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  • 第47号【日本植物学の父、ツュンベリー】

     街を歩けば庭先や小道の脇などに置かれた、洒落た鉢植えが目を楽しませてくれます。それにしてもここ数年、鉢植えを育てる家々が増えて来たように感じませんか。植木や盆栽など、昔から植物と親しむ生活を送って来た日本人ですが、昨今のガーデニングは国境もブームも越えて、私たちの暮らしの中に定着した感があります。それだけ現代人は「自然」を求めているのでしょうね。 話はグルリと変わって。江戸時代の人物で、「日本の植物学の父」と呼ばれている人がいます。1775年夏、オランダ商館医師として出島に赴任したツュンベリーが、その人です。彼が日本の地を初めて踏んだ時、その胸中には大切な目的が秘められていました。(,,)ナニ、ナニ?▲ツュンベリー肖像画(長崎市文化財課蔵) 出島に来る前に、大学で医学と博物学を学んだツュンベリーは、実は植物学の権威として著名なリンネの弟子でもありました。当時、リンネは世界中の生物の分類を試みようと、自分の門弟たちを各国に派遣し、植物を採集・調査していて、ツュンベリーもそのひとりとして日本へやって来たのです。しかし鎖国中の日本が、外国人に植物の調査・研究を許可するはずがありません。リンネの弟子の中でもひときわ優秀だったツュンベリーは、そんな難しい環境の中で、師の期待に応えるべくいろいろな苦労をしています。▲ツュンベリー記念碑(上西山町)日本学術会議と日本植物学会によって1957年建立 たとえば研究のための植物採集で出島から出るのは許されないため、治療に必要な薬草を採るのだとウソをついて外出。時には仲良くなったオランダ通詞に採集を頼んだり、冬枯れの季節には出島で飼っている動物たちのエサとして運ばれて来た飼料の中から標本用の植物を探し出すこともあったそうです。また、1度だけ同行した江戸参府の道中でも、隙を見ては駕篭(かご)を担ぐ人の労をねぎらうふりをして、駕篭から降り、すばやく道端の崖をよじのぼり植物を採集していたそうです。((((((( *≧▽≦)P 忍者顔マケ? ところで、当時のお江戸は「解体新書」が出版されて間もない頃。オランダ通詞らの情報網によって、ツュンベリーが優れた学者であることは知れ渡っていたらしく、一行が宿に着くやいなや、学者らの訪問を受け、盛んに学術交歓の宴が開かれたといいます。▲本国スウェーデンでは切手のデザインにもなった偉人なのです。 さてツュンベリーの日本滞在は、約1年4ヶ月。その間に長崎、箱根、江戸の植物を約800種類採集したそうです。そして帰国後、「日本植物誌」を著し、そこで日本の多くの植物がはじめて学名を付けられ世界に紹介されたのでした。これがツュンベリーが今も「日本植物学の父」と呼ばれている理由だとか。トリカブト、オケラ、スイカズラなど、日本の薬用植物の分類はこの時のツュンベリーの功績によるものが大きいと言われているそうです。 学者としての使命を果たすために、はるばる日本へやって来たナチュラリスト、ツュンベリー。今、私たちが育てている花や植物の中には、ツュンベリーによって分類され、学名がつけられたものもあるかもしれません。 (^-^)ウン!

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  • 第46号【長崎・夏の風物詩、ペーロン!】

     青空にくっきりと浮かんだ真っ白な雲。ウルサイほどの蝉の鳴き声。いよいよ夏本番!という感じですが、暑さに負けず元気に過されていますか?(⌒▽⌒)ノ さてこの時季、小さな漁港を擁した長崎の各地域では「ペーロン」が盛んに行われています。「ペーロン」は日本のボートレースの元祖とも言われる中国伝来の競技で、「闘魂」とか、「熱血」といった元気ハツラツのキャッチフレーズがぴったりくる勇壮な伝統行事です。すでに6月からあちらこちらの漁港で、ペーロン大会が開催されていて、この土日に長崎港で行われる「長崎ペーロン選手権大会」では、各地域の選抜チームが競い合うことになっています。▲長崎の夏の伝統行事「ペーロン」(長崎ペーロン選手権大会より) 細長い舟の長さは昔はまちまちでしたが現在は大会の規定で約13.6m、乗員も30名以内(漕ぎ手26名以内、太鼓、銅鑼(ドラ)、舵手、采振り、あか汲み)と決められています。1mほどもある櫂を手にした漕ぎ手の若者達が、太鼓と銅鑼の囃子に合わせてスピードを競う様は、まさに圧巻です。(“)生デ見テホシイ! ところで長崎でペーロンが最初に行われたのは江戸時代初めの1655年頃と言われています。当時、長崎港にてい泊していた唐船が暴風雨で難破し、多くの犠牲者を出したことから、長崎在住の唐人たちが海神の怒りを鎮めようと端船(はしけ:荷物を運ぶ小舟)で競漕したのがはじまりだそうです。\(-o-)ソレヨリ前カラトイウ説モ… 中国の福建地方には、長崎のペーロンとよく似た競渡船が存在するそうで、その起源をたどると、川に身を投げた楚の詩人、「屈原(くつげん)」をとむらうために、毎年その命日(旧暦の5月5日)の頃に行った船祭りの風習がいつしか競渡船になり、それがペーロンのルーツではないかといわれているそうです。 長崎にとってペーロンは、ハタ揚げやくんちに並ぶ花形伝統行事のひとつ。昔は中国の故事にちなんで旧暦の端午の節句に行われていましたが、現在は新暦の6月初め頃から8月のお盆の頃までがシーズンになっています。(^▽^)夏ノ風物詩! 実際に300年以上のペーロンの歴史を持つ長崎市深掘町の練習を見に行って来ました。夕方6時半頃、地元で「有海(あるみ)」と呼ばれている小さな漁港は、ペーロンの練習を終えたばかりの中学生と、仕事を終えこれから練習に入る地元チームの社会人が、入れ代わったばかり。大人たちはこれから9時までみっちり練習です。聞けばこのチーム、既に3月から毎日練習をしているとか。漕ぎ手を高校生の時からやっているという20代半ばの青年にその魅力をたずねると、『競技中はどのチームもキツイわけです。そこで何クソと思って熱くなる。意地になって頑張るってところがイイんですよね。』▲300年以上の歴史をもつ深堀町の練習前光景 目前に迫った長崎港での大会では往復1200mを競います。今年も海上での熱戦と、陸での地元の応援団による大声援を見る事ができるはず。頑張る人がいて、それを応援する人がいる。このとてもシンプルな在り方が、長く人々に受け継がれ、愛されて来た理由なのかもしれません。(^○^)ガンバレ~ッ!!▲ボートに先導され、練習は9時までみっちり続きます

