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  • 第589号【はじまりの春、龍馬を想う(前編)】

     九州はいつもの年よりも早く、春めいています。大陸から飛来する黄砂で景色がかすむのは、だいたい3月くらいからですが、今年は2月に入ってから、何度も黄砂現象が見られました。  多くの人が人生の大切な節目を迎える春。進級や進学、就職の際の期待と不安が入り混じる気分は、大人になってからも蘇ることがあります。そんなとき、励ましや参考になるのが、先人たちの生き方です。なかでも、坂本龍馬は、新しい時代にいち早く目覚め、前例にこだわらない行動力で、会いたい人に会い、やりたいことには躊躇なく自ら足を運び、混沌とした時代を動かしました。その人柄や生き方は、時代を超えていまも多くの人を惹きつけてやみません。  慶応元年(1865)に龍馬が長崎で設立した貿易商社「亀山社中」(長崎市伊良林)の跡へ足を運びました。風頭山の中腹にある「亀山社中」へは、山裾の寺町通りから石段を登って行きます。社中のメンバーが往来したと伝えられるこの石段は現在、「龍馬通り」と名付けられています。急で長い石段なので、皆、「ふーふー」いいながら登り降り。それでも龍馬目当ての人たちの往来は絶えません。  「亀山社中」は日本初のカンパニーといわれ、のちに貿易や海運業を行いながら政治集団、「海援隊」に発展します。「亀山社中」の跡は、現在「長崎市亀山社中記念館」として公開されています。幕末の長崎や龍馬らの活動の様子がうかがえる写真や資料が展示されています。  血気盛んな志士たちが集った「亀山社中」のメンバーには、長岡謙吉、近藤長次郎、陸奥陽之助、沢村惣之丞などがいました。この界隈には、当時の彼らの姿を彷彿させるスポットがあちらこちらに。記念撮影をするなら、「亀山社中」の跡のすぐそばにある「龍馬のぶーつ像」で。日本で最初に「ぶーつ」を履いたとされる龍馬にちなんで造られた像です。  「亀山社中」の跡から狭い路地を数分行くと、若宮稲荷神社があります。社中の面々が折々に参拝したと伝えられています。境内の一角には、龍馬像も建立されています。若宮稲荷神社の参道を下ると、龍馬や土佐藩の重臣・佐々木三四郎、英国の貿易商トーマス・グラバーなどがよく利用したという料亭・藤屋跡があります。  そこからさらに数分足を伸ばし中島川のほとりに出ると、龍馬にもゆかりのある幕末の商業写真家、「上野彦馬宅跡」があります。中島川には眼鏡橋をはじめいくつもの石橋がかかっていますが、この石橋群も龍馬をはじめとする幕末の志士たちが闊歩したに違いありません。  寺町通りの一角にある、「晧台寺(こうたいじ)」。風頭山の斜面にある墓域には、「龍馬の片腕」と呼ばれた近藤長次郎のお墓が、後援者であった小曾根家の墓地内に設けられていました。墓石に刻まれた「梅花書屋氏墓」は龍馬の筆と伝えられています。「梅花書屋」とは、悲運の最後を遂げた小曾根家の離れの屋敷名だそうです。   長崎市中を見渡せば、あちらこちらに幕末の息吹をまとった亀山社中の志士たちの姿が見えてきます。それにしても、なぜ、龍馬は長崎へやって来たのでしょうか。次回へ続きます。

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  • 第588号【長崎稲佐山スロープカー】

     立春が過ぎ、日に日に日差しが春めいてきました。長崎のまちは、「2020長崎ランタンフェスティバル」が終わり、ひと息ついているところですが、実は、このランタンフェスティバル開催中の1月31日、長崎の観光にとってうれしいニュースがありました。  それは、「長崎稲佐山スロープカー」の運行開始です。スロープカーとは、斜面走行モノレールのことで、稲佐山の中腹に設けられた「中腹駅」から「山頂駅」までを約8分で結びます。    ところで、稲佐山には、長らく親しまれている「長崎ロープウエィ」があります。こちらは1959年に開業し、1960年代の長崎観光を牽引。いまでは、定番の観光施設となっているこのロープウエィも、もちろん健在です。稲佐山の山頂まで、東側から上るのがロープウエィで、長崎港を中心とした市街地の全景を楽しむことができます。一方、北側から上るスロープカーは、浦上方面や市街地北部の向こうに連なる山々の稜線を望み、途中からは長崎港沖合の軍艦島や伊王島などダイナミックな景観を楽しむことができます。  「長崎稲佐山スロープカー」は、2両連結。車両は、ガラス張りが広くとられ、車内のどの位置にいても外の景色をぞんぶんに楽しめます。スタイリッシュな車両のデザインが、どこか長崎ロープウエィのゴンドラにも通じると思っていたら、やはりゴンドラと同じ世界的工業デザイナー奥山清行氏率いるKEN OKUYMA DESIGNによるものでした。  スロープカーの乗り場となる「中腹駅」は、稲佐山公園の無料駐車場の一角にあります。「中腹駅」から稲佐山の尾根伝いに敷かれた約500メートルのレールは、ゆるやかに蛇行。約8分かけて上り下りします。静かで快適な運行なので、乗り物酔いをすることもありません。  標高333メートルの稲佐山山頂に到着したら、徒歩で展望台へ。港を含む長崎市街地を一望。ロープウエィやスロープカーともまた違った美しい景観が広がります。特に世界新三大夜景(2012年)に選ばれた夜景は格別です。  今回、「長崎稲佐山スロープカー」の登場で、あらためて注目されている稲佐山公園。稲佐山公園は、その広い敷地内に、山頂の「展望台」をはじめ、コンサート会場ともなる「野外ステージ」を擁し、さらに、猿舎、鹿放牧場、ドッグラン、遊具広場、草スキー場広場などもあり市民の憩いの場として利用されてきました。また、4月下旬から5月はじめにかけて、8万本にもおよぶつつじが咲き誇り、毎年「つつじまつり」も開催されています。   スロープカーの営業時間は、午前9時から午後10時まで。料金は一般で往復500円、片道300円。「山頂駅」は、ロープウエィの駅と隣接しているので、上りはスロープカー、下りはロープウエィというふうに、両方を楽しむのもいいかもしれません。

