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  • 第17号【長崎のお正月(江戸時代)】

     ♪もういくつ寝るとお正月♪ 新世紀を迎えると思うと、ちょっと感慨深いものがありますね。21世紀、そして新年は、夢や希望を持って迎えたいものです。さあ、元気を出していきましょう!┗(⌒-⌒)┛ ところで、皆さんは毎年どんなお正月を過されますか? 季節の節目のいろんな行事がなおざりにされつつある昨今、せめて新年のはじまりくらいは、日本の伝統を意識して過したいものですね。(・・)おせち食べたり、初詣に行ったり…。▲おくんちで有名な「諏訪神社」は初詣も賑わいます それで長崎の江戸時代のお正月はどんな風だったのかなと思い立ち、郷土史をひもといてみました。するとそこには、いかにも長崎らしい新年の風景があったのでした。(^▽^) まず鏡餅。一般的な家々の鏡餅は京風で、平たい円形の餅が二段、三段に重ねられ、一番上には長生きを願ったエビに、代々家が栄えるようにと橙(だいだい)の実を抱かせて飾られました。当時の鏡餅は親族や分家、門下や弟子たちが贈るものだったそうで、その数が多いほど名誉とされていました。ちなみに奉行所は江戸風で、菱形の餅も使います。 長崎の律儀な地役人の中にはあえて江戸風に飾る者もいたそうです。(゜O゜)ホウ おや、どこからか、ちゃるめらの音色が聞こえて来ます。 ちゃるめらとは唐のラッパのこと(※おくんちの龍踊りの際に使われる楽器。某インスタントラーメンのCMでもお馴染みのあの音)。その「ちゃるめら吹(ふき)」の男が、鉦(しょう:銅製の打楽器)と太鼓を持った少年を従えて家々を回り、祝いの囃子(はやし)を吹き立てているのです。あらあら御祝儀もしっかり受け取っています。 このちゃるめらはもともと中国人が長崎の人に教えたもの。中国人は結婚式や養子縁組など、事あるごとにちゃるめらを吹いていました。▲袴姿でピーヒャララそれでお正月ともなると、普段は野菜や魚を行商している町人が慣れないハカマで正装し、ちゃるめらで商売をしたのでした。ほっぺを膨らまして吹く様子や、ちょっと不格好なハカマ姿が愛嬌ものだったようです。(‘▽‘)ゞタノシソウ♪ さて町の子供たちはコマ、手マリ、羽子板などに夢中です。その中に長崎独自の遊びがありました。「ねんがら」と呼ばれる、数人がクギのようなものを土に打ち込んで勝負する遊びです。先に打ち込まれたクギを倒すのを競う他、いろんなルールがあったようです。この遊び、元をたどれば出島の阿蘭陀人の従事たちの遊びだったもの。現在は見かけませんが私も子供の頃、男の子達とやってました! お正月は、久しぶりに幼な馴染みと勝負しようかな…。皆さん、どうぞ、よいお年を。\(⌒◆⌒)▲「ねんがら」と呼ばれた長崎独自の遊び

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  • 第16号【ランタンで、あったまろ♪】

     めきめき寒さが増して来ましたね。北風が身にしみるこんな日は、ちゃんぽんがほんとにオイシイ! 具だくさんのスタミナ料理だし、温かいし、ネ。子供の頃、鼻水垂らしながら大人と同じ量のちゃんぽんをスープまできれいに飲み干していた私をちょっと呆れ顔で眺めていた母親。そんな記憶も甦ったりして、冬のちゃんぽんは、身も心もひときわホットにしてくれるのです。\(⌒◆⌒) 心がじんわり温かくなる、そういうものが長崎の冬にはもうひとつあります。それは「長崎ランタンフェスティバル」。これは「春節祭(しゅんせつさい)」といわれる中国の旧正月にちなんだお祭りで、ランタン(中国風提灯)のふんわりとした朱色の灯りが街中を埋め尽くします。▲新地中華もともとは長崎在住の華僑の人々が新地中華街だけでこじんまりと「春節祭」をお祝いしていたのですが、数年前から行政も一緒になってフェスティバルとして盛り上げ、規模も華やかさも増し、今ではすっかり長崎の冬の風物詩。 昨年の観客動員数は何と69万人という賑わいでした。 ランタンフェスティバルは毎年、旧暦の「正月」から「元宵節(げんしょうせつ)」まで行われます。だから2001年は1月24日から2月7日までの15日間。長きに渡るイベントなのです。メイン会場は新地中華街横にある湊公園。そして中華街や館内町の唐人屋敷跡周辺、そして浜町アーケード街までランタンの装飾がほどこされます。 夜の帳が降りる頃、1万2千個に及ぶランタンや、龍、鳳凰、獅子など中国古来の伝説の動物をかたどったオブジェが静かに輝き出す様子は、とてもロマンチック。中国の悠久の歴史を物語るかのような幻想的な雰囲気が漂い、長崎と中国の縁の深さもあらためて感じます。(∪▽∪)☆☆☆☆キレカー▲メイン会場「湊公園」を彩るオブジェ 期間中は毎日「龍踊り」、「中国獅子舞」、「中国雑技」があり、この他、市民参加の「皇帝パレード(1/27、2/3)」や「媽祖(まそ)行列(1/28、2/4)」など、中国にちなんだ催しがたくさん行われます。 私が大好きなのは「中国獅子舞」。アクロバットな演技も見事だけど、よーく見ると顔の表情がとってもかわいいのです。目が大きくてまつげがクルンとしてて…。ちなみにこの獅子には必ず赤・黄・黒・青・緑の5つの色が使われているそうで、正義や勇気、慈悲などといった5つの徳を表しているとか。ヾ(^V^)▲長崎の繁華街「浜ん町」もランタンで賑わいます ランタンの海に飲み込まれる人の波。とにかく人が多いですが、もしゆっくり中国情緒に浸りたいなら唐人屋敷跡(ちゃんぽんコラム第9号参照)が穴場ですよ。凸ヽ(^▽^)太鼓判!

