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  • 第387号【平成23年長崎くんち情報】

     コオロギやスズムシたちの声が涼やかに響く夜。暑かった夏のことなどすっかり忘れてしまいます。そろそろ秋祭りシーズンもはじまったようで、新聞やテレビニュースなどで各地の祭りの様子が伝えられています。ここ長崎でももうすぐ370余年の伝統を持つ「長崎くんち」(国指定重要無形民俗文化財)がはじまります。  「長崎くんち」は長崎市民の総鎮守である諏訪神社の秋の大祭です。毎年10月7・8・9日の3日間にわたって多彩な演し物(奉納踊り)が繰り広げられます。演し物は、「踊り町」と呼ばれるまちの人々によって奉納されます。「踊り町」は現在全部で40数カ町(江戸時代はもっと多かった)。そのうちだいたい5~7カ町が7年に1回当番になって、それぞれのまちに伝わる演し物を披露します。  今年の「踊り町」は、紺屋町(こうやまち)、出島町(でじままち)、東古川町(ひがしふるかわまち)、小川町(こがわまち)、本古川町(もとふるかわまち)、大黒町(だいこくまち)樺島町(かばしままち)の6カ町です。本番まで1カ月を切った9月下旬ともなれば、どのまちも総仕上げの段階です。各踊り町の練習場へ足を運んでみると、本番さながらの緊張感が漂っていました。  演し物をご紹介します。紺屋町は、眼鏡橋がかかる中島川沿いにあり、江戸時代には唐船が運んで来る白糸や染料で染め物業を営む人が多かったことにちなんだ町名です。当時、同川沿いには本紺屋町、中紺屋町、今紺屋町と3つの町があり、異国風の染め物で「トウジンクウヤ」と称されるほど繁盛していたとか。現在の紺屋町は、江戸時代に隣接していた中紺屋町、今紺屋町を中心に戦後、編成されたものです。奉納される「本踊り」は、江戸時代の染め物職人の暮らしぶりを再現。見どころのひとつは、白く長い布を使った舞い。かつて中島川で行われた布さらしを表現したものだそうです。  出島町は、文字通りかつてオランダとの貿易の窓口だった出島があったことにちなんだ町名です。華やかで重厚感のある阿蘭陀船を中心に、西洋と東洋が出合うドラマチックなストーリー展開で観客を魅了します。阿蘭陀船は通常の曵き回し以外に、「オルゴール回し」と呼ばれる超スローな曵き回しが見どころのひとつです。12人もの子供たちが囃子方として乗船。シンバル、ドラム、そしてベルリラという鉄琴などを使って、無国籍風の音楽や長崎の昔歌を奏でます。はるばる海を渡ってやってくる阿蘭陀船の光景や東洋と西洋が入り交じるイメージと重なる音楽です。  東古川町の演し物は「川船」です。男衆が舟歌をうたう中、子供の船頭が網を打つシーンは、このまちならではの演出です。小川町は華やかでコミカルな動きが魅力の「唐子獅子踊り」。本古川町は豪快な曵き回しが見逃せない「御座船」、大黒町は豪華絢爛な「唐人船」、樺島町は今年唯一の担ぎもので、エネルギッシュで粋な「太鼓山(コッコデショ)」です。「長崎くんち」は、ぜひ、映像ではなく生でご覧下さい。370余年も受け継がれて来た理由と魅力がわかります。   ◎参考にした資料/平成23年版の長崎くんちプログラム(通称:赤本)

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  • 第386号【長崎ゆかりのイチジク】

     先日の台風12号は大きな爪痕を残しました。被害にあわれた皆様に心よりお見舞い申し上げます。台風シーズンはもうしばらく続きます。それぞれのご家庭で、防災の備えをあらためて確認してみませんか。  さて、日中は残暑が厳しいものの、朝夕に心地よい秋風を感じるようになりました。店頭ではナシやブドウなど旬のくだものがおいしそうに並んでいます。そのなかに赤ワイン色に熟したイチジクの姿を見つけました。  イチジク(クワ科の落葉小高木)の原産はアラビア半島。紀元前3000年頃にはすでに栽培されていたといわれ、聖書ではアダムとイブがイチジクの葉を身に付けたことでも知られています。かなり古くから人間と関わりがあったイチジクですが、日本へ持ち込まれたのは寛永年間の頃(1621~1643)。西南アジアからオランダ船によって長崎に運ばれたのが最初なのだそうです。  ところで、イチジクは「無花果」と書きますが、けして花が無いわけではありません。実の内側にたくさんの花を付け、外側から見えないところから、そう名付けられたようです。あの内側につまった赤いツブツブが実は花だったのですね。 それにしても、中国名の「無花果」と書いて、なぜ「イチジク」と呼ぶのか気になるところです。一説には、一カ月かけて熟すところから「一熟」と呼ばれ、その読みを漢字に当てたのではないかといわれています。また、イチジクは「南蛮柿」、「唐柿」などとも呼ばれるそうで、もしかしたらオランダ船だけでなく、唐船も運んで来ていたのかもしれません。  「不老長寿のくだもの」といわれるほど栄養価が高く薬効もあるイチジク。葉や実は、日本に渡ってきたときから薬として用いられていました。たとえば、便秘をはじめ喉の痛みなどの炎症を抑えるなどの効果があり、お酒を飲んだあとに食べると二日酔いの予防にもなるそうです。いまは乾燥させたものが一年中手に入りますが、生のものは日持ちがしないので、多めに手に入ったらジャムにするといいかもしれません。  ところで「不老長寿のくだもの」というと、「ザクロ」もそうです。実の内側にたくさんつまった種子の様子はイチジクにも少し似ています。独特の酸味と甘味がある、ちょっと高価な果実です。長崎くんちの踊り町が10月3日に行う「庭見世」の際、縁起のよい秋の味覚のひとつとして豪華に飾られます。ザクロを使ったナマスもくんち料理のひとつとして親しまれています。  長崎ゆかりのイチジク、そしてザクロ。旬のおいしさを味わってみませんか。   ◎参考にした資料/「生活情報シリーズ⑨くだものの知識」(国際出版研究所 発行)、「からだによく効く食べ物事典」(三浦理代 監修)、「ながさきことはじめ」(長崎文献社 編) 

