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  • 第484号【長崎の家紋】

     秋の大祭「長崎くんち」が先週7、8、9日に行われました。長崎の中心市街地は、今年も奉納踊りや庭先回り(家々や事業所、官公庁などを回り、玄関先や出入り口などで演し物を呈上すること)で大にぎわい。心躍らすシャギリの音とともに、まちを練り歩く演し物の後を追っていたとき、ふと鼻先をかすめたのがキンモクセイの香りでした。いつもならくんちの後なのに、今年はちょっと早いかな。長崎県内各地のコスモスの名所はすでに満開。山々ではじきに紅葉もはじまります。遠出しても、しなくても、この季節ならではの澄んだ空気とさやかに見える月や星はいつもそばにあります。美しい日本の秋を楽しみたいものです。  日本の美といえば、「家紋」もそのひとつかもしれません。月や星、草花、生活の道具などをモチーフにした図柄は簡素化され、どの時代にも受け入れられる普遍性が感じられます。日本人の感性を映し出した大切な文化ともいえる家紋の歴史は約千年。現在その数は1万とも、2万ともいわれています。現代の生活のなかで家紋が用いられるシーンは少なくなりましたが、着物(背縫いの中央、両胸元、両外袖)に付けられているのは、いまでもよく見かけますよね。  長崎くんちでは、庭先回りで訪れる家々や事業所などの出入り口に、家紋と家名を染め抜いた幔幕(まんまく)が張られます。青や紺地に白抜きの家紋は、そのシンプルなデザインの力もあって、とても目を引きます。くんち見物でまちを歩いていると、たまにどこからか、「あ、うちと同じ家紋だ!」という声が聞こえたりもします。また、よく見かける紋でも、その名称は案外知らないものです。くんちの幔幕から、いくつかご紹介します。  長崎に生まれ育った知人の家は、「丸に隅立て四つ目(まるにすみたてよつめ)」。由来を尋ねると、「母親から、清和天皇ゆかりの紋だと聞かされてきたけど、よく分からん」とのこと。種類的には「目結紋(めゆいもん)」といわれる紋のひとつで、布を染める時、布の一部をくくってできる文様からきたもの。かつては武将たちに多く用いられた紋だそうです。  長崎でよく見かける紋のひとつが「橘紋(たちばな)」。ミカン科の常緑小高木である橘をモチーフにしています。聖武天皇より賜ったものといわれ、橘氏ゆかりの古い紋だそうです。葉と果実を組み合わせたデザインは、どこか愛らしさがあります。橘氏の系譜を持たない武家などでも用いられました。  九州の戦国大名・大友氏が愛用したという杏葉紋(ぎょうようもん)。杏葉とは馬に使う装飾用具のこと。大友氏は功労のあった家臣らに、この紋を与えたとか。その後、大友氏を倒した龍造寺隆信へ、さらに龍造寺家を倒した鍋島家に伝えられました。北九州地方の武士たちが憧れた名紋です。  江戸時代には武家を中心に用いられた家紋ですが、町人たちも使用を認められていて、多くの新しいデザインが生まれました。とくに商家は屋号として用い、のれんや半てん、てぬぐいなどにしるしました。庶民が広く家紋を用いるようになったのは、明治時代に入ってからだそうです。  家紋のルーツを辿れば、たいてい由緒あるものばかりで、いずれも吉祥や家訓に通じるものなど、家の繁栄を願う気持ちが込められています。さまざまなご縁を結びながらいろいろな時代をくぐりぬけてきた家紋。その由来や意義をひもとけば、あなたのルーツが垣間見えるかもしれません。   ◎  参考:『正しい紋帖面』(古沢恒敏)、『〜面白いほどよくわかる〜家紋のすべて』(安達史人 監修)、『イラスト図解 家紋』(高澤等 監修)

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  • 第483号【ヘルシーなイカを食べよう】

     ほんの少し前、「日本人はイカをいっぱい食べている」と言われた時代があったのをご存知でしょうか。昭和55年(1980)の日本のイカの漁獲量は68万トン。世界のイカの漁獲量の約半分を占め、国別ではダントツ一位でした(FAO漁獲統計)。その後、資源の減少や漁業の衰退にともないトップの座は他国にゆずりましたが、いまも日本国内における鮮魚の1人あたりの購入数量は、昭和40年(1965)がアジに次いで2位、昭和58年(1983)が1位、そして平成21年はサケに次いで2位(総務省「家計調査」、平成21年は水産庁作成データより) と、つねに上位にランクイン。やっぱり、日本人はイカをよく食べているようです。  三角のヒレをつけた長い筒状の胴体、そして10本の腕。本当は宇宙人?と思ってしまうような摩訶不思議な容姿をしたイカ。うんと昔、それをはじめて口にした人間は、ナマコ同様にちょっと勇気が必要ではなかったかと想像します。刺身のほか焼く、煮る、乾物、塩漬けなど、いろんな調理法がありますが、なかでも保存食でもある「イカの塩辛」は、料理名や漬ける時の材料に若干の違いはあるものの、北は北海道から南は九州・沖縄まで全国各地で作られてきました。  ところで、「イカの塩辛」には色合いが、白っぽいものと赤っぽいものがありますが、塩や米麹だけで漬け込むと白に、さらに内臓(肝臓)を加えると赤くなるようです。また、少数派ではありますが、黒いタイプもあります。イカ墨を加えたもので長崎県では「黒身あえ」といって、五島列島の北に位置する小値賀島をはじめ平戸島、そして大島といった島々で食べ継がれてきました。富山県にも「イカの黒作り」と呼ばれる同じような郷土料理があります。  この時期手に入りやすい「ヤリイカ」で「黒身あえ」を作ってみました。胴に包丁を入れ、なかの墨袋を破らないように取り出し、さっとゆでます。イカ墨をボウルにとり、少量の味噌、砂糖を丁寧にまぜるとつやが出てきます。これを短冊に切った身に加えてあえれば出来上がりです。  「黒身あえ」はヤリイカより肉厚で旨味のあるミズイカ(アオリイカ)だと、よりおいしいと思います。ミズイカは、これから冬場にかけてがシーズンです。さて、「黒身あえ」は、見た目が真っ黒なので抵抗がある方がいるかもしれませんが、イカ墨自体がもつ塩味と旨味は酒の肴に喜ばれそうな珍味です。未体験の方は一度お試しください。  「イカの塩辛」は発酵食品のなかでも酵母菌が豊富で、美肌効果が高いといわれています。また、イカは低脂肪、低カロリーで知られ、コレステロールを減らす働きをするタウリンを多く含みます。薬膳では、養血を補い心臓、肝臓を滋養するとされ、とてもヘルシーな食材として利用されます。  この秋もたくさん食べたいイカは、ちゃんぽんの大切な具材のひとつでもあります。とくに下足(げそ)部分は、いい出汁がとれ欠かせない存在です。塩辛もいいけれど、まずは、今夜あたりちゃんぽんで、イカを味わってみませんか。    ◎  参考:全国いか加工業協同組合ホームページ「日本人とイカ」、『ふるさとの家庭料理第17巻〜魚の漬込み 干もの 佃煮 塩辛〜』(農文協)、『聞き書長崎の食事〜日本の食生活全集42〜』(農文協)