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  • 第15号【チンチン電車が、大好きです】

     お鍋の季節ですね♪ 我が家の定番鍋料理は、安上がりでヘルシーなもつ鍋です。もつ鍋といえば数年前、福岡の鍋料理として全国的にもブームになりました。ニンニクと唐辛子の効いた醤油じたてのスープで、モツ、ニラ、キャベツを煮て食べる。そして最後に残ったスープには、ゴハンを入れておじやに…と思うでしょ? でも我が家ではここでちゃんぽん麺を入れるのです! 他県の人には珍しいでしょうが、長崎では、ごく当り前。まだ経験のない方は、ぜひ、お試しを! ちゃんぽん麺の世界がおいしく広がりますよ。\(^○^)イケマスヨ!みなさんのお宅のお鍋のしめくくりは何ですか? もつ鍋はちゃんぽん麺でしめくくる、そんな長崎ならではの話しは「食」に限らずたくさんあって、今回はその中のひとつ、チンチン電車のお話です。長崎市民だけでなく観光客の足としても活躍しているチンチン電車は「長崎電気軌道株式会社」(大正14年設立)という民間会社が経営しています。路面電車が走る街は、札幌をはじめ全国に十数カ所ある中で、長崎が他の都市とどこが違うのかというと、それは運賃。何と100円均一!\(◎o◎)/オオ!▲車庫で発車を待つ電車一度乗ったら、どこで降りようと100円なのです。これは1984年から変わりません。 その裏にはやはり、一生懸命な経営努力がありました。まず広告収入。今では珍しくありませんが、路面電車のボディを広告に使ったのは昭和39年、長崎が初めてのこと。また車両も中古車両を部分的に買い入れ少しでもコストダウンを図っています。一見、新しい電車と思いきや、台車の部分はどこかの街の電車のお下がりというのもたくさんあるのです。車内の両替えは機械ではなく運転士さんが手渡しだし、この他いろいろ、安全を第一に、社員みなさんが経費削減に汗して100円を維持しています。利用する市民の多くは下車する際、自然にありがとうと言ったり、ぺコっと頭を下げて降りています。▲大人100円(16年間値上なし)には頭が下がります安全に乗せてくれて、しかもこんなご時世に100円を維持してくれてることへの感謝の思いから、そういう光景が生まれているのだと思うのです。Very Thanks\(^^*) 私が子どもの頃、車の数が急激に増え、激しい渋滞が大問題になった時、「電車のせいだ」と悪者扱いされた時期がありました。でもそういう時代を乗り越えて、今ではクリーンエネルギーの乗り物として将来的にも大いに期待されています。未来への希望も託され、今日もたくさんの人々のいろんな思いを乗せて走ってる長崎のチンチン電車。ホントに、愛すべき電車なのです。(^^)v▲大浦海岸通を走りながら見た稲佐山はとてもきれいでした※参考文献「長崎のチンチン電車」(田栗優一・宮川浩一著/葦書房)

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  • 第14号【出島・クリスマスパーティーの謎】

     毎年12月に入ると親からお歳暮の手配を頼まれます。贈るのはもちろん我が社の「ちゃんぽん・皿うどん」。手前味噌ながら長崎を代表する味として地元、遠方を問わず喜ばれているようです。(・_ ;)ジーン。ウレシイ・・・。 そうして久しぶりに商店街やデパートをめぐれば、街はもうクリスマス一色!ロマンチックなイルミネーションのきらめきに寒さも忘れてホットな気分…。考えてみれば日本ではいつの間にか、キリストの誕生日のお祝いが、冬のひとときを楽しく過す口実に使われているようです。でもひとりでも多くの人が幸せな気分になれるなら、キリストも本望じゃないかなって思いません? ^^)vネッ!▲出島ワーフのクリスマスイルミネーション。 さてさて今回は出島のクリスマスのお話でしたね。出島の時代はキリスト教はご法度。激しい弾圧もあったりして、クリスマスのお祝いなんてできるはずがありません。しかし何と出島では盛大にパーティーが行われ、しかもそこには多くの日本人が招かれていたというから驚きです。そんな事がなぜ可能だったのか?謎を解き明かしてまいりましょう。 キーワードは「冬至」です。ハテ?(●●-)?▲出島の料理部屋ここでごちそうが作られた 毎年クリスマスに近い日にやってくる、1年で1番昼が短い「冬至」の日。中国の風習では大切な節句の日とされ、唐人屋敷内ではみな晴れ着に着替えて酒宴が行われていました。そして長崎の町民たちもぜんざいを作ったり野菜やお菓子を供えたりしてこの日を祝ったといいます。フム?(●●-) 出島のオランダ人は、そこに目をつけたのでした。出島での宗教的行事は一切禁止されていたとはいえ、キリスト教の信仰があった彼等。冬至の日を祝う周囲の賑わいをいいことに、「阿蘭陀冬至」と称して、ちゃっかりクリスマスを祝ったのです。そんなこととはつゆ知らず、招かれた奉行所の役人らは、ワイングラスをなごやかに傾け、アヒルの丸焼きやソーセージなど、珍しい西洋料理の数々に舌鼓を打ったのでした。オイオイ、ダマサレテルゾ…(●●-)▲出島での宴会風景 ばれたらたいへん! という嘘をついてまで、催していたクリスマスパーティー。故国を遠く離れ、小さな人工島・出島で退屈で窮屈な日々を過していた彼等の心情を思えば、クリスマスは家族や友人達とひとつの思いでつながる特別な日だったのでしょう。酔っぱらって大笑いしながら、心の中ではグスンなんて泣いちゃったりしてたかもしれませんね。ソウイウコトカ…(●●-)…(;;)グス。