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  • 第385号【長崎の洋風建築を見て歩く】

     カーンと晴れた夏空のもと、冷たい麦茶を入れた水筒を片手に、南山手、東山手、大浦地区へ行ってきました。そう、ここは幕末~明治期に外国人居留地として造成されたところ。長崎港を見下ろす丘陵地から海岸にかけて位置し、数々の洋風の建物や石畳、レンガ塀など、居留地時代の佇まいが残り、国の「重要伝統的建造物群保存地区」にも定められています  安政の開国後、自由貿易港として大いに繁栄した長崎。居留地を中心に洋風の建物がどんどん建てられ、明治時代になるとその数は数百棟に及んだとも言われています。しかし、現在この一帯で確認できる洋風の建物は約50棟(「長崎居留地~東山手・南山手重要伝統的建造物群保存マップ~」)。戦後しばらくは、いまよりも残っていたようですが、老朽化や新しいまちづくりなどのために次々に取り壊されていきました。  現在、東山手には活水学院本館、7棟の洋風住宅群、旧英国領事館などの建物があります。南山手にはグラバー邸など複数の洋風住宅を擁したグラバー園があり、大浦天主堂や複数の私邸なども残っています。かなり減ったとはいえ、長崎は函館、横浜、神戸と比べて数は多く、比較的良好な状態で残っているそうです。  ひとくちに洋風の建物といっても、木造をはじめ、石造り、レンガ造りなどがあり、構造も平屋建て、二階建て、三階建てなどさまざまです。東山手、南山手から下った大浦海岸通りには、明治後期のレンガ造りの建物、「旧長崎英国領事館(国指定重要文化財)」がひっそりと佇んでいます。1908(明治40)に造られたこの建物は、上海の英国技師、ウィリアム・コーワンの設計によるもので、地元大浦町の後藤亀太郎が施工。ヴィクトリアン・ゴシックといわれる様式を基調としたもので重厚な雰囲気が漂っていますが、正面両端に設けられた丸窓は、バッチリと付けまつげを施した女性の目のようで、かわいらしくもあります。  旧長崎英国領事館から徒歩2分。大浦海岸通り沿いには1898年(明治31)完成の「旧長崎税関下り松派出所」(現「長崎市べっ甲工芸館」)があります。こじんまりとした平屋建てで、一見日本家屋のようでもありますが、れっきとしたレンガ造りの洋風建築です。半円アーチを描く出入り口、両端の三角破風(はふ)など、甘くないキリッとした表情が素敵です。 「旧長崎税関下り松派出所」のそばで、ひときわ大きく華やかな表情で建っているのが「旧上海香港銀行長崎支店」(現・旧上海香港銀行長崎支店記念館)です。レンガ造りおよび石造りの三階建て。1904年(明治37)竣工。明治期から昭和初期にかけて活躍した異才の建築家、下田菊次郎が設計した国内唯一の遺構でもあります。正面に見える4本の円柱はコリント式と呼ばれる古代ギリシャ建築の建築様式のひとつで、同じ様式のローマのパンテオンを彷彿させます。  明治期に建造された洋風の建物を見ていると、近代化に突き進んだ時代の勢いと同時に、建築に携わった日本の大工さんたちの心意気を感じます。そうした時代のしずくとしてかろうじて残った洋風の建物たち。何度でも足を運びたくなる魅力にあふれていました。  ◎参考にした資料/「長崎の洋風建築」山口光臣著(長崎市教育委員会)、「長崎居留地~東山手・南山手重要伝統的建造物群保存マップ~」(長崎市教育委員会) 

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  • 第384号【狛犬いろいろ】

     気象台から発表された3カ月予報によると、今月の気温は平年並みですが、9月、10月の気温は平年より高めで、残暑はとても厳しくなりそうだとか。バランスのとれた食事で夏バテ防止を心がけたいものです。いま、はまっているのがいつものちゃんぽんに、白菜キムチをたっぷりトッピングして食べること。白菜キムチの辛味、酸味がちゃんぽんスープに溶け込むと、これまた美味。野菜もたっぷりとれ、気持ちのいいほど汗も出てスカッとします。  さて、この季節、夏祭りやご先祖様の供養などで神社やお寺へ出かける方も多いと思いますが、今回はそんな場所で見かける狛犬の話です。狛犬のルーツは古代インドで、百獣の王であるライオンを模した像を仏さまの守護としてその両脇に置いたのがはじまりだと一説にはいわれています。エジプトのスフィンクスも源流に近いらしく、その姿を微妙に変化させながら世界各地に伝わっていったそうです。  日本へは、中国のいわゆる「唐獅子」が仏教とともに朝鮮半島を経て伝来し、「狛犬」に変化したといわれています。現在では全国各地で見られ、けして珍しくはない狛犬ですが、よく見ると姿はいろいろで、なかにはさまざまな願い事をかなえてくれる霊験あらたかなものもいます。長崎でそんな狛犬の宝庫(!?)とも言えるのが、長崎市民の総鎮守として親しまれている諏訪神社(長崎市上西山町)です。  敷地内をぶらりと散策しただけで8つの狛犬(一対でないものも含む)を確認できました。禁酒禁煙や受験のすべり止めなどを祈願する「止め事成就の狛犬」心に突き刺さっているトゲを抜いてくれるという「トゲ抜き狛犬」などなど。また、カッパの姿をしたものや後ろ足だけ、前足だけで立つ狛犬など、石工さんのユーモア精神を感じられるものもあります。  諏訪神社の参道の途中には大きな狛犬もいます。それは、頭髪もしっぽもクリクリとした大ぶりの巻き毛で、西洋風でもありまた「唐獅子」のようにも見える狛犬です。実は明らかに狛犬ではなく、「唐獅子」を山門の両脇に置いているのが、唐寺のひとつ「崇福寺」(長崎市鍛冶屋町)です。  向かって右側は子供の獅子を抱いたメスの唐獅子、左側は毬と戯れるオスと思われる唐獅子です。いずれも中国獅子舞のような動きのある姿です。また同じ唐寺でも、「聖福寺」(長崎市玉園町)の参道の途中に祀られていたものは小ぶりの狛犬で、しっぽが極端に大きいユニークな姿が特長です。お顔もどこかかわいらしく、アニメのキャラクターのようでもあります。    「八坂神社」(長崎市鍛冶屋町)には、参拝者にお顔を撫でられ過ぎて、人の顔みたいになってしまったという狛犬や、思わず抱き上げたくなるようなコロコロとしてかわいい狛犬も見られます。さてさて、あなたのお近くのお寺や神社には、どんな狛犬が住んでいますか。

