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  • 第62号【コンプラ】

     昔から「芸術の秋」、「読書の秋」なんていいますが、今頃の季節は頭が適度に冴える気温(16℃)に恵まれ、身体にとっても過ごしやすい気候なので、頭と心を使うのにちょうどいいのだそうですよ。(^¬^)私はダンゼン食欲ノ秋 さて今回はコンプラ瓶のお話です。白磁の徳利に肩パットをいれたような独特の形をしたコンプラ瓶は、今もコピー品がたくさん出回るほど人気の骨董品です。その瓶に詰まった面白いエピソードをいくつかご紹介しますね。▲染付コンプラ瓶(長崎市教育委員会蔵) コンプラとはポルトガル語で商人や仲買人を意味するコンプラドール(Comprador)から来た言葉です。江戸時代に出島から外出できないオランダ人らを相手に、さまざまな日用品を売る「コンプラ仲間」と呼ばれる日本の商人たちがいました。1652年に記されたオランダ商館の日誌で、「彼等は高利をむさぼる」と記されているところをみると、なかなかちゃっかり屋の商い人だったようです。そんなコンプラ仲間たちはやがて日本の醤油や酒を海外へ輸出するようになります。その際、容器として使用した瓶がコンプラ瓶と呼ばれていたのです。 ♪コンプラ♪フネフネ♪(^O^)☆\(--;)チガウヨ・・・▲商品入札の図(川原慶賀)この中にコンプラ仲間もいた? その瓶は焼物の産地として有名な波佐見地方で大量につくられ、組織のマークとしてコンプラドールの略語「CPD」と、醤油用には「JAPANSCHZOYA」、酒用には「JAPANSCHZAKY」の文字が入っていました。 長崎港でオランダ船に積まれたたくさんのコンプラ瓶は、まず貿易の中継地点となる東南アジアで一部荷降ろされました。その後、船はインド洋を渡り、喜望峰を回って大西洋を北上。一路ヨーロッパへと向かったのでした。実はこの醤油や酒の海外への輸出が一体いつ頃はじまったのか定かではありません。一説によると元禄時代には既に行われていて、その頃のフランス宮廷料理に日本の醤油が使われていたなんていう話もあります。そんな時代にフランスの国王が醤油を味わっていたなんてちょっと驚きですよね。((~^*)トレビア~ン!▲長崎奉行所(立山役所)趾にはたくさんのコンプラ瓶が埋まっていたらしい ところで文人・井伏鱒二(1898~1993)が長崎を訪れた際、知人からもらったコンプラ瓶について書いた随筆が残っています。『コンプラ醤油瓶』というタイトルのその文章には、ロシアの文豪トルストイ(1828~1910)が書斎でコンプラ瓶を一輪挿しとして使っていたらしいという面白い話が記されていました。井伏鱒二は、トルストイは文人仲間のゴンチャロフからコンプラ瓶をもらったのだろうと推察しています。ゴンチャロフはロシア皇帝の使節プチャーチン提督の秘書として、幕末長崎に来航したことのある人物。彼が長崎で手に入れたコンプラ瓶を土産話ついでにトルストイへあげたと考えても不自然ではありません。 輸出用の容器なので実用性が重視され、けして優美な姿とはいいがたいコンプラ瓶をトルストイはなぜ一輪差しにして書斎に置いたのでしょう。もしかしたら見知らぬ東洋の国、日本に憧れがあったのかもしれませんね。(^▽^)ゞロマンを感じたのかもネ

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  • 第61号【富三郎とグラバー図譜】

     今日で10月も終わり。今年もあと2ヶ月だなんて早いですね。さて今回は、トーマス・グラバー(1838~1911)の息子トミーこと「倉場富三郎(くらばとみさぶろう/英名Tohmas Albert Glover)」のお話です。スコットランド生まれの父グラバーは幕末~明治の日本で活躍し、観光名所グラバー邸の主人としても有名ですが、その息子についてはあまり知られていないようです。(¨)息子がイタンダ…▲倉場富三郎(1870~1945) グラバーが生涯の伴侶とした日本人妻ツル。夫婦の間には長女ハナ、長男富三郎の2人の子供がありました。姉のハナより2才年下の富三郎は明治3年(1870)長崎生まれ。グラバーが32才の時の子供です。若き日を不自由なく育った富三郎は、学習院を卒業後、米ペンシルベニアで生物学を学びます。帰国すると、父の会社から独立した貿易商社ホーム・リンガー商会に就職。それから第二次世界大戦が始まるまで、長崎の実業界の中心的存在として活躍しました。 富三郎の偉業を紹介しましょう。富三郎を重役とするホーム・リンガー社は1907年長崎汽船漁業を設立。富三郎はイギリスから日本初となるトロール船を購入し五島沖で操業を開始します。また遠洋捕鯨も初めて操業するなど水産県長崎の近代化に大きな刺激を与えました。そんな中、富三郎はトロール船から水揚げされるさまざまな魚たちを見てあることを思い付きます。日本近海にすむ魚類の分類学的研究を目指し、魚譜を作ろうと決心したのです。ペンシルベニアで魚譜づくりの要領を学んでいたこともあり、さっそく地元の画家を雇い入れ魚譜の制作にかかりました。 くコ:彡 φ(..)コンナカナ…? 「グラバー図譜」と呼ばれる(正式名称は『日本西部及び南部魚類図譜~Fishes of Southern and Western Japan~』)その魚譜は、明治末から昭和の初めにかけ、約25年もの月日をかけて制作されました。内容は558種の魚を写生したものに、貝類と鯨を含む計823枚の図譜から成っていて、描写が美しく、断面図やウロコの拡大図などが添えられているところが大きな特長だそうです。画家とはいえ科学的な描写は素人だった者に、専門的な視点での作図を教え、自らも長崎魚市場へ出かけ新しい種類を探し、ひとつひとつ仕上げていった図譜。その仕上がりはたいへん素晴らしく、今も日本の四大魚譜のひとつに数えられています。(^ー゜)b Good Job!▲詳細に描かれた「いか」(グラバー図譜より) しかし、第二次大戦が始まると、スコットランド出身の父を持つ彼は憲兵のきびしい監視下におかれました。父グラバーが基礎を創った三菱造船所で戦艦「武蔵」を造る際には、対岸から丸見えになるということで、南山手のグラバー邸からの立ち退きを要求されます。戦争の影響で苦悩の日々を送った富三郎は、たいへん残念なことに終戦直後の1945年8月26日、自ら命を絶ってしまいます。(・o・;;)ソンナ… 時代が違えばグラバーの息子として最後迄幸せな人生を送れたかもしれない富三郎。美しく細かな描写のグラバー図譜のように富三郎も繊細な人物だったのです。戦争と軍国主義の犠牲となった彼の人生の終焉は、悲しさとともに同じ事がニ度とあってはならないと教えてくれます。今、富三郎は坂本国際墓地(長崎市)の一角にある両親のお墓の隣で静かに眠っています。(´人`)トミーよ、安らかに。▲倉場家之墓(手前)右側は父グラバーと母ツルの墓

