第645号【初秋、シーボルトを想う】

 いままで経験したことのない猛暑と、厳しい残暑に見舞われたこの夏。そんななか、秋の味覚のザクロがご近所の庭で早くもたわわに実っていました。今年は花も早めに咲いたので、果実も前倒し気味なのかもしれません。


 

 この暑さのなか、いつもと変わらぬ元気な姿を見せていたのが、中島川のカワセミです。石橋のアーチをスイ〜とくぐり抜けて来て、川辺の石に留まり水中の小魚をじっと狙っていました。ブルー&グリーンの美しい羽根の印象から、「渓流の宝石」などとも称されるカワセミ。かつては清流にしか棲まないと言われた時代がありましたが、いまでは街なかの川でも見られるようになりました。けっこう、たくましい野鳥のようです。



 

 江戸時代、このカワセミをはじめ日本の多くの動植物に学名を付け西洋に紹介した人物がいました。出島の商館医フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796-1866)です。シーボルトは、日本に西洋医学や博物学などを伝え、日本の近代化に貢献。一方で日本の生物や歴史、風俗など幅広いジャンルの調査・研究を行い、帰国後にまとめた『日本』『日本動物誌』『日本植物誌』などを通して、日本を広くヨーロッパに知らしめました。その功績は、はかりしれないものがあります。


 

 野心あふれる27歳の青年シーボルトが、出島に初上陸したのは、1822年(文政68月のことです。今年はシーボルト来日200周年にあたり、シーボルトに関するさまざまな講座やイベント、企画展などが「シーボルト記念館」(長崎市鳴滝)や「長崎歴史文化博物館」(長崎市立山)、「出島和蘭商館跡」(長崎市出島町)などで行われています。


 

 節目の年ということで、今回は思いつく限り、シーボルトの名を刻んだ記念碑をご紹介します。もっとも古いのは、シーボルト自身が1826年(文政9)年に出島内の花畑に建立した「ケンペル・ツュンペリー記念碑」です。先達の商館医ケンペル、そしてツュンペリーをたたえた碑文が刻まれています。この石碑が設けられた頃のシーボルトは、鳴滝塾を通して塾生らとの交流があり、また江戸参府も経験するなどして、日本研究に大きな手応えを感じていたと思われます。石碑は、シーボルトの自信と誇りの現れであったかもしれません。また、出島には、1973(昭和48)に建立された「シーボルト来日150周年記念碑」があります。細長い碑の上部に、若き日のシーボルトの顔が刻まれています。


 

 「県立長崎図書館郷土資料センター」(長崎市立山)の入り口付近には1879年(明治12)に建立された「施福多(シーボルト)君記念碑」があります。篆書体の題字と碑文の揮毫(きごう)は、長崎生まれの書家・篆刻家の小曽根乾堂によるものです。


 

 「シーボルト記念館」に隣接する「シーボルト宅跡(国指定史跡)」の敷地内には、当時の長崎県知事の発議により1897年(明治30)に建立された「シーボルト先生之宅址」の碑があります。また、すぐそばにある「シーボルト胸像」は、来日100周年記念時に設けられたもの。ちなみに1923(大正12)1011日に予定されていた来日100周年記念式典は、同年91日に関東大震災が起こったため、翌年の4月に延期して行われています。



 節目節目に建立されたシーボルトのさまざまな碑。その大きさやデザイン、碑文に、時代ごとのシーボルトへの関心度などが映し出されているようで、興味をそそります。50年後、シーボルトはどんな節目を迎えるでしょうか。

 

◎参考にした本/『長崎市史 地誌編 名勝旧蹟部』

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