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  • 第559号【国境のしま、対馬の魅力 〜後編〜】

     旅先では、地元の人々が普段利用しているスーパーや直売所を訪ねます。その地では当たり前のように売られている食品が、ほかの地ではめずらしい品であることもしばしば。土地柄が垣間見えて面白いのです。対馬の直売所の鮮魚コーナーには、イトヨリ、アラカブ、マダイなど長崎県ではおなじみの魚をはじめ、バリ(アイゴ)、キコリ(タカノハダイ)、メブト(カンパチ)など方言で呼ばれる魚たちが手頃な価格でズラリと並んでいました。この時期、とくにおすすめなのが、秋から冬が旬のバリ。刺身がおいしいそうです。  直売所の農産加工物のコーナーには、対馬の伝統的な保存食「せんだんご」がありました。灰色でピンポン玉くらいの大きさ。秋に収穫したサツマイモをくだき、水につけて澱粉を沈殿させ、それをふるいで漉し、天日で発酵・乾燥させるという作業を数回繰り返して作ります。手間がかかるその作業は、年明けまで続くとか。最終的には、手のひらで丸めたものを親指、人差し指、中指で軽く押え、独特の形を作り、かちかちに乾燥させて出来上がりです。その姿から「鼻高だんご」とも呼ばれています。  「せんだんご」の昔ながらのシンプルな食べ方は、白玉粉の要領で水を吸わせてこね、だんごにして茹で砂糖をまぶしていただくというもの。また、「ろくべえ」と呼ばれる麺料理や「せんちまき」、「せんだんごぜんざい」などのお菓子にもして地元で食べ継がれています。「せんだんご」の原料であるサツマイモは、やせた土地にも育ち、古くから対馬の人々の食生活を支えてきました。そんなことから地元では「サツマイモ」のことを、「孝行イモ」と呼ぶのだそうです。  観光バスで対馬の山あいを走る道すがら、たびたび見かけたのが「蜂洞(はちどう)」でした。主に丸太を切り抜いて作られる蜂(ニホンミツバチ)の巣箱です。養蜂が根付いているこの島の人々にとって、山林などに点々と設けられた蜂洞は日常の風景です。対馬の養蜂の歴史は古く1500年ほど前にさかのぼるとか。江戸時代には将軍や諸大名への贈り物として使われていたそうです。長い間、養蜂ができる環境が維持されてきた対馬。今後もその豊かな自然が続きますように。  そば畑も各所で目にしました。そろそろ収穫時期に入る頃でどこも白い花が満開でした。対馬の名物「対州そば」。そばの実は小粒で、日本そばの故郷ともいわれています。今回はじめて「対州そば」を地元でいただきましたが、そばの風味が豊かでとてもおいしかったです。余談ですが、対州そばと一緒に地元のお米で作った塩むすびのおにぎりをいただきました。平地の少ない島ですが豊かな自然のなかで、良いお米が育つよう。対馬産米のおいしさを現地で初めて知りました。  お米といえば、豆酘(つつ)地区には稲の原生種といわれる赤米を祀り、栽培するという神事が受け継がれています。一年を通じて行われるさまざまな行事は、頭仲間と呼ばれる地元の集団によって大切に受け継がれているそうです。静かな山間を背景にある赤米神田。訪れたときは稲刈りの後、三角形の石碑が田んぼの中に建てられていました。   稲刈り後の田んぼでタゲリを見かけました。タゲリは冬に大陸から飛来する鳥。大型のチドリで後頭にある長い冠羽が特徴です。実は、今回の対馬ツアー中、ミサゴ、ジョウビタキなどの野鳥をたびたび見かけました。街なかではあまり見ない野鳥とも容易に出会える対馬。ヒレンジャクやオオワシなど越冬や繁殖のため大陸と日本の間を行き来する旅鳥たちが羽根を休める場所としても知られています。次回は野鳥観察で訪れたいと思います。

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  • 第558号【国境のしま、対馬の魅力 〜前編〜】

     この秋、対馬へ行ってきました。かねてより史跡めぐりをしたいと思っていた国境の島です。長崎空港から小型飛行機に乗り込んで35分。機上から見えたのは、濃紺の海を背景に、こまかく連なる緑の山々。そのふもとは繊細に入り組んだ海岸線で、平地はとても少ない。津々浦々には、小さな集落が点在していました。  九州本土と韓国の間の対馬海峡に浮かぶ対馬。福岡空港からは30分。また、博多港からは、フェリーや高速船の定期便があります。対馬は長崎県の島でありながら県内からの定期航路はなく、島民の生活圏も福岡寄りなのが実情です。  南北82キロ、東西18キロ、面積708㎢の対馬。地理的に朝鮮半島に近いため、古くから交流が盛んに行われてきました。対馬では、縄文人が小舟で九州と朝鮮半島を往来していたとも考えられていて、対馬の人々が古来より対馬海峡の荒波をよみとき、海上をたくみに行き交っていたことがうかがえます。『魏志倭人伝』(3世紀)には、対馬は「対馬国」として「一支国」(壱岐)とともに記されていて、日本と大陸を結ぶ交通の要衝であったことがわかります。  対馬は、大きく北部の上島(かみじま)、南部の下島(しもじま)に分かれています。浅茅湾(あそうわん)の奥にある万関瀬戸(まんぜきせと)が上下島の境界線だそうです。今回のツアーでは浅茅湾周辺と、下島(しもじま)を中心にめぐりました。  複雑な入り江で知られる浅茅湾。美津島町(みつしままち)の長板浦港で市営渡海船「うみさちひこ」に乗り込み、快適なクルーズを楽しみました。無人の島々や岩層を露わにした岸壁など、はるか昔に島が海底から隆起して生まれたことがリアルに想像できる美しくてダイナミックな景観を楽しみました。対馬の霊峰・白嶽(しらたけ)も見えます。海上ではマグロの養殖も盛んなよう。渡海船が内海ならではの穏やかな波をいくなかで、外海に開けた場所を通るときだけは、風が強くなり白波がたちました。水平線の向こうは韓国です。  渡海船の上から和多都美神社(わたつみじんじゃ)を参拝しました。本殿につながる5つの鳥居のうちの2つは、海中に立っています。背後の豊かな緑とともに神秘的な雰囲気を漂わせていました。和多都美神社は、竜宮伝説が残る古社。彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)と豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)を祀っています。豊玉姫命は、海神の娘で、「古事記」の海幸山幸伝承に登場します。地元では、航海守護・安産などの神様として親しまれています。  和多都美神社は、平安時代に編纂された「延喜式神名帳」(927年)に記された「式内社」(しきないしゃ)のひとつです。それは、当時の朝廷に認められた官社であっことを意味します。式内社は九州で98社107座あり、そのうち対馬は、九州で最多の29社を擁しています。次に多いのが壱岐で24社。この2つの島で九州の半分以上を占めているのです。神道とのゆかりの深さ、朝廷との強いつながりがうかがえます。   たいへん古くて奥深い対馬の歴史は、簡単には語りつくせません。次回は、対馬の衣食住を切り口にご紹介します。