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  • 第60号【奇習、嫁盗み】

     深まる秋、長崎では街路樹の葉っぱが乾燥してカサカサと音をたてはじまめした。もうしばらくすると紅葉や落葉が始まります。北の方に住んでいる人などはずいぶん遅いなあと思われるでしょうね。(^ー^;南国・九州ダモンネ さて今回は江戸時代の長崎にあった風習「嫁盗み(よめごぬすみ)」についてご紹介します。これは読んで字のごとく、息子の嫁にしたい、もしくは自分の嫁さんにしたいという娘さんがいた時、男性側の親族友人などが相談しあって、お目当ての娘を盗み連れて結婚の盃をさせるという庶民の風習です。何だか野蛮な感じですが、奉行所に訴えられたり、喧嘩になったりということはなかったというから驚きです。(・。・;)無茶苦茶ナ風習ダ▲嫁盗みの図(長崎古今集覧名勝図絵) 「嫁盗み」が庶民の風習として根付いたのにはそれなりの訳があったようです。例えば、貧しくて嫁入りの準備ができない場合、双方の親たちが内々に申し合わせて「嫁盗み」をさせ、盗まれたので嫁入りの準備が何ひとつ出来なかったということで、世間への面目を保ったといいます。また娘さん本人やその両親が結婚を承諾しなかった時にも「嫁盗み」が行われたのですが、この場合は後で仲人をたてて相手の家へ相談に行き、話をまとめたそうです。けして盗みっぱなしということではなく、暗黙のルールがあってそれなりに筋は通したのです。それは盗む時の様子でもわかります。(^^;略奪結婚トハチョト違ウ? 「嫁盗み」を行うのは元気の良い町の若いもん数人。お目当ての娘さんが外出したのを見つけると、用意したカゴにむりやり乗せます。そこで若い衆らは大声で、「○○町の△△という娘を盗んだぞ~」と叫びながら、カゴを担いで男性の家へと逃げるのです。何とも大胆不敵な盗みですが、街角で突然沸き起こったこの騒ぎに周りの人の反応はというと、面白がって見る人はいるものの、驚くようなことは無かったといいます。「嫁盗み」は男性側の意志を表現した一種のデモンストレーション。良くあることで別に珍しくもない光景だったのです。(’_ ’)強引なプロポーズってとこ? さて盗んだほうの男性の家では親類知人の女性陣らが嫁さんになるかもしれない娘を大事にもてなしました。それでも娘の気が進まない場合は、夜の闇にまぎれて逃げ出します。残された男性とその親族友人らは逃げた娘を追うようなことはしませんでした。しかし世間にそのことがばれては面目が立たないと、また別の家の娘さんを盗みに行くはめになったようです。(;´д`)トホホ ところで娘を盗まれたと知った家はどうしたのかというと、「取り戻し」といって、町内の古老人ら数人の男たちが口利きとして、すぐに盗んだ方へ押しかけました。しかし取り戻しに行った男たちもそこでお酒を出され、いろいろサービスを受け、買収されるというのがほとんどだったそうです。┐(´ー`)┌ アラアラ 「嫁盗み」に似た風習は、昔は全国の各地にあったそうです。ままならぬことを実現させるために「盗む」という形をとりながらも、世間体や周囲の人々との関係を良好に保とうする姿が垣間見られる、実にユニークな風習ですね。▲長崎の風俗・景勝を記す貴重な史料「長崎古今集覧名勝図絵」

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  • 第59号【こげくさい…!?コーヒー】

     朝、キッチンから漂ってくる入れたてのコーヒーの香り。寝ぼけた頭が気持ちよく目覚めるその香りには、リラクゼーション効果もあるといいます。確かに、何だか幸せな気分になるし、仕事や家事の合間のホッとするひとときにも欠かせない存在です。今回は現代の日本の暮しにしっかり根付いたコーヒーのお話です。(,,)コーヒー豆知識? コーヒーは一体いつ頃から人類の歴史に登場するようになったのでしょうか?10世紀のアラビア人の医師が薬として扱っていた記録が残っているとか。またエチオピア(北東アフリカ)の羊飼いが発見したという説をはじめ、その起源にはいくつかの言い伝えがあるものの、どれが真実なのかはっきりしないそうです。ただコーヒーがエチオピア原産であることは間違いなく、そのエチオピアで飲まれ出したのは千年ほど前だそうです。その後トルコをはじめとするイスラム教の国々を経て、ヨーロッパ諸国、そして日本へも伝えられていきます。(p^-^)p♪むかしアラブのえらいおぼうさんが~▲エチオピア(北東アフリカ)はココ 日本へは17世紀終わり頃、オランダ船を通じて出島に運び込まれたのがはじめだといわれています。その頃、オランダ商館員らが飲んでいたコーヒーを一緒に味わうことができた日本人はオランダ通詞や遊女など出島に出入りできる限られた人々だけでした。ある長崎奉行所の役人は珍しいコーヒーを飲めたのは良かったのですが、その感想を「こげくさくして味わうにたえず」と漏らしたとか。コーヒー独特のほろ苦さは、当時の日本人の嗜好には合わなかったのかな? ちなみに当時、出島に入っていたコーヒーの銘柄は「モカ」だったそうです。「モカ」といえば、強い酸味とコク、香りが特徴の今も人気のコーヒー豆ですよね。(^¬^)ヒキタテノ香リガタマリマセン▲阿蘭陀茶臼(コーヒーミル)(長崎県立美術博物館蔵) さてその後、19世紀はじめにオランダ商館医師として来日したシーボルトはコーヒーを長寿をもたらす良薬として日本人にさかんに勧めたといいます。当時のオランダ船が運び込んだ洋薬のリストにも他の薬草の名と並んでコーヒーが記されています。シーボルト先生が勧めたせいなのか、それともコーヒーの魅惑的な味がクセになってしまったのか、この頃にはコーヒー党の日本人がけっこういたそうです。 江戸時代末期、「長崎土産」(磯野信春著)という書物には『コーヒー日本の大豆に似たり。是を磨し砕き、湯水に入れ煎じ、白糖を加えて常に服す。我国の茶を用うるが如し』と記されています。今も全く同じとらえられ方ですよね。▲赤い実をつけたコーヒーの木 ところで「コーヒー」を漢字で「珈琲」と書いたのをよく見かけますが、これは音で表したときの代表的な当て字で、他にも「古蘭比伊」「可否」「滑比」などの当て字があったそうです。また「コーヒー」を日本訳した場合も「茶豆」「唐茶」「南蛮茶」などいろいろあり、「コーヒー」にぴったりくる日本語訳があれこれ考えられたようです。(・・)昔ハ日本語訳ノ必要ガアッタンダネ。 そのこげくささも今では芳香な香りともてはやされるコーヒー。今、私の目の前にある一杯のコーヒーも、いろんな国のいろんな時代を経て来たのかと思うと、何だか味わいが増したような気がします。U\(⌒o ⌒ )あなたもコーヒーブレイクしない?

