ一括りにし、外を昆布で巻き、其の上を糸で巻き、壊れないように結んで味噌がめに漬け込む。そして翌年の三、四月頃には浸けあがるので、寺では先ずご仏前に供え、お経をあげ、弘法大師様に感謝し、それから皆様にお分けするのです。」と言われた。 大宝寺の前は大海原であった。この大海を大使は荒波を押し渡り、順風を神仏に祈って千年前にこの浜辺に帰ってこられたのであると言われる。其の御形見が「大宝寺のシソの葉千枚づけ」であり、今私たちに此のシソの葉は何か教えられているようである。四、イモと鰯 長崎の人達は五島の名物と言えば「イモと鰯」という。イモには山イモ、里イモ、からイモ等の呼び名がある。からイモの名は唐人船によって唐より持ち渡られてきたイモの意である。それでは其のイモは何時頃から我が国の何処に最初持ち渡られてきたのであろうか。長崎県指定史跡地の一つに「コックスの甘藷畑跡」というのが平戸市にあり、次のように説明してある。 内地で最初に甘藷が植えられた畑であると言われている。・・・指定地は平戸千里が浜に接する鳶の巣と呼ばれている所にある。(平戸市川内町) そして其の甘藷を持ってきた記録は平戸イギリス商館長「Cocks Richardの日記・1615.6.2」の日記録にありと説明されている。(以下次号)第40回 長崎料理ここに始まる。(十二) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第39回 長崎料理ここに始まる。(十一)

    一、はじめに▲有田焼小鉢(越中文庫) 前回に引き続き長崎県下の特色ある食文化を取りあげ書かせて戴くことにした。 県内各地の食文化は、先輩方の論考のようにそれぞれの食文化の変遷と地方史の変遷は大いに関係がある。大村地方を支配してきた大村市の歴史とともに考えねばならない。 大村氏初代の大村直澄が伊予国大洲より大村寺島に上陸したのは正暦五年(九九四)と言われているが、この説については、大村史談会の九田松和則先生の著書「大村史」には次のように記してある。 この起源説は永く継承されながらも疑問ある説と言われてきた。 九田松先生は次に東妙寺文書、川上神社文書を引かれて大村七郎太郎の名が一二三七年(嘉禎三)頃より記されていると言われている。 次に長崎が開港された元亀二年(一五七二)頃の長崎地方の領主は長崎甚左衛門で大村純忠(一五三三~一五八七)の支配下にあり、甚左衛門の室は純忠の娘トラであった。 また、大村純忠(十八代)は大村純前(十七代)の実子ではなく、島原有馬氏より養子として大村氏を継承している。 この事は長崎開港の最初の街づくりにも大きな影響があった。純忠が最初、長崎の街を造ったとき純忠は、実家の有馬氏に援助を仰いでいる。 その事は長崎初期六町の中に島原町、大村町があり、島原町の代表が長崎の町の代表であった。 其の故に長崎の街には、大村地方の食文化、島原地方の食文化、そして更に当時の長崎には南蛮船の入港・キリシタンの布教もあったので、南蛮食文化の影響もあったと考えている。二、大村すしを考える すしの語源は酢(酸)である。奈良時代すでに、酢、酢滓、糟交酢、市酢などの文字があり、「酢の文字は中国の文字である。昔は倉(ソウ)、また作醋」。和名は須(す)(和名抄)、また「カラサケ」とも言い、「米二石八斗五升より酢二斛五斗六升五合を造る」と記してある。(関根眞隆先生著・奈良朝食生活の研究)和漢三才図会には酢の和名は須之(すし)とある。 其の故に「すし」の語は和名であり、和名抄一六には「酢につけた魚肉・魚肉を飯と共に圧し酸味をつけたもの」と記し「すし」は魚の保存のため考えられたもので、「飯」が加えられたのは保存用の麹を早く繁殖させるものである。この酢(すし)の型を今に残している物に「大津の鮒鮨(ふなずし)」がある。 「大村すし」の由来について山中鶴氏は「長崎県大百科事典(長崎新聞社刊)」に次のように記しておられる。文明十二年(一四八〇)十六代大村純伊(すみこれ)が念願の領地を奪回し、再び大村の地に帰ってきたので領民は喜びの食事の用意をしたが急な事であり取り合えず「もろぶた」にご飯を広げその上に魚の切り身・野菜の味つけの物を出した。将兵は脇差しで角切りにした手づかみで食べたので別名「魚ずし」とも言われた。 大村純伊が文明六年(一四七四)十二月有馬軍と合戦した中岡合戦の事については、前記九田松先生「大村史・中岡合戦」を読まれとよい。この合戦に敗れた純伊は加唐島(佐賀県)に走り、再び大村の地に復帰したのは永正四年(一五〇七)と記してある。三、十六世紀頃のすし▲出島に輸入されたオランダ焼(越中文庫) 大村純伊に領民が用意した頃の「大村すし」の文献は一六〇三年長崎にあったイエズス会本部で、神父達の布教用の教材として編纂されたポルトガル語の辞書Vocabvlario da Lingoa de Japan(日葡辞書・土井忠生他訳・岩波書店刊)に「スシ」の言葉が収録されている。 Suxi 長もちするように、そして其のまま生で食べるように飯や塩を加えて調理した魚。 Suxio 他の物につけてたべる汁(ソース)又はそれに類したもの Suxi uo Zara ある種の酢づけの汁(Escabeche-Nuta)を入れる小皿 Nuta Nutanamasu(ヌタマナス)、Nutaaye(ヌタアエ)、Namasu(ナマス)等の言葉も収録されている。 領民が純忠のために用意した「すし」は酢漬の魚であったので、脇差しで切って食べたのでありましょう。 其の故に現在でも家庭で「すし」を用意する時には「すしをつける」と言っている。四、 現在の大村すし 私が昭和三十年頃、長崎県下の文化財の調査に参加させて戴き西海町面高(おもだか・現西海市)の日蓮宗の遠照院をお訪ねしたとき馳走になったのが大村(西海)ずしであった。それは私達のために、遠照院婦人会の皆様が「西海ずし(大村すし)」作りの名人・横瀬浦の橋本幹吉さん、河内の高橋幸仲さんの指導をうけながら、前夜から用意して下さっていたそうである。 そのすし作りの第一の秘伝は、先ずご飯を炊く水と火の加減、其のご飯のさまし具合を良くみて、酢と砂糖を加え、之に少し味をつけたコボウ、季節によってはフキなどの具を刻み込んで、混ぜ合わせ大きなすし箱に先ず一段を詰め、其の上に酢でころした魚の身を入れ、二段・三段と魚と飯を重ね、すし箱の蓋の上に人が乗ってギシギシと重みを加えるのだそうである。 スシ用の魚はアカムツ、アジ、黒イオ、チヌ等がおいしいそうである。 このスシを切るのが仲々難しく、家には家伝のすし切り包丁があり、女子供には任せず家の主人が腕を披露して切るのだそうである。「各家庭にはそれぞれ自慢の味があり、工夫されていますよ」と同町の帰命寺の古川御住職が私に話して下さった事がある。第39回 長崎料理ここに始まる。(十一) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第38回 長崎料理ここに始まる。(十)