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  • 第45号【遊ボーヤの島、高島!】

     夏休みが来るの指折り数えはじめた子供たちを横目に、どこへ連れて行こうかと思案中の親御さんは多いはず。そこでおすすめなのが長崎港沖に浮かぶ小さな島・高島(西彼杵郡高島町)。この島は近年ファミリー向けのレジャースポットとして大いに注目されています。実はここはかつて炭坑の島として栄えた町。今回はその歴史に触れながら、現在の島の様子と魅力をご紹介します!(┘⌒⌒)┘早くキテキテ、夏休み! 長崎港から高速船でわずか35分。渋滞ストレスなしで、降り立った高島の桟橋は、のんびりした雰囲気が漂い、人々の表情も穏やか。町のあちこちで見かけるヤシの木ときれいな海と青空に、まるで南国の島に来たような気分に…。そんな高島町は現在、人口1000人余り。小高い丘を擁した島の面積はわずか1.27km2で、日本で一番小さな町なのだそうです。ここは以前、石炭の町として発展し、最盛期には2万人余りの人々が暮していました。しかし昭和61年、約120年続いた高島炭坑が閉山。その後、多くの人々が島を離れていったのでした。 高島のすぐ近くに浮かぶ、端島(はしま)は、日本の近代化を支えた海底炭坑として知られる人工島で、高層鉄筋アパートが林立した島の外観は、軍艦島の異名とともに、無人島となった今も当時のまま残されています。(+o+)戦時中、軍艦ト間違ワレタラシイ…▲軍艦島の異名を持つ端島(右) 時代に翻弄されながらも、町は炭坑に代わる新しい活路を探り、新しく島の自然をレジャースポットとして活かした町づくりをはじめます。そうして数年前オープンしたのが、「飛島(とびしま)磯釣り公園」と「高島海水浴場」です。「飛島磯釣り公園」は、ベテランもビギナーも安全に本格的な釣りが楽しめる釣りスポット。もともと九州きっての好漁場だけあって、マダイ、チヌ、クロ等、魚の種類も豊富で、初心者がいきなり大物を釣り上げることも多いとか。▲飛島磯釣り公園では初心者の私にもたくさん釣れました私もさっそくサビキでアジゴ釣りに挑戦! 初心者なのに、釣れる、釣れる、わずか30分で、30匹も釣れました! そばで見ていた老人が、「これだけ釣れれば、病みつきになるぞ」と、声をかけて来て、帰り際には釣ったばかりの大きな水イカをわけてくれました(後で聞くと、その人は島のイカ釣り名人!)。ありがとうございました!くコ:彡 =(^¬^ )甘クテオイシカッタァ さて広々としたウッドデッキが、どこか外国のリゾート地を思わせる「高島町海水浴場」は、温水シャワーやコインロッカーなどの設備が充実。海際には真水のプールも設けられていて、小さなお子さんたちに利用されています。また特筆すべきは海の水質で、きれいで快適な水浴場として今年環境省から「日本の海水浴場88選」に認定されています。何を隠そう高島町は、100%下水処理を行い、島の宝である海を守っているのでした。▲高島海水浴場は日本の海水浴場88選に認定されています※高島町役場総務課に取材のご協力をいただきました。ありがとうございます。

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  • 第44号【長崎市歴史民俗資料館】

     「花の都パリ」。ずいぶん昔から使われているこのフレーズ、最初に言い出したのは一体誰なのかしら? もしや映画のセリフ? 旅行代理店の宣伝文句?いずれにしてもパリにはお似合いの表現ですよね。こんな風に人々が注目する個性的な街には、それにぴったりの代名詞があるようです。長崎でいうならば「異国情緒」とか「港町」といったところですね。(“)神戸にも言えるね! 実はそんな代名詞で語ることができる長崎は、1570年ポルトガルとの貿易のためにこの街が開港されてからのこと。それじゃあ開港以前の長崎はどんな風で、そもそも長崎のはじまりはいつ頃なのでしょうか? そんな素朴な疑問を抱えて今回行って来たのは「長崎市歴史民俗資料館」(上銭座町)です。(・・)ソンナトコアッタノ?▲長崎市歴史民俗資料館(長崎市上銭座町) 長崎市の中心部茂里町(もりまち)にほど近い場所にある「長崎市歴史民俗資料館」。路面電車だと茂里町電停下車、徒歩10分。県営バスは立山行き(目覚経由)に乗り「あじさい荘バス停」で下車、徒歩5分。近くには坂本国際墓地があるので、それを頼りに行くと分かりやすいと思います。(“)人に聞クトイイヨ! 館内には1階は考古資料、2階は農機具や漁具、酒道具などの民俗資料や中国及びポルトガルとの貿易資料、3階は電信機器や電話機器などといったものが展示されています。この館の目的は、長崎の歴史民俗の資料を収集・保存し、調査・研究を行うこと。そして来館者には長崎の歴史の特異性と民俗文化財についての知識と理解を深めてもらうことにあるとか。▲懐かしさを感じる昔の生活道具たち さまざまな展示物の中で私がもっとも驚いたのは、1階に展示されていた、柿泊遺跡(かきどまりいせき)のナイフや矢じりなどの出土品でした。これは市内柿泊町で発掘された約2万年前の旧石器時代のもの。つまりこの時代にはすでに長崎市内には人類が住んでいたという証で、現在もっとも古い長崎市の遺跡といえます。 学芸員の方の話によると、この館では2万年前の柿泊遺跡から現代にいたるまで、いわゆる日本史レベルで系統的に長崎を見渡す事ができるのだそうです。また開港以前の長崎については、長年ただの寒村だったというのが通説だったのが、ここ15年くらいの発掘によって、単なる寒村ではなく、きちんとした町が形成され、なおかつ文化水準も高かったというようなことがわかって来たとか。もちろんその証拠となる陶磁器や室町時代に建立された五輪塔(供養塔)なども展示されています。(°°)ヘエ▲長崎の近世遺跡から出土した東南アジアの陶磁器 展示物をじっくり見て行くと、歴史民俗の視点にウエイトをおいているだけあって、江戸期や明治~昭和初期の暮らしの様子などいろんな時代の人々の生活や温もりが伝わってくるようなものが多くあり、面白かったですよ。 ところで「長崎市歴史民俗資料館」は、平成九年に出島から今の場所に移転したのですが、場所的にわかりにくいのと宣伝不足で、来館者がずいぶん少なくなっているというから残念な話です。これを機に、新しい長崎を発見しに出かけてみませんか? ‘ー’)入場無料です!