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  • 第482号【秋めく長崎市街地の花々】

     驚くような早さで秋めいています。寝冷えして風邪などひいていませんか?長崎のまちを歩けば、夏の間、目をうるおしてくれた「ノウゼンカズラ」や「サルスベリ」の花々がそろそろ終盤を迎え、花びらをちらしています。朝晩の涼風に誘われたのか、市街地の高台に位置する立山地区では「ヒガンバナ」が咲いていました。いつもより1〜2週間ほど早い気がします。  学名は「Lycoris(リコリス)」。秋のお彼岸の頃に咲くことからヒガンバナと呼ばれるようになりました。異名が多く、「曼珠沙華(まんじゅしゃげ、まんじゅしゃか)」とも呼ばれるのは、この花がサンスクリット語で「manjusaka」と書くことに由来。また「幽霊花」などとも呼ばれ、ちょっと不吉なものを連想させるイメージもありますが、サンスクリット語では、「おめでたいことが起こる兆しの天上の赤い花」という意味があるそうです。  住宅街を彩るさまざまな庭木に目を向けると、実をつけたものをたくさん見かけるようになるのもこの時期ならでは。初夏、鮮やかなオレンジ色の花を咲かせていた「ザクロ」もそのひとつ。たわわに実って細い枝をしならせていました。「ザクロ」は種子が多いので子宝に恵まれるとか、豊かな実りをもたらすといった縁起のいい木とされ、長崎くんちではお供え物にしたり、「ザクロなます」というくんち料理として食べ継がれています。  庭木の実で「ザクロ」とともに目立つのが「ツバキ」です。ピンポン玉くらいの大きさの実のなかに茶色の硬い種子が入っています。種子から絞り出されるツバキ油は古くから食用にされ、髪や素肌を健やかに保つ油としても利用されてきました。長崎県内では、五島列島や島原半島などが良質のツバキ油を生産することで知られ、近年その良さがあらためて見直されているようです。  中島川にかかる眼鏡橋あたりで、ときおり観光客の足を止めていた花があります。「タデ」です。背丈のある茎の先に、穂状に垂れ下がった鮮やかなピンクの花が目をひきます。夏場から咲きはじめるタデの花期は意外に長く、もうしばらくは愛でることができそうです。  眼鏡橋の上流にかかる桃渓橋のたもとあたりでは、「ヤブラン」が紫色の花を咲かせていました。ヤブに咲くランに似た花、というのが名前の由来だとか。穂先に密集する小さな花を虫眼鏡で見ると、確かに似てなくもありません。花期は夏から秋にかけて。ヤブランは昔から根茎に薬効があるとされ、乾燥させたものは漢方薬として、滋養のほか咳止めや利尿薬などとして用いるのだそうです。日陰でもよく育つらしく、桃渓橋の「ヤブラン」もほかの植物の影のなかで旺盛に育っていました。 鉢植えでよく見かける花に「マリーゴールド」があります。春から秋にかけて次々に花を咲かせ、ガーデニング初心者にも育てやすいといわれています。メンキシコ原産のこの花が、西洋に伝わったのは大航海時代のこと。その後、日本へはオランダ船が運んだともいわれていて、江戸時代初めに編まれた園芸事典に、「紅黄草」の名で記されているそうです。植物たちもいまに至るまでにいろいろな旅路を経験しているのですね。  ◎参考にした本・「四季を楽しむ花図鑑500種」(新星出版社)

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  • 第481号【かんざらしとともに夏を振り返る】

     残暑お見舞い申し上げます。子どもたちの夏休みもあと数日でおわり。朝晩は風や日差しに次の季節の気配が感じられるようになりました。それでも日中はまだまだ厳しい暑さ。この夏を振り返りながら、冷たい甘味でひと息入れましょう。  8月15日の長崎の精霊流しは、14万1000人の人出。3300隻の精霊船が見送られました(長崎県警発表)。精霊船は1人で抱えられる小さなものから、数十人で曳いていく大船までいろいろ。江戸時代の船はワラ・竹製。1メートル前後から1メートル50センチほどの大きさで、1人〜数人で担いだそうです。「チャコン、チャコン」という鉦の音と、「ドーイドーイ」という男たちの低い掛け声とともに進むのは昔と変わらないようですが、現代の精霊流しは、耳をつんざくような爆竹の音が特徴のひとつかもしれません。故人を見送る哀しみを昇華させるかのように、あちらこちらで鳴り響くのでした。  精霊流しの翌々日、清水寺(長崎市鍛冶屋町)の「千日大祭」(毎年8月17・18日)へ出かけました。この日にお詣りすると、千日間お詣りしたのと同様の功徳があるとか。観音さまを祀っているお寺の大切な行事のひとつで、清水寺でも江戸時代から続いています。毎年お詣りをしているという知人は、ご接待で出される「人形いも」がお目当てのひとつ。それは、細長いサツマイモを蒸したもので、とても甘くて美味しいのだとか。でも、今年の「人形いも」は早くに出てしまい、そうめんのご接待を受けることに。そうめんも「人形いも」と同じく「細く長く元気で」という意味があるそうです。「観音さまのご利益を体に入れる気持ちで食べるといいのよ」と教えていただきました。  さて、この夏を振り返りながらいただいたのは、「白玉」。全国的にあると思われる昔ながらのおやつですが、島原地方では「かん(寒)ざらし」呼ばれる名物デザート。この地方の湧水を使った白玉団子とシロップは格別なのです。「かんざらし」の呼び名は、白玉粉の異名でもあり、原料のもち米を寒い季節に何度も水にさらし、すりつぶして作るところに由来しています。  白玉粉は、もち米を保存するために考え出された保存食です。いつ頃から食べるようになったのかは分かりませんが、夏場のお江戸では、「冷水売り」という商売があり、水桶に白玉を浮かべ砂糖をかけて売っていたそうです。  見た目も愛らしい白玉は、おうちで簡単に作れる和菓子です。白玉粉に水を加えて耳たぶのかたさにこね、小さな団子にしたものを茹でるだけ。お湯に入れてしばらくすると真っ白だった団子がややベージュを帯び、つやつやとした表情で鍋底から浮かびあがってきます。ここで2〜3分待ってからすくい、冷水に放ちます。あとは、好みの甘さのシロップをかけたり、きなこ、粒あんなどを添えていただくだけ。   楽しく作れて、しかもおいしい「白玉」。子どもはもちろん、大人にとっても夏の小さな思い出になります。

