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  • 第252号【奇祭へトマトでヘトヘトになる】

     1月、2月は、新年にちなんだ神事や冬祭りが各地で催されていますが、その中には、まだあまり知られていない珍しい伝統行事も数多くあるようです。今回は長崎県で奇祭のひとつとして知られる「ヘトマト」をご紹介します。 五島列島・福江島の下崎山地区に古くから伝わる「ヘトマト」は、毎年1月16日に行われる小正月の祭りです。「相撲(すもう)」、「羽根つき」、「玉せせり」、「綱引き」、「大草履(おおぞうり)」といった数種類の行事を一度に行う珍しい祭りで、国の重要無形文化財にも指定されていますが、祭りの由来は定かではないそうです。 今年の「ヘトマト」も例年通り、午後1時頃から地元の白浜神社で、相撲の奉納からはじまりました。地元の小学校はこの祭りのため午後から休み。神社の境内には、ふんどしに着替えた子供たちや炊き出し役のお母さん方をはじめ、地域の内外から大勢の見物客が集い賑わいました。  地元の園児から青年団まで、延々と続く相撲の合間をぬって、炊き出しのぜんざいをいただきました。小豆と一緒に煮込まれたお団子の美味しさといったらありません。聞けば、この地域は小麦の産地。新鮮な地粉をこねてつくったお団子でした。 相撲が終わると、人々は神社を出て通りの方へ移動します。すると、身体にススを塗り付けたふんどし姿の男性たちが大勢現れました。手にはススが入ったバケツを持ち、見物客に走りよって相手の顔にススを塗り回っています。逃げる人もいますが、どちらかといえば、誰もが塗ってもらいたそうな様子。どうも、これは縁起もののよう。塗られたススは家に帰るまで落としてはいけないそうです。 一説には、このススを塗る行為が「ヘトマト」の名の由来だといわれています。ススは「ヘグラ」とも呼ばれ、五島では「ヘト」と呼ぶことがあるそうです。そして「マト」を「まとう」と解すれば、「ヘトマト」となるわけですそういうことも知らず、ヘトヘトになるほどきついお祭りだから?などと思っていました。 そうこうする内に、通りの向こうから、紋付袴姿の男性を先頭にした一行が、カーンカーンと「時の鉦(ときのかね)」を鳴らしながら歩いてきました。その後、通りの一角に用意された酒樽に、美しい着物姿の女性が乗り「羽根つき」がはじまりました。ちなみにこの女性は新婚さんに限るとか。羽根の打ち合いが途切れると、「羽根つき」を仕切る男性が、今年の豊作豊漁を占うような言葉を口にします。一見ユニークな形の羽根つきですが、これも神聖な行事なのです。 羽根つきが終わると、ふんどし姿でススまみれの青年たちが、ワラで作った玉の奪い合いをはじめました。「玉せせり」と言われる行事です。激しい動きで身体から湯気が立っています。いつの間にか勝敗が決まると、続いて大きな綱が持ち出され、「綱引き」がはじまりました。ふんどし姿の男性たちは、休む間もなく、身体を張って勝負を続けます。 「綱引き」が終わると、いよいよクライマックスの「大草履(おおぞうり)」の登場です。長さ約3メートルもある大きな草履を担ぎ、奉納する山城神社まで地域を練り歩きます。その道中、娘さんを見つけると、草履の中に放り入みます。これは、未婚の女性に限るそうです。 寒い中、夕方近くまで怒濤のごとく繰り広げられた「ヘトマト」。ひとつひとつの行事には、神様に奉納するための大切な意味があるのでしょう。終わってみると祭りの勢いに押され、ヘトヘトになりましたが、なぜか気分はスッキリ。今年もいい年でありますようにと、あらためて感じる祭りでした。◎ 参考にした資料や本/長崎歳時十二月(深潟久著)

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  • 第251号【長崎カオスひたる、ランタンフェスティバル!】

     長崎の冬の一大風物詩、「長崎ランタンフェスティバル」が、もうすぐはじまります!毎年、旧暦の元旦から約2週間に渡って行われるお祭りで、今年は1月29日(日)~2月12(日)まで開催。長崎市内の中心部が、1万5千個にも及ぶランタンの明かりに包まれます。 「長崎ランタンフェスティバル」は、もともと中国の旧正月(春節)を祝う行事として、長崎在住の華僑(かきょう)の人々によって行われていたものが、長崎市全体のお祭りに発展したものです。街いっぱいダイナミックに、華やかに飾られた極彩色の明かりは、訪れる人々を幻想的な世界へ誘います。それは、現在・過去・未来と悠久の時間の中をさまよう不思議な感覚です。東洋と西洋の国々との交流で彩られた長崎独特の混とんとした歴史、「長崎カオス」とも呼びたくなるその渦の中に迷い込んだようでもあります。 年々、全国的に知られていくと同時に、規模が広がり内容も充実している「長崎ランタンフェスティバル」。長崎新地中華街そばにある「湊公園(みなとこうえん)」をはじめ、「中央公園」、「唐人屋敷(とうじんやしき)」、「興福寺(こうふくじ)」、「浜んまち」、「鍛冶市(かじいち)」など市内中心部に設けられた6ケ所の会場では、龍踊りや中国獅子舞、中国雑技など、中国ゆかりの催しが連日行われ、観客を飽きさせません。いずれの会場も、徒歩圏内で結ばれています。会場から会場へ、ランタンの明かりの下を家族や友人たちとそぞろ歩けば、心も身体もポカポカと温まることでしょう。 今年の見どころをいくつかご紹介します。ひとつめは毎年「湊公園会場」に飾られる干支のオブジェです。犬年にちなんだ今回のオブジェのタイトルは、「旺旺・狗来富(ワンワン・ゴーライフー)」。『犬が来ると家業が栄える』という意味だそうで、ぜひ、一目見ておきたいものです。  ランタンと共に人々の目を楽しませてくれるのが、孫悟空(そんごくう)麒麟(きりん)、楊貴妃(ようきひ)など中国伝説の神々や動物、歴史上の人物のオブジェです。今年は、たっぷりの白ヒゲをたくわえ、桃のついた杖を持つ「月下老人(げっかろうじん)」というオブジェが新しく登場します。伝説によると「縁結びの神様」だとか。気になる方は、探してみませんか? そして、今年は眼鏡橋のある中島川沿いにも、足を延ばしましょう。幸せの黄色いランタンが優しい表情で連なっています。川面に映るロマンチックな明かりは必見です! さらに、開催期間限定販売の「ランタンオリジナルグッズ」も要チェックです。「福」の文字を逆さにしたキーホルダー(300円)は、福を逃がさないという意味がある縁起物。手に持って歩きたい小型ランタン(300円)などもお土産に最適です。どこか素朴で愛嬌のある中国のおもちゃなども一緒に湊公園会場などで販売されていますので、この機会にどうぞ。 さて、長崎ランタンフェスティバルと同時に楽しんでいただきたいのが、「長崎歴史文化博物館」(長崎市立山)で開催中の「北京故宮博物院展~清朝末期の宮廷芸術と文化~」(1月21日~3月5日迄)です。中国の歴史の奥深さに触れるすばらしい展覧会です。ランタンフェスティバル会場のひとつである唐寺「興福寺」の「瑠璃燈(るりとう)」も展示されています。これは、長崎市の文化財で、東洋一と呼ばれるランタンだそうです。こちらも、お見逃しなく。 ◎ 取材協力/長崎ランタンフェスティバル実行委員会(長崎市観光宣伝課内)