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  • 第557号【高島秋帆のこと】

     さわやかな秋の陽気が続くなか、国指定史跡の「高島秋帆旧宅」(所在地:長崎市東小島)へ出かけました。高島秋帆(1798-1866)は、江戸時代後期の砲術家。諱(いみな)は「茂敦」、通称は「四郎太夫」。「秋帆」は号。家は代々町年寄を勤めた裕福な家庭で、秋帆も後を継ぎ、長崎奉行の支配下で貿易都市・長崎の運営にあたりました。  「高島秋帆旧宅」は、長崎の歓楽街として知られる思案橋・丸山にもほど近い、小高い丘の上にあります。玉すだれが咲く石段を上ると、旧宅の門が出迎えます。敷地には秋帆が暮らした家屋敷はすでになく(原爆で大破)、庭園跡、砲術練習場跡、一棟の石倉、石塀が静かに秋の陽光にさらされていました。  この家は、町年寄りだった秋帆の父、高島四郎兵衞茂紀(たかしましろうべえしげのり)が、文化3年(1806)に別宅として建てたもの。本宅は長崎奉行所西役所(長崎市江戸町)に近い大村町(現在の万才町)にありましたが、天保9年(1838)の大火で類焼し、以後、別宅が使われるようになったそうです。  秋帆が砲術家となったのは、長崎警備の必要性から父とともに、荻野流砲術を学んだことがきっかけです。その後、シーボルトから直に伝授されたともいわれる西洋式砲術を取り入れ、「高島流砲術」を創始しました。「高島流砲術」のベースには蘭学研究があったといわれ、秋帆が若い頃から蘭学に親しんでいたことが伺えます。「高島流砲術」は、まもなく佐賀(武雄)・肥後・薩摩藩など九州諸藩をはじめ全国に広まっていきました。  ところで、秋帆といえば、東京都板橋区「高島平」の地名の由来となった人物であることがよく知られています。天保11年(1840)、武蔵国の徳丸ケ原で、秋帆とその門人らによって行われた西洋式大砲を用いての西洋式調練。それは日本で初めてのことで、のちに地名となるほどの大きなインパクトを与えたのでした。  順風満帆の人生に思われた秋帆ですが、徳丸ケ原の調練から、わずか1年あまりで「謀叛の疑いあり」で逮捕されます。これは、秋帆の存在が面白くない人物が、罪を偽装したといわれています。長崎から江戸に護送・投獄された秋帆は、数年後に中追放となり、岡部藩(埼玉県深谷市)預かりの身に。岡部藩では丁重に扱われ、藩士に兵学を教えたそうです。その後、秋帆は嘉永6年(1853)のペリー来航の年、門人の願により赦免。心機一転から、通称の「四郎太夫」を「喜平」と改めています。  岡部藩に幽閉されていた頃に秋帆が出した書簡が、シーボルト記念館(長崎市鳴滝)でこの秋、開催中の「秋帆がゆく〜高島秋帆とその時代〜」(平成30年11月11日まで)に展示されていました。書簡には、長い文面の最後に、夏の暑さにたえかねて裸ん坊で縁側に寝そべり読書をしている自画像が描かれていました。うちわや茶箱、読みかけと思われる数冊の書など、状況がリアルに伝わる描写は、どこか開き直ったようでもあり、おかしみさえ感じられます。この書簡は、秋帆の人柄が垣間見える数少ない史料のひとつかもしれません。   また、秋帆の人柄を知るためのヒントとなりそうなのが、「秋帆」という号。若い頃から使っていたそうですが、その由来はわかっていません。想像するに、長崎で秋の帆といえば、日本からの輸出品を満載して出航するオランダ船のこと。オランダ船が無事に長崎を離れることは、貿易業務にあたる町年寄にとって、ほっとするときでもあったはずです。実際のところ、秋帆はどんな思いから、この名を使うようになったのでしょうか。とても気になります。

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  • 第556号【長崎くんちと傘鉾】

     今年の「長崎くんち」が終わり、しゃぎりの音色と根曳衆の勇壮な掛け声に包まれた中心市街地は、その熱をおびたまま静かな日常をとりもどしはじめています。1634年(寛永11)にはじまる「長崎くんち」。384年目となった今年は、平成最後の節目ということで、踊町はもちろん見物客たちの感慨もひとしお。秋晴れに恵まれた三日間(10/7・8・9)絢爛豪華な奉納踊が繰り広げられました。  長崎くんち本番前の10月3日に行われた庭見世(にわみせ)も賑わいました。庭見世とは、今年の踊町が、傘鉾や衣装、道具、お祝いの品などを披露するもので、本番への期待感が高まる催しです。中心市街地に点在する今年の踊町、小川町・大黒町・椛島町・出島町・東古川町・本古川町・紺屋町の全7カ町(※小川町・紺屋町・本古川町は旧町名)は、それぞれ飾り方、見せ方を工夫し準備万端。庭見世がはじまる夕刻になると、家族連れや観光客、そして仕事帰りの人たちなど大勢が繰り出して賑わいました。今回、町内に出島を擁する出島町は、庭見世を出島で行い、昨年11月に完成したばかりの出島表門橋から出島の外側にかけて見物客の長い行列が続いていました。  庭見世で目を引くのは、やはり傘鉾です。各踊町の町印として、行列や奉納踊の際、常に先頭に立ちます。くんち前日(まえび)の御神輿お下りの際に行われた「傘鉾パレード」では踊町の傘鉾が一堂に会し、圧巻でした。重い傘鉾をバランス良く持って小刻みに歩き、ときに回してみせるのは、「傘鉾持ち」と呼ばれる専門の男衆です。その演舞は、傘鉾の美しさをいっそう際立たせます。  傘鉾の「垂れ」や「飾(だし)」と呼ばれる上部の飾りには、その町の歴史や故事などにちなんだものが施されています。それぞれが長崎の町の歴史を物語っており、興味をそそります。たとえば、本古川町の傘鉾。垂れには、楓や紅葉を散らした秋の風情を背景に、楽太鼓や笙など雅楽で用いられる楽器が描かれています。また、飾には、能楽で使われる〆太鼓や能管、小鼓などが施されています。この傘鉾は、かつて本古川町には多くの楽師が居住し、いろいろな楽器の音曲が流れる賑やかな町であったことを表現しているとのことでした。  大黒町の傘鉾は、大黒様の持ち物である金色の打ち出の小槌が目を引きます。江戸時代からある大黒町の町名が、七福神の大黒様にちなんでつけられたことを表しています。そして、コッコデショ(太鼓山)で知られる椛島町の傘鉾は、江戸時代、同町の乙名であった若杉家が、猿田彦のお面を諏訪神社に奉納したという故事にちなんだもの。飾には諏訪神社を表す金の御幣を置き、前後に猿田彦の赤面、青面が添えられていました。  「傘鉾持ち」が独特の足取りで傘鉾を回すと、重厚な垂れがひらりと舞ってとても美しい。ダイナミックな曳き物や、華麗な本踊とはまた違った味わいで、見物客を魅了します。あまり知られていませんが、傘鉾の垂れが、前日と後日(あとび)で変わる踊町もあります(今年は、本古川町、大黒町、紺屋町)。   ときに修理、新調されながら、時代を超えて使われ続ける傘鉾。踊町の魂がこもった大切な存在に、今後も注目していきたいと思います。