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  • 第383号【草花よもやま話】

     花の名前は「大和なでしこ」。その姿は小さいけれど美しい。日本女性の清楚さや美の代名詞でもあります。世界一という快挙を成し遂げ、日本中に元気を与えてくれた「なでしこジャパン」。彼女たちも個性派揃いでしたが、植物のなでしこも、花の色合いや表情もさまざまです。  園芸店では、なでしこの中でも石竹(せきちく)と呼ばれる種類を多く見かけます。石竹は「唐なでしこ」とも呼ばれ、古く中国から渡ってきたとか。それに対して、もともと日本に自生していたものを「大和なでしこ」とか「河原なでしこ」と呼んで区別しているそうです。「大和なでしこ」の花は、石竹よりも花びらが細く優美な印象。あらためて日本人女性の美に思いをめぐらせるのでした。  「大和なでしこ」、「唐なでしこ」…。そういえば「阿蘭陀なでしこ」の異名を持つ花もあります。それは「カーネーション」。江戸時代にオランダ船が出島に運んできました。本来は初夏の花ですが、いまでは一年中出回っています。  なでしこは、いまが花期(初夏~秋)ですが、この時季、長崎のまちでは夾竹桃(きょうちくとう)の花も盛んに咲いています。インド原産の夾竹桃は、江戸時代に中国を経由して長崎に渡ってきたといわれています。3~5メートルほどの常緑低木で、ピンクや白、薄い黄色の花を付けます。その花びらは強烈な日差しにさらされながらも、やさしい表情をしています。長崎では、庭木のほか広場などにもよく植えられています。暖地に育つ植物なので、東北など寒い地域ではたぶん見かけない樹木です。  夾竹桃の花は、長崎に原子爆弾が落とされたあの夏の日にも咲いていました。当時の様子を記した被爆者の話にも登場します。原爆慰霊碑の周囲にも植えられ、毎年、慰霊に集まる多くの人々の気持ちをなぐさめています。  話はガラリと変わりますが、涼しい夏を演出するために、金魚を泳がせたガラス鉢を玄関先などに置いているご家庭もあることでしょう。そんな夏の風物詩でもある金魚の姿によく似た葉っぱがあるのをご存知でしょうか。「金魚葉椿」というのですが、写真は花が終わり頃の4月中旬に撮ったものです。長崎~五島の旅客船が発着する長崎港「大波止」近くの街路樹で見つけました。  ちなみに、五島は椿の生産地として知られ、良質の椿油は特産品のひとつです。ある大手化粧品メーカーは、五島市と新上五島町をヘアケアブランド商品の主原料の産地として指定し、植樹や環境保全などを展開していくとか。「椿の島・五島」の知名度がますます高まりそうです。  地域を問わず、身近なところでちょっと目を凝らせば、気になる植物との出合いが、きっとあるはず。たとえば、長崎市街地では、茎が円柱ではなく、なぜか四角ばった形をした「四方竹(しほうちく)」(長崎市鳴滝/シーボルトの鳴滝塾跡)や、肥り気味のお父さんのお腹のような姿をした「トックリの木」(長崎市上西山町/長崎公園内)などがあります。この夏、気になる植物を見つけて、子供たちと一緒に自由研究をしてみませんか?   ◎参考にした本/「日本大歳時記・夏」(講談社)

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  • 第382号【夏のおいしい魚たち】

     先月末、宮城県の気仙沼港で大震災後初めてカツオが水揚げされたというTVニュースがありました。例年より一カ月遅れ。待ちに待った海の幸に舌鼓を打つ人の映像に、初ガツオの香りが伝わってくるようでした。  気仙沼からぐーんと西へ離れた、ここ長崎の海でとれる旬の魚はというと、カツオはもちろん、真アジ、イサキ、タチウオ、アラカブ、カワハギなどでしょうか。魚屋さんやスーパーの鮮魚コーナーでおおいに目立っています。  豊かで美しい海に恵まれた長崎は古くから漁業が盛んな土地柄です。サバ、真アジ、イサキ、ブリ、サワラ、マダイ、トビウオ、エイなどは、全国でも屈指の漁獲量を誇ります。ブランド魚もいくつかあって、たとえばアジでは、五島灘でとれる「ごんあじ」、長崎半島の先に位置する野母崎の沿岸で釣り上げられる「野母んあじ」などが主に関東や関西方面に出荷されています。  そうしたブランド魚ではなくても、新鮮でおいしいアジがふんだんで手に入りやすいのが長崎のいいところです。特にこの時季は脂がのって美味。長崎の食卓では、焼くより、お刺身やタタキにしていただくことが多いかもしれません。また、小アジが手に入れば南蛮漬けに。これは地元のスーパーなどの惣菜コーナーでも欠かせないひと品。こんなところにさりげなく土地柄が現れます。  ところで、アジはカルシウムの含有量が海の魚の中でもトップクラスだといいます。普段の食生活に上手に取り入れていきたいものです。  イサキも、「ツユイサキ」と呼ばれるほどいまがおいしい季節です。やわらかく少しさっぱりとした白身魚で、お刺身はもちろん、煮付け、焼き魚、唐揚げなどにしていただきます。地元の漁師さんらは、「イッサキ」と、ちょっとイキな感じで呼びます。東北地方では「オクセイゴ」とも呼ばれるそうです。  カワハギも夏場が旬です。菱形をした平らな身体と口をとがらせた個性的な容姿はどこかユーモアを感じさせます。皮がすぐに剥がせるからこの名前が付いたといわれています。いまでは皮を剥いだ状態で売られることも多く、調理の手間がかかりません。弾力があり独特の香りのする白身は煮付けにするとおいしいですよね。また、カワハギの肝臓(キモ)は珍味として知られていますが、食通に言わせると、第二の旬といわれる秋~冬のキモが特におすすめだそうです。  この時季は他の季節が旬といわれるレンコダイ、マダイ、イイダコ、イトヨリ、水イカなどもたくさん店頭に並び、思いのほか魚種が豊富です。近年では全国的に漁獲量が減り、養殖ものや輸入ものも増えている魚たち。四季を通じて新鮮な魚をいろいろ味わえる長崎は本当に恵まれています。        ◎     参考にした本/「からだによく効く食べもの事典」(三浦理代/池田書店)