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  • 第250号【おいしいヒカドで、温まろう】

     今日は鏡開き。鏡もちをさげて、雑煮やぜんざいを作ったご家庭も多いことでしょう。お供物の鏡もちを食べることは、お正月の終わりを意味する大切な儀式といわれています。新しい年を佳い年にするためにも、鏡もちをいただいて力をつけたいものですね。 お正月が過ぎると、冬の寒さはさらに厳しくなります。今回は、そんな季節にぴったりの長崎の郷土料理、「ヒカド」をご紹介します。「ヒカド」をご存知の方は、けっこうな長崎通かもしれません。地元でも知らない人が意外に多く、知っていても作ったことはないという方がほとんどのようなのです。 「ヒカド」とは、ちょっと変わった名前です。それもそのはず、ポルトガル語の「picado」に由来する言葉で、その昔、南蛮人(ポルトガル人やスペイン人のこと)が長崎に伝えた料理の一つなのです。それでは一体どんな料理なのか。そのヒントもこの名前にありました。 ポルトガル語の辞書を引くと「picado」には、肉や魚肉のこま切れ料理という意味があると書いています。その通り、「ヒカド」は、1、5cmほどのさいの目切りに揃えた肉や魚肉、冬野菜などを煮込んだものです。味付けはとてもシンプルで、材料を煮込んだ後、酒、薄口醤油、塩で整える程度。調理の最後にサツマイモをすってトロミとコクを出したその味わいは、心身ともに温かくしてくれる素朴なおいしさです。 トロリとした味わいがシチューに似ているので、「長崎シチュー」とも呼びたくなる「ヒカド」。知人から聞いた材料(3~4人分)と作り方をご紹介します。1、マグロまたはブリの切り身1~2枚(約100g)、鶏モモ肉(50g)、サツマイモ(中1個)、ダイコン(1/2本)、ニンジン(1本)を各1、5cmのさいの目切りにします。干ししいたけ(2~3枚)はもどして、4等分に切ります。さいの目に切った魚肉は湯どうししておきます。(※材料はこの他、サツマイモやゴボウ、キクラゲなどを入れてもいい)。2、鍋に、だし汁800~1000cc(したけのもどし汁も加えて)と、サツマイモと魚肉以外の材料を入れて煮込みます。3、材料に火が通ったら、サツマイモと魚肉を入れて煮込み、酒(大1~2)、薄口醤油(小1~2)、塩(小1)で味を整え、サツマイモ(中1/2個)をすりおろして入れトロリとさせて出来上がり。器に盛ったら小ネギを散らします。 「ヒカド」は、けんちん汁や新潟の郷土料理として知られるのっぺい汁に、材料や調理法がよく似ています。大きな違いは、前者が材料をさいの目切りで揃えるのに対し、後者はいちょう切りや輪切りなど特に切り方を揃えていません。 さいの目に揃えたのには、どんな理由があったのでしょう。見た目や食べやすさのため?本当に、伝わった当初からそうだったのかしらん?滋味溢れる「ヒカド」のスープを飲んでいると、いろいろと想像がふくらみ、先人が残してくれた郷土の味を大切にしたいなあと、あらためて思うのでした。◎ 参考にした資料や本/長崎事典(長崎文献社)、ジャポニカ大日本百科事典4巻(小学館)、長崎卓袱料理(ナガサキインカラー)、長崎の郷土料理(長崎出版文化協会)