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  • 第58号【よいしょ! 「竹ン芸」】

     秋はお祭りの季節。長崎で秋祭りといえば豪華な奉納踊りが繰り広げられる諏訪神社の「くんち」が全国的に有名ですが、地元ではもうひとつ、白狐の妙技がユニークな奉納踊りで知られるものがあります。毎年10月14、15日に行われる若宮稲荷神社(わかみやいなり:長崎市伊良林)の「竹ン芸」(たけんげい/長崎市無形文化財)です。(“)タケンゲェ?▲250年の歴史を持つ「竹ン芸」 地元の氏神様として親しまれている若宮稲荷神社は、商売繁盛のお稲荷様としても知られ、320年余りの歴史を持つ神社です。近くには坂本龍馬らが開いた貿易会社「亀山社中」の跡があり、龍馬をはじめ多くの志士たちもこの神社を参拝したといわれています。( ^_^)//パンパン▲竹ン芸が奉納される若宮稲荷神社(長崎市伊良林) さて「竹ン芸」は約250年前から伝わる郷土芸能で、雄狐(おぎつね)、雌狐(めぎつね)に扮した青年が境内に設えた青竹の上に登って芸をするものです。元々は「くんち」の奉納踊りとして八百屋町(やおやまち)から奉納されたのがはじまりと伝えられていて、明治30年代に入ってから若宮稲荷神社の奉納踊りとなったそうです。 「竹ン芸」はまず子供が扮する子狐が登場します。5m位の青竹に登り、親狐の真似をしていろんな芸を披露します。子狐の可愛い演技の後は、いよいよ親狐の登場。10mほどもある青竹2本を使い演じます。1本は、はしごのように一定の間隔で横木が付けられ、女竹(めだけ)と呼ばれます。もう1本は男竹(おだけ)と呼ばれ、演じる頂上だけに支えの横木が付けられています。 白装束(しろしょうぞく)に身を包んだ2匹の親狐は、女竹の方を軽やかに演じながら登っていきます。そして足だけ、竹にからませて逆さまになったり、竹の真上をお腹にあてて大の字になったりなど、見物客の「よいしょ」のかけ声とともに、見事な技が次々に決められていきます。▲命綱なしで見事な演技が奉納される特に隣あう竹に身を移しながら2匹がじゃれあうところや、ゆさゆさと竹を大きく揺らすところ、そしてクライマックスで雄狐が逆さになったまま男竹を滑り降りるところなどでは、見物客らは息を飲むようなスリルを味わいます。 2匹の狐の捨て身の演技はとても感動的なのですが、これはけっして見世物ではなく、あくまでも市民の幸せを祈る神事。狐に扮した人はまさに命がけで芸を奉納しているのです。\(゜o゜;)/見る方もドキドキ! 中国の羅漢踊(らかんおどり)が原形といわれる「竹ン芸」。唐笛、太鼓、三味線で演奏されるシャギリの音色に中国風が感じられます。さて演技の後半では縁起物のお餅や手ぬぐいがまかれます。見物客らは福をつかもうと両手をいっぱい広げて、右往左往。雄狐はさらにふところから生きたニワトリを取り出して見物客へ放り投げます。これも縁起が良いとあってみな捕まえようと必死。でも捕まえた後、一体どうするのでしょうね。(^¬^) 食ベルor飼ウ? 「竹ン芸」が行われる若宮神社は新大工町の電停から徒歩15分ほど。時間は14日が14時、20時。15日は12時、15時、20時からです。出かけてみませんか?