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  • 第381号【中島川の石橋の名称】

     梅雨半ば。長崎では早くも紫陽花が見頃を過ぎようとしています。ご近所の庭では、ユリやアガパンサスなど梅雨空にやさしく映える花々が満開。通行人の目を楽しませています。日本最古のアーチ式石橋で知られる中島川の眼鏡橋付近には、鮮やかな黄色が印象的な金糸梅(きんしばい)が五弁の花を次から次に咲かせています。金糸梅は紫陽花より先に咲きはじめ、より長く楽しめる花。この季節、気分を明るくしてくれるうれしい存在です。  今回は眼鏡橋をはじめ中島川に架かる石橋群の名称に関するエピソードをご紹介します。眼鏡橋の欄干のいちばん手前には、「めがね橋」と刻んだ親柱(石柱)があります。そして、同橋の反対側(上流に向かって右岸。寺町側)の石柱には、漢字で「眼鏡橋」と記されています。現在、中島川には上流から阿弥陀橋、大井手橋、古町橋、一覧橋、芊原橋、東新橋、眼鏡橋、袋橋などの石橋が架かっていますが、東新橋以外はみな眼鏡橋のように左岸側はひらがな、右岸側は漢字で表記されています。  これは、国の「道路台帳」なるものの規定にのっとった表記だとか。このことに関連して、「えっ、そうだったの?」と思うような史実がありました。というのも、江戸時代から寺町への門前橋として親しまれてきた石橋群ですが、漢字、ひらがなの表記が付けられたのは明治15年のことで、しかも、このとき初めてそれぞれの橋の正式名称が定められたというのです。  明治以前に長崎奉行が定めた正式名称はたいへん味気ないもので、阿弥陀橋は「第一橋」、大井手橋は「第三橋」、眼鏡橋は「第十橋」というように、下流に向かって一、二、三と番号で称したものでした。石橋が壊れると修理にあたるなどの役割を担っていた長崎奉行所にとって番号で呼ぶほうが、都合が良かったのでしょう。  しかし、当時の庶民は番号ではなく、多くは橋のたもとに位置する町名を冠した呼び方をしていたようです。たとえば、「酒屋町橋」(現・眼鏡橋)、「桶屋町橋」(現・一覧橋)などというふうに。中島川をはさむ両側の町の人々がそれぞれ自分たちの町名を付けて呼ぶので、ひとつの橋に複数の名称があるなどしていたそうです。  明治になると、長崎奉行所に代わって明治政府の機関が管理する橋の数が増えたこともあり、番号による名称をいまのように改めることになったとか。このとき、石橋の名称を正式に決めるという大役を担ったのは西道仙(にし どうせん/1836~1913)という人物です。長崎で医師、教育者、政治家などとして活躍した人で、初代長崎県令の澤宣嘉の知恵袋的存在でもあったそうです。西道仙は、地元の人々の意見をよく聞いて名称を決めたと伝えられています。そして、江戸時代の通称をそのまま活かしたり、建造者の名や土地柄にちなむなどして決めた名称は、彼の書でそれぞれの橋の親柱に刻まれたのでした。いまもその親柱が現役で残っているのが、袋橋や眼鏡橋のようです。  毎日何気なく通っている橋の名称の由来をたずねれば、その町の意外な歴史に出合うこともあります。あなたの町の橋でも試してみませんか。           ◎      参考にした資料/平成23年南公民館春の講座「古写真で歩く長崎学」(原田博二)

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  • 第380号【海を渡ってきた植物(クローバーほか)】