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  • 第249号【事始め ビール、ジン、ワイン】

     今年もあとわずか。長崎駅では、御用納めのこの日を境に、都会からの帰省客も増えはじめ、年の瀬ならでは混雑が見られるようになります。これから、帰省されるという方は、気を付けてお出かけくださいね。  帰省する方々がいちばん楽しみにしているのは、やはり故郷の味のようです。先日も、数年ぶりに東京から長崎に帰省することになった友人から、「早よ、そっちで、ちゃんぽんば、食べたかー」という電話がありました。「よかばい、作ってやるけん(わかった、作ってあげる)」と返事をすると、友人曰く、「ちゃんぽんは、長崎で食べるのがいちばん旨かもんね!」とうれしいことを言ってくれました。 さて、久しぶりに懐かしい笑顔が集う時、おいしい郷土料理とともに欠かせないのがアルコール飲料です。実は長崎は、いくつかの代表的なアルコール飲料の日本における歴史に深いゆかりがあります。たとえば、ビール。江戸時代にオランダ船によって出島に持ち込まれたのが最初だといわれています。 出島在住のオランダ商館員たちは、相当ビール好きだったようです。オランダ本国がフランス軍に占領されるなどの影響で、オランダ船が出島に長く入港しなかった時期があったのですが、輸入が途絶えたビールをどうしても飲みたくて、出島でビールを醸造したというエピソードもあるそうです。はてさて、出島ビールはおいしくできたのでしょうか? ジンフィズやマティーニなどカクテルづくりに欠かせないジンも、オランダから出島にもたらされたのが最初のようです。百科事典によると、もともとジンは、17世紀にオランダのライデン大学の教授によって発明されたお酒で、蒸留アルコールに、杜松(ねず)の実で香りをつけたもの。アルコール度が強いお酒ですが、オランダ人の口にあったようで、発明後またたくまに普及したそうです。 ワインも長崎ゆかりのお酒です。こちらはビールやジンより早く、16世紀頃、ポルトガル人との南蛮貿易の時代に長崎に伝えられといわれています。当時、赤ぶどう酒(ワイン)のことをポルトガル語に由来して「チンダ酒」(=珍陀酒)と呼んだそうで、その後、オランダ人との出島貿易の時代になっても、その名前が使われたそうです。 当時のオランダ商館員たちはどんなふうにお酒を飲んでいたのでしょう。19世紀初頭の姿を再現すべく現在、復元工事が進められている出島に行くと、すでに復元された「一番船船頭部屋」でその様子を想像することができました。 「一番船船頭部屋」と呼ばれる棟には、オランダ船の一番船船長や商館員たちが過ごした部屋があります。壁紙、椅子や机、小物など、当時の家具調度品がこまかく再現されたその部屋は、今見ても、和洋折衷のモダンなインテリアが洒落ています。部屋を見渡すと、畳の上にはワインやジンが入っていたという複数の瓶、戸棚には携帯用の酒ビンやジンやワインの各グラスが置いてあり、いつでも飲める状態になっていました。せまい出島での暮らしの中で、アルコール類は大切ななぐさめのひとつだったようです。 今年も当コラムを御愛読いただき、誠にありがとうございます。皆様、良い新年をお迎えください。◎ 参考にした資料や本/ながさきことはじめ(長崎文献社)、ジャポニカ大日本百科事典9巻(小学館)、よみがえる出島オランダ商館~19世紀初頭の町並みと暮らし~(長崎市教育委員会)◎撮影にご協力いただいた関係各所/長崎市観光企画課

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  • 第248号【稲佐の悟真寺と国際墓地】

     先日、三菱重工長崎造船所が建造した世界最大級の豪華客船「ダイアモンド・プリンセス」(約116、000トン)が長崎に里帰りしました。同船は、今年10~11月にかけて5回ほど入港。港内に接岸されたその姿を見る度に、一夜にして巨大ビルが生まれたような驚きがあります。ずっと見ていても飽きない、気品ある船体。造船マンの方々の熱意と技術のすごさを感じます。 長崎港にこういった客船が入港した時、地元の写真愛好家たちが必ず向かう場所のひとつが稲佐山(いなさやま:海抜333メートル)です。稲佐山は、客船が停泊する松ケ枝の対岸に位置する稲佐地区の背後にそびえる山。ロープウェイでその頂上へのぼり、長崎港を一望する展望台から見下ろすと、故郷・長崎の街に馴染んだダイアモンド・プリンセスの姿がありました。 ロープウェイを下り、ふもとの稲佐地区一帯を散策しながら、観光名所として知られる悟真寺(ごしんじ)と、稲佐悟真寺国際墓地を訪ねました。悟真寺は、16世紀末に開かれた長崎最古のお寺です。ちなみに、ここの境内付近に、南北朝時代の豪族、稲佐(伊奈佐)氏の居城があったことから、稲佐という地名になったといわれています。 少し高台に建つ同寺の下には、ビルや家々が建ち並ぶ風景が広がっていますが、その昔は海で、舟だまりになっていたそうです。現在は、昔の面影はないものの、ビルの向こう側に海が見え、当時は港を一望できる見晴しの良い場所であったことがうかがえます。 16世紀後半、長崎にはキリシタン全盛の時代がありました。悟真寺が建立された1598年には、すでにキリスト教の禁教令が出ていましたが、長崎でのキリシタンの勢いは衰えておらず、社寺が破壊される事件が相次ぎました。社寺破壊は、日本初のキリシタン大名の大村純忠が入信する際、神父に約束したことだったそうです。このお寺を開いた聖誉(せいよ)というお坊さんは、はじめは稲佐山にあった洞くつに隠れながら仏教の布教を行ったと伝えられています。 そのような時代背景の中、長崎におけるお寺再興の第一号となったのが悟真寺でした。稲佐一帯は、長崎が開港された1570年以後、来航した中国人たちが居住した地域です。寺の建立にも中国の商人が深く関わっており、悟真寺は、長崎在住の中国人の菩提寺となったのでした。 悟真寺の裏手に入ると、「稲佐悟真寺国際墓地」があります。なだらかな丘の斜面一帯には、江戸時代から造成されてきた唐人墓地、オランダ人墓地、ロシア人墓地など各区域があり、さらにポルトガル人やイギリス人、アメリカ人のお墓もあります。それぞれのお国柄が偲ばれる形の墓碑がたくさん建ち並ぶ光景は圧巻で、国際都市・長崎ならではです。 ところで、稲佐地区はロシアとの関係が深いところです。1854年の和親条約から約半世紀の間、帝政ロシア極東艦隊の滞在地のひとつだったのです。ロシア人の往来でおおいに賑わった稲佐地区は、ロシア村と呼ばれるほどだったとか。その関係の深さを物語るように、ロシア人墓地には、1891年、皇帝ニコライ2世が皇太子時代に訪れています。近年では、1991年にゴルバチョフ大統領も訪れ、話題になりました。 開港以来の長崎の国際的な歴史の中で、母国に帰ることなく亡くなった大勢の人々。中には、外国人である恋人のために日本人の遊女が建てたお墓もあります。樹木に囲まれ静かな佇まいをみせるこの国際墓地には、歴史の表舞台では語れない出来事もたくさん眠っているのでしょう。◎ 参考にした資料や本/長崎事典~風俗文化編~(長崎文献社)、長崎県大百科事典(長崎新聞社)

