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  • 第604号【秋の空を見上げよう】

     台風が過ぎ去るごとに、深まる秋。そんななか長崎では9月下旬頃から季節はずれのサクラの開花があちらこちらで確認されています。これは、同月初旬にやってきた大型で非常に強い勢力の台風10号の影響ではないかといわれています。この台風による強風で、サクラの木は色づきはじめた葉を落とし、その後、春のようなポカポカ陽気が続いたことで花を咲かせたようなのです。  いつもの年なら、「春と間違えたのね〜」と笑ってすませるところですが、今年は、「どうしたものか…」と思うほどその数が多い。長崎市街地でサクラの名所として知られる立山公園や風頭公園でも、多くのサクラの木が葉を落とした枝先に花を付けていました。枝先に数輪の花を付ける秋のサクラは、春とはまた違う風情を楽しめますが、サクラの木にとっては、年に2度の開花はちょっとしんどいかもしれませんね。  秋のサクラを見上げれば、花の向こうに、空気が澄んだこの季節ならではの空が広がっています。日中の雲も、夜の星々の様子も鮮明で、自然と空を見上げる回数が多くなりますね。この10月は、1日が「中秋の名月」でしたが、今月は満月が2回(2日、31日)あり、さらに、29日は、「豆名月」「栗名月」とも称される「十三夜」です。月を眺めながら、秋の夜長を楽しみたいものです。  今月1日の「中秋の名月」の夜、諏訪神社へ出向くと、長坂(参道の長い階段)に座って月を眺める人たちの姿がありました。月は、まちの東側にある豊前坊(飯盛山)と彦山が連なる山の上にあり、北東側には火星が赤く光っていました。  江戸後期の1804年(文化元年)9月、幕吏(支配勘定役)として長崎奉行所立山役所へ赴任した大田南畝。お江戸では狂歌師「蜀山人(しょくさんじん)」として名声を高めていた彼は、1年ほどの長崎滞在の間に、「長崎の山から いづる月はよか こんげん秋は えっとなかばい わりたちも みんな出てみろ今夜こそ 彦山やまの 月はよかばい……」と長崎の方言を使って彦山から出た月のことを詠みました。この歌は、ときを超えて今も長崎の人たちに親しまれています。  空気が澄んだ秋の月夜は、運が良ければ「月光環」を見ることができるかもしれません。「月光環」とは、月に薄雲がかかったとき、月の周囲に虹色のリングが見られる現象です。実は、10月2日の深夜(満月)、日付が変わる頃に、この「月光環」を確認。雲の流れが早いため、虹色のリングは間もなくくずれ、色合いも変化。あわてて向けたカメラには、くずれた「月光環」の一部が写っていました。  秋は、夕焼けもきれいですが、たそがれどきの月で、「地球照」という現象を見れるかもしれません。夕時の長崎のまちの西の空をとらえた写真の「月」をよく見てください。小さいので確認しづらいかもしれませんが、これは、9月の三日月で、光があたっていない部分もうっすらと見え、丸い月の形がわかります。これを「地球照」といい、地球で反射した太陽光が月面に当たっていることから見られる現象です。   秋の空は、たまにしか見ることができない現象に出会える機会が多いよう。空を見上げることは、気軽にできる気分転換です。ちょっと、見渡してひと息つきませんか。

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  • 第603号【発掘された南蛮貿易時代の石垣】

     今年も、秋のお彼岸を知らせるように咲きはじめたヒガンバナ。「敬老の日」、「秋分の日」と続いたこの連休、お墓参りに出かけた方も多いことでしょう。彼岸の中日でもある「秋分の日」は、昼と夜の長さがほぼ同じ。きょうからしだいに夜が長くなって、秋が深まっていくのですね。  九州では日中、蒸し暑さがまだ残っていますが、ずいぶん過ごしやすくなりました。コロナ禍のなか、この夏の猛暑を乗りきったことに安堵しているのは人間だけではないようで、中島川の川面を見つめるアオサギやカワセミも、どこかほっとしているみたい。空を見上げれば、いわし雲。台風に警戒しつつ、このさわやかな季節を十分に味わいたいものです。  9月12日、「旧県庁舎跡地」で昨年度から実施されている発掘調査についての現地説明会へ行ってきました。調査状況が一般に公開されるのは今回が2回目(※1回目については、当コラム585号に掲載)。前回、まだ埋められていた状態だった場所が広く掘り起こされ、古めかしい石垣が現れていました。  前県庁舎時代、駐車スペースだった場所に現れたその石垣は、長さ約60m、高さ約6〜7m。場所によって石の表情や積み方が違うのが素人目にも分かりました。これは、補修や積み替えが繰り返し行われてきたことによるものだそう。  今回、公開前から注目されていたのが、この石垣の根石部分に、1610年代に積まれた可能性が高い場所が見つかったことでした。1610年代のこの場所には、教会があり日本のキリスト教の本拠地としてイエズス会の本部も置かれていました。長崎のまちは全国から信徒が集まり南蛮貿易で発展をとげていた一方で、禁教令によってそれらが破壊されていく激動の時代でもありました。  現地説明会のこの日、未明から早朝にかけて大雨が降り、石垣前には大きな水溜りができていました。水溜りの底が、江戸時代の平地にあたるそう。ずいぶん埋め立てられて現代に至ったことが分かります。今回、水溜りの影響で1610年代の石垣を直接見ることはできませんでした。しかし、いろいろな時代を経てきた大きな石垣を目の当たりにして、これまで、歴史の教科書にしかなかったもろもろの時代が、現代と地続きであることを少なからず実感できました。  旧県庁舎跡地は、その昔、緑におおわれた岬の突端で、小さな祠がひとつ置かれていただけと伝えられています。そんな場所が、1571年(元亀2)、長崎が南蛮貿易港として開港したことで、歴史の表舞台に躍り出ることに。南蛮貿易時代には教会(イエズス会本部)、江戸時代には、糸割符宿老会所、長崎奉行所、長崎西役所、明治以降は、長崎裁判所(後に長崎府)、広運館、長崎県庁(初代〜4代目)と、いつの時代にも重要な施設が建てられ、長崎の中心地として機能してきました。   日本の近世・近代にとってもたいへん重要な場所である旧県庁舎跡地。形が見えなくなると、まちの記憶は風化し、日本の歴史の風化にもつながりかねません。過去を見つめ直すことは、今の足元をしっかりさせることにつながるはず。遺構の確認が難航を極めることは想像に難くありません。ですが、発掘調査にあたる方々には、がんばってほしい。多くの人が注目し、応援しています。