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  • 第587号【長崎ランタンフェスティバルと孔子廟】

     いよいよあさって24日(金)から「2020長崎ランタンフェスティバル」がはじまります(〜2月9日(日)迄)。例年より2日長い17日間の開催です。すでに長崎のまちはランタンの装飾を終え、準備万端。みなさまのお越しを心からお待ちしています。  長崎の冬の風物詩、「長崎ランタンフェスティバル」は、今年で26年目を迎えます。長崎市の中心部を埋め尽くすように飾られるランタンやランタンオブジェの数は、約1万5千個。日が沈む頃、ランタンが灯りはじめ長崎のまちはどこか夢見心地な雰囲気に包まれます。  期間中、市中心部に設けられた7カ所の会場(新地中華街会場・中央公園会場・唐人屋敷会場・興福寺・鍛冶市会場・浜んまち会場・孔子廟会場)では、中国雑技や龍踊り、二胡の演奏などの催しが繰り広げられます。各会場は、5分前後の徒歩圏内で結ばれていますが、孔子廟会場だけがちょっと離れていて新地中華街から徒歩15分ほど。「石橋」行きの路面電車を利用するといいかもしれません(「大浦天主堂」電停下車)。  「長崎ランタンフェスティバル」の期間中、催しを行う会場として賑わう「長崎孔子廟」。近年では、中国の伝統芸能である変面ショーが大人気。中国の国家機密という、瞬時にお面が変わる早業で人々を魅了します。  儒学の創始者である孔子(紀元前552〜前479)を祀る「長崎孔子廟」は、明治26年(1893)に清朝政府と在日華僑の人々が協力して建てたものです。湯島聖堂(東京都)、足利学校(栃木県)、多久聖廟(佐賀県)など日本各地に孔子廟はありますが、中国の伝統的な様式でつくられたものは長崎だけだそうで、たいへん見応えがあります。  強い印象を残すのは、やはり中国独特の色合いでしょうか。扉や柱などは、中国で魔除けとよろこびを表すとされる朱色。屋根瓦は濃い黄色です。清朝時代、屋根瓦の色は住人の地位を表すものだったそうで、黄色は皇帝が住む宮殿などに用いられていました。孔子の御霊は、皇帝と同等であることを意味しているのです。その屋根瓦には、守り神として伝説の神獣である龍、鳳凰、麒麟が配されています。廟内をつぶさに見ていくと、こうした神獣や伝説の動物たちが数多く見られます。なかでも龍はいたるところに配され、数えきれないほど。長崎孔子廟は、まるで龍の宿のようでもありました。  釈迦、ソクラテス、キリストとならび、世界の4大聖人のひとりとされる孔子。4人のなかでもっとも早くこの世に誕生したのが孔子です。孔子とその一門の思想が語られた『論語』は、儒教や中国伝統思想の根幹になっています。日本へは5世紀には伝えられたとされ、現在にいたるまで大きな影響を与えています。   誠実さ、中庸の徳、謙虚の徳を教えた孔子。人として守るべき八つの行いとして伝えられる「孔子の八徳」(孝・悌・忠・信・禮・義・廉・恥)は、人生の指針やいましめになります。戦国の世も、平和のときも、人々がけして手放さなかった孔子の教え。旧暦の年の初めに響く言葉がきっとあるはずです。

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  • 第586号【新春のシロハラとロウバイ】

     年が明けて、はや1週間。どんなお正月を過ごされましたか。長崎の年末年始は、穏やかな天候に恵まれました。帰省者や初詣を終えた人々が街に繰り出すのを横目に、静かな市街地のはずれに出向けば、ジョウビタキやシロハラなど越冬のため大陸から渡ってきた野鳥との遭遇が相次ぎました。  近年の夏の猛暑に加え、この冬の西日本は、寒の入りしたいまも例年より高めの気温が続いています。自然界への影響が気になるところですが、おなじみの渡り鳥たちは例年どおりにやって来たようです。シロハラは、全長約24センチ。枯葉の中にいると紛れてしまう灰褐色の姿ですが、お腹部分だけ羽毛が白く、名前の由来になっています。繁殖地は、中国の東北部からロシア沿岸地方。10月頃、日本へ渡り来て、春にまた繁殖地へもどります。  長崎の市街地で毎年シロハラを確認しているのは、県立鳴滝高等学校の庭園です。ここは、江戸時代には唐通事・彭城(さかき)家の別宅の庭園でした。現在は当時の面影を残しつつ、タイサンボクやオガタマノキ、クスノキ、マツなどが植えられ、小さな樹林の庭になっています。秋が深まるといつの間にかやって来たシロハラが、カソコソと枯葉を返しながら餌(昆虫)をとる様子を見かけます。  このシロハラを、新年早々、別の場所でも確認できました。鳴滝から約1km離れた上西山町の松森神社です。境内を散策していると、梅の古木に留まっているところを発見。ささいなことには動じない性格のようで、ムクドリが目の前のクスノキの枝葉をザワザワと揺らしても知らんぷり。単独行動を好むというシロハラは、肝が据わった野鳥でもあるようです。   渡り鳥シロハラを迎えた松森神社は、街なかにありながら豊かな緑に囲まれた神社です。境内では数本の大きなクスノキ(長崎市指定の天然記念物)がのびのびと枝葉を広げています。初詣に訪れた人々は、本殿まわりに植えられたロウバイ(蝋梅)を見るのが楽しみのひとつです。甘く清しい香りを放つロウバイの花は、毎年12月に開花し、1月上旬まで楽しむことができます。  ロウバイは中国原産の花木で、江戸時代初期に日本に伝えられたともいわれています。その名は、花びらが蝋のような光沢があることに由来します。12〜2月の寒い時期に花を咲かせることから、中国では梅、水仙、山茶花とともに「雪中四友(せっちゅうしゆう)」のひとつとして尊ばれているそうです。  松森神社のロウバイは2種類あるよう。花中央に赤紫色が見られ、花びらが細長くクリーム色をしているのは、原種に近いらしい。もう一種は、明るい黄色の丸い花びらで、本殿前の臥牛像の脇に植えられています。ロウバイの花言葉は「慈愛」。厳寒の時期、やさしい香りを漂わせる小さくて明るい花は、凍てつく心と身体を温めてくれます。ロウバイの花のように、慈愛に満ちた一年でありますように。  ◎本年もみろく屋の「ちゃんぽんブログ」を、よろしくお願い申し上げます。