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  • 第247号【長崎歴史文化博物館オープン!】

     長崎の諏訪神社にほど近い、緑あふれる閑静な一角に今月3日、「長崎歴史文化博物館」が開館しました。海外との交流で華やかに彩られた近世長崎の歴史・文化を中心とした資料約48、000点が一堂に集結。長崎の新しい観光スポットとして、また長崎学の研究や情報を発信する拠点として、大きな注目を浴びています。 石垣と美しい白壁に囲まれた風格ある和の外観と、屋根瓦の端正な表情が印象的なこの博物館の設計は、世界的に活躍する建築家、黒川紀章氏によるものです。鉄筋コンクリート3階建て、敷地面積約1万4000平方メートル。うち2階の一部は、瓦ぶきの旧長崎奉行所立山役所が当時の場所に復元されています。かつて長崎の行政、司法、外交など幅広い役割を果たしたこの奉行所は、江戸時代の絵図面や発掘された遺構などをもとに、できるだけ忠実に再現されていて、屋根瓦をはじめ障子や木戸、ふすまなど本格的な木造建築の美を堪能できます。 屋内には、奉行の応接間であった「書院」、オランダ商館長との接見や貿易品のあらためが行われたという「対面所」、そして当時、裁判が行われた「お白州(しらす)」なども復元されています。白木の匂いが漂う廊下を歩くと、ふすまの影から、今にも奉行所の役人が現れそうでドキドキします。まさに、江戸時代にタイムスリップしたような臨場感にあふれています。 2階の常設展示場は、「近世長崎の海外交流史」をテーマに、「大航海時代」や「朝鮮」、「中国」、「オランダ」との交流の歴史などが、豊富な資料で紹介されています。この博物館では、美術資料や古文書などの展示だけでなく、体験装置やデジタル映像、情報検索機器などを通して、楽しく、わかりやすく歴史と触れあえるのが魅力です。 たとえば、国認定重要美術品の屏風絵、「南蛮人来朝之図(なんばんじんらんちょうのず)」は、ガラス越しに展示されている実物の前に置かれたモニター画面で、肉眼では見えにくいところを拡大したり、描かれている内容について知ることができます。17世紀初期のものであるこの美術品が、モニターを通してぐっと身近に感じられ、新たな歴史への興味につながっていく感じがしました。 また、この展示室には江戸時代、長崎の町人が暮らした町家(まちや)の一部が再現されていて、当時の暮らしを垣間見ることができます。現在は、くんちの頃の暮らしを再現していますが、年に数回季節に応じた展示がされる予定だそうです。 3階では、開館記念特別展として「長崎大万華鏡~近世日蘭交流の華 長崎」を開催中です(~来年1/9迄)。長崎ガラスや青貝細工など長崎独自の美術工芸品や江戸時代にオランダ人によって収集され、海外に伝えられた日本を、長崎歴史文化博物館とオランダのライデン国立民族学博物館の所蔵資料約400点により紹介しています。門外不出といわれた「唐館図屏風」「蘭館図屏風」(いずれも個人蔵)が初めて公開されており、話題を呼んでいます。 また、開館記念特別展の第2弾として、「西太后とラストエンペラー展」が来年1月21日から開催予定です。北京故宮博物院所蔵の資料が海を渡り長崎へ。世界初公開となる文物もお目見えするそうなので、今から楽しみです。 さて、復元された奉行所の「お白州」では土・日・祝日に、当時行われていた裁判の様子が寸劇で再現されており、たいへん好評です。ちなみに、演じる役者さんはボランティアです。この博物館では、展示物の案内役をはじめ別棟に設けられた長崎の伝統工芸の体験工房などで、大勢のボランティアが活躍されています。「長崎歴史文化博物館」は、長崎を愛するそういった方々の思いに支えられて新しい一歩を踏み出しました。◎取材協力:長崎歴史文化博物館 ホームページアドレスhttp://www.nmhc.jp/     長崎市立山1丁目1番1号◎ 参考にした資料や本/Nagasaki Museum of History and Culture  長崎歴史文化博物館(同館発行)、広報ながさき2005年11月号、