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  • 第480号【石ころから見える地球の営み(長崎市三和町)】

     小学生の頃、あなたの宝ものは何でしたか?友達のひとりに、学習雑誌「科学」の付録で手に入れた「石の標本」が宝ものだったという人がいました。プラスチックの小さな標本箱に並んだ十数個の石は、いずれも小指の先ほどの大きさ。黒光りした石炭をはじめ、コハクやピンクのきれいな色合いのものから灰色でザラザラしたもの、キラキラした粒子を含んだものなど個性的なものばかり。何度も眺めてはこうした石を産み育てた地球の不思議にドキドキワクワクしたそうです。  いろいろな姿形をした石に、興味や関心を抱いたことがある人は多いのではないでしょうか。なかには、偶然見つけたきれいな石ころが、水晶(セキエイ)だと分かって胸を躍らせたことがあるという人もいらっしゃるのでは?石は身近すぎて目立たない存在ですが、石が生まれるそもそものきっかけは、火山の噴火だとか、プレートの沈み込みにともなう圧力といった地球のダイナミックな営みによるものです。そこで今回は、気になる石や岩がある長崎市の三和地区(為石町、川原町、宮崎町など)へ行ってきました。  長崎港を付け根に、南西にのびる長崎半島。そのほぼ中央に位置するのが三和地区です。長崎駅からバスで約30分のところにあり、まちの東側の海岸は橘湾、西側は五島灘に面しています。前号でも少し触れましたが、長崎半島の西側の海岸は複数の恐竜の化石が見つかったことで知られています。ちなみに恐竜たちが生きたのは約2億5100万年前に始まる中生代といわれる時代。まだ日本が大陸と陸続きだった遥か遠い時代です。  今回は恐竜の化石が発見された方ではなく、東側の海岸へ向かいました。三和地区に入ると、道路に沿って流れる大川の川底には、緑色がかった石が目立ちます。岩石・鉱物の図鑑で調べると、緑泥石(りょくでいせき)という石に似ています。長崎半島は、「野母変成岩」と総称される結晶片岩類(けっしょうへんがんるい:地下の深いところで熱や圧力を受けた岩石)、蛇紋岩類(じゃもんがんるい:地球深部のマントルをつくる、かんらん岩が変質した岩)、変成はんれい岩(地球の深部で固まった岩石が変成したもの)という岩が広く分布しているそうですが、このような地質は、恐竜の時代よりもさらに古い約5億7000万年前の先カンブリア時代につながるものだそうです。  想像できないくらい大昔の地層の上を何気に車で走り、為石町と川原町の境にある年崎海岸沿い出ると、波風にさらされた「れき質片岩」がありました。全国的にもめずらしい岩だそうで、学術的にも重要なのだとか。さらにその先には、「蛇紋岩の円礫浜(えんれきはま)」というこれもめずらしい海岸が続きます。蛇紋岩は長崎県内では長崎半島と西彼杵半島以外では見ることができない岩。浜には、こぶし大の丸みのある蛇紋岩の礫が無数に広がっています。地元の女性によると、「この浜で泳ぐと小石の丸みが足裏にあたって心地いい」のだとか。波打ち際をよく見ると蛇紋岩の仲間なのか、いろいろな色合いの石がいっぱいです。   「蛇紋岩の円礫浜」のすぐそばには、野鳥、昆虫、淡水魚などが生息するネイチャースポット「川原大池」があります。池を囲む樹林の一角に花期を迎えたレモンイエローのハマボウが咲いていました。今回、三和地区で出会った石や植物、昆虫はデジカメに収め、あとで図鑑で名前や生態を調べることに(石や植物は自然保護のため、持ち帰らないようにしましょう)。自然豊かな三和地区で童心に帰った夏の一日でした。

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  • 第478号【長崎よもやま話(レモン、石畳)】

     よそさまの庭先でたくさんの実をつけた李(すもも)の木を見かけました。梅雨前から終わりにかけて、木いちご、山桃、梅、杏など、おいしい実をつける植物がたくさんありますが、そんな季節もそろそろ終わりに近付いています。梅雨のはじめに漬けた梅シロップは、もう飲み頃を迎えました。水や炭酸で割って飲む自家製梅ドリンクは格別。クエン酸による疲労回復の効果があるので、暑さでバテそうなこれからの季節にぴったりです。  クエン酸といえばレモンです。スポーツをするときレモンの輪切りをはちみつ漬けにしたものを持参する方もいらっしゃることでしょう。また、レモンはご存知のようにビタミンCもたっぷり含んでいます。大航海時代の船員たちは、長い船上暮らしで生野菜や果物を食べる機会が少なく、ビタミンC不足から引き起こされる壊血病で命を奪われたものも多かったそうです。18世紀半ばになってイギリス海軍でレモンが壊血病に効果があることがわかり、予防のために果汁をしぼったジュースを飲むようになったといわれています。  レモンの日本への初渡来は明治になってからという説がありますが、江戸時代後期に唐船が長崎に運んで来たという説もあります。また、オランダ船の乗組員たちがレモンを壊血病予防に用いたという話は、これまで聞いたことがありません。オランダ船は拠点のある東南アジアで、緊急時の水分補給のためにザボンを積み込んだといわれています。ザボンは、ビタミンC、ビタミンEを多く含んだ柑橘類です。図らずもザボンで壊血病を予防したのかもしれません。  さて、レモンの爽やかな香りと独自の風味をいかしたレモンスカッシュやレモネードは、まさに〝夏の飲み物〟のイメージです。ちなみに、レモネードの呼び名が転訛したといわれるのがラムネです。ラムネの日本での製造のはじまりについては、幕末に長崎で、という説や明治初期に神戸で、という説もあります。  レモンの果汁に蜂蜜や砂糖などで甘味をつけ冷水で割ったレモネード。ハイカラともてはやされた時代を経て、日本人に飲み継がれ、いまとなっては昔懐かしい飲み物のひとつになっています。かつて居留地だった南山手界隈の一角にある小さな喫茶店でレモネードを飲みながら、そんなことに思いをめぐらしていると、窓越しに見える石畳にふと目が止まりました。  長崎らしい風景には、いつも石畳があります。かつて外国人居留地だった東山手・南山手界隈の石畳の多くは幕末~明治期に敷かれたものです。では、長崎市内に現存するもっとも古い石畳はどこにあるのでしょうか。長崎の郷土史に詳しい方によると、「サント・ドミンゴ教会跡」(長崎市勝山町・桜町小学校内)に残っているとのこと。サント・ドミンゴ教会は1609年に建てられ、わずか5年後に禁教令により破壊されました。遺構として残る石畳は中庭の一部と推測されるそうで、大きめの平らな石やいくぶん小ぶりの石を敷き詰めてあります。400年以上も前の宣教師や長崎の人々は、いったいどんな姿や思いでそこを歩いたのでしょう。想像するだけで歴史好きの血が騒ぐのでありました。  ◎参考にした本/「ながさきことはじめ」(長崎文献社)