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  • 第43号【お江戸に高島秋帆のなごり】

     東京の板橋区に大きな団地で知られる「高島平(たかしまだいら)」という所があります。この地名は日本の西洋砲術の祖「高島秋帆(たかしましゅうはん)」の名にちなんで付けられたものです。(´-`)??ハテ、シラナイナ さて、いきなり東京の地名の話から入ったのには理由があります。高島秋帆は江戸時代後期の長崎の地役人ですが、彼の人生はたいへんお江戸との関係が深いものでした。今回は幕末に数奇な運命をたどったこの人物についてのお話です。(“)面白イ話ナライイケド…▲高島秋帆旧宅の門扉(長崎市東小島:国指定史跡) 秋帆が生まれた家は代々、長崎奉行の下でこの地を支配・管理する地役人、「町年寄(まちどしより)」で、外国貿易を統括する「長崎会所」で事務全般を仕切る役目も兼務。またさらに鉄砲方として長崎港の内外に設けられた港を警備するための砲台(台場)の責任者も務めていました。▲秋帆旧宅地の井戸と土塀向こうに見える山は稲佐山 17才で家を継いだ秋帆は、早くから国防の必要性を感じ、私財を投じてオランダ人から砲や銃などを購入し、先進の西洋の砲術を研究していたそうです。そんな折、アヘン戦争(1840~1842)で清国が英国に港を封鎖されたことをオランダ人から聞き、幕府に新しい砲術を採用し日本も近代的な国防を考えるべきといった内容の意見書を提出しました。これが有名な「天保上書」といわれる書状です。(-o-;有名ってイワレテモ… 幕府も危機を感じていたのか上書を受けた老中・水野忠邦は、秋帆に江戸の市街地から遠く離れた徳丸ヶ原(ここが冒頭の高島平)で、西洋式大砲発射の演習を命じます。長崎から門人を率いてお江戸へ上がった秋帆。天保12年(1841)大勢の見物人の中で行われた演習は見事成功! 発射された大砲の音は、江戸中に響き渡り、たいそう人々を驚かせたそうです。(゛)ソレデ地名ニ… この演習で幕府に認められた秋帆でしたが、翌年、高島家は突如お家断絶となり、秋帆とその子、浅五郎ら他10名は江戸送りとなり牢屋へ入れられます。これは同僚や旧砲術家らのねたみによるいわれなき弾圧でした。秋帆の成功と才能は、周囲の大きな嫉妬を買ったようです。(`ε`)ヒドイハナシダナ 10年あまりも牢獄に押し込められた秋帆らが解放されたのは嘉永6年(1853)、日本が諸外国に開国を迫られている時でした。"外国船は打ち払うべし"という風潮の中で、秋帆は「嘉永上書」という国防慎重論を書きます。それは「いま外国と戦争してはならぬ。それよりまず国防を充実させよ。その費用は諸外国との貿易による利益をあてるべき」といった内容で開国を説いたものでした。 出獄後は砲術の師範役になるなど、幕府に重く用いられた秋帆は、慶応2年(1866)東京・白山の屋敷で、明治維新を待たずして病死します。69才でした。長崎に残る彼の邸宅跡(長崎市東小島)には、砲術練習所跡や砲痕石が残されています。(^^;大砲はナイヨ▲砲術練習所跡に残された砲痕石(秋帆旧宅敷地内)