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  • 第246号【懐かしのイモ団子を作る】

     先日、五島在住のご夫婦から「サツマイモ」が届きました。折々にとれたての魚や野菜を送ってくださるご主人は、定年退職後、小船でささやかに漁を営み、奥様は自宅そばの畑で野菜作りにいそしみながらスローライフを満喫されています。この時期は、かんころ餅の材料となるサツマイモの収穫でけっこう忙しいそうです。 かんころ餅は、「かんころ」(サツマイモを薄切りにして茹で、3~4日干して乾燥させたもの)に、もち米を加えて作ります。素朴なおいしさが人気のこの餅は、五島の特産品として知られていますが、島原半島や長崎市外海地区など、県内各地の家庭で今も作られているようです。 以前、サツマイモ畑のかたわらで大きな釜を焚き、「かんころ」を茹でる様子を見たことがありますが、湯気に混じるサツマイモの匂いに、思わず笑みがこぼれ、和やかな気分になりました。サツマイモは、かつて食糧が不足した時代、人々の食生活を大いに支えてくれました。そういう遠い記憶が、サツマイモに対する信頼感となって私たちのDNAに刻まれているのかもしれません。 今回は、かんころ餅と同じくサツマイモを使った昔懐かしいお団子をご紹介します。サツマイモを使った餅や郷土のお菓子は全国各地にあると思いますが、長崎のものは、「イモ粉」(サツマイモを乾燥させて粉にしたもの)で作り、濃いこげ茶色をしているのが大きな特長です。黒光りするその姿を初めて見た人は、驚きを隠せません。 地元では「イモ団子」、「かんころ団子」と呼ばれているこのお団子について、50~70代の方々は、「昔、おばあちゃんがよく作ってくれた」とおっしゃる方が多く、今ではほとんど作らなくなったそうです。やはり戦中、戦後の食料不足の時代に食べていたらしく、つらい時代を思い出すからキライという方も中にはいらっしゃいましたが、おおむね誰にとっても古き良き食べもののようです。 イモ団子は、材料も、作り方もとてもシンプルです。〈1〉サツマイモ(小1個)は皮をむき、五ミリくらいの輪切りか、さいの目に切り水につけてアクを抜きます。〈2〉イモ粉(100g)に砂糖(大さじ1~2)と塩少々を入れ、水(125ccくらい)を加えて練ります。〈3〉ココア色になった生地を10等分し、水気を切った〈1〉のサツマイモの輪切りを包んで丸い形に。さいの目のものは丸い生地に埋め込みます。〈4〉蒸し器で強火で10~15分ほど蒸せばでき上がりです。 母に聞いたレシピで、今回初めて作ってみましたが、失敗なくできました。サツマイモには、ビタミンCやEが多く含まれ、美肌に有効で、風邪、便秘、大腸ガンの予防にもつながるといわれています。「イモ団子」は、素朴なおいしさを楽しめて、健康にもうれしいも一品のようです。 かつて、限られた食糧の中で、少しでもおいしくお腹を膨らまそうと工夫し、食べ継がれてきた郷土の味。人の知恵と素材のおいしさが詰まったこのようなスローフードを見直したいものですね。◎参考にした資料や本/からだによく効く食べもの事典(池田書店)

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  • 第245号【南蛮船渡来の地、横瀬浦へ】

     長崎では10月中旬に入ってようやく秋らしくなりました。「天高く馬肥ゆる秋」。グルメや旅行など、この季節を満喫したいですね。 今回はプチ旅気分で、南蛮船渡来の地、西海市横瀬浦(よこせうら)を訪ねました。西彼杵半島の北端に位置し、佐世保市に近い横瀬浦へは、JRと高速船を利用します(JR長崎駅からJR佐世保駅まで約1時間30分。佐世保駅裏手の船着き場から横瀬浦港まで高速船で約15分)。小さな桟橋がある横瀬浦の入江は、穏やかな波をたたえる天然の良港。港を囲む小高い丘の合間を縫うように民家が建ち並んでいます。車も少なく、静かでのどかな土地柄のようです。 この地は、戦国時代末期の1562年、日本で最初のキリシタン大名として知られる大村藩の領主、大村純忠(おおむらすみただ)によって開港され、ポルトガル船との貿易やキリスト教の布教が行われたところです。ポルトガル船は以前は平戸に入港していましたが、トラブルなどがあり横瀬浦へ移ってきたのです。それまで一寒村に過ぎなかった横瀬浦には、各地から貿易商人が集まり、キリスト教徒やポルトガル人などでたいへん賑わったそうです。  土地の管理は宣教師にまかせ、商人には10年間免税をするなど、貿易港として繁栄していった横瀬浦でしたが、ある日、大村藩の内乱により一夜にして焦土と化し、わずか1年余りで南蛮貿易港としての歴史は閉ざされました。その後、ポルトガル船の入港地は、福田浦(長崎市の西海岸)、そして1571年、長崎へと移ったのです。 現在、横瀬浦港の入り口に浮かぶ八ノ子島(はちのこじま)の頂きには、当時、ポルトガル人宣教師が建てたといわれる十字架が復元されています。港のすぐそばには、キリスト教徒の集落だったという「上町」、「下町」の跡もありました。 横瀬浦の港や地域全体を見渡す丘の上には、横瀬浦公園が整備されていました。眺めのいいこの場所には当時、天主堂があったそうです。公園内には、開港当時の様子について書かれた『街道をゆく』の一節を記した「司馬遼太郎の碑」も建っています。近くには大村純忠が教会に通うために建てたといわれる「大村館」の跡もありました。  あちこちに当時の名残が点在する中、ちょっと驚かされたのは、長崎市内にある「思案橋」や「丸山」と同じ名称があったことです。遊廓があったといわれる横瀬浦の「丸山」は、「上町・下町」の集落から西側に続く丘の上にありました。そこへ向かう途中の小川に「思案橋」が架けられていたそうです。案内版によると、長崎と同じく「丸山」を前にして思案したから「思案橋」なのだそうです。 大村氏の家臣で、当時、長崎をおさめていた長崎甚左衛門純景(ながさきじんざえもんすみかげ)も、横瀬浦で純忠とともに洗礼を受けたといわれています。後に秀吉のキリシタン禁教令で長崎を没収された後、筑後柳川藩に一時仕え、その後、また横瀬浦へ戻っています。彼の居宅跡の碑が横瀬浦のコミュニティセンターの前に建っていました。 地元の方の話によると、当時、キリスト教の布教が盛んに行われた土地ですが、現在、信者の方はひとりもいないそうです。この地の歴史を振り返ると、もし、内乱が起こらず横瀬浦の港が存続したら、長崎開港はなかったかも…などと、想像がふくらみます。歴史のロマンと面白さを感じさせる横瀬浦でした。◎参考にした資料や本/横瀬浦南蛮浪漫(横瀬浦公園リーフレット)、長崎県の歴史散歩(長崎県高等学校教育研究会社会科部会)

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  • 第244号【ミニチュアでつくる長崎、伊東山直美さん】