    一、はじめに▲ポルトガルの民芸(越中文庫) 前回より私は、本誌に主として特色ある長崎の食文化を取りあげ書かせて戴くことにした。 先ず第一に長崎県の特色は地理的な理由と海流との関係もあって、古代より韓国・中国・南方諸国との交流に深くかかわりがあったので、県下の食文化発展の上には其の交流市場に深く影響されるところが多く、更に其の異国の食文化が全国的に次第に普及し、現在の我が国食文化の起点となっているものが多いと言われている。 前回取りあげた対馬の食文化にしても、我が国の古代米のルーツとして知られている赤米について、今尚、対馬厳原町豆酸には国選択無形民族文化財に指定されている「亀トの習俗」と共に稲の原種とされている「赤米」の神事が伝承されている。これによって現在我が国の主食となっている米は対馬方面より伝えられたものであろうという論考も多い。二、五島方面と食文化 五島の食文化も、深く大陸文化との交流によって発展している。長崎古代史によると古事記・風土記ともに五島の事を値嘉(ちか)島と記し、其の島は大別して大近と小近があると記してある。 其の地名の由来については「景行天皇(一四七〇~)・平戸志々伎宮ノ浦の行宮に在りし時」近くに見えた島々に大近・小近と名付けられたと記してある。小近は現在の小値賀(おじか)島であり、大近は福江島方面であるとされている。次いで天武天皇六年(六八四)には韓国より五島に漂着者の記録があり、光仁天皇宝亀七年(七七六)以来は遣唐使船が度々五島の港に来航した事が記してある。十四世紀の和寇時代以後には唐船も度々入港しており、一五六〇年代になるとポルトガル船も来航し、一六〇四年には五島領主玄雅も朱印船を柬埔寨(カンボジア)方面に出している。 次いで一六一三年には平戸イギリス商館長はイギリス船を五島公の城下町福江に入港させ、我が国初の唐藷(さつま藷)の種芋を五島と平戸に伝えたとされている。 唐藷については享保四年(一七一九)長崎の人・西川如見が甘藷のことについて彼の著書の中に次のように記している。 長崎には薩摩より伝えて今は九州に流布す 唐人は酒にも造り、又は粉を取て餅にしたるは上品の物なり(長崎夜話草)長崎では唐藷の事を「ジュキイモ」と親達は言っていた。この呼び名は多分「琉球方面より持ち渡って来た芋」という意味であったと考えている。 又、諫早方面では唐藷の事を「ハッチャン」とよんでいるし、五島方面では「コッパ藷(いも)」ともよび、島原方面に行くと唐藷の煎(デンプン)で作った麺を「ロクベエ」とよんでいる。 この語源について、長崎県は稲作のできる耕地が少なく、段々畑の多い処であり、甘藷は稲作に代わる重要な食料で、保存食として種々工夫したものがつくられていたことを物語っている。 「ハッチャン」と言うのは生(なま)芋を削り(はつる・けずるの語)天日に干して保存するとの意であり、「コッパ」とはこの天日に干した型が「木を削った時にできる木屑(木っ端・こっぱ)」に似ている意であり、「ロクベエ」というのは「コッパ」を轆轤(ろくろ)で粉にひき麺につくったものだと先輩方より教えられた事がある。三、スペイン風イカ料理▲SEVILLAの色皿(越中文庫) 私が二十六聖人記念館長のパチェコ神父(日本名・結城了悟)にお供してスペインのセビリアに行った時、神父様が「この地方には名物のおいしい料理Calamares en Sutintaがあるから御馳走してあげよう」と食堂に連れて行って下さった。料理の意味は「鳥賊の墨料理」という意味にあると教えられた。料理はチーズの中に鳥賊の墨を入れ肉と野菜を煮込んだ料理でスペインのワイン料理には良く合う料理で、実においしかった。如何にも此の地に来なければ味わえぬ風味ある料理であったが、食べ終えた後は口の中が真黒になっていた。 神父さんから「美味しいからと言って、あまり食べ過ぎてはいけない」と言われたのに、私はあまりの美味しさに隣の人の分まで食べ、食べ過ぎ飲み過ぎで翌日は神父様に大変迷惑をかけた思い出がある。 其の後、小値賀島に行った時、私は其のイカの墨料理に出合ったのである。其れは小値賀の小さな「お寿司屋さん」で、そこの前菜に出された和え物にイカの墨がかかっていた。「このあたりではイカの墨を食べるのですが」と言うと、お寿司屋さんが私に「あなた食べないのですか」と言われた。 一体に、小値賀島は同じ五島といっても平戸松浦藩に所属しこの島の歴史書によれば平戸松浦家は最初、志佐方面より之の小値賀島に上陸、元徳年間(一三二九)平戸に渡ったと記してある。 その故に小値賀には、沖の神島の遺跡や長崎県指定の文化財も多く、最近では明版一切経や元亀元年(一五七〇)銘の名号石等が発見されている。 其の後、私は知人のお世話で土地の古老島田トメさんの家を訪ねて次のような「イカの墨入り和え物」の話をお聞きしてきた。 その調理法は、この島で取れたばかりのイカからスミ袋をこわさにように上手に取り出し、湯をわかしユデておくのです。この墨を「ミソあえ」に入れるのです。ミソは勿論自家製です。味噌をすり鉢に取り砂糖・酒を加えて味をつけ 其れに先ほどユデておいた「イカの墨」を入れて良く摺っておきます。その味噌の中に別鍋でイカの身、白菜、大根、ホウレン草等を茹でて頃あいをみてあげて刻み、よく水をきっておき、それを先ほどの「墨入りミソ」と混ぜ合わせると出来上がりです。 一体この墨料理は誰が教えたのでしょうか。せっかくの料理を墨で真黒にしてしまう訳ですが、イカの墨には捨てがたい味と香りがあるのです。然し、舌つづみを打った後は口の中は真っ黒になっています。第38回 長崎料理ここに始まる。(十) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第37回 長崎料理ここに始まる。(九)

    一、はじめに▲安南染付け皿(越中文庫) 私がみろくや前社長の山下泰一郎氏に始めてお逢いしたのは平成三年頃であった。其の時、社長から「みろくや通信・味彩というのを社で出版しているが、『長崎の食の文化』を大いに宣伝したいので、何か標題を決め寄稿して下さい。」とのご依頼があった。 私は早速、寄稿させて戴き、平成四年十一月発刊の「味彩七号」に「長崎開港物語・長崎料理ここに始まる」の標題で西洋料理編(一)を掲載していただいた。以来、今回で三十七編となる。 私はここで少し方向を変えて、今回より私が昭和二十四年より長崎県下を各種文化財調査のため歩き回った中より「食の文化」に付いて、之も西日本新聞社長崎支局長のご要望も会って、昭和五十五年四月十一日より同年十一月十九日まで四十二回にわたって「長崎味覚歳時記」を掲載させて戴いた。中より思い出の深い地方色豊かな食文化を取り上げてみたいと考えている。 長崎味覚歳時記の第一号は「雑煮あれこれ」を取り上げ、長崎雑煮に始まり、対馬、島原、五島等と各地の雑煮話を記し、次は壱岐の雲丹めし、五島のキビのズーシ、小値賀のイカの黒みあえ、と続いている。