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  • 第555号【めくるめく長崎の秋の行事】

     きょう9月26日は彼岸明け。連休を利用してお墓まいりに行かれた方も多いことでしょう。お彼岸のお供えものといえば、一般的にはおはぎですが、我が家では「ふくれまんじゅう」をよく作ります。薄力粉、砂糖、卵、生イーストをこねた生地に、粒あんを包んだ素朴なまんじゅうです。生地をふくらませるのに甘酒を使った「酒まんじゅう」、炭酸ソーダを用いた「ソーダまんじゅう」のときもあります。こうした手作りのまんじゅうは、いろいろなお菓子が気軽に手に入る時代になっても、根強く人々に求められる力があるよう。長崎県下の津々浦々で、郷土の味のひとつとして食べ継がれています。  郷土料理といえば、最近、ユニークな名前の料理を食べる機会がありました。長崎県の東彼地区(大村湾の北部に面した地域)に伝わる「もみじゃ」という料理です。名前の印象から変わった料理かと思いきや、実際はおふくろの味ともいえる昔ながらの酢の物でありました。キュウリ、ナス、シソの葉などの野菜を塩もみして水気を切り、あれば塩と酢でしめた小アジを加え、甘酢、または酢味噌で和えて出来上がりです。「もみじゃ」の「もみ」は、「揉む」、「じゃ」は「おかず」の意味だとか。夏の疲れが残る身体にうれしい酢の物でした。  さて、お彼岸の期間中に長崎新地中華街では、中国の三大節句のひとつ「中秋節」がはじまりました(9月24日(月)〜30日(日)迄)。「中秋の名月」の日(旧暦8月15日)にはじまる中秋節は、日本でいうお月見の行事のこと。期間中は澄んだ秋空に浮かぶお月さまを楽しめます。新地中華街では、月明かりのもと、満月を模した1000個の灯籠を眺めながら、家族や友人と和やかに歩く姿があちらこちらで見られました。  中秋節が終わり、10月に入ると間もなく秋の大祭、長崎くんち(10月7・8・9日)が行われます。この季節を待っていたかのように、ご近所の庭木のザクロはたわわに実らせました。ザクロは豊穣の象徴や子宝に恵まれるとされる吉木。「ザクロなます」は、昔から伝わる長崎くんち料理のひとつです。「庭見せ」(10月3日に行われるくんち行事のひとつ。本番で使う衣装や道具を踊町がお披露目。祝いの品などが並ぶ)ではお祝いの品のひとつとして並びます。  全7カ町となる今年の踊町(演し物)は、小川町(唐子獅子踊)・大黒町(唐人船)・椛島町(太鼓山)・出島町(阿蘭陀船)・本古川町(御座船)・紺屋町(本踊)。国内外のさまざまな文化が融合する後床絢爛の演し物は、長崎ならでは。例年にない猛暑が続いたこの夏も、各踊町は稽古にはげみました。子供から高齢の方まで、本番に向けて一丸となって汗を流す姿は、胸が熱くなる光景でした。   さあ、この秋も、多彩な催しが続く長崎。日本で育くまれた異国情緒がここにあります。何度もこの町を訪れながら、少しずつ親しんでもらえたら幸いです。