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  • 第42号【気分爽快、長崎港クルージング!】

     気象庁の梅雨入り宣言直後に訪れた"梅雨の晴れ間"。お天気が良いのはうれしい事ですが、どうしていつもこうなの?と雨の季節への心構えをくじかれたようでちょっとプリプリ…。それはそうと、私にはやるべき事がある!そう、「長崎港クルージング」。さっそく、行ってまいりましたよ~。┌(^0^)┘GO!GO! ところで「クルージング」というと、船でさっそうと大海原を駆けめぐるというイメージが浮かびますが、今回のは少し違います。深く入り組んだ長崎港の一番奥から、港の沖合(出入口付近)までを海岸線をたどるように60分かけて1周するもので、遊覧船でゆっくり港を巡るのです。(⌒▽⌒)/ノンビリイコウ! 船の発着場所の大波止ターミナルからは、「やまさ海運」、「安田産業汽船」という2つの船会社が長崎港めぐりの定期便を出しています。いずれもルートが似ていて、所要時間も同じ(料金は違います)。両方の便を合わせると朝から夕方までの間に約10本は出ています。(‘▽’)利用しやすい! さてターミナルの窓口で大人料金1200円を支払い、朝10時45分発の船(安田産業汽船)が待つ桟橋へ。「ゼリーフィッシュ(くらげ)」というユニークな名を持つ遊覧船に乗り込むと、すでに約30名ほどの乗客が思い思いにくつろぎ、出航を待っていました。軽食やドリンク類が楽しめる船内は、1階が窓越しに展望を楽しめるスペース、2階は360度に視界が広がる屋根付きの広いデッキ。この日はお天気が良かったので皆2階へ。さあ、初夏の爽やかな風を感じながら、いよいよ出航です。(^〇^〃)ゞワクワク▲可愛い?カラーリングでひときわ目立っていたゼリーフィッシュ コースを簡単にたどってみましょう。まず三菱重工長崎造船所へ。巨大な工場をかなり近距離で見る事ができます。ほどなくして数年後に完成が予定されている女神大橋の架橋場所が見えて来ました。この橋は新しい観光スポットとして期待されています。次にキリシタン殉教にまつわる「高鉾島(たかほこじま)」、続いて昔、長崎市民が海水浴場として利用していた「ねずみ島」。▲すれ違う船に子供達も大喜びそして大浦天主堂の次に古い「神ノ島教会」と海に向かって立つ「マリア観音像」。ここで長崎港の沖合に浮かぶ伊王島、高島を望みつつUターン。三菱重工の「100万トンドッグ」、グラバーさんが明治元年に創業した「ソロバンドッグ」、異国情緒あふれる建物が目を引く「南山手の景観」と続いて終点です。▲神の島教会と船舶の安全を祈願して建立されたマリア観音像 船内では出港時からアナウンスで丁寧な解説があります。長崎の港にまつわる話をいろいろ聞けて得した気分になりますよ。それにしても、いつもと違う視点で見る長崎は格別の味わいでした。かつて長崎港へやって来た異人さんたちはその美しさを褒め讃えたそうです。時代を経てずいぶんその姿も変わったのでしょうが、何だかその気持ちがわかるような美しさでしたよ。(☆☆)行って、良かったァ

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  • 第41号【長崎ことはじめ(通信編)】

     今回は長崎ことはじめシリーズ(!?)通信編をお届けします。ひと口に「通信」といってもその意味はとても広く、広辞苑によれば『人がその意志を他人に知らせること。郵便・電信・電話などによって意志や情報を通ずること』とあります。 今やインターネットで世界中がつながっていますが、電気通信による情報ネットワークの歴史をひもとけば、1837年モールスによる電信の発明にまでさかのぼります。「トン・ツー」という電流の長短をテープに記録する「モールス信号」はご存じの方も多いはず。長崎の阿蘭陀通詞たちは出島のオランダ人や洋書によって、このモールスの発明を早くから知っていたといいます。日本初の電信機も、出島に持ち込まれたものがはじめだといわれていて、1854年(安政元年)に幕府の勘定奉行が出島を訪れた時、電信機を見て『脈一つ動くうち百里の内に通達合図の出来る品』と驚きぶりを記しています。\(◎◎)▲初期の通信機(長崎市歴史民俗資料館・展示パネルから) 出島の電信機とはまた別の話になりますが、日本初の国際電信も長崎がはじまりでした。明治政府は1870年(明治3)に、上海-長崎間およびウラジオストック-長崎間の海底電信線を長崎に陸揚げすることをデンマークのグレートノーザン・テレグラフ社に許可します。翌年には電線の敷設が完成し、通信が開始されました。これでめでたく日本はヨーロッパをはじめとする世界各地と電信線で結ばれたのでした。(^^)//。.:¨:・‘★パチパチ。▲国際電信発祥の地(左)と長崎電信創業の地の碑(長崎市南山手町) さて、モールスが電信機を発明してから約30年後の1876年(明治9)、アメリカのグラハム・ベルが電話を発明しました。日本はベルの電話器を輸入し、国産の電話機制作に乗り出します。そうして1890年、東京~横浜で電話が開通、これが日本の電話創業とされています。 しかし長崎ではそれよりも約8年くらい前に電話が使われていました。イギリス人貿易商のトーマス・グラバーが南山手にある自宅と、長崎港から約14.5kmほどの沖合に浮かぶ小さな島・高島に建てた別邸との間に電話線を引いていたのです。これは日本初の私設電話といわれています。いかにも幕末~明治期に数々の偉業を成し遂げたグラバーさんらしい話でもあります。(¨)ヘエ…。▲電信発祥の地はグラバー園に続く坂の入口付近にあります。

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  • 第40号【遠藤周作文学館へ】

     我が社では、10年ほど前から「長崎の歴史と文化を学ぶ会」ということで長崎に関わるいろんな事をテーマにした講座を(隔月開催、参加無料)開いています。つい先日行われた第55回目のテーマは『遠藤周作と長崎』でした。講師は長崎県外海町(そとめちょう)にある『遠藤周作文学館』(H12年開館)の専門研究員の方。“遠藤周作と長崎との関わり”やキリシタン弾圧を通して心の深淵を描き出した代表作“「沈黙」について”などのお話がありました。あらためて長崎の歴史や人間について考えさせられる、たいへん興味深い内容でしたよ。(“)理解デキタト?((^,^;)ノ 実はコラムの読者の方からも「遠藤周作文学館」について知りたいというグッドタイミングなリクエストもあったばかりで、さっそく次の休みに「遠藤周作文学館」へ出かけて来ました。(^ー^ )アクションはハヤイ!▲遠藤周作文学館(長崎県外海町) 長崎市内から車で西彼杵半島の西側を通る国道202号線を30~40分北上したところにある遠藤周作文学館(西彼杵郡外海町)。ちなみにこの202号線は別名「サンセットオーシャン202」と呼ばれ、五島灘に沈む夕日を眺める海岸線が続く県内屈指のドライブコースなのです。(^^/絶景デス もしバスを利用するなら、長崎・新地のバスターミナルから「瀬戸板の浦」行きに乗り「黒崎支所前」で下車、そこから約5分ほど歩きます。バスだと所要時間は約1時間ほどです。(^◇^)バスも又よし 長崎市から外海町へ入ると、海が眼下に広がり山の緑とともに豊かで素朴で静かな自然の風景が続きます。どこかひそやかな佇まいを感じさせる外海町はキリシタンの里として知られ、小説「沈黙」の舞台となったところです。「遠藤周作文学館」は海も山も一望できる見晴しのいい丘の上にありました。▲自然が豊かな外海町 観覧料350円を支払って館内(開館時間:午前9時~午後5時)へ。生前の愛用品や膨大な蔵書が収蔵され、作家の生涯と足跡をたどる写真パネルや小さな字でぎっしり書かれた生原稿などファンにはたまらないものが多数展示されていました。ちょうど1周年記念企画展「作家の書棚より~書き込み本と狐狸庵(こりあん)アルバム~」が開催中(11月30日まで)で、創作の過程を垣間見られる資料をじっくり見ることができましたよ。ところで外海町にはこの文学館とは別の場所に遠藤周作ファンが訪れる場所があります。1987年に建てられた文学碑「沈黙の碑」のある丘です。除幕式の際は、夫妻で出席されたそうです。(¨)見たかったナ・・。 いつになく静かに物思いにふけった帰路、あいにくの曇りで夕日は見られませんでしたが、視界いっぱいに広がる濃紺の海は何だか心にしみる美しさでした。ふと浮かんだのは「沈黙の碑」に刻まれた言葉。『人間がこんなに哀しいのに主よ、海があまりに碧いのです。』(><)奥ガ深スギル~▲沈黙の碑(出津文化村内)「遠藤周作文学館」と外海町の情報はこちらからもどうぞ。http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/endou/