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  • 第602号【昔懐かしい味で元気になろう】

     台風9号・10号で被害にあわれた方々に心よりお見舞い申し上げます。一日も早く普段の暮らしにもどれますようお祈りいたします。   次から次にいろいろなことがあって何だかしんどいな、というときは、昔ながらの懐かしい味わいが、心と身体をいたわってくれます。たとえば、「甘酒」。近年、「飲む点滴」とか、「飲む美容液」などと評され、その栄養価があらためて注目されていますね。かつては、節句や祭りのときなど折々に家庭で作っていたものです。江戸時代には「甘酒売り」がいて、暑気払いに飲まれていました。長崎では、秋祭りときには食卓にあがります。身心が高揚する祭りをのりきるためには、欠かせない飲み物なのです。  昔ながらの味というと、「サツマイモ」をつかった食べ物がいろいろ浮かびます。「サツマイモ」は、便秘を予防し、シミ・ソバカスにもいいといわれる健康・美容野菜です。日本へは、17世紀はじめ、琉球経由でオランダ船が平戸に運び植えたのが最初ともいわれています。そんな歴史的背景もあってか、長崎県内各地には、いも寄せ(野母崎)、びょうたれ(諫早)、どんだへもち、ろくべえ(島原)、かんころもち、かんころ団子(五島)など、「サツマイモ」をつかった食べ物が九州のなかでもとくに多いような気がします。  対馬の「せん」は、昔のきびしい島の暮らしから生まれた保存食。「サツマイモ」から取り出したでんぷんを粉を固めたもので、洗い、発酵、乾燥、水戻し、漉し、乾燥など、いくつもの工程を経て作ります。仕上がるまで約2ヶ月かかるそうです。保存しておいた「せん」は、水を加えてこねて、団子や餅、ろくべえなどにしていただきます。  「石垣まんじゅう」は、さいの目に切った「サツマイモ」が石垣のように見えるおまんじゅう。九州各地で作られているようです。小麦粉とサツマイモで簡単にできるので、昔は農作業の合間に作って食べたそう。ちなみに「石垣まんじゅう」は、愛知県の郷土料理「鬼まんじゅう」とそっくり。どちらも、それぞれの地域の人々に親しまれ、おまんじゅう屋さんなどで、一年中手に入ります。  おはぎやぜんざい、おまんじゅうなど、「小豆」を使った和菓子も昔ながらのほっこりする味わいです。「小豆」は、疲労回復に良いといわれ、筋肉痛、肩こり、だるさ、夏バテなどにも効果があるそうです。  暑さが続く季節におすすめなのが、「冬瓜(とうがん)のスープ」です。鶏肉と塩味のあっさりとしたスープで、とろりと煮た冬瓜がおいしい。暑い季節になると必ず母親が作ってくれた思い出のスープだという人もいます。薬膳では、冬瓜には身体の余分な水分を排出させる作用があり、むくみや暑気あたりによいといわれています。   戦争やさまざまな自然災害を乗り越えてきた先人たちが、食べ繋いできたものには、理にかなった栄養素が含まれています。そんな食べ物に力をもらって、一日一日を元気に過ごせたらいいですね。

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  • 第601号【ペンギンに会いに行く】

      きびしい暑さが続いていますが、二十四節気では「処暑」を迎えました。夏の暑さが峠を越え、少しずつ涼しくなっていく頃です。夜のベランダでは風がここちよく感じられるようになり、涼やかな虫の声も聞こえます。ささやかな秋の気配にはげまされながら、とにかくいまは、夏の疲れをためないよう、体をいたわりながら過ごしていきましょう。  この夏も、かわいいペンギンたちに会うために、「長崎ペンギン水族館」(長崎市宿町)へ行ってきました。長崎駅からバスで約30分。美しい橘湾が目前に広がる海沿いにあり、前身の「長崎水族館」(1959〜1998)時代からペンギンの繁殖と飼育の技術では日本屈指の水族館として知られています。  入館すると目の前に大水槽が現れます。青く輝く水中をビュンと泳ぐペンギンの姿はとても爽快です。また、岩場でヨチヨチと歩く姿はとてもかわいくて、思わず頬がゆるみます。地球には全18種類いるといわれるペンギン。そのうち8種類(キングペンギン、ヒゲペンギン、フンボルトペンギン、イワトビペンギン、マゼランペンギン、ジェンツーペンギン、ケープペンギン、コガタペンギン)がこの水族館で飼育されているそうです。  意外に思われる方がいらっしゃるかもしれませんが、ペンギンは、カモメやウミネコなどと同じ海鳥の仲間です。しかし、空を飛ぶことはできません。鳥たちが空中を飛ぶために使う翼は、ひれ状の「フリッパー」と化して、水中で活躍。大水槽でのびのびと泳ぐ姿は、水中を飛んでいるように見えます。  この水族館のペンギンのなかでいちばん大きいサイズが、キングペンギンです。体長約90センチ。飼育エリアの隅で卵を抱えている様子が見られました。長崎でキングペンギンといえば、世界でもっとも長生きしたペンギン「ぎん吉」が思い出されます。1962年(昭和37)に南氷洋で捕獲され、旧長崎水族館へ。それから2002年(平成14)までの約40年間を長崎で過ごし、世界最長の飼育記録になっています。ペンギンの平均的な寿命は20年くらいともいわれるなか、長寿を全うしたぎん吉。飼育スタッフに大切にされ、多くの人々に愛されたペンギンでした。  ペンギンたちは、いずれも個性的。あごのあたりに細目の黒いラインが入っているのがヒゲペンギン。ジェンツーペンギンは、好奇心旺盛で、ものおじしない感じ。目の周りに白い縁取りがあります。世界でもっとも小さいコガタペンギンは体長35センチ。大人になっても赤ちゃんみたいなかわいさです。  飼育スタッフが見守るなか、橘湾に放たれたフンボルトペンギンの姿は、館内にいるときよりは、やはりのびのびとして野性味が感じられます。水上に浮かぶ姿は海鳥らしさがありますが、重いので体の半分が水中に沈んでいます。羽繕いをする姿は、ラッコのようでもありました。   長崎ペンギン水族館は、屋外の自然体験ゾーンもおすすめです。長崎の里山をイメージしたビオトープがあり、植物や生きものなど四季折々の出会いを楽しめます。真夏のいま、池ではスイレンが咲き、ガマの穂の上には、赤とんぼがとまっていました。

