ブログ

  • 第535号【黄金色に染まる晩秋】

     北国では早くも積雪。西日本の各地からは初雪のニュースが次々に聞かれるようになりました。長崎の初雪は平年だと12月中旬。しかし、このところの急な冷え込みからすると、今年の初雪はもっと早くなりそう…。晩秋がかけ足で過ぎて行こうとしています。眼鏡橋の上流にある光永寺(長崎市桶屋町)へ足を運ぶと、境内の真ん中にあるイチョウの木がきれいに色づいていました。茶色の山門からのぞく黄金色のイチョウの葉。その美しさに、お寺の前を通りがかる人たちもつい足を止めます。  光永寺は、福沢諭吉ゆかりのお寺です。福沢は19歳のとき蘭学を学ぶため長崎へ来ていますが、最初にこのお寺を頼って来ており、一時居候。福沢が自らの人生を語った「福翁自伝」にもそのときのことが記されています。山門前には、「福沢先生留学趾」と記された碑がありました。  光永寺のそばにかかる古町橋のたもとに目をやると、「松壽軒(しょうじゅけん)跡」と記された碑が建っています。松壽軒は、虚無僧寺。時代劇などで、顔を隠すように笠を深くかぶり、尺八を吹いて歩く僧侶の姿を見たことがあると思いますが、それは、虚無僧と呼ばれる人たちで、江戸時代の普化宗の僧侶です。彼らは、尺八を吹いて全国を行脚修行していました。ちなみに長崎は、幕末に関西を中心に活躍した尺八奏者・近藤宗悦の出身地であり、宗悦は松壽軒と関わりがあったといわれています。  長崎と尺八。出島がらみで語られがちな当時の長崎のまた違った一面が見えてきました。虚無僧らが尺八を吹きながら往来したであろう古町橋を渡り、寺町通りの一角にある大音寺(長崎市鍛冶屋町)へ。ここには、樹齢300年を超える大イチョウがあって市の天然記念物になっています。樹高は20メートルほど。すっかり黄金に色づいたイチョウの葉が枝ごと風に揺れる姿はどこか野性的。大音寺の後山でひときわ目立っていました。  黄金といえば、先日、「特別展 新・桃山展 大航海時代の日本美術」を開催中の九州国立博物館へ行った際、豊臣秀吉が造らせたという「黄金の茶室(復元)」が出入り口付近に公開展示されていました。移動可能な組み立て式のコンパクトな茶室は壁や天井、柱、そして障子の腰にも金が張られ、茶道具もみな金色。畳の表は赤い毛織物で、障子紙の部分も赤。侘び寂びの対局にあるような秀吉の発想に驚かされました。   この特別展では、信長・秀吉・家康の時代、ヨーロッパやアジア諸国の影響を受けた日本の美術品が多数展示され、長崎ゆかりの品々も少なくありませんでした。群雄割拠の戦国の世に、南蛮貿易港として開港した当時の長崎は異彩を放つ存在。しかし、よくよく歴史を見てみると、長崎を開港させた大村純忠には、周囲の豪族から領地を守りたいといった、戦国時代ならではの胸のうちがあったよう。歴史には見とれるほど光り輝く面がある一方で、あまり表沙汰にはならない影の部分も同じだけある。そんなことを思わせる秋の黄金色でありました。

    もっと読む
  • 第534号【現代と江戸時代をつなぐ出島表門橋】

     秋の行楽シーズンたけなわ。路面電車が走る長崎のまちでは、観光客の方々や修学旅行生が笑顔で行き交う姿が目立ちます。そんな賑わいから少し離れて、山里の風情が残る鳴滝へ足を運ぶと、木立ダリアが長い茎の先にうすむらさきの花をつけ、ススキとセイタカアワダチソウが競うように生い茂っていました。  こんな秋らしい風景に出会うと思い出すのが、向井去来の「君が手もまじるなるべし花すすき」という句です。元禄2年(1689)一時帰郷した去来が長崎を離れる際、日見峠で詠んだもの。見送りに来た親戚の人はよほど別れがたかったのでしょう。長崎街道をいく旅人は、長崎市中にほど近い蛍茶屋で見送られるのが通常でしたが、そこからもう少し離れた山あいの峠まで付き添いました。  いよいよお別れとなったとき、去来が振り返るたびに、すすきの合間から手を振り続ける親戚の姿があり、しだいに見えなくなっていく、そんな情景が浮かびます。句には長崎滞在中、皆によくしてもらったという去来の感謝の念も込められているのでしょう。時代は変わっても、二度と会えないかもしれない別れの心情はきっと同じ。ちょっとせつなくなります。  日見峠の別れのシーンから、再び賑わう街中へ。この秋、長崎を代表する観光スポット、「出島」がいつも以上に注目を浴びています。というのも出島と対岸の江戸町をつなぐ出島表門橋が架けられ、平成29年11月25日(土)から、江戸時代のように橋を渡って出島に入れるようになるのです。以前かかっていた石橋が取り払われてから約130年ぶりの架橋。洗練されたデザインで、ひとつ下流のたまえ橋から見ると、周囲になじんでしまってわかりづらいのですが、現代の橋の技術を駆使しながらも、さりげない表情がいいなあと思います。  鎖国時代、唯一ヨーロッパに開かれた窓口だった出島。かつて出島と長崎市中を結んだ一本の橋は、さまざまな人や貿易品が行き交った歴史的ルートともいえます。現在、出島内ではヘトル部屋、料理部屋、乙名部屋、銅蔵など全部で16棟の建物が復元されており、出島表門橋の上にたたずめば、往時の様子がよりリアルに感じられるかもしれません。出島表門橋は、夜間にはライトアップされ、ひとつ上流にかかる出島橋(明治時代に架けられた日本最古の現役の鉄製道路橋)とともに、美しい夜景を楽しめるそうです。  出島表門橋のたもとから後ろを振り返れば、そこは県庁裏門。そばには紅毛外科楢林流の始祖、楢林鎮山(ならばやしちんざん/1648〜1711)宅跡の碑があります。オランダ通詞だった鎮山は、職務のかたわらオランダ商館医に付いて医学を学んだそうです。出島の目と鼻の先に自宅があったという点で、さまざまな人の出入りがあり、史料には残されていないこぼれ話がたくさんあるのだろうと想像されます。   長崎県庁裏門も、長崎駅近くの新しい県庁舎がこの秋完成し、その後の移転が済めば撤去されることになるのでしょう。表玄関とくらべ地味な存在でしたが、この界隈を知る人にとっては、なじみのある風景。いまのうちに目に焼き付けておきたいと思いました。