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  • 第39号【オランダ商館員の面白エピソード】

     アジサイが咲きはじめています。長崎ではアジサイといえばシーボルト。日本原産のアジサイに魅せられたシーボルトは帰国後、日本に残した妻・楠本滝(通称・オタキさん)の名にあやかり「ヒドランジア・オタクサ」という学名を付けました。そういう縁もあってアジサイは長崎市の市花に。街のいたる所にこの花木は植えられていて、これから梅雨が終わるまでブルーやピンクが微妙に七変化する花々を楽しむことができます。(^▽^)キレイカヨ~ さてアジサイの話とは打って変わって。今回は出島のオランダ商館員さんたちの話です。出島には商館長(カピタン)率いるオランダ商館員らは常時十数名ほどいました。荷物の管理者、会計担当者、書記役や医師などの役職にある彼等は基本的に出島の外へ出る事を許されず、貿易業務の少ない時期はたいへんたいくつな日々を送り、商館の中に設けたビリヤードに興じたり、遊女と戯れたりしていたそうです。▲ビリヤードに興ずる商館員 そんな中、今どきでいうなら三面記事に掲載されそうなエピソードを2つほど紹介します。1659年秋の某日。商館医師マルティン・レミが突如出島から姿を消しました。机に残された遺書によると、"遊女を愛しているが、自分のものにすることができない。だから死ぬよりほかにはない" という理由での失踪のようです。他の商館員や長崎奉行所の役人らはあわてて捜索をはじめ、出島はもとより民家や船、そして海中には網を投げるなどして長崎の町中を巻き込んでの大騒動になりました。そうして事件が解決したのは行方不明になってから3日目の夕暮れどき。出島の近くに停泊していた唐船の帆の下からひょいとレミが姿を現したのです。何でも失恋の末、海に身を投げるつもりだったのが、命が惜しくなり、さらには遊女に一目会いたくなって丸山へ向かおうと思っていたのだそうです。実際のところは空腹に耐えかねて出て来たところを無事に保護されたのですが、本当に人騒がせな話です。まあ、何といいますか「恋の病」は古今東西変わらぬようで…('-'*)。▲楽器演奏を楽しむ様子が伺えます。 もうひとつはちょっと悲しいお話。1811年冬、商館員スヒンメルがお酒の飲み過ぎで亡くなりました。せまい出島でのわび住まいに加え、その頃の世情も本国オランダがナポレオン軍に占領されていたためオランダ船の長崎への寄港が途絶えていて、商館員らは不安とあせりを感じていました。そんなストレスの多い日々を、スヒンメルは「人並みはずれた飲酒」で解消しようとしていたのでしょう。酒を飲み過ぎては治療を受け、周囲に迷惑をかけながら何度も禁酒の誓いをたてては破りをくり返していたそうです。(*^¬^*)ウィーッ▲食事風景(2階)と家畜の世話をする姿が見えます。 失恋も、お酒の飲み過ぎも現代によくある話。江戸時代のオランダ商館員さんたちがご近所の人のように感じませんでしたか?※各資料とも長崎県立美術博物館蔵「漢洋長崎居留図巻・長崎阿蘭陀出島之図」(画者不詳)より(一部)