今回は、私の初期の食文化の旅より「対馬の雉子ソバ」の話題を提供させて戴くことにした。二、対馬の雉子ソバ 私は在学中、学徒動員令によって初年兵として大村四十六連帯に入隊したのは昭和十八年十二月一日の寒い朝であった。確か岡本少尉殿の第二小隊の兵舎だった。 当時は全てが不安で、気が落ち着かぬ少年兵であった事を今も覚えている。この時、班長殿が「心配するな」と声をかけて下さったのが中島上等兵殿だった。 上等兵殿は対馬出身で私にはよく声をかけて下さった。おかげで私は無事初年兵三ヶ月の訓練期間を終え鹿児島の積部隊に配属された。この別れの時、中島上等兵殿が、私に「キジそば」の話をして下さった。「お前もし対馬に行く事があったら、おれの所にこいよ・・・」と言われた。中島上等兵殿は対馬ヌカダケの御出身と聞いていた。 戦後、私は老人大学講師として県内各地を巡回し対馬豊玉町の会場に行った時、その最前列に中島上等兵がおられるではないか。 中島さんは私の名前を覚えていて下さって、わざわざ遠くから来て下さったそうである。私は嬉しかった。私は中島さんのお宅にお伺いした。 「キジそば、覚えているね」と言われる。「今はね、禁猟期でキジ撃ちに行かれんが、家にキジを飼っているから食べてゆきなさい」と言われる。庭に出たら、其のキジが中島さんの足音を聞くと餌が貰えると思って寄ってきて、くっくっと鳴いた。 私は何故か、この時キジを食べる気持ちがなくなってしまった。結局、私はキジをいただかなかった。中島さんは笑っておられた。 中島さんの家の前は入江になっていた。中島さんは若いときから酒を口にしない謹厳な人であった。鳥たちが寄ってくるはずである。その中島さんが私に酒を進められたのです。庭ではキジがしきりに鳴いていました。 帰る時、中島さんが私に「カゴに入れてあげるから、君が今回食べなかったキジを土産に持っていかないか」と言われる。私は、其のキジを辞退した。何か中島さんとキジの別れが私には寂しかったのです。対馬のキジは対馬に残しておきたかったのです。三、私が食べた対馬ソバとセン団子▲江戸宴会図(料理通)(越中文庫) 其の後、私は厳原で弘化年間(一八四四~)以来、対馬ソバ伝統の味を残しておられるお店を訪れ、其処でまた、対馬の小松勝助先生から対馬名物の「センダンゴ」のお話をお聞きした。 セン団子とは、葛芋を薄く切って天日に乾かし、カンコロを造り、これを臼でついて粉にし、其の粉を桶に入れ水にさらし、それより良質のデンプンを取り、手で固め、日陰干したものがセン団子の原材料だそうである。 その原材料の粉(せん)(デンプン)をぬるま湯でやわらかに練り、団子に仕上げる。其の団子を、ツガニをつぶした出し汁で食べるのが一番うまいそうですが、今では、其のツガニを取ってくるのが大変だそうである。 又、セン団子は「よせ鉢」に入れると美味しいと言われる。よせ鉢と言うのは、対馬では新鮮な魚に野菜を入れて煮込んだ鍋物です、と言われた。 又、セン団子に付いては、江戸時代になるとサツマイモが普及すると、葛芋よりサツマイモよりセン(デンプン)を取る事も多くなったし、其の昔は、彼岸花の球根を水にさらし、それよりセンをとっていた事もあったそうですよと、対馬の古老の人達に教えられた。 現在でも厳原でいただく「対馬ソバ」は、長崎県下で一番おいしい「そば」ですよと、先日も、知人が私にそっと教えて下さった。第37回 長崎料理ここに始まる。(九) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第36回 長崎料理ここに始まる。(八)

    特集・坂本龍馬と長崎料理・かすてら(其の四) 一、はじめに▲江戸卓袱料理図(料理通)越中文庫先日、NHK「龍馬の旅」取材班陸田幸枝女史の一行が私の事務所に来られて龍馬当時の長崎シッポクや砂糖菓子・カステラ等の事を尋ねられた。女史は私が若い頃書いた「長崎卓袱料理」や「長崎の西洋料理」を参考に持ってこられていた。 私は先ず、龍馬が最初・長崎に来た元治元年より長崎を最後に出発された慶応年間(一八六四~六七)頃には既にシッポク料理は江戸・大阪方面にも流行していた事を説明し、其の証明として文政五年(一八二二)蜀山人太田南畝の序文のある「江戸流行料理通」の中に「魚類・精進 江戸卓袱料理」の献立が記してあるのを御見せした。当然・龍馬もシッポク料理が長崎にもある事は知っていたはずである。 次いで砂糖菓子の事については前述の拙書「長崎の西洋料理・・・南蛮菓子」76ページに記しておいたし、カステラの事も其の中に書いておいたので御参考にして下さいと申し上げた。二、龍馬当時の長崎シッポク▲亀山焼鯉染付卓袱用丼 龍馬が来崎した当時の我が国は、安政六年五月(一八五九)幕府が長崎・神奈川・函館の三港を開港し露、佛、英、蘭、米の五カ国に自由貿易を許可した以後の事であり、長崎大浦地区には万延元年(一八六〇)すでに外国人居留地が完成し、踏み絵の事も廃止され翌々文久三年(一八六二)には同居留地内にグラバー邸が建設され次いでフランス領事館も造られていた。 更に同地区には日本最初の聖公会礼拝堂が居留外国人の為としてウイリアム神父の手によって建設されている。 翌慶応元年五月(一八六五)龍馬は再び薩摩藩士小松帯刀と共に長崎に来て亀山社中の基礎を作っている。 亀山の地名は土地の人達は最初垣根山と呼んでいたが、文化元年頃(一八〇四)より長崎八幡町の人・大神甚五平等がオランダ船購入の輸出品として水瓶をつくる窯を築いた事より亀山焼と呼ぶようになっていた。 その後、亀山焼は種々の事情により慶応元年正月(一八六三)廃止となり空家となっていた。 其の空家を前述の小曽根家の斡旋もあって亀山焼細工人小屋一棟を借りて社中の者は住んでいた。この社中の一行が来崎した慶応元年一月には南山手グラバー邸下に現在国宝建造物に指定されている大浦天主堂が完成し、長崎の人達もこの天主堂を「フランス寺」とよび多くの人達が見物に出かけていた。 龍馬はしばしばグラバー氏の所に出かけていたというので、其の帰り道にグラバー邸のすぐ下にある天主堂に立ち寄り堂内を見学して帰ったのではないだろうか。 さて、其の当時・龍馬が馳走になったシッポク料理はどのようなものであったであろうか。 長崎のシッポク料理には、現在でも家庭用のシッポク料理と料理屋で用意されるシッポクの二種類がある。 「家庭用のシッポク」については明治時代の地方史研究家足立正枝翁は次のように記しておられる。 親しき知人などが集まり家庭で用意するシッポクは幾つかの小菜と丼物が用意される。 料理屋のシッポクは、小菜五皿乃至七皿、大鉢一、中鉢一、丼物三(味噌・吸い物・煮物)他に長崎らしき料理として、南蛮漬・そぼろ煮・鶏の水たき・ヒカド・岡部鮨・ケンチン・胡麻豆ふ・更紗汁あり。 