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  • 第57号【日本に理想郷を見た?!ケンペル】

     新聞の折り込みで、どこそこの秋を堪能しよう!なんていうチラシが目立つ今日この頃。♪知~らない、ま~ちを歩いてみた~い♪なあんて気分に。秋は人を旅情へ誘う不思議な力があるようですね。(^‐^)エトランゼになる季節 さて今回ご紹介するケンペルさんは、1651年ドイツ生まれのお方。ヨーロッパでは今でもバロック時代(17~18世紀)の大旅行家として知られる人物です。日本では江戸時代に出島の商館医師として活躍、このコラムですでに紹介したツュンベリーやシーボルトと並ぶ出島の三学者の一人として名を残しています。▲江戸城で5代将軍綱吉と拝謁中のケンペル(中央) 聡明で探究心にあふれたケンペルは、若い頃から未知の世界へのあこがれが強く、故郷ドイツの大学で学んだ後、ポーランドやスウェーデン、オランダの大学へも通い、医学をはじめ言語学、歴史学、数学、博物学などを学んだそうです。(“)オドロキの知識欲 大学で思う存分学んだ後、スウェーデン国王の使節団のひとりとしてモスクワやイスファハン(ペルシア)を訪れ、それぞれの土地を独自の視点で観察・研究します。自ら「知りたがり」と称するほど好奇心旺盛だったケンペルは、その後、東洋への興味にかられ、安定したこの仕事を捨ててオランダ東インド会社へ入社。アラブやインド、タイなどでの実地研究を経て、1690年、出島のオランダ商館医師として日本へやって来たのでした。(゛)海外経験ガ豊富! 当時の日本は、「好色一代男」の井原西鶴や「奥の細道」の松尾芭蕉などが活躍した元禄の町人文化がまさに華開こうとしていた頃で、庶民は平和と繁栄を享受していました。ケンペルは約2年間、日本(出島)に赴任していたのですが、その間2度、江戸参府に同行し、その頃の日本の景色や庶民の暮しぶりをスケッチしています。厳しい警護の目を盗んでのこの行動。どんな環境の下でも探究心を失わないたくましさが感じられますね。▲江戸参府の行列図(ケンペル画/日本誌より) 2年間の日本滞在の後、帰国したケンペル。彼は、自分が巡った地の話を綴った「廻国奇観(かいこくきかん)」という本を著し、この中に“日本人は他の国と提携しなくとも幸福で満ち足りた生活をしている“と鎖国を肯定する見解を述べています。またもう一冊、日本を正しくヨーロッパに紹介した最初の本となる「日本誌」という本も著します。この本は、江戸参府の際に見かけた様子を描いた挿し絵をふんだんに盛り込んでいて、18、19世紀のヨーロッパにおける日本観に大きな影響を及ぼしました。しばらくしてこの本は日本に輸入され、江戸時代の蘭学者らの間で反響を呼んだとか。さらには、今でも歴史学者の間で貴重な資料として利用されているという話です。▲廻国奇観(かいこくきかん)ケンペル著/長崎市立博物館蔵 江戸での5代将軍綱吉との拝謁の際、将軍様の前でヨーロッパの歌を唄ったり、踊ったりしたというユニークなエピソードを持つケンペル。そんな彼が鎖国を肯定したのには、当時のヨーロッパは国同士の紛争が絶えず、人々の心が荒廃していたという背景がありました。ケンペルは何だか幸せそうな鎖国・日本に理想郷を見たのかもしれません。(“)セツナイナア!

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  • 第56号【長崎くんち、今年の見所!】

     来月10月7・8・9日は、いよいよ秋の大祭、長崎くんちです。江戸時代初期に始まったこの祭は、長崎市民の総鎮守・諏訪神社の神事。奉納される華麗な踊りや、勇ましいだしものの数々は異国情緒にあふれ、豪華で勇壮で感動的です。さすが日本三大祭りのひとつに数えられる?だけのことはあるのです。▲踊り場設営中の公会堂前広場 さて、くんちの奉納は諏訪神社の氏子地域にあたる40余りの町々の中から、毎年5~7つの町が担当します。その町は「踊り町」と呼ばれ7年に1回ずつ順繰りに巡ってくる仕組みです。今年の踊り町は新橋町(しんばしまち)、諏訪町(すわまち)、新大工町(しんだいくまち)、金屋町(かなやまち)、榎津町(えのきづまち)、賑町(にぎわいまち)の6ヶ町。それでは各踊り町とその見所を前日(初日/7日)の奉納順にご紹介しましょう。\(∩o∩)/祭ダ、祭ダ! 新橋町は「オランダ万才」という踊りです。一見するとピエロにも見える派手やかな衣装を身にまとった“異人さん”が登場。ストーリーは日本に漂着した2人の外国人が、生きていくために家々を回って万才をやり門付け(お金)を貰っているうちに、故国を思い感傷にふけるというもの。ちょっと哀愁が漂いながらも、賑やかさと洒落っけもある踊りです。 諏訪町は全国的に有名な「龍踊り(じゃおどり)」を奉納。龍踊りを奉納する町は他にもありますが、この町の龍踊りは個性的で、青龍、白龍の2体が一緒に踊ります。さらに龍方(じゃかた:龍を持ち上げる男衆)が、あっという間に別の龍方に入れ代わる早業も見所です。\(^O^)くんちトイエバ龍踊リ!▲龍踊りの練習を行う諏訪町 新大工町は「曳壇尻(ひきだんじり)と詩舞(しぶ)」を奉納します。曳壇尻とは、おみこしのようなもの。長さ5m、重さ3tもある曳壇尻を「根曳衆(ねびきしゅう)」と呼ばれる数人の男たちが引いていきます。この町は町名からもうかがえるように、その昔大工さんが大勢住んでいました。曳壇尻の屋根の部分は大工の神様を祭っている奈良・春日神社を見立てていて、大工職の趣向を随所に施した美しい飾りつけが見所です。\(^O^)伝統美ヲ堪能! 金屋町はこの町のシンボルである獅子を中心に古典調の「本踊り・秋晴勢獅子諏訪祭日(あきはるるきおいのししのすわのまつりび)」を奉納。2人がそれぞれ前足、後ろ足に入って演じる獅子が登場し、息の合った踊りを披露してくれます。 榎津町は「川船」を奉納します。江戸時代に筑後川(福岡県)に開かれた柳川藩の川港・榎津から、人や物資がこの町に回航していた縁でこの町名が付けられています。長さ6m、重さ3tの川船を18人の根曳衆が力強く引き回し、子供が扮する船頭が網を打ち魚を捕らえるシーンなどが見所です。(”)カワイクモ凛々シイ。 賑町は、長さ5.3m、高さ3.85m、重さ4tもある「恵美須船(えびすせん)」を奉納。その屋台の上を飾る網はビードロ細工でつくられたもので、とても高価なものだそう。この華麗な船を根曳衆が波をかきわけるかのような勇ましいかけ声で引くところや、男の子と女の子それぞれが引く子船が見所です。 くんちの3日間、各踊り町は「庭先回り」といって街を練り歩き、家々や会社などに、だしものを披露します。特に諏訪神社、浜町アーケード、長崎県庁、お旅所(大波止)あたりは要チェックです。ぜひ、長崎・くんち見物へお出かけ下さい。(^o^)/ ▲紋付袴に山高帽のスタイルで庭先回りを先導する町役員