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  • 第554号【冥界へつながる炎、崇福寺の中国盆】

     このたびの北海道地震で被災された方々に心よりお見舞い申し上げます。地震活動の収束を願い、皆様の安全と、一日も早い暮らしとまちの復興をお祈りいたします。  連日30度を超えた日中の暑さもようやくおさまってきました。今回は、夏もそろそろ終わりという時季に行われる崇福寺(長崎市鍛冶屋町)の中国盆をご紹介します。中国盆は旧暦の7月26日から3日間行われる伝統行事です。今年は新暦9月5〜7日にあたり、全国各地から華僑の方々が集い賑わいました。  江戸時代にはじまる崇福寺の中国盆は、380年以上の歴史があるそうです。ご先祖さまの霊だけでなく、動物、植物、昆虫といったすべての生物が供養の対象になるそう。期間中の崇福寺は、日本のお盆とはまた違った唐寺ならでは風情を色濃く映し出します。  3日間の中国盆のなかで、もっとも盛り上がりを見せるのは、やはり最終日に、金山・銀山を燃やして全世界の霊を冥界へ送り出すひとときです。というわけで、最終日の夕方、崇福寺へ向かいました。  山門をくぐり、国宝の第一峰門へつながる石段をのぼっていくと、竹線香の細い煙と匂いが鼻先をかすめました。足元を見ると1本の竹線香が地面に刺さっています。振り返ると、一定の間隔で竹線香が立てられていました。「精霊が迷わずお寺にたどりつくための道しるべですよ」と県外から来たという華僑の男性が教えてくれました。  第一峰門のたもとに設けられた祭壇には、今年も七爺(チーチャ)、八爺(パーチャ)の神像が祀られていました。ふたりは、道教の神さまに仕える身。背が高く色白の七爺は、右手に「見我生財」と書かれた軍配を持っています。「私を見ると財産が生まれるよ」という意味です。八爺は、背が低く黒い肌で大きな丸い目をしています。左手に持った軍配には「善悪終有報」の文字。「善も悪も最後にはそれぞれの報いがあるからね」と、愛嬌のある表情で諭すのでした。  国宝の大雄宝殿(本殿)の前に行くと、各所に設置された祭壇をめぐりながら竹線香をあげて祈る華僑の姿がありました。白いお皿に盛られズラリと並べられたお供えものは、シイタケ、キクラゲ、ナツメ、寒天など、薬膳でもよく使われる食材ばかりで興味をそそります。   夕刻からはじまった長いお経のあと、奉献された金山・銀山、そして衣山が石畳の境内に集められました。金山・銀山は、冥界で使うお金で、衣山は服や帽子、履物などを意味します。それらを燃やすことで故人の霊とともに冥界へ送り出すのです。点火されると間もなく数メートルの炎があがりました。盛大な炎のゆらぎに見惚れる檀家さんや見物人たち。小さな火の粉も消えるまでしっかり見守られたあとは、地元の消防局の出番です。大雄宝殿をはじめ敷地内の建物に念入りに放水。じっくり濡れた崇福寺は、スコールのあとのようなさわやかな空気に包まれました。

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  • 第553号【ご当地の魅力を映すマンホール蓋】

     これまでにない酷暑が続いている平成最後の夏。それでも、お盆を過ぎた頃から、朝晩に秋めいた空気を感じるようになりました。とにかく、元気にこの夏をのりこえて涼しい秋を迎えたいですね。  さて、この夏休み中に親子でダムを訪問し、ダムカード(※当コラム549号をご覧ください)を集めた方もいらっしゃることでしょう。そんなダムカードのように、集めて楽しいのがマンホールカードです。それは、各地のシンボルマークや名所、キャラクターなどがデザインされたマンホール蓋の写真と、デザインの由来や位置座標などが記されたカードで、その目的は、マンホール蓋を通じて下水道の役割を知ってもらおうというものだそう。ちなみにマンホールカードを企画・監修しているのは「下水道広報プラットホーム(GKP)」(事務局:(公社)日本下水道協会)。2年前に30種類のカードを発行・配布して以来、次々に新しい仲間が加わって、現在、全418種類のマンホールカードがあるそうです。(※カードの配布先は各自治体など。GKPのホームページでご確認ください。)  長崎県内のマンホールカードは、現在、5種類(長崎市、諫早市、大村市、佐世保市、大村湾南部流域下水道)。長崎市は、市花「あじさい」がモチーフになったもので、現物は、2ヶ月前、世界遺産になった「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産のひとつ、大浦天主堂のすぐそばにあります。  マンホールカードにはなっていませんが、出島をモチーフにしたマンホール蓋もあります。1690〜1692年に来日したオランダ商館医ケンペルが描いた出島のイラストがモチーフになったもの。まさか300年以上も前のイラストがこんな形で後世に蘇るとは、ケンペル自身も驚くにちがいありません。  この8月に配布されたばかりの大村湾南部流域下水道のマンホールカードは、長崎県の花木として指定されている「つばき」がモチーフになっていました。背景には波静かな大村湾の美しい海をイメージさせるデザインが施されています。先日、このマンホールカードをもらうために(1人1枚)配布先の大村湾南部浄化センター(諫早市)へ行ったら、関東方面から来た人もいて、マンホールカードの人気ぶりがうかがえました。大村湾南部浄化センターの玄関には、マンホールカードとして発行された「つばき」と「諫早眼鏡橋と諫早菖蒲」の現物が展示されていました。  マンホールカードにはなっていませんが、諫早市には長崎県をホームタウンとするプロサッカーチーム「V.ファーレン長崎」のマスコットキャラクターを描いた「ヴィヴィくんのマンホール蓋」があります。諫早駅からトランスコスモススタジアム長崎(長崎県立総合運動公園)までのV.ファーレンロードに4つ設置されています。   長崎県内でも個性が光るデザインが目白押しのマンホール蓋。全国各地で観光振興にもつながっているようです。マンホール蓋への注目が、その蓋の下にある下水道の大切な役割を知るきっかけになるといいですね。

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  • 第552号【長崎風ゴブサラダ】

     連日30度を超える猛暑のなか、きのう立秋を迎えました。夜風に涼しさが感じられ、鈴虫の声も聞こえるように。季節が次へ向かっているのを感じてホッとしますね。とはいえ、日中の暑さはとても厳しい。日々の食事作りも、「暑さで台所に立つのがおっくうなのよ」という声をよく耳にします。そこで、夏の食事作りが楽しくなる「皿うどんサラダ」を使った一品をご紹介します。火や電気の使用は最小限度におさえ、猛暑をのりきるための栄養もしっかりとれる「長崎風ゴブサラダ」です。  「ゴブサラダ」は、ハリウッド発祥といわれるサラダです。ゴブさんという人が、冷蔵庫に残っていた有り合わせの食材で作ったのがきっかけだとか。鶏肉、アボガド、トマト、レタス、チーズ、ベーコン、ゆで卵などを一口大にカットし、トレイにストライプ状に並べるのが本場アメリカでの定番スタイルだそうです。ゴブサラダの具材にこれといった決まりはないそうですが、アボガドは欠かせません。森のバターとも呼ばれるほど栄養価が高いアボガドは、ビタミンやミネラルをバランス良く備えていて、夏場の疲労回復にもいいといわれています。  「長崎風ゴブサラダ」は、サクサクと口当たり軽やかな「みろくやの皿うどんサラダ」(中華麺)とアスパラガス、ジャガイモ、トマト、ゴーヤなど長崎産の新鮮な野菜をたっぷり使いました。野菜をさっとゆでたり、ベーコンを焼く程度の調理はありますが、食材をカットして彩りよく盛るのが主な作業です。「皿うどんサラダ」に付属の白胡麻ドレッシングをかけていただきます。  今回使った長崎産の野菜は、歴史的にも長崎にゆかりがあります。アスパラガスは江戸時代にオランダ船で運ばれてきたのが最初といわれています。当初は観賞用で、日本にもともと自生していたキジカクシという植物に似ていたことから、「オランダキジカクシ」と呼ばれたそうです。現在、長崎県のアスパラガスは全国で4位の生産量。長崎では春と夏の2回収穫期があり、冬場に養分をためる春アスパラガスは緑色が濃く甘みが強い。いま出回っている夏アスパラガスは、淡い緑色で根元までやわらかくみずみずしいのが特長です。薬膳の世界では、ほてりや喉の乾き、食欲不振などに効果があるといわれています。  夏野菜を代表するトマトの原産地は南米。17世紀末にオランダ船が長崎に運んできたのが最初といわれています。見た目から「赤なす」と呼ばれ、こちらも当初は観賞用であったとか。そして、健康野菜として知られるゴーヤは、トマトのような歴史的なゆかりはありませんが、近年では長崎県内の農作地帯として知られる島原半島を代表する農産物のひとつになるほど、品質に定評があります。  ジャガイモは、北海道に次ぐ第2位の生産量を誇ります。島原半島が主な産地で、皮がうすくて煮崩れしにくく、本当ににおいしい。長崎とジャガイモの出会いは、400年ほど昔の南蛮貿易時代。ポルトガル船がジャガトラ(現在のジャカルタ)から運んできたのが最初といわれています。   カラフルな食材を並べていく作業も楽しい長崎風ゴブサラダ。ふるさとゆかりのエピソードを語りながら、子供たちと作ってみませんか。