現在のようにシッポク鰭椀が用意されるようになったのは、明治時代より料理屋の趣向として用意されたもので龍馬時代のシッポクにはまだ鰭椀は用意されなかったとお聞きした事がある三、龍馬時代のカステラ カステラの製法について記した初期の資料としては東北大学狩野文庫の「阿蘭陀菓子製法」は有名である。 先輩方は此の書名に『阿蘭陀菓子』とあるがカステラの語源はポルトガル語のCastellaであるので此の本の書名は『阿蘭陀菓子製法』と改むべし」と言われた事がある。 平戸にはカステラより古いカスドウスという菓子もあるし、正保元年(一六四四)の名古屋松平藩の資料によると同年上野阿波守接待用菓子として「カステラ二本」を用意したと記してある。当時既にカステラの製法は全国に広まっていたのである。 前記「阿蘭陀菓子製法」は一六四五年頃書写されたものであり同書の「カステラ製法」の項には次のように記してある。一、かすて不ら路の事たまご二十こに砂糖百六十目、麦のこ二百六拾匁、此三色こねて鍋に紙をしき、こ越ふり其の上に入れ鍋の上したに火を置いて屋き申候、口伝あり龍馬時代のカステラ製法の資料としては嘉永五年(一八五二)京都三條尚書堂堺屋より出版された「鼎左秘録」がある。同書には次のように記してある。カステラ鶏卵 六ツ 砂糖 拾匁、うどん粉 拾匁 右三品を鉢にて良くすりまぜ、鍋の内に厚紙をしき其の中にドロリと流し込み、蓋をして上に強き火 下には弱気火を置き焼く・・・ 私は先年 此の文章に従ってカステラを焼いて戴いた。味は淡泊であった。然し翌朝食べたらボロボロになっていた。現在のカステラには其の後、水飴が加えられているので美味しくボロボロになりませんよと言われた。 先年 ポルトガルに行った時、カステラという菓子はなかったが「パンドラ」という菓子があった。長崎のカステラの原型ですよと言われたがあまり美味しくはなかった。第36回 長崎料理ここに始まる。(八) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第35回 長崎料理ここに始まる。(七)

    特集・坂本龍馬と長崎料理・かすてら(其の三) 一、はじめに▲亀山焼染付芯切(越中文庫) 長崎はいま坂本龍馬で沸き返っている。 先日、本誌の編輯子より「今回は龍馬と長崎料理を特集して下さい」との連絡があった。 そう言われてみると私は戦後昭和二十九年七月三日・毎日新聞長崎地方版に同年七月より連載させて戴いた「巷説長崎風土記」の一章に「亀山の白バカマ」と龍馬と亀山社中のことを書いていた。之が始めて戦後、龍馬と長崎のことを書いた文章であったと言われる。 次いで昭和三十三年春、司馬遼太郎先生が龍馬の資料収集のため来崎され、次いで親和銀行頭取北村徳太郎先生がわざわざ亀山社中の一人・二宮又兵衛の墓を訪ねて私の処にこられた事を思いだしている。 そして此れ等のご縁で私が平成十二年新人物往来社特集「検証・坂本龍馬」には「長崎時代の坂本龍馬」を書かせて戴いた事を編輯子は知っておられたそうである。二、龍馬はじめて長崎に 龍馬の研究では、先年亡くなられた宮地作一郎先生編輯の「坂本龍馬全集」に先ず目を通さなければならないし、最近は前述の新人物往来社より十数冊の龍馬関係資料が出版されている。 此れ等の資料を参考にして、龍馬が何時、最初に長崎へ足を踏み入れたか、其の当時の事より考えてみる事にした。 元治元年二月二十二日(一八六四)軍艦奉行に任命された勝海舟は長州藩とアメリカ等四カ国連合国との問題解決の為、一行二十名と共に熊本・島原・神代経由で愛津村(現在愛野)に着き其の夜は同村庄屋宅に一泊、翌二十三日船に乗り千々岩灘(橘湾)を渡り長崎に到着している。 この一行の中に龍馬・近藤長次郎もいたのである。当時、龍馬は文久二年三月(一八六二)土佐藩を脱藩し江戸に行き勝海舟の門下生となり、翌年、海舟が神戸に開いた私塾「海軍塾」に入塾し、塾頭となり操海技術・洋学などを学んでいたので、海舟の長崎行きには塾生として同行を認められたのである。 この時の海舟と各国との交渉は不調に終わり、四月四日には海舟の一行は長崎を出発し前路を逆に長崎より舟で愛津に渡り神代・島原経由熊本に渡っている。 この結果もあって、七月十九日長州藩は京都蛤御門の変で幕府軍と争い敗れ、更に其の翌八月五日には英米仏蘭連合艦隊の長州藩下関砲台の砲撃に合い大いなる衝撃を受けている。 この間のことを龍馬はどう見ていたのであろうか。三、長崎滞在中の海舟と龍馬▲長崎菓子屋の図(鼎左秘録) 海舟と龍馬の長崎における宿舎は下筑後町の唐寺福濟寺と記してある。福濟寺は由緒ある黄檗宗の唐寺で有名な大雄宝殿・青蓮堂があり、其の二堂の間には大きな書院もあったし、近くには永聖院・興徳庵・霊鷲庵等の末庵もあったので従者の人達もゆっくりと分宿できたと考える。また海舟にとっては前回来崎の時にもうけた一子梅太郎も寺のすぐ近くの西坂の実家に元気に育っていた。 海舟は前回の長崎滞在のとき当時の素封家で松平春嶽・貿易商グラバー等とも親しく交わり、且つ文人としても有名であった小曽根乾堂(けんどう)(一八二八~八五)に多大の援助をうけ且つ親交があったと記してある。乾堂は当時、福濟寺よりあまり遠くない本博多町(現万歳町)の坂上天満宮の隣に居を構えていた。 今回も当然、海舟は乾堂と逢い親交を重ねたに違いない。そして其の座席で海舟は塾頭である龍馬を将来のある人物として紹介したはずである。それは其の翌年慶応元年四月(一八六五)龍馬を援助する薩摩藩士小松帯刀と共に再び船で長崎に来た時、長崎における援助者が乾堂であった事でも知られる。乾堂は龍馬を志ある大いなる人物として認められていたのであろう。 龍馬は再び鹿児島に引返し翌慶応二年(一八六六)六月三日、亀山社中所有のワイル・ウエフ号が五島有川町江ノ浜塩谷崎沖で転覆した事もあって新妻お竜を連れて長崎に急ぎ、お竜は小曽根邸に預け自分は亀山社中の同誌を連れて五島に渡り江ノ浜の墓地に慰霊碑を建てている。(その慰霊碑は江ノ浜の墓地内に現存している) この間、龍馬が鹿児島に行き長崎不在中に亀山社中の同志で龍馬の代役として活躍していた近藤(上杉)長次郎がユニオン号を六万ドルでグラバー商会より購入、その代金は長州藩より支出、所属は薩摩藩とし使用は薩長共用、航海運用の実務については亀山社中という協定書の事より種々と問題が起こり、更に其の文章に無断で龍馬の名を長次郎が記した事より慶応二年一月十四日本博多町小曽根邸の庭園内の茶室で自殺するという事件が起きていた。龍馬はこの知らせを聞いたが急ぎ長崎にも行けず、前述の六月長崎を訪れた時、長次郎の墓碑に「梅花書屋氏墓」を記し供養したと伝えられている。(墓碑は現在、長崎寺町皓台寺後山小曽根家墓域内にある)。四、龍馬と西洋料理龍馬はブーツを履き、ピストルを持ち、当時としては珍重された写真にまで映像を残しキー付の懐中時計を持っていたと言うほどハイカラ好みの人物であった。 その故に編輯子は「新しい知識に興味を持ち続けている龍馬は、西洋料理を食べ、南蛮菓子のカステラも必ず食べたはず」と言われる。 そう言われてみると、亀山社中があった旧長崎村伊良林郷字垣根山のすぐ近くには我が国最初の西洋料理専門店「良林亭」が亀山社中が結成された頃には大いに繁昌し、亀山社中のいた慶應年中には旧位置より稍下の次石の地に「自遊亭」と店名を改め営業しているし、その下の伊良林本直には、其処にも和洋食料理で有名な料亭「藤屋」があり、其処に龍馬が行った事は土佐藩士佐々木小四郎宛書簡に「時に藤屋に出かけた」と記してある。たぶんに龍馬も洋食を堪能したでありましょう。(以下次号)第35回 長崎料理ここに始まる。(七) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第34回 長崎料理ここに始まる。(六)