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  • 第13号【活版印刷で西洋文化を伝達。(本木昌造)】

     来年のカレンダーが街に出回っています。実用派からアート派まで、どれも個性的で洒落ていて、見るだけでも面白くて、楽しい。だけど私、実はほとんど買ったことがありません。毎年、普段おつきあいのあるご近所のお店から頂くものを使っています。その中から自分用に選ぶのはコテコテの実用版(曜日の下に書き込みができるタイプ)で、「○○酒店」なんて大きく印刷されてるもの。以前はダサイとか思ってたけど、今ではこれも愛嬌よと思えるようになってきました・・・。(“)トシノセイ? きれいに印刷されたカレンダーを見ると、私はいつも「本木昌造」さんのことが頭の片隅に浮かびます。とはいっても彼を知る人は、とても少ないでしょう。本木昌造さんは「近代活版印刷の祖」といわれる人物。西洋伝来の活版術、鋳造活字づくりに成功し、明治3年(1870)に「新町活版所」(新町:現在の長崎市興善町)を創立。これが近代における印刷企業のはじまり、はじまりというわけです。▲本木昌造 西洋の活版機材は、江戸時代末期、オランダ船によって持ち込まれたのですが、本木さんはそれを復刻し日本版をつくるのに相当苦労したそうです。しかしその甲斐あって文明開化の幕開けと同時に急増した洋書の需要に対応できたのです。それまで日本は木版刷だったのですが、より早く、大量に印刷が可能になったというわけで、まさにジャスト・タイミングだったのですね。\(\^^)(^^/)/ しかし、どうして本木昌造さんはこの活版と出会ったのでしょう?実は昌造さんは長崎のオランダ通詞の名門「本木家」の6代目。(オランダ通詞とは出島でオランダ語の通訳をする地役人)。その本木家からは日本に初めてコペルニクスの地動説を紹介した「本木良栄」や、日本初の英和辞書とフランス語の辞書の編集を手掛けた「本木正栄」など偉業を果たした人物が出ています。昌造さんも跡を継いでオランダ通詞になったのですが、彼が通詞として活躍してた頃の日本はペリー来航やら、ロシア使節の来航でたいへん混乱していた時期でした。幕府の外交交渉にもあたるなど数々の要職を担当。そんな通詞時代に、出島で西洋の印刷機と出会ったのです。▲興善町にある「新町活版所跡」 昌造さんはこれを長崎奉行所の許可を得て買い上げ、仲間と一緒にまずは蘭書の復刻を手掛けたそうです。“これさえあれば、西洋のさまざまな書物や訳書をより大勢の人に読んでもらえる。これからの日本に必要不可欠なものだ。” きっとそう思っていたに違いありません。ちなみに彼は、横浜毎日新聞の創刊も手掛けています。また印刷ではありませんが、明治維新後、長崎製鉄所の頭取になり現在の浜町アーケード入り口にある「くろがね橋」を造っています。これは日本初の鉄で造られた橋なのです。(“)スゴイヨネ!▲「本木昌造宅跡」を良く見ると活字(左右反対) 長崎には本木昌造さんのように偉業を成し遂げたけどあまり知られていない人がたくさんいます。これからも感謝の気持ちを込めて、このコラムでときどきそういった人々をご紹介していきたいと思います。 d=(^〇^)=bオタノシミニ!

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  • 第12号【長崎はわしの夢じゃけん!(龍馬と亀山社中)】