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  • 第585号【現在・過去・未来を思う年末年始】

     イルミネーションに彩られ、ロマンチックな装いの長崎駅。隣接する「かもめ広場」では、美しくきらめく大きなツリーが、急ぎ足で行き交う人々の足をとめています。終着駅の哀愁漂うこぢんまりとした改札口がある長崎駅。この風景のあるクリスマスは、今年で見納めです。というのも、来年3 月28日に新しい長崎駅が開業予定で、新駅舎は現在地から西側(稲佐山側)に150メートルほど移動。高架になる本線にあわせて、ホームは2階に(改札と窓口は1階)設けられるそうです。  長崎駅を中心とした周辺エリアは、新しい整備事業のもと、大きな変化の真っ只中にあります。すでに、長崎県庁舎、長崎県警察本部庁舎は近隣に移転。これから3年のうちに、九州新幹線長崎ルートの開業(2022年予定)にともない長崎市交流拠点施設(MICE施設)をはじめ新しいホテルや商業施設などが生まれる予定。うれしい未来がすぐそこまで来ています。  時代とともに変貌をとげる長崎のまち。この年末、そんなことに思いを馳せる催しが、もうひとつありました。発掘調査が行われていた長崎県庁舎跡地(長崎市江戸町)の現地見学会(12/22)です。今年、前県庁舎が解体され、10月中旬から発掘調査がはじまりました。見学会では、その状況を広く一般に知らしめるため、現地を部分解放。発掘された品々も公開されました。 長崎県庁舎跡地は、長崎のまちだけでなく、日本の近世・近代の歴史にとって、たいへん重要な場所です。現在は、周囲が埋め立てられて分からなくなっていますが、その昔、この場所は長い岬の突端にあたり、長崎開港以前はうっそうと緑が生い茂るなかに、森崎権現社の小さな祠が置かれていただけであったと伝えられています。  元亀2 年(1571)、長崎にポルトガル船が初めて入港すると、この岬の突端を中心にまちづくりがはじまり、長崎は南蛮貿易港として急速に発展しました。以来、この場所には長崎の歴史の変遷を物語る重要な施設が入れ替わり立ち替わり置かれました。南蛮貿易時代には、「岬の教会」、「イエズス会本部」。江戸時代には、「被昇天の聖母教会堂」、「五ヶ所糸割符宿老会所」(のちに長崎会所に至る貿易機関)、「長崎奉行所西役所」、幕末には「海軍伝習所」、「医学伝習所」。そして、明治以降は「長崎県庁舎(初代〜4代目)」が長く所在しました。  見学会では、そうした時代背景をベースに、計画的に掘り下げられたポイントを見ることができました。埋められた古い石垣や歴代県庁舎の遺構などを確認。江戸時代のものと思われる瓦片や漆喰片をはじめ石灯篭、花十字紋瓦、コンプラ瓶、有田焼のタイルなどの発掘物も展示されていました。多くの人が期待しているのは、やはり、南蛮貿易時代の教会に関連する遺構の出土。当時の様子がうかがえるものが見つかるといいのですが。  ところで、発掘されたものの中で今回いちばん印象に残ったのは、小ぶりの牛乳瓶でした。瓶には『油屋町 吉田ミルクプラント』と文字があり、知り合いの女性から聞いた戦前の話を思い出しました。長崎の中心部に生まれ育ったその方は、子どもの頃、「吉田ミルクプラント」こと「吉田牧場」の牛乳を、毎日家に届けてもらっていたそうです。当時の牛乳は、現在とは別の方法の高温殺菌だったらしく、「届けられた牛乳は、いつも熱々だったのよ」とおっしゃっていました。「吉田牧場」は、明治から戦前にかけて小島川が流れる長崎市の愛宕界隈にありました。「牧場で、牛と牛の間を駆け抜ける遊びをしたことがあるんだけど、怖かった〜(笑)」。戦前の長崎のまちっ子ののびのびとした様子が伝わるエピソードでした。  ◎本年もご愛読いただき、誠にありがとうございました。

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  • 第584号【初冬・中島川の石橋めぐり】

     眼鏡橋などの石橋群で知られる中島川沿いでは、街路樹のナンキンハゼが葉を落とし、クリスマスリースの飾りなどに利用される枝と白い実があらわになっていました。美しい紅葉で知られるナンキンハゼは中国原産。江戸時代に長崎に持ち込まれたのが日本で最初だったことから、長崎市の木に指定されており、市内各所に植えられています。  川辺に目をやれば、すすきの群生が風にゆれ、近くでは越冬のため日本に渡ってきたジョウビタキの姿がありました。石橋群のひとつ「一覧橋」を渡って光永寺へいくと、境内の大イチョウが樹の下に黄金の絨毯を敷きつめ、行き交う人々の足を止めていました。暖冬傾向にある九州の師走は、まだ秋の気配が残り、ゆっくり季節をすすめています。  光永寺から下流へと足をすすめ、「すすきはら橋」へ。この橋は、長崎市中央公民館横のイチョウ並木のある道路へ続く橋。車両がひんぱんに行き交う道路橋なので、歴史ある中島川の石橋群のひとつだとは気付かずに通っている人が多いかもしれません。  現在の「すすきはら橋」は、鉄筋コンクリートで築かれていて、欄干や橋の側面にほどこされた石橋風のデザインに、その歴史をとどめています。同じ場所にあった初代の橋は、石造りのアーチ橋で延宝9年(1681)に架けられました。その後、川の氾濫などによる流出と再建を幾度か繰り返し、昭和57年(1982)の長崎大水害で崩壊した後、現在の姿になりました。ちなみに、「すすきはら橋」の名称は、明治時代に付けられたもので、この橋一帯に、すすきなどの草が生い茂っていたことに由来しているそうです。江戸時代はこの辺りは「今紺屋町(いまこうやまち)」だったので、「今紺屋町橋」などと地元の人は呼んだと伝えられています。  「すすきはら橋」からひとつ下流にある「東新橋(ひがししんばし)」へ。この橋も昭和57年(1982)の長崎大水害で流失した後、昭和の石橋として現在の姿になりました。石造りアーチ橋として最初に築かれたのは、「すすきはら橋」よりもやや早く、寛文13年(1673)のことでした。現在の東新橋は、アーチがとても高い位置になっていて、橋を渡るときは10数段の階段をのぼります。その分、橋の中央に立つと視界が変わります。上流側を眺めると、手前に「すすきはら橋」、その向こうに「一覧橋」が見えます。  「東新橋」から数十メートル下流の「魚市橋」へ。「魚市橋」もはじめは石橋だったものが、大正時代に現在の鉄筋コンクリートの橋になりました。この橋から下流をのぞめば、2つのアーチを描く「眼鏡橋」の姿がきれいに見えます。「魚市橋」と「眼鏡橋」の間の護岸の石積みに埋め込まれたハートストーンは、いつの間にかすっかり名所となって、写真を撮る観光客がたえません。いまは、クリスマスシーズンが近いからか、カップルの姿が目立つようです。   見渡せば、あなたのまちにも、長崎のまちにも、美しく、ほほえましい初冬の景色があちらこちらに。いそがしいときこそ、そういう景色で気分を変えて、師走を元気に過ごしたいものですね。