     幸せをもたらすといわれる四葉のクローバーを見つけました。小学生の頃、四葉のクローバーを見つけるのが得意な友達がいて、どうしてその子ばかり?と思ったものですが、その理由がいま頃になってわかったような気がします。それは、気持ちの持ち方にありました。見つかるといいなあ、ではなく、必ず見つけたいと思うこと。すると集中力がぐっと増して探す目も細やかになり見逃さないものなのです。東日本大震災で被災されたみなさまに、四葉のクローバーの幸せが届きますように。  春、野原一面に咲くクローバーの白い花。その細長い茎を編んで花輪を作った思い出がある方もいらっしゃることでしょう。クローバーは、牧草や肥料としても利用されるマメ科の植物で、和名を「シロツメクサ(白詰草)」と言います。この名は江戸時代にオランダ船が長崎へガラス製品や医療器などを運び込むとき、壊れないようにクローバーの干し草を「詰めもの」として使ったことに由来するといわれています。  こうした野の花はたくましいもので、種は荷物に紛れ込んだり、風に運ばれるなどしてあちらこちらに広がり繁殖します。長崎から各地へ運ばれた種もきっとあったに違いありません。いま、あなたのそばで咲いているクローバーも、もしかすると江戸時代に海を渡ってきたものの子孫かもしれません。  江戸時代にオランダ船が伝えた植物といえば、ヒマワリ(向日葵)もそのひとつです。北米原産で、16世紀はじめ頃にスペイン人によって種がヨーロッパへ渡り、日本へは17世紀後半頃といわれています。ヒマワリの学名は、「ヘリアントス」といって、「太陽の花」を意味するそうです。英語でも「SUNFLOWER(サンフラワー)」といいますよね。いつも太陽のある方向に花を向けたこの花のイメージは万国共通のようです。  ヒマワリの種は食用にされたり、油をとったりされますが、長崎に渡ってきたときは食用だったのか、観賞用だったのか定かではありません。現代では、放射性物質に汚染された土壌の改良に役立つかもしれないということで注目を浴びています。こんなふうにヒマワリが利用される日がくるとは、江戸時代の人にとってはまったく想像ができないことでしょう。  さて、紫陽花があちらこちらで咲きはじめるこの時季は、長崎の特産品「茂木ビワ」が旬を迎える頃でもあります。「茂木ビワ」は、江戸時代に唐船によって長崎に伝えられました。以来、栽培が続けられ、生産量も日本一を誇ります。甘くみずみずしい果肉は、初夏の到来を実感させる味わい。今年は冬の寒さが厳しかったせいで1週間ほど生育が遅れたようようですが、寒さを乗り越えた分、甘さが増しているそうです。  遥か昔に異国から伝わった花や果実たち。その美しさ、おいしさをそのままに未来へ伝えたいものですね。  ◎   参考にした本/ながさきことはじめ(長崎文献社)

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  • 第379号【もちもちの新しい食感、「ロザリオ南蛮パスタ」】

     手延べ素麺の産地として知られる南島原市の職人さんが、「手延べ」の技術と勘を活かしてパスタづくりにチャレンジ。3年の試行錯誤を経て、もちもちっとした新しい食感の手延べパスタ「ロザリオ南蛮パスタ」を完成させました。 「こねた生地を、引き延ばして、熟成させる。その工程を繰り返すなかで何度も手で、舌で、麺の状態を把握します。それを『麺の声を聞く』とも言うのですが、私の場合は『麺と格闘』するという感じでした」と話すのは開発者の本多祥彦(ほんだよしひこ)さん。手延べ素麺づくり40年のベテランです。 「開発前は、手延べ製法でパスタをつくるのは無理だと周りに言われたんですよ」。その理由は原材料のデュラム小麦粉にありました。この小麦粉は硬い性質の粗びき粉で、中力粉でつくる素麺とは生地の感触も延び方も全く違います。「たとえば、生地をこねたとき引きは強いのですが、延ばそうとするとブスッと切れてしまうのです」。元来、凝り性でねばり強い性格の本多さん。試行錯誤を繰り返し、デュラム小麦粉の個性を身体で憶えていきました。 このパスタは、生地を徐々にタテに延ばしながら細いひも状にしていく作業や、麺にヨリを入れながら延ばす作業など、手延べ素麺と同じ全12の製造工程でつくられます。それは、延ばしては熟成させるという作業の繰り返し。そして最後は低温で2日間かけてじっくり乾燥させて仕上げます。作業中は常に『麺の声』に耳を澄ますという本多さん。そうやって、デュラム小麦粉のうまみ、甘み、もちもち感を引き出していくのです。 ところで、「ロザリオ南蛮パスタ」のふるさと南島原市は、豊かな自然を誇る島原半島の南に位置し、肥沃な大地とミネラル豊富な水に恵まれた地域です。戦国時代にはキリシタン大名に治められ、宣教師を中心に南蛮文化が花開いた土地でもあります。天草四郎で知られる島原の乱の舞台としても知られ、いまも数々のキリスト教関連の史跡が残されています。そんなまちの歴史にちなんだ「ロザリオ南蛮パスタ」というネーミング。「地元のまちおこしにつながるパスタにしたかった」という本多さんの願いが込められています。 「手延べ素麺のように、原材料はなるだけシンプルにしました」という本多さん。厳選のデュラム小麦粉を100%使用し、島原半島のおいしい水と長崎県のきれいな海水でつくられた塩を入れてこねます。ほかには製造作業の途中で麺の表面が乾かないようにほんの少しのオリーブバージンオイルを使うだけ。パスタの黄色は、デュラム小麦粉に含まれた自然なカロテンの色です。 「ロザリオ南蛮パスタ」のゆで時間はわずか3分。パスタ自体に塩が練り込まれているので、ゆで水に塩は必要ありません。ゆで上がったら、いったん水でしめると調理しやすいようです。味は乾燥パスタでありながら、もっちりとして生パスタのようでもあります。  パスタの定番ペペロンチーノ、中華のジャージャー麺風、和風だしの冷製パスタなど和・洋・中いろいろ作ってみました。ソースや具材とからみやすく、アイデアしだいでさまざまな味わいが楽しめそうです。もっちりとした味わいの向こうに、どこか素朴な手延べ素麺の存在が見え隠れする「ロザリオ南蛮パスタ」。ぜひ、一度お試しください。◎取材協力/本多製麺有限会社 http://www.hondaseimen.com/