     私は坂本龍馬(1835~1867)についてあまり知らない。でも彼の事が大好き!という人が全国にたくさんいることは知っている。どうやら、ちょっと触れただけで深みにはまる、坂本龍馬はそんなキケン?な人物みたい。何かとハマリやすい私としては、少し距離をおいて彼が長崎に残した足跡をたどってみることにした…。(・・)┘▲風頭公園にある龍馬像 “幕末の風雲児”、“維新の原動力”。そんなキャッチフレーズとともに語られる龍馬が土佐藩を脱藩して長崎に来たのは、1864年。大政奉還はその3年後だから、まさに維新前夜ともいえる時期だった。その頃、龍馬と同じく新時代の到来を予感して多くの若者達が長崎に遊学。彼等にとって西洋の知識や文化があふれる長崎は、夢と自由の地だったのだ。長崎に海軍伝習所の頭取として派遣された勝海舟の門人でもあった龍馬は、勝の紹介で西郷隆盛と知り合い、薩摩藩の援助を得て、翌年、日本初の商社といわれる「社中」を設立。これは龍馬が現在の長崎市の繁華街、浜の町アーケードの入り口付近にあった「土佐商会」にいた時のこと。(そこには「土佐商会跡」の碑があります)。 いわゆる「亀山社中」と呼ばれるようになったのは、後に「社中」が長崎市の伊良林にある亀山と呼ばれる場所に移ってからなのです。 (¨)フム…。▲伊良林にある亀山社中 航海運輸業を営むこの亀山社中が、仲の悪い薩摩、長州両藩の同盟を成立させたのは有名な話で、龍馬は薩摩藩名義で武器や軍艦を購入し、長州に貸す。長州は米を薩摩に送るというギブアンドテイク方式で和解を図った。この時、亀山社中が、武器や軍艦の買い付けに走った先がグラバー商会。維新前夜で大揺れの世相の中、亀山社中も、薩摩・長州も、グラバーさんもみんな命がけだったに違いなく、まさに激動の歴史の裏舞台を見る感じ。長州はこうして手に入れた武器で、幕府軍に圧勝している。(“)メイジは、スグソコダ… 後に亀山社中は土佐藩の所属となり「海援隊」と改称。 隊員は諸藩の脱藩者たち。龍馬はその隊長となって指揮をとった。仕事は、引き続き薩長両藩のために洋式武器・船舶の購入にあたること。とはいえ藩に附随するのは名義だけで、独立して行動していたそうです。 さて龍馬の人と成りを伝えるエピソードは山ほどあって、ここでほんの少しだけ龍馬の人柄を伝える話をすると、彼には敵・味方問わず相手に心を開かせるような懐の深さがあったということ。またひとりで写真を撮る時は白い緒の高ゲタを、みんなで写真を撮る時はブーツを履いたといわれています。土佐の下級武士達は本当に貧乏で、藩からも“ゾウリを履け!”と言われていたそうで、高ゲタやブーツを履くのは龍馬自身の気負いもあっただろうし、自由の身であることの証明でもあったのでしょう。(〇^)ナンダカ、カワイイ▲亀山社中跡近くにある龍馬のブーツ さてさて私たちは21世紀という新時代を目前に控えながら、何だか未来への希望が見えない感じ。「現代に、龍馬はおらんとか!」と叫びたい心境ですね。

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  • 第11号【寺町で、しみじみ】

     気が付けば、もう11月も中旬!早いですね、今年もあと1ヶ月半だなんて…。こうなりゃ、部屋でじっとなんかしてられない。今世紀の素敵な思い出づくりに励まなきゃ! と、意気込んだわりには、かなり地味な「寺町」へ行ってみることに。この界隈には長年、気になっていたこともあったので…。(“)?▲見える屋根は全部お寺 寺町は、長崎のハタ揚げ処のひとつとして有名な風頭山(かざがしらやま)のふもとにある町。浜町や思案橋といった繁華街のすぐ近くにあるけれど、人通りは少なくて閑静な雰囲気が漂っている。 「寺町通り」と呼ばれる道筋には、晧台寺、長照寺、延命寺、興福寺、浄安寺、三宝寺、深崇寺、禅林寺と8つのお寺があり、両隣の町にも続く寺社群を合わせると全部で15寺1神社がずらり並んでる。これは全国的にも珍しい光景だそうで、その理由を調べてみると、そこにはキリシタン弾圧のための幕府の策略があったのです。鎖国令が発布される少し前、キリスト教禁止令を出した幕府は、それまであった11のキリスト教の寺院をすべて取り壊し、変わりに仏教寺院を建てまくったというわけです。(゜゜)ナルホド… 現在、お寺の裏手には山の傾斜に添って、お墓がびっしり建てられています。楠本イネさん(シーボルトの娘で、日本初の女医)のお墓や他にも有名な人のお墓があるとのこと。「長崎の一等地は、みんなお墓になっている」って聞いたことがあるけど、確かにここ寺町の墓地をはじめ、街を見渡す眺めのいい場所は、どこもかしこもお墓が多い。▲イネさんとおタキさんのお墓ご先祖様に気持ちよく眠ってもらい、また見守ってもらいたい、そんな長崎の人々の素朴な思いを感じて、ちょっぴりうれしい気持ちになったのでした。(^^″)ゞ  それはそうと、私がかねてから気になっていたことについて。それはこの界隈にある「へいふり坂」という坂段。初めてその名前を聞いた時は、不謹慎にも、思わず「おなら」が出てしまうほど、きつい坂なんだと思っていました。でも違ってたんですね。「へいふり坂」は「弊振坂」と書くんです。「弊」は、お坊さんや神主さんなどが祭壇などの前で用いる、紙のようなひらひらがついた棒のこと。当然ながら弊を振りながら坂段を昇り降りする光景がよく見かけられ、そこから「へいふり坂」という名が付いたらしいのです。それにしても初めての「へいふり坂」は、あまりの傾斜とその長さに結局最後まで上がりきれず、足をガクガクさせながら下ってしまったという、情けない結果になったのでした。(><;)シンドカッタヨ▲謎が解明 「弊振坂」