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  • 第55号【インゲン豆をもたらした隠元禅師】

     スーパーの食料品コーナーをのぞくと、木の実や根野菜、きのこ類など旬の食材が満載。ああ収穫の季節だなあと、食いしん坊の喜びに浸りながら大根と柚子そしてサンマを購入。今夜は家族全員のリクエストでサンマの塩焼きデス。<゚)#)))彡 ∧\(^¬^)大根オロシをソエテ さて旬といえば今回の話の中に登場するインゲン豆も夏場から今頃にかけてが収穫の時期。ゴマあえやテンプラにするとおいしいですよね。ところでこのインゲン豆、現代の私たちにとってはたいへん日常的な野菜ですが、もともと日本にあったわけではありません。最初に日本に渡来したのは江戸時代。1654年、明国(中国)福建省の僧侶、隠元(いんげん)が長崎に来た際に持ち込んだのがはじめだそうです。だから名前がインゲン豆なのですね。(“)ワカリヤスイ!▲隠元禅師の木像(興福寺本堂内) 地方によってはササゲ、フジマメとも呼ばれるインゲン豆。現在は北海道が主な産地ですが、南は沖縄まで全国各地で作られているようです。江戸時代、どんな荒れ地にも育ったというこの強い野菜は各種ビタミンやカルシウム、タンパク質など栄養面にも優れ、飢饉の時におおいに役立ったそうです。 「隠元禅師」「隠元さん」「隠元おしょう」。どこかで聞き覚えのある名前だけど、よく知らないなあという方は多いのではないでしょうか?隠元禅師は日本三禅宗のひとつ黄檗宗(おうばくしゅう)の開祖として知られる人物です。明国(中国)で黄檗山・万福寺(まんぷくじ)の住職だった隠元は、禅界の重鎮として活躍。その名声は日本にも伝わっていました。▲興福寺山門に残されている隠元御書「初登宝地」 当時、日本では禅宗が衰退していて、それを案じていた長崎・興福寺の三代目唐僧・逸然(いつねん)や長崎の唐寺の檀家たちは、高名な隠元禅師による新たな禅宗の伝来を願います。そして来日を懇願する書状を数回にわたり送り届けました。長崎の唐寺からの度重なる懇願に心を打たれたのでしょう、この時63才だった隠元は日本への渡海を決心。30名の弟子をはじめ仏師、絵師など職人らも一緒に引き連れて来日しました。 長崎に着くと逸然をはじめとする唐僧たちや長崎奉行、そして檀家らの大歓迎を受け興福寺へ行きます。ここで大勢の聴衆に禅学思想を伝えたそうです。興福寺には隠元の徳を慕う人々が全国から集まり、寺では外堂を建て増して集まった人々を住まわせたほどでした。(^^)大盛況!▲ゆったりとした南方風の興福寺大雄宝殿(本堂) 日本の僧侶の質問に丁寧に答え、座禅の教えを広めた隠元。彼は当初、3年したら帰国するつもりだったといいます。しかし長崎滞在から1年後、江戸に上がったところで四代将軍家綱に日本にとどまるように言われ、この国への永住を決意。そして京都に黄檗宗の総本山として故郷の寺と同じ名の万福寺を開山します。それから81才で亡くなるまで広く人々に慕われ尊敬されたそうです。 日本での隠元は建築や書画など明の文化をもたらし大きな影響を与えました。この他、煎茶や普茶料理(ふちゃりょうり/中国僧の精進料理)を伝えるなど、計り知れない功績を残しています。そんな隠元に歴代の天皇は折にふれ敬意を表して、号を授けています。近年では1972年(昭和47年)に「華光大師」の号が授けられていて、その数は合計6個にも及びます。(@o@)GREAT!

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  • 第54号【長崎の「孔子廟」】

     厳しい残暑が続くとばかり思っていたら、急に涼しくなった長崎。全国的にこういう天候らしいのですが、いきなり訪れた秋についていけず、周囲では体調をくずす人が続出中。あなたは大丈夫ですか? (^o^)寝冷エニ御用心! さて秋といえばイベントや祭の多い季節です。長崎の観光スポットのひとつ孔子廟(こうしびょう/大浦町)でも今月29日に孔子の生誕を祝う「孔子祭」が開催されます。孔子廟とは、中国の思想家・孔子の霊を祭ったところ。長崎の孔子廟は明治23年(1893)中国清朝政府と華僑の人々によって創建された日本で唯一の中国人による本格派の孔子廟なのです。その建物は中国の華南と華北地方の建築様式が合体。独特の曲線を描く屋根には、皇帝の色を表す黄色の瓦、建物全体には魔よけと慶びを表す朱色が用いられるなど、中国本廟のオリエンタルな伝統美が息づいています。(^^)極彩色ガキレイカヨ!▲鮮やかな彩りの孔子廟 孔子祭は中国・明時代(1368~1644)の様式を再現した豪華絢爛の祭で、古式ゆかしい衣装に身を包んだ人々によるパレード、豚・羊などのいけにえを配した立派なおそなえもの、そして獅子舞、龍踊りなど約1時間半にわたって、広くて奥深い中国文化の一端を見ることができます。目の前で繰り広げられる遥か昔の異国の景色はまるで夢の世界のようなんです。この時期、全国各地で孔子の生誕を祝う行事が行われるそうなのですが、本格的なおそなえものをして祝うのは長崎の孔子廟だけなんだそうですよ。またここには「中国歴代博物館」が併設されていて、中国歴史博物館提供の出土文化財や北京故宮博物院提供の宮廷文化財を展示。これも見逃せません。(@@)壮大ナ歴史ガワカル!▲華僑の方による本格的な孔子祭 生誕から今年で2552年目を迎える「孔子」。そう、彼は紀元前のお方なのです。ごく簡単にご紹介すると、紀元前551年、魯の国に生まれた孔子は中国、春秋時代の学者・思想家で、儒学の創始者。「性善説」の孟子(もうし)や「性悪説」の筍子(じゅんし)らを門下として輩出し、キリスト・釈迦・ソクラテスとならぶ世界四聖(しせい)の一人として知られています。(・◇・)ツマリ、大聖人!▲優しそうなお顔の孔子(中国切手より) 孔子の言行や弟子らとの問答などを集録した書「論語」は、孔子が理想とした思想や人格に接することのできる、いわば聖書のようなもので、現代も広く読まれています。孔子廟の入り口ではその中でも有名な「朋(とも)、遠方より来る、亦(また)楽しからずや」という一節が出迎えてくれます。私はこの意味を単に「懐かしい友達が遠くから訪ねて来てくれてうれしい」というふうに思っていたのですが、これは学問の道を述べたもので、「自分の学問が成就すると、同じ道を志す人が、遠くからも訪ねて来て、教えを請うようになる。こうなれば自分の学んだことが広く伝えられ、共に善に帰することができるのだから、楽しいことだ」というような意味があるのだそうです。 現代も色あせず人に教えを説く論語。孔子廟をめぐりながら、いつかじっくり読んでみたいと思ったのでした。(=_=)読破スルノハ大変ダ・・