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  • 第551号【電停の名まえが変わる2018夏】

     猛暑が続いています。西日本豪雨の被災地では、いまも大勢の方々が復旧作業にあたっています。無事に作業が進み一日早くもとの暮らしにもどれますよう心からお祈りいたします。  夏休みがはじまって、長崎では路面電車を利用する観光客にまじって地元の子供たちの姿も目立つようになりました。通勤や通学、お買い物など長崎市民にとって大切な生活の足である長崎電気軌道の路面電車。大正4年(1915)11月に長崎のまちを走り出して以来、今年で103年目を迎えます。  長崎の路面電車は現在、4つの路線で市中心部を巡っています。電車停留場(以下、電停)は全39カ所。そのうち13カ所の名称が8月1日から変わることになっています。より分かりやすく、利便性を高めるために行われる今回の電停名称変更は、次のとおりです。1.「長崎大学前」→「長崎大学」2.「浦上車庫前」→「浦上車庫」3.「松山町」→「平和公園」4.「浜口町」→「原爆資料館」5.「大学病院前」→「大学病院」6.「築町」→「新地中華街」7.「正覚寺下」→「崇福寺」8.「賑橋」→「めがね橋」9.「諏訪神社前」→「諏訪神社」10.「市民病院前」→「メディカルセンター」11.「大浦天主堂下」→「大浦天主堂」12.「西浜町(アーケード入口)」→「浜町アーケード」13.「公会堂前→市民会館」(※公会堂跡地に新市庁舎が完成したら「市役所」(仮称)に変わるそうです。)  名称が変わる電停を何カ所か訪ねました。もうすぐ「めがね橋」となる「賑橋」電停。実際の賑橋、めがね橋は中島川にかかる橋で、この電停からそれぞれ徒歩2分ほど。めがね橋から200メートルほど下流に賑橋が架かっています。現在の賑橋は鉄筋コンクリート造りの道路橋ですが、その歴史をひもとくと、長崎らしいエピソードに彩られていました。  江戸時代初め、同場所には木の橋が架けられていましたが、江戸中期になり「榎津橋」という石造りのアーチ橋が架けられました。これは、貿易で財を成した帰化唐人、何高財(が こうざい)の寄進によるものと伝えられています。その石橋は明治後期に架け替えられ、そのとき「賑橋」と名称が変わったそうです。ちなみに、何高財の息子の何兆晋(が ちょうしん)は、片淵に茅葺屋根の別宅「心田庵」(市指定史跡)を建てたことで知られています。  「築町」の電停も最寄りの観光スポット「新地中華街」という名称に変わります。「築町」は、路面電車が走り出した大正4年当初からある電停です。現在の電停所在地は「銅座町」ですが、当時は「築町」だったのでしょう。ちなみに「築町」自体は南蛮貿易時代からあるたいへん古い町名です。   今回の電停巡りでは、電車一日乗車券を使ってとってもお得に楽しめました。余談ですが、電停の標識が、レトロ調のモスグリーンで縁取られたタイプばかりと思っていたのですが、実は数タイプあることに初めて気付きました。「諏訪神社前」の電停は、門前電停らしいデザイン。何事も、見ようとして見なければ、気付かないものなのですね。

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  • 第550号【島々とつながる長崎港ターミナルビル】

     西日本各地での記録的豪雨の被害にあわれた方々に心よりお見舞い申し上げます。浸水した家屋やライフラインなどの復旧がすすみ、一日も早く元の生活にもどられることをお祈りいたします。  長崎県の大雨警報が解除されたあと、眼鏡橋など複数の石橋が架かる中島川へ行ってみました。中島川は長崎市中心部を流れる川。1982年(昭和57)の長崎大水害のとき、石橋群は半壊や全壊などの大きな被害を受けました。その後、河川の拡幅工事と同時に、崩壊した石橋も再建。その際、二度と水害の被害にあわないようにと橋の両岸側に石段を設け、渡る位置を高くするなどの工夫が施された石橋もいくつかありました。そうした橋は、ふだん渡るときには石段を上がるのがおっくうに感じられるのですが、台風や大雨で中島川が濁流と化したとき、石橋にしぶきさえかけることなく流れていく様子を見ると、日頃の渡りづらさも忘れて、ほっと胸をなでおろすのでした。  中島川を下流へすすむと長崎港へ出ます。その河口近くにある長崎港ターミナルビル(長崎市元船町)は高島、伊王島、五島列島などの島々と長崎市街地を結ぶ航路の拠点です。美しい海と浜辺を擁する島々は、これから観光シーズン。しかも、今年は6月30日に「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界文化遺産に決定したこともあり、その構成資産の一部(野崎島の集落跡、頭ケ島の集落、久賀島の集落、奈留島の江上集落など)を有する島々をめざす人々も増えると思われ、この夏の長崎港ターミナルビルは、例年以上に賑わうことになるのでしょう。  1995年(平成7)、長崎港湾の再開発の一環で建てられた長崎港ターミナルビル。楕円形の大きな断面を持つ筒状の形やギザギザの屋根部分などいろいろな造形が合体した構造をグレーやメタリックでまとめた外観は、竣工から4半世紀近く経ったいまもモダンな印象です。建築設計者は高松伸という方で、ポストモダンを代表する建築家のひとりだそう。長崎港ターミナルのホームページで施設の概要をみると、この建物の通称は「Big Bitt(ビッグビット)」とありましたが、地元では昔からのなごりで「大波止ターミナル」と呼ぶ人が多いようです。  館内に入ると、海側に設けられた広い窓から港湾の景色を一望、大きな筒状のコンクリート柱が並ぶ1階待合室、差し込む日光の加減で豊かな表情をみせる2階の天井部分など、非日常的な空間が旅気分を盛り上げてくれます。また、1階エントランスと2階の待合室の一角には、2015年(平成27)に世界遺産に登録された「明治日本の産業革命遺産」、そして、今回の「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」に関連するパネルを展示。このターミナルビルからは、「明治日本の産業革命遺産」の構成資産のひとつであるジャイアント・カンチレバークレーンが目の前に見えます。さらに、旧グラバー住宅があるグラバー園や「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産のひとつである大浦天主堂も一望できます。   島々への航路を利用しなくても、長崎市内の観光がてら、散歩がてらに寄りたい長崎港ターミナルビル。ターミナル内の食事処や売店は、朝7時には開いています(夕方17時まで)。お出かけになってみませんか。