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  • 第600号【75年目の夏を迎えて】

     猛暑のなかで花を咲かせるキョウチクトウ。8月9日、平和公園の一角で、白いサルスベリとともに花のついた枝先を風に揺らしていました。乾燥や排気ガスなどに強いことから街路樹や庭木として広く植えられているキョウチクトウ。その花は毎年、広島と長崎の原爆の日の頃に満開を迎えます。75年前、長崎に原爆が投下される直前の朝、この花が咲いていたことを鮮明に憶えているという被爆者の話を聞いたことがあります。ちなみに、広島市は、被爆焼土と化したまちで、いち早く花をつけたキョウチクトウを復興のシンボルとして市花に制定しています。  キョウチクトウはインド原産。日本へは、江戸時代にオランダ船が運んできたとも、中国経由で伝えられたともいわれています。花の色は、赤、ピンク、白などがあり、どこか桃の花を思わせる姿です。そして、葉は細長い竹の葉に似ています。キョウチクトウは漢字で「夾竹桃」と書きますが、「夾」の字には「混じる」の意味があり、竹と桃が混じった姿であることが表現されています。  キョウチクトウの花でひと息ついたあと、平和公園内の『平和の泉』へ。ここで、原爆犠牲者の冥福を祈りました。たっぷりの水を満たした泉の前に設けられた碑には、被爆した熱い体で水を求めさまよい、どうしても水が欲しくて、油のようなものが一面に浮いた水を飲んだという少女の手記が刻まれています。この碑の前に立つと、子どもたちに二度とこのような体験をさせてはならないと誰もが思うことでしょう。  『平和の泉』からまっすぐ歩みを進めると、平和祈念像の前へ出ます。ちょうど、午前中に行われた平和記念式典の片付けの最中でした。新型コロナの影響で、例年よりも規模を縮小して行われた今年の式典。これまでとは違う特別な夏となったことで、多くの人がいつも以上に平穏な日々の尊さや平和について思いを深めたのではないでしょうか。  平和公園に隣接する爆心地公園では、『原子爆弾落下中心地碑』に向かうように地面いっぱいに白いギザギザの線が描かれていました。これは、被爆者の「声紋」をペイントで表現したもので、『声紋源場』と題したアートプロジェクト(〜8月10日まで)。スマートフォンで「声紋」を読み取ると、被爆者の声を聴くことができます。現代ならではの新しい技術で、平和の発信が試みられているのですね。  爆心地公園から、近くの長崎原爆資料館へ向かう途中では、『長崎を最後の被爆地とする誓いの火』の塔が、空に向かって炎を揺らしていました。この火は、オリンピック発祥の地であるギリシャのオリンピアの丘で採火された「聖火」。市民によって毎月9日に灯され続けています。  平和について語ることは、テーマが大きすぎて気が引けてしまうという方もいらっしゃると思います。しかし、それはけしてむずかしい話ではありません。平和は、平穏な日常、ささやかな幸せの積み重ね。きょうの食事を、おいしい笑顔でなごやかにいただくこともそのひとつ。みろく屋が、そんな食卓づくりの一助になれたら幸いです。  ※参考にした本:日本の花を愛おしむ(田中 修/中央公論新社)、ながさきことはじめ(長崎文献社)

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  • 第599号【西瓜と南瓜】

    令和2年7月豪雨により被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。一日も早く復旧し、安心・安全な日常生活がもどりますよう心からお祈りいたします。  シーボルト記念館(長崎市鳴滝)の庭園の一角で、ハマボウがレモンイエローの花を咲かせていました。その美しさは一服の清涼剤。オクラの花によく似ています。また、フヨウやムクゲの花なども連想させる姿です。あとで調べてみたら、みんなアオイ科の植物でした。  ハマボウは、19世紀にヨーロッパで著されたシーボルトの『日本植物誌』に掲載されています。この本で、ハマボウは新種として発表され、学名の「Hibiscus hamabo」には、和名のハマボウが取り入れられています。その名から想像できるように、ハマボウは海辺の砂泥地などに自生。近年では、絶滅の危険がある種として、長崎県や長崎市のレッドデータに掲載されています。  夏の花があちらこちらで咲きはじめるなか、この暑さに体調がついていかない、という方も多いことでしょう。そんな季節におすすめなのが、長崎にゆかりのある西瓜(スイカ)や南瓜(カボチャ)などのウリ科の野菜たちです。  体の熱をおさえ、喉の渇きをいやし、利尿作用や血圧を下げる効果もある西瓜。アフリカ大陸の赤道近くが原産地です。4千年ほど前の古代エジプトで、すでに栽培されていたといわれています。日本でのはじまりは、平安時代に唐との交流を通じてという説や南蛮貿易時代にポルトガル人がその種を長崎に伝えたという説、そして、江戸時代に長崎に渡来した隠元禅師が伝えたという説など諸説あります。そもそも西瓜という名称は中国語で、文字通り、西から伝えられた瓜を意味しているそう。日本で、その漢字をそのまま使用していることから、中国経由で伝えられたのは間違いないのかもしれません。  一方、南瓜は、南蛮貿易時代のポルトガル船によって、インドシナ半島の南部に位置するカンボジアから長崎に伝えられたといわれています。南瓜の漢字も中国語をそのまま当てていますが、発音は、カンボジアが転じてカボチャになったとか。ただ、九州では南瓜をボウブラと呼ぶことも。これはポルトガル語で南瓜を意味する「アボブラ」からきたよう。  江戸時代の長崎地図(延享二年(1745)/京都・林治左衛門版)に、こんな記述を見つけました。『古ハボウラ町ト云 南蛮人ボウラヲ作リシ故ニ』。その昔、南蛮人がボウラ(南瓜)を作っていたので、ボウラ町と呼んでいたというその場所は、南蛮貿易時代から江戸時代のはじめにかけて、「山のサンタ・マリア教会」や「サント・ドミンゴ教会」など、キリスト教の教会があった界隈です。市中に教会を建てた宣教師らが地元の信者とともにボウラ畑を耕していたことが伺えます。  緑黄色野菜を代表する南瓜は、抗酸化作用のあるカロテンが豊富で、免疫機能を高めてくれます。意外ですが、ビタミンCもたっぷり。南瓜のすぐれた栄養価を、海を越えてやってくる宣教師たちは実感していたのでしょう。わたしたちも風邪や夏バテ予防に、積極的に食べたいものですね。   ※参考にした本:シーボルト日本植物誌(大場秀章 監修/ちくま学芸文庫)、ながさきことはじめ(長崎文献社)、からだによく効く食べ物事典(三浦理代 監修/池田書店)

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  • 第598号【初夏のグラバー園へ】

     先週からの記録的な大雨で、熊本県をはじめ九州各地で大きな被害が相次いでいます。心からお見舞い申し上げます。引き続き大雨や土砂災害への警戒をお願いいたします。  先月30日、長崎市の諏訪神社で、恒例の神事「夏越大祓式(茅の輪くぐり)」が行なわれました。今年半年間の罪や穢れを、人形(ひとがた)に託して祓い清め、続いて茅の輪を8の字を描くように2回くぐります。『水無月の夏越の祓へする人は千歳の命延ぶといふなり』という和歌を唱えながらくぐれば、夏場の災厄を免れることができると伝えられています。拝殿の真正面に設けられた茅の輪は、思わず手を合わせたくなるしつらえでした。  梅雨の晴れ間が広がった今月初め、久しぶりにグラバー園へ行ってきました。新型コロナの影響で一時閉園していましたが、6月から開園。グラバー園近くの土産品店の通りは、まだ人もまばらでした。手指の消毒、マスクの着用、ソーシャルディスタンスを守るといった感染対策を万全にして園内をめぐりました。  長崎港を見渡す南山手の丘にあるグラバー園。幕末・明治期建造の複数の洋館が点在し、当時の息吹をいまに伝えています。モダンで洒落た外観の洋館に秘められたさまざまな歴史は興味深いのですが、今回、目を引いたのは、よく手入れされた園内の花々と豊かな緑でした。  園内では、アジサイ、アガパンサス、バラなど初夏の花が満開。釣鐘のような白い小花を咲かせたアベリアには、数種類のチョウがお互いに距離をとりながら、花から花へと飛び交い吸蜜に夢中。その中に大きなアゲハチョウの姿がありました。よく見ると、ナガサキアゲハのオスで、黒い翅(はね)を広げると表面の青い鱗粉(りんぷん)が輝き、シックで美しい。このチョウは、翅の付け根に赤い模様があり、多くのアゲハチョウに見られる後ろ翅の尾状突起がないのが特徴です。ちなみにメスは、オスよりも華やかな色合いです。  和名「ナガサキアゲハ」は、シーボルトが長崎で最初に採取したことに由来しています。もともと南国のチョウで、沖縄・九州・四国を中心に棲息していましたが、近年の温暖化で棲息地域がしだいに北上。いまでは関東あたりでも見られることがあるそうです。  園内では、ユニークな発見が相次ぎました。喫茶室の「旧自由亭」前にある池では、亀の石像を親亀の背中と勘違いしているようなアカミミガメの姿が。クスノキの大木が多い旧オルト邸周辺では、クスノキの枝にツル科の植物が巻きついて、別の樹木のような姿になっていました。   5年前「明治日本の産業革命遺産」のひとつとして世界遺産となった「グラバー邸」(国指定重要文化財)は、後世に引き継ぐための保存修理が行われていました。修理工事の様子は、建物の周囲に設けられた特設展望デッキから見学できます。工事中にしか現れない姿を見ることができる貴重な機会でもあります。興味のある方は、ぜひ、お出かけください。

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  • 第597号【日本遺産認定〜シュガーロード〜】

     先週の大雨のあと、眼鏡橋などの石橋群で知られる中島川沿いを通りがかると、桃渓橋そばに咲くカンナ(草丈1メートル以上)の群生が、増水した急流になぎ倒されていました。中島川は、昭和57年の長崎大水害後の拡幅工事によって、かなりの増水にも耐えられる川になりました。しかし、ふだんは静かなこの川が、ゴウゴウとしぶきをあげて流れる様子を見ると、短時間で集中的に降る雨のこわさを実感。家にもどったら、すぐに緊急時の避難場所と持ち出すものを再確認しました。みなさんも、ぜひ、ご確認ください。  コロナ禍のなか季節はめぐり、状況は変化しています。先週末、県境をまたぐ移動の自粛要請も解除されました。新しい生活様式をこころがけて、外出を楽しまれた方も多いことでしょう。長崎のまちにも少しずつですが、観光客の姿が見られるようになりました。  この移動の解除日と同じ6月19日、長崎県・佐賀県・福岡県にとって、うれしいニュースがありました。今年度の「日本遺産(Japan Heritage)」(文化庁)に『砂糖文化を広めた長崎街道〜シュガーロード〜』が認定されたのです。「日本遺産」とは、地域の文化財を生かして観光振興などにつなげることを目的にしたもの。今年度は全国各地から申請された中から21件が認定されています。  『砂糖文化を広めた長崎街道〜シュガーロード〜』は、長崎県(長崎市・諫早市・大村市)・佐賀県(嬉野市・小城市・佐賀市)・福岡県(飯塚市・北九州市)が申請。3県8市の自治体がいっしょになって申請した理由は、文化庁が発表した認定概要をよむとわかります。「室町時代末頃から江戸時代、西洋や中国との貿易で日本に流入した砂糖は、日本の人々の食生活に大きな影響を与えた。なかでも、海外貿易の窓口であった長崎と小倉を繋ぐ長崎街道沿いの地域には、砂糖や外国由来の菓子が多く流入し、独特の食文化が花開いた。……」  3県8市は、砂糖の歴史に甘く彩られた街道沿いの地域にあります。天ぷら、有平糖、金平糖、カステラ、おこし、大村寿司、小城羊羹など、それぞれの地域に伝えられた甘味は、銘菓・名物としていまも食べ継がれています。  江戸時代、長崎街道「シュガーロード」を経て、全国各地に運ばれた砂糖。海外交流の窓口だった当時の長崎には、オランダ船が出島へ、唐船が新地へ砂糖を運び込んでいました。現在、出島に行くと、「三番蔵」(復元)で、砂糖を保管していた当時の様子を見ることができます。砂糖は、丈夫な麻袋に入れられ積まれていました。  江戸時代、砂糖をはじめさまざまな文物が、長崎を拠点に全国各地へ、そして世界各国へ渡っていきました。そうした歴史について、展示パネルや映像でわかりやすく紹介しているのが、「筆者蘭人部屋」(復元)です。出島の中央付近の表門近くにあります。   現在の出島には、「三番蔵」や「筆者蘭人部屋」のように、19世紀初頭の建物が十数棟復元されていて、各所で出島にまつわる歴史を多様な視点で紹介しています。いずれも充実した内容なので、何度も足を運んで見るのがおすすめです。出島は、長崎市民を対象に今年6月1日から9月30日まで無料開放されています。この期間を利用して、出島のことを再度学んでみるのもいいかもしれません。これから長崎を案内するときに、きっと役に立ちます。

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  • 第596号【天文学者 西川如見(にしかわじょけん)】

     先月24日の夕方、偶然見上げた西北西の低い空に、月と水星と金星が接近し、三角形をなしているのを確認。細い月の右斜め上に、うすい雲におおわれた水星が見え隠れ。水星の右斜め下には宵の明星・金星が輝いて、幻想的で美しい光景でした。また、今月6日の満月のときには、午前3時前から6時頃までの間に、月が地球の半影に入る「半影月食」が見られたそう。私たちが眠っている間も、月や星たちは宇宙の神秘を語るように、刻々と壮大なドラマを繰り広げているのですね。  アメリカの先住民は、毎月やってくる満月に、その季節にちなんだ名前を付けました。たとえば、花咲く5月は「フラワームーン」、6月は「ストロベリームーン」というふうに。「ストロベリームーン」は、6月が野いちごの季節だということや、この時期の月の色が、赤みを帯びて見えることに由来しているとか。赤く見える理由は、朝日や夕日と同じ原理で、月が一年でもっとも地平線(水平線)に近い軌道を通るからといわれています。今月の満月がなんとなく赤みがかって見えたのは、そういうことだったのです。  月を見上げているとき、ふと、江戸時代の天文学者、西川如見(にしかわじょけん:1648〜1724)のことを思い出しました。如見は、長崎の歴史や地誌などについて記した『長崎夜話草』の著者として知られています(この書は、如見の子、正休が父の談話を筆録・編集したもの)。長崎の鍛冶屋町の商家に生まれた如見は、18歳のとき父を亡くし、その後、母によく仕え親孝行をしたと伝えられています。20歳を過ぎて学術を志した如見は、長崎奉行に招かれ京都から来た儒者・南部草寿の塾で学びました。南部草寿は、1672年から8年間長崎に滞在し、立山聖堂の祭酒(学頭)も務めた人物です。  海外から新しい知識が怒涛のように入ってくる長崎にあって、如見は師にも恵まれ、おおいに学んだようです。当時、西洋の天文学の大家といわれた小林謙貞(?〜1688)などから天文暦学を師事。研さんを積んで大成し、江戸にその名を知られるほどの天文学者になりました。日本人の学者らの間で、地球が球形であることが浸透していなかった時代に、如見は、早い段階で大地が丸いという説を唱えていました。  晩年には、天文好きの将軍徳川吉宗に招かれて江戸に上がり、謁見。天文学に関する質問を受け、意見を述べたと伝えられています。ところで、如見は、日本で最初の世界地理書とも評される『華夷通商考(かいつうしょうこう)』をはじめ『天文議論』、『日本水土考』など天文・地理に関する書籍を多く著していますが、そのなかでも博識ぶりがよくわかるのが、前述の『長崎夜話草』、そして町人道徳を記した『町人袋』、農民の経済を語った『百姓嚢』です。これらは江戸時代を知る名著として、文庫本にもなっています。   文庫本を読むと、如見の視野の広さと奥深さ、人柄の細やかさが伝わってきます。地理や天文学を通して、人智の及ばぬところがあることを知りつつ、貪欲に知識を求め、得た知識・経験は書に著し、後世の人々に役立つものを残そうとした姿が見えてきます。歴史書として、教訓書として、興味深いおすすめの一冊です。

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  • 第595号【小満のとき】

     野山の緑は育ち、昆虫たちも活き活きとして、日に日に初夏めいています。二十四節気では、「小満(しょうまん)」(今年は5月20日から6月4日まで)のときを迎え、八百屋の店先では、やさしい緑色をしたグリンピースやぷっくり膨らんだそら豆、そして最盛期を迎えた橙色の路地びわが並んで、この時期らしい彩りを見せています。山や畑では、いつも通りに季節のめぐみが育っているよう。とても、ほっとします。  長崎市民の総鎮守、諏訪神社へ参拝にいくと、参道脇に植えられたザクロの木が、鮮やかなオレンジ色の花を咲かせはじめていました。長崎の家々では、庭木として植えているところも多いザクロ。毎年、5月下旬に開花して、秋の大祭「長崎くんち」の本格的な稽古はじまりを告げる「小屋入り」(6月1日)が近づいたことを知らせます。  しかし、今年は新型コロナウイルス感染拡大防止のために、「長崎くんち」の中止が先月決まりました。よって「小屋入り」も行われないことに。寛永11年(1634)にはじまって以来、脈々と伝統をつないできた「長崎くんち」。今年は、その賑わいや華やぎのありがたさを再認識することになりそうです。  新型コロナの収束やもろもろのお願いごとを抱えて出向いた諏訪神社。その境内の各所には、さまざまな願かけに応じてくれるという狛犬たちが鎮座しています。とくに、拝殿の裏手の路地は、狛犬通りと呼びたくなるほどいろいろな狛犬に出会えます。  拝殿の左側から裏手に回ってすぐの場所にいるのは、「止め事成就狛犬」。お酒やたばこなど止めてほしいことを、狛犬の足に白いこよりを巻いて祈願します。路地をすすむと、「高麗犬井(こまいぬいど)」があります。表情はごついのですが、体が小さいからか、どこか可愛らしい。狛犬の口から湧き出ている水でお金を洗うと倍増するといわれ、また、この水を飲むと安産になるというご利益も伝えられています。  路地をさらにすすむと、江戸時代の遊女ゆかりの「願掛け狛犬」や心のトゲを抜いてくれるという「トゲ抜き狛犬」がいます。拝殿裏手の石段を玉園稲荷神社にむかって登れば、頭にお皿が乗った「カッパ狛犬」が1対。狛犬定番の阿吽の表情です。お皿に水をかけて祈願します。  先にご紹介した諏訪神社のザクロの木は、参道の一角にある祓戸神社に植えられています。この祓戸神社の前でわるいものが入らぬよう見張っているのが、「立ち狛犬・逆立ち狛犬」です。名称のとおり、一方は後ろ足だけで立ち、もう一方は逆立ちという、とても珍しい姿をしています。こちらも、頭の上にお皿が乗っているので、カッパ狛犬の一種!?のようです。   よーく見ると、かっぱカッパ系と思われる狛犬が複数いらっしゃる諏訪神社。その不思議さと、どこか愛嬌のある個性的な姿に気を取られ、お願い事をするのを忘れそうになりました。

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  • 第594号【やさしく、やさしく、ハートフルに】

     みなさん、元気に過ごされていますか。長崎の大型連休は晴天に恵まれました。期間中、多くの方々が外出を自粛したことで、市街地の交通量は例年の半分以下だったとか。窓から見上げた5月の空が目にしみるほど美しかったのは、その影響もあったからなのでしょう。  今月はじめ、中島川の歩道で、長崎の郷土史家、越中哲也先生(98才)に偶然お会いしました。越中先生は、定期的に通っている病院の帰りとのこと。「体に電気ば通して来たとさ(笑)」と、相変わらず冗談めかしたもの言いで笑わせてくれます。杖をつきながらもワシワシと歩く姿は、いろいろな時代をくぐり抜けてきた方ならではの気概と気骨が感じられます。私たちが請えば、いつだって長崎の歴史のことをいろいろと教えてくださる、たいへんありがたい存在です。  川沿いのベンチの端と端に座って、少し休憩。新型コロナの話題から長崎の疫病の歴史について話をされました。江戸時代、長崎は海外との交流の拠点ということで、腸チフスやコレラなどの疫病が侵入し大流行したことが何度かあったそう。また、昭和6年にも腸チフスが長崎市で大流行。このとき越中先生は、お母様を亡くされています。「厳しい母だったんですよ…」。多くは語りませんでしたが、当時のことはいまも鮮明に記憶されていらっしゃるようでした。長崎市に発生したこの年の腸チフスは、患者数780人。死者数478人(長崎市衛生史年表より)。地元の医科大の教授は、「長崎市が未だ嘗て経験せざる程度の激甚なるものにして…」と、その猛威を記しています。  越中先生は、新型コロナに翻弄される現在の状況に、「いまは、なるだけ家でじっとしとかんばでしょうね」とおっしゃっていました。定期的に行われていたお寺での講座もしばらくはお休みで、いまは話のネタを集めていらっしゃるそう。そんな話をしていたら、目の前にアオサギがやって来ました。「おっ、鳥の来たばい」とひょいと腰をあげ、アオサギを指さす越中先生。立ち上がった勢いで、「さあ、ビールば1本買うて、早よ帰らんば」とおっしゃり、酒屋に向かって再びワシワシと歩いて行かれました。  越中先生とのたわいもない会話にリフレッシュ。ひとは、ちょっとしたことで気分が和んだり、ストレスが解消されたりするものですね。そこで、みなさんの気分が少しでも和むといいなあという思いを込めて、ハートフルなハートの画像をお届けします。  まずは、昨年度、市民の投票により長崎市の鳥に決定した「ハト」から。その顔をよーく見ると、クチバシの上あたりに白いハートが付いています。これは「鼻こぶ」とよばれるもので、大人のハトに見られるものだそうです。また、鹿も白いハート模様のお尻を持っています。以前、訪れた稲佐山公園の「しか牧場」で、ハートが並んで歩く姿を見て、思わず笑ってしまいした。  植物では、この春、咲き終えたローズマリーが、ハート型の袋に小さな種を携えていました。極めつけ!?のハートを持っていたのは、数年前、浦上天主堂の近くで出会った茶トラ猫です。お尻を地面につけ前足を立てた姿勢で座ると、お腹の上あたりの毛がキュッとハート型に!ちなみに、猫たちのこの姿勢は、エジプトの女神の神話にちなんで、「エジプト座り」と言うそうです。   まわりを丁寧に見渡せば、これまで見過ごしてきた小さなもののなかに、気分を和ませ、やさしい気持ちにしてくれるものがたくさんあるよう。さっそく、見つけてみませんか。

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  • 第593号【タケノコの季節です】

     窓から見える公園の桜は、すっかり葉桜に。数日ぶりに買いものに出ると、道すがらペラペラヨメナのまわりをシジミチョウが飛び交う姿に出合い、気分がほぐれました。お店に入ると、食料品はいつもと変わらない品揃え。野菜や果物などみずみずしい旬の食材も十分にあり、変わらぬ日常を支えてくれるもろもろの方々に、感謝の気持ちでいっぱいになりました。  さて、いろいろ出回っている旬の食材のなかで、存在感を放っていたのはタケノコです。タケノコは、パック入りの水煮が一年中手に入りますが、やはり独特の香り、歯ごたえは旬のものにはかないません。タケノコは、掘り出してから時間が経つほどエグミが増します。なので、朝掘りのものを手に入れ、できるだけ早く茹でてアク抜きをするのが、おいしくいただく秘訣です。  アク抜きをしたタケノコは、いろいろな料理にして楽しみますが、まずは、何と言ってもタケノコご飯ですよね。タケノコご飯は、かすかに土の香りがして、しみじみと郷愁を感じる味わいです。昔からこの時期の日本人の食卓にあがり、季節のめぐりを伝えてきました。手のひらで叩いて香りを引き出した山椒の芽を添えていただくのが定番スタイル。子どもたちは、山椒の芽は苦手のようですが、酸いも甘いも噛み分ける大人になれば、そのクセのある香りがないと物足りなくなるはずです。  タケノコは、タケノコ汁や土佐煮、若竹煮など、煮物や汁物にとレパートリーが広い食材です。また、皿うどんにもよく使われる具材のひとつです。旬のタケノコやキャベツを使った春限定の皿うどんはひと味違います。ちなみに皿うどんは、具材の種類や量など、けっこう自由に好みを反映できます。春に限らず、四季折々に旬の具材を取り入れて、いつもの皿うどんを季節の一品として楽しんでみませんか。  さて、タケノコは文字通り竹の子どもです。日本で竹といえば、孟宗竹(もうそうちく)、真竹(まだけ)、破竹(はちく)が知られています。現在、私たちが主に食べているのは、孟宗竹(モウソウチク)です。孟宗竹は全国各地に植えられていますが、実は中国原産で江戸時代に渡来したもの。琉球を経て薩摩に入ったという説や黄檗宗の隠元禅師がもたらしたという説、また、京都の黄檗宗の僧が中国から持ち帰ったなど、伝来には諸説あり定かではないようです。 ところで、この時期の竹林に行くと、葉は枯れたように黄色くなっています。これはタケノコに栄養分がいくためだとか。多くの木々が新緑をつける季節に、黄葉する竹の景色を、俳句では、「竹の秋」という春の季語で表現します。余談ですが、タケノコやタケノコご飯は、春の味覚と思う方も多いと思いますが、俳句では夏の季語になっています。実際に、タケノコが出回るのは春の終わり頃から初夏にかけて。ときおり、夏めいた日差しや風を感じる頃ではあります。   さて、たまの買い物に出かけた際、まちなかで、新しい市役所の建設工事(長崎市魚の町)や、新幹線の線路の橋桁工事(長崎市八千代町付近)を見かけました。長崎の未来のまちのかたちは着々と築かれているよう。さまざまな制限があっても、よりよい未来を願う気持ちはみな同じです。こういうときだからこそ見える大切な景色もあるはず。状況を前向きに受け入れて、明るい明日につなげていきたいものですね。

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  • 第592号【季節はめぐる】

     先週4月3日に満開を迎えた長崎の桜。窓から見える公園の桜は、見頃もそろそろ終盤に入り、花びらが気持ちよさげに宙を舞っています。ちぢこまった気分と体をのびのびさせようと外へ出ると、通りの片隅で小さな植物たちが、元気いっぱいに花を咲かせていました。思えば、よく見かける草花なのに名前を知らないものばかり。ポケット図鑑を携えて、散歩に出てみました。  最初に目にとまったのは、黄色い花です。葉はアザミに似て、触ると痛いくらいのトゲトゲがあります。アザミの変種かも?と思いつつ図鑑のページをめくると、ありました!これは、「オニノゲシ」。ヨーロッパ原産の植物で花期は、春から秋にかけて。「オニノゲシ」より、細身で葉もやわらかなタイプは、「ノゲシ」。こちらも道路脇などでいっぱい花を咲かせていました。  ところで、春を代表する黄色い花といえば、「タンポポ」という人が多いと思いますが、西日本には白い花を咲かせる「シロバナタンポポ」という種類があります。黄色いタンポポより花期は短めのようで、3月にはよく見かけた花も、4月に入ってからは綿毛をつける準備に入った姿しか見られませんでした。ちなみに、私たちがふだん見かける黄色いタンポポの多くは外来種の「セイヨウタンポポ」だそう。在来種の黄色いタンポポと見分けがつきにくいのですが、花びらのすぐ下の緑色の部分で「総苞片(そうほうへん)」といわれるところが反り返っているのが、「セイヨウタンポポ」。反り返らずしっかり花びらの根元にくっついているのが在来種だそう。ちなみにシロバナタンポポは在来種ですが、「総苞片」は、やや反り返っています。  さて、春を代表する野の花に、「スミレ」をあげる人もいらっしゃるでしょう。可憐でさり気ない咲きようは、昔から日本人の心をくすぐってきました。「山路来てなにやらゆかしすみれ草」(松尾芭蕉)、「鼻紙を敷いて坐れば菫かな」(小林一茶)、「菫程小さき人に生れたし」(夏目漱石)。  長崎市民の総鎮守、諏訪神社の参道。その登り口にある最初の鳥居から3つ目の鳥居までの石段には、春になると「ヒメスミレ」が石の継ぎ目のあちらこちらから芽を出し、濃い紫色のかわいい花を咲かせます。この春限定で見られる「すみれ参道」の光景を、毎年楽しみにされている方もきっといらっしゃることでしょう。  桜咲く「シーボルト記念館」の庭園でも、「ヒメスミレ」と、うす紫色の「タチツボスミレ」が咲いていました。スミレはとにかく種類が多く、150種類以上とも言われています。小ささゆえに見過ごしがちですが、身近な場所に咲いています。見つけたら、花びらや葉の形、色、葉のつき方などを注意深く観察してみませんか。種類が分かると、ぐんと親しみがわいてきます。   『すべての事象は過ぎ去るもの 怠りなく励め』という言葉を残されたのは、お釈迦さま。季節はめぐり、みんながほっとできる日も必ずやってきます。いまは、手洗い、うがい、外出時のマスク着用を怠らず、暮らしのなかで小さな楽しみを見つけて、明るい気持ちで過ごせたらいいですね。