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  • 第477号【オランダ船が運んだアーティチョーク】

     梅雨寒が続いて、風邪をひいている人もちらほら。季節に応じた食事でみだれがちな体調を整えたいものです。この時季、薬膳の献立では、臓腑のはたらきを高める食材(いんげん豆、干ししいたけ、きゃべつ、カリフラワー、じゃがいも、かぼちゃ、さつまいもなど)、気の巡りを良くする食材(たまねぎ、らっきょう、えんどう豆、そば、オレンジ、みかんなど)、体内の湿を取り除くはたらきのある食材(うど、冬瓜、とうもろこし、小豆、大豆、黒豆、そら豆、はとむぎなど)をよく使います。どれも普段使いの食材ばかり。いつもより意識して取り入れて、梅雨を元気に乗りきりましょう。  梅雨時の身体におすすめの野菜のなかには、いんげん豆、きゃべつ、かぼちゃ、じゃがいも、さつまいも、とうもろこしなど戦国時代から江戸時代にかけて、唐船やポルトガル船、オランダ船が日本に初めて運び込んだといわれるものが少なくありません。長い船旅に耐えられるものだけあって、丈夫で育てやすく、栄養価も高いものばかり。その昔の飢饉のとき人々をおおいに助け、現代人の健康にも役に立っているのですから、本当にありがたい野菜です。  さて、梅雨の晴れ間に散歩に出ると、住宅街の一角に設けられた小さな畑で、背丈が2メートル近くはありそうな巨大なアザミを見かけました。きれいな紫色の花と、ウロコ状の大きなガクがとても個性的。調べてみるとアザミではなく、アーティチョークという西洋野菜。地中海原産のキク科の植物で、日本では朝鮮アザミとも呼ばれているものでした。  アーティチョークは、ハーブの一種。花が咲いたら食用にはならず、つぼみの段階でガクや花芯をゆでていただきます。でんぷん質のホクホクとした味わいで、欧米ではポピュラーな食材だそうです。日本ではあまり馴染みがありませんが、一説には江戸時代にオランダ船が運び込んだのが最初の伝来ともいわれていて、江戸時代中期に栽培された記録も残っているとか。でも、さつまいもやいんげん豆のように庶民の間に広まらなかったのは、なぜ?アクが強いのでゆでるとき塩や酢などでアク止めする必要があったり、ガクを一枚一枚剥ぐのが面倒だったから?栽培上の理由も含め、日本に馴染まなかった理由が気になるところです。  アーティチョークのような渡来野菜のなかには、パセリ(おらんだぜり)、セロリ(おらんだみつば)、クレソン(おらんだがらし)など、別名で「おらんだ○○○」と呼ばれるものがあります。パセリは江戸時代にオランダ船が運んできたといわれてますが、セロリは秀吉の時代にポルトガル船が、クレソンは明治期にヨーロッパから、など全部が全部オランダゆかりというわけではありません。南蛮渡来の文物と同じように、目新しいものは「おらんだ○○○」と呼んでいたのですね。  料理でも、油やカラシを使った、当時としては珍しい調理法、製法のものは「オランダ○○」と呼ばれています。また、ねぎを加えた料理で、南蛮煮、南蛮焼と呼ばれるものは、南蛮人が健康のためにねぎをよく食べていた事に由来するとか。でも、本当のところはよくわからないのが、食べ物のルーツ。食べるときのうんちくはほどほどにして、しっかり味わっておいしくいただきたいものです。          ◎参考にした本/「たべもの語源辞典」(清水桂一 編/東京堂出版)、「薬膳コーディネータ講座・食薬編(テキスト2)」(U-CAN)

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  • 第476号【快速シーサイドライナーに乗って東彼杵町へ】

