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  • 第379号【もちもちの新しい食感、「ロザリオ南蛮パスタ」】

     手延べ素麺の産地として知られる南島原市の職人さんが、「手延べ」の技術と勘を活かしてパスタづくりにチャレンジ。3年の試行錯誤を経て、もちもちっとした新しい食感の手延べパスタ「ロザリオ南蛮パスタ」を完成させました。 「こねた生地を、引き延ばして、熟成させる。その工程を繰り返すなかで何度も手で、舌で、麺の状態を把握します。それを『麺の声を聞く』とも言うのですが、私の場合は『麺と格闘』するという感じでした」と話すのは開発者の本多祥彦(ほんだよしひこ)さん。手延べ素麺づくり40年のベテランです。 「開発前は、手延べ製法でパスタをつくるのは無理だと周りに言われたんですよ」。その理由は原材料のデュラム小麦粉にありました。この小麦粉は硬い性質の粗びき粉で、中力粉でつくる素麺とは生地の感触も延び方も全く違います。「たとえば、生地をこねたとき引きは強いのですが、延ばそうとするとブスッと切れてしまうのです」。元来、凝り性でねばり強い性格の本多さん。試行錯誤を繰り返し、デュラム小麦粉の個性を身体で憶えていきました。 このパスタは、生地を徐々にタテに延ばしながら細いひも状にしていく作業や、麺にヨリを入れながら延ばす作業など、手延べ素麺と同じ全12の製造工程でつくられます。それは、延ばしては熟成させるという作業の繰り返し。そして最後は低温で2日間かけてじっくり乾燥させて仕上げます。作業中は常に『麺の声』に耳を澄ますという本多さん。そうやって、デュラム小麦粉のうまみ、甘み、もちもち感を引き出していくのです。 ところで、「ロザリオ南蛮パスタ」のふるさと南島原市は、豊かな自然を誇る島原半島の南に位置し、肥沃な大地とミネラル豊富な水に恵まれた地域です。戦国時代にはキリシタン大名に治められ、宣教師を中心に南蛮文化が花開いた土地でもあります。天草四郎で知られる島原の乱の舞台としても知られ、いまも数々のキリスト教関連の史跡が残されています。そんなまちの歴史にちなんだ「ロザリオ南蛮パスタ」というネーミング。「地元のまちおこしにつながるパスタにしたかった」という本多さんの願いが込められています。 「手延べ素麺のように、原材料はなるだけシンプルにしました」という本多さん。厳選のデュラム小麦粉を100%使用し、島原半島のおいしい水と長崎県のきれいな海水でつくられた塩を入れてこねます。ほかには製造作業の途中で麺の表面が乾かないようにほんの少しのオリーブバージンオイルを使うだけ。パスタの黄色は、デュラム小麦粉に含まれた自然なカロテンの色です。 「ロザリオ南蛮パスタ」のゆで時間はわずか3分。パスタ自体に塩が練り込まれているので、ゆで水に塩は必要ありません。ゆで上がったら、いったん水でしめると調理しやすいようです。味は乾燥パスタでありながら、もっちりとして生パスタのようでもあります。  パスタの定番ペペロンチーノ、中華のジャージャー麺風、和風だしの冷製パスタなど和・洋・中いろいろ作ってみました。ソースや具材とからみやすく、アイデアしだいでさまざまな味わいが楽しめそうです。もっちりとした味わいの向こうに、どこか素朴な手延べ素麺の存在が見え隠れする「ロザリオ南蛮パスタ」。ぜひ、一度お試しください。◎取材協力/本多製麺有限会社 http://www.hondaseimen.com/

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  • 第378号【孫文の足跡in 長崎】

     「中国革命の父」として歴史の教科書にも登場する「孫文」(1866-1925)。今年は辛亥革命(1911-1912:中国初の共和国「中華民国」樹立を導いた革命)から100年目の節目だからでしょうか、最近いろいろなメディアで孫文にちなんだ話を見聞きします。日本を革命活動の基地のひとつとして飛び回り、中国との間を何度も行き来した孫文。今回はここ長崎での足跡をたどります。  孫文は1897年(明治30)~1924年(大正13)の間に9回ほど長崎を訪れています。孫文31才頃から58才で亡くなる前年までの期間です。この時代の長崎は、長い鎖国の後に迎えた居留地時代(幕末~明治後期)から続く諸外国との交易で、港に面した大浦界隈には英国や中華民国(清国)、米国など各国の領事館や洋館が建ち並び、鎖国時代とは違った自由な雰囲気の港町として賑わっていました。 明治・大正というと、欧米の文化に影響を受けたハイカラなイメージで語られがちですが、実は明治以降の長崎の貿易は、中国や朝鮮との関係のなかで発展したといわれています。なかでも上海との距離は東京より近いこともあって、人や物の往来が活発でした。また、横浜・神戸発長崎経由の香港・上海行きの航路のほか、1923年(大正12)には長崎と上海の間に日華連絡船の定期航路が開設。当時は、「長崎県上海」と呼ばれるほど両都市の結びつきは強く、散歩がてらに下駄履きで上海に出かけたという長崎人のエピソードも語り継がれています。 孫文は、そんな長崎ならではの地の利もあって、上海や香港へ向かうとき、また東京へ向かうときに長崎を経由したようです。よく利用したのは当時、長崎でも屈指の宿として知られた「福島旅館」。長崎県庁近くにありました。その場所から徒歩20分圏内に孫文の足跡があちらこちらに残されています。 長崎市の中心繁華街、浜町アーケードを抜け油屋町の通りに入ると、「孫文先生故縁之地」と記した碑が建っています。ここは1902年(明治35)に鈴木天眼(すずきてんがん)が創立した「東洋日の出新聞社」があったところ。論説や報道内容が他の地元紙とはひと味違い人気があったそうです。天眼は、孫文の盟友として知られる宮崎滔天(みやざきとうてん)らと交流を深め、孫文の活動を支援。東洋日の出新聞でも孫文の活動をたびたび報道しました。  孫文は辛亥革命後に誕生した中華民国の初代臨時大統領に就きました。その地位は3カ月で退いていますが、その後、長崎を訪れたときには、それまでの亡命革命家ではなく、公式訪問として盛大に迎えられています。かつて唐人屋敷があった館内町の福建会館では、在長崎華僑の人々や留学生たちと盛大な午餐会が開かれました。袋町(現・栄町)にあった青年会館(YMCA)では講演を行い、その後、天眼宅(古川町:東洋日の出新聞社近く)を訪れ、孫文、天眼、滔天、そして姿三四郎のモデルとして有名な西郷四郎(東洋日の出新聞社で報道記者などとして活躍)などと一緒に記念写真を撮っています。余談ですが、天眼も西郷四郎も福島出身者。長崎との福島はまだまだ意外なつながりがありそうです。  さて、当時の時代背景、人間関係はとても複雑で孫文ついて語るのは難しいものがあります。でも、どこかつかみどころのない歴史上の人物も、その足跡を訪ねると生身の姿が垣間見え、ぐっと身近に感じられるのでした。  ◎参考にした本など/孫文と長崎~辛亥革命100周年~(長崎文献社)、旅行の手びき(長崎市)、長崎事典~産業社会編~(長崎文献社)