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  • 第591号【春を、おいしく、たのしく】

     春キャベツが出回っています。秋冬に採れるものと比べると、巻きがゆるめ。葉肉はやわらかく弾力があります。みずみずしい色合いも食欲をそそります。キャベツは、長崎ちゃんぽんに欠かせない野菜のひとつです。いつもより多めに春キャベツを加えると、器の中がいっきに春めいて気分も上がりますよ。  キャベツは、長崎にゆかりのある野菜です。日本へは、江戸時代にオランダ船が出島に運んできたのが最初といわれています。そのときは食用としては普及せず、もっぱら観賞用だったとか。食用として栽培されはじめたのは、明治に入ってからだそうです。  先日、遊びにきた親戚の子たちのために、春キャベツたっぷりのちゃんぽんを作りました。急だったので、タコ、イカ、エビなどのシーフードはあいにく切らしていたのですが、豚バラ肉、春キャベツ、玉ねぎ、ニンジン、もやし、キクラゲなど、台所にあった食材で対応。ちゃんぽんの具材は、豚肉、キャベツ、玉ねぎさえあれば、あとは柔軟に楽しめるので、とても助かります。おいしいちゃんぽん麺とスープの素を使えば、作るのも簡単。お子さんたちと一緒に「我が家特製春ちゃんぽん」を作ってみませんか。  春のひとときを子供たちと過ごすなら、バードウォッチングもおすすめです。わざわざ遠くの野山に出る必要はありません。近所の住宅街や公園、川沿いなどで、いろいろな野鳥と出会うことができます。  長崎の住宅街などで、ふだん見かけるのはスズメ、メジロ、ヒヨドリ、イソヒヨドリなどの留鳥たちです。花を付けた椿や桜などの枝がゆれていたら、そっと近づいてみましょう。好物の花蜜を求めて花から花へ飛び回るメジロがいるかもしれません。  まるで、おしゃべりでもしているかのように、強弱を付けて長くさえずるのがイソヒヨドリです。聞いているこちらも、「へ〜、そうだったのね」と返事をしたくなります。また、3月に入ってからは、ツバメも飛び交うようになりました。産卵期に向けて巣作りに励んでいるようです。  樹木の多い静かな公園などでは、カワラヒナ、ジョウビタキ、シロハラなどと出会えます。カワラヒナは、スズメよりやや大きく、緑がかった茶色をしています。翼と尾に鮮やかな黄色の斑があるのが特長です。ジョウビタキ、シロハラは、来月あたりロシアや中国大陸へ帰る冬鳥。ジョウビタキは、明るく開けた場所で見かけますが、シロハラは、樹林の暗がりが好みのよう。社寺の境内の片隅でカサコソと落ち葉の上を歩いていたりします。   石橋群で知られる中島川では、キセキレイ、ハクセキレイが縄張り争いをしている様子やシラサギ、マガモが餌取りに夢中になっているところを見かけます。長崎港では、もうすぐユーラシア大陸に帰るホシハジロのツガイの姿もありました。普段は見過ごしがちな身近な野鳥たち。野鳥を見つけるコツは、さえずりをとらえること。耳を澄ませば、ほら、あの枝、あの水辺にいますよ。

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  • 第590号【はじまりの春、龍馬を想う(後編)】

     新型コロナウィルスの影響で、不要不急の外出を控えている人が多いよう。いつもより静かに感じる長崎のまちを歩いていたら、頭上をスーッと何かが横切りました。ツバメです。長崎地方気象台がツバメ初見日を発表したのは、翌日の3月5日。平年の初見日は3月20日なので、2週間ほど早い到来だったようです。  前回に引き続き、龍馬の長崎でのゆかりの地を訪ねます。今回は、長崎駅前に位置する筑後町の「本蓮寺(ほんれんじ)」から。ここは、勝海舟が海軍伝習所の伝習生頭取として長崎に派遣されたときに宿泊したところです。寺の境内にあった大乗院に4年ほど(1855-1858))滞在したと伝えられています。海舟は、異国文化の香りを胸いっぱいに吸い込みながら、航海術をはじめ海軍に関する技術や知識をおおいに得て、視野を広げました。このとき培ったものが、のちの神戸海軍操練所の開設につながり、数年後に出会う龍馬へ大きな影響を及ぼすことになります。  海舟と龍馬が初めて出会ったのは、文久2年(1862)の暮れ。同年春に土佐藩を脱藩したばかりだった龍馬は、海舟の考えに魅了されすぐに弟子入り。神戸海軍操練所を経て、元治元年(1864)、幕命で長崎へ行くことになった海舟に同行して初めてこの地へやって来て、長崎奉行所立山役所を訪れたと伝えられています。  その後、龍馬は断続的に長崎を訪れながら、翌年の慶応元年(1865)には日本初の貿易商社といわれる「亀山社中」(のちの海援隊)を結成。薩長同盟の締結や「船中八策」の起草など、時代を動かす大仕事を成し遂げていきました。  ところで、長崎奉行所立山役所跡(現・長崎歴史文化博物館)から、玉園町、筑後町と続く通りを抜けた先に、前述の「本蓮寺」があります。この寺の墓域には、龍馬とともに脱藩し海援隊のメンバーでもあった沢村惣之丞が眠るお墓があります。いまも、龍馬ゆかりの地を訪ねる人たちが墓参りに訪れているようです。  筑後町・玉園町界隈には、龍馬ゆかりのスポットがまだまだあります。唐寺「聖福寺」(長崎市筑後町)もそのひとつ。ここは、「いろは丸事件」の正式な談判が行われた場所です。事件は、海援隊が大洲藩から借りていた船「いろは丸」が、紀州藩の船と衝突し沈没したというもの。龍馬は相手船に責任があるとして、損害賠償交渉を行います。このとき、龍馬は世論を味方につける歌をまちに流行らせるなど、したたかな交渉術をみせました。  龍馬もくぐった「聖福寺」の山門を出ると、江戸時代創業の料亭「迎陽亭」跡があります。この料亭では当時、卓袱料理が出されていたとか。もしかしたら、龍馬も円卓に座し、和洋折衷の料理に舌鼓を打ったかもしれません。   同界隈から徒歩圏内に、後藤象二郎邸跡(長崎市金屋町)、小曽根邸跡(長崎市万才町)、土佐商会跡(長崎市浜町)や薩摩藩蔵屋敷跡(長崎市銅座町)など龍馬ゆかりのスポットがあります。さらに、丸山や大浦の居留地まで含めれば、当時の長崎まちの主な通りを、龍馬はくまなく通っていたことがわかります。ブーツを履いて長崎のまちを縦横無尽に闊歩する龍馬。世の中をいい方向へ動かすぞ、という胸のうちまで聞こえてくるようです。

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