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  • 第549号【月と金星と、本河内ダム】

     6月16日夜8時頃に西の空を見上げると、三日月と金星が並んで輝いていました。カメラで撮ったその月をよく見ると、影の部分がうっすらと光って見えます。これは地球からの反射光が月の影の部分を照らすために起こる現象で、「地球照」と呼ばれるものだそうです。  星空にも季節があって、日々天体ショーを繰り広げながら夏へと移行しています。きょう6月27日は美しいリングを持つ土星が、「衝」(地球より外側をまわる惑星が太陽と正反対の位置に来るとき)を迎え、観察しやすい時期に入ります。ちなみに明日28日夜9時頃、晴れれば南東の空に満月とそのすぐ右側に土星を確認できることでしょう。  さて、まだまだ雨の日が続いていますが、この季節の雨水を盛夏期にむけてしっかり貯めているのがダムです。ダムといえば長崎市には、昨年7月に国の重要文化財に指定されたものがあります。眼鏡橋がかかる中島川の上流にある本河内水源地水道施設(本河内高部ダムと本河内低部ダム)です。  本河内高部ダム(長崎市本河内3丁目)と本河内低部ダム(長崎市本河内2丁目)は、長崎市街地を囲む山あいの一角にあります。路面電車の蛍茶屋電停から本河内高部ダムまで徒歩約20分、そこより下流に位置する本河内低部ダムまでは徒歩10数分。生活圏のすぐそばにあるダムです。  長崎市のHPによると、「本河内水源地水道施設は、わが国における最初期の近代水道施設であるばかりでなく、貯水池を備えた水道施設のはじまりであり、水道史上価値が高く、先駆的土木技術を駆使したわが国最初期の近代水道施設といえる」とありました。  本河内高部ダムは、明治24年(1891)、横浜・函館についで3番目の近代水道施設として建設されました。日本人(吉村長作)による設計・施工としては日本初のダムだそうです。ダム建設のきっかけは、幕末に外国人居留地がつくられた長崎には、海外と貿易が行われる一方で伝染病もたびたび流入。衛生的な水道施設の必要性が高まったからだそうです。その後、人口増加により水道を拡張。明治36年(1903)に本河内低部ダムが日本で2番目のコンクリート造の水道ダムとして誕生しました。 先に完成した本河内高部ダムは、主に土を用いて形成された土堰堤(どえんてい)といわれる造りで、青い草に覆われていました。コンクリート造の本河内低部ダムとの大きな違いです。高部ダムの近くには石造りのアーチ状の山門で知られる妙相寺があります。この山門は、もとは長崎街道沿いにあったものが、ダム建設のときに現在地に移されたそうです。   両ダムの敷地内には公園も整備。周囲の豊かな緑とともにのんびりできるスポットになっています。余談ですが、このダムを管理する長崎県では、昨年、県管理ダム37基(内2基は建設中)のダムカードを作成。本河内高部ダムと本河内低部ダムについては、通常タイプのダムカードに加え、重要文化財に指定された記念としてプレミアムダムカードもあるそうです(ダムカード配布については条件があります。長崎県河川課のHPでご確認ください)。防災や生活用水の供給などわたしたちの暮らしを支えるダム。ときには訪れてみるのもいいかもしれません。