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  • 第38号【謎に包まれた川原慶賀】

     今月中旬、長崎の地元新聞の一面にオランダで川原慶賀(かわはらけいが)の絵、2作品が新たに発見されたという記事が掲載されました。慶賀は江戸時代の町人絵師。その彼の話題が今、国民が大注目している新内閣の記事と並んでいるのを何だか不思議に感じながら、でも、やはり長崎にとって慶賀は重要な人物なのだなとあらためて思ったのでした。【“】ソウナノ? ご存じの方も多いと思いますが、慶賀は江戸時代後期に出島にやって来たオランダ商館医師シーボルトのお抱え絵師です。シーボルトの求めに応じて出島の様子や庶民の暮らし、職人の道具や植物など当時の日本の様子をさまざまな視点で描きました。▲蘭船入港図(蘭館絵巻)(長崎市立博物館蔵)先週お話しした唐絵目利(からえめきき)は日本側の絵師として西洋の文物を描きましたが、慶賀は西洋側の絵師として日本を描いたのです。ちなみに現存する彼の作品で国内に残っているのはおよそ100点ほどで、オランダには約1000点の作品が保存されているそうです。(’O’)タクサンアルンダ…。 通称・登与助(とよすけ)こと川原慶賀がどんな人物だったのかについては、残された作品の数とは逆に、資料も少なくたいへん謎が多いのが実情です。長崎画壇の中心的存在だった地役人・唐絵目利の文献資料にも慶賀の名は一切出てきません。これは士農工商という厳しい身分制度の時代、慶賀の身分が一介の町絵師にすぎなかったからだといわれています。(``)士農工商? 慶賀が出島に出入りできる絵師になったきっかけは慶賀の父で、同じく町絵師だった香山(こうざん)の交友関係にありました。香山と唐絵目利の石崎融思(※先週のコラム参照)が親しい間柄にあり、慶賀は父と融思に絵画の手ほどきを受けたと推測されています。そして慶賀が20代後半で「出島出入絵師」となった際、融思の強い後ろ盾があったと考えられています。融思はきっと慶賀の才能を見抜いていたに違いありません。〔’’〕ウンウン。▲瀉血(しゃけつ)手術図(長崎県立美術博物館蔵) 出島に出入りするようになってから12年後、慶賀はシーボルトと出会います。シーボルトは慶賀の優れた能力を知り、西洋の写実的な画法を徹底的に仕込んだそうです。当時のシーボルトの手紙や著作物にはしばしば「TOJOSKY(登与助)」の名が登場し、「無比に有能な画家」とまでいわしめています。(゛)スゴイ!▲シーボルト肖像(一部)(長崎県立長崎図書館蔵) ところで慶賀に関する文献資料が少ない中で実は2度、長崎犯科帳に罪人として記録されていました。1度目はシーボルト事件(1828年)に連座して約1ヶ月ほど牢に入れられています。2度目はそれから十数年後、国外不出とされていた藩の家紋を描き、オランダ人に渡そうとした罪で江戸並びに長崎払いの刑を受けています。その後、慶賀がどこで何をしていたのかというと、実はこっそり長崎にもどって来て眼鏡橋あたりで町絵師を続けていたようです。さて晩年の慶賀について…。また近いうちにご紹介しますね。(“)紙面がつきたからね

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  • 第37号【異国を描いた宮仕えの画家たち】

     南の方ではすでに梅雨入りした地域もあるようです。桜前線のあとは梅雨前線。日本の季節の流れと共に起きるさまざまな自然現象って本当に面白いですね。今は新緑がとても美しい。思わず見とれてしまいます。('_' )ジーッ さて先週、江戸時代の阿蘭陀通詞についてお話しました。彼等は「言葉」で異国の文化を国内に伝えましたが、一方「絵画」という方法で伝える者もありました。唐絵目利(からえめきき)といわれる地役人です。(□_□)メキキ? ここでいう唐絵目利の「唐」は海を渡って来たものという意味で使われ、外国を指すのだそうです。そして目利(めきき)といえば、私たちは「鑑定士」の事だと思います。確かに、唐絵目利のお役人さんも外国の絵画を鑑定していました。でもそれだけではありません。異国からやって来た鳥や動物等を写生して記録するのも大事な仕事のひとつだったのです。そしてたとえば珍しい鳥等が外国から入って来たとすると、まず写生したものを幕府に送り、欲しいかどうかを確認した後、実物を送り届けるということもしていたようです。メールで送るなんてことができない時代です。書簡のやりとりだけでもかなりの時間を要したに違いありません。〔“〕ウンウン。▲ヒトコブラクダ(作者不詳)(長崎市立博物館蔵) ところで当時の長崎は、貿易で入って来た南蛮絵や中国絵画などの影響を受けて洋画派、漢画派といったさまざまな流派の画家がいました。そんな長崎画壇の中心的存在だったのが、外国の絵画をいち早く目にすることができた唐絵目利の人々でした。彼等もまた阿蘭陀通詞と同じく世襲制の職業です。(当時はそれが普通。)名門といわれた荒木家では、今も日本の画壇に名を残す石崎融思(いしざきゆうし)、荒木如元(あらきじょげん)といった優れた画家を輩出しています。(~ヘ~;)ユウシ? ジョゲン?▲蘭人鷹狩図(一部) 荒木如元(長崎市立博物館蔵) 融思は長崎の名所や丸山遊女、そして唐人屋敷やオランダ商館など江戸後期の長崎の風俗を描いた「長崎古今集覧名勝図絵」(長崎市立博物館蔵)の作者として知られています。また鮮やかな色彩で描かれた「唐蘭館図絵巻」(長崎県立美術博物館蔵)は、建物や人物の様子がこまかくストーリー性を持って絵画化されていることから、文章の資料では読みとれないようなことがわかる第一級の資料として扱われています。ちなみに荒木家の石崎融思が「石崎」姓なのは、荒木家の子だった融思が、同じ唐絵目利の石崎元徳の家を継いだからです。石崎家へ融思を出した後、荒木家を継いだのは、養子の如元でした。如元はビードロ画や油絵を巧みに描き、日本における初期の洋画家を代表するひとりとなったのでした。(・_・)知ル人ゾ知ルオ話。▲蘭館図絵巻(一部) 石崎融思(長崎県立美術博物館蔵) 唐絵目利にしても阿蘭陀通詞にしても、当時は柔軟な感覚で養子縁組がされていたようで、個人の才能や才覚を上手く見極め、活かしながら家業を守り継いでいたようです。