    砂糖考(其の三) 一、砂糖文化史の研究▲初期の洋食に使用された長崎ガラス各種(長崎純心大学博物館蔵) 昨年の暮、東京八坂書房より各方面の食文化研究の中より砂糖に関する論考を集めて「砂糖の文化誌」が発刊された。(二〇〇八・十二)同誌の序文に「砂糖百科」の著者として有名な伊藤汎教授が次のように記しておられる。 砂糖の歴史は時の為政者とのつながりも強く人類とともに歩き其の時々の人類の要求に応じ人類の要求を備してきた。 また同誌の十三章には杉本先生の「世界のさとうきび」の論考がありその中に砂糖が世界史に登場した時期について次のように記してある。 砂糖の資料は紀元前四世紀アレキサンダー大王のアラビヤ遠征に始まる。大王がインドに遠征の時の記録に「インドには噛むと甘い石がある」とある。結晶砂糖の製造は古代インドの北部グル国に始まるという。それは紀元前五〇〇年サンスクリット語に記してある。 同書によると砂糖は医薬品と記してある。インドでは砂糖の事を「グラ」と言うが、其れはインド古代国の一つ「グル国」に由来する。また「砂糖きび」属をサッカラムと言うが之もサンスクリット語に由来している。砂糖きび栽培の起源は一万年前ニューギニヤ島、スラウエン島近くの地方に始まったという。次いで砂糖きびは広くつくられるようになり、赤道直下の地域を中心に拡がり、インド系の細茎種と中国系細茎種に分かれている。二、我が国の砂糖史 我が国の近世における砂糖文化史は前述のように一五四三年ポルトガル人の来航に始まっている。そして砂糖が調味料として我が国に広く活用されるようになったのは豊臣秀吉による朱印船貿易の開始にはじまっている。 その朱印船貿易研究の先駆者としては平戸出身の菅沼貞風の遺稿「大日本商業史」(明治二十五年刊)がある。次いで大正五年発刊の長崎高商(現長崎大学)教授川島元次郎の「朱印船貿易史」があり、戦後、それ等各方面の研究資料を集大成され昭和三十三年発刊された岩生成一先生の「朱印船貿易史の研究」は有名である。 我が国と中国大陸との交流は一二七四年元軍の博多来襲により変化してきた。一三六八年には元の没落。明の建国。その間隙をついて倭寇の一団が中国・朝鮮の沿岸を侵している。更に一三九二年には朝鮮高麗朝が亡び委氏朝鮮が建国されている。 一四四三年(嘉吉三)対馬の領主宗貞は委氏朝鮮国王世宗と貿易協定を結んでいる。然し一四六七年(応仁元)応仁の乱以後、我が国戦乱の時期を迎えると倭寇集団の活躍は激しくなってきた。そして其の集団の主な根拠地となった処は唐津、伊萬里、平戸、五島方面であった。 この倭寇の侵害に悩んでいた明国は嘉靖末年(一五四〇)大掃討を行い遷海会を発し対外自由貿易を禁止していたが、一五六七年明国隆慶年間穆宗は南洋渡航については貿易を許したが、日本渡航については堅く禁じていた。この事は当時、五峰王直の一族が倭寇に協力し南支那や呂宋(ルソン)方面より船を出し平戸に来航し松浦道可公と手を結び交易する事があったからである。 其の後文禄年間(一五九二~)豊臣秀吉が異国渡航を許可する朱印状の発行があったと長崎の旧記には記してあるが、この事について岩生先生は次のように記しておられる。 秀吉時代、海外渡航に対する朱印状下附については積極的に証する資料は見あたらないが、之と極めて類似の性質を有する朱印状が内外に対して下附されている。 朱印船制度については何時創設されたか明確な資料はないそうであるが前田家文書の中に慶長七年九月十五日(一六〇二)七月五日付安南国(ベトナム)渡航朱印状があると記してある。三、朱印船渡航地と積荷▲外国に輸出された長崎コンプラ正油瓶(長崎純心大学博物館蔵) 一六一五年(元和元)大阪夏の陣が終わると政変があり徳川氏の政治となり武家諸法度その他政令が配布されている。この時代になると朱印船は前述の遷海令の事があり中国領土には行けなかったが次の六地区を中心に渡航している。 交跡、呂宋、シャム(タイ)カンボチヤ、安南(ベトナム)高砂(台湾)、そして此の地方より輸入せれた貿易品は生糸、織物、鹿皮、鯨皮、蘇木、黒漆が主であり、砂糖はマニラ、交跡、カンボチヤより少量の白砂糖・蜜・黒砂糖が運ばれている。 この朱印船の制度が廃止されたのは徳川三代将軍家光の寛永十二年(一六三五)である。 砂糖の積荷が急速にあらわれてくるのは寛永十八年(一六四一)以降長崎に入港してくる唐船からである。その事は当時、出島オランダ屋敷に平戸より移住させられたオランダ商館員の「オランダ商館日記」に多く記載してある。 それによると一六四一年鄭芝竜(鄭成功の父)の船十二隻に砂糖が多く積まれていた。鄭氏一番船積荷 白砂糖一九、八〇〇斤。紗綾三反。 ロホ皮二十枚・・・・・・鄭氏二番船積荷 白砂糖四、〇〇〇斤。 黒砂糖一六、〇〇〇斤・・・・・・鄭氏三番船積荷(広東より) 白砂糖一一、五〇〇斤。黒砂糖一〇〇〇斤・・・・・・鄭氏四番船積荷 白砂糖一三、九二〇〇斤。黒砂糖一〇、〇〇〇斤。 氷砂糖三、〇〇〇斤この時代より急速に白砂糖の輸入が増加している事に注目したい。 (以下次号) 第34回 長崎料理ここに始まる。(六) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第33回 長崎料理ここに始まる。(五)