     キャラメルのおまけについていたミニチュアのおもちゃ。小さい頃、夢中になって集めた方も多いはず。男の子なら車や怪獣、ロボット、女の子ならキッチングッズやテーブル&チェアなど。子供の手のひらにすっぽりおさまる小さな世界は、見るだけで楽しい気分になります。 ミニチュアといえば、生活空間のいろいろなものを縮小サイズで表現したヨーロッパのドールハウスが有名です。日本にも、職人の道具や暮らしの用具、家屋などをミニチュアで表現する工芸がありますが、身近なところでは、ミニカーや洋酒のミニボトル、映画やアニメの登場人物をリアルに表現したフィギュアなど。マニアでなくても、そのかわいさ、リアルさに心を動かされ、つい買ってしまったという方もいらっしゃることでしょう。 「人は、小さくてかわいいものに無条件にひかれてしまうところがあると思うんです」と話すのは、長崎在住のミニチュア粘土作家、伊東山直美さん。卓袱料理、桃カステラ、皿うどんなどの食べものから、長崎くんちの庭見せ、コッコデショの山車など長崎独自の風土や風習にこだわった作品を制作し、長崎を愛する人々やミニチュアファンに注目されています。 「本物の質感や、線の美しさにこだわります」という伊東山さん。その指先から生まれる「長崎もの」の世界は、女性ならではの繊細な表現が特長で、その色、形にはどこか郷愁を誘うものがあります。「子供の頃、遊びに行った父の故郷、伊王島(長崎港の沖合いに浮かぶ小さな島)の風景が今も忘れられません。街のようにゴチャゴチャとしていない素朴な風景。その島だけ、時計が止まっているようでした」。自然の美しさや古き良き日本の風景に強くひかれるという独自の感性が作品に反映されているようです。 ミニチュアの制作に用いる樹脂粘土は、固め、薄くよく伸びる、過熱すると膨らむタイプなど、性質の違う種類がたくさんあります。伊東山さんはそれぞれの特徴を熟知して、適度な割合で組み合わせ、リアルな質感に近づけます。色づけのためのアクリル絵の具を練り込んだひとつまみほどの粘土を、手のひらで丸めたり、指先でかたどったりしながらパーツがつくられます。細部は、つまようじや綿棒、筆、糸などを用いたさまざまな技法で色や模様がつけられます。 子供の頃から、何かを表現したいという思いがあったという伊東山さん。10代でデザインの基礎を学び、結婚後も墨画、油絵、パステル画、創作人形などさまざまなアートにチャレンジしました。そして8年前、有名なミニチュア粘土作家の作品に感銘を受けたのがきっかけでこの世界へ。「それまでに学んだいろいろな分野のさまざまな技法が、ミニチュアづくりにとても役立っています」。 伊東山さんの作品には、地元の方々からさまざまな意見や感想が寄せられます。「とても勉強になります。もっといいものをつくって、みなさんの故郷への熱い思いにこたえたいですね」。感動する気持ちがものづくりの基本だという伊東山さん。今後もそのひとつひとつを形にしながらマイペースで制作を続けていくそうです。◎ 伊東山直美さんの作品は、長崎新聞社から今年7月発行された「長崎料理~百花撩乱ふるさとの味」(脇山順子著)の挿し絵として掲載されています。また、〈伊東山家のホームページ http://www1.cncm.ne.jp/~itoyama/mama.html〉でもご覧いただけます。

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  • 第243号【もうすぐ、長崎くんち!】

      国の重要無形民俗文化財、「長崎くんち」がいよいよ来週、10月7、8、9日の3日間行われます。寛永11年(1634)年にはじまったとされるこの祭りは、日本の伝統的なスタイルに、中国風、南蛮風が豪華絢爛に入り交じり、まさに長崎ならではの異国情緒あふれる秋の大祭です。 諏訪神社に踊りを奉納する「踊り町」は、現在、約40町ほどあり、その内5~7町が7年に1回のサイクルで伝統の出し物を披露します。今年の「踊り町」は、今博多町(いまはかたまち)、玉園町(たまぞのまち)、魚の町(うおのまち)、江戸町(えどまち)、籠町(かごまち)の5つの町。本番を目前に控え、各町とも出し物の練習は仕上げの段階にです。今回はその見所などをご紹介します。 今博多町が奉納するのは、「本踊り」です。「本踊り」とは、「長崎くんち本来の踊り」という意味。諏訪神社で最初に奉納踊りを舞ったのは、今博多町出身の女性と伝えられ、この町は奉納踊りのルーツといわれています。今回は、花柳流のお師匠さんの指導を受けた女性たちによる「鶴の舞」が披露されます。この演目はとても評判が良く、優美な舞が期待されます。鶴の声を笛の音で表現したという鳴り物も楽しみです。  玉園町は、「獅子踊り」を奉納します。昔から「筑後獅子」と言われるこの踊りは、5頭の獅子と子供たちが演じる唐子(からこ)たちとの絡みが見所です。獅子に乗ったり、はやしたりなど微笑ましい光景が見られそうです。また、2人の獅子使いが上半身と下半身に分かれて担当する獅子の動きにも注目。蚊を追ったり、耳を掻いたりするユニークなしぐさやダイナミックに回転する動きなど、気合いと迫力のある踊りは見逃せません。 魚の町は、「川船」を奉納。1600年頃、中島川の一角に形成されたというこの町には魚市場があったことから「魚町」という町名になったとか。その名にちなんだ「川船」は、屈強な男たちによる勇壮な曳きまわしが魅力です。男の子が演じる船頭さんによる網打ちは、上手く魚を捕らえられるかも気になるところです。さらに、見逃せないのはこの町の傘ぼこの飾(だし)です。1830年頃に作られたというビードロ細工が配されいます。市の文化財にも指定されている貴重なもの。必見です。 籠町は、1790年頃から奉納しているという「龍踊り」です。この町の近くに唐人屋敷があり、唐人たちから習ったのがきっかけだとか。唐楽器を使って男の子たちが蛇囃子(じゃばやし)を打つ中、大人の男たちが龍をダイナミックに操ります。どこかジャズのようでもある軽快な長ラッパの響きが、龍踊りを盛り上げます。「吹くのは、とてもむずかしい。奏者は口の中が切れて血まみれになるんですよ。」と籠町の龍踊りを長年見続けてきた方がおっしゃっていました。「そろそろ仕上げの段階ですね」と話しかけると、「いや、くんちが終わった頃、ようやく仕上がるものですよ」という答え。伝統の演技に対する町の人の厳しい目が籠町の龍踊りに磨きをかけているようです。 出島の門前町、江戸町は、「オランダ船」を奉納します。目にも鮮やかなマリンブルーの船体の上でひるがえるのは、日本国旗、オランダ国旗、そしてかつてオランダ商館長が江戸町に贈った紋章「たこのまくら」の旗(※コラム239号参照)です。男たちによる豪快で勇壮なオランダ船の曳きまわしと、かわいい子供たちのオランダ小船が見物です。 長崎くんちをもっと知りたい、楽しみたいという方は、「長崎市歴史民俗資料館」(長崎市上銭座町)で開催中の「長崎くんち資料展」(~10/30日迄)も見逃せません。昭和初期の頃のくんちの写真やくんち菓子などが展示されています。◎ 参考にした本や資料:ながさきの空278号(長崎歴史文化協会研究室)、長崎くんち(ナガサキインカラー)