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  • 第36号【江戸時代の通訳者、阿蘭陀通詞】

     Can you speak English? いきなりですが、どうですか?今の時代は海外へ行ったり、教室へ通ったり、教材を手に入れたりなど、その気さえあれば英会話を学ぶ機会はいろいろあって、いくらでも勉強できる、そんなありがたい環境です。でも、江戸時代ならどうだったでしょう?( ̄エ ̄;)?? 鎖国中の日本で、西洋の言葉といえば、出島を窓口に貿易をしていたオランダの言葉でした。そのオランダ語を日本語に訳していたのが出島に勤務する地役人・阿蘭陀通詞です。彼等の主な仕事は、オランダ船がもたらした風説書(オランダ商館長が幕府に提出した海外の情報書)や乗船員名簿、積荷目録などの翻訳をはじめ、入札や荷渡しといった貿易業務における通訳などで、業務が忙しい時期は夜も泊まり込みで仕事をしていたそうです。 )゜O゜(キツー▲出島で重要な存在だった阿蘭陀通詞「蘭館図(一部)」/石崎融思筆(長崎県立美術博物館蔵) 江戸前期、総勢150人はいたといわれる阿蘭陀通詞たちは「通詞仲間」と呼ばれる団体をなしていて、その基本構成は経験と実力によって上位から大通詞(おおつうじ)、小通詞(こつうじ)、そして稽古通詞(けいこつうじ)の3つの段階に分けられ、さらに各段階でこまかく諸々の役職が設けられていました。▲今集覧名勝図絵(長崎市立博物館蔵)また阿蘭陀通詞は世襲制の職業で、たずさわる家々は40家以上に及び、特に石橋、西、吉雄、馬田、本木といった家は優秀な人材を輩出することから名門といわれていました。(“)ホウ 阿蘭陀通詞は西洋の医学書や天文学といった書物を翻訳するのも仕事です。そういった西洋の知識を目の当たりにできる環境と、語学の才能に恵まれた通詞の中には新しい医術の開拓者となり医師として活躍する者もいました。その者の下には語学や医学の知識を得ようとする遊学者たちが全国から集ったといいます。吉雄耕牛(よしおごうぎゅう/1724~1800)はそんな優秀な阿蘭陀通詞を代表する人物です。彼は25才の若さで大通詞に昇進するほどの逸材で日本の蘭学の基礎を築きます。蘭方医としての名声も高くその門弟は600人に及んだそうです。江戸蘭学の祖といわれる前野良沢、杉田玄白の師でもあり、彼等が翻訳した「解体新書」の序文は耕牛によるものです。おそらく師の教えに感謝して序文を依頼したと考えられます。▲吉雄耕牛宅跡にあったレリーフ(長崎市万才町) さて鎖国下の少ない情報の中、現代のようにまともな辞書もない時代に、通詞たちはどのようにして通訳・翻訳の仕事をこなしていたのでしょうか。残念ながらその辺の様子にふれる資料は見つけられませんでした。しかし彼等の苦労は相当なものだったに違いなく、それこそ身ぶり手ぶりからはじめたのではないかと想像できます。 西洋と日本の媒介人という重要な役割を担いながら、その多くは名も無い地役人として生涯を過した阿蘭陀通詞たち。歴史に名を残した当時の蘭学者らの成功の影には常に彼等がいて、日本の学術の発展に大きな貢献をしたことをここに書き留めておきたいと思います。(._. )ゴクロウサマデシタ

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  • 第35号【長崎ペンギン水族館、オープン!】

     花のゴールデンウィーク、皆さんいかがお過しですか?こよみ通りに仕事していた人も明日からはいよいよ4連休!思いきり楽しんで、文字どおり“黄金の日々”を過しましょう! Yeah! o(^o^o)(o^o^)o Yeah! さてお出かけシーズンの今、長崎でもっとも注目を集めているスポットのひとつが「長崎ペンギン水族館」です。長崎市宿町に先月22日にオープンしたばかりで、毎日大勢の家族連れで賑わっています。この水族館では飼育日本一を誇る7種類(全119羽)のペンギンをはじめ世界最大級の淡水魚「メコンオオナマズ」、長崎県沿岸に棲息する魚たちなど、全部で約180種類、約9千の海の生き物たちを見ることができます。へ(*^o^*)Vちょっとすごい?▲4月22日にオープンしたばかりの長崎ペンギン水族館 実はこのペンギン水族館のオープンを、長崎市民はちょっとした感慨を持って受け止めています。それはこの水族館が4年前に経営不振で閉館した「旧長崎水族館」を引き継ぐものだからです。旧長崎水族館は1959年、原爆復興事業のひとつとして誕生。当初は東洋一の規模の水族館として注目されました。捕鯨船が南氷洋からペンギンを連れて来るなどして、水族館には少しずつペンギンの数が増え、1992年には日本で1羽のコウテイペンギン「フジ」が28年5ヶ月という国内最長飼育記録を残すなどペンギンの水族館として全国的に有名になりました。( ^ __________ ^ )▲フンボルトペンギン手を伸ばせば届きそう・・ かわいいペンギンたちやさまざまな海の生き物たちに会え、しかも遊園地も隣接していたこの旧長崎水族館。現在30代以上の長崎っ子の多くはレジャー施設の少なかった子供時代に、この水族館で過した懐かしい想い出を持つ人が多く、閉館を寂しがる声が多く聞かれました。それだけが理由ではないのでしょうが、閉館後も市民による水族館存続の強い要望が起こり、その念願がかなって「長崎ペンギン水族館」はオープンしたのでした。(^-^)//""パチパチ 長崎駅前から「網場・春日車庫前」行きのバスで約30分。「水族館」前で下車すると、そこはのどかな漁師町。新しいペンギン水族館は海に面した場所にありました。旧館から引き継がれたペンギンの高い飼育技術で、現在、39年!で、長寿世界一を更新中のキングペンギン「ぎん吉」さんに会いました。その背中はいかにも長老らしい味わいをにじませています。▲キングペンギンこの中にぎん吉くんがいるかも? 大型水槽を自由に元気に泳ぎ回るペンギンたちの姿は、まるで飛んでいるかのよう。でも陸地に上がるとヨチヨチ歩きで、いちばん小振りなイワトビペンギンは思わず抱きしめたくなるようなかわいさなのです。ペンギンの習性なのか、数匹が同じ方向を向いて立っている姿は、群れていながら一羽一羽が自立しているような印象でした。水中を泳ぐ為に進化を遂げたペンギンたちは、本当に美しく、愛らしく、訪れた人たちを和ませてくれますよ。(^^)/GO! GO!