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  • 第53号【ちゃんぽん・皿うどん】

     「ちゃんぽんコラム」御愛読の皆様へ。おかげさまで初配信から丸1年が経ちました。好奇心の赴くままに書いて来た長崎からの便りを、毎週読んでくださって、本当にありがとうございます。これからも長崎をPRしつつ、読者の皆様の心に届く内容を目指したいと思っています。どうぞ、よろしくお願いいたします!(\∨∨/) 今回は「ちゃんぽん・皿うどん」についてです。意外ですがこのコラムでは一度も扱ってないテーマでした。それではさっそく本題に!▲秘伝!? 月見ちゃんぽん まずちゃんぽんの話から。ちゃんぽん誕生については諸説あって、明治のはじめ頃、ある長崎の人が丸山で支那うどんをちゃんぽんと名付けて店を開いたのが始まりという説や、明治30年代に中国・福建省出身の青年が長崎で中国料理店を開業した際、従業員や家族、そして同郷の貧しい留学生たちのために残り物の食材で作ったのがきっかけ、という説などがよく知られています。いずれにしてもちゃんぽんは中国と日本が混じりあう長崎生まれ料理には間違いありません。 具はキャベツ、タマネギ、タケノコ、キクラゲ、モヤシ、ネギといった植物性食品と、カキ、イカ、エビ、カマボコなどの動物性食品が入り、栄養のバランスが抜群に良く、味もお互いを引き立てあっています。我が家では出来たてのちゃんぽんに生タマゴを落として食べるのですが、これがなかなかおいしいのです。ぜひお試し下さい。(^◎^)月見ちゃんぽん?▲ちゃんぽん麺と色鮮やかなかまぼこ ところで、ちゃんぽん麺が黄色い訳はご存じですか?ちゃんぽん麺は小麦粉にアルカリ性の唐あく水(かん水)を加えて作るのですが、その時、小麦粉の中のビタミンBと化学反応を起こし黄色に変わるのだそうです。ちゃんぽん麺に独特の色と風味をつける唐あくは、漢方薬の世界では「身体の邪気を払う」といわれているそうですよ。 お次は皿うどんについて。具の材料はちゃんぽんとほぼ同じで、あのトロリとしたアンがのる麺は、パリパリの細麺(揚麺)か太麺(生麺)。▲海の幸、山の幸いっぱいのちゃんぽん・皿うどんの具「パリパリ麺が口の中でつきささる感じが良い」という人や「時間が経ってクタクタになったものが良い」という人、そして「太麺に限る」という人や、ソースをかける派、かけない派など、人それぞれのこだわりが見られる料理です。w(^_^)アナタハドッチ? 長崎ではお客さんのおもてなしや親戚の集まりに、皿うどんを出前でとる家庭が多いのですが、数人分が盛られたひとつの大皿を囲んで食べるというスタイルは、お客さんとの絆を深めるのにちょうど良く、大切な来客には皿うどんというのが定着しているように感じます。 さて全国に名を馳せる長崎名物「ちゃんぽんと皿うどん」。その個性的なおいしさは、海と山の幸、外国と日本の文化といった、違うもの同士をひとつにしたことで生まれました。溶け合えば新しいものが生まれる。そんなことも教えてくれる実に奥深い料理なのですね。(^¬^)ダカラ美味シイノ※地元郷土史家、越中哲也先生の「長崎チャンポン考」も併せてご覧ください。

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  • 第52号【世界初の株式会社、オランダ東インド会社】

     長崎のみやげショップなどで「VOC」のマーク入りの商品を見かけたことはありませんか? お皿などの陶器類を始め、いろいろな小物商品にこのマークは用いられています。ちょっとかっこいいロゴデザインなのですが、何のマークかご存じですか? 答えは「オランダ東インド会社」です。正式には「連合東インド会社(Vereenighde OostIndische Compagnie)」といい、「VOC」はその略称なのでした。(^◇^)知ッテタ?▲VOCマーク入りの大皿 1602年に設立された「VOC」は世界初の株式会社としても知られています。この頃のヨーロッパは大航海時代(15世紀~17世紀前半)の最中で各国が新しい航路や新大陸の発見に力を注いでいました。当時、航海をする際は「当座会社」といって、その都度「座」を開き、出資金を集め、船を準備していました。そして航海をして買い付けを行い、出資者に利益を分配していたのですが、ひとつの航海ごとに行われていたこの方法では、もし船が沈んだりしたら全てを失う事になります。また競合となると利益もそう望めないのが難点でした。それでもっといい方法はないかと考え出されたのが「株式会社」だったのです。オランダは当座会社だった14の貿易会社を統合。国王を総裁にして、軍事・外交・行政の特権を持たせ、しっかりとした組織力で世界初の株式会社「オランダ東インド会社」を立ち上げたのでした。(@o@)カッキテキ! その頃、スペインやポルトガルの大国に押されていたオランダは、東南アジア貿易でも苦戦を強いられていました。しかし株式会社にしたことで組織力は強まり、リスクも分散。人材を集め、船を作り、航路を決め、貿易のルートまでも組織的に対応したことでめきめきと力をつけます。東南アジアでも勢力を増し、他のヨーロッパ勢を押し退けてついには日本との貿易も勝ち取ったのでした。そうして江戸時代に200年以上に及んだ日本とオランダとの交流。この時は「オランダ東インド会社」=「オランダ」で、平戸と出島に設けられたオランダ商館はいわばこの会社の日本支店といったものだったのです。(^o^)出島ノ外国人ハ会社員ダッタンダ▲出島の敷地内にあった石門にもVOCのマークが ところでオランダ東インド会社設立の2年前、イギリスも「東インド会社」を設立していたのですが、当座会社だったためオランダのそれに比べれば資金力も組織力も弱く、平戸にイギリス商館を設けるもわずか3年で閉鎖。対日貿易競争でオランダに敗退しています。イギリスのお話はさておき、すごいのはやはりオランダ東インド会社。資本主義の最大の発明は「株式会社」だという人もいますが、そういう意味ではまさに現代ビジネスの原点ともいえますよね。(“)今回ハ経済学ミタイデシタ?▲土産用のネクタイ。よーく見るとVOCのマーク入り