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  • 第242号【芭蕉と去来】

     『あかあかと 日はつれなくも 秋の風』。初秋の夕日が照りつけ残暑は衰えないが、風は秋の涼しさが感じられるという情景を詠んだ松尾芭蕉(1644~1694)の句です。季節の変わり目を描いたこの句は、今時分の長崎にぴったりきます。すでに秋めいている北国とは違い、「長崎の秋は、くんちが終わってから」と言われ、本格的な秋の到来まで、もう半月ほど待たなければなりません。 「おくのほそ道」などで知られる松尾芭蕉は、江戸時代の有名な俳人。『秋深き 隣は何を する人ぞ』は、俳句に興味がない人でもご存知のはずです。芭蕉が残したたくさんの名句は、時代を超え多くの人々に共感と感動を与え続けています。 芭蕉は生涯、長崎の地を踏むことはありませんでしたが、その高弟に長崎ゆかりの人物がいます。「蕉門十哲(しょうもんじってつ)」(※芭蕉の10人の優れた弟子たちを称する言葉)のひとりで、「去来抄」、「旅寝論」などの名著を残した向井去来(むかいきょらい:1651~1704)がその人です。 去来は、長崎の後興善町(うしろこうぜんまち:現在の興善町)に、儒医、向井元升(げんしょう)の子として生まれました。幼名は慶千代、のち兼時、通称を平次郎といいました。去来が8才の時、向井家は京都へ移住。16才の頃、福岡の叔父の家に養われ、仕官をめざして武芸に励みますが、10年後、その望みを捨て京都へもどり父の医業を継いでいた長男を助けました。 天文や暦数の知識を身に付けていた去来は、家業を手伝う一方で、有職家(※朝廷や武家の礼式や典故に通じている人)、陰陽家として、摂政親王家の家に出入りしていたとか。その後、榎本其角(えのもときかく:蕉門十哲のひとり)を通じて芭蕉に入門。去来の力量は次第に認められ、師にも篤実に仕えて信任も厚く、「鎮西俳諧奉行」の称号を与えるとまで言われたほどでした。 師を心から尊敬していた去来は、京都嵯峨にある自らの草庵、「落柿舎(らくししゃ)」にも芭蕉を迎えるなどして師弟関係の親密さを深めました。また芭蕉の臨終まぎわにもすぐにかけつけ、誠意を尽くして看護をしたそうです。 家族や友人、同門の人々に対しても情愛と心遣いのある人だったという去来。故郷長崎には、蕉門の俳人でもある弟の魯町(ろちょう)や従弟の卯七をはじめ伯母の田上尼(たがみのあま)などがおり、幾たびか訪れたようです。去来は、帰郷すると魯町や卯七などから問われるままに、芭蕉から会得した俳諧の奥義を説いたとか。また田上尼の別宅であった千歳亭(せんざいてい)には度々止宿。「旅寝論」は、ここで書いたそうです。 長崎市内には去来ゆかりの地が数カ所あり、句碑が建立されています。日見峠に近い長崎市薄塚町にある句碑(1784年建立)には、1687年に日見峠で卯七や門人らとの別れを惜しんで詠んだ『君が手も まじるなるべし 花薄』が刻まれています。また、旧長崎街道沿いには1813年に長崎蕉門の俳人たちが建立した「渡鳥塚」、春徳寺には「時雨塚」、丸山の料亭花月には「稲妻句碑」、諏訪神社には『ふるさとを 京でかたるも 諏訪の月』の句碑があります。 長崎市田上の徳三寺の境内にある「千歳亭」跡の句碑には、1698年、去来がここで詠んだという『名月や たかみにせまる 旅こころ』が刻まれています。そういえば、数日後の9月18日は十五夜、仲秋の満月です。芭蕉も、『名月や 池をめぐりて 夜もすがら』などの句を詠んでいます。その昔、芭蕉や去来も見上げた月を眺めながら、あなたも一句つくってみませんか?◎参考にした本:新訂・長崎の文学(長崎県高等学校教育研究会国語部会)、俳諧の奉行・向井去来(大内初夫、若木太一著)、新版・社会人のための国語百科(大修館書店)、去来抄・三冊子要解(森山泰太郎著)