    砂糖考(其の二) 一、ヨーロッパと日本(一)▲出島蘭人遊興図(長崎古今集覽名勝図絵) ポルトガル人が初めて種子ヶ島に上陸したのは一五四二年(又は四三年)天文十一年の事と記してある。当時、我が国は戦国動乱の末期で各地で戦乱が繰り広げられていた。 九州方面では薩摩の島津氏、大分の大友氏、島原の有馬氏、佐賀の龍造寺氏、平戸の松浦氏、大村の大村氏、諫早の西郷氏、山口の大内氏等々が争っていた。 当時、ヨーロッパの人達は、あまり日本の事について知識を持っていなかった。ヨーロッパ人の日本に対する知識はベネチヤ人、マルコ・ポーロによってラテン語で書かれたOricental Travel(東方旅行記)のみであった。 それによると日本の国名はZipangu又はZipangri・Gyampaguと記してある。この日本の国名は同書によると中国人が日本の事をJih-pan-guoとよんでいたからであると記してある。そしてその中国語の意味はSan-sowrce Kingdamであるという。(R・ヒルドレスの著書より) マルコ・ポーロは我が国に来た事はなかったが、彼は元のフビライ帝の時代・一二七五年頃より十七年間中国に滞在していた。ちょうどこの時期は元軍が博多に攻めてきた「文永の役」(一二七四年)・「弘安の役」(一二八一年)の時期であった。マルコ・ポーロは此の時代の中国商人達が伝えた日本国の事情を次のように記している。日本は中国海岸より一、五〇〇マイル離れた島国でかなり広い。住民の顔色は美しく、作法に整っており、宗教は偶像崇拝で他国に征服された事はない・・・日本は金銀財宝に豊かである。王宮の屋根は黄金で葺かれ、部屋の天井は貴金属で飾られ、室内には純金の机があり窓には金の飾りがある。・・・そして後段には元寇の事も記してある。二、ヨーロッパと日本(二)▲マカオ付近で1845年頃につくられた陶器 次にヨーロッパに我が国の事が紹介されたのは一五一一年マライ半島マラッカをポルトガルが占領した以降の事である。 当時の資料として私達は先ずポルトガル人F・Mピント(Fernam Mendey Pinto)の記録で一六一四年出版されたPeregrinations in the East(東洋旅行記)を読むことが出来る。 ピントの話によると、彼はD・ZecimotoとC・Borellと共に中国の船に乗り種子ヶ島に到着、島王のNantaguim(時堯)と面接。三人のポルトガル人は寺に宿泊していた。そこでZainmotoは当時の日本にはなかった小銃で二十六羽の鴨を撃ち、競馬を見物中の島王時堯に献上している。 この時、種子ヶ島で小銃を模倣して製作したとも記してある。そして間もなく豊後の殿(大友氏)の船が多くの商人を連れて種子ヶ島に着き、以来、日本国に小銃が広まったと記してある。其の後ピントは大友氏の城下町臼杵に行っている。 一五四七年、再びピントはマラッカから種子ヶ島に向かい次いで大友氏の臼杵に到着している。然し、当時の大友氏は内乱が起こり貿易が出来なかったのでピントの船は鹿児島の山川に回漕している。そのピントが帰国しようとした時、鹿児島を脱出しようとしていた安次郎が「お助け下さい」とかけこんできた。ピントは大急ぎで彼を船に乗せマラッカに脱出させている。 この時、ピントはマラッカでザビエルに初めて面接、安次郎も亦ザビエルの教えを聴き日本人として最初のキリシタンとなっている。 一五四九年ザビエルは安次郎を案内人として鹿児島に上陸、その翌年は平戸に行き、我が国でキリシタンの布教を開始している。  以来、西欧の文化が我が国に伝えられ、我が国の言葉の中にポルトガル語が多く取り入れられる事になってきた。一六〇〇年頃には我が国の言葉の中にポルトガル語が多く残っている。それは四千語はあったと言う。その中で今日もなお使用されている言葉の中では食物と衣類関係が多いと記してある。食物の中では砂糖関係のものが一番多いそうである。その中より一例をあげると〇アメンドウ(Amendoo) 扁桃の実(味)。〇アルヘイトウ(Alfeloo) 有平糖、砂糖菓子。〇ビスケット(Biscoito) 菓子。〇丸ボロ(Bolo) 丸い菓子。丸ボーロ。花ボーロとよばれている。〇カラメル(Caramello) キャラメル。〇カステラ(Castela) 本来カステラ国の名でカステラ国で造られた菓子の意。カステラ巻(カスマキ)にも変化している。〇カスドウス(Castela doce) doceは甘いという意味。甘いカステラ菓子。 現在平戸地方の銘菓。〇コンペイトー(Confeitos) 金平糖。明治以前は長崎名物の一つだった。〇ザボン漬(Jumboa) ザボンの砂糖漬。当時はザボンのみでなく、多くの砂糖漬があった。〇マルメロ(Marmelo) 砂糖菓子の一種。〇カセイタ(Caixeta) 小さな菓子の意。現在熊本名物の一つ。〇鶏卵ソーメン(Fias re Ovos) 卵菓子の意。現在博多名産であるが、昔は長崎で「たまごソーメン」として売られていた。〇チンタ酒(Tinta vinho) 葡萄酒。(以下次号)第33回 長崎料理ここに始まる。(五) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第32回 長崎料理ここに始まる。(四)

    砂糖考 一、はじめに▲ポルトガル民芸皿 南蛮唐紅毛時代の長崎に於ける貴重な貿易品の中に「白砂糖」の輸入があった。砂糖には長崎奉行所では「御用砂糖」と称し長崎代官所より江戸幕府に送付される物と一般に江戸、大坂、長崎等の五カ所御用商人によって取引される物があった。又、貰砂糖(もらいさとう)・御菓子屋除砂糖、こぼれ砂糖、寄進砂糖等と区別して取り扱われる砂糖もあった。其の他、丸山遊女の代銀として物納された砂糖や混血児養育費として使用された砂糖もあった。私は先年、これら資料の一部を整理し長崎純心大学博物館研究第三輯・第四輯に記述しているので御参考にして戴くとよい。 我が国で砂糖の資料が登場してくる谷口学氏の「古典の中に現れた砂糖」(糖菓工芸会刊)や「本邦糖菓史」(味燈書屋)等をみると、平安時代初期の遣唐使によって薬品としての少量の砂糖が我が国に運ばれたと記してある。中国の資料によると宮廷に始めて砂糖が登場してくるのは唐の時代のことであると次のように記してある。砂糖 中国には本これ無し、唐の太宗の時、外国貢ぎて至る。其の役人に問う、此れ何物と云う。甘蔗汁を以て煮・其法を用い煎て成す。外国の者と等し。此れより中国に砂糖あり(老学庵筆記・六)また「本草網目集解」には次のように記してある。 砂糖は蜀地より出ず。西戒・江東並に此れ有り。甘蔗の汁を筌し煎て紫色となる。 これ等によると砂糖は南支那の甘蔗が唐の太宗(六二七~六四九)の頃、長安の都に伝えられたと記してある。勿論それは黒砂糖であった。 我が国では、十六世紀になると遣明船によって砂糖が鹿児島・博多・堺などに積み渡られ貴人や有力者などの間で贈答品として使用されていたが、一般的には珍しい品であった。二、砂糖がまだ無かった時代 中国では味に五種(ごみ)あかりと記してあり、その五種とは鹹・苦・辛・甘である。 そのうち甘は「飴蜜」とある。更に砂糖の糖の文字は「説文」には「飴」なりと記してある。 日本古代史の食物の研究家関根真隆先生の「奈良朝食生活の研究」を参考にさせて戴くと同書の第五章第三節に「甘味類」の項がある。 それによると「古代の甘味は果実・蜜などの自然採取物に始まり飴・果糖の加工甘味料に変わる」と記してある。そこには飴・甘蔗煎・蔗糖・密の名があり蔗糖は、当時は薬に使用されたものであり、「廬舍那仏種々薬帳」の中に其の名が記してあると説明されている。 また、当時の飴は「延喜式」の中に糯米一石・萠小麦弐斗にて三斗七升」とあり、飴が糯米より造られていたことがわかる。 甘蔗煎は「アマヅラ」、後世には「あまかづら」と言っている。