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  • 第583号【片淵の赤かぶ】

      九州地方は、初冬にしては温かく過ごしやすい日が続いています。日中は春の陽気にも似て、小鳥たちが活動的になっているよう。中島川の眼鏡橋そばのアコウの木では、枝から枝へと果実をついばむメジロたちの姿が。川原ではキセキレイが長めの尾を上下にふりながら餌を求めて歩き回っていました。  実りの季節、食欲が増すのは人間も同じです。店頭には、野菜や果物など旬の食材が満載で目移りします。なかでも、さといも、ごぼう、にんじん、れんこん、かぶなどの根菜類のおいしさは格別。さて、今夜は何をいただきましょうか。  根菜類といえば、長崎には「片淵の赤かぶ」とか「片淵かぶ」などと呼ばれる伝統野菜があります。片淵とは地名のことで、長崎市中心部にある住宅街ですが、入り組んだ山の斜面地に畑がみられるところです。江戸時代には海外貿易で賑わう長崎市中に隣接する自然豊かな場所として、貿易で財を成した人たちの別宅などがおかれていました。  「片淵の赤かぶ」は表皮がツヤのある紫がかった赤色で、むくと純白。肉質はやわらかく、かぶ独特の香りは控えめ。苦みや辛味もほとんどありません。なますにすると表皮の赤が全体をうっすらと染めておめでたい色あいに。長崎くんちの行事食に、「ざくろなます」がありますが、この赤かぶで作った「なます」も「くんちなます」として用いられていたそうです。  大正生まれの知り合いの女性から、「片淵の赤かぶ」にまつわる懐かしい思い出をうかがう機会がありました。「片淵の赤かぶが手に入ると、よく〝炒りかぶ〟を作っていたのよ。義父がお好きでね。よくお茶漬けにして食べていらしたわね」。〝炒りかぶ〟の作り方は、まず、赤かぶを薄くイチョウ切りにし、塩もみをしてちょっと置き、ざっと洗って水気をしぼります。それを小鍋でさっと炒りながら、ほんの少しのみりんとしょうゆで味付けをして出来上がりです。お皿に盛るときは、彩りにかぶの葉を刻んでのせます。  味付けも作り方もとてもシンプルな〝炒りかぶ〟。義父は、赤かぶの季節を待ってましたとばかりに召し上がっていたようです。そんな季節感のある食生活は心を豊かに育むもの。古き良き日本人の食生活を垣間見るエピソードでした。  日本各地には、「片淵の赤かぶ」のような在来種が多く存在し、その数は80種類にも及ぶそうです。そうした在来種は、その土地の気候や土壌の影響も受けて、色や形なども個性的。大別すると、和種系、洋種系があるそうです。ちなみに、出島のオランダ商館医として来日したツユンベリー(医師・植物学者)は、帰国後に著した『日本紀行』で、長崎の赤かぶを「洋種のかぶ」として紹介しています。   薬膳では、かぶは消化を促す作用があり、食べ過ぎによる胃もたれや腹部の張りが気になるときに使うとよいとされます。この季節にぴったりの食材ですね。

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  • 第582号【ローマ法王と浦上 】

      さわやかな秋晴れのもと眼鏡橋がかかる中島川沿いを歩いていたら、「チッ、チッ」と鳴き声が。見上げると電線にジョウビタキ(オス)がとまっていました。この鳥は積雪のない地域で冬を越す渡り鳥。季節の深まりを感じて長崎へ渡ってきたようです。  さまざまな行事や催しが目白押しの季節ですが、長崎ではもうすぐ、国内外から注目される大きな行事が控えています。11月23〜26日のローマ・カトリック教会フランシスコ法皇の日本訪問(東京・広島・長崎)です。フランシスコ法王は24日に長崎へ来られ、長崎爆心地公園や日本二十六聖人殉教の地(西坂公園)などを訪れたあと、長崎県営野球場でミサを行う予定です。爆心地に近いこの野球場は、38年前の冬、当時のローマ法王、ヨハネ・パウロ二世が大雪のなかでミサを行った場所として知られています。  長崎爆心地公園や長崎県営野球場がある浦上地区は、原爆投下の受難とは別に、宗教弾圧という受難も経験した土地です。それは、江戸時代から明治初期までのキリスト教弾圧の時代のこと。この地には、密かに信仰を守り続けた人々が暮らしていました。長い時を経て、この秋、フランシスコ法王が浦上地区を訪問されることに大きな意義を感じている方も多いことでしょう。  浦上地区には、当時の弾圧の厳しさや信仰の様子を物語る史跡がいくつも残されています。たとえば、県営野球場近くの浦上川沿い(国道206号線の陸橋を渡ったところ)にある「サンタ・クララ教会跡」(長崎市大橋町)。1603年(慶長8)に、ポルトガル船の船員たちの寄付によって建てられた大きな教会だったと伝えられています。当時、この教会は浦上地区で唯一の教会でしたが、幕府のキリシタン禁教令によって1619年(元和5)に破壊されました。神父様がいなくなったなか村人の信仰を守っていくために、教会で働いていた孫右衛門が中心となって、帳面(ちょうかた)、水方(みずかた)、聞役(ききやく)といった潜伏キリシタンの地下組織をつくります。これが、その後、約250年におよぶ浦上地区の潜伏キリシタンの歴史のはじまりでした。  「サンタ・クララ教会跡」から徒歩3分。かつての浦上街道沿いの一角に「ベアトスさまの墓」(長崎市橋口町)と称される碑が建っています。ここは、キリシタン弾圧が激しさを増してきた三代将軍徳川家光の時代に、村人から尊敬と信頼を集め信仰心も強かった親子3人が殉教した地です。弾圧する側には、この親子を棄教させれば、村人たちも改宗するだろうという思惑があったようです。しかし、親子は水責めなどに合いながらも信仰を守り、最後は火刑されたと伝えられています。いつ訪れても清掃の行き届いた碑のそばには、「聖母マリアのバラ」を意味する「ローズマリー」が植えられています。   そして、浦上地区のキリスト教信仰の中心的な存在である「浦上天主堂」。この教会が建つ場所は、江戸時代には村人たちをとりまとめる庄屋があったところです。当時、ここではお正月の恒例行事として村人たちがキリシタンでないことを証明する「踏み絵」が行われていました。銅板に刻まれたキリストを踏むという行為。そのようなことをさせる時代があったことを振り返ることは、けして同じことを繰り返さない、よりよい未来を築くために必要なことなのかもしれません。