    もっと読む
  • 第533号【茶処・東彼杵町のおいしいもの】

     超大型台風21号の被害に合われた方々に心よりお見舞い申し上げます。  暦を見ると、2週間後は立冬。刻々と深まる季節のなか、体は冬ごもりの準備がはじまっているのか、食欲は増すばかり。所用で出かけた東彼杵町(ひがしそのぎ・ちょう)で、おいしい出会いを満喫してきました。  JR長崎駅から、快速シーサイドライナーで彼杵駅(東彼杵町)まで約1時間。東彼杵町は、長崎県一のお茶の生産量をほこる茶処で、蒸し製玉緑茶の「そのぎ茶」の産地として知られています。「そのぎ茶」は、隣接する嬉野市を中心に生産される「嬉野茶」として出荷されていた経緯がありますが、近年、「そのぎ茶」のおいしさとともに、ブランド名も広く知られるようになってきました。今年9月に開催されたお茶の日本一を決める「全国茶品評会」では、「蒸し製玉緑茶」の部門で、産地賞(1位)を受賞。さらに、個人でも「そのぎ茶」の茶農家の方が農林水産大臣賞を受賞し、「そのぎ茶」のおいしさを改めて全国に知らしめました。  山あいに広がる茶畑の景色は、東彼杵町の原風景です。この時期のお茶の樹はツバキに似た白い花をつけるのですが、手入れが行き届いた茶園では、おいしい茶葉を育むため、つぼみのうちに摘んでしまうそうです。お茶の花は小ぶりでふっくらとして、うつむき加減に咲くきれいな花です。茶畑のそばを通りがかると、摘みそびれたお茶の花が数輪、秋雨に濡れていました。  東彼杵町へ出かけたとき、必ず立ち寄るのが国道205号沿いにある道の駅「彼杵の荘(そのぎのしょう)」です。食事処では、定番の鯨肉入りの団子汁と炊込みご飯のセット(680円)をいただきました。波静かな大村湾に面した東彼杵町は、江戸時代、近海でとれた鯨の集積地として発展した歴史があります。鯨肉を使った食文化がいまも息づく土地柄なのです。道の駅では、鯨肉も売られていました。  自然が豊かで農業が盛んな東彼杵。道の駅の商品は、おまんじゅうやもなかをはじめ、ソフトクリームや焼酎など、地元産の緑茶を使ったお菓子や飲料が目立ちます。また農業が盛んなまちとあって、季節の農作物も豊富。そのなかで、最近ではめずらしい「小栗(ささぐり)」を見つけました。小さな栗の実で、「柴栗(しばぐり)」と呼ぶ地域もあります。70歳前後の方たちが、口を揃えて、「小さい頃、食べてたわ」「山によく採りに行ってたのよ」と懐かしがります。店頭で「小栗」を買おうか悩んでいると、「通常の栗より、私は小栗のほうがおいしかと思うよ」と高齢の女性がすすめてくれました。湯がき終わりの頃に塩を入れるのが、おいしくなるコツだそうです。   くいしんぼうな現代人を満足させる道の駅「彼杵の荘」。そのすぐ隣には、5世紀につくられたという前方後円墳の「ひさご塚古墳」があります。「ひさご」とは「ひょうたん」のことで、古墳は文字通りひょうたんを思わせる形をしています。ほかにも一万年以上も前の旧石器時代の遺跡も見つかるなど、東彼杵町は太古の昔から人間が暮らしやすい土地であったことを物語ります。そんな自然豊かな土地で育まれた飾らない町の雰囲気、人の優しさが、秋の心にしみる東彼杵町でありました。

    もっと読む
  • 第532号【秋、大切なものを探して】

     10月の長崎は華やかでうれしい催しが続いています。新地中華街で行われた「中秋節」(9月30日〜10月4日)では今年も黄色の灯ろうが飾られ、龍踊りや中国獅子舞などでにぎわいました。「中秋節」はアットホームな雰囲気を楽しめる催しです。家族や友人たちとそぞろ歩く人々は、お月さまを見上げたり、二胡の演奏に聴き入ったりしながら、秋の夜長をのんびりと過ごしていました。 10月3日は、約380年の伝統がある「長崎くんち」(国指定重要無形民俗文化財)の「庭見せ」でした。「庭見せ」とは、奉納踊を担当する踊町が、本番で使用する傘ぼこや衣装、小道具、そして贈られたお祝いの品々などを飾ってお披露目するもの。踊町が点在する長崎市中心部は、庭見せがはじまる夕方から夜10時頃まで、観光客や家族連れ、仕事帰りの人々で大にぎわい。くんち本番への期待感が高まった夜でした。  10月5日夜、カズオ・イシグロ氏のノーベル文学賞受賞のニュース速報は、長崎の人々にとってうれしい驚きでした。長崎ゆかりの小説家であるイシグロ氏は、『日の名残り』や『わたしを離さないで』などで知られる世界的なベストセラー作家ですが、今回メディア関係者が予想した受賞者の上位には入ってなかったそうです。  イシグロ氏は、1954年長崎生まれ。長崎市新中川町に暮らしていました。長崎海洋気象台(現・長崎地方気象台)に勤務していた父親の仕事の関係で、5歳のとき渡英。以来、英国に暮らし、その後、英国籍を取得されたそうです。イシグロ氏が幼き日を過ごした長崎は、ちょうど戦後復興の最中で、原爆投下の記憶もまだ生々しく残る時代です。彼のなかに残る日本・長崎の記憶とはどのようなものだったでしょうか。デビュー作の『遠い山なみの光』には、イシグロ氏の生い立ちとどこか重なる女性が登場。遠い日の長崎の記憶が想像を交えながら描き出されています。  10月7・8・9日は、待ちに待った長崎くんちの本番。秋晴れのなか、諏訪神社での奉納踊や、「庭先回り」(まちをめぐって演し物を披露すること)が行われました。毎年くんち見物に出るという80代の男性は、「やっぱり、くんちは良かよ。シャギリの音が聞こえたらソワソワするけんね」と、笑顔でおっしゃっていました。  今年の踊町は5カ町で、馬町の本踊以外は、八坂町の川船、築町の御座船・本踊、東濵町の竜宮船、銅座町の南蛮船と、それぞれ個性的で異国情緒あふれる勇壮な引きものでした。どの踊町も子供から大人まで協力し合い、猛烈に暑かった夏の練習をのりこえてこの日に挑みました。踊り場では観客たちを感動の渦に巻き込み、「もってこーい」の歓声が響いていました。   世代や時代を超えて人と人との絆を生む伝統のお祭り。こうした催しには、さまざまな人と心意気、熱意、思いやり、優しさといった心情を分かち合う機会があります。イシグロ氏が2015年に来日したときの新聞のインタビュー記事のなかに、「人生は思うより短いもの。そのなかで、本当に大切なものは何なのかを考えてほしい」といった内容のコメントをふと思い出しました。