この他に、蜜を和したものに「浮餾(ふる)餅」の名があげてある。浮餾は「おこしごめ」とよんでいた。それは「和名抄」に※こめ([こ]米偏+巨、[め]米偏+女)の「和名於古之古女(おこしこめ)」と注記してある事による。この他麹の事も記してある。麹の事は古くは「※こうじ([こうじ]米偏+毎)」と記してある。麹も甘酒として古代より使用されていた。三、南蛮船と砂糖の輸入▲ポルトガルの民芸 一五四三年南蛮人の来航によって一五四九年以来キリスト教の布教か開始され、其れによって多くの神父達が我が国に於ける布教の現状や其の国の生活様式をローマのイエズス会本部に報告している。そして其の文書は現在もローマに保存され日本国についての部分は多く翻訳され「イエズス会文書」として出版されている。 一五六三年長崎に来航してきたフロイス神父は「日本人の食事と飲食の仕方」についてローマに次のように報告している。no.19 吾れ吾れは甘い物を好むが日本人は塩辛いのがすきである。 この時代はまだ日本人は砂糖を多く使用していなかったのでありましょう。当時の砂糖は大変珍しいものであった。当時の土佐の領主長曽我部氏が織田信長に天正八年六月(一五八〇)砂糖三千斤を献上した記録が残っている。(小瀬甫庵・信長記) 当時は唐船によって砂糖は輸入されていた。「明史」や「籌海図編」「日本一艦」などの資料によると当時の唐船は土佐・博多・日向・薩摩・平戸・五島・種子島・屋久島に来航し倭冦と大いに関係があり其の貿易品をあげているが、砂糖の積み荷の事について殆ど記されていない。 然しこの倭冦時代以後、豊臣秀吉の頃より始まる御朱印船時代になると其の積荷の中に砂糖の事が現れてくる。一例をあげると●マニラより生糸・巻物・蘇木・砂糖●交跡より黄糸・北絹・砂糖・蜜●束浦塞より鹿皮・蜜・黒砂糖 一六〇三年(慶長三)長崎のコレジョで編集された「日本ポルトガル辞書」(原文ポルトガル語・邦訳土井忠生・森田武・長南実)には多くの砂糖に関する言葉が集録されている。当時すでに「砂糖」が我が国の人たちの間に多く用いられるようになった事が之によってわかる。 日ポ辞書により砂糖に関係する言葉を二・三ひろってみると〇 AmMochi(アン モチ) 豆をつぶしたものにJagraを加えたもの、又はJagraを加えない豆をつぶした物を入れた米の餅。 註・Jagraはインド及び東部アフリカで椰子や甘蔗から作る黒砂糖と説明してある。当時は白砂糖より黒砂糖を多く使用していたのであろう。 〇SatoMangiu(サトウ マンジュ) お湯の蒸気で蒸した、ある種の小さなパンでJagraを入れて作ったもの。〇Yocan(ヨウカン) 豆とJagraをまぜて作ったもの。〇Ame(アメ) 日本の麦その他のものから作る。(以下次号)第32回 長崎料理ここに始まる。(四) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第31回 長崎料理ここに始まる。(三)

    一、南蛮料理編(二)▲ポルトガルの人形 我が国で南蛮(人)と言えば、一五四三年以来、徳川幕府が鎖国令を発した寛永一六年(一六三九)までの間に来航してきたポルトガル船・スペイン船により我が国に来航してきたポルトガル人、スペイン人、イタリヤ人を南蛮(人)と呼んでいる。 今回は、その南蛮から来航してきた人たちが、当時の日本人の食生活を、どのように理解していたかと言う事を中心に話を進めてみたいと考えている。其の一  一五四四年 メンデス・ピントとともに日本に渡り九州地方を回っているジョルジュ・アルバレスの報告書(この報告書はヨーロッパ人が直接に我が国を訪ねた人の報告書としては最初のもので七ヶ国語に訳されヨーロッパで広く読まれていた)によれば次のように記してある。 日本は美しい国で多くの松、杉、梅、桜、栗、樫がある……味のよい梨があるが日本人は食べなかったが私たちが食べたのをみて食べるようになった。私たちの土地にはない多くたくさんの果物があった。日本人は自分の家に飲み食いに来るようにと招待し、欲深くなく、極めて大様な国民である。…食事のことについても次のように記している。 日本人は日に三度の食事をする。毎回少ししか食べない。肉はわずかしか食べない。但し鶏は食べない。それは鶏は家に飼っているから食べないそうである。日本人が食べるのは米と豆とムンゴ(インド地方で木の実を言う)山芋と麦。また麦をどろどろに煮て食べるようである。日本人がパンを作るのを見なかった。米から作る酒と身分の別なく飲む酒があり、酩酎すると日本人はすぐに眠ってしまうので酔っぱらいは見たことがない。豆で作るチーズを食べる(豆腐)私は食べたことがないので其の味はしらない。食器については次のように記している。 食事は床の上で食べている。各自が彩色した自分の食器を持っており、中国人と同様棒(箸)で食べている。食器は陶器と外は黒く中は赤く塗ってある鉢と皿(漆器)をつかっている。▲ポルトガル人は鳥を大事にする其の二  一五四九年、F・ザビエルが我が国にキリスト教の布教を開始して以後、イエズス会の神父たちが多く布教のため来日してきた。其の神父達は我が国におけるキリスト教布教の状況を毎年ローマに報告している。それを私達は「イエズス会士 日本通信」とよんでいる。その通信文を一五九八年ポルトガルのエヴォオラのManoel de Lyraから出版している。その通信文の内容は一五四九年より一五八〇年までの書簡集である。 私はこの日本通信(上下・新異国叢書 柳谷武夫先生訳)の中より食に関することに限定し収録させて戴くことにした。A、 一五五四年、パードレ・ガスパル・ビレラが初めて平戸に赴くに当たってインドのコチンより本国のコインブラに送った書簡。この時にはまだビレラ神父は我が国の事は良く知らなかったのでコチンで友人達から教えられた日本の状況を報告している文章であり、当時の人達が我が国の事をどのように考えていたかが知られる。食事のことについても次のように記している。日本は貧弱でポルトガル国よりも寒く、山多く、雪がふる処である由。然し国民は文化的に開け物の道理は良くわきまえている。食料は大根の葉の上に少し大麦の粉をかけたものを食べている。日本には油、牛乳、卵、砂糖、蜂蜜、酢はないそうである。又、塩がないので大麦の糖を用いている。註・大麦のヌカと言うのは味噌の事を言っているのであろう。B、 一五五五年九月平戸に居たガゴ神父がポルトガルに送った手紙。手紙によると当時平戸には五百人のキリシタンがおり、領主松浦氏はキリシタンになることを望み、キリシタン信者の為に墓地を与えたので「九月二十四日その地に十字架を建てたのでキリシタン信者は盛大な祝祭を行いました」と記している。同じ書籍の中でガゴ神父は山口(山口県)の事を次のように記している。 この山口の地には信者は二、〇〇〇人います。然し、此の地は食物欠乏の地です。此の地には少しの米と野菜しかありません。然し元は肥満の地だったそうです。