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  • 第548号【本蓮寺のハス】

     ザクロの花が咲きはじめた6月1日、長崎くんちの「小屋入り」が行われました。「小屋入り」とは、その年の踊町の世話役や出演者などが諏訪神社と八坂神社へ参殿して清祓いを受け、演し物の稽古に入るとされる日です。今年の踊町(演し物)は、小川町(唐子獅子踊)・大黒町(唐人船)・椛島町(太鼓山)・出島町(阿蘭陀船)・本古川町(御座船)・東古川町(川船)・紺屋町(本踊)の七ケ町。これからどんどん暑くなるなか、秋の本番にむけて、きびしい稽古がはじまります。そんな踊町のがんばりを大勢のくんちファンや市民が見守っています。  「小屋入り」の日の長崎は、梅雨入りして間もない頃でしたが初夏のさわやかな天候にめぐまれました。6月中旬の現在、北海道をのぞくすべての地域が梅雨入り。ジメジメした空気は気分を沈ませがちですが、屋外に目をやれば、しっとりとぬれた若葉の茂りは美しく、雨粒にうたれるアジサイは涼しげで、心に晴れ間が広がります。  いま見頃のアジサイに続き、これから開花の時期を迎えるのがハスです。数日前、長崎駅近くにある聖林山本蓮寺(長崎市筑後町)を訪れたとき、ハスを植えた大鉢がいくつも並べられ、境内はまるでハス園のようでした。ハスの花の見頃は7月初旬なので、まだ花の数も少なかったのですが、明るいグリーンの大きな葉っぱが参拝に訪れた人の目を楽しませていました。  泥の水のなかから生まれ、清浄な美しい花を咲かせるハスは、仏教の世界では、仏の智慧や慈悲の象徴とされているそうです。しかも本蓮寺は、お寺の名前のなかに「蓮(ハス)」があり、この花との強いご縁を感じます。ちなみにハスの花は、早朝に開き、昼過ぎには閉じてしまいます。この時期の本蓮寺への参拝は、午前中がおすすめです。  ところで、本蓮寺は長崎の歴史に興味のある人なら檀家でなくとも幾度も訪れたくなるお寺のひとつです。創建は江戸時代初期の1620年。この場所は、長崎の南蛮貿易時代(安土桃山時代)につくられたサン・ラザロ病院、サン・ジョアン・バプチスタ教会の跡地でした。病院と教会は、キリスト教の禁教令によって1614年に破壊されましたが、当時、南蛮人によって掘られた井戸は、現在も本蓮寺の一角に残されています。  創建後、大村藩や長崎代官から資金を得て寺地を増していった本蓮寺は、1648年に朱印地に指定され、長崎三大寺のひとつとして重要な役割を果たしていました。敷地内にあった大乗院という末寺は、長崎を訪れた幕臣などが宿舎として使用したようです。1805年、長崎奉行所勘定役として着任した大田直次郎(南畝)は2ヶ月ほど滞在。直次郎は、蜀山人という名で狂歌師、洒落本の作家として江戸で活躍した人物です。また、その50年後の幕末には、海軍伝習所の伝習生であった勝海舟が4年ほど滞在しています。  本蓮寺の後山には、長崎奉行や長崎代官をはじめ、長崎南画の三筆のひとり三浦悟門、海援隊の沢村惣之丞など、江戸時代の長崎で活躍した人々のお墓があり、そうした史跡を訪ねる人の姿が後を絶ちません。   江戸時代から続く由緒ある本蓮寺の本堂や諸堂は、残念ながら原爆のときに消失。現在の建物は戦後、再建されたものです。痛烈な諸行無常を味わった本蓮寺。ハスの花は昔もいまも変わらぬ美しさで、人々を見守っているようでした。

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  • 第547号【ビワの季節】

     梅雨入りを前に、長崎の家々の軒先ではアジサイが咲きはじめました。庭や歩道脇に植えられたビワの木もたくさんの果実を実らせています。あらためて見ると長崎は、ほかの九州のまちと比べてもアジサイとビワの木がとても多い気がします。温暖な気候に合っているというのはもちろんですが、アジサイは、出島のオランダ商館医シーボルトゆかりの花として、長崎市の花に指定されていることもあり、地元の人にとってはとくに親しみのある植物です。そして、ビワも江戸時代に中国から長崎に伝えられたものが、長崎市茂木地区を中心に生産される「茂木ビワ」として育まれ、いまでは全国一の生産量を誇っています。こうした歴史的背景が長崎のまちや人々のなかに根付いた大きな理由なのでしょう。  ジューシーでやさしい甘さが特長のビワは、昔から咳やノドの痛みに効果があるといわれています。ビワの果肉には体内でビタミンA(粘膜や皮膚の健康維持、視力維持などの働きがある)に変換されるβ-カロテン、βクリプトキサンチンを含み、さらにビタミンB群、りんご酸、クエン酸、ビタミンCなど身体にうれしい栄養素が含まれています。夏に向かう身体づくりに役立つビワ。旬を逃さず、積極的に食べたいフルーツです。  たわわに実ったビワから視線を下ろすと、赤い小さな穂をつけた植物が石垣をおおっていました。その姿からクローバの仲間の「ストロベリーキャンドル」だと思ったのですが、よく見ると様子が違います。赤い穂は、エノコログサのようにフサフサで、葉もクローバー系ではありません。「キャッツテール」という植物でした。原産地は西インド諸島。四季咲きの多年草で、近年、観賞用として人気のようです。  中島川にかかる石橋のひとつ桃渓橋でもかわいい花を見つけました。石と石の間に根を下ろしたその植物は筒状の黄色い花をいっぱい付け、葉はセリに似ています。これは、たぶん「キケマン」という植物。ケマンは、寺院のお堂を飾る「華鬘(けまん)」からきたもので、花の形がそれに似ているからだとか。紫色をした「ムラサキケマン」とともに山地や平地でときどき見かける植物です。  小さくかわいらしい「キャッツテール」や「キケマン」とは対照的ともいえる大きな花が公園に咲いていました。「タイサンボク」の花です。直径50〜60センチほどの大輪で、厚みのある白い花弁はクリーム色をおびています。花の中央には円錐状になったオシベとメシベが鎮座。その姿にはどこか雄々しさが感じられます。そんな花の印象が気になって調べてみると、「タイサンボク」は1億年以上も前(白亜紀)に出現したモクレン科の広葉樹で、その頃の「花」の形を現代まで残しているとのこと。1億年前といえば、恐竜の時代。なんだかスゴイ話です。   さて、日に日に夏めくなか、季節とばかりに花から花へと舞っているのはアゲハチョウです。ひと口にアゲハチョウと言っても、漆黒の翅(はね)が美しいクロアゲハ、黄色の地に黒の線と青や橙色の文様の入ったキアゲハ、黒地に赤、白、橙色の文様があるナガサキアゲハ、青や緑など色彩豊かなカラスアゲハなどいろいろな種類がいます。チョウのなかでもアゲハチョウの飛ぶ姿は大人びた優雅さがあります。ちょっと観察してみませんか。