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  • 第581号【金木犀・銀木犀と長照寺】

      台風19号の被害に合われた方々にお見舞い申し上げます。一日も早く復旧し日常生活にもどれますよう、心よりお祈りいたします。  長崎くんちが終わると、とたんに秋めく長崎のまち。この時期、必ず訪れるのが寺町通りにある長照寺です。境内に植えられた金木犀(キンモクセイ)と銀木犀(ギンモクセイ)の花と甘い香りを間近で楽しむのです。  長照寺の山門をくぐると銀木犀、参道の階段をのぼった先の本殿前に金木犀が植えられています。どちらも中国を原産地とするモクセイ科の常緑樹で、遠目には区別がつきにくいのですが、花の色が違います。金木犀は橙色の小花、銀木犀は黄色味がかった白い小花を密生。秋の開花時に芳香を漂わせます。風に運ばれてくるこの香りで、秋の深まりを感じる人も多いはず。香りは、金木犀よりも銀木犀のほうが、やや控えめでさわやかな印象です。  一般には、橙色の花の金木犀のほうが知られているようですが、基本種は銀木犀のほうで、その変種が金木犀だそうです。ちなみに木犀の「犀」は動物の「サイ」の字を使っています。これは、金木犀・銀木犀とも、樹齢を重ねた樹皮が、サイの肌に似ていることによるものだとか。確かに、しっかり張った根から立ち上がる幹は、サイのような灰褐色の樹皮に覆われています。  金木犀・銀木犀の幹は下部で数本に分かれて伸び、枝は全方位に伸びて葉を茂らせます。枝葉は、ほっておいたら伸び放題になるところですが、長照寺の樹は、いつも丸くきれいに剪定され傘のような形。暑い日には涼しい木陰を提供してくれます。  長照寺は寛永8年(1631)に創建された日蓮宗のお寺です。砂紋を描いた敷砂がほどこされ、老松や大きな蘇鉄が見られる境内は、いつ訪れても手入が行き届いていて気持ちがいい。境内には、椿、桜、芍薬、夏水仙など四季折々の花々もさりげなく配され、参拝時の楽しみにされている方も多いようです。  寺院ですが、境内には護国殿の鳥居があります。また、病を治してくださるという水徳浄行菩薩さまも祀られています。参拝者は、菩薩さまの頭から水をかけて清め、自分が治してほしい体の部分と同じ所をタワシでこすって、回復を祈ります。訪れる人が絶えないのでしょう、菩薩さまは、よく磨かれてピカピカのお姿をしています。   長照寺の後山には、江戸時代中期、長崎・鍛冶屋町生まれの町人で、天文暦学の第一人者でもあった西川如見のお墓があります。如見は、晩年には徳川吉宗に招かれて謁見。江戸城で天文学に関する意見を述べています。また、如見は、町人としての心得を記した「町人嚢(ちょうにんぶくろ)」、農業や衣食住の心得などを記した「百姓嚢(ひゃくしょうぶくろ)」も著しています。これらは、市井の人々の教訓書としておおいに読まれたそうです。

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  • 第580号【ざくろなます・更紗汁】

     さわやかな秋晴れのもと、風に乗って聞こえてくるのはシャギリの音色。きょうは、長崎市中心部で行われている「長崎くんち」の後日(あとび:本番最終日)です。今博多町(本踊)、魚の町(川船)、玉園町(獅子踊)、江戸町(オランダ船)、籠町(龍踊)の5つの踊町は、力を振りしぼって「庭先回り」(踊町が市内各所の事業所や家々などを回り、玄関先で踊りを呈上すること)に精を出し、行く先々で、歓声を浴びています。  祭りの熱気は思いのほか体力を消耗するもの。「長崎くんち」で、昔から欠かせないのは、栄養豊富な「甘酒」です。「くんちには、母が毎年、甘酒を作って、ご近所にも配っていたよ」と話すのは地元の90代のおばあさん。くんち期間中の食卓には、「小豆ご飯」、「お煮しめ」、「ざくろなます」などが並んだそうです。また、くんちの前には、服を買ってもらうが恒例で、「新しい服を着て、くんち見物に行きよった」と、子供の頃のくんちの思い出を懐かしそうに話してくれました。  おばあさんの言う、「お煮しめ」や「ざくろなます」は、伝統的な「くんち料理」です。「ざくろなます」は、短冊に切った大根を三杯酢で和え、ざくろの実を散らしたもので、江戸時代中期には食されていたとも言われています。白い大根に映える赤いザクロの実。ハレの食卓にふさわしい彩りです。  長崎くんちの小屋入り(6月1日)の頃に橙色の花を付けるザクロ。秋に完熟する実は、噛むとやわらかな芯があり、独特の甘酸っぱさがあります。薬膳では慢性の咳や下痢などに効果があるとされる食材です。果肉の中に実がぎっしり詰まっているので、子孫繁栄の象徴ともされ、中国では最高の果物として祝宴の際などに供えられます。「ざくろなます」がどんなきっかけで、「くんち料理」となったかは、定かではないようですが、長崎は歴史的に中国とのゆかりが深いまちですから、龍踊と同じく中国の人から伝えられたものかもしれません。  「更紗汁(さらさじる)」も「くんち料理」のひとつです。和食で「更紗」という言葉を使ったものには「更紗煮」「更紗焼き」「更紗和え」などがあります。もともと「更紗」とは、布地(絹・綿)に染料をすりこんで染めた織物のことで、さまざまな色合いと文様があります。そうした更紗の有り様を、料理名に用いたのでしょう。色の異なる数種類の材料を混ぜて煮込めば、「更紗煮」、焼けば、「更紗焼き」、といった具合に。  「くんち料理」の「更紗汁」は、白味噌(または麦味噌)仕立ての味噌汁です。具材は、しらす干し、木綿豆腐、ちくわ、かまぼこ、ネギ(または、ひともじ)。ネギ以外は、さいの目に切って使います。ちなみに、具材を同じ形に小さく切ることで、火が均等に早く入ります。これは、火力を無駄にしない、昔ながらの料理の知恵でもあります。   ところで、織物としての更紗は、江戸時代に、交易品のひとつとして東南アジアからオランダ船や唐船によって長崎・出島に運ばれていました。そんな歴史ともつながる「更紗汁」。長崎にかぎらず、伝統の行事食は、食べ継がれてきた理由があり、その土地の歴史風土を物語ります。あなたの住むところでは、秋祭りの日にどんな料理が食卓にあがっていますか?