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  • 第51号【異才の建築家が残した旧香港上海銀行長崎支店記念館】

     長崎は残暑がとても厳しいです。皆さんのところはどうですか? 夏バテに気をつけてお過ごし下さいね。 さて旧香港上海銀行長崎支店記念館は、長崎港に面した松ヶ枝町にあります。南山手にほど近いこの辺りは幕末から明治時代にかけて外国人の居留地だったところで、現在も多くの洋館が点在する異国情緒豊かな界隈です。そんな中、威風堂々とした表情でひときわ目を引くのが明治37年(1904)に建てられた旧香港上海銀行長崎支店記念館(国指定重要文化財)です。この洋館、古さは一番ではありませんが、長崎の石造りの洋館としては最大級の規模と言われています。 ▲旧香港上海銀行長崎支店記念館 「香港上海銀行」は1865年、東洋で活躍するイギリス人貿易商らによって造られ、本店は香港にありました。翌1866年に最初の外資系銀行として横浜支店を開設。長崎支店は1896年に開設され、以後閉鎖される1931年(昭和6年)までの35年間、外国貿易港長崎の繁栄に大きな役割を果たしました。( ̄o ̄)/現在は東京と大阪に支店があります。 長崎に支店が置かれて間もなく銀行建設がはじまるわけですが、その設計を任せられたのが明治から昭和初期にかけて建築界の異才として名を馳せた「下田菊太郎」という人物でした。彼は日本人で初めてアメリカ建築家協会の免許を取得。帰国後はアメリカで学んだ鉄骨・鉄筋コンクリート構造の工法を日本にもたらしました。菊太郎は当時、洋風建築一辺倒の日本の建築界を批判。欧米風と和風を組み合わせた独自の日本建築デザインを提唱しますが、主流派からは無視されたといいます。しかし現在では逆に彼の業績は評価されているそうです。その彼の作品で日本に唯一残っているのがこの旧香港上海銀行長崎支店記念館なのです。 大きな石柱を配し、ずっしりとした風格が漂う外観。3階建ての館内は各階とも天井がたいへん高く、窓が大きいのが特徴的です。1階のフロアはいかにも銀行らしい当時のカウンターが残されています。かつてここに貿易商を営む在留外国人たちが訪れ外国為替や外貨の売買を行なったのですね。2階、3階は当時の部屋を利用して長崎に関わる歴史資料が展示されています。ベランダからは長崎港を一望。当時の銀行マンたちもこのベランダから港を眺めたのでしょう。 ( “)感慨深イネ▲銀行時代ののカウンターは当時のまま利用されています ところでこの8月、2階展示室に新しいコーナーが設けられました。「頓珍漢(とんちんかん)人形」という手びねりのかわいい素焼き人形です。作者の故久保田馨さんが、戦後の爪痕が残る昭和29年に平和への願いを込めて作りはじめたもので、かつては長崎のお土産品屋にも売られていました。ひとつひとつ姿形が違い不思議な表情をしたこの人形は修学旅行生に人気があったそうです。展示室には約800点に及ぶ作品を見る事ができます。心に何かを訴えてくる頓珍漢人形。必見です。▲かわいい素焼きの頓珍漢人形

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  • 第50号【わくわくサイエンスワールド、長崎市科学館!】

     夏休みも早や後半戦。先日、小学3年生になる親戚の男の子が宿題を手伝って欲しいと我が家へひょっこりやって来ました。そういえば昨年の夏も手伝ったっけ。見込まれたものだと内心苦笑しながら、工作も自由研究もまだ手をつけていないという呑気な少年を連れ、油木町にある長崎市科学館へ出かけたのでありました。( ̄ー ̄)取材ノツイデニ・・・ 「長崎市科学館」は、「スターシップ」の異名にふさわしく宇宙船っぽい雰囲気の漂う超モダンな建物。科学という広範で複雑な世界を分かりやすく紹介している学習施設です。というと、子供向けと思うかもしれませんが、そんな事はありません。宇宙の誕生から地球の内部の様子、そして長崎の地質や気象、動植物の事まで、盛り沢山の内容。「科学の世界は奥深い」って気になるオモシロイところなのです。( ゜◇ ゜)オドロキの連続ダヨ▲長崎市科学館(長崎市油木町) さて館内は夏休みということもあり、たくさんの子供達で大賑わい。展示室へ入ると、長崎の森林を再現したコーナーをはじめ、大昔の長崎に存在したアケボノゾウという大きな動物の骨格、そして気象衛星ひまわりからリアルタイムに情報が送られて来るウェザーステーションなど、子供の興味を惹くネタがいっぱい。ゲーム感覚で楽しめる“体験コーナー“には銀河の広がりを擬似体験できる「宇宙船アドベンチャー号」や自転車をこぎながら太陽系の惑星を旅する「ツール・ド・コスモス」、震度1~7の地震を体験できる「地震体験ステージ」など、有意義なシミュレーションばかりです。(^◇^)遊ビナガラ、学ベル!▲大昔の長崎にいたアケボノゾウ▲ウェザーステーションでは気象情報がリアルタイムに更新 この科学館の大きな魅力のひとつが「プラネタリウム」です。直径23mもある大型ドームの天井周囲いっぱいに、その日の長崎の星空が写し出されます。夜も明るい街中では決して見る事ができない無数の星たち。山や丘など自然の中で見ているような錯角に陥ります。それにしても星々をつないで神話を生み出した大昔の人々の想像力はすごい。夜空の星には人間の想像をかき立てる不思議な力があるのでしょう。(^ー^)/交互ニ上映サレル全天周映画モ大迫力! ところでこの科学館では今、「工作工房」を開き、子供達の夏休みの宿題を応援しています。自由参加で料金無料、道具や材料もいらないとのこと。また昆虫や植物など採集したけど名前が分からないという人は、25、26日に行われる「採集品分類会」に参加すれば、ばっちり教えてもらえますよ。 帰り道、親戚の子の手には「工作工房」で作ったグライダーがありました。夏休み、子供達の力強い味方となる長崎市科学館。週末は屋上の天文台で夜間天体観測も行われています。家族でお出かけになってみませんか?(^ー^)カップルにもOK