     長崎駅から大村湾沿いを走る快速「シーサイドライナー」に乗り込んで、東彼杵町(ひがしそのぎちょう)へ出かけてきました。青い車体が爽やかな「シーサイドライナー」は、長崎~佐世保(JR長崎線・JR大村線・JR佐世保線)を走る電車です。先頭車両のどこか無骨な表情が旅情を誘います。  諫早駅を過ぎてしばらくすると、国道34号とさほど離れぬ道筋で大村湾沿いの線路に入る「シーサイドライナー」。このルートは、目的地の彼杵駅(そのぎえき/東彼杵町)まで、長崎街道の彼杵通ともほぼ並んであります。江戸時代、多くの商人や役人、文人墨客が行き交った長崎街道。「シーサイドライナー」が車体をやや海側に傾けながら、ガタン、ゴトンとゆるやかなカーブを描くとき、車窓には江戸時代の旅人たちも眺めた風光明媚な大村湾が一面に広がるのでした。  長崎駅から約1時間で彼杵駅に到着。ちなみに、ひとつ手前にある「千綿駅」(ちわたえき)は、レトロ感漂う木造の駅舎と大村湾を一望する眺めで、鉄道ファンならずとも魅了する人気スポットです(普通列車のみ停車。快速は停車しません)。東彼杵町内でJRの駅がある「千綿」「彼杵」は、長崎街道の宿場町でもありました。いまも家並みなどに当時の風情が感じられます。  ところで、長崎街道はここ「彼杵」の宿から、大村湾を対岸の時津港へ向かう海路もありました。秀吉の時代にこのルートを、禁教令で捕えられ長崎・西坂の丘で処刑されたキリスト教の宣教師や信者らが通りました。その海岸には「日本二十六聖人乗船記念碑」が建っています。  長崎県のほぼ中央に位置し、三方を緑豊かな山々に囲まれた東彼杵町。お茶(そのぎ茶)の産地として知られ、長崎県の茶の生産量の60~70%を占めます。朝霧の立つ山あいの土地を利用した茶栽培の歴史は古く、江戸時代には地元大村藩の特産品となっていたそうです。   苦み、渋みは控えめで、のどごしの良い「そのぎ茶」。道の駅「彼杵の荘」で飲んだセルフサービス(無料)のお茶の美味しいこと!堅実で研究熱心なこの土地の生産者の人柄が育んだ、茶葉を傷めないという伝統の製法に、美味しさの秘密があるようです。これまで数々の品評会で高い評価を得ており、昨年は「日本茶AWARD2014」で、消費者が選ぶ日本一美味しいお茶として「日本茶大賞」を同町の生産者の方が受賞しています。  陸路・海路に通じやすい地の利で、古くから交通の要衝として栄えた東彼杵町。江戸時代初めから明治期にかけては、捕鯨と捕鯨取引の中心地でもありました。鯨肉はこの地域の食文化に根づいていて、いまでも町内各所で販売されています。この辺りでは、お正月の雑煮にも鯨肉を入れるお宅があると聞いたことがあります。道の駅「彼杵の荘」のレストランでは、「鯨入りだご汁」が人気メニューでありました。  東彼杵町は、多良山系に続く山々に囲まれ、「龍頭泉」など美しい渓谷を擁していることでも知られています。豊かな緑と水に恵まれたこの地域には、遥か大昔から人々の営みがありました。その証のひとつとして、5世紀頃に大村湾一帯を統治していた首長の墓といわれる前方後円墳の「ひさご塚古墳」があります。   分け入るほどに自然も歴史も奥深く、興味をそそる東彼杵町。何度でも足を運びたくなる魅力あふれるまちでした。

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  • 第475号【博多商人と長崎 ~博多・御供所界隈~】

     眼鏡橋がかかる中島川では「紫陽花まつり(5/23~6/14)」がはじまりました。紫陽花に彩られた石橋群は、くもり空やそぼふる雨といった日にこそ、しっとりとした美しい光景を見せてくれます。どうぞ、お出かけください。  先日、長崎から博多へ足を伸ばし、博多駅に近い御供所(ごくしょ)地区のお寺をめぐりました。博多は港町としては長崎の大先輩。長崎は近世に入って歴史の表舞台に登場しますが、博多は古代より大陸に開かれ、港町として華やかな歴史を刻んできました。  博多の歴史を物語る由緒ある寺社が建ち並ぶ御供所地区には、806年に唐から帰ってきた空海が、日本で初めて開いた真言密教のお寺、「東長寺(とうちょうじ)」があります。また、日本に中国(宗)からお茶をもたらしたことで知られる栄西禅師が開創したという日本最初の禅寺「聖福寺」もあります。ちなみに栄西は、帰国の際、長崎・平戸に立ち寄り、「冨春庵」の裏山で茶の種を蒔き、喫茶や抹茶の作法を伝えたといわれています。  博多のまちの中心部とは思えないほど緑豊かな静かな通りが続く御供所地区。その一角にある「妙楽寺」には、長崎ゆかりの博多商人、伊藤小左衛門一族のお墓があります。伊藤小左衛門は博多の豪商のひとりで、長崎がポルトガルとの貿易のために開港してからしだいに発展していく、その初期の頃に活躍。博多時代から続く貿易で莫大な富を得、その財力は外様大名と変わらぬほどであったといわれています。しかし、鎖国の禁を破り、密貿易を行った罪で二代目伊藤小左衛門のとき一族郎党とも処刑されたのでした。  現在の「昭和通り」近くの、かつて伊藤小左衛門の居宅があったといわれる一角に「萬四郎神社」があります。処刑された伊藤小左衛門の子らを祀る神社で、いまは商売繁盛と子どもの健やかな成長にご利益がある神様として、地元の人に親しまれているとのことでした。  『伊藤小左衛門は 船乗り上手 昼は白帆で夜は黒帆 沖のとなかに お茶屋をたてて 上り下りの船を待つ』。これは、対馬に残る民謡で「密貿易の歌」といわれるものです。対馬海域を舞台に朝鮮との商いの様子を唄っていると思われ、伊藤小左衛門に対する島民に羨望のまなざしが感じられます。肥前の津々浦々に貿易船の拠点があったと思われる当時の貿易商。伊藤小左衛門の長崎市中における居宅は、当時、舟が横付けできる海辺の五島町界隈にありました。  伊藤小左衛門に限らず、長崎で活躍した一部の博多商人たちがいかに裕福であったか。寛永13(1636) 年に完成した「出島」造成時の費用は、25人の町年寄や貿易商などが出資していますが、そのなかに、「大賀」、「末次」といった博多からやってきた商人の名があります。この「末次」ものちに密貿易が発覚し処罰されますが、伊藤小左衛門にしても、末次家にしても、巨万の富を持つ豪商でその影響力の大きさを幕府側が恐れて、つぶしにかかったのではないかと推測する人もいます。  ところで、博多「妙楽寺」の近くにある禅宗のお寺「円覚寺」の山門前には、茶道「南方流」の看板が掲げてありました。「南方流」(「南坊流」とも書く)は、南坊宗啓を流祖とする流派で、立花実山(黒田藩士)による『南方録』を秘伝書として護り伝えてきた流派といわれています(『南方録』は、千利休の茶湯を伝える最も重要な秘伝書のひとつといわれるもの。その編集・成立に関しては諸説ある。)。博多には「南方流」が生まれる素地として、早くからお茶の文化があったと思われます。  かつて代官屋敷があった長崎市勝山地区では、茶の湯で使われるような茶碗(16世紀半ばのもの)が発掘されています。当時の博多の豪商等が長崎で茶の湯を嗜み、人をもてなした可能性もあり、それが茶の湯の文化を長崎に伝えたひとつの流れだったかもしれません。  ◎参考にした本/『博多~町人が育てた国際都市~』(武野要子/岩波新書)、『悲劇の豪商 伊藤小左衛門』(武野要子/石風社)、『茶の湯人物案内』(八尾嘉男/淡交社)

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  • 第473号【幕末~明治期、英語の学び場だった長崎】