    もっと読む
  • 第531号【秋の風景とむかし話〜横向地蔵〜】

     秋彼岸のときに合わせ、毎年きちんと咲いてくるヒガンバナ。その正確さには感心させられるばかりです。先週土曜日は秋分の日で彼岸の中日でした。長崎市の寺町界隈へ出向くと、お墓参りに訪れた人々を見守るようにヒガンバナがやさしく風に揺れていました。  秋の花といえば、万葉集でもっとも多く歌われた植物として知られるハギが代表的。また、さりげなく咲いて秋らしい風景を彩る野菊も美しい。淡い黄色の花をたくさんつけるアキノノゲシや、白く細い花びらが可憐なシロヨメナ、淡い青紫色の花びらのノコンギクなど、ひと口に野菊と言っても種類も多くそれぞれ個性的です。名前を覚えると、親しみがわいて楽しいもの。ポケットサイズの図鑑が手放せません。  秋の花咲く風景は、どこか郷愁を誘います。素朴で懐かしいものに心がひかれ、地元に伝わるむかし話や言い伝えにも自然と耳を傾けたくなります。長崎市の矢の平地区で語り継がれるユニークなお地蔵さまの話をひとつご紹介します。矢の平地区には寛政3年(1791)に設けられたという地蔵堂があり、大切に祀られているお地蔵さまは、顔を横にそむけためずらしいお姿をしています。  言い伝えのあらすじです。『むかし、まちで泥棒をはたらいた男が、まちはずれの矢の平でひと休みしながら、盗んだ品々の品定めをしていました。男がふと、顔を上げると、ほこらがありお地蔵さまが立っていました。驚いた男が、「お地蔵さま、許してくだされ。誰にも言わないと約束してくだされ。」と頼むと、お地蔵さまは、「一度だけは見逃してやろう。お前も人にしゃべるなよ」と言い、顔を横にそむけました。  それから何事もないまま3年が経ち、男がほこらへ来てみると、顔をそむけたままのお地蔵さまがいらっしゃる。驚いた男は、ほこらにお参りに来ていた人をつかまえて、「このお地蔵さまはお頼みしたことは必ず聞き入れてくださる。実は、昔のことですが…」と、あの日の出来事を全部喋ってしまいました。  すると、男の話を聞かされていた人の顔色が変わり、「3年前、うちの大事な品々を盗んだのは貴様だったのか!」。図らずも悪行を自らばらした男は、奉行所に突き出されました。お地蔵さまはこうなることを初めからお見通しだったというわけで、以来「横向地蔵」と呼ばれ、人々にますます尊ばれるようになりました。』  プイと顔をそむけた横向地蔵の表情が、「わしゃ、知らんよ。自業自得だな」と言っているよう。どこかユーモアのあるお地蔵さまでありました。   横向地蔵の帰り道、道路脇でイシガケチョウ(石崖蝶または石垣蝶)を見つけました。イシガケチョウは、石崖や石垣のような模様の翅(はね)が名前の由来。緯度と経度を記した地球儀のようにも見えます。また、ウラギンシジミ(裏銀蜆)も道の真ん中で翅を広げていました。ウラギンシジミは、その名のとおり、翅の裏が銀色です。表はオレンジ色とこげ茶色で、鮮やかな色彩が目を引きます。温かい地域に分布するこうしたチョウたちも、今夏は暑すぎたのかあまり見かけませんでした。過ごしやすい季節になったいま、のびのびと飛び回っているようです。