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  • 第378号【孫文の足跡in 長崎】

     「中国革命の父」として歴史の教科書にも登場する「孫文」(1866-1925)。今年は辛亥革命(1911-1912:中国初の共和国「中華民国」樹立を導いた革命)から100年目の節目だからでしょうか、最近いろいろなメディアで孫文にちなんだ話を見聞きします。日本を革命活動の基地のひとつとして飛び回り、中国との間を何度も行き来した孫文。今回はここ長崎での足跡をたどります。  孫文は1897年(明治30)~1924年(大正13)の間に9回ほど長崎を訪れています。孫文31才頃から58才で亡くなる前年までの期間です。この時代の長崎は、長い鎖国の後に迎えた居留地時代(幕末~明治後期)から続く諸外国との交易で、港に面した大浦界隈には英国や中華民国(清国)、米国など各国の領事館や洋館が建ち並び、鎖国時代とは違った自由な雰囲気の港町として賑わっていました。 明治・大正というと、欧米の文化に影響を受けたハイカラなイメージで語られがちですが、実は明治以降の長崎の貿易は、中国や朝鮮との関係のなかで発展したといわれています。なかでも上海との距離は東京より近いこともあって、人や物の往来が活発でした。また、横浜・神戸発長崎経由の香港・上海行きの航路のほか、1923年(大正12)には長崎と上海の間に日華連絡船の定期航路が開設。当時は、「長崎県上海」と呼ばれるほど両都市の結びつきは強く、散歩がてらに下駄履きで上海に出かけたという長崎人のエピソードも語り継がれています。 孫文は、そんな長崎ならではの地の利もあって、上海や香港へ向かうとき、また東京へ向かうときに長崎を経由したようです。よく利用したのは当時、長崎でも屈指の宿として知られた「福島旅館」。長崎県庁近くにありました。その場所から徒歩20分圏内に孫文の足跡があちらこちらに残されています。 長崎市の中心繁華街、浜町アーケードを抜け油屋町の通りに入ると、「孫文先生故縁之地」と記した碑が建っています。ここは1902年(明治35)に鈴木天眼(すずきてんがん)が創立した「東洋日の出新聞社」があったところ。論説や報道内容が他の地元紙とはひと味違い人気があったそうです。天眼は、孫文の盟友として知られる宮崎滔天(みやざきとうてん)らと交流を深め、孫文の活動を支援。東洋日の出新聞でも孫文の活動をたびたび報道しました。  孫文は辛亥革命後に誕生した中華民国の初代臨時大統領に就きました。その地位は3カ月で退いていますが、その後、長崎を訪れたときには、それまでの亡命革命家ではなく、公式訪問として盛大に迎えられています。かつて唐人屋敷があった館内町の福建会館では、在長崎華僑の人々や留学生たちと盛大な午餐会が開かれました。袋町(現・栄町)にあった青年会館(YMCA)では講演を行い、その後、天眼宅(古川町:東洋日の出新聞社近く)を訪れ、孫文、天眼、滔天、そして姿三四郎のモデルとして有名な西郷四郎(東洋日の出新聞社で報道記者などとして活躍)などと一緒に記念写真を撮っています。余談ですが、天眼も西郷四郎も福島出身者。長崎との福島はまだまだ意外なつながりがありそうです。  さて、当時の時代背景、人間関係はとても複雑で孫文ついて語るのは難しいものがあります。でも、どこかつかみどころのない歴史上の人物も、その足跡を訪ねると生身の姿が垣間見え、ぐっと身近に感じられるのでした。  ◎参考にした本など/孫文と長崎~辛亥革命100周年~(長崎文献社)、旅行の手びき(長崎市)、長崎事典~産業社会編~(長崎文献社)

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  • 第377号【稲佐山の長崎ロープウェイ】

     長崎はつつじの季節に移りました。平地ではすでに満開を過ぎたところもありますが、つつじの名所でも知られる稲佐山(いなさやま:標高333メートル)での見頃は、このゴールデンウィークになりそうです。 つつじの咲き具合を確認しながら久しぶりに乗った稲佐山のロープウェイ。長崎のまちを見渡すダイナミックな景観はいつ見ても素晴らしく、ゴンドラの上昇に合わせて美しい港や、山の斜面に家々が高台までびっしりと建つ景色が広がります。 このロープウェイは、昭和34年(1959)10月に運行がはじまって以来、長崎観光に欠かせない人気スポットです。空中に張られたワイヤーロープだけを頼りに上り下りするゴンドラや、乗ったときの独特の浮遊感など、昔と変わらない姿や感覚に懐かしい気持ちが蘇ります。ところで、意外に思われる方もいらっしゃると思いますが、ロープウェイは鉄道の一種で正式には「普通索道(ふつうさくどう)」といいます。山の景勝地などに設けられていますが、いま、のんびりと景色を楽しむ旅をしたい人や一部の鉄道マニアに注目されているそうです。 稲佐山に架かるロープウェイは、ふもと近くに設けられた「淵神社駅(ふちじんじゃえき)」から、山頂の「稲佐岳駅(いなさだけえき)」までの約1100メートルを5分でります。山頂の展望台は一部がこの春に整備され、屋上の展望広場には新しく椅子が設置されたり、夜には足下をLEDの光が照らすなど、以前より快適に景色を楽しめるようになっていました。 360°を見渡す展望台からは、長崎港の南西沖にこの春開通したばかりの「伊王島大橋」の姿が確認できました。ちなみに眼下の眺望をきれいに撮影したいなら、午後がおすめです。稲佐山側に傾いていく太陽が市街地を照らしてよりクリアに写すことができます。 また、多くの人が気付かずに通り過ぎていくのですが、展望台の近くには国が定めた「三角点」が設置されています。三角点とは、地球上の位置(経緯度など)や海面かの高さが正確に測定されたところで、山の頂や見晴らしのいい場所に設けられています。地図の作成や道路建設などの際に必要不可欠で、全国に約10万カ所も設置されているそうです。稲佐山の三角点の説明板には、三角点標石の上面が東京タワーと同じ333メートルの高さにあたると書いてありました。 稲佐山から見渡す長崎の中心市街地は東側に位置し、まちは北に向かって伸びています。その景色の遥か先には東北地方があるのです。かつて観光で訪れ、この景色をめた被災者の方々もいらっしゃるに違いありません。皆様の健康と一日も早い復興を祈っています。