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  • 第546号【5月の陽気に誘われてまち歩き】

     5月5日の端午の節句、さわやかな陽気に誘われてまちへ出ると、商店街の一角で菖蒲の葉を売る人の姿が。「そうそう、菖蒲湯に入らねば!」と思って近づくと、山と積まれた菖蒲の葉とともに、蓬(よもぎ)と茅(カヤ)を束ねたものもありました。「これは?」と露店のおばさんに尋ねると、「このあたりの風習で、端午の節句に軒先に3束ほどをぶらさげるとけど、知らんとね?」。「初めて聞きました」。「ああ、そうね。お年寄りのいる家では、まだやっているところも多いよ。でも、いま頃はビルに住む人の多かけん、こういうことをする家も少なかね」と残念そう。邪気払いの意味があるという蓬と茅の束には、菖蒲の葉も数本添えて軒先に下げるそうです。あとで調べてみると、端午の節句のこうした風習は全国的にあるようでした。  菖蒲の葉を買い物袋におさめてまち歩きを続けると、どこの公園でもベンチに座ってのんびりと過ごす人々の姿が見られました。若葉を茂らせた公園のクスノキは、その香りを風にのせてまちじゅうをリラックスさせているよう。クスノキを根元から見上げると、幹や枝の表面にはノキシノブが群生していました。ノキシノブは細長い葉を持つシダ植物の一種。家屋の軒端に忍ぶように生えることからノキシノブという名前が付けられたそうで、和歌にも詠まれた植物のひとつです。クスノキの樹皮はほどよい厚みがあって、縦横に裂けているので、ノキシノブが着生しやすい環境なのでしょう。樹皮はところどころコケにもおおわれ、いろいろな植物の生命の営みが感じられました。  クスノキの近くでは、スズメの親子とも遭遇。親鳥はたいへん子煩悩で、卵からかえると1日に300回近くもヒナにエサを運ぶそうです。巣立ったあともしばらくはエサを与えます。見かけた親子もちょうどそんな時期。幼鳥がクチバシを大きく開けて、親鳥にエサをちょうだいとアピールしていました。野鳥ガイドブックによると、スズメは桜の咲く頃に産卵。ヒナを育てあげると、夏の終わり頃までに、もう1、2回次の子育てを行うそうです。「チュン、チュン」という鳴き声とともに、日々見かけるスズメですが、実は知らないことだらけだなあと思いました。   長崎港へ出て、オレンジ色の大きな球体が目立つ「ドラゴンプロムナード」へ。船着場のそばにあるこの建物は、貨物上屋(かもつうわや)。つまり、港に入る荷物を一時置いておく倉庫なのですが、建物の上部は催しなどが行えるスペースがあり、最上部には展望デッキが設けられています。とはいえ、建物の一部にさえぎられて港湾や市街地を思う存分一望することはできません。ただ、新しく建てられた長崎県警と長崎県庁が並んで建つ景色は、ここからがいちばん見やすいかもしれません。その眺めを楽しんでいた時、ふと、長崎県庁の屋上ではためくものに気付きました。その日が端午の節句だったこともあり、「もしや、鯉のぼり?」と思ったのですが、望遠レンズで撮ってみると、風観測に使用する吹き流しだと分かりました。後日、県庁の広報課に問い合わせてみると、屋上にはヘリポートがあり、風向きと風速を知るために常時、吹き流しを設置しているそうです。その大切な役割はさておき、この日の吹き流しは、五月の風にあおられて、鯉のぼりさながらたいへん気持ち良さそうでありました。

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  • 第545号【緑まぶしい行楽シーズン!】

     さわやかな陽気のなか、風が若葉の香りを運んできます。長崎港をかこむ山々は、すっかりまぶしい緑に包まれました。長崎では大型連休を前に「長崎帆船まつり」(4/19〜23)が行われ、ロシアの「パラダ」(全長約110m)、日本の「みらいへ」(全長約52m)、そして長崎港に停泊している「観光丸」(全長約65.8m)が出島岸壁に集いました。帆を広げた帆船の姿は勇壮で、感動的。期間中の土日には花火も打ち上げられ、長崎港はおおいに賑わいました。  5月5日端午の節句も近づいて、あちらこちらで鯉のぼりを見かけます。長崎歴史文化博物館(長崎市立山)の広場には、今年も「長崎式鯉のぼり」が立てられていました。江戸時代にさかのぼるというその形式は、杉の木を支柱に、強くしなる笹の旗竿を斜めにかかげたもので、風を受けたとき旗竿がぐるりと動いて、鯉も気持ち良さげに空中を泳ぎます。そして、支柱にはもうひとつ、中国由来の魔除けの神さま「鍾馗(しょうき)」を描いた幟(のぼり)もかかげられていました。ちなみに、同博物館の幟の「鍾馗」は、江戸時代後期の長崎の南画家、三浦梧門の「鍾馗図」をもとに描いたものだそうです。  江戸時代の日本庭園と茶室が残る「心田庵」(長崎市片淵)も春の一般公開が行われています(4/20〜5/8迄)。茅葺屋根の佇まいに和む心田庵。庭に向かって開かれた和室から庭園を一望すると、青葉のうるおいに心まで満たされるよう。和室のテーブルに映り込むもみじも美しく、日々の雑務をしばし忘れさせます。庭の奥にはかなりの樹齢と思われるマツやマキノキ、クスノキがみられます。いろいろな時代をくぐりぬけてきたこの庭園の生き証人たちです。  心田庵は、寛文8年(1668)頃、何 兆晋(が ちょうしん:?〜1686)という人物の別荘として建てられたもの。兆晋の父は福建省出身の帰化唐人で、寛永5年(1628)に長崎に来て中国との貿易で財をなした大富豪。石橋(賑橋)の寄進をはじめその長男であった兆晋とともに清水寺本堂(長崎市鍛冶屋町)を建立するなど、当時の長崎のまちづくりに尽力した人物でした。  兆晋は、10年ほど勤めた唐通事を退役し、心田庵で風雅な生活を送るようになりました。七弦琴の名手でもあった兆晋には、さまざまな文化人との交流があったようです。そのひとりに長崎出身の儒学者、高 玄岱(こう げんたい:1649〜1722)がいます。玄岱は、当時の心田庵の様子や兆晋の人柄などが偲ばれる漢詩「心田菴記」を書き残しています。  玄岱はもともと唐通事でしたが、儒学や医学を学び、書家としても知られていて、宝永6年(1709)新井白石の推挙で江戸幕府の儒官になった人物です。心田庵とは別の話になりますが、今年、玄岱直筆の巻物が約100年ぶりに確認されています。それは、かつて聖福寺(長崎市玉園町)界隈にあったとされる「鏜山(とうざん)」という広大な庭園についた記したもので、巻物のタイトルは『鏜山游記』。「鏜山」は、江戸時代にまとめられた『長崎名勝図絵』のなかでも紹介されるほどの名園でしたが、『鏜山游記』の行方が分からなくなっていたこともあり、現在では、研究者以外で、その存在を知る人はほとんどいなかったようです。『鏜山游記』は、「鏜山」の名前の由来や庭園の様子などが記されていて、当時の長崎の様子がうかがえるたいへん貴重な史料だそう。玄岱の書は、端正で品のある崩し文字。研究者の解読、解説が待たれるところです。 

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