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  • 第34号【出島は、なぜ扇型なの?】

     美しい扇形で知られる長崎の出島。江戸時代に描かれた長崎港湾の絵には、みな自然の海岸線とは明らかに違う、扇形がくっきりと描かれています。そう、出島は埋め立てで造られた人工の島なのです。では、なぜ扇形に造られたのでしょうか? 先に答えを言ってしまうと、実はその真相は闇の中なのです。期待させたのならゴメンナサイ。現在はいくつかの有力な説はあるものの、その内のどれともいいきれない状況なのです。それにしても人工の島ならば他の形もありえたかもしれず、また歴史上重要な役割を担った島なのに、その形の由来がはっきりしてないのはちょっと残念な話です。(-ρ-)ムネン▲1820年頃の長崎港と出島(絵葉書「長崎コレクション」より) さて扇形の有力な説をご紹介する前に、まず出島が造られたきっかけについて簡単におさらいします。そもそも出島はポルトガル人によるキリスト教の布教を阻止する為に江戸時代の初め1636年に造られたもの。長崎の街はそれ以前の安土・桃山時代からポルトガルとの貿易(南蛮貿易)や中国との貿易で栄えていて、幕府は、その頃から市中で自由に暮していたポルトガル人を、新しく造るこの島に強制的に住まわせることで、国を揺るがす恐れのある布教活動を取り締まると同時に南蛮貿易も掌握しようとしたのでした。(・△・)強引ダナ そうして長崎の町人(豪商)の出資で、埋め立て工事がはじまります。出資は民間でしたが、工事に直接手を下したのは当時の長崎奉行でした。奉行は大勢の人夫を雇い入れ、大々的に工事を進めたといいます。その甲斐あって、着工から2年後に広さ約1万5千m2の人工島を完成させたのでした。▲現在、復元中の出島にも扇のカーブは残っています さて話をもとにもどして出島が扇形である説について。現在3つの説が有力とされています。1つ目は『将軍の扇説』です。徳川家3代目の将軍・徳川家光が、長崎で造る小さな島の形についてたずねられた時、自らの扇を与えて「これを見本にするように」と言ったという説です。これはシーボルトの著書「日本」の中に出てくる話ですが、根拠が不明なため作り話だという人もいます。しかし全くありえない話でもないそうです。ヾ(^^) 2つ目は『波よけ説』です。海側をカーブにすると波の影響が少なくなるということで、なだらかな曲線を描く扇の形を採用したという説です。そして3つ目は『地形・地質説』です。出島はもともと中島川の河口に位置していたのですが、その河口にはすでに川から運ばれて来た土砂がたまり弧状の砂州(さす)が形成されていて、それを土台に埋め立てたのでないかという説です。その際に陸側は海岸線に沿って弧を描き、海側も埋め立て面積をできるだけ広くとるために弧を描いたので扇形になったのではないかといわれています。(・_・?) どの説をとっても、うなずけてしまうのですが、私はいろんな想像がふくらむ『将軍の扇説』が好きですね。あなたはどの説を支持しますか?それとも新たな説でも思いつきましたか?(^!^)▲出島の周辺には元の形に沿って目印の鋲が打たれています

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  • 第33号【西海橋で、うず潮見物】

     日本三大急流のひとつとして知られる細長い海峡(佐世保・伊ノ浦瀬戸)に架かる「西海橋」は、佐世保市と西彼(せいひ)半島を結ぶ橋。全長316m、海面からの高さ43m、“固定アーチ式”といわれる美しい形をしています。^◇^Beautiful Bridge!▲美しいアーチ型の西海橋 この橋は昭和30年(1955)に完成。当時の最高技術と、4年の歳月と、5億5千万円という巨費を投じ、東洋一を誇る固定アーチ式の橋として全国的に名を馳せました。急流とうず潮の海をダイナミックにまたぐ鉄のアーチを一目見ようと全国から大勢の人々が押し寄せたといいます。だから「西海橋」と聞いて懐かしい想い出がよみがえった方もいらっしゃるのではないでしょうか。ちなみにこの橋は日本初の有料道路橋としても名を残しています。{・〇・今は無料ダヨ さて、大村湾と東シナ海を結ぶこの伊ノ浦瀬戸のうず潮は、特に春の大潮の頃が見頃といわれ、直径10メートルほどの大きなうずを巻く事もあるそうです。毎年、この時期になると「観潮会」が催され、迫力のあるうず潮を楽しもうと地元や近隣から大勢の人が集まるのです。⌒_⌒Season!▲西海橋公園はたくさんの人で賑わっていました ところでなぜ、うず潮ができるのかというと、大村湾の海水が潮の干満の際にせまい瀬戸を一挙に通過するため潮流が速くなり、この時、海底の複雑な地形の影響を受けて起きるのだそうです。だから潮の干満の差が最大となる大潮(旧暦の1日と15日前後)の頃は、いつもよりも激しいうずが見られるそうです。うず潮は宇宙のリズムが起こす壮大な現象なのですね。◎☆◎wow! さて今年の「観潮会」は4月7日、8日の土日に開かれました。西海橋のたもとの桜の名所として知られる西海橋公園は、ちょうど桜の見頃を迎えていて、うず潮見物と花見の両方を楽しもうという人々で大賑わい。そして橋の上も見物人でぎっしり。その中に混じって瀬戸を見下ろすと、青い海をキャンバスに細い白波がまるでアートのようにいくつものうずを描き出していました。白波は消えたかと思うとすぐに別の場所に新しいうずを生み出します。橋の下へ降りて、うず潮を間近に見ると、潮に飲み込まれるのではないかと思うほどの勢い。潮の音も聞こえ、迫力満点です。海面は常に変化していて一瞬として同じ景色がないので、全く飽きません。時間が経つのも忘れて見入ってしまいます。あらためて自然ってすごいなと思いました。∪‐∪)トウゼンサ… 西海橋観光協会の人の話によると、ゴールデンウィークの頃も、いいうず潮が見られるとのこと。今回の「観潮会」を見逃した方や興味のある方は、お出かけになってみませんか? 余談ですが、西海橋から巨大な3本の塔が見えます。これは針尾無線塔(はりおむせんとう)で、真珠湾攻撃の暗号分「ニイタカヤマノボレ」が発信された無線塔です。▲針尾無線塔(高さ:137m)大正7年着工、11年完成

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