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  • 第377号【稲佐山の長崎ロープウェイ】

     長崎はつつじの季節に移りました。平地ではすでに満開を過ぎたところもありますが、つつじの名所でも知られる稲佐山(いなさやま:標高333メートル)での見頃は、このゴールデンウィークになりそうです。 つつじの咲き具合を確認しながら久しぶりに乗った稲佐山のロープウェイ。長崎のまちを見渡すダイナミックな景観はいつ見ても素晴らしく、ゴンドラの上昇に合わせて美しい港や、山の斜面に家々が高台までびっしりと建つ景色が広がります。 このロープウェイは、昭和34年(1959)10月に運行がはじまって以来、長崎観光に欠かせない人気スポットです。空中に張られたワイヤーロープだけを頼りに上り下りするゴンドラや、乗ったときの独特の浮遊感など、昔と変わらない姿や感覚に懐かしい気持ちが蘇ります。ところで、意外に思われる方もいらっしゃると思いますが、ロープウェイは鉄道の一種で正式には「普通索道(ふつうさくどう)」といいます。山の景勝地などに設けられていますが、いま、のんびりと景色を楽しむ旅をしたい人や一部の鉄道マニアに注目されているそうです。 稲佐山に架かるロープウェイは、ふもと近くに設けられた「淵神社駅(ふちじんじゃえき)」から、山頂の「稲佐岳駅(いなさだけえき)」までの約1100メートルを5分でります。山頂の展望台は一部がこの春に整備され、屋上の展望広場には新しく椅子が設置されたり、夜には足下をLEDの光が照らすなど、以前より快適に景色を楽しめるようになっていました。 360°を見渡す展望台からは、長崎港の南西沖にこの春開通したばかりの「伊王島大橋」の姿が確認できました。ちなみに眼下の眺望をきれいに撮影したいなら、午後がおすめです。稲佐山側に傾いていく太陽が市街地を照らしてよりクリアに写すことができます。 また、多くの人が気付かずに通り過ぎていくのですが、展望台の近くには国が定めた「三角点」が設置されています。三角点とは、地球上の位置(経緯度など)や海面かの高さが正確に測定されたところで、山の頂や見晴らしのいい場所に設けられています。地図の作成や道路建設などの際に必要不可欠で、全国に約10万カ所も設置されているそうです。稲佐山の三角点の説明板には、三角点標石の上面が東京タワーと同じ333メートルの高さにあたると書いてありました。 稲佐山から見渡す長崎の中心市街地は東側に位置し、まちは北に向かって伸びています。その景色の遥か先には東北地方があるのです。かつて観光で訪れ、この景色をめた被災者の方々もいらっしゃるに違いありません。皆様の健康と一日も早い復興を祈っています。

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  • 第376号【眺めのいい公園へ(大浦地区)】

     長崎の市街地を歩いていたら、「がんばれ東北号」と掲げた路面電車に出合いました。どこか懐かしい昭和の雰囲気が漂うその車体。聞くところによると、かつて仙台市内を走っていた電車で、30数年前に譲り受けたものだそうです。乗り込んでみると運転席のそばに東日本大震災の被災地に向けての募金箱が設置されていました。いま、長崎のまちのあちらこちらで目にする「がんばろう、東北」の文字。長崎にとって少し遠い地に思えた東北も、いろいろなところでつながりあっていたことに改めて気付かされています。ともに、支え合っていきましょう。 さて、今回は長崎市大浦地区の高台にたいへん眺めのいい公園があると聞いて行ってきました。大浦地区といえば、大浦天主堂や洋館群など異国情緒漂うまちとして知られるところ。南山手のグラバー邸もすぐ近くにあり、観光客の姿が絶えません。眺めのいい公園は、大浦地区のなかでもそうした観光スポットから少し離れた「出雲」と呼ばれる地域にあります。 スタート地点は、路面電車の電停「石橋」(4番系統の終点)。港とは逆の方向に向かって歩きはじめると、すぐに何軒かのクリーニング店が目を引きました。いずれも古いお店のようで年季の入った看板を掲げています。実は明治期の大浦地区には88軒ものクリーニング店があり、居留地に住む外国人や各国の艦船御用達として商売をしていたそうです。まちを流れる大浦川が洗濯場で、当時はお米を研げるほど澄んだ水が流れていたとか。古い看板のクリーニング店はそんなまちの歴史を思い出させてくれました。 スタートから7分。「大浦国際墓地」(長崎市川上町)がありました。かつての外国人居留地に隣接するこの墓地は1861年(文久元)に設けられたもの。主に外国の艦船の乗組員が葬られています。1867年(慶応3)7月に起きたイカルス号事件(長崎の花街・丸山でイギリス軍艦の水夫2人が斬られた事件で、その犯人として海援隊のメンバーが一時疑われた)の被害者である水夫たちもここに眠っているそうです。  大浦国際墓地近くのお墓の坂道をどんどん登ると、くだんの眺めのいい公園にたどり着きました。公園の名は、「出雲近隣公園」。ちょうど1年ほど前に完成した公園で、大正から昭和まで利用された出雲浄水場の跡地を利用したものです。もともと桜の名所だったそうで、公園下の土手には何本もの桜の木が満開を迎えていました。  それにしても、ほんとうに眺めのいい公園です。長崎港の海面が少し見え、奥行きのある大浦地区を一望。背後は、星取山(ほしとりやま)、東にドンの山、西に鍋冠山(なべかんむりやま)の山頂近くを望みます。山肌を埋め尽くすように建つ家々や坂段の風景は、景勝地で知られる鍋冠山からとはまた違った趣きで、斜面地に暮らす長崎の人々の息吹が感じられるようです。ぜひ、一度足をお運びください。

