第642号【6月のあれこれ】

 長崎を含む九州北部地方の今年の梅雨入りは、5月29日でした。雨の季節になると、眼鏡橋そばの川沿いにアジサイの鉢植えがズラリと並べられます。今年も先月下旬から色とりどりのアジサイが道行く人の目を楽しませてくれました。





 

 アジサイのそばに一輪の真っ赤なダリアが咲いていました。美しく、育てやすいダリアは多くの人に親しまれ、今ではたくさんの品種があることで知られています。そんなダリアは、長崎ゆかりの花のひとつです。18世紀後半に原産国のメキシコからヨーロッパに伝えられ、19世紀中頃にオランダ船によって出島に運ばれてきたといわれています。



 

 さて、6月1日は、4年ぶりの開催が決まった長崎くんちの「小屋入り」でした。「小屋入り」は、秋の本番に向けての稽古始めの日とされ、今年の奉納踊りを担当する「踊町」(桶屋町、栄町、万屋町、本石灰町、船大工町、丸山町)は、朝から諏訪神社(長崎市上西山町)に参拝し、稽古の無事と本番での成功を祈願。久しぶりに響き渡ったシャギリの音色が心に沁みました。



 

 6月5日、全国ニュースでは、藤井聡太竜王名人と佐々木大地七段のベトナムでの対局が話題になっていました。佐々木七段が、長崎県対馬市出身ということもあり、地元での注目度はひときわ高かったようです。そんな将棋の大きな話題の中で、ふと頭をよぎったのは、旧長崎街道沿いに残る、「大橋宗銀」のお墓にまつわるエピソードです。

 

 長崎街道の出発地点(長崎市新大工町)から徒歩約30分。長崎市本河内にあるその墓碑に刻まれているのは、「六段上手 大橋宗銀居士」、「天保十年巳亥十一月廿三日 東武産而客死長崎」。大橋宗銀という江戸の優れた将棋指しが、幕末の183911月に旅先の長崎で亡くなったとあります。


 江戸時代、将棋は、武士階級はもちろん町人や農民の間でも広く行われていました。幕府が認めた将棋三家のひとつ、大橋本家には、実際に大橋宗銀という名の家元がいたそうですが、長崎のお墓の人物とは思えません。

 

 長崎奉行所の犯科帳には、この墓に眠ると思われる人物についての記載が残されていました。名前は大橋宗元。偽の往来手形を使い、将棋指南の目的で長崎に入ったことや、行き倒れになったことなどが記されているとか。想像するに、江戸であぶれたひとりの将棋指しが、自身の将棋の腕だけを頼りに、ときに家元と偽りながら諸国を渡り歩くなか、長崎に流れ着いたのかもしれません。

 

 当時の旅人は、病気やケガに見舞われて旅先で行き倒れるというケースも多く、土地の人が街道脇に旅人の墓を設けることがあったそう。大橋宗元についてのこまかな真相は定かではありませんが、長崎のどこかの家に滞在し、将棋を指南したかもしれません。それにしても、旅ガラスとなった将棋指しのお墓がひっそりと残り、こうして語り継がれるとは、当の本人も想像だにしなかったことでしょう。

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