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  • 第10号【東山手・オランダ坂は、スニーカーで】

     私は、ハイヒールが大きらいだ。そうなってしまった大きな原因を、長崎の街が石畳の坂道や坂段、そしてレンガのようなものを敷き詰めた歩道が多いせいだと決めつけている。 たま~にハイヒールを履こうものなら、固い路面のせいですぐに足が疲れる。 敷石やレンガの目地にかかとをひっかけて転びそうになる。せっかくのお洒落も台無しって感じ。そんな経験を経て、今ではすっかりスニーカー派だ。パンプスもかかとが低くしっかりしたものを愛用してる。今回、東山手地区にあるオランダ坂へはさらに快適に歩けるウォーキングシューズで出かけた。└(ε´)┐ソレイケ!▲東山手洋館住宅 オランダ坂といえば、長崎の人も、観光で訪れた人もたいてい活水女子大学に通じる坂の通りを思い浮かべることでしょう。 でもオランダ坂はひとつだけではありません。幕末の開国後、外国人の居留地となり洋館郡が立ち並んだここ東山手地区のほとんどの坂道がオランダ坂と呼ばれていたのです。▲知名度・人気度No.1活水下のオランダ坂かつて長崎の人は出島のオランダ人を指す時のなごりで、イギリス人やアメリカ人など東洋人以外の外国人をすべて「オランダさん」と呼んでいました。それで彼等がしょっちゅう往来する坂道や坂段を東山手地区に限らず、「オランダ坂」と呼ぶようになったのです。(“)(‥)(”)ソウナンダ▲こちらもオランダ坂すごい傾斜・・・(分かる?) 風情ある石畳の坂道や通りをどんどん進めば、かつてフランス領事館だった「東山手十三番館」や旧プロシヤ領事館で後にアメリカ領事館になった「東山手十二番館」など、居留地時代のエキゾチックな面影を残す建物が次々に目の前に現われます。 気分はもうエトランゼ ^^〃) そして極め付けは外国人専用のアパート群。これは今から110年ほど前に日本人貿易商が建てた7棟の洋館群で、暖炉やベランダの他、お風呂場や 料理部屋、メイドさんの部屋として利用された小屋もあって、日本との生活様式の違いを目の当たりにすることができました。この洋館アパート群は現在、古写真資料館や埋蔵資料館等、長崎の歴史を知る資料館として利用されています。さらにその中の1棟は、長崎の国際交流の拠点として「地球館」というレストランになっていて日替わりで世界各国の料理を味わえます。このレストラン、長崎在住の40ヶ国に及ぶ人々が利用していると聞いてびっくり!お食事しながら気軽に国際交流を楽しめるとっておきのスポットです。(^^)/☆\(^^)かんぱ~い

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  • 第9号【中華街の向こうがわの、もうひとつの中国】

     秋は修学旅行シーズン。長崎の街では今、あちこちで関西弁や関東弁!?でおしゃべりしてる高校生グループを見かけます。私はなぜか彼等に「長崎駅には、何番の電車に乗ったらええの?」なんて、よく道を訪ねられるのですが、その日も、同じ電車に乗り合わせた修学旅行生に「中華街へ行きたいんやけど」と声をかけられ、「新地」の電停で一緒に降り、彼等はそこから徒歩1分の中華街へ。私はそれよりちょっと先にある「唐人屋敷」へ向かったのでした。▲唐人屋敷跡(現:館内町)後方に見えるのは「土神堂」 1688年につくられた「唐人屋敷」はオランダ人を居住させた「出島」のようなもので、中国人をそこに住まわせる事で、貿易の管理をしたところです。もともと長崎では、出島でオランダと貿易をする前から中国との貿易が盛んに行われていて、街中には多くの唐人たちが自由に住んでいました。でも密貿易をする悪いやつらが増え、幕府はその対策のため、唐人屋敷を造ったというわけ。(“)(”)フムフム ちなみに密貿易の犯人は捕まると、たたき、入れ墨、鼻そぎの罰を受け、もっと重罪になると、はりつけ、獄門などの極刑に処せられたとか。(><;)コワイヨー。 ところで「唐人屋敷」と聞けば、大きなお屋敷を思うかも知れないけれど。実はお屋敷というより「街」といった方がいい。だって広さは約9400坪。東京ドームの約2/3倍。(‘〇゜)ゞワオ! その敷地内には二階建ての瓦葺き屋根の長家が十数棟あり、常時2千人から3千人くらいの唐人が居住していたそうです。(すごい人口密度ダ・・・) 敷地は、塀で囲まれ、さらに外側には「掘り」、「竹垣」の二重の囲いがされてたというから、かなり厳重。中に入れる日本人は唯一遊女だけだったとか…。それにしてもここで中国の人たちはどんな風に生活していたんだろう…。残念なことに今では、当時の面影を残す建物は「土神堂」、「天后堂」など中国の帝や神様を祀ったいくつかのお堂くらいしか見る事ができません。それでも町中にふっと現われるそういった中国の建物は、いかにも異国情緒・長崎らしい風情を醸し出して、なかなかいい雰囲気。(^^)ホントヨ。▲媽祖神をまつる唐寺「天后堂」 唐人屋敷がある館内町は現在、市場や商店街が密集。またこの町は石畳の階段や路地がたいへん入り組んでいて、まるで迷路のよう。行き当たりばったりで歩けば、いい味だしてる明治~昭和期の石橋や建物にも出会えます。中華街へ寄ったらぜひ、足を延ばしてみて下さい。▲この付近の地主が作った明治期の石橋