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  • 第375号【長崎からエールをおくります】

     日に日に春めく長崎のまち。1週間ほど前に開花した桜は、満開のときを迎えようとしています。東北地方へ桜前線がたどり着くのは、1カ月ほど先になるのでしょうか。ご近所の庭では、1本のミモザの木が花を咲かせました。ミモザは早春の季語。フランスでも春を告げる花として知られています。とても小さくて丸い黄色い花々が、細い枝いっぱいに鮮やかに咲く姿は、見上げるたびに元気をくれます。 東日本大震災で被害を受けられた方々へ。寸断されていたルートが開かれ、ようやく救援物資が届きはじめていると聞いています。全国各地から、もちろん長崎からも医療チームや救援物資が被災地へ次々に向かっています。そして、直接出向くことはできないけれど、多くの人々が被災地の方々に思いを馳せ、力になりたいと願っています。 いまだ全貌が見えない巨大地震の被害。テレビで繰り返し流される息を飲むような災害の場面。大津波から一夜明けた惨状を見て、65年前、原爆で破壊された長崎の光景を思い出したという人もいました。長崎はこれまで、原爆、そして長崎大水害、雲仙普賢岳の噴火災害など、数々の大災害を経験しています。そこから培ってきた放射線医療のノウハウやネットワーク、そして、災害復興のための知恵や知識は、今回の巨大地震の復興にきっと活かされ、役に立つと信じたい。 原爆投下から数ヶ月後。荒廃した原子野の中に1本の花が咲きました。それは、スクッと高く伸びた茎の先に、薄紫の花びらをつけた「木立ダリア」。奇跡のように咲いたこの花に、当時の被災者たちは励まされ、勇気づけられたという話がいまも語り継がれています。これから、少しずつ温かくなっていけば、あちらこちらで春の花や植物たちが顔を出し、被災者の方々の心を少しでも和ませてくれるはず。 長崎でふきのとうが摘み頃を迎えたのは、2月下旬のこと。北国ではいま時分でしょうか。眼鏡橋が架かる中島川沿いを歩けば、桃の花が満開。川沿いの柳は、萌黄色の新芽をいっぱいつけた枝を垂らしています。コブシ、サンシュユ、モクレン、タンポポ、ユキヤナギ、パンジー、菜の花と、あらためて見回せば、いつの間にか春の花がいっぱい。じきに関東、東北でも咲き始めるはずです。 九州方面の方言で、「おもやい」という言葉があります。相手のことをおもいやって「共有する」、「一緒に仲良く使う」といった意味で使われます。(ちなみに「おもやいの心」は、弊社のモットーのひとつでもあります)。被災者の方々が協力し合い、必死で困難を乗り越えようとする姿に、この言葉の意味をあらためてかみしめました。全国からおもやいの心が集まれば、被災者の方々の心を支えられるはず。長崎から「おもやい」の心でエールをおくり続けます。

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  • 第374号【変わる長崎港、浦上川河口の景色】

     まちで卒業生らしき姿を目にすると、自分にもそんな時代があったなあと当時の思い出にひたりつつ、あの頃と比べると、まちの風景も、世の中も(もちろん自分自身も)ずいぶん変わったものだ、なんて思ったりすることはありませんか? 長崎港の一角にある「長崎水辺の森公園」を楽しそうに歩いている学生たちや犬を連れて散歩する人の姿を見ていると、つくづくそんなことを思います。20年前までこの辺りは、港湾沿いに地味な倉庫が建ち並び、公園はおろか、市民が憩う姿などほとんど見られなかったからです。 大型商業施設や道路など、年々、何かが新しく生まれ着実に変化を遂げている長崎港周辺。2月には長崎港にかかる女神大橋と、高速道路網とを結ぶ「長崎南環状線(長崎市大浜町~田上)」が全線開通し、快適な交通の流れが生まれました。この「長崎南環状線」は、「長崎水辺の森公園」そばに出るオランダ坂トンネル(ながさき出島道路)とも結ばれていて、新たな物流の効率化はもちろん、市民の利便性向上にも貢献しています。また、昨年秋には長崎港へそそぐ浦上川沿いを走る「都市計画道路・浦上川線」が開通し、市街地にスムーズな流れが生まれています。 まちの中の新しい流れを歩行者の立場から眺めてみようと、「長崎水辺の森公園」からスタートし、浦上川沿いを少し上流の稲佐橋までほど歩いてきました。大波止あたりから、浦上川線へつながる新しい道路の横には港の埋め立て地が広がっています。新聞報道によると、ここに、長崎県庁舎の移転が決まったとのこと。さえぎるものが何もない、今のうちだけの風景をしっかり眺めながら、旭大橋をくぐり、浦上川沿いを上流へ向かいました。 河口付近ということもあり、ほぼ平坦な道が続きます。右手には、長崎駅をはさんだ向こうに立山、そして、左手には稲佐山。そうしてぐるりと周りを見渡せば、鍋冠山、英彦山、豊前坊など、長崎港を囲むほとんどの山々が確認できます。 小型船舶が停泊する河口付近ののどかな風景やそこから望む港の様子は、観光客の方々にもぜひ見てほしいと思うほど、のびやかで気持ちのいい風景です。実は、この辺りは江戸時代の頃はほとんどが海でした。当時はどんな風景だったろうかと想像しながら歩いていると、川沿いの一角の手すりに「馬込橋」と記されたプレートが付いていました。その辺りは確か、江戸時代には浦上村馬込郷と呼ばれたところ。昔の地名を橋の名前として残していることに、ちょっと感動しました。 そこから稲佐橋まで、ほんの数分で到着。帰りは路面電車でもどろうと、宝町の電停に向かうと、幸運なことにこの2月から走り出したばかりの新車両「5000形」に乗ることができました。この車両の愛称は、「ガンダム」。その名の通りのイケメン車両で乗り心地はグッドでした。 この3月27日には、長崎港沖合に浮かぶ伊王島と長崎市香焼町を結ぶ伊王島大橋が開通。長崎市中心部から車で約30分で、伊王島へアクセス可能になります。この春も未来へ向かって、ドラマチックな変化が止まらない長崎です。