この山口は海岸より遠く魚は稀にしかありません。物は多く不足しています。 牛は殺さず野獣の肉は時々食べます。日本人は唐人を非常に軽蔑しています。日本人は戦いを好み、十歳位より刀を帯び刀をだいてねているようです。C、 一五五七年。ビレラ神父は平戸よりイエズス会に長い報告文を送り我が国に於ける布教の状況を報告している。その中に日本人が大分で祝日の日に次のように牛肉を食べた事が報告されている。そして、之の文章が日本人が牛肉を食べた最初の報告文であるとされている。一五五七年、大分に於いて四旬節が近づいた。四月十一日その聖週を向かえた。その御復活祭の翌日は大いなる祝日である。其の日は約四百人のキリシタン一同を食事に招きました。其の時、我等は牡牛一頭を買い、その肉と共に煮たる米を彼らにあげました。彼らは皆、大いに満足を以て之を食べました。また多くの貧民も集まり皆・主を讃美しました。 一五五七年には、まだ長崎開港の前であり、大村領主大村純忠もまだキリシタンに入信していなかった。やがて一五六二年ポルトガル船は初めて大村領横セ浦(現長崎県西海市)に入港している。(以下次号)第31回 長崎料理ここに始まる。(三)  おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第30回 長崎料理ここに始まる。(二)

    はじめに 私は始めより食文化研究を専門にしていたわけではなかったが、私が長崎市立博物館在職中の昭和五十一年八月長崎司厨士協会の方々より、全国司厨士大会を長崎で開催するので其の記念誌として「長崎西洋料理史」をまとめてくれとの依頼を受けたのに始まっている。そして昭和五十七年「長崎の西洋料理-洋食のあけぼの-」(東京・第一法規社)を発刊した。そして、続いて「卓袱考」「長崎菓子考」と各方面より進められるままに執筆しているうちに、いつのまにか私の言う「長崎学研究」の中に長崎食文化とうい項目を加えていた。 この長崎食文化の事を知られた「みろくや」の先代社長故山下泰一郎氏が昭和四十四年九月より年六回「長崎食文化を学ぶ会」を開催したいので協力して戴きたいと依頼を受けた。此の学習会も今年で第百五十回になりますよと現社長の山下洋一郎氏より先日お話をお聞きした。 其の頃、山下前社長より「うちの機関誌・味彩にも何か投稿してくださいよ」との依頼を受けた。そこで私はとりあえず寄稿したのが「長崎料理ここに始まる」であった。▲伊万里焼染付皿 私は昭和三十一年十二月、六十歳の市立博物館定年後、長崎純心女子短大の教壇に立つ事になったが、ここでも私の言う「長崎学」を大きく取り上げて戴き、其の中のひとつに長崎学文化研究所を置かせて戴いた。更に一九九五年には「長崎学・食の文化史」を発刊して戴いた。更に二〇〇二年には「長崎学・食の文化史」は好評であるので「續・食文化」を編集する事になった。次にみろくやの山下社長より私が今まで「みろくやの味彩」に寄稿した文章も次号には集録されてよろしいとの事であった。 二〇〇二年九月私は味彩に寄稿した一号より十九号までの稿を整理し、純心大学長崎学研究「續々・長崎食の文化史」に集録発刊することができた。此の発刊については各方面よりの御要望が多く、増刷することになった時、みろくやの山下社長が援助してくださるとの事となり一同大いに感謝申し上げた。一、南蛮料理編一五七一年春ポルトガル船が貿易のため初めて入港した年を長崎開港の年としているが、実は其の年より早く医師でイルマンであったルイス・アルメイダが長崎甚左衛を訪ね、キリシタンの布教が開始されているので、此の時より長崎の人達はパンと葡萄酒に接していたはずである。 然しポルトガル船の来航は長崎より早く一五五〇年すでに松浦氏の城下町平戸に入港し、其の年ザビエルも亦・平戸の町で布教を開始し以来一五六〇年まではポルトガル船は平戸に来航していたのであるから長崎の街の人達より早く平戸の人達は南蛮料理に親しんでいたはずである。 当然そこでは牛肉が食べられていたのである。この事について私は二十六聖人記念館長結城了悟神父より平戸の初期洋風料理について「当時平戸に布教に来ていたフェルナンデス神父が一五六〇年インドのゴアよりローマに宛てた書簡の中に平戸の町の食文化の事が書いてありますよ」と教えて戴いた。その手紙には次のように記してあった。日本の人たちは何でも食べています(平戸の町では)。然し、坊さんのみは牛肉を食べない。此の平戸の町にはポルトガルと同じ食料はありますが、其の量は少ない。平戸では働く人が少なく、飢餓する人が多い。又この地方は非情に寒い。 平戸の町には今もカスドースという菓子が残っている。この言葉はポルトガル語のカステラ・ドースであると考えられている。カステラはBolo de Castelaであり、ドースはdoce甘いという意味である。▲幕末より長崎に多く輸入された中国紅絵茶碗 江戸時代のオランダ通詞楢林氏の記録の中にもパウンドウスという菓子の名が記されてあり、其の説明には「蜜を煎じて卵をかけて煮る」と記してある。 一五七一年以来、色々と政情の事もあり、ポルトガル船の入港は長崎一港となっている。そして更に長崎地方の領主でキリシタン大名であった大村純忠(洗礼名ドン・パルトロメ)は一五八〇年長崎と其の隣村茂木の地をイエズス会の知行地として寄進している。そして更に一五八四年には大村純忠の甥で島原地方の領主有馬晴信が佐賀龍造寺氏との島原の合戦で勝利した感謝のためイエズス会に長崎の隣村浦上村を寄進している。 これらの事により長崎の街は、我が国におけるキリスト教布教の中心となり長崎岬の先端(現在長崎県庁の地)に当時我が国最大の教会であった「被昇天のサンタマリヤ教会」が創立され、其の教会敷地内にはイエズス会本部・修道院・学校・印刷所等の多くの施設が建設され毎年のようにポルトガル船が入港し、我が国における西欧文化を移入できる唯一の港(街)として長崎の街は繁栄してきた。 年と共に全国より多くの商人たちが長崎の港に集まってきたが、そこではキリスト教以外の人達の参加は認めなかった。其の基本には長崎の街はイエズス会の知行地であり、この地方の領主大村純忠は熱心なキリスト教徒であり、大村領内における社寺のすべては破却し、大村領内は全てキリシタンであったので、他宗派の人達は領内に入る事はできなかった。 そこで、当時はイエズス会に好意を持った商人意外は長崎貿易に関わる事はできなかった。此の時期・博多・堺方面の商人たちが多く長崎貿易に参加しているが、これらの人達は全てキリシタンでありキリスト教に厚意を示す人達であった。 そして当時の長崎の街の様子は多くの南蛮屏風によく描かれている。(以下次号)第30回 長崎料理ここに始まる。(二) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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