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  • 第8号【城下町そして普賢岳の町、島原】

     こんにちわ、みろくやです。今回は、長崎から電車で島原へ行って来ました。途中乗り継いだ電車は島原半島の足、「島原鉄道」。一両編成で、ガタンゴトンとゆっくり走る小さな電車です。車窓から、稲刈りに精を出している人や、小船が浮かぶ有明海など、のどかな景色が続いて、ついウトウト。ああ、気持ちいいと思っているうちに島原駅に到着。屋根瓦の駅舎に、さすが松平七万石の城下町!なんて妙に感心しながら、さっそく町の中へGo!┌(“)┘ 島原の観光の名所といえば島原城。1625年に7年の歳月を費やして築かれたお城です。江戸時代には島原の乱(1638年)や眉山大崩壊(1792年)などの難を逃れたものの、明治に入って廃城。その後、荒れ果ててしまったお城は、昭和39年にきれいに復元され、めでたく往時の面影が甦りました。▲島原のシンボル「島原城」小高い丘に建つ堂々としたお城とそれを取り巻く町の雰囲気は、お侍さんが現われても不思議ではない気配がする。頭の中で、時代劇のテーマソングが何度もリピートされ、気分はお城の若姫様。「じい、何度見ても、いいお城よのぅ」?(”)? 島原は、城下町特有の碁盤の目のように整備された小さな町で古くから水の都ともいわれています。なるほど町のいたるところで湧き水が豊富に出ていました。その水を飲んでみると、私が普段飲んでいる水は何なんだ!と思っちゃうほど、おいしい。水路では鯉が気持ち良さそうに泳いでいる。町内は武家屋敷跡をはじめ古くて味わいのある佇まいが多い。島原は独自の歴史や風土がきちんと受け継がれている町なんだなあと、またまた感心。~~\(⌒▽⌒)▲鯉が泳ぐ水路 さてこの地を語る時に、忘れてはならないのが、10年前の雲仙普賢岳の噴火。ニュースを通じての被災の様子は今でも強烈な印象として残っています。噴火は‘95年におさまり、現在、大きな被害を受けた水無川の下流には、日本最大規模の道の駅「みずなし本陣ふかえ」という憩いの施設が設けられていました。郷土料理を味わえるレストランや島原半島の特産品がいっぱいのお土産屋さん、そして露天風呂まであって、ドライブがてらに寄るには最高!すぐ隣には「土石流被災家屋保存公園」があり、土石流に埋まった家屋の生々しい姿を見て来ました。言葉を失うほどの衝撃的な現実。見上げれば火山灰に覆われた普賢岳がすぐそこに。自然の脅威を感じずにはいられない迫力でした。\(◎◇◎)/▲被害にあった家屋(後方は普賢岳)

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  • 第7号【シーボルト記念館を訪ねて】

     おくんちが終わり長崎は本格的な秋に入りました。読書の秋、芸術の秋、食欲の秋といわれる中、私は毎年“食欲”だけを謳歌。そんな色気のないことではいけないと、今年は郷土の歴史を振り返る勉学の秋にすることに……なあんて、実はこのコラムのネタ探し。そこでまずは近場から攻めていこうと、我が家から歩いていける「シーボルト記念館」へ行ってみることに。 新大工~桜馬場~鳴滝と続く「シーボルト通り」と呼ばれる石畳の道の先に記念館はあるんだけれど、この通りは当時シーボルトが、出島~鳴滝塾を往来した道筋だとか。記念館は中島川の支流、鳴滝川添いの緩やかな坂道の途中にあって、館内には当時シーボルトが使ったいろんな医療器具が展示され、中には大工道具じゃない【・・?】と思うようなものまでありましたよ。▲レンガ造りのシーボルト記念館 出島の商館医として1823年に来日したシーボルト。日本の近代医学の進歩に重要な役割を果たしたことは有名。来日する前から出島の事情について先人から学び、日本での生活術をしっかり心得ていた彼は、出島に出入りする奉行所の役人らとも上手におつきあい。それが効を奏してか出島の外で医学の教室(鳴滝塾)を開くことを許可されます。鳴滝塾には全国の俊英達が集まり西洋の医術を学び、また全国に広げていきました。ヽ^〇^歴史デ習ッタヨネ!▲記念館の庭には銅像が シーボルトが日本に寄せる興味には並々ならぬものがあったようで、宗教、法律、政治、動植物など多岐に渡る研究を行い、塾生らにもその手助けをさせています。国外への日本の情報持ち出しは大罪だったその頃、日本研究という大きな野望をひた隠しながら、それを巧みに実行。カピタン(オランダ商館長)に同行して江戸参府に行く時も、日本各地を観察できるとあって、大喜び。旅道中、役人らの目を盗んでは、植物を採取したり、理由をつけては駕篭から下りて歩き風景や人々の暮しを観察。体調をくずして駕篭から出られない時でもしっかり外の様子を見ていたそうです。ヽ(゜O゜)ホウ!▲足窓(右下)が付いた特別製の駕籠だけど日本での任期を終え、帰国目前という時に、とうとう野望が発覚。国外追放となってヨーロッパに戻ったシーボルトは「日本」、「日本植物誌」、「日本動物誌」等大作を著します。川原慶賀の挿し絵をふんだんに用い、細やかに記述されたこれらの本は、日本研究の集大成。これほどの江戸時代の史料は、国内にもあまりなく、貴重な史料として現代でも大いに活かされています。  ところで、むやみに日本の様子を知られないためにか、出島から鳴滝に行く時も、江戸に行く時も、駕篭に担がれて移動していたシーボルト。せまい駕篭は慣れない外国人にとって結構ハードな乗り物だったんじゃないかな…。

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  • 第6号【港町長崎を満喫できる新スポット】

     いつも通る街角にあった古いビルが解体。跡地にはマンション&コンビニができるとか。 それにしても突然広がった新しい視界に、見慣れた通りが何だか知らない場所に思えた…。 こんな経験、あなたにもありませんか? 考えてみればこういうことは、どこの街でも頻繁に起きている。 親しんだ街並が消えるのはとても寂しいことだけど、街が時代に応じて変化するのは仕方のない事で、むしろそれが自然なことなのかも…と、柄にもなくもの思いにふけってしまった(´`)ウーム。 街の変化といえば今年、長崎では劇的な動きがありました。ひとつは長崎港周辺の「出島エリア」。ここには春、新しい市民の憩いの場として「出島ワーフ」が誕生。ロマンチックな長崎港の景色と、ショッピングやお食事が同時に楽しめるスポットで、観光客はもちろん市民にも好評。平日も休日も親子連れや恋人達(うらやましいぞ!)の姿が跡を絶ちません。 しかもすぐお隣には同じ頃にオープンした「夢彩都(ゆめさいと)」があります。ここには生活雑貨から高級ブランド品までいろんなショップが入っていて、レストランや喫茶店も充実。出島ワーフとともに、長崎の海際を賑やかにしています。(⌒▽⌒)vタノシイヨ♪▲出島ワーフ 実はほんの10年前、私はこの出島エリアの近くに住んでいました。当時は海がこんなに近場にあって、「港町長崎」とまで呼ばれているのに、何だか人々の暮らしと長崎港の間に、目に見えない一線があった感じ。その頃、港の一部は古びた倉庫群にさえぎられ、市民が気軽に海際を楽しめる場所はありませんでした。(・・ソウソウ そんな時代を経て生まれた「出島ワーフ」、「夢彩都」。ようやく長崎港が人々の日常に入り込んで来てきたような気がします。長崎港周辺は、まだまだいろんな建物が計画されているとかで、今後も目が離せないスポットになりそうですよ。 さて出島エリアから徒歩8分の場所にある(ちなみに私はとても早足)JR長崎駅は、先月リニューアルして「アミュプラザ長崎」がオープン。 ここには8スクリーンもある映画館をはじめファッション、インテリア雑貨、レストランなど、長崎初進出のブランドやショップが多数お目見え。長崎駅といえば以前は「三角屋根の時計台」で知られていましたが、現在はなくなり、その変わりに大きな龍が出迎えてくれてます。▲長崎駅そう、この龍が新しい長崎駅のシンボルなのです。 出島エリアや新しいJR長崎駅の誕生で、長崎は近年にない人の流れの変化が起きています。それに伴う賛否両論はあるだろうけど、変化があるのは生きてる証拠!新しい長崎らしさは今も生まれている! と楽天家の私は思うのでした。

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  • 第5号【長崎くんちが、派手やかなワケ】

     風がちょっぴり冷んやり感を帯びて来て、季節は、秋本番へ向かってひた走ってる。なのに長崎の街には静かな熱気が漂っていて、人々の様子も何だかソワソワ。もうすぐはじまる「長崎くんち」のせいだ! 今年の演し物は、五島町の「龍踊」(じゃおどり)、銀屋町の「鯱太鼓」(しゃちだいこ)、麹屋町の「川船」(かわぶね)など全部で7ヶ町。▲無料特等席?「長坂」いずれも豪華絢爛、異国情緒たっぷり! くんち好きの私は今から「モッテコーイ」の気分なのです。(●⌒▽⌒●)/わーい ところで秋は長崎くんちに限らず、全国各地で大小たくさんの祭がありますよね。そんな中で366年の歴史を持ち、日本のどこにもない不思議な雰囲気で異彩を放つ「長崎くんち」。その超個性的で豪華な理由は、皆さんよーくご存じのとおり、かつてこの街が日本で唯一開かれた西洋への窓口だったから。祭りは、さまざまな異国の文化が入り交じったものになり、出島貿易の恩恵で、お金も充分かけることができた…。そしてさらに、もうひとつ、あまり知られていない理由があるのです…。(^。^3ナニナニ?▲資料館で展示中の龍 話が遠回りになってしまうけれど、当時の長崎は、唯一の海外貿易港の街であると同時に、日本の要塞的存在でもあったのです。だから鎖国・日本の国情を知られるような情報は絶対に流しちゃダメ(><;) ということで、出島への出入りや外国人との接触は厳しく制限されてたし、地理的な情報モレにつながる恐れがあるからと、勝手に長崎の風景画を描くのも×だったんです。その上、幕府直轄の天領ということで、喧嘩も御法度。(天領の民を傷つけることは、上様を傷つけることと同じなんですって)。血の気の多い若者たちにとっては、迷惑な話。(ε´)ブーブー 町中には常に厳しい取り締まりの目。長崎の人々は、そんなこんなの規制を受けて暮らしてた。▲練習中の鯱太鼓だから表向き裕福そうでも、目に見えない息苦しさはあったんだと思うな。もともと日本のお祭りには、閉鎖的な社会でたまったストレスを発散させる役割もあったそうで、となるとダメダメづくしのこの街で、長崎くんちはそのうっぷんを、堂々と健全に晴らせる絶好のチャンス!だったわけ。 ここぞとばかりにお金も気力も体力も使い果たす怒濤の3日間。人々の中で、灰色に渦巻いていた思いは、天高く澄みきった秋空へ、気持ちよく昇華していったに違いありません。v(●^∪^●)

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  • 第4号【中島川の石橋のたもとで】

     9月も下旬。小春日和のようなお天気に誘われて、お気に入りの散歩コース、中島川へ。上流にある桃溪橋(ももたにばし:小さな石橋だけど情緒たっぷり)をイソイソと渡り、川沿いの通りへ出ると鮮やかなオレンジ色のコスモスが満開。(^∪^)▲中島川の石橋群ルンルン♪気分になりながら先に進むと、眼鏡橋のたもとで網棒を持った男の子が何やら奮闘中! エビ採りに夢中になっていたこの子は、どうやら中島川の常連さん。 アヒルやスッポン、カメ、さらには“シーマン”と呼ばれる人面魚(鯉)がいることまで教えてくれました。ドモドモ\(^‐^)。▲噂のシーマン!? 川のそばには小さな古美術商が何軒もあって、散歩がてらにのぞくのも愉しみのひとつ。そういうお店が多いのは江戸時代、唐船が中島川の上流まで来て、たくさんの貿易品を荷おろしていた名残りなんだそうです。 さて中島川の石橋群は上流から、大井出橋(おおいで)、編笠橋(あみがさ)、古町橋(ふるまち)、一覧橋(いちらん)、芋原橋(すすきはら)、東新橋(ひがししん)、眼鏡橋(めがね)、袋橋(ふくろ)の8つあり、さらに上流の支流には阿弥陀橋(あみだ)、桃溪橋があります。これらの橋はいくつものお寺が立ち並ぶ寺町へ通じる門前橋として、今も昔も長崎の人々の生活に欠かせません。江戸時代には、膨大な費用がかかるというのに、多い時で合計20も架けられていたとか。当時の長崎は本当に裕福だったんですね。(゜゜;) (;。。)ソウソウ数は減ったけれど、これほどの石橋群は世界的にも珍しいんですって。 特に有名な眼鏡橋(1634年建造)は、日本石橋文化のルーツ!完成当時は、宙づりされたような半円形の姿に、皆 ))))(゜O゜;)/仰天!▲眼鏡橋と少年木造で川底に柱を何本も立てた橋しか知らなかったから、驚くのも無理はない。落ちるんじゃない?って心配したのも、わかるような気がする。 面白いのは、この橋が中国の僧侶の指導で架けられたのに、その造りは欧州型だということ。(石橋には中国型もあり、石の積み方が違うらしい。)アーチの長さも出島の西洋人が、当時の日本では誰も知らない円周率πを使って出している。それにしても西洋の技術を、中国の僧侶のもとで、日本人の石工が形造る。何とも国際色あふれる長崎らしい話だと思いませんか。

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  • 第3号【青い目のサムライ、グラバーへ思いを馳せる秋】

     グングン秋めいてきましたね。私はこの時季、必ず出かけるお気に入りの場所があるんです♪ それは何を隠そう「グラバー園」。▲リッパなお髭のMr.グラバー 数年前、夏から秋にかけて夜間解放されるようになったのがきっかけで、秋晴れの休日ともなると、観光客がグンと少なくなる夕方を待って、ひとりで繰り出します。テクテク∨(⌒-⌒)∨。 幕末~明治期に建てられた洋館のクラシカルな雰囲気は、しっとりとした秋の風情と大人の私(?)にぴったり。長崎港と街の夕暮れの景色もVery Good ! それに樹齢百年は超えてるような大木が何本もあって、空を覆うほどのたっぷりとした枝葉をゆさゆさと気持ちよさそうに風に揺らしてる。これはもう、ちょっとした森林浴。グラバー園は癒し系の観光スポットなんだと思うな。(¨)(‥)ウン。▲ご存じ、グラバー邸 それはそうと、今年は園内のどこかにあると噂されていた「ハート・ストーン」を発見! 汗水流して自力で見つけた時は、思わず合掌。いつか運命の人に出会えますように…なあんて願い事をしちゃったけど、どうだかなぁ…。▲発見!ハートストーン そして秋の虫たちの演奏をBGMに思いを馳せるのは、やはりトーマス・グラバーのこと。彼は文明開化の立役者なのに、あまり知られてないのが残念! 幕末の1859年、21才で長崎にやって来たグラバーは貿易商人として大活躍。日本で初めて洋式採炭法を取り入れたのをはじめ、これも日本で初めて蒸気機関車を長崎で走らせているんです! さらに現在の麒麟麦酒株式会社の前身、「ジャパン・ブルワリー・カンパニー」の設立にも力を注いでいて、今もその会社のビールのラベルに描かれている麒麟の絵は、グラバーに敬意を表して彼の口ひげをたくわえた風貌を反映したものなんですって!ヾ(@◇@)☆オオ▲明治頃の麒麟ラベルこちらもリッパなお髭です ところでグラバーは、薩摩藩や長州藩など倒幕派の若いサムライたちの情熱に共感し、密航の手助けや資金面での援助もしています。いくら大金持ちとはいえ発覚したらたいへんな事。(●●-;)メッ 大胆で勇気ある行動ですよね。サムライたちの姿と、若き日に大きな野心を持って日本にやって来た自分がオーバーラップしたのかなあ。グラバー自身、頑固で高い志を持つサムライ気質みたいなものを持っていたのかも…などと、ロマンチックにライトアップされたグラバー邸を眺めながらいろんな思いを巡らすのでした。

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