     新年度のスタートに合わせて、テレビやラジオなどの英語講座をはじめた方もいらっしゃることでしょう。これまで何度も中途半端に終わったけれど、あらためてチャレンジしているという方も少なくないはず。いまは、学習法がいろいろあって悩ましいですね。そんなときこそ、限られた学習環境で懸命に英語を学んだ先人達に思いを馳せてみるのもいいかもしれません。  幕末から明治にかけての英語通訳者といえば、ジョン万次郎(中浜万次郎)がよく知られています。天保12年(1841)出漁中に漂流し、アメリカ船に救助されアメリカで教育を受けて嘉永4年(1851)に帰国。土佐藩、幕府に仕えました。  江戸時代、オランダ語や中国語以外の外国語、とくに英語修得の必要に迫られたのは、このジョン万次郎の時代、幕末になってからです。嘉永7年(1853)ペリー来航は、その大きな引き金となりました。4年後の安政4年(1857)、幕府はオランダ通詞や唐通事たちに英語を学ばせるために、「語学伝習所」を長崎に設けました。翌年には、「英語伝習所」と改称。その後、明治元年(1868)までに、「英語稽古所」「洋学所」「語学所」「済美館」「広運館」などと、数回に渡り名称と場所、教科内容を変えて行きます。これは、激動の世相を反映した結果でありました。また、慶応元年(1865)には佐賀藩が英語教育を目的に「致遠館」を設け、明治元年には、近代印刷の始祖・本木昌造が英語など複数の教科を無料で学べる「新町私塾」を開設しています。当時、日本で英語を修得するなら「長崎」がもっとも充実した環境だったようです。  ところで、ジョン万次郎が帰国したり、幕府が「語学伝習所」を設けたりする前に、長崎には小さな英会話教室が存在しました。先生は、本場のアメリカ英語を話すラナルド・マクドナルド。生徒は十数人のオランダ通詞たちです。この教室の大きな特長は、先生と先生の間に牢格子があったということ。そう、マクドナルドは捕われの身だったのです。  マクドナルドは、1824年アメリカはオレゴン州生まれ。父はスコットランド人で、母はネイティブ・アメリカン。母の先祖のルーツがあるといわれる日本に対し憧れを持っていたマクドナルドは、嘉永1年(1848)捕鯨船での日本への密入国を企て、北海道の利尻島で捕えられました。その後、取り調べのため長崎奉行所へ護送されたのでした。  礼儀正しく教養があり、温厚な人柄だったというマクドナルド。牢越しに交わされるのは、わずかな言葉やジェスチャー。その限られた環境下で懸命に日本の言葉を憶えようとする姿は、世話係をつとめた森山栄之助(多吉郎)らをはじめとする下級オランダ通詞らの心を動かしました。彼らはすでに英語修得の必要性を感じていたこともあり、マクドナルドが帰国するまでの半年ほどの間、日本ではじめてネイティブ・スピーカーによる英会話教室が開かれたのでした。  この教室で、マクドナルドから一目置かれていた森山栄之助は、数年後のペリー来航時やその翌年の日米修好通商条約締結時に通訳として活躍しています。 諏訪神社にほど近い上西山町には、「ラナルド・マクドナルド顕彰之碑」があります。この碑の真向かい辺りに、牢格子越に英会話教室が行われた「大悲庵(だいひあん)」(崇福寺の末庵)がありました。マクドナルド顕彰碑の隣には、通訳業務を通してアメリカとの交渉に命を燃やした森山栄之助の顕彰碑が建っています。幕府は栄之助の語学力と交渉能力に全幅の信頼をおいていたそうです。

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  • 第472号【土地の記憶をたどる(風頭山~伊良林界隈)】

     九州では先週、満開を迎えた頃、東北では開花宣言が出たとたん、春の嵐に見舞われましたが、あなたのまちの桜の様子はいかがですか?この時季、あちらこちらで聞こえてくる桜談義。転勤で各地の桜を見て来た知人たちによると、同じソメイヨシノでも、九州と北陸や東北地方などの寒い地方とでは、印象がかなり違うとか。温暖な九州のものは、おだやかでやさしい表情。一方厳しい冬をくぐり抜けたソメイヨシノは、どこか凛とした美しさで、満開を見上げたときの感動もひとしおなのだそうです。  嵐の翌日、長崎の中心市街地の桜の名所のひとつ「風頭山(かざがしらやま)」へ様子を見に行くと、案の定、花びらをあたり一面に散らしていました。花曇りのなかを行き交うのは花見客や観光客。風頭山の山頂から徒歩で10分ほど下ったところには、慶応元年(1865)に坂本龍馬が結成した亀山社中跡があり、ゆかりの地ということでこの山頂にも、長崎港沖を望む坂本龍馬像が建立されていることから一年を通して観光客が絶えません。  坂本龍馬が率いた亀山社中は貿易商社。ちなみになぜ亀山社中と呼ばれたかというと、近くに亀山焼と呼ばれる窯があったからです。亀山焼は19世紀はじめ頃に、オランダ船に売るための水瓶を製造するために開かれた窯。水瓶の「カメ」が、「亀」に転じて亀山焼と呼ばれるようになったそうです。しかし水瓶の販売は不振で、途中から白磁の陶器に切り替えました。絵付けには、中国から輸入した花呉須(はなごす)という発色のいい藍色の顔料を用い、長崎の三画人と呼ばれた、鉄翁祖門、木下逸雲、三浦梧門などが描いたといわれています。そうして上質の染め付けを製造していたようですが、残念なことに開業から約60年で廃窯に。奇しくもその年に亀山社中が誕生したのでした。たしか龍馬も亀山焼のご飯茶碗を持っていたはずです。  風頭山の北東側の斜面に位置する亀山社中跡や亀山焼窯跡がある一帯は、伊良林(いらばやし)とよばれる地域です。坂段が縦横に入り組むようにしてあり(長崎はそういうところが多い)、すれ違う観光客たちはみなフウフウ言いながら上り下りしています。それでも同じ道を、亀山社中の若者たちも歩いたのかと思うと、感慨深いものがあります。亀山社中のメンバーは、大里長次郎(近藤長次郎)、陸奥陽之助(陸奥宗光)など数人の正式な隊員ほか総勢20人ほどだったそうです。   同界隈で育った大正生まれのある方が、子どもの頃に聞いた話によると、「亀山社中のもんは荒らくれものが多くて、あんまり好かれとらんやったらしい」とのこと。若くて、血気盛んな彼らのこと。何をしでかすのか怖くて、遠巻きに見ていた地元の人もいたのでしょう。いまとなっては、ほほえましくもあるそんなエピソード。見えない土地の記憶としてこの界隈に刻まれています。

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  • 第471号【雨の石畳を歩く(東山手・南山手界隈)】

     西日本では3月中旬から4月にかけて、どこか梅雨を思わせるような天候が続くことがあります。「菜種梅雨」とも呼ばれるこの雨は、シトシトと降り続けるのが特徴ですが、気のせいか、ここ数年はドシャ降りが多いように感じられます。手元には、やさしい雨に濡れるオランダ坂の古い絵はがき。その風情を見たくて、幕末~明治期に外国人居留地だった東山手、南山手界隈へ出かけました。  路面電車に乗り、「市民病院前」電停で下車。絵はがきにあったオランダ坂は、そこから徒歩3分です。近くには旧長崎英国領事館の煉瓦づくりの建物があります。そぼ降る雨にうたれる石畳の上をカラフルな傘をさし、タブレットやスマホ片手の観光客が行き交っていました。幕末の開国にともない外国人居留地として街並が造られたこの界隈。石畳の通りの先々には、明治期に建てられた洋館が点在しています。地元住民には見慣れた風景も、やはり観光客の方々にとってはハイカラな歴史をかもす異国情緒は特別な感じがするようです。「初めて来たのに、懐かしい感じがする。不思議よね」という方がいました。雨にもかかわらず、熱心に観光案内の立看板を読む人や写真を撮る人の姿が絶えませんでした。  ブルーグレーの外観が印象的な東山手甲十三番館(国登録有形文化財)は、かつてフランス領事館として使用されたことがありました。ご近所にあるクリーム色をした東山手十二番館(国指定重要文化財)は、ロシアやアメリカの領事館として使用されました。また外国人向けに洋風にしつらえた東山手洋風住宅群(7棟)もこの界隈の異国風な景観のひとつになっています。そんな東山手を通り抜け、南山手にある大浦天主堂へ向かいました。  現存する日本最古のゴシック建築様式のカトリック教会で、国指定の重要文化財である大浦天主堂。1859年の長崎開港後にやってきたヒューレ神父によって建築が計画されました。完成し献堂式が行われたのが1865年2月。当時は「フランス寺」と呼ばれ、見物人が絶えなかったといいます。とはいえ、まだキリスト教の禁教令下にあった日本。献堂式にはフランス領事をはじめ、各国艦船の艦長や居留地の外国人らが正装して出席するなか、長崎奉行は招待を受けたものの、参列を断っています。  その日から約1ヶ月後の3月17日。約250年もの間、信仰をひそかに守り伝えてきた浦上のキリシタンが、祭壇前で祈っていたプチジャン神父に近付き、耳元でそっと自分たちの信仰を打ち明けます。「ワレラノムネ アナタノムネト オナジ」。プチジャン神父はその夜、「信徒発見」の大きな感動を手紙にしたためローマに送りました。そのニュースは瞬く間に世界中に伝えられたのでした。   「世界宗教史上の奇跡」ともいわれる大浦天主堂での「信徒発見」。先週3月17日は、その日から150年を迎えました。大浦天主堂では早朝から7回の記念ミサを行っています。新聞報道によると、法王の特使をはじめ国内外の神父や信徒が参列。さらに、宗派や宗教を超えて聖職者などが参列し、一緒に世界の「平和」を祈ったそうです。それは、宗教弾圧、被爆という哀しみを知る長崎の切なる願い。このまちを象徴するかのような光景であったに違いありません。

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  • 第470号【立山界隈のキリスト教関連史跡】

     長崎市街地のせまい路地裏を歩いていたとき、ふと鼻先をかすめた沈丁花の香り。夜気に漂うその香りの印象的なこと。「春のいろいろな別れや出会いが呼び起こされて、ちょっとせつない気持ちになる」と言った人のことを思い出しました。  ときおり厳しい寒の戻りがあるものの、日中、陽当たりのいい場所へ出てみるとスミレ、そして西日本で多く自生するというシロバナタンポポが咲いています。北国で春を告げる花として知られる辛夷(こぶし)も満開です。一方、ニュース映像で見る東北は、まだまだ冷たい風が吹いています。ささやかですが、一足早い九州・長崎の春の花を画像でお楽しみください。  春の花たちは今月初め、長崎市の立山界隈を散策したときに出会ったものです。立山は長崎の歴史を語る上で欠かせない特別な場所で、楠の巨木など樹木が生い茂るこの土地には何かを引き寄せる力でもあるのか、長崎が貿易港として歴史の表舞台に登場するずっと前には大きなお寺があったといわれ、南蛮貿易時代には「山のサンタ・マリア教会」、禁教令によって教会が破壊されたあとは、「長崎奉行所立山役所」が設けられるなど、時代に応じて重要な役割を果たす建物がありました。  明治維新後も公的な施設が置かれ、現在は「長崎歴史文化博物館」、「長崎県立長崎図書館」があります。この界隈の歴史は日本の近世・近代に大きな役割を果たした長崎の政治、経済、文化が複雑にからみあい凝縮され、ひもとくのは容易でありません。なので、散策で出会う史跡も南蛮貿易時代から現代までの数百年を何度も行き来するので混乱してしまいます。  今回はキリスト教関連の史跡を2つご紹介します。ひとつめは「長崎歴史文化博物館」の目の前にある「サント・ドミンゴ教会跡資料館」。桜町小学校の一角に併設された資料館で、1609年に建てられた「サント・ドミンゴ教会」の地下室や井戸の遺構を見ることができます。花十字紋瓦や長崎市内で発掘された当時のメダイや十字架などのキリスト教関連の出土品も展示。長崎でキリスト教が栄えた時代の遺構はあまり残されていないなか、たいへん貴重な施設でもあります。  現在は、埋め立てられこの辺りの南蛮貿易時代の様子は想像しにくいのですが、当時は、すぐ近くに舟が着く入り江がありました。この資料館のそばにある「八百屋町通り」は長崎で最初につくられた石畳の通りだったと言われ、江戸時代初めまでこの界隈にいくつかあった教会や教会関連施設へ運び込む物資が往来したといわれています。現在の通りはアスファルトに覆われてしまっているのが残念です。  「八百屋町通り」近くには、「西勝寺」があります。西本願寺の末寺として1632年に創建された「西勝寺」。禁教令後も転宗しないキリシタンが多くいた当時の長崎で、転宗させその証文を取って奉行所に提出していました。このお寺には、証人のひとりとして「忠庵」の名が記された証文の写しがあります。「西勝寺文書(キリシタンころび証文)」(非公開/長崎県有形文化財)と呼ばれるもので、書き損じたため寺に残ったと言われています。  「忠庵」とは、元イエズス会宣教師のフェレイラ神父のこと。1609年に来日し、24年間も日本で布教活動を行っていましたが、長崎潜伏時にとらえられ拷問の末に棄教。その後、日本名「沢野忠庵」として長崎奉行のもとでキリシタンを取り締まる側になった人物です。その忠庵も行き来した立山界隈。同じ場所を歩いても、彼の苦悩は想像を絶し、推し量ることなどできないのでした。