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  • 第373号【長崎の揚げ物、ゴウレンとヒロウズ】

     「ナシゴレン」というインドネシア料理があります。日本の魚醤に似た調味料やニンニク、唐辛子、香菜などを使った、いかにも東南アジアらしい香り漂うチャーハンです。「ナシ」は、ごはんのことで、「ゴレン」は油で「炒める」とか、「揚げる」という意味があるとか。インドネシアには「ミーゴレン」という焼きそばもあって、「ミー」は、中華めんのことをいうそうです。 ところで、長崎には「ゴウレン」と呼ばれる郷土料理があります。『長崎事典~風俗文化編~』(長崎文献社刊)によると、それは天ぷらに似たもので、ハモを骨切りにしたものを、酒、醤油、砂糖を合わせた調味料(ネギと生姜のみじん切りも少々加える)の中にしばらく漬け込んで味をつけ、小麦粉をまぶして油で揚げたものをいうそうです。長崎の郷土料理を紹介したほかの本を見ると、揚げる具材は、白身魚のほか、鶏肉を使っていたりします。長崎でいう「ゴウレン」とは、どうやら「揚げ物」のことをさすようなのです。 意味だけでなく、音も、ナシゴレンの「ゴレン」に通じる長崎の「ゴウレン」。その昔、オランダ東インド会社が、拠点のひとつであったインドネシアを経由して日本へ来ていたこと、また家康の時代に東南アジアと盛んに貿易していたいわゆる朱印船貿易などが、長崎へ「ゴウレン」が伝わるきっかけになったのではと想像したりします。 前述のとおり、「ゴウレン」とは揚げ物を意味し、その実態は、「魚の天ぷら」や「鶏肉の唐揚げ」と、ほとんど変わらないものです。60~70代の長崎の主婦の方々に「ゴウレン」について尋ねると、耳にしたことはあるが、どんな料理かを知らないという方がほとんどでした。地元で意外にも知名度が低いのは、「魚の天ぷら」、「鶏肉の唐揚げ」という言い方に馴染んでしまっているからかもしれません。長崎の料理屋さんなどで出している「ゴウレン」も、「鶏肉の唐揚げ」と言っても全く違和感はありません。 揚げ物の原型ともいわれる「ゴウレン」。長崎の揚げ物では、これまた変わった呼び名の「ヒロウス」というものがあります。これは、「飛龍頭(ひりゅうず)」とも呼ばれ、「がんもどき」と同じものです。「ヒロウス」の語源は、一説にはポルトガルの「filhos(フィリョース)」というお菓子(小麦粉と卵を混ぜてつくった生地を、油で揚げたもの)に由来するといわれています。江戸時代に著された「長崎夜話草」(西川如見)にも「ヒリュウス」で登場しています。  「ヒロウス」は、水気をしぼった豆腐に、ニンジン、ゴボウ、キヌサヤ、キクラゲなどのみじん切り、すった山イモなど混ぜて生地をつくり、丸い形に整えて揚げたものです。以前、中国伝来の普茶料理(肉類を使わない精進料理のこと)のメニューのひとつとして、長崎の唐寺でいただいたことがあります。ということは、ヒロウスのルーツは中国なのでしょうか? 長崎の郷土料理の語源をたどっていくと、途中で東西が入り交じり、真相がわからなくなってしまいます。それもまた、長崎らしさなのかもしれません。

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  • 第372号【2011長崎ランタンフェスティバル】

     見渡せば、どこもかしこも極彩色。1万5千個ものランタンが春の訪れを喜ぶかのように、優しくやわらかな明かりを揺らしています。 いま、長崎市中心部では、旧正月(春節)を祝う「2011長崎ランタンフェスティバル」(2月3日~2月17日開催)を開催中です。この冬は全国的に記録的な寒さが続きましたが、長崎ではこのフェスティバルがはじまる頃からじわじわと温かくなり、3月のような陽気に包まれた日もあるほどでした。行き交う人々の表情も、かなりほころんでいます。 ランタンフェスティバルは2週間という長丁場のイベントで、大勢の人々で賑わう(過去最高92万人集客)長崎の冬の風物詩です。長崎新地中華街に隣接する湊公園を主会場に、市中心部に全7カ所の会場が設けられ、中国獅子舞や龍踊り、中国雑技など中国色豊かなさまざまな催しが行われています。年々、規模や内容が充実しているなか、今年は「孔子廟(こうしびょう)」(長崎市大浦町)が新しい会場として加わりました。 黄色い屋根瓦が目を引く「孔子廟」は、歴史的に中国の影響を強く受けて来た長崎の中でも、特に中国色の強さを感じる建物です。さっそく足を運んでみると(イベント期間中、夕方5時から入場無料、夜9時まで)、孔子と孟子の大きなオブジェが入り口の庭園で出迎えてくれました。悠久の歴史をかもす中国独自の建築様式は、暗闇のなかでライトアップされることで、その魅力がぐっと引き立ち、幻想的な世界に変わります。「孔子廟」は、湊公園の会場から徒歩で10数分。大浦海岸通りを走る路面電車(「大浦天主堂下」または終点の「石橋」電停下車)を利用してもいいかもしれません。 主会場の湊公園では、干支にちなんだ巨大オブジェ(約8m)、「玉兔(ぎょくと)」が注目を浴びていました。月の女神になったといわれる伝説の女性と、玉(月)の上で不老不死の薬をキネでつくウサギの姿がかたどられています。毎年、この会場で今年の干支をあらためて確認しながら、良い年になるようにと心の中で手を合わせる人もいるかもしれません。 10分ほどの徒歩圏内で結ばれる各会場。その道すがら目を楽しませてくれるのは、中国の歴史に登場する有名人や伝説の生きもののオブジェです。それぞれには、物事がうまく運ぶようにとか、富や財を得られますようになど、さまざまな願いが込められていて、いわれを綴った説明板を読み歩くのも面白いです。 眼鏡橋がかかる中島川では、水面に映る黄色いランタンの美しい光景を楽しむことができます。そこから寺町通りへ向かい、唐寺・興福寺へ。連日催しで賑わう他の会場とは違い、ここはしっとり静かな佇まいです。おおらかな風情を漂わせる大雄宝殿で手を合わせ、北国でまだ続いている積雪の被害や宮崎県新燃岳の噴火災害の一日も早い終息を祈願したのでした。