    もっと読む
  • 第530号【残暑の初秋、郷土食で養生】

     猛暑をのりこえて、ほっとひと息。朝夕の涼しい風がとてもうれしいですね。しかし、九州の日中は夏にもどったような暑さがまだ続いています。そんな気候に身体がついていかず、体調をくずしている方も多いことでしょう。そんなときにおすすめなのが「トウガのおつゆ」です。  「トウガ」とは長崎での呼び名で「冬瓜(とうがん)」のこと。地元では8月16日の精進落ちに「トウガのおつゆ」を食べる習わしがあります。トウガは、盛夏の食材のイメージが強いのですが、初秋も旬は続いています。90%以上が水分で、ビタミンCも多めに含まれるトウガは、薬膳では、利尿作用がある食材として知られています。味は淡白で、生のまま食べるとスイカの皮(白い部分)に似た味がします。絞り汁は、発熱時や暑気あたり、食あたりに効果があるといわれています。  「トウガのおつゆ」は、高タンパクで低カロリーの鶏肉や肺の乾燥を潤し空咳やのどの渇きにいいとされるキクラゲも加えて煮ます。素材の旨味をいかしたあっさりとしたスープに、トロリとやわらかく煮えたトウガ。冷めてもおいしいおつゆです。  夏バテなのか、熱がこもったような身体には、ナスを使った料理もおすすめです。身体のほてりやむくみをとり、血圧を下げるなどの薬効があるといわれています。ナスは代表的な夏野菜のひとつですが、収穫時期は梅雨の頃から秋までと、けっこう長く楽しめる野菜です。  長崎には古くから栽培されてきた伝統野菜・地域野菜として、「長崎長ナス」、「枝折れナス」という品種があります。「長崎長ナス」はその名のとおり、細長いナス。「枝折れナス」は、枝が折れるくらい実がたくさんなるところから付けられた名称だそうです。  農業の盛んな長崎県諫早地区を中心とした地域では、「ナスの味噌ころ」が昔ながらの惣菜のひとつ。一口大に切ったナス、タマネギ、厚揚げを油で炒め、野菜がしんなりしたところで麦味噌と砂糖少々を加え、炒め煮したもの。麦味噌の風味が素朴なおふくろの味です。  店頭では、そろそろサトイモも出回るようになりました。サトイモは独特のぬめりに薬効があって、血中のコレストロールを取り除き、胃や腸壁の潰瘍予防にもいいといわれています。ですから、調理の際はぬめりを落としすぎないのがコツです。  サトイモは、秋祭りや中秋の名月(十五夜)など、豊作を感謝する行事の際によく供えられます。中秋の名月が「芋名月」とも呼ばれる由縁です。長崎県島原地方などでは、家の外に醤油がめなどを置いていた時代には、ホクホクに煮付けた初物のサトイモを深皿に盛って、醤油がめの上に置き、名月へのお供えとしていたそうです。自然に感謝する当時の人々の素朴な姿や風景が目に浮かびます。   旬の素材で作る昔ながらの日常的な料理には、季節ごとに変化する身体をいたわる力があるようです。秋の夜長にゆっくり味わいたいものですね。

    もっと読む
  • 第529号【江戸時代の将棋指しのお墓】

     きょうは処暑。暑さがようやく収まって、朝夕の風が少しずつ涼しくなっていく頃です。今年の西日本の夏は、連日30度超えが続き、いつも以上に秋の到来がまちどおしい。食事や睡眠などに気を付けて、のりきりましょう。  子どもたちの夏休みも終わりが近づくなか、観光客で賑わう出島へ足を運びました。出島内の東側にあるシーボルトゆかりの植物が植えられた庭園では、ぶどう棚に果実がたくさん実っていました。その隣に植えられた柿の木にも青い実がたくさん。秋の果実の姿にめぐる季節を感じて何だかホッとしました。  同園内では、甲子園球場の外壁にもあるナツヅタが青い葉を絡ませていました。気温が低くなると紅葉となるナツヅタ。ブドウ科だけあってブドウに似た実もつけます。そばには翼の形をした果実で知られるイロハモミジもありました。これらの植物は、その昔、シーボルトが日本からオランダへ送った約260種にもおよぶ植物のなかから、近年、日本へ里帰りしたもの。大海原を渡ったり、空を飛んだりしながら国を行き来し、世代を超えて生き延びてきたたくましい植物たちでありました。  自由研究なのか、出島ではノートをとっている子どもたちがいました。興味のあることに夢中になっているその姿を見てふと思い出したのが、この夏、将棋の最年少プロ藤井聡太四段(15)の影響で、将棋をはじめるお子さんが増えたという話です。加藤一二三九段を下したデビュー戦をかわきりに公式戦では29連勝の新記録を樹立。中学生にして快挙を成し遂げた藤井四段の姿は、将棋を指す大人だけでなく、子どもたちの心も動かしたようです。  古代インドにさかのぼるといわれる将棋のルーツ。日本への伝来は諸説あり、6世紀頃ともいわれています。江戸時代には囲碁とともに幕府公認となり、将棋指しの家元三家(大橋家、大橋分家、伊藤家)には俸禄が支払われたそうです。将棋が庶民のゲームとして広く各地で親しまれるようになったのもこの時代。そうした歴史のなごりを感じられるお墓が長崎に残されていました。  かつての長崎街道沿いの一角にたつ、江戸時代の将棋の名手、大橋宗銀のお墓(長崎市本河内)です。宗銀は武蔵国出身で、当時の家元のひとつ大橋家の流れをくむと思われる人物です。長崎見物をかねて、将棋を指しにきたのでしょうか。長崎に来た理由も、亡くなった理由も不明ですが、天保10年(1839)、この地で没したことが墓石に刻まれています。   大橋宗銀のお墓の近くには、江戸期の長崎で囲碁を広めたとされる、南京房義圓(なんきんぼうぎえん)のお墓があります。ケヤキの大木のたもとにあり、墓石はお坊さんのお墓に共通する頭部の丸いものです。蓮華座下の台石は碁盤になっていて、その前に設けた花筒は碁笥(ごけ:碁石入れ)をかたどっています。いまもひっそりと花をたむけられている、江戸期の将棋や囲碁の名人のお墓。その技能は愛好家たちの間で脈々と受け継がれているのでしょう。