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  • 第469号【春めく、中島川】

     ときおり訪れる小春日和。江戸期発祥の石橋群が架かる中島川沿いを歩けば、真冬にはなかなか姿を見せなかった鳥たちが元気に水辺を飛び交うようになりました。年中見かけるアオサギも、春めくなかで気分が良さそう。観光客が集う眼鏡橋から徒歩5分ほどの上流にかかる桃渓橋(ももたにばし)あたりでも、川面を素早く飛翔するカワセミの姿がありました。翡翠(ひすい)のような美しい色をしたカワセミは、渓流などに棲むと思われていましたが、いまではまちなかを流れる各地の川で見かけるようになったといわれています。川の水がきれいになったからなのか、エサを求めてなのか、その理由はわかりませんが、鳥たちがのびのびと暮らせるよう見守りたいものです。  早春の気配が漂いはじめる1月下旬~2月初旬、長崎県下では各地の海岸でアオサ摘みがはじまったというローカルニュースが流れます。深緑色をした海藻のアオサは、水洗いして乾燥させ、お吸い物や味噌汁、天ぷらなどにしていただきます。実は同時期、眼鏡橋のひとつ下流に架かる袋橋のたもとでも鮮やかな緑色をした海藻が目立つようになるのですが、よくよく見てみるとこれがアオサだったのです。  眼鏡橋あたりまでは、長崎港の海水と混じり合うところなので海藻が育っても不思議ではありません。早春の風物詩で、食卓に潮の香を運んでくれるアオサですが、さすがに中島川のそれを食するのは衛生上の問題がありましょう。また、ある漁村では原因不明の大量発生をして水質悪化につながり、漁師さんたちを困らせたこともあったとか。とはいえ、川の流れのままに揺れる深緑色はとてもきれいです。毎春この光景を楽しめますように。  その中島川はいま「長崎ランタンフェスティバル」の装飾に彩られ、黄色のランタンの下を連日大勢の人が行き交っています。今年も春節の休暇を利用して来た中国系の観光客の姿が目立ちます。袋橋の上は、上流の眼鏡橋を入れてランタンの写真を撮ろうとする彼らでいっぱいでした。  中島川沿いの散策を終え、中国語が飛び交うなかをくぐり抜けるようにして帰る途中、商店街で地元産の春キャベツとシマアジを購入。今夜は、白身魚の「ゴーレン」に春キャベツを添えていただくことに。「ゴーレン」は長崎の郷土料理のひとつで酒やみりん、しょうゆで下味をつけた白身魚(または鶏肉)に衣(小麦粉か片栗粉)を付けて揚げたものです。衣に甘味(砂糖)を加えて揚げるいわゆる「長崎天ぷら」とは別物です。   「ゴーレン」の語源は、ポルトガルやオランダにはないといわれます。東南アジアに「ナシゴーレン」という料理がありますが、そこでいう「ゴーレン」は、「炒め物」を意味するとか。江戸時代、出島には東南アジア出身の人々がオランダ人に付いて働いていましたから、そこらへんに長崎料理の「ゴーレン」の語源はありそうです。またキャベツも江戸時代にオランダ船が長崎に運んできたのがはじまりといわれます。今夜も長崎ゆかりの食材を、ありがたくいただきたいと思います。

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  • 第468号【2015長崎ランタンフェススティバル(予告)】

     西山神社では、早咲きタイプの「元旦桜」が九分咲き。春が目の前にきていることを実感します。これから三寒四温で季節は移っていくのですね。変化の激しい天候に体調を崩さないよう気を付けてください。  寒さのなかに小さな春を感じはじめるこの時期に行われるのが、「長崎ランタンフェスティバル」です。開催期間は、来週の2月19日(木)から3月5日(木)まで。毎年1月~2月に開催されますが、今年はめずらしく3月にまで入り込みます。期間が毎年変わるのは「長崎ランタンフェスティバル」が、中国の旧正月(春節)を祝う行事だからです。今年は2月19日が、旧暦の元旦に当たります。  朱色、桃色、黄色の大きなランタンが街中を埋め尽くす「長崎ランタンフェスティバル」。よく「幻想的」と表現されるように、夢の中に現われるような独特の世界観が創り出されます。それは、古くからゆかりの深い長崎と中国との融合から生まれた世界。期間中は国内はもとより、中国や台湾をはじめアジア各国からの観光客でにぎわいます。目にもあたたかなランタンを見上げながら和やかに行き交う人々の表情は、とてもやさしい。ランタンが平和の象徴のようにも見えてきます。  長崎市中心部に設けられた会場は、新地中華街会場、中央公園会場、唐人屋敷会場、興福寺、鍛冶市会場、浜んまち会場、孔子廟会場の7カ所。それぞれの会場で中国色豊かな装飾が施されます。  新地中華街会場、中央公園会場、孔子廟会場では、夕方近くから(土日は昼過ぎから)連日催しが行われます。中国獅子舞、龍踊り、中国雑技、中国民族踊、二胡の演奏、中国変面ショー、中国マジックショー、太極拳など、催しは年々充実しています。なかでも見逃せないのは、孔子廟会場で毎日公演される変面ショー。中国が誇る伝統芸能のひとつで、世界でも特殊といわれる演技を間近で見る事ができます。また、各会場で披露される中国雑技も本場の演技を堪能できます。しなやかで強靭な身体で繰り広げる伝統の技は驚きの連続です。  新地中華街会場には、今年の干支「羊」にちなんだ巨大オブジェ(高さ約10m)が登場します。『九陽(羊)啓泰』(きゅうようけいたい)というテーマでつくられたそのオブジェは、「吉祥の光で万事思い通りになる」という意味が込められているとか。そのほか縁起のいいいわれのあるランタンオブジェが各所に設けられています。行く先々で、幸運をもらえたような気分になれますよ。   期間中の催しの日時については、長崎の市街地各所に置いてあるランタンフェスティバルのチラシをご参考に。「長崎ランタンフェスティバル実行委員会」のホームページでも確認できます。当日はしっかり防寒して、お出かけください。

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