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  • 第371号【長崎県亜熱帯植物園~グラバーゆかりのランほか~】

     大寒が過ぎて、見上げる空に何となく早春の光が感じられるようになりました。長崎のまちは「旧正月(春節)」を祝う「ランタンフェスティバル」(平成23年2月3日~2月17日開催)の準備がはじまっています。季節も人も、着々と春に向かって動いているのですね。  今回は、一足早く春めいた気分を味わいたくて、「長崎県亜熱帯植物園」に行ってきました。この植物園は、長崎駅から車で45分ほどの長崎半島の最西南端に位置する野母崎(のもざき)と呼ばれるエリアにあります。野母崎は、半島周辺を流れる対馬暖流の影響で、長崎市内でもとくに温暖な気候で知られるところです。たとえば冬場、長崎の市街地やその近郊に交通機関がマヒするほどの積雪があったとしても、野母崎の平地で雪が積もることはないといいます。また、霜も降りず、熱帯や亜熱帯の植物が育ちやすい環境なのだそうです。 さて、「長崎県亜熱帯植物園」は、日差しがたっぷり降りそそぐ丘の上にあり、美しい橘湾を隔てて天草や雲仙岳を見渡せます。斜面を利用した広い敷地には、地中海風の庭園やサボテン園をはじめ各種温室などが設けられ、全部で約1200種、4500本もの亜熱帯や熱帯の植物を楽しむことができます。どの季節に出かけても、折々に見頃の植物が出迎えてくれ、植物好きにはたまらないところです。この時期、屋外ではパンジーや椿、大温室ではカリアンドラ(中南米原産)やブラジルデイゴ(ブラジル原産)、ナンヨウザクラ(キューバ原産)などが個性的な花を咲かせていました。 さて、今回いちばんのお目当ては、日本最古の洋ランといわれる、「シンビジウム・トラキアナム」を見ることでした。1859年(安政6)、グラバーが上海から長崎に持ち込んだもので、のちにグラバーの庭師をしていた加藤百太郎氏が譲り受け、以来、その子孫によって大切に育てられたたいへん貴重な原種ランです。開花時期に合わせて、毎年この時期に特別展示をしています。 通称「グラバーさん」とも呼ばれるこのランは、ベージュと茶色のシックな色合いの花を咲かせます。今年は寒さが厳しかったこともあり、このときはまだ固いつぼみの状態。開花は2月中旬頃になるそうで、あらためて出直すことにしました。同じ温室では、「長崎朧」、「長崎娘」など長崎で交配されたランをはじめ、カトレアなどさまざまな種類の洋ランが美しい花を咲かせていました。いずれも美と個性にあふれ、時間を忘れて見入ってしまうほど。多くの人々をとりこにするランの魅力を垣間みることができました。 「ハイビスカス温室」へ足を運ぶと、ここでも満開の花々に出迎えられました。大きさ、形、色合いなど変化に富むハイビスカスの花。南国ムードあふれるその姿は心までパッと明るくしてくれます。 海側に近い歩道で耳を澄ますと聞こえてくる、潮騒の音。いろいろな野鳥とも出合えた長崎県亜熱帯植物園。子供たちのための広場もあり、家族でのびのびと自然を楽しめます。ぜひ、お出かけください。◎取材協力/長崎県亜熱帯植物園(長崎市脇岬町833)※長崎県亜熱帯植物園は2017年3月31日閉園いたしました

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  • 第370号【長崎風肉団子、フルカデン】

     寒いですね。先日、炬燵でのんびりテレビを見ていたら、スウェーデンの家庭料理「ミートボール」が紹介されていました。コケモモのジャムを使ったソースでいただくのがミソなのだそうです。海外通の友人によると、ヨーロッパ各国には、そうした肉団子系の家庭料理がいろいろあり、たとえばデンマークには、卵などのつなぎを入れて練った牛や豚のひき肉を、スプーンなどですくってフライパンに落とし小判型に焼いた「フリカデラ」と呼ばれる料理があるそうです。 「フリカデラ…」。長崎のことをよく知る方なら、この料理名にピン!と来たかもしれません。長崎には、「フルカデン」(フルカデールともいう)という牛ひき肉を使った西洋由来の伝統料理があるのです。「フルカデン」は、地元では牛かんとか、牛蒲鉾とも呼ばれる料理で、形はデンマークのそれとよく似た小判型です。ちなみにドイツにも「フリカデレ」という同じような料理があるそうです。 長崎の「フルカデン」は、「テンプラ」「パスティ」「ヒロウズ」「ヒカド」「ゴウレン」などと並んで、いまでは広い意味での「南蛮料理」という言葉でひとくくりにされています。こまかくいうとそれらの料理は、戦国末期から江戸時代初めにポルトガル人らが伝えた料理(南蛮料理)、出島のオランダ商館で作られていた料理(紅毛料理)に分類されます。もしかしたら中には、明治以降、居留地の外国人との交流の中で伝えられた料理もあるかもしれません。はてさて、「フルカデン」はいずれの時代に伝えられたのでしょうか。真相は定かではないようです。 「フルカデン色繪の皿に盛りてきぬ 迎陽亭の秋の夜の卓」。歌人・佐佐木信綱が昭和4年秋に長崎を訪れたときに詠んだものです。迎陽亭(こうようてい)は、文化元年(1804)に開業した料理屋で、長崎奉行所各藩に利用された由緒あるところです。明治~大正にかけても、夏目漱石や北原白秋など多くの有名人が訪れました。信綱にとって、フルカデンと称して出された一皿は、異国情緒あふれる長崎そのものだったのかもしれません。 さて、「フルカデン」は、和風のミニハンバーグみたいな料理です。簡単なので作ってみませんか。2人分:(1)合い挽き肉150g、タマネギ1/3個みじん切り、卵1個、小麦粉大さじ1、塩と砂糖各小さじ1/2を、ボウルに入れ、ハンバーグを作る要領で、ねばりが出るまでよく混ぜ、全体を8等分して小判型にまとめ、油で揚げます。このとき、表面を少し焦がすくらいになってもOKです。 (2)別鍋で沸騰させていたお湯に(1)を入れ3分ほどゆがいて油抜きをし、取り出します。(3)鍋にだし汁をつくり、醤油と砂糖で味を整え、(2)と付け合わせにする野菜を入れ、軽く煮たら、出来上がりです。 あっさり味がお好みの方には、ハンバーグよりも食べやすいはずです。また、ブラウンソースで煮込めば、洋風にも仕上がります。ぜひ、お試しください。 ◎本年もよろしくお願い申し上げます。

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  • 第369号【年末よもやま話(一茶から珍しい鳥居まで)】

     週末はいよいよクリスマス。そのあとは、大掃除をしたり、おせち料理をつくったりなど、やるべきことがいろいろ待ち構えています。もうひと頑張りして、大晦日、そして新年を気持ち良く迎えたいものですね。  大晦日を家族揃って過ごす方も多いと思いますが、大晦日の夜から元旦の朝にかけて、家長が神社仏閣に籠って祈願し、新年を迎えるという行事が昔からあって、それを「年籠(としごもり)」というそうです。越年祭とか除夜祭などもそうした類いの行事で、地域によっていろいろなスタイルがあるようです。大晦日を家族揃って起き明かし、初詣にでかけるというのも一種の「年籠」なのでしょう。 1793~94年(寛政5~6)、俳諧修行で長崎を訪れた小林一茶は「君が代やから人も来て年ごもり」という句を残しています。「から人」とは「唐人」のこと。一茶は唐人屋敷のそばに滞在したと伝えられており、おそらくこの界隈に住む中国人と出会い、年を越したのです。一茶は、異国の風情に包まれたまちで迎えた新年に、思わずホームシックにかかったのでしょうか。「初夢に古郷を見て涙哉」という句も残しています。 さて、長崎でもっとも初詣の参拝客が多いといわれるのは、長崎市民の総鎮守、諏訪神社(長崎市上西山)です。新年、いちばん最初に鳥居をくぐるとき、やはりいつもとは違う新鮮な気持ちに包まれます。諏訪神社の参道の階段には5つの鳥居があります。ご近所の方に鳥居にまつわる話をうかがうことができました。  それによると、現在の二の鳥居が、いちばん古いもので(1637年建立)、かつてはこれが一の鳥居だったとか。また、現在の一の鳥居は、戦前までは青銅製でしたが、戦時中の金属供出で撤去され、のちにコンクリートで再建されたそうです。また、一の鳥居のそばにひっそりと残されている欄干は、江戸時代、この辺りにあった橋の欄干なのだそうです。 鳥居といえば、諏訪神社界隈からそう遠くない場所に、2つの珍しい鳥居があります。ひとつは宮地嶽八幡神社(みやじだけはちまんじんじゃ)(長崎市八幡町)の陶器製の鳥居で、1888年(明治21)に奉納されたものです。有田磁器釜で製作されたもので、陶器製というのは全国でもほんの数カ所にしかないそうです。白磁に青色で描かれた文様が美しく、パーツを組み合わせて築かれています。その見事な技に、当時の職人さんたちの腕の良さと熱意が伝わってきます。 宮地嶽八幡神社から、徒歩10分くらいの場所に、かつて龍馬など亀山社中の人々も参拝したかもしれないといわれている、若宮稲荷神社(長崎市伊良林)があります。若宮稲荷神社の朱色の鳥居をくぐって、本殿へ登ると、そのすぐそばに、めずらしい形の柱を持つ鳥居が建っています。 通常、鳥居の柱は丸いのですが、この鳥居は方形なのです。これは、1822年(文政5)に長崎奉行所内の稲荷神社に、当時の長崎奉行である土方出雲守が奉納した鳥居で、明治末期に現在地に移されたとか。建立年から推察するに、長崎奉行所の激動の後半を見届けた鳥居と思われます。なぜ、方形なのかは、わからなかったのが残念。いまは、地域の人しか通らない小道もかねた参道にひっそりと建っています。 本年もご愛読いただき誠にありがとうございました。

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  • 第368号【浦上の信徒弾圧と外交問題と龍馬の策略】