    もっと読む
  • 第528号【長崎半島先端・野母崎町の浜辺散策】

     きょう8月9日は、72回目の長崎・原爆の日。人類が同じあやまちをくりかえさないことを願いたい。おおきな犠牲をはらって、いまの平和な暮らしがあることをあらためて心に刻みたいと思います。  さて、今回は、夏休み中の子どもたちといっしょに楽しめる浜辺散策がテーマです。波や風の跡を刻みながら表情を変える浜辺は、出かけるたびに新しい発見があります。貝殻や海藻、流木、石ころなどの漂着物には、それぞれのストーリーがあり、海の向こうの国を思ったり、地球のダイナミックな鼓動を感じることもできます。  散策したのは、長崎半島の先端にある長崎市野母崎町の脇岬海水浴場です。東シナ海に面した長さ約2キロにわたる白い砂浜とコバルトブルーの海の色がとても美しい脇岬海水浴場は、環境省の「日本の水浴場88選」にも選定されています。また、この浜辺の端のほうには、県の天然記念物であるビーチロック(棚瀬)があることで知られています。ビーチロックとは、小石や砂が石灰質により固められた岩場のことで、満潮時には水面下にありますが、干潮時に扇型に層をなした自然の造形美が現れます。訪れたときは、潮がひきかけた頃で、ビーチロックは少しだけ顔をのぞかせていました。  風紋を刻んだ砂浜の片隅に目をやると、色とりどりの貝殻が打ち寄せられていました。こうした貝殻の多くは遠くからの漂着物ではなく、近場に生息していた可能性が高いといわれています。見つかる貝の種類で、その浜辺の環境の特色がわかるそうですが、詳しいことを知らなくても、いろいろな姿形をした貝との出会いは楽しいものです。  波打ち際を歩くと、平べったい小石が目立ちます。石は川から流れてくるときは、全体の角がとれて丸くなります。砂浜では、寄せては返す波に水平に動かされるので、すり減って平べったくなるのです。それにしてもいろいろな色合い、質感の石があるものです。長崎半島は古代の地層があらわになったところが各所にあるので、小石を通して地質・地層のことを学べそうです。  近年、長崎半島の地層からは恐竜や翼竜の化石が見つかり話題になりました。恐竜の化石は、半島西側の海岸から沖合に見える軍艦島(端島)や高島にまたがる地域に点在する、中生代白亜紀にできたもっとも古い地層、「三ツ瀬層」から発見されたものです。   半島西側海岸にある田の子地区へ行ってみました。干潮時には地続きになる田の子島があるところで、沖合に軍艦島、高島が見えます。このあたりの海岸は、脇岬より小石が多く、石の表情もより個性的なものが多いよう。ちなみに、田の子地区には2022年をめどに長崎市の恐竜博物館がつくられる予定です。長崎半島は、古生物学者や地質学者はもちろん、恐竜や地層などに興味のある人には目が離せないスポットでありました。

    もっと読む
  • 第527号【長崎南画家、蟹の八百叟】

     暑中お見舞い申し上げます。長崎では先週の梅雨明けに合わせるかのように、サルスベリが開花。フリルのような花びらが夏の青空に映えてとてもきれいです。  今回は、江戸後期に生まれ、明治・大正を生きた八百叟(やおそう)こと伊藤惣右衛門(いとう そうえもん)(1835〜1917)という長崎南画の名手をご紹介します。八百叟とは雅号で、ほかにも、玉椿軒(ぎょくちんけん)、蔬香(そこう)とも称しました。とくに蟹の画を得意としたことから、「蟹の八百叟」と呼ばれ、そのユニークな人柄とともにいくつかのエピソードが語り継がれています。  八百叟の家は立山の長崎奉行所にほど近い今博多町にありました。代々、野菜や乾物などをあつかう商家で、長崎奉行所の御用も務めました。八百叟は五代目として家業を継ぎ、そのかたわらで趣味人として南画を描いたようです。  ところで、長崎南画は、江戸時代に中国から伝わったもので、長崎三筆と称される南画家、鉄翁祖門(1791〜1871)、木下逸雲(1799〜1866)、三浦悟門(1808〜1860)によって大成されました。その画法を学ぼうと、長崎には各地から人々が集い、また長崎から全国へ広まりました。長崎南画がもっとも盛んな時代に生まれた八百叟は、鉄翁祖門や木下逸雲に学び、南画を描く中国人とも交流があったと伝えられています。  なぜ、八百叟は蟹画を得意としたのか。はっきりした理由はわかっていませんが、とにかく幼い頃から蟹をよく描いていたそうです。すでに南画の大家であった鉄翁祖門には、蟹をよく観察して描くようアドバイスを受けたこともあったとか。また、八百叟と鉄翁との間には次のようなエピソードも伝えられています。当時、春徳寺の住職だった鉄翁。八百叟がそこへ出向くのは、いつもお昼近くで、たいがい蕎麦を持参しました。蕎麦は鉄翁の好物。気を良くした鉄翁は、毎回お礼に自分の作品を八百叟に与えたそうです。商人でもあった八百叟のちゃっかりとした面がうかがえます。  もうひとりの師・木下逸雲とは、生死を分けるエピソードが残されています。中島川をはさんだ隣町の八幡町に住んでいた逸雲とは、親しい交流があったようで、慶応2年(1866)、逸雲が江戸に旅した時に八百叟も同行しています。しかし、帰路の船で逸雲は遭難。八百叟はたまたま船に乗り遅れ難を逃れました。また、明治5年(1872)、長崎への明治天皇行幸の際、八百叟は、天皇が使用した白木の箸や食べ残しのご飯の下賜を願い、保管しました。大胆にそのようなことを願い出るところがユニークです。そのときの箸とご飯が、現在も長崎市立桜町小学校の地域・学校交流センター内に展示されていることは、あまり知られていません。  かつて八百叟の家の隣で海産物商を営んでいたというお宅のご子孫が大切に所蔵している八百叟60歳のときの蟹画を見せていただきました。11匹の蟹がイキイキと楽しそうに描かれています。また、八百叟の描いた蟹画は、桜馬場天満宮の天井絵にも残されています。   サワガニにしても、ワタリガニにしても、甲羅からかわいく突き出た目、1対のハサミ、そして4対の脚で横歩きするその姿は、子ども心をくすぐります。八百叟は、そんな童心を生涯持ち続けたのかもしれません。大正6年(1917)84才で亡くなった八百叟。ちょうど没100年にあたります。大音寺後山(長崎市鍛冶屋町)にある墓碑には、雅号を連ね「玉椿軒八百叟蔬香之墓」と刻まれていました。