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  • 第241号【おいしい夏の魚、ハモ】

     きびしい残暑が続いていますが、お元気ですか?風鈴がわずかな風をつかまえてチリンとなる音や打ち水に濡れる庭先の緑。昔ながらの涼の風情は、乾いた心までも潤してくれます。むやみに自然に逆らわず、知恵と工夫で暑さをしのぎ、その季節ならではの暮らしを楽しんだのは、さほど遠い時代ではありません。見直したいものですね。 今回は、夏ならではのおいしい魚を求めて、朝市に行ってきました。古くから水産業が盛んな長崎には小さな漁港がたくさんあり、とれたての魚をその日のうちに販売する直売所や市場も市内各所に点在しています。訪れたのは、長崎駅から車で約20分。美しい橘湾を望む長崎市戸石町の『戸石フレッシュ朝市』です。 戸石漁港の一角に設けられたこの直売所は、開店後すぐに完売することもあるほどの人気ぶり。毎朝7時開店(火曜は定休日)。ハモ、マダイ、アジなどとれたての魚をはじめ、かまぼこや開きなどの加工品、さらにはナシ、ナス、キュウリ、生花など地元の旬の農産物も売られています。とにかく新鮮で安いので、地域住民だけでなく遠方からの利用客も多いとか。早朝に訪れた常連客らが、お目当ての品を次々にカゴの中へ入れていき、レジの前には、すぐに長い行列ができました。 戸石地区の漁業は小型底引網が主流でエビ、コウイカ、ハモなど海底にいる種類が多く水揚げされています。夏場は特にハモが有名で、8月初旬には毎年「ハモ祭り」が行われます。夏のハモ料理といえば、関西方面が有名ですが、長崎でもこの時期、よく食卓に上がります。 ウナギやタチウオにも似た細長い姿のハモは、深く裂けた口と鋭い歯を持ち、見た目はちょっとこわい感じです。実際、釣り上げると、手当たりしだいに噛みつく荒々しい性格だそうです。しかし味わいの方は、淡白で上品。夏場は特に脂がのっておいしいのです。 小骨が多いハモは、魚屋などで購入の際、「骨切り」をしてもらいます。皮一枚を残しながら身に細かく包丁をいれるこの調理法は、慣れない人にはとても難しいのです。市場や魚屋の店頭では一口大に湯引きした状態で売っていることも多く、家庭では、それを酢みそでいただいたり、お吸い物や蒸し物の具などにします。 捨てるところが無いといわれるハモは、老化防止や疲労回復に役立つ栄養素が含まれています。食欲が落ちがちなこの時期、うれしい食材です。酢のものや蒲焼きなどにしてもおいしいですよね。  県外へ出荷されるブランド魚もある一方で、ハモのように今朝、地元でとれたばかりの魚を、その日にいただける環境がある。長崎って、本当にいい町です。

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  • 第240号【60年目の夏、平和の碑を巡る】

     暑中お見舞い申し上げます。暑さのあまり、ついつい冷たいものを食べ過ぎてはいませんか?こんな時こそ、熱々のちゃんぽんがおすすめです。汗をたっぷりかきながらいただくと、食べ終わる頃には爽快な気分。栄養もバッチリですし、いつもの具にコーンやゴーヤ、オクラなどお好みの夏野菜を加えれば、我が家特製・夏ちゃんぽんの出来上がり。今夜の食卓にいかがですか。 ひとつのテーブルに家族や友人たちのおいしい笑顔が集う。もう、それだけでハッピーな気分になりますよね。そうした日常の中で小さな幸せを感じる瞬間、家族や友人そして平和な社会のありがたさを感じます。 小学生の頃、毎年長崎原爆の日(8月9日)は全校登校日になっていて、犠牲者へ祈りを捧げ、原爆の恐ろしさと平和の尊さについて学びました。ある年、先生が、『世界の平和の第一歩は、家族や友人を大切にし、仲良くすることです』とおっしゃいました。子供心に、「何だ、簡単なことだなあ」と思った記憶があります。しかし、昨今のニュースは、その時の思いとはまったく逆の現実を毎日伝えています。 今年、被爆60周年を迎えた長崎。戦後、長崎市内には、爆心地となった浦上地区を中心に、多くの原爆慰霊碑が建立されました。今回は、その中から、いくつかの碑をご紹介します。ひとつめは、浜口町の電停近くの線路そばにひっそりと立つ慰霊碑です。高さ約二メートルほどある自然石に「原子爆弾受難死者之霊」と刻まれています。 爆心地にほど近かったこの辺りの惨状は凄まじく、あらゆるものが破壊され、多くの身元不明の遺体が瓦礫に埋もれていたそうです。この碑は、その無縁仏の供養のために原爆から一年後、地元自治会(当時浜口町)の有志らによって建立されたものです。現在も自治会の方々が定期的に清掃をし、祈りを捧げています。当時、この近くで被爆した電車は爆風で破壊され、乗客も熱線で焼かれ亡くなっています。現在、この碑の前を何ごともなかったように路面電車がスイスイと行き交っています。大きな犠牲の上に生まれた平和な光景です。 この碑の近くには、爆心地公園や長崎原爆資料館が控えています。その周囲には、数メートルごとにさまざまな職場や団体などによって建立された原爆慰霊碑が点在しています。多くの乗客とともに亡くなった電鉄の仲間を追悼する碑、長崎で亡くなったすべての外国人戦争犠牲者を追悼する碑、反原爆詩人・福田須磨子の詩碑など、ひとつひとつの碑に刻まれた文面を丁寧に読みながら巡りました。  途中、子供の慰霊碑ともいくつか出会い、胸が詰まりました。また、長崎を最後の被爆地とする誓いの火を灯す灯火台もあり、毎月9日に火が灯されていることを今回はじめて知りました。灯される火は、平和の象徴とされるオリンピック発祥の地、オリンピアの丘で採火された「聖火」だそうです。 多くの人々の命を一瞬にして奪った原爆。どの碑からもあの惨劇が二度と繰り返されてはならないという強い思いが伝わってきます。その記憶を忘れないために、暑いこの季節だからこそ、原爆の碑を巡り平和への思いをあらたにしたいですね。

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  • 第239号【日蘭友好のシンボル、江戸町のたこのまくら】

     夏休みがはじまって1週間。長崎の観光&歴史スポット・出島にはいつも以上に子供たちの姿が多く見られます。5年後の2010年をめどに、江戸時代の建造物全25棟の復元整備が進められている出島。その西側にはすでに、輸入品を収めた蔵をはじめオランダ人が寝泊まