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  • 第619号【7月のあれこれ〜秋帆から東京オリンピックまで〜】

     長崎を含む九州北部は昨日、梅雨明け。梅雨末期の大雨で、各地で土砂災害や冠水などが相次ぎました。被害にあわれた方々に心よりお見舞い申し上げます。  今年も半年が過ぎました。早いですね。6月の最終日、長崎の諏訪神社では夏越大祓式「茅の輪くぐり」が行われました。この神事は、今年半年間の罪けがれを祓い、夏を無事に過ごせますようにと願うもの。拝殿前には、茅(かや)を束ねて大きな輪にした「茅の輪(ちのわ)」が置かれ、参拝者が次々に輪をくぐっていました。このとき、「水無月の夏越の祓へする人は千歳の命延ぶというなり」という和歌を唱えるのですが、くぐり方や唱える言葉は、地方によって違いがあるよう。でも、願うのはきっと、みな同じ。コロナ禍の夏を健やかにくぐり抜けることができますように。  「茅の輪くぐり」がうれしいことを引き寄せてくれたのか、その翌日、知人から「近江米(おうみまい)」をいただきました。産地である滋賀県は古くからの米所。ほんのり甘みのある「近江米」をおかわりしながら、ふと頭をよぎったのは、幕末の砲術家として知られる高島秋帆(1798-1866)のことでした。  長崎の町年寄(現在の市長に相当する役職)の家に生まれた秋帆。のちに11代目として家督を継ぐことになるのですが、そもそも高島家のルーツはというと、戦国時代は近江国(滋賀県)高島郡の領主で、戦国大名浅井長政に仕えていたそうです。長政が信長に背き滅亡したとき、高島家も離散。九州に逃れた領主の子と孫が、開港して間もない長崎にやって来たのが長崎・高島家のはじまりと伝えられています。  高島家は近江国を遠く離れた地にあっても、すぐに頭角を現しました。長崎・高島家の初代となる四郎兵衞茂春は、当時、長崎の町方を支配した4人の頭人(のちの町年寄)のひとりになっています。南蛮貿易港として栄えていたその頃の長崎は、全国各地のキリシタンが集まってきましたが、初代四郎兵衞茂春もゼロニモという洗礼名をもつキリシタンでした。その後、高島家は禁教令による混乱の時代を上手にくぐり抜け、町年寄の地位を代々維持したのでした。  高島家は、商取引の才もあり裕福な暮らしをしていたようです。長崎市万才町にあった高島家の跡地からは、17世紀の木製のチェスの駒、金のかんざし、西洋や東南アジアなどの陶磁器など、国際色豊かな品々が出土しています。また、三代目の四郎兵衞茂卿は、出島築造時に出資した有力商人のひとりとしてその名を連ねています。  長崎歴史文化博物館で開催中の「高島秋帆展」(2021年5月19日〜7月19日)へ足を運びました。砲術家として足跡だけでなく、能書家であった秋帆の姿を垣間見ることができました。展示された秋帆の書画のひとつ「猛虎図」は、捕まえた鬼(病魔)を虎に喰わせるという中国の話に、虎の絵が描かれたもので、安政の頃にコレラが流行ったとき、この虎の絵がコレラ除けとして多くの人に求められたというエピソードが紹介されていました。この虎の絵をあしらったエコバックを同館のショップで見つけ、迷わず買ってしまいました。  さて、話は変わりますが、いよいよ来週23日から「東京2020オリンピック」が開幕します。1964年の東京オリンピックをご存知の方々は、経済成長の只中にあった当時を振り返り、感慨深いものがあるのではないでしょうか。ちなみに当時の郵便はがきは5円、封書は10円。このオリンピックを3ヶ月後に控えた同年7月にみろく屋も創業しました。  いろいろな思いを乗り越え、コロナ感染予防対策を万全にして、テレビの前で選手たちの熱戦を応援したいものですね。ガンバレ、ニッポン!  参考にした本:「高島秋帆」(宮川雅一/長崎文献社)

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  • 第618号【 福沢諭吉と光永寺】

     雨にしっとりとぬれた紫陽花の美しいことといったらありません。長崎の家々の軒先に咲く紫陽花は見頃を迎え、すでに花期は終盤です。梅雨空のもと、花を咲かせているのは紫陽花だけではありません。アマリリス、ユリ、ノウゼンカズラなど初夏の花々が次々に開花。ナツツバキもそのひとつです。  直径5〜6センチほどの白い花を咲かせるナツツバキ(ツバキ科の落葉高木)。日本では別名「サラソウジュ(娑羅双樹)」「シャラノキ」などとも呼ばれ、古くから寺院などの庭に植えられてきました。中島川沿いにある光永寺(長崎市桶屋町)の境内でも育てられています。同寺に掲げられた説明版によると、この花は、朝に咲いて夕方には閉じる1日花。そのことが「無常」のたとえとなり、日本では平家物語の冒頭にある『祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 娑羅双樹の花の色…』の花とされました。実は、仏教の聖樹サラソウジュはインド原産のフタバガキ科の常緑高木。日本では育ちにくいため、ナツツバキをサラソウジュに擬したそうです。  ナツツバキは、通常6〜7月が開花時期。今年、光永寺では開花が早かったそうで、6月はじめには花が終わりました。  ところで、光永寺の境内の中央には、樹齢470年とも言われる大イチョウが鎮座し、春夏の青葉、秋の黄葉、冬枯れの姿と、四季折々に来訪者の目を楽しませています。167年前、このイチョウの四季の姿を眺めたと思われるのが、若き日の福沢諭吉(1834-1901)です。  福沢(当時19才)は1854年(安政元)2月、蘭学を志して長崎へ。約1年このまちで勉学に励みました。このとき食客として最初に世話になったのが光永寺です(のちに近所の砲術家の食客になる)。長崎滞在時のさまざまなエピソードは、『福翁自伝』(福沢諭吉著/岩波文庫)に綴られています。同書によると、当時の福沢は、たいへんな大酒飲みでしたが、長崎では周囲に下戸と偽っていました。「…トウトウ辛抱して1年の間、正体を現さずに、翌年の春長崎を去って諫早に来たとき、初めてウント飲んだことがある。……」と同書に記しています。諫早は長崎に近い宿場まち。おそらく長崎を離れた初日に諫早に着き、1年分のがまんを解き放ったのでありましょう。  また、同書には、1854年11月に起きた「安政の大地震」の揺れが、長崎にまで及んでいたことも記されています。そのとき福沢は、光永寺から歩いてすぐの砲術家のところで居候中。掃除などの家事に勤しむなか、表の井戸端で桶に水を汲んだとき、突如ガタガタと揺れが来て足を滑らせたそうです。  『福翁自伝』は、啓蒙思想家、そして慶應義塾の創始者で教育者でもあった福沢諭吉の目を通して、激動の幕末〜明治の空気を味わえる名著です。福沢は自身の良いことも悪いことも隠さず、ときにユーモア混じりで述べていて好感が持てます。   長崎・諏訪神社の参道の一角には、慶應義塾関係者によって建立された福沢諭吉像の碑があります。台座には福沢が『学問のすゝめ』の冒頭に記した「天は人の上に人を造らず 人の下に人を造らずと云へり」が刻まれています。

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  • 第617号【梅雨入り前の長崎】

     コロナ禍に迎えた2度目の春は、しだいに雨の季節へ移ろうとしています。先週5月5日「子どもの日」は、二十四節気でいう「立夏」でした。さわやかで過ごしやすい時候ではありますが、この日、沖縄・奄美地方は平年より1週間ほど早く梅雨入り。長崎を含む九州北部地方は、沖縄に遅れること約1ヶ月弱で梅雨入りするのが常ですが、季節は、前倒し気味に移り変わっているので、梅雨入りも早くなりそうな気配。長崎ではアジサイが色づきはじめました。  季節が早めに巡っていることが、花々の開花の状況でわかります。例年なら5月初旬に開花して、数日間だけ芳香を放つ一覧橋(中島川の石橋群のひとつ)のたもとのクスノキが、今年は4月下旬に満開になりました。ところで、クスノキの花は見たことがないという方もいらっしゃるかもしれません。クスノキは、春の終わり頃から初夏にかけて、黄白色の小さな花を無数につけますが、新緑の輝きにまぎれ、花は見過ごされがちです。その香りは、クスノキの枝や幹を原料に作られる樟脳とはまた違った、清涼感のある甘く心地いい香りです。  さて、長崎では、ザクロの花も例年より早く開花しています。毎年、6月1日の「小屋入り」(「長崎くんち」のはじまりを告げる行事)が近づくと咲きはじめるのですが、今年は4月末頃につぼみが開きはじめました。個人的にザクロの開花を確認する標本木としているのは、「長崎くんち」の舞台となる諏訪神社の参道の一角に植えられたものです。  先月、今年の「長崎くんち」の奉納踊りと御神幸が、新型コロナの影響で、昨年に続いて中止にしたと発表がありました。来年に繰り延べとなった踊町の方々が、この2年間のきびしい状況を乗り越え、来年すばらしい奉納踊を見せてくれることを楽しみにしたいものです。  季節が前倒し気味といいながら、例年通りの様子を見せているのが、路地ビワです。人の手入れが行き届かない川端や道脇などで自然に育ったビワの木が、梅雨入りを前に橙色の果実をたわわに実らせています。茂木ビワの産地でもある長崎は、毎年、大型連休が終わる頃から、店頭に並ぶビワの数がぐんと増え、お値段もお手頃に。ビワはやさしい甘さの果汁がたっぷりで、薬膳では、咳止めや熱が出て喉が渇くときなどに用いられます。葉や種にも薬効があることが昔から知られ、ビワ茶などは疲労回復に効果があります。  話は変わりますが、大型連休中、思いがけない場所でミサゴと思われる鳥を見かけました。そこは、長崎駅前の高架広場。餌を見つけたのか、急に上空から降りてきて低空飛行。餌を取り損ね上空へ上がったかと思うと2度旋回、再び下降しホバリングのような動きを見せ、床面に向かってヒュッと降り、その後、駅舎側へと飛び去っていきました。顔からお腹にかけて白かったので、トビではありません。あわてて写真を撮ったので、種類を見極められるほど詳細な写りでないのが残念です。   数ヶ月前ミサゴを見かけたのは、野母崎の海でした。ミサゴは海岸や大きな河川の近くに生息するタカの仲間。長崎駅は、海や河川が近いとはいえ、人や車の喧騒が絶えません。そんな場所でトビにも似た大胆な行動を見せたのには驚かされます。ただ、後になって知ったのですが、小動物を餌にすることが多いタカの仲間のなかで、ミサゴは、ボラやトビウオ、イワシなど、魚を餌にするそう。今回見かけた鳥は、広場の小動物らしきものを狙ったと思われるので、ミサゴではないかも…。では、いったい何という鳥だったのでしょうか。次の偶然の出会いを待ちたいと思います。

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  • 第616号【希望を携え龍馬像をめぐる】

     4月に入ってからの長崎は、春というより、早くも初夏の陽気に包まれる日が多くなりました。ぐんぐん上がる気温に乗って、ご近所の春バラが空に向かって大輪の花を咲かせました。つい先日まで桜が満開だったのに、季節はどんどん移り変わっています。例年よりも早く北上している桜前線は、いま青森あたりでしょうか。長崎市の桜の名所のひとつとして知られる風頭公園に足を運ぶと、龍馬の銅像が楠や桜の青葉を背景に、長崎港の沖合を見つめていました。   「龍馬さん、あなたなら、いまの時代をどんなふうに生きるでしょう?」。思わず、そんな質問をしたくなる龍馬像。幕末の志士、坂本龍馬(1836-1867)は、新しい時代に目覚め、前例にとらわれないやり方で突き進み、ズンズンと時代を動かしました。こだわりのないおおらかな人柄だったそうで、時代を超えて多くの人々を魅了し続けています。  新型コロナの影響で観光客が激減したいまも、マスクを付けた龍馬ファンとおぼしき人たちが、風頭山の山頂にあるこの龍馬像をめざして登っていく姿を見かけます。というのも、この界隈は龍馬たちが闊歩したスポットとして、龍馬ファンにはたまらないエリアなのです。風頭公園近くから「龍馬通り」と称する階段を下ると、山の中腹には龍馬が率いた「亀山社中の跡」があり、社中のメンバーが参拝に訪れたといわれる「若宮稲荷神社」や龍馬らが利用した料亭「玉川亭の跡」、上野彦馬の撮影局跡などがあります。ちなみに「若宮稲荷神社」の境内にも龍馬像がありますが、こちらは風頭公園の銅像の原型だそう。顔立ちがより若々しい印象です。  昨年11月には、聖福寺(長崎市筑後町)に龍馬像が建立されました。50センチほどの高さで、風頭公園の銅像と同じ作者だそう。こちらの像は、後頭部にまとめた髪がポニーテールになっています。聖福寺は、「いろは丸事件」(龍馬たちが乗った船と紀州藩の船が衝突した事件)の談判が行われた場所で、話し合いには龍馬も同席しました。その日、どんな気持ちで山門(国宝)をくぐり、参道を歩いたのでしょう。境内の古めかしい石畳や石段を龍馬も踏みしめたかと思うとドキドキします。  ところで、聖福寺はいま、修復工事の真っ最中。境内にあった大きな楠や金木犀などの樹木が工事の都合で伐採されたことで、はからずも大雄宝殿の全景を撮ることができました。修復作業は長丁場で、これから10年ほどかけて行われるそうです。  さて、龍馬の銅像は、丸山公園にも設けられています。丸山公園は花街丸山の跡地にあり、龍馬ら海援隊の面々も訪れていたようです。1867年(慶応3)に起きたイカルス号事件(英国人水夫が丸山で惨殺された事件)では、海援隊のメンバーが犯人ではないかと疑われ(のちに嫌疑は晴れる)、龍馬を悩ませたこともありました。   銅像をめぐりながら当時の出来事を振り返ると、龍馬はさまざまな試練や苦難を成長の糧にしていたこと、そして新時代への希望を抱いて行動していたことがわかります。時代を超えて龍馬が愛される理由はそんなところにありそうです。

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  • 第615号【長崎開港450年を迎える春】

     今年は記録的な早さで各地の桜が開花。長崎も今月14日に開花宣言が出て、いまはちょうど満開のときを迎えています。小鳥たちは桜の花の蜜を求めて、枝から枝へ。いつもなら動きが素早い小鳥も、おいしそうな蜜を求めてしばらく枝に留まるので、写真が撮りやすいです。  長崎港を見渡す高台に出て、ぐるりと見渡せば、港を囲む緑の山肌や住宅街のあちらこちらに薄桃色の花を満開にした桜が見えます。ただ、咲いてくれるだけで、心が浮き立つ桜。昔々の人々も、同じような気分でこの季節を迎えていたのでしょうか。  さて、はじまりの春を知らせる桜。1週間後には新年度がスタートします。長崎はこの4月に「長崎開港450周年」を迎えるということで、令和3年度はさまざまな記念イベントが予定されているようです。ただいま建設中の長崎市役所新庁舎の工事現場を囲う壁には、「長崎開港450周年」のロゴマークが描かれ、通行人の目をとめています。それを見てふと、50年前の400周年のときはどんなデザインのマークを使ったのかなと思って、調べてみました。  長崎開港400周年は、1970年。大阪で日本万国博覧会が開催された年でもあります。くだんのマークは、『長崎開港400年のあらまし』(「長崎開港400年記念実行委員会」発行)という冊子の裏表紙で見つけました。マークの説明には「波がしらと鶴の組み合わせは、将来への躍進を象徴し、これを出島の扇型で囲む。くちばしの部分は開港を示す。」とあります。  50年前のマークのモチーフのひとつに鶴が使われているのは、長崎港が「鶴の港」と称されていたからでしょう。「鶴の港」の由来は、港の輪郭が、鶴が翼を広げたような形に似ているからという説が主流でしたが、本当のところは定かではないそうです。振り返れば、長崎港が「鶴の港」と称されていたのは昭和の時代までだったかもしれません。平成に入り、埋め立てなどで港湾の形がますます変わっていくなかで、「鶴の港」という言葉をしだいに見聞きしなくなった気がします。  そもそも「鶴の港」と呼ばれはじめたのはいつの頃だったのでしょう。開港前の長崎の歴史をひもとけば、当時の領主だった長崎氏は、鎌倉時代の貞応年間(十三世紀前半)に、東国からこの地にやって来て、入江(港)から少し奥まったところに「鶴城(つるのしろ)」と呼ばれる居城を構えたと伝えられています(「城の古趾」(長崎市夫婦川))。勝手な想像ですが、「鶴の港」は、この「鶴城」の名にゆかりがあるかもしれません。港が整備される前の自然な入江の時代には、干潟のような場所もあり、その昔には鶴が渡りの際に羽を休めていたのではないかという話を聞いたことがあります。鶴が舞い降りる地に由来しての「鶴城」そして「鶴の港」だったかも、などと想像の羽は広がるばかりです。   半世紀前の「鶴の港」の写真には、「女神大橋」はなく、「長崎水辺の森公園」もありません。当時あった「長崎魚市場」はなく、埋め立てられたその界隈には現在、長崎県庁、長崎県警察本部が建っています。1571年にポルトガル船が初めて来航して以来、南蛮貿易時代、出島の時代を経て、幕末〜明治の居留地時代、そして大正〜昭和初期の上海航路の時代など、さまざまな表情で時代を物語ってきた長崎港。これから50年後には、どんな姿を見せているでしょうか。

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  • 第614号【春のグラバー園で富三郎を想う】

     近頃のお天気は、「春に三日の晴れ無し」ということわざ通り、短いサイクルで晴れたり、曇ったり。そうやってしだいに春めく様子は、暮らしのいろいろなシーンで感じられます。スーパーの鮮魚コーナーは、一年を通して見かけるアジやイワシ、モチウオなどのほかに、旬のマダイ、アマダイなどが並んで春らしい彩りに。その美しい紅色の姿を見て、ふと思い出したのが、グラバー図譜でした。  通称・グラバー図譜こと『日本西部及び南部魚類図譜』は、幕末〜明治の日本で活躍した英国出身の商人トーマス・ブレーク・グラバーの息子である倉場富三郎(1871-1945)が、長崎魚市場に水揚げされる魚類を、地元の画家を雇って制作したものです。描かれた魚類は約600種(図版総数約800枚)に及び、緻密で美しい彩色の描写で知られています。  グラバー図譜は、当時、長崎でトロール漁業の会社等を営む実業家であり、水産学者でもあった富三郎が、日本の魚類の分類学に寄与するために制作したといわれています。大正から昭和初期にかけて21年の歳月と莫大な資金がかけられており、それぞれの図版には、富三郎自らが多くの文献を調べて、学名、和名、俗名などを記しています。図譜にかける富三郎の熱意がうかがえます。  現在、グラバー図譜は、長崎大学附属図書館が所蔵。データベース化されていて、インターネットで閲覧できます。実は、グラバー図譜は、終戦直後に亡くなった富三郎の遺言で、渋沢栄一の孫の渋沢敬三(1896-1963:財界人、民俗学者、第16代日本銀行総裁、大蔵大臣)に託されました。そして、その数年後、再び長崎へもどってきます。その経緯については、1970年代にグラバー図譜の全図版を写真版でまとめた『グラバー図譜』(全5巻・長崎大学水産学部編)にある、渋沢の寄稿(第1巻)の中で述べられています。関心のある方は、長崎市図書館などでご覧になってみてはいかがでしょう。  富三郎のことを思いながらグラバー園へ。グラバーそして、富三郎が暮らした旧グラバー住宅は、2年前から保存修理工事中(工事終了は今年10月29日を予定)でした。庭の一角ではシモクレンがちょっと早めの開花を迎えていました。  現在、旧グラバー住宅に展示されていた品などは、園内の旧リンガー住宅、旧スチイル記念学校にそれぞれ移され、「グラバー特設展」として紹介されています。長崎に生まれ、東京の学習院、アメリカのペンシルバニア大学で学んだ富三郎は、地元長崎にもどると実業家として活躍しました。明治〜大正〜昭和の激動の時代を生き抜く中、父がグラバーであることや自身の日本人離れした容姿などについて、きっと他人には推し量れない複雑な思いがあったことでしょう。  旧リンガー住宅での「グラバー特設展」で、グラバー住宅の食堂を富三郎が撮影した写真が展示されていました。その写真に、藤製の大きなつい立てが写っていて、その現物も見ることができました。つい立は、すっかり色あせていましたが、手の込んだ堅牢な作りに、裕福な暮らしぶりがうかがえました。  長崎港を見渡す緑豊かな丘の上にあるグラバー園。園内を歩いていると、もうじき北へ帰るアカハラ、ジョウビタキの姿がありました。富三郎も、この場所で渡って来た鳥たちを見たかもしれません。  ◎参考にした本/『グラバー図譜』第1〜5巻(長崎大学水産学部 編)  

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  • 第613号【沈丁花とツュンベリー】

     開花とともに、あたりに甘い香りを漂わせる沈丁花。早春を知らせる芳香ですが、マスクをしているとなかなか気付きにくいですね。ご近所の方が、通行人にも香りを楽しんでもらおうと思われたのか、咲きはじめた沈丁花の鉢植えを通り沿いに出していました。マスクをずらして、しばし芳香を楽しめば、卒業や進学、就職など、人生の大切な節目を迎えた春の記憶があれこれよみがえります。香りって不思議ですね。  沈丁花の原産地は、中国中部からヒマラヤ地域にかけて。日本へは室町時代に渡来したといわれています。沈丁花の名は、香木の「沈香(じんこう)」と、エキゾチックな香りのスパイス「丁子(ちょうじ)」(クローブ)に由来。学名であるDaphne odoraの名付け親は、江戸時代、出島のオランダ商館付医師として来日したツュンベリーだそう。植物学者でもあったツュンベリーは、出島で栽培されていた沈丁花を観察し、学名を付け学会に発表。この学名の語源も、やはり芳香を意味する言葉だそうです。  スウエーデン生まれのツュンベリーは、生物の分類学の創始者であるリンネ(1707-1778)の高弟で、植物学者として優れた才能を持っていました。出島にやって来たのは1775年で、滞在はわずか1年ほどでしたが、その間に採取した日本の植物は800種余りもあったそう。帰国後、その植物を『日本植物誌』に著し、ヨーロッパに広く紹介しました。このとき、初めて世界に紹介された植物も多く、カキ(Diospyros kaki)、サザンカ(Camellia Sasanqua)など、日本での呼び名がそのまま学名になったものもあります。  ツュンベリーは、同じオランダ商館付医師として1690年に来日したケンペル、1823年に来日したシーボルトらと並び、出島の三学者と呼ばれる人物です。三人は、それぞれの時代においてヨーロッパの近代医学を日本に伝え、来日中は、優れた収集力と洞察力で日本の自然や風習、文化などを調査・観察し、帰国後にそれらを著し、広くヨーロッパの人々に伝えました。現在、出島には、かつて薬草園だった場所に、ケンペルとツュンベリーの名を刻んだ記念碑が残されています。これは、シーボルトが先達のふたりの功績を讃えて1826年に建立したものです。  三学者らが、日本の植物などを数多くヨーロッパに伝えた一方で、日本にはじめてオランダ船が運んできた植物にはどんなものがあったのでしょう。往時の町並みが復元されつつある現在の出島の西側近くに建つ「二番蔵」にその答えが展示されていました。野菜や果物なら、トマトやセロリ、パセリ、パイナップル、イチゴなど。花なら、キズイセン、ストック、シロツメクサ、マリーゴールド、カラー、ヒマワリ、オシロイバナ、キンレンカなどなど。いまでは、日本の暮らしになじみのあるものばかりですね。  冒頭で紹介した沈丁花の名にゆかりのある丁子(クローブ)も、シナモンやナツメグとともに、痛み止めや防腐効果などのある薬種のひとつとしてオランダ船がたくさん運んで来ていました。いまでは、料理やお菓子作りによく使われるスパイスですが、当時はとっても貴重なものだったようです。  ◎参考にした本/『ガーデニング植物誌』(大場秀章)

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  • 第612号【春がはじまる2月】

     今年の節分は、124年ぶりの2月2日でしたね。各地の神社では、新型コロナウイルス感染予防対策を万全にして、古いお札やお守りをお焚き上げする火焼神事(ほやきしんじ)が行われました。長崎市民の総鎮守・諏訪神社では、毎年賑やかに行われてきた節分祭の年男・年女による豆まき行事は中止となりましたが、火焼神事は例年どおり踊馬場で行われました。人々がとても静かに炎を囲んでいたのが印象的でした。  立春(2月3日)が過ぎてから、九州はおおむね晴天が続いています。春めく日差しのなか、ぐんと気温が下がる日もありますが、そうやって春がやって来るのですね。気象で春を告げる現象のひとつに、「春一番」がありますが、これは立春から春分の間に、初めて吹く南寄りの強風のこと。「春一番」が吹くと日本海の低気圧が発達し高波や激しい雨などの荒れた天候になります。今年、関東地方では、立春の翌日に「春一番」が来ました。これは、過去最も早い記録だそう。実は九州北部では、立春前の2月1日に「春一番」を思わせる強風に見舞われました。もしかして、季節は前倒しで巡っているのかもしれません。  もうひとつ、春によく見られる気象現象に、「黄砂」があります。「黄砂」は、中国大陸の黄土地帯で多量に吹き上げられた砂じんが、偏西風に乗って日本へ飛来するものです。砂じんは大気中に浮遊、あるいは地上にふりそそぐため、空気が埃っぽく感じられ、視界も悪くなります。この「黄砂」が、数日前の2月7日に飛来。長崎のまちは、うっすらと黄色がかった大気に包まれました。  「黄砂」のように、中国大陸から渡って来たものと言えば、長崎には数え切れないほどありますが、節分に食べられる長崎の伝統野菜、紅大根(あかだいこん)もそのひとつです。一説には江戸時代に中国から渡り伝えられたといわれています。紅色をした細長い姿が「赤鬼の腕」のようだとして、食べれば鬼退治になる、子供たちがたくましく育つとして、昔から節分の日には神棚に供えられ、その後、甘酢漬けなどにしていただきました。  紅大根は、大根とはいってもカブの仲間。2ミリほどの厚さの紅い皮の下は、真っ白です。甘酢漬けにすると、皮の色素がより鮮やかになり白い部分も真っ赤に染めてしまいます。この紅色は何かと体にいいアントシアンの色素です。また大根と同じように豊富に含まれたジアスターゼ等の酵素が消化を助けます。  節分の日に赤大根とともに食べられるのが、地元で「ガッツ」と呼ばれ親しまれている、金頭(かながしら)という魚の煮付けです。その名前からしてお金が貯まるという縁起もの。内臓をとらずまるごと煮付けていただきます。アラカブにも似たダシがよく出るので、味噌汁にしてもおいしいです。   「紅大根の甘酢付け」や「金頭の煮付け」のように、大きな時代の危機や変化をいくつもくぐり抜けながら、長い間、食べ継がれてきた行事食は、全国各地にいろいろと残っています。それを、人々がけして手放さなかったのは、季節感や味わいもさることながら、その行事食に込める人々の願いが、どんな時代も切実で変わらぬものであったからかもしれません。

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  • 第611号【長崎のウメ、咲きはじめました】

     季節はまだ「寒の内」。九州では、積雪のあと3月のような陽気に汗ばむ日もあるなど、寒暖の極端な天候が続いています。そうしたなか、季節は着々と春へ向かっているようです。地元の野菜が並ぶお店で、「ふきのとう」を見かけました。雪解けの頃に芽を出し、いち早く春を告げる「ふきのとう」。その独特の芳香と苦味をさっそく和え物にして楽しみました。  早春といえば、そろそろウメも咲きはじめる頃ですね。ちなみに、昨年の長崎のウメの開花日は1月16日。今年の発表はまだのようです(長崎地方気象台HPより)。余談ですが、ウメやソメイヨシノなどの開花やウグイスの初鳴きといった季節によって変化する植物や動物の状態を観測する「生物季節観測」について、昨年末にちょっと寂しいニュースがありました。気象庁で長年続けてきた「生物季節観測」が、その対象となる全57種類の動植物のうち、51種類が昨年いっぱいで廃止に。ウメ、サクラ、アジサイ、ススキ、カエデ、イチョウの6種類の植物の観測は続けられるそうです。  さて、ウメの観測が続けられることにホッとしながら訪れたのは、「松森天満宮」(長崎市上西山)です。緑豊かな境内の静けさを楽しみながら本殿へ向かうと、新型コロナウイルス感染予防のため、手水鉢のひしゃくと、参拝時に鳴らす鈴の緒がはずされていました。ここの手水鉢は植物をかたどったような文様が美しいことで知られています。昭和13年発行の『長崎市史地誌篇神社教会部上巻』にも「其の形状は朝顔花を模し構造が巧妙であるので観賞を惹いて居る」と紹介されています。コロナ以前は、鉢の中央に竹を渡してひしゃくが置かれていましたが、思わぬ事情でその文様全体を見ることができました。  菅原道真公を祀る松の森天満宮。この時期は、受験生の姿をよく目にするのですが、今年はコロナ禍だからか、学生さんは少ないよう。「代わりに親御さんがいらしているようですよ」と神社の方がおっしゃっていました。  参拝を済ませたら、のんびりと境内をひとめぐり。点在する楠の巨木(市指定の天然記念物)は参拝者を温かく見守るかのよう。本殿そばに植えられたウメの木は数輪が開花し、たくさんの蕾はいまにも咲きそうなふくらみでした。ウメよりも数週間ほど早く開花したロウバイも、香りは弱くなっていましたが、花に顔を近づけると水仙に似たさわやかな芳香が残っていました。「今年は天候が不順で、ロウバイにしてもウメにしても開花や、見頃については、なかなか予測がつきにくいのですよ」と神社の方。  本殿の裏手に回ると、大きく育った柑橘の木が今年もたくさんの実を付けていました。その実は、温州みかんくらいの大きさで色はレモンに近い。長年気になっていたその種類を神社の方にうかがうと、「以前、調べてもらったのですが、どうも、ゆうこうらしいのです」とのこと。「ゆうこう」は、ユズやスダチ、カボスなどと同じ香酸柑橘の一種で、長崎の伝統柑橘です。長崎市内では、キリシタンゆかりの地に自生が確認されています。   江戸時代前期の寛永3年(1626)に創建され、明暦2年(1656)に現在地に移設された松森天満宮。人の目にふれにくい本殿裏手の片隅で、のびのびと育ったゆうこうの木。自生なのか、誰かが植えたものなのか、その由来はまったく分からないそうです。

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  • 第610号【ふっくらかわいい冬の野鳥】

     昨年末から「冬らしい寒さ」が続いています。先週からの強い寒波の影響で、北陸・新潟などでは記録的な大雪に。積雪による被害にあわれた方々に心よりお見舞い申し上げます。長崎でも先週末、最大15センチの積雪がありました。北国に比べたらわずかですが、なにせ雪には不慣れな土地柄です。公共交通機関は一時運転を見合わせ、観光スポットやお店は、臨時休業や営業時間を遅らせるなどの対応に追われたようです。  さて、いろいろと厳しい状況が続きますが、今年最初の当コラムでは、冬の野鳥の姿でひととき和んでいただきたいと思います。いずれも、石橋群で知られる中島川界隈で見かけるおなじみの鳥たちです。  トップバッターは、丸々とした姿がかわいらしい「ふくらスズメ」です。羽毛はもともと断熱性に富んでいますが、羽をふくらませることで空気の層を作り、より保温力を高めます。冬にしかお目にかかれないこの姿は、「寒雀」とも呼ばれ俳句などでもよく詠まれます。「寒雀酒蔵を出る糀の香」長崎ゆかりの俳人、森澄雄(1919-2010)の句です。厳寒の時期、酒の仕込みをする酒蔵の風景が蘇ります。  羽毛をふくらませているのは、スズメだけではありません。川辺で獲物をじっと探していたのはイソヒヨドリです。ふくらむと別の鳥のようにも見えます。ムクドリやメジロも寒さ対策は同じ。お腹をふくらましたフグを連想します。  積雪の日の朝、最初に出会ったのがジョウビタキでした。秋、極寒を迎える前に大陸を離れ渡ってくるだけあって、日本の冬の寒さなど、どうってことないのです。メスはとってもかわいい。オスもまあ、かわいい。オスとメスは同じ種類とは思えないほど体の色が違いますが、よく見ると、両方とも翼の同じ場所に白斑があり、尾羽がきれいな橙色をしています。  川辺でじっとしていたかと思うと、すばやく飛び立ち水面にむかってダイビングしたのはカワセミです。長いクチバシで小魚をとらえました。防水性のある羽が水をはじくのでビショビショになったりしません。  逆さになって、ナンキンハゼの実をついばんでいたのは、シジュウカラ。全国各地に生息する留鳥です。枝先にぶらさがったり、逆さの体勢で餌をとるのが得意技です。  イソシギは、中島川の上流から河口付近にかけて見かけます。トコトコと歩きながら、細くて長いクチバシで餌をついばみます。お腹の真っ白な羽毛が翼の付け根のところまでくいこんでいるのが特長です。  餌が少なくなる冬は、野鳥にとってもきびいしい季節ですが、小さいながらも、したたかに生きる姿に、ちょっぴり励まされます。 今年もみろく屋の「ちゃんぽんコラム」を、よろしくお願い申し上げます。  

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  • 第609号【見えてきた!長崎の近未来】

     師走も中旬を過ぎた頃から、長崎もようやく冬らしい寒さになってきました。北陸や関東北部など大雪に見舞われた地域の方々に心を寄せつつ、日々のあれこれをたんたんとこなしながら、できるだけ静かに、やさしい気持ちでコロナ禍の暮れを過ごせたらいいですね。  散歩がてら緑豊かな諏訪の杜へ足を運ぶと、大きな楠の枝にノスリが留まっていました。ノスリはタカ科の漂鳥で、全長約55センチ。フクロウにも似た丸みを帯びた姿をしています。曲がったクチバシと目が、いかにも猛禽類らしい。タカ科ならではの目力で周囲を見渡していました。  ノスリを見かけたのは、かつて長崎県立長崎図書館があった立山の一角。図書館の跡地は、すっかり更地になっていました。来年度末には、「県立長崎図書館郷土資料センター(仮称)」が開館する予定です。  新型コロナ感染症によって世界中がさまざまな変革を求められるなか、はからずも長崎のまちも100年に一度の大きな変化の真っ只中にあります。「県立長崎図書館郷土資料センター(仮称)」以外にも、今後、数年のうちに新時代に向けたさまざまな建造物が完成予定で、まちを歩けば、あちらこちらでタワークレーンを目にします。新しい時代へ進んでいることを実感できる光景です。立山からほど近い長崎市役所新庁舎も再来年の完成に向けて工事が進んでいます。  長崎の新時代を象徴する場所は、やはり長崎駅を中心とした界隈です。2022年には九州新幹線西九州ルートの長崎〜武雄温泉間が開業予定です。新幹線のネットワークにつながることで、新しい交流の広がりが期待されています。それにさきがけて、今年3月には在来線の新しい駅舎が開業しています。  そして、来年11月1日には、新長崎駅に隣接する場所に、「出島メッセ長崎」がオープンします。大規模な大会や学会を開催できる広さのコンベンションホールをはじめ、会議室、イベント・展示ホール、そして長崎の風景を楽しめるリバーサイドデッキなどを設けた建物です。さまざまな出会いと交流を生み出す拠点になることでしょう。建物は、来年春には完成するそうです。  長崎駅に近い浦上川沿いには、地元長崎のサッカーチーム「V・ファーレン長崎」の本拠地となる「長崎スタジアムシティ」も誕生(2024年予定)します。こちらは、最大23,000席のスタジアムになるとか。本当に待ち遠しい限りです。  このスタジアムや「出島メッセ長崎」などが生まれる浦上川沿いは、原爆投下直後、深い悲しみの光景が広がっていました。その場所が、約80年の時を経て、国内外から大勢の人々が集い、平和の象徴であるスポーツを楽しめる場所に生まれ変わります。この地で生まれるさまざまな感動や絆は、原爆犠牲者の慰霊にもつながると信じたい。  少しずつ形作られていく長崎の近未来。新しいまちで生き生きと過ごすために、いまはエネルギーをチャージするときともいえるかも。元気に弾けるその日まで、希望のわくわくどきどきを大きくふくらませておきたいですね。    本年もちゃんぽんコラムをご愛読いただき、誠にありがとうございました。