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  • 第376号【眺めのいい公園へ(大浦地区)】

     長崎の市街地を歩いていたら、「がんばれ東北号」と掲げた路面電車に出合いました。どこか懐かしい昭和の雰囲気が漂うその車体。聞くところによると、かつて仙台市内を走っていた電車で、30数年前に譲り受けたものだそうです。乗り込んでみると運転席のそばに東日本大震災の被災地に向けての募金箱が設置されていました。いま、長崎のまちのあちらこちらで目にする「がんばろう、東北」の文字。長崎にとって少し遠い地に思えた東北も、いろいろなところでつながりあっていたことに改めて気付かされています。ともに、支え合っていきましょう。 さて、今回は長崎市大浦地区の高台にたいへん眺めのいい公園があると聞いて行ってきました。大浦地区といえば、大浦天主堂や洋館群など異国情緒漂うまちとして知られるところ。南山手のグラバー邸もすぐ近くにあり、観光客の姿が絶えません。眺めのいい公園は、大浦地区のなかでもそうした観光スポットから少し離れた「出雲」と呼ばれる地域にあります。 スタート地点は、路面電車の電停「石橋」(4番系統の終点)。港とは逆の方向に向かって歩きはじめると、すぐに何軒かのクリーニング店が目を引きました。いずれも古いお店のようで年季の入った看板を掲げています。実は明治期の大浦地区には88軒ものクリーニング店があり、居留地に住む外国人や各国の艦船御用達として商売をしていたそうです。まちを流れる大浦川が洗濯場で、当時はお米を研げるほど澄んだ水が流れていたとか。古い看板のクリーニング店はそんなまちの歴史を思い出させてくれました。 スタートから7分。「大浦国際墓地」(長崎市川上町)がありました。かつての外国人居留地に隣接するこの墓地は1861年(文久元)に設けられたもの。主に外国の艦船の乗組員が葬られています。1867年(慶応3)7月に起きたイカルス号事件(長崎の花街・丸山でイギリス軍艦の水夫2人が斬られた事件で、その犯人として海援隊のメンバーが一時疑われた)の被害者である水夫たちもここに眠っているそうです。  大浦国際墓地近くのお墓の坂道をどんどん登ると、くだんの眺めのいい公園にたどり着きました。公園の名は、「出雲近隣公園」。ちょうど1年ほど前に完成した公園で、大正から昭和まで利用された出雲浄水場の跡地を利用したものです。もともと桜の名所だったそうで、公園下の土手には何本もの桜の木が満開を迎えていました。  それにしても、ほんとうに眺めのいい公園です。長崎港の海面が少し見え、奥行きのある大浦地区を一望。背後は、星取山(ほしとりやま)、東にドンの山、西に鍋冠山(なべかんむりやま)の山頂近くを望みます。山肌を埋め尽くすように建つ家々や坂段の風景は、景勝地で知られる鍋冠山からとはまた違った趣きで、斜面地に暮らす長崎の人々の息吹が感じられるようです。ぜひ、一度足をお運びください。

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  • 第375号【長崎からエールをおくります】

     日に日に春めく長崎のまち。1週間ほど前に開花した桜は、満開のときを迎えようとしています。東北地方へ桜前線がたどり着くのは、1カ月ほど先になるのでしょうか。ご近所の庭では、1本のミモザの木が花を咲かせました。ミモザは早春の季語。フランスでも春を告げる花として知られています。とても小さくて丸い黄色い花々が、細い枝いっぱいに鮮やかに咲く姿は、見上げるたびに元気をくれます。 東日本大震災で被害を受けられた方々へ。寸断されていたルートが開かれ、ようやく救援物資が届きはじめていると聞いています。全国各地から、もちろん長崎からも医療チームや救援物資が被災地へ次々に向かっています。そして、直接出向くことはできないけれど、多くの人々が被災地の方々に思いを馳せ、力になりたいと願っています。 いまだ全貌が見えない巨大地震の被害。テレビで繰り返し流される息を飲むような災害の場面。大津波から一夜明けた惨状を見て、65年前、原爆で破壊された長崎の光景を思い出したという人もいました。長崎はこれまで、原爆、そして長崎大水害、雲仙普賢岳の噴火災害など、数々の大災害を経験しています。そこから培ってきた放射線医療のノウハウやネットワーク、そして、災害復興のための知恵や知識は、今回の巨大地震の復興にきっと活かされ、役に立つと信じたい。 原爆投下から数ヶ月後。荒廃した原子野の中に1本の花が咲きました。それは、スクッと高く伸びた茎の先に、薄紫の花びらをつけた「木立ダリア」。奇跡のように咲いたこの花に、当時の被災者たちは励まされ、勇気づけられたという話がいまも語り継がれています。これから、少しずつ温かくなっていけば、あちらこちらで春の花や植物たちが顔を出し、被災者の方々の心を少しでも和ませてくれるはず。 長崎でふきのとうが摘み頃を迎えたのは、2月下旬のこと。北国ではいま時分でしょうか。眼鏡橋が架かる中島川沿いを歩けば、桃の花が満開。川沿いの柳は、萌黄色の新芽をいっぱいつけた枝を垂らしています。コブシ、サンシュユ、モクレン、タンポポ、ユキヤナギ、パンジー、菜の花と、あらためて見回せば、いつの間にか春の花がいっぱい。じきに関東、東北でも咲き始めるはずです。 九州方面の方言で、「おもやい」という言葉があります。相手のことをおもいやって「共有する」、「一緒に仲良く使う」といった意味で使われます。(ちなみに「おもやいの心」は、弊社のモットーのひとつでもあります)。被災者の方々が協力し合い、必死で困難を乗り越えようとする姿に、この言葉の意味をあらためてかみしめました。全国からおもやいの心が集まれば、被災者の方々の心を支えられるはず。長崎から「おもやい」の心でエールをおくり続けます。