    もっと読む
  • 第526号【乗り越えていく】

     九州北部地方での記録的豪雨による被害に合われた方々に、心よりお見舞い申し上げます。引き続き大雨や土砂災害の情報に注意して過ごされ、どんなときも身の安全に努めてください。そして、1日も早く安定した状況になることをお祈り申し上げます。  歴史を振り返れば、異常気象や地震などの自然災害で、わたしたちの生活は幾度も窮地に追い込まれました。自然の脅威には逆らえないことを思い知らされる一方で、人々は自然発生的に炊き出しや救護を行い、助け合いながら切り抜けてきました。全国各地にはそうしたエピソードがいくつも語り継がれ、ゆかりの品々などが大切に残されていることもあります。  長崎市鍛冶屋町にある唐寺・崇福寺の大釜(市指定重要文化財)もそのひとつです。大釜の重さは約1,200キログラム、直径1.86メートル、深さ1.7メートル。一見、五右衛門風呂のようでもあるこの大釜は江戸時代のもの。石畳の境内の一角に設置されていて、いつでもその姿を拝むことができます。  この大釜が造られたのは、延宝年間(1673-1681)に各地で不作が続き飢饉が発生したことがきっかけです。その流れで長崎では1681年(延宝9)に大飢饉が起き、餓死者が出ました。当時の崇福寺の住職は自分の衣類や道具を売ったり、托鉢をして浄財を得、庶民に粥を施したと伝えられています。そして、増える難民に応じるためだったのでしょう、翌年、同町内の鋳物師に、一度に十俵(約三千人分)の粥を炊くことができる大釜を造らせたのでした。  大釜は、その大容量で多くの難民を救ったと伝えられています。実際に目の当たりにすると、釜戸に乗せたり、米と水を入れたり、粥をついだりする作業はかなりたいへんだったろうと想像できます。まさに人々が協力し合っての施粥だったに違いありません。  近年、相次ぐ自然災害の折、被災地で人々が助け合い、協力し合う姿を報道などでよく見聞きします。人はきっと、危機にさらされた状況を見たとき、本能的に手をつなぐようにできているのかもしれません。そして、今回の豪雨の被災地に対しても、自分にも何かできることはないかと思う方も大勢いらっしゃることでしょう。  災被災された方々が元気をとりもどすことを願って、本当にささやかですが、長崎から「ハート」のある風景をお届けします。まずは、眼鏡橋のそばにあるハートストーン。ここは観光客の姿が絶えない場所。愛する気持ちをたくさん浴びたストーンですから、きっと縁起がいいはず。そして、ハト胸ならぬ、ハート胸のネコ。数年前、浦上天主堂の敷地内でひょっこり出会ったネコです。胸の毛並みを見るたびに、気持ちがゆるみます。   梅雨空の下、長崎港に出ると先月下旬に初入港した「ノルウェージャン・ジョイ」(167,725t)という大型客船が再び寄港していました。建造されて間もない船で、白い船体に描かれたイラストが目を引きます。長崎港にはこの夏も多くの客船が入港を予定しています。多くの人が笑顔で往来する平穏な風景のありがたさを感じるほどに、被災地への思いは募ります。被災された方々がこの窮地を乗り越え元気をとりもどすことを心から祈ります。

    もっと読む
  • 第525号【職人町だった界隈(魚の町)】

     前号でご紹介したウラナミジャノメと思われるチョウ。後になって、絶滅のおそれがある希少な動植物をまとめた長崎県のレッドデータブックに掲載されていたことがわかりました。それを機に、これまで以上にチョウの存在が気になるように。6月下旬、花期も終盤となったシロツメクサのまわりを飛んでいたのは、お馴染みのモンシロチョウと、オレンジ色系の翅を持つツマグロヒョウモン。翅の先端に黒、白、グレーのきれいな模様を持っていたので、これはメス。オスにこの模様はありません。ツマグロヒョウモンは、もともとは南方系のチョウでしたが、近年は温暖化の影響で近畿地方でもよく見られるとか。小さな昆虫たちの世界からダイナミックな気象の変化が垣間見えます。  長崎市中心部は、オフィスビルが建ち並ぶバス通りからせまい路地に入ると、古い側溝や石垣などがそこかしこに残り、季節まかせの草花がのんびりと咲いています。チョウたちは、そんなところにふわりと姿をあらわすのですが、長崎市桜町にある長崎市役所別館の裏手もそうした界隈のひとつです。まちの真ん中にありながら、静かな路地裏の風情が漂うそのエリアは魚の町(うおのまち)。一角ではいま、長崎市公会堂の解体工事が進められていて、跡地には長崎市役所本庁舎が建てられることになっています。  まちの表情が大きく変わろうとするなか、このあたりの江戸時代をふりかえってみると、今紺屋町、中紺屋町、本大工町というまちが隣接。町名からわかるように、それぞれ紺屋(染物屋)、大工職人が集まる職人町でした。  紺屋は大量の水を使う仕事なので、中島川沿いに発展しました。実は今紺屋町、中紺屋町より先に、慶長2年(1597)につくられた最初の紺屋町が少し下流にあって、それが本紺屋町。南蛮貿易で栄え、長崎の人口がどんどん増えるなか、紺屋は大繁盛。職人も増えて10年もしないうちに、今紺屋町ができ、間もなく中紺屋町も生まれたのでした。同じ頃、中紺屋町の隣には、桶職人らが集まった桶屋町もありました。  かつて大工職人が居住した本大工町。現在、長崎市内で、「大工」が付く町名は、新大工町と出来大工町の2つがありますが、そのルーツが、この本大工町です。長崎開港後、まちの発展に伴うもろもろの建設に大工職人は不可欠。次第に職人も増え、本大工町だけでは収まりきれなくなりました。慶長11年(1606)、近隣に新大工町ができ、その後さらに、新大工町は2分され一方は出来大工町と称しました。いずれもその当時とほぼ変わらぬ場所で、現在に至っています。   南蛮貿易の時代から江戸時代にかけて商人のまちとして発展した長崎。そこには貿易に携わる者だけでなく、まちを形造り、生活に欠かせない物をつくるさまざまな職人たちの存在もありました。史料には残されていないそうした職人たちの姿を想像すると、また違った長崎の歴史の表情が見えてくるようです。

    もっと読む
  • 第524号【6月長崎ネイチャー歳時記】

     6月1日、長崎くんちの始まりを告げる「小屋入り」が行われました。「小屋入り」とは、その年の踊町(おどりちょう)の世話役や出演者たちが揃って諏訪神社と八坂神社で清祓いを受け、くんちの無事達成を祈願するもの。この日から、それぞれの踊町は演し物の稽古に入るといわれています。今年の踊町は、馬町(本踊り)、東濵町(竜宮船)、八坂町(川船)、銅座町(南蛮船)築町(御座船・本踊り)の五カ町。小屋入りの様子を見ようと、早朝、諏訪神社を訪れると、参道脇ではザクロの花が咲きはじめていました。この花の果実が熟れる秋、長崎くんちは本番を迎えます。  長崎を含む九州北部地方が梅雨入りしたのは6月5日。その数日後の6月9日は満月でした。この日の満月は今年のうちで地球からの距離がもっとも遠いため、最小に見えるといわれていました。さらに月見好きの人たちの間では、「ストロベリームーン」が見られるとあって、ちょっとした話題に。「ストロベリームーン」とは、夏至の時期の満月が、地平線、水平線近くでいつもより赤みを帯びて見える現象のこと。しかし、天体の専門家たちは、この日の満月だけが特別に赤く見えるわけでないといっているとか。この日、住宅街からはさすがに地平線・水平線近くの満月はのぞめませんでしが、深夜、南の空を見上げると、満月はいつもよりかわいいサイズで、心なしかピンク色を帯びて見えたのでした。  この時期、身近な自然に目を向けると、雨と日差しをたっぷり浴びるからか、野の花はどれも元気いっぱい。そこへ、ひらひら、ちらちらと姿をあらわすのがチョウたちです。いまは、モンシロチョウより小ぶりで色彩豊かなシジミチョウ科の仲間をよく見かけます。濃いオレンジ色に黒褐色の斑紋が美しいベニシジミは特長的なので分かりやすいですが、青紫色のシジミチョウは、ヤマトシジミ、ルリシジミ、シルビアシジミなど似たような色あいと模様で判別がむずかしい。道脇の葉っぱに翅(はね)を開いてとまっていたのは、たぶん、ルリシジミ。それにしても青紫色のきれいなことといったらありません。  翅(はね)に魅力的な目玉模様を持つジャノメチョウ科の仲間たちも、小さくて目立たないけれど美しい姿をしています。目玉模様の数や茶褐色の濃淡などで種類が違ってきます。写真におさめたのは、後翅に3つの目玉模様がついているところからウラナミジャノメと思われます。けして珍しい種類ではありませんが、日本全国どこでも見られるジャノメチョウと比べ、生息地は限られてくるそうです。   かわいくて美しいチョウ。子どもの頃は平気でつかまえていたけれど、大人になってからは、触ることができなくなったという人もいるようです。チョウを追いかけていると、つかの間ですが童心に帰ることができますよ。ひらひらと目の前を横切るチョウがいたら、あとを追ってみませんか。案外めずらしいタイプのチョウかもしれません。

    もっと読む
  • 第523号【明治・大正の面影残る長崎公園】

     今年も「ながさき紫陽花まつり」(5/20〜6/11)がはじまりました。出島やグラバー園、眼鏡橋、シーボルト記念館などで、咲きはじめの初々しい紫陽花が市民や観光客をお出迎え。紫陽花の花色は「七変化」の異名のとおり、日毎に表情を変えながら人々の目を楽しませています。  雨の季節がはじまる前に、新緑を楽しもうと長崎公園(長崎市上西山町)へ行ってきました。長崎の市街地を見渡す丘稜地にあり、諏訪神社に隣接する長崎公園は、明治6(1873)年に太政官布告により制定された長崎でもっとも古い公園です。  そんな由緒ある公園だからか、園内には明治・大正時代のものが点在。そのひとつが、池に設置された装飾噴水です。これは、明治11年(1878)頃に造られた日本最古の装飾噴水だそう。ふだんは高く吹き出る水にばかり目が行きますが、噴水のデザインをよくよく見ると、モダンで美しい。ハイカラ好みの明治の名残でしょうか。また、池のそばで営業している月見茶屋は、明治18(1885)年創業。名物のぼた餅は、甘さ控えめの変わらぬおいしさでありました。  長崎公園は、長崎の歴史を物語る数々の顕彰碑や文学碑があることでも知られています。そのなかのひとつ「郷土先賢紀碑」は、いまから100年前の大正5年(1916)に建立されたもの。碑には海外貿易、医学、国文学、儒学、砲術、活版術、写真術、慈善などさまざまな分野で功績を残した日本人79人、外国人22人、合計101人の名が刻まれています。  漢字の古い書体のひとつである篆書体(てんしょたい)で刻まれた碑の題字「郷土先賢紀碑」は、徳川宗家16代目の徳川家達(1863〜1940)の書。家達は明治維新後、公爵を授けられ貴族院議長を勤めました。また、外国人の名はカタカナと合わせて洋字(ローマ字)でも刻まれているのですが、洋字は、長崎学の礎を築いた古賀十二郎(1879〜1954)によるものです。  「郷土先賢紀碑」を建立したのは、「長崎市小学校職員会」。郷土の先賢を後世に伝え、将来を担う子供たちの励ましにするのが目的だったよう。それにしても、なぜ、家達が題字を書くことになったのか。碑の近くには徳川家ゆかりの東照宮(安禅寺跡)があるのですが、何か関係があるのでしょうか。ちなみに、洋字を書いた古賀十二郎の記念碑は、公園そばの長崎県立図書館前に設けられています。  「郷土先賢紀碑」のある広場の片隅で、アメリカ合衆国大統領ゆかりのアコウの木が葉を生い茂らせていました。明治12年(1879)6月、第12代アメリカ合衆国大統領の任期(1869〜1877)を終えたグラント将軍が、軍艦で世界旅行の途中、長崎に寄港。5日間ほど滞在し、長崎公園で開催されていた長崎博覧会を視察するなどしました。アコウの木はその際にグランド将軍夫妻が記念に植樹したものです。日本側は夫妻を国賓待遇で迎え、迎陽亭で歓迎会を催しています。   歴史家たちは、グラント将軍を軍人としては高く評価していますが、大統領としては残念ながら真逆で、スキャンダルや汚職により、最悪の大統領のひとりともいわれているそうです。時はめぐり、いまは第45代アメリカ合衆国大統領ドナルド・トランプ氏の時代。はてさて、後世の人々はどんな評価をするのでしょう。