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  • 第608号【長崎と恐竜と野鳥】

     師走に入ってからも長崎では小春日和が続いています。そんななか、路地や家々の庭先でニホンズイセンを見かけるようになりました。シンプルな姿と甘い芳香で古くから親しまれているニホンズイセン。長崎市内では、この花の名所として「水仙の里」(野母総合運動公園)が知られています。  「水仙の里」は、長崎半島先端に位置する野母崎地区にあります。冬の寒さが本格的になると、海岸そばの丘一面に約1,000万本のニホンズイセンが咲き誇り、花の香りと潮の香があたりを包みます。環境省の「かおり風景百選」にも選ばれた、心和む香りのある風景です。丘から見える軍艦島(端島)は、島内の建造物が分かるくらいの近さ。海岸にせまる長崎半島の山々は緑豊かで、耳を澄ませば、潮騒と野鳥の鳴き声だけが聞こえてきます。  ところで、「水仙の里」では花が見頃を迎える頃に「のもざき水仙まつり」を行っていましたが、今年度は新型コロナウイルス感染拡大防止のため中止になりました。ただ、まつりはなくても、「水仙の里」へはいつでも訪れることができます。感染防止対策を万全にして楽しみたいものですね。  今回、満開を待たず、ひと足先に「水仙の里」へ足を運びました。というのも、同敷地内で建設中の「長崎市恐竜博物館」を一目見たかったのです。この博物館は、来年10月にオープン。恐竜に特化した日本の博物館としては、「福井県立恐竜博物館」、「御船町恐竜博物館」(熊本)についで3つ目になるそうです。着々と工事が進められているいまの現場の状況は、建物の大きさが分かる程度。博物館の前には「子ども広場」も設けられ「長崎のもざき恐竜パーク」として整備されるそう。開館が待ち遠しいものです。  それにしても、なぜ、長崎に「恐竜博物館」ができるの?と思う方も多いかもしれません。それもそのはず、長崎で恐竜の化石が発見されたのは、意外にも最近のことで、平成20年代に入ってから。長崎半島の西海岸などに分布する三ツ瀬層と呼ばれる約8,100万年前の白亜紀後期の地層から、大型恐竜として知られるティラノザウルス科の化石が長崎県で初めて発見されました。恐竜時代の地層である三ツ瀬層は、地表に現れているのが特徴的で、その後も同地層から別の種類の恐竜の化石が次々に発見され、研究者たちの注目を浴びました。こうしたことから、化石の発掘現場に近い野母崎地区に、「恐竜博物館」が誕生することになったようです。  そもそも恐竜が誕生したのは、いまからおよそ2億3,000万年前のこと。それから1億6000万年以上も恐竜の時代は栄え続けましたが、6,550万年前に絶滅しました。ちなみに人類が誕生したのは、500万年前。恐竜が栄えた年月と比べたら、人類の歴史はまだまだ浅いのです。世界各地で化石が発見されているものの、まだまだ未解明なことが多いという恐竜の研究。この先、人の想像を遥かに超えた驚きが待っているかもしれませんね。   さて、白亜紀末に絶滅したとされる恐竜ですが、一部の恐竜は鳥に進化したともいわれています。「水仙の里」の帰路、海岸の岩場でミサゴを発見。獲物を探しているのか、海上を静かに見渡していました。ほかにもイソヒヨドリ、ジョウビタキ、メジロ、ハクセキレイなども見かけました。こうした鳥たちが恐竜の子孫かもしれない思うと、生物の進化の不思議と面白さを感じるのでした。

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  • 第607号【2020年イチョウの黄葉】

     旧暦では、枯葉が落ちて冬の寒さがはじまる「小雪(しょうせつ)」に入りました。北国ではすでに積雪に見舞われているところもありますが、長崎は、この時期にしては極端な冷え込みもなく、過ごしやすい日が続いています。今年の冬は、ラニーニャ現象の影響で〝冬らしい寒さになる〟と、数ヶ月前の長期予報では言っておりましたが、こんなに小春日和が続くと、本当かしら?と疑ってしまいそう。ただ、九州の本格的な寒さは、年が明けてからやって来るので、暖冬を決め込むには、まだ早い。とにかく冬は始まっているのですから、急な冷え込みで風邪をひいたりしないように、気を付けたいですね。  11月も終わりに近づいて、ナンキンハゼ、カエデ、クヌギ、イチョウなどの街路樹は紅葉し、歩道には落ち葉がいっぱい。マスクを付けた人々が落ち葉の上を、カサコソ、サクサクと音を立てて行き交います。眼鏡橋がかかる中島川沿いの一角にある光栄寺(長崎市桶屋町)では、境内の真ん中にある大イチョウが、黄葉の見頃を迎えようとしていました。  光栄寺は、幕末、若き日の福沢諭吉が寄宿したお寺として知られていますが、地元では、四季折々の姿で来訪者の目を楽しませているこの大イチョウの方が有名かもしれません。今年は、台風で葉を落としたイチョウが多いなか、光栄寺の大イチョウは無事でした。しかし、春以降の大雨、猛暑、台風、季節外れの暖かさと、例年とはちょっと違った気候にとまどいもあったようで、フサフサと付いた葉は黄金色になりきれないでいるよう。それでも、通行人たちの足を止める美しさに変わりはなく、樹のたもとに近づいて色づいた葉を拾う人の姿もありました。きっと、しおりにするのでしょうね。  ところで、イチョウの葉をよく見ると、真ん中あたりに深く切れ込みが入ったものと、そうでないものがあります。図鑑によると、切れ込みのある方は、若く勢いのある枝に付いていた葉だそうです。  光栄寺からほど近い寺町通りにある大音寺(長崎市鍛冶屋町)では、樹齢300年を超えるという大イチョウ(市指定天然記念物)が黄葉の見頃を迎えていました。こちらの大イチョウは台風のときに枝葉をけっこう落としたみたい。例年によりボリュウムがない印象でした。  大音寺に隣接する晧台寺(長崎市寺町)では、墓域の一角に少し変わった形のイチョウがあります。太い幹から細くて短い枝が無数に出て、葉がまとわりつくように付いています。樹形は、光栄寺のような「杯形」でもなく、街路樹に多い「円錐形」でもありません。イチョウにもいろいろな種類があるようです。樹の下にギンナンが落ちていないところを見ると、雄株のようです。  中国原産の落葉高木である「イチョウ」。全国的に街路樹としておなじみで、お寺や神社などでもよく見かけます。なかには御神木として崇められている樹もありますよね。社寺に植えられるのは、四季折々の姿を楽しめることに加え、樹木全体に水分を多く含み燃えにくいため防火の役割を果たすからといわれています。   私たちにとって身近な樹木の「イチョウ」ですが、恐竜の時代から生き残ってきた植物であることは、あまり知られていないよう。氷河期のような極端な気候変動のときには、無理をせずじっとして、温暖なときにはスクスク伸びて種子をつなぎ、ときには人間に翻弄されながらも、自然体のたくましさで生き延びてきたのでしょう。人間もイチョウのそんな姿にあやかりたいものです。