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  • 第374号【変わる長崎港、浦上川河口の景色】

     まちで卒業生らしき姿を目にすると、自分にもそんな時代があったなあと当時の思い出にひたりつつ、あの頃と比べると、まちの風景も、世の中も(もちろん自分自身も)ずいぶん変わったものだ、なんて思ったりすることはありませんか? 長崎港の一角にある「長崎水辺の森公園」を楽しそうに歩いている学生たちや犬を連れて散歩する人の姿を見ていると、つくづくそんなことを思います。20年前までこの辺りは、港湾沿いに地味な倉庫が建ち並び、公園はおろか、市民が憩う姿などほとんど見られなかったからです。 大型商業施設や道路など、年々、何かが新しく生まれ着実に変化を遂げている長崎港周辺。2月には長崎港にかかる女神大橋と、高速道路網とを結ぶ「長崎南環状線(長崎市大浜町~田上)」が全線開通し、快適な交通の流れが生まれました。この「長崎南環状線」は、「長崎水辺の森公園」そばに出るオランダ坂トンネル(ながさき出島道路)とも結ばれていて、新たな物流の効率化はもちろん、市民の利便性向上にも貢献しています。また、昨年秋には長崎港へそそぐ浦上川沿いを走る「都市計画道路・浦上川線」が開通し、市街地にスムーズな流れが生まれています。 まちの中の新しい流れを歩行者の立場から眺めてみようと、「長崎水辺の森公園」からスタートし、浦上川沿いを少し上流の稲佐橋までほど歩いてきました。大波止あたりから、浦上川線へつながる新しい道路の横には港の埋め立て地が広がっています。新聞報道によると、ここに、長崎県庁舎の移転が決まったとのこと。さえぎるものが何もない、今のうちだけの風景をしっかり眺めながら、旭大橋をくぐり、浦上川沿いを上流へ向かいました。 河口付近ということもあり、ほぼ平坦な道が続きます。右手には、長崎駅をはさんだ向こうに立山、そして、左手には稲佐山。そうしてぐるりと周りを見渡せば、鍋冠山、英彦山、豊前坊など、長崎港を囲むほとんどの山々が確認できます。 小型船舶が停泊する河口付近ののどかな風景やそこから望む港の様子は、観光客の方々にもぜひ見てほしいと思うほど、のびやかで気持ちのいい風景です。実は、この辺りは江戸時代の頃はほとんどが海でした。当時はどんな風景だったろうかと想像しながら歩いていると、川沿いの一角の手すりに「馬込橋」と記されたプレートが付いていました。その辺りは確か、江戸時代には浦上村馬込郷と呼ばれたところ。昔の地名を橋の名前として残していることに、ちょっと感動しました。 そこから稲佐橋まで、ほんの数分で到着。帰りは路面電車でもどろうと、宝町の電停に向かうと、幸運なことにこの2月から走り出したばかりの新車両「5000形」に乗ることができました。この車両の愛称は、「ガンダム」。その名の通りのイケメン車両で乗り心地はグッドでした。 この3月27日には、長崎港沖合に浮かぶ伊王島と長崎市香焼町を結ぶ伊王島大橋が開通。長崎市中心部から車で約30分で、伊王島へアクセス可能になります。この春も未来へ向かって、ドラマチックな変化が止まらない長崎です。

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  • 第373号【長崎の揚げ物、ゴウレンとヒロウズ】

     「ナシゴレン」というインドネシア料理があります。日本の魚醤に似た調味料やニンニク、唐辛子、香菜などを使った、いかにも東南アジアらしい香り漂うチャーハンです。「ナシ」は、ごはんのことで、「ゴレン」は油で「炒める」とか、「揚げる」という意味があるとか。インドネシアには「ミーゴレン」という焼きそばもあって、「ミー」は、中華めんのことをいうそうです。 ところで、長崎には「ゴウレン」と呼ばれる郷土料理があります。『長崎事典~風俗文化編~』(長崎文献社刊)によると、それは天ぷらに似たもので、ハモを骨切りにしたものを、酒、醤油、砂糖を合わせた調味料(ネギと生姜のみじん切りも少々加える)の中にしばらく漬け込んで味をつけ、小麦粉をまぶして油で揚げたものをいうそうです。長崎の郷土料理を紹介したほかの本を見ると、揚げる具材は、白身魚のほか、鶏肉を使っていたりします。長崎でいう「ゴウレン」とは、どうやら「揚げ物」のことをさすようなのです。 意味だけでなく、音も、ナシゴレンの「ゴレン」に通じる長崎の「ゴウレン」。その昔、オランダ東インド会社が、拠点のひとつであったインドネシアを経由して日本へ来ていたこと、また家康の時代に東南アジアと盛んに貿易していたいわゆる朱印船貿易などが、長崎へ「ゴウレン」が伝わるきっかけになったのではと想像したりします。 前述のとおり、「ゴウレン」とは揚げ物を意味し、その実態は、「魚の天ぷら」や「鶏肉の唐揚げ」と、ほとんど変わらないものです。60~70代の長崎の主婦の方々に「ゴウレン」について尋ねると、耳にしたことはあるが、どんな料理かを知らないという方がほとんどでした。地元で意外にも知名度が低いのは、「魚の天ぷら」、「鶏肉の唐揚げ」という言い方に馴染んでしまっているからかもしれません。長崎の料理屋さんなどで出している「ゴウレン」も、「鶏肉の唐揚げ」と言っても全く違和感はありません。 揚げ物の原型ともいわれる「ゴウレン」。長崎の揚げ物では、これまた変わった呼び名の「ヒロウス」というものがあります。これは、「飛龍頭(ひりゅうず)」とも呼ばれ、「がんもどき」と同じものです。「ヒロウス」の語源は、一説にはポルトガルの「filhos(フィリョース)」というお菓子(小麦粉と卵を混ぜてつくった生地を、油で揚げたもの)に由来するといわれています。江戸時代に著された「長崎夜話草」(西川如見)にも「ヒリュウス」で登場しています。  「ヒロウス」は、水気をしぼった豆腐に、ニンジン、ゴボウ、キヌサヤ、キクラゲなどのみじん切り、すった山イモなど混ぜて生地をつくり、丸い形に整えて揚げたものです。以前、中国伝来の普茶料理(肉類を使わない精進料理のこと)のメニューのひとつとして、長崎の唐寺でいただいたことがあります。ということは、ヒロウスのルーツは中国なのでしょうか? 長崎の郷土料理の語源をたどっていくと、途中で東西が入り交じり、真相がわからなくなってしまいます。それもまた、長崎らしさなのかもしれません。

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