    もっと読む
  • 第522号【長崎の庭から】

     鮮やかな赤い実に、甘い果汁がぎゅっとつまったサクランボ。産地として知られる山形県では、収穫の時期は6月に入ってからでしょうか。ひと足はやく初夏を迎えた長崎の家々では、ゴールンデンウィーク中に庭木として植えられたサクランボが摘み頃を迎えました。天候にめぐまれたのか、いつもより実がたくさんなっているように見えます。サクランボの季節が終わったら、梅雨前にウメやビワが収穫の時期を迎えます。いずれも、すでに青い実がたわわ。どうやら、今年の長崎の庭の果実は表年(豊作年)のようです。  「庭」といえば、ゴールデンウィークに、新緑を満喫できる庭園などへお出かけになられた方も多いのではないでしょうか。長崎駅から車で約7分。長崎市中心部にある「心田庵」(市指定史跡)も、そうしたスポットのひとつです。バス通りをそれた住宅街の一角にあり、かやぶき屋根の家屋と新緑におおわれた日本庭園を楽しむことができます。  心田庵の庭園には、ヤマモミジやツツジなど樹木約300本が植えられています。新緑(4月下旬〜5月初旬)と紅葉の季節(11月中旬〜12月中旬)の年に2回一般公開されていて、昨年の紅葉の季節にも、このブログでご紹介しました。  心田庵は、何 兆晋(が ちょうしん)という江戸期の唐小通事(とうこつうじ)が建てた別荘です。家屋には茶室が設けられています。庭園に面した和室のテーブルには、新緑にかがやくカエデが、逆さに映り込んでとてもきれい。しっとりとした風情の晩秋とはまた違った趣で、訪れる人々を魅了していました。  兆晋の父・高材(こうざい)は、もともと中国の商人で寛永の頃、長崎に移り住み商売をした人物です。お寺や石橋建設の際に寄進をして長崎のまちづくりに大いに貢献しました。裕福な家に生まれ育った兆晋は、風流を楽しむ心やさしき人物だったと伝えられ、心田庵の名称も、人は地位や名誉・財産などより、心の田畑を耕すことが大切だという意味から付けられたとか。また、心田庵は、長崎の茶道文化にも影響を与えたといわれていて、庭園の景色を楽しみながら、茶をたて、友と語らったのだということが想像できます。士農工商の時代にありながら、兆晋は身分を超えた人との交流をもったようで、そのことがうかがえる史料も残されています。  心田庵で新緑を堪能した帰り道、ひとさまの庭先からバニラのような香りが漂ってきました。オガタマノキの花の香りです。花期も、後半に入っているよう。そばの石垣では、アオスジアゲハの姿を確認。名前のとおり羽に青緑色の線が入ったこの蝶は、毎年5月頃から見かけるようになります。   日に日に様子が変わっていく植物や昆虫。そんな小さきものが棲む家々の庭は、地球サイズでめぐる季節を何気に映し出し、日々にうるおいを与えてくれるのでした。

    もっと読む
  • 第521号【初夏の陽気に包まれた長崎】

     桜前線がようやく北海道に上陸。一方、長崎はすっかり初夏の装いで、山々は新緑に覆われています。ゴールデンウィークに先駆けて、港では「長崎帆船まつり」が行われ、大勢の人出で賑わいました。青空の下、停泊する帆船の姿はとても優雅。外国からの観光客を乗せた大型客船も連日入港して、港はいつも以上に華やかに。長崎のまちは、一足はやく大型連休に突入したかのような開放感に包まれています。  長崎港は帆船がよく似合います。江戸時代にこの港にやってきた唐船やオランダ船はもちろん帆船でした。そんなことを思いながら足元を見たら、シロツメ草がかわいい花を咲かせていました。シロツメ草はヨーロッパ原産の植物。その昔、人知れずオランダ船に乗り込み大海原を渡って日本へやってきました。  というのも、シロツメ草は、交易品であった医療器具やガラス製品などのワレモノの間に詰められた干し草のひとつだったそうです。その種子がいつしか日本で花を咲かせるようになったといいます。どこかレンゲ草(ゲンゲ)にも似たシロツメ草が、「オランダゲンゲ」とも呼ばれるのは、そんなエピソードがあるからなのですね。  長崎港から中島川沿いを上流に向かって歩いていると、久しく見かけなかったマガモのつがいを発見。さらに新顔のコサギもいます。中島川の生き物たちも、春から新旧入れ替わったようです。  桃渓橋から川沿いを外れ、諏訪神社(長崎市上西山町)へ。参拝者を見守る大クスは、新緑をさやさやと揺らし、長坂(大門前の参道の階段)では、鯉のぼりが気持ちよさげに宙を泳いでいました。諏訪神社の端午の節句にまつわる行事といえば、5月5日「こどもの日」に行われる、「長坂のぼり大会」です。大人もきつい長坂を、子どもたちが一番札をめざして一斉にかけのぼります。その姿はとても微笑ましく、小さな感動も味わえます。  諏訪神社からほど近い長崎歴史文化博物館の広場へ行くと、長崎式だという鯉のぼりが設けられていました。それは、支柱から斜めにかけられた笹の旗竿に鯉のぼりを下げた形で、風向きに合わせて旗竿が自在に動いて鯉がなびくだけでなく、風がなくても鯉がきれいに見えるのだそうです。  ところで、端午の節句の行事食といえば、全国的に柏餅やちまきなどが知られていますが、長崎の場合は、「唐あくちまき」が郷土の味として食べ継がれています。唐あくで風味をつけたもち米を、棒状の木綿の袋に入れ、飴色に煮炊きあげたものです。糸を使って好みの大きさに切り、きなこや砂糖などをまぶしていただきます。唐あくは独特の風味があり、好き嫌いがあるかもしれませんが、クセになるおいしさです。子どもの頃から食べている人にとっては、ちまきといえば、これ。この時期は、地元の和菓子屋さんなどで手に入ります。   いよいよはじまるゴールデンウィーク。たっぷり休める方も、そうでない方も、何かひとつ、この季節ならではの楽しい体験、おいしい味に出会えますように。

    もっと読む

検索