     赤いポインセチアや美しく飾られたツリーを街のあちらこちらで見かけるようになりました。クリスマスの雰囲気って不思議なもので、ふと家族や友達の顔を思い浮かべて、あたたかい気持ちになったりします。クリスマス自体は、キリストの生誕にちなむものですが、いまでは宗教を問わず、多くの人がこの時期をホットに楽しむシーズンイベントとしてすっかり定着しています。 一方で世界には、紛争で人権が侵害されたり、宗教の違いからくる争いごとが絶えない地域もあって、クリスマスどころではない人々もたくさんいます。平和な国に暮らす私たち日本人にとって普段、基本的な人権が尊重されていることや、宗教の自由が約束されていることを意識することはなく、それが当たり前のこととして存在します。しかし、最初からそうした社会だったわけではありません。 ときは、幕末。キリシタン禁制の世にあって、1867年(慶応3)長崎・浦上では、「浦上4番崩れ」というキリシタンの迫害が起こりました。迫害を受けたのは、約250年に渡って密かにキリスト教の信仰を続けてきた浦上の農民たちです。その2年前、大浦の居留地に住む外国人のために建立されたカトリックの教会に、浦上の信徒が先祖代々、信仰を続けていたことをフランス人神父に告げた、「信徒発見」という出来事がありました。その話はヨーロッパに感動を持って報じられましたが、幕府は禁教政策をとりやめることはなく、信徒の取り締まりは続いていたのです。 そうした幕府の態度は、諸外国からの批判の対象となっていました。幕末、長崎に断続的に訪れていた坂本龍馬は、こうした状況を知っていたようです。その頃、進めていた大政奉還の運動がうまくいかなければ、キリスト教迫害の状況を使って、倒幕に結びつける、といった話をしたことが、同じ土佐藩の佐々木高行という人物の日記に残っているそうです。 しかし、間もなく龍馬は暗殺され、江戸幕府も倒れて、明治政府が誕生。キリシタン禁制は新政府にも引き継がれることになります。その後、明治政府は、浦上一村総流罪を決定。浦上村の全農民ともいわれる約3400人が各地に流配されました。流配先での信徒たちの扱いは、藩によって違いはあったものの、多くは改宗を迫られ、さまざまな拷問を受けたと伝えられています。 1871年(明治4)、岩倉具視をはじめとする明治政府の要人たちがメンバーとなった外交使節団は、アメリカに向かい幕末に結んだ通商条約の改正を求める交渉を行いましたが失敗に終わります。敗因は、「浦上四番崩れ」で政府が国民の信仰を迫害したことにあり、アメリカはそういう国を近代国家として認めないというものでした。同使節団は、ヨーロッパに渡っても各国から信仰弾圧を止めるよう求められます。そして、ついに、1873年(明治6)、明治政府はキリシタン禁制を廃止したのです。 あとから振り返れば、「浦上4番崩れ」は、時代が変わろうとする勢いの中で、起こるべくして起きた事件だったのかもしれません。現在の信仰の自由、ひいては人権を尊重する社会を築く大きなきっかけのひとつとして、浦上の信徒たちの多大な犠牲があったことを忘れてはいけないと思うのでした。◎参考にした本/浦上キリシタン流配事件(家近良樹)

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  • 第367号【ことはじめ:キャベツとパセリ】

     冬キャベツが出回りはじめました。長崎県では西彼杵半島の北部に位置する西海市などが主な生産地として知られています。やわらかな春キャベツに比べ、しっかりとした固めの葉が特長で、煮崩れしにくくコトコト煮込むロールキャベツにぴったりです。また、冬場のちゃんぽんも、そのシャキシャキとした歯応えでいっそうおいしさを引き立ててくれます。 ヨーロッパを原産とするキャベツは、17世紀の後半にオランダ船によって長崎に運び込まれたのが最初といわれています。当初は、葉牡丹、つまり観賞用として栽培されたようで、食用としての栽培がはじまったのは幕末から明治初期の頃だそうです。 キャベツには風邪の予防にもなるビタミンC、骨を強くするビタミンK、胃潰瘍の予防になるというビタミンUなどが含まれた身体にうれしい野菜です。トンカツにはキャベツをせん切りしたものが欠かせませんが、キャベツには消化・吸収を助け、消化不良によるむかつきも防ぐミネラルが含まれているので、理にかなった組み合わせだったのです。 さて、オランダ渡りの野菜といえば、パセリも然り。別名オランダゼリとも呼ばれているように、こちらも17世紀頃、オランダ船によって運ばれてきたそうです。ちなみに現在、出回っているパセリには、葉がこまかく縮れているタイプ(ちりめん種)と縮れのないタイプ(平葉種)がありますが、一般に私たちがパセリと呼んでいるのは、ちりめん種の方で、平葉種の方はイタリアンパセリと呼んでいます。 独特の香りと苦みが個性的なパセリ。その香りと小さな森のようなきれいな緑色から、メイン料理に添えられたり、スープにあしらわれたりするなど、主役を引き立てる役割が多いようです。カレーやサラダに添えられたりすると、つい残してしまう人も多いようですが、これは、食材を大切にするという意味はもちろん、優れた栄養価を摂りそびれているという点でも、本当にもったいないことなのです。 パセリにはビタミンCをはじめ、カロテン、ビタミンB1、ビタミンB2など健康づくりに欠かせない栄養素がたっぷり含まれています。鉄分も豊富で、貧血気味の人にはおすすめです。また、独特の香りのもとになっているピネン、アピオールという成分には、食欲増進や疲労回復、保温効果もあるという、良いことづくめの野菜なのです。 油との相性がいいパセリ。天ぷらでいただくのが好きという方も多いのではないでしょうか。小学生のお子さんを持つ友人が、「生のままでは苦手でも、甘い衣をつける長崎独特の天ぷらだと、子供たちはよく食べてくれるのよ」と言っていました。 この冬も、遠い昔に海を渡ってきた長崎ゆかりの野菜たちをたっぷり食べて、健康に過ごしたいものです。◎参考にした本/カラー百科「野菜と豆」(主婦の友社)、                からだによく効く食べ物事典(三浦理代監修/池田書店)