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  • 第579号【秋の味覚と長崎くんち】

     相次ぐ台風による被害にあわれた方々に、心よりお見舞い申し上げます。1日も早い復旧をお祈りいたします。  9月も下旬。日中はまだ30度を超える日があるものの、朝晩は日ごとに涼しくなっています。先週の北海道の天気予報では、早くも雪マークが出た地域もありました。秋は足音を立ててやって来ています。こんな季節の変わり目は体調をくずしがち。いつも以上に食事や睡眠に気を配り、元気に食欲の秋、行楽の秋を迎えたいですね。  地元の農産物を扱う店では、零余子(むかご)が出ていました。零余子は、自然薯などヤマイモ類のつるの葉の付け根などにできる粒で、炒ったり、蒸したりして食べます。俳句では、ご飯に炊き込んだ「零余子飯(むかごめし)」と共に、秋の季語でもあります。長崎県大村市の名物「ゆでピーナツ」に似た素朴な味わいにほっとします。  秋は祭りの季節です。長崎では秋の大祭「長崎くんち」が10月7、8、9日の3日間行われます。地元では、「赤本」と呼ばれる「長崎くんちプログラム」の冊子が毎年出ていて、長崎商工会議所や長崎市中心部の書店などで販売(200円税込)されています。「赤本」には、踊町(おどりちょう)と演し物の説明、踊場ごとの踊町順番と時間、出演者の氏名など、その年の長崎くんちのことが詳しく掲載されています。売り切れることもあるようなので、購入は早めがいいようです。  江戸時代初期の1634年(寛永11)にはじまった「長崎くんち」は、今年で385年目を迎えます。異国情緒漂う長崎くんちの奉納踊(演し物)は、国指定重要無形民俗文化財に指定されています。奉納踊を担当する踊町は、長崎市内に約60カ町あり、それらが7つの組に分けられ、7年に1回当番が回ってくるようになっています。令和元年の踊町(演し物)は、今博多町(本踊)、魚の町(川船)、玉園町(獅子踊)、江戸町(オランダ船)、籠町(龍踊)の5ヶ町。それぞれの踊町は、稽古を重ね、この夏の猛暑をのりこえて本番を迎えます。  本番前の10月3日には、踊町の家々が、傘鉾(かさぼこ)や演し物の衣装、小道具、そして出演者に贈られたお祝いの品々を披露する「庭見世(にわみせ)」が行われます。夕刻からはじまる「庭見世」は、学校を終えた子供たちを連れた家族や会社帰りの人々が、涼しい秋の夜長を楽しむように、和やかにそぞろ歩く光景が見られます。華やかに披露されたくんちの品々を見ながら、7、8、9日の本番に向けて祭り気分が盛り上がるひとときです。  庭見世の翌日10月4日は、「人数揃い(にいぞろい)」が行われます。これは、演し物の稽古仕上がりを、町内の数カ所で踊町関係者に披露するもの。衣装を身にまとい本番さながらに行われます。   7年に1度の踊町の当番は、意外に早く巡ってくると多くの踊町の方々が言います。7年の間に、囃子を担当した子どもが若者になって根曳き衆になったり、根曳き衆だった男性は、指導する側にまわったりと、ときの流れに応じた変化があります。前回(平成24年)撮った踊町の写真を見ながら、めくるめく時の流れのなかで、「長崎くんち」が多くの人々の人生の節目を彩っていることをあらためて感じたのでした。