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  • 第49号【耳せん必携、精霊(しょうろう)流し!】

     もうすぐお盆。帰省の季節ですね。私も都会に住む親戚や友人らとの再会が待ち遠しい気分です。しばらく故郷へ帰っていないという方はこの夏帰省してみてはいかがですか? 懐かしい顔や風景が、あなたをリフレッシュさせてくれますよ。 さて、この時期になると長崎の街角のあちらこちらで製作中の精霊船を見かけます。精霊船とは初盆を迎えた故人の霊を乗せる船のことで、8月15日「精霊流し」の日に極楽浄土へ送り出されます。「精霊流し」を知らない方でも、小さな船にちょうちんを灯して川に流す「万灯流し」ならご存じの方も多いはず。「精霊流し」は、この「万灯流し」が長崎独自の発展を遂げたものといわれ、「万灯流し」の静かに御霊(みたま)を見送るイメージに比べると「精霊流し」は全くその逆です。チャンコン、チャンコンという鉦(かね)の音に「ドーイドーイ(語源はナムアミダブツ)」というかけ声、さらに耳をつんざくような大量の爆竹(バクチク)の音とその煙の中、派手やかに見送るのです。(^^)さだまさしさん(グレープ)の歌のイメージとは大違い!?▲街角で見かけた製作中の精霊船 船の上には「極楽丸」、「西方丸」、「浄土丸」などと書かれた大きな帆がはられ、家紋入りの提灯がズラリと並びます。大陸の影響か、極彩色を配したタイプが多く、ときにはカラフルな花飾りをつけた船も見られます。大きさは3m位から6m位のものが中心で、中には10m~60m位の大船もあります。個人で出すところもあれば、催合船(もやいぶね)といって町内で一つの船を仕立てるところもあります。 精霊船の行列の編成は、まず一番先を印灯籠(しるしとうろう)が行きます。印灯籠は船頭のような役割で、船もそれに合わせて動きます。印灯籠の動きはすぐ後に続く鉦を持つ人が、後方の船に合図を送ります。次に遺族や親戚の人々、そして揃いのハッピや江戸職人風の腹掛衣装の男達に引かれる精霊船と続きます。この中に道を浄める役として爆竹係がいます。精霊流し当日は、夕刻より各家々や町内を出発。幹線道路を練り歩きながら終点の長崎港(もしくは近くの海)へと向かいます。(><)近クデ見ル時ハ耳栓必携 さて江戸時代に始まったといわれる精霊流し。当初は「わらぶね」と呼ばれる竹と麦わらで作った1m~2m位の小さめの船でした。が、その頃の行列も『夢のように壮観』だったという記録があるそうです。そして最後は長崎港で船に灯をともして港に流していました。この時、船について行こうと沖合いまで泳ぐ者もいたそうです。▲江戸時代の精霊流し(川原慶賀筆)長崎市歴史民俗資料館のパネルより 現在は、さすがに大量の船を海に流すのはいろいろ問題があるので、同じ光景を見ることはできません。その分、陸上で力いっぱいに練り歩き、しっかりお見送りしているのですね。( ̄O ̄)ドーイドーイ

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  • 第48号【夏の日、平和のレリーフ!】

     暑中お見舞い申し上げます。連日猛暑が続いていますが、夏バテしないように気をつけて下さいね。(^_^;;クーラー病ニモ気ヲツケテ さて今日から8月。長崎に原爆が投下された8月9日が近付いて来ました。長崎ではその日からずっと原爆犠牲者の方々へ祈りを捧げ、世界の平和を願い続けています。松山町の爆心地周辺には、同じ惨事が再び繰り返されないように平和への願いが込められたモニュメントが数多く建立されています。今回はそんなモニュメントを巡ってみました(・・)平和公園etc... 平和公園の一角に、まっすぐ天に向かって建つ黒く細長い石碑があります。「原子爆弾落下中心地の塔」です。昭和20年8月9日午前11時2分。アメリカの爆撃機B29により投下された原子爆弾は、長崎市の北部に位置する松山町の上空約500mで炸裂。▲原子爆弾落下中心地の塔(平和公園内)まさにこの塔の上空で起きたのでした。発生した大きな火球は、わずか0.2秒後には半径200mになり、表面温度は7000~9000度に達したといいます。巨大な火球の周囲はその熱で膨張し、すさまじい爆風に変わり、強い熱線と放射能と共に四方へ散乱しました。焼き尽くされ、叩きつぶされ、廃虚と化した長崎の街。この時の死傷者は約15万人といわれています。 この爆心地から北東へ500m離れたところには、約20年の歳月をかけて作られ1925年に完成したレンガ造りの大教会「浦上天主堂」がありました。地元の信徒たちの地道な活動によって造られ、東洋一の壮大さを誇ったその聖堂も完成からわずか約20年後に原爆によって壊滅。聖堂の南側に残された残骸の一部だけが、現在平和公園内に移築されています。レンガ積みのその残骸は教会建立にかけた信徒たちの熱い思いそして原爆投下後の悲惨な光景を知っています。それを思うと胸が詰まります。▲浦上天主堂遺壁(平和公園内) 平和公園内では、他にも世界各国の都市から贈られた多彩なモニュメントを見ることができます。それぞれお国柄が偲ばれる個性的でアーティスティックな造型ですが、その中に込められた思いは皆同じ。「世界の恒久平和」です。これらのモニュメントを通して世界の誰もが平和を願っているのだと再確認できます。 爆心地から北に500mの丘の上にある城山小学校。当時、鉄筋コンクリート3階建てのモダンな校舎は、巨大なハンマーで叩きつぶされたように崩れ落ち、校内では110人が亡くなり、学校周辺に住む児童らの多くは家庭で約1400人が命を落としています。学徒報告隊員としてこの校舎で仕事中に被爆死した女学生の林嘉代子さん。校内には彼女が好きだった桜の木が母親によって植えられました。今、嘉代子桜として子供達に親しまれているこの桜は、春には美しい花を咲かせ優しく微笑みながら、命の尊さと平和の大切さを子供達に伝えています。(・o・)LOVE&PEACE▲嘉代子桜(城山小学校の校庭の一角にある)

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