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  • 第606号【大浦海岸通り界隈】

     先月末、山の斜面に広がる住宅街の石段を登っていると、「ヒッ、ヒッ」という野鳥の鳴き声がしました。久しぶりに聞く声だなと思い目をやると、電線につかまり周囲を見渡しているジョウビタキの姿がありました。ジョウビタキは、毎年10月頃、ロシアや中国の東北部あたりから日本に渡り冬を越します。スズメほどの小さな体ひとつで海を越え、山を越えてやって来るのですから本当に驚きです。電線のジョウビタキは、こちらの視線に気付いても飛び去ったりせず、しばらくは、そ知らぬふり。あまり動じない性格のようです。  渡り鳥もやってきて、季節はどんどん巡っています。それにしても今年の秋は、西日本では晴天の日に恵まれました。立冬に入ってからも気持ちのいい晴天が続いています。例年ならこの時期の長崎は、修学旅行生が街中を闊歩しているところですが、残念ながら今年は見られません。それでも「GO TOキャンペーン」が始まってから、少しずつ観光客が増えているよう。幕末の開港後、外国人居留地として賑わった大浦界隈へ足を運ぶと、マスク姿の観光客で賑わっていました。  出島から市街を南へ進んだところにある大浦地区。路面電車が走る海岸沿いの車道は、「大浦海岸通り」と呼ばれ、海岸に迫った山際の斜面は、大浦川をはさんで南山手地区、東山手地区に分かれています。南山手地区はグラバー園や大浦天主堂、東山手地区は孔子廟やオランダ坂などが代表的な観光スポット。ほかにもこの界隈には洋館が点在し、石畳の通路やレンガ塀も残っていて、居留地時代のエキゾチックな風情が漂っています。どこか郷愁を誘うその光景は、街路樹が秋色に変わるこの季節がよく似合います。  見所満載なこの界隈のなかで、ちょっと寄ってほしいのが、海岸沿いの「長崎港松が枝国際ターミナル」(長崎市松が枝町)です。ここは、大型国際クルーズ船のターミナルですが、現在は休業中で建物の中には入れません。ただ、建物の屋上は緑地公園になっていて、解放されているようです。外側からゆるやかな弧を描く屋上へデッキを登れば、長崎港の景色が目の前に広がります。水平な視線で見渡す長崎港は、山頂から見渡す景色とまた違った味わいです。  「長崎港松が枝国際ターミナル」近くの大浦海岸通りの一角には、煉瓦造平屋建の建物があります。周囲の建物とはあきらかに時間の流れが違うレトロな佇まい。明治31年(1898)建造の「旧長崎税関下り松派出所」(国指定重要文化財)です。現在は、「長崎市べっ甲工芸館」として利用されています。建物の外観はこぢんまりとしていますが、重厚な入り口は引き戸で、窓の形、破風を設けた屋根のしつらえなどは、素人目にもデザインの魅力が伝わってきます。中に入ると、税関時代を彷彿とさせる間取りが残され、照明器具は、とっても簡素ながらシャンデリア風。建物の後ろ側には、渡り廊下でつながったトイレがありました。   幕末の開港後も貿易港として重要な役割を果たした長崎。「旧長崎税関下り松派出所」は、当時の税関施設の状況がうかがえ、資料的価値が高いそうです。受付の方が、数年前、税関時代を知るという90代くらいの男性が訪ねて来られたという話をしてくれました。大がかりな修理を経て上手に残された建物の状態に、その方は、きっと、当時の記憶が鮮明に蘇ったにちがいありません。

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  • 第605号【穴弘法から見渡す浦上の地】

     気持ちのいい秋晴れが続いた長崎の10月。朝晩はさすがに冷え込みますが、日中は蒸し暑さを感じることも。川ではスズメが尾を広げて水浴びを楽しむ光景が見られました。コロナ禍の秋、感染予防という緊張の一方で、例年より静かでややスローダウンした日々が続いています。だからでしょうか、いつもなら見逃してしまう何気ない光景にも目が行きます。感染対策を万全にして、この季節をゆっくり味わいたいものです。  ふだんはなかなか足を運べずにいた場所へ行ってみようと、地元で「弘法さん」、「穴弘法」などと呼ばれ親しまれている「長崎高野山 穴弘法寺」(長崎市坂本町)と、穴弘法寺の奥之院「霊泉寺」(長崎市江平)を訪ねました。弘法大師などを祀る「穴弘法」は、長崎市街地の北東側に位置する金比羅山の中腹にあります。市街地を走る路面電車の最寄りの電停から、徒歩30分前後で到着しますが、ふもとの浦上地区から坂道や石段を登り続ける道のりは、ちょっとした登山のようです。  ルートは、電停「大学病院」か「原爆資料館」から、長崎大学病院をめざし、そこからさらに車道を登って坂本小学校へ。校門前の道路の左手に階段が見えます。斜面地の住宅街の上下をつなぐその階段を登っていくと、コンクリートだった階段が、ゴツゴツとした山道の石段に。まもなく「穴弘法寺」です。  「穴弘法寺」の本堂は、こぢんまりとした佇まい。境内には澄んだ山の空気が漂っています。参拝を済ませた後、裏手の山へまわり、弘法大師などが祀られている巌穴へ。靴を脱ぎ、腰をかがめて中に入り参拝。神聖な気分で巌穴を出ると、眼下に浦上地区を中心とした市街地が広がっていました。街の向こう側には山々がゆるやかな稜線を描き、その上には秋の雲が泳ぐ青空が見えます。とても美しい景色でした。  「穴弘法寺」は、戦時中、旧長崎医科大学の救護所に指定されていました。原爆が浦上に投下された昭和20年8月9日、大学関係者らをはじめとする多くの市民が惨禍を逃れようとこの寺をめざしましたが、途中で息絶えた方や辿り着いても亡くなられてしまう方が大勢いました。しかも、爆心地から約900メートルしか離れていなかったお寺自体も爆風で全壊。その惨状は想像を絶するものであったと語り継がれています。  「穴弘法寺」からさらに200メートルほど登ったところにあるのが、奥之院「霊泉寺」。標高約130メートル。ここにも本堂の裏山に岩穴があり弘法大師が祀られています。原爆が投下された時、「霊泉寺」もまた建物は全壊。多くの石像が破壊されました。現在、敷地内にはたくさんの石仏が祀られていますが、なかには原爆の被害にあったものと思われる像も残っています。  ここは、昔から湧水の地として知られていて、原爆が投下された後、多くの人々がその水を求めて登ってきたそうです。毎年、8月9日に行われる「長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」での献水は、数カ所の被爆者ゆかりの地から汲み上げた水が使われます。「霊泉寺」の湧水もそのひとつです。   穴弘法から、いまは美しい浦上の市街地を眺めていると、75年前の原爆後の荒野とそのなかにいた人々へと想いがいきます。原爆の巡礼の地でもある穴弘法。亡くなられた方々のご冥福と平和をあらためて祈念する秋でした。

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