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  • 第578号【中島川のアオサギ 】

     8月の豪雨、そして9月に入ってからの相次ぐ台風による被害にあわれた方々に心よりお見舞い申し上げます。1日も早い復旧・復興を祈っています。  さて、今回は、長崎市の中心部を流れる中島川のアオサギの話です。中島川は、眼鏡橋をはじめとする石橋群で知られる観光スポットで、一年を通して多くの人が訪れます。ここをテリトリーとするアオサギは、観光客がそばにいてもあまり動じません。そろり、そろりと長い足を交わしてほどよい距離を保ち、観光客が立ち去ると再び川面を見つめ、採餌をはじめるのです。  アオサギ(蒼鷺)の英名は、「grey heron(灰色の鷺)」。その名の通り、体は青みがかった灰色をしています。長いくちばしと首と足を持つ大型のサギで、全長は約93㎝。両翼を広げると全長の2倍近くにまでなります。中島川では、翼を広げ低空飛行で石橋の下をくぐり抜ける姿をよく見かけます。ゆっくりとした羽ばたきで優雅に隣の石橋の方へ移っていくのです。アオサギは、ときにツルと間違えられることもあるほど整った容姿をしていますが、鳴き声を聞くと、ツルとのギャップを感じるかもしれません。ツルは「クルルー」。アオサギは「グァー、グァー」と野太い濁音で鳴きます。  中島川では常時、数羽のアオサギを確認できます。餌となる川魚の様子を伺っているのか、じっと川面を見つめて立っていることが多く、いずれも単体で行動しています。集団もしくは、つがいは見たことがありません。野鳥図鑑によると、アオサギは、採餌時は単独で動き、ひと休みするときは小グループになるそうです。ということは、中島川はあきらかに採餌のためだけの場所。寝ぐらは別の場所にあるようです。  アオサギは、2年ほどで成鳥になります。成鳥は、翼の付け根や目の上から後頭部にかけて黒い線が入り、喉には黒い斑点がはっきり出ています。後頭部の黒い線はそのまま伸びて、冠羽と呼ばれる羽毛が見られます。若鳥は体がいくぶん小さく全身が灰色、冠羽もありません。一見、成鳥と思われるものもいますが、よく見ると、冠羽が伸びる前の若鳥だったりします。観光客のそばで動じないのは、こうした若鳥のよう。人間と同じで、怖いもの知らずなのかもしれません。  アオサギの繁殖期は、春から夏にかけて。サギ山とも呼ばれるコロニー(集団繁殖地)で、樹の上にお皿のような巣を作り、卵を産みます。中島川に採餌にくるアオサギのコロニーは、どこにあるのでしょう。寺町の背後の樹林、もしくは、ひと山越えた林にあるのではないかと思っているところです。  アオサギは、昼間だけでなく、夜も餌を採ります。真冬に行われる「長崎ランタンフェスティバル」のとき、黄色いランタンが飾られた夜8時過ぎの中島川で、灯りが届かない暗い川辺にいるのを見たことがあります。寒さや暗闇にも負けず、餌を求めるアオサギ。たくましい野鳥です。   中島川では、サギの仲間のコサギやゴイサギも見かけたことがありますが、どうしたことか、コサギはここ1年近く見かけませんし、ゴイサギにいたっては、最後に確認してからすでに10年以上も経っています。ほかの採餌の場所を見つけたのか、アオサギにテリトリーを奪われてしまったのか。野鳥の専門家の意見を聞きたいものです。

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  • 第577号【中の茶屋で、ほっとひと息 】

     西日本付近に停滞する秋雨前線の影響で、今週のながさきの天気予報は、雲と傘マーク並んでいます。ぐずついた空模様は、台風10号がやってきたお盆の頃から続いていて、日差しが少ないこともあり、朝晩は肌寒いことも。めぐる季節は前倒し気味のようですが、9月になれば、再びきびしい残暑が到来することでしょう。夏の疲れが出る頃です。体調に気をつけてお過ごしください。  ちょっと、夏の日常を離れてひと息つこうと、「中の茶屋」(長崎市中小島)を訪ねました。茶室を設けた2階建ての木造家屋と、江戸時代中期の日本庭園があることで知られています。ここは、江戸時代に丸山の遊女屋・筑後屋がつくった茶屋で、当時、多くの文人墨客が訪れたと伝えられています。現在の家屋は、昭和の時代に火災で消失した後、もとの姿に近づけて新築・復元されたもの。1階は、ふすまを開ければ20畳ほどにもなる和室があり、そこから広縁越しに手入れの行き届いた庭園を見渡せます。こころ和む景色です。  目を引くのは、和風庭園の主役ともいえるクロマツです。門扉から玄関まで客人を誘導する敷石の脇に植えられていて、枝先は血管のようにこまかく伸び老樹の魅力が感じられます。また、季節の花々は、早春から夏にかけて、ウメ、サクラ、ツツジ、サツキ、サルスベリと続き、寒い季節になるとツバキを愛でることができます。いずれの花も一面を埋め尽くすように咲くのではなく、庭の一角でさりげなく咲いて、四季の移ろいを伝えます。  中の茶屋の1階・2階の和室は、2001年(平成13)から、長崎市出身の漫画家で、かっぱの絵で知られる清水崑(しみずこん)氏の展示館として利用されています。3,400点におよぶ原画を所蔵していて、不定期に展示替えしながら数十点ずつ作品を公開しているそうです。この夏は、かっぱの絵とともに、昭和時代の有名人の似顔絵が展示されていました。木造家屋とともに懐かしい昭和のムードにひたれるスポットでもあります。  さて、「中の茶屋」を訪れたら、界隈にある神社にも足を運んでみませんか。個性的な歴史やゆかりを持つ3つの神社をご紹介します。ひとつめは、「中の茶屋」の下手に隣接する「梅園身代り天満宮」(長崎市丸山町)です。1700年(元禄13)の創建以来、丸山町の氏神様として親しまれてきました。かつては遊女たちもよく参拝に訪れたといわれています。  「中の茶屋」から路地を南へ道なりに進むと「玉泉稲荷神社」(長崎市寄合町)があります。勧請の時期は17世紀半ばと推測され、神仏習合の時代にあって、こちらも長く神社と寺院が融合していたようです。明治元年の神仏分離令で稲荷神社に改称し、現在に至ります。そんな歴史があるせいか、どこか寺院のおもかげが残っているよう。拝殿まわりには、龍や像などカラフルな色を配した神獣が施されています。  最後は、「中の茶屋」から南東方向に丘を登ったところにある「八剣神社」(やつるぎじんじゃ:長崎市東小島町)。創建は、長崎が南蛮貿易港として開港(1571年)する少し前の1568年(永禄16)と伝えられ、2年後の2021年(令和3)には、創建450年を迎える長崎最古の神社です。氏子さんたちからは、「ヤツルギさん」と呼ばれ親しまれています。   いずれの神社も地域の人々が大切にしている神社です。ルールやエチケットを守って、ご参拝ください。