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  • 第366号【立石さんのくんちミニチュア】

     長崎市の中心繁華街・浜の町のとなりに位置する築町(つきまち)。地元の海の幸、山の幸が揃った市場があることでも知られる庶民的で活気にあふれたまちです。そんなまちの一角で理容店を営む立石侃(たていし あきら)さん。「くんちミニチュア」をつくって注目を浴びているベテランの理容師さんです。 万才町のオフィス街から下ってすぐの通りに面した場所にある「理容たていし」。そのディスプレイに買い物客が足を止め、しばらく見入っています。そこには、「御座船」(築町)をはじめ、「宝船」(鍛冶屋町)、「コッコデショ」(樺島町)、「唐船祭」(元船町)といったくんちの踊り町の演し物や傘ぼこのミニチュアが飾られているのです。「小さなお子さんと一緒に楽しそうに見ている方や、長時間立ち止まって細かいところまで見ている方もいらっしゃる。ときには年配の方がくんちの思い出話をしてくれたりして、こちらもうれしくなります」と笑顔で話す立石さん。 くんちの演し物の豪華な飾り付けや優雅な傘ぼこの文様まで、細かい部分も丁寧に再現された立石さんのミニチュア。見応えのあるつくりに、きっと長い製作のキャリアがあるのだろうと思って尋ねると、「理容店を営む傍らでつくりはじめたのは、平成15年(2003)のこと。この年は築町が踊り町で何か記念になるものをと、こしらえたのがきっかけです」。 わずか7年前。60代に入ってからの新しい挑戦だった「くんちミニチュア」づくり。よくよくお話をうかがうと、そこには40数年前に亡くなった立石さんのお父様の影響が見え隠れします。「父はべっ甲職人で、子供の頃は父の作業する姿を見て育ちました。ある日、父が留守のとき、自分もやってみようと思って高価な材料とも知らずに、べっ甲をバリバリ切ったことがあるんです。でも父は、怒りもせずにね、『こうするとばい』って教えてくれたんです」。ものづくりの遺伝子は、そうした親子のやりとりの中でしっかり立石さんの心に宿っていきました。 ミニチュアづくりは店内の片隅で、手が空いたときなどにコツコツと行うため、ひとつの作品に3カ月から半年ほどかかります。材料は、樹脂粘土やお菓子の化粧箱、和紙、布切れ、マッチ棒、割り箸など、ほとんど身近にあるものを用います。「ミニチュアづくりには、自分で創造して、いろいろ工夫する面白さがあります。完成したときの喜びがあり、それが人にほめられたら一層うれしいものです」。立石さんは、こうした体験ができるミニチュアづくりを子供たちに伝えたいという密かな夢を持っています。「何でもお金を出せば買える世の中にあって、子供たちには、自分にしかつくれないものがあることを知ってほしいのです」。 立石さんがミニチュアづくりをはじめてから7年がめぐり、今年また築町は踊り町のひとつとして勇壮で豪華な御座船を奉納しました。築町自治会の副会長を務める立石さんも町内の人とともに、踊り町の役割を無事に果たそうと紋付を着てがんばりました。「長崎くんちは、江戸時代から親から子へ、子から孫へと受け継がれた大切な行事。これからもしっかり繋いでいきたい」。 理容店のスタッフに恵まれ、町内会の人々にも信望が厚い立石さんは、「自分が人にされていやなことはしない」。「お客様のために一生懸命にがんばる」がモットー。くんちミニチュアがどこかほのぼのとして温かいのは、そんな立石さんの実直で優しい人柄が映し出されているからなのでしょう。

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  • 第365号【幕末に活躍した人物のお墓めぐり】

     10月初旬の新聞に、NHK大河ドラマ「龍馬伝」の収録が全て終わったという記事が出ていました。ドラマはいよいよ佳境に入り、それと同調するように長崎の龍馬ゆかりのスポットもさらに熱を帯びて、多くの人々で賑わっています。 龍馬が活躍した幕末は、いわずと知れた激動の時代。当時、「新しい知」の発信地であった長崎の街には龍馬をはじめ、さまざまな分野の人々が往来し、それぞれの思いを実現すべく日々を過ごしていました。今回は、龍馬と志を共にした者、芸術家、通訳などのお墓をめぐり、当時の彼らの活躍に思いを馳せます。 長崎駅の近くにある本蓮寺(ほんれんじ)。ここは、勝海舟が長崎海軍伝習所の伝習生頭役として航海術を学んでいた頃に住んでいたお寺として知られています。実は海舟や龍馬とつながりのある人物が、このお寺の墓地に眠っていることは、まだそれほど知られていません。それは、龍馬とともに土佐藩を脱藩し、海舟の門下生として学んだ沢村惣之丞です。 日本初の貿易商社、亀山社中(のちの海援隊)のメンバーとして活躍した惣之丞。当時、亀山社中の元気な若者たちは長崎の人々から「亀山ん(の)白袴」と呼ばれていましたが、惣之丞もそのひとりとして、血気盛んに過ごしていたに違いありません。そんな惣之丞が亡くなったのは、龍馬暗殺から2ヶ月後のことでした。慶応4年(1868)1月14日夜、海援隊が長崎奉行所を占領していたとき、惣之丞は誤って薩摩藩士を射殺。その責任をとって自決したのです。辞世の歌は『生きて世に残るとしても生きて世に有らん限りの齢なるらめ』。 惣之丞のお墓は、長崎市街地や港を一望する高台にありました。墓石の正面に刻まれているのは「村木氏他 土佐住民諸氏之墓」。実は長い間、惣之丞のお墓は確認できずにいたそうで、それが判明したのは平成2年のこと。墓石の側面にある「関雄之助延世」という名が惣之丞のことだそうです。 さて、惣之丞のお墓のすぐそばには、三浦梧門(1808-1860:みうらごもん)という画家のお墓があります。梧門は、鉄翁、木下逸雲と並ぶ長崎三大南画家のひとり。おだやかな人柄でお酒が大好きな先生だったそうです。 長崎ではどこでも見られる長くて、狭くて、とっても急な墓地内の階段をさらに下ると、代々オランダ通詞を務めたの森山家のお墓がありました。森山家は、幕末、プチャーチン来航やペリー来航の際、通訳として活躍した森山多吉郎(1820-1871)の実家です。実は多吉郎自身は明治4年に東京で亡くなっていて、巣鴨の本妙寺にお墓があります。余談ですが、本妙寺には長崎奉行も務めた遠山金四郎のお父さん、遠山左衛門尉景元のお墓もあります。  さて、ラストは本蓮寺から東へ車で10分。風頭山の山頂へ。ここには長崎港沖を見つめる龍馬像が建っています。その像のすぐそばには上野彦馬のお墓があります。彦馬は、日本の写真技術の始祖で、報道カメラマンの草分けともいわれる人物で、龍馬をはじめ当時の多くの著名人を撮影しています。風頭山では、龍馬の像を仰いだあと彦馬のお墓を参る人も少なくありません。この日、カメラマンをめざしているという若者が、墓前で手を合わせている姿に出会いました。

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