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  • 第576号【長崎ペンギン水族館へ】

     青く大きな水槽のなかを、ビユンと飛ぶように泳ぐペンギンに会いたくて、「長崎ペンギン水族館」(長崎市宿町)へ行ってきました。長崎駅から赤い車体が目印の長崎県営バスに乗り込んで約30分(「網場・春日車庫前」行きに乗車、「ペンギン水族館前」バス停で下車)。美しい橘湾が目の前に広がるこの水族館は、子どもたちの夏休み期間中ということもあり、朝9時の開館直後から大勢の入場者の姿がありました。  ヨチヨチ歩きの姿が愛らしいペンギン。現在、世界には全部で18種類のペンギンがいるそうです。「長崎ペンギン水族館」で飼育されているのは、南極周辺の島々に棲むキングペンギン、ジェンツーペンギン、ヒゲペンギン、マカロニペンギン、イワトビペンギン。そして、南米などの暖かい地域に棲むマゼランペンギン、フンボルトペンギン、ケープペンギン、さらに、世界でいちばん小さいサイズのコガタペンギンなど全9種類。この飼育種類の多さは、世界一だそうです。  入館するとすぐ、大きなペンギンプールが目の前に現れます。ペンギンが、ガラスの外の人間たちを横目で見ながらビュンビュン、スィーと水中を横切る姿は、猛暑を忘れるほど心地いい光景でした。また、水族館に隣接するビーチでは暑さに強いフンボルトペンギンが海に入り泳ぐ姿を見ることができました。  燕尾服を思わせる黒と白の羽毛に包まれたペンギンは、種類ごとに黒・白の羽毛の線の入り方、くちばしやヒゲの色、形など、それぞれ個性があります。さらに同じ種類でも、一羽ごとに性格も違うよう。とにかく、みんなかわいくて、訪れた人々は幼児を見るようなやさしい目でペンギンたちを眺めていました。  「長崎ペンギン水族館」は、ペンギン以外にもいろいろな海の生き物が飼育・展示されています。たとえば、世界最大級の淡水魚でタイのメコン川上流に生息しているというプラー・ブッグ。そして、ケショウフグ、ニセゴイシウツボ、シロザメなど、地元長崎の海に生息しているけど、なかなか見る機会のない個性的な魚類も見ることができます。  「長崎ペンギン水族館」の楽しみはまだあります。駐車場から水族館の建物へ向かうゾーンはビオトープが設けられていて、棚田、湿地、小川、落葉樹林、常緑樹林、池などがある里山の環境が再現されています。棚田ではメダカやアメンボ、小川ではアカテガニを見かけました。ハスの花咲く池では、長崎市のレッドブックで、絶滅危惧Ⅱ類(VU)(絶滅の危険が増大している種)に入っているナツアカネの姿を確認。樹林のなかでは、男の子が昆虫を夢中で追いかけていました。   かわいいペンギンと小さな自然とのふれあいを楽しめる「長崎ペンギン水族館」。館内では、『ペンギン飼育60年の歩み展』(令和2年3月末まで開催)が行われていて、水族館の前身である旧長崎水族館時代(昭和34年開館)からのペンギンに関する飼育や繁殖に関する出来事など、懐かしい写真パネルを中心に紹介されていました。子どもたちはもちろん、大人にもおすすめのスポットです。

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  • 第575号【見どころ多彩な松森天満宮】

     地元の人々が折にふれ足を運ぶ松森天満宮(長崎市上西山町)。住宅街の一角で、そこだけ小さな森のように樹林に包まれた静かな佇まいは、参拝者にとって憩いの空間でもあります。参拝をすませたら、拝殿の横から正殿の裏手へ回り、「職人尽(県有形文化財)」を歩き見ながら、樹林の合間にある祠に手を合わせたり、境内で放し飼いにされているニワトリを眺めたり。そうやってひと息ついたら、ヨッコラショと日常へもどるのです。  松森天満宮は、諏訪神社(長崎市上西山町)、伊勢宮(長崎市伊勢町)とともに、長崎三社のひとつとされています。江戸初期の1625年(寛永2)、現在地からそう離れていない今博多町に創建。現在地への遷宮は1656年(明暦2)で、学問の神さま・菅原道真を祀った神社として江戸時代から信仰されてきました。当初は「新天神」と呼ばれていたそうですが、1680年(延宝8)、境内に同根3株の松があったことから、当時の長崎奉行・牛込忠左衛門膳登によって、「松森天満宮」と命名されたと伝えられています。同年、唐の商人が正門を寄進しています。  松森天満宮は、全体的にこぢんまりとしていますが、拝殿などの建物は、素人目にも整った美しさで、格式ある建築様式であることが分かります。境内を見渡せば、ほかにも、思わず足を止め、見入ってしまうものがいろいろ。たとえば、手水舍の水盤。葵の文様にも似た植物の葉のデザインが施されています。松森天満宮のホームページには、この水盤のデザインについて、「朝顔型」と紹介されていましたが、詳細は不明のよう。以前、郷土史に詳しい方から、長崎市内の別の場所に、同じデザインの水盤があると聞いたことがあります。探しあてることができたら、あらためてご紹介したいと思います。  手水舍そばには、松竹梅を模った石燈籠が、まるで門松のように参道の両脇に設けられています。どこか素朴な風合いの石燈籠。どの部分が松で、竹で、梅なのかと、近くに寄って見ると、遊び心が感じられる工夫が施されていて面白いです。また、この石燈籠のそばには、端正な顔立ちの狛犬が鎮座。拝殿の格式にあった風格を感じる狛犬です。  冒頭にも出ましたが、本殿の外囲いの欄間には、昔のさまざまな職人たちの様子を彫刻彩色した「職人尽(しょくにんづくし)」といわれる30枚の鏡板がはめ込まれています。碁盤製造、鍛治、祭礼行事、菓子製造、医師、紙工など、それぞれの職人の姿が精密に描写され、いにしえ人の営みが生き生きと伝わってきます。この「職人尽」の下絵は、長崎奉行御用絵師の小原慶山かもしれないとか。現存する彩色は、唐絵目利で当時の長崎画壇を代表する石崎融思が施したそうですが、残念なことに、長い年月の中でずいぶんと色あせているようでした。   さて、豊かな緑のなかにある松森天満宮。その樹木の中心的存在となるのが、クスノキです。拝殿そばには、大きなクスノキが御神木として祀られているほか、長崎市の天然記念物に指定された巨木など、境内やその周辺に大きなクスノキが何本も見られます。そんなことから、「クスノ森天満宮」と茶化して呼ぶ人もいるほど。大きく枝を伸ばしたクスノキはいま、参拝者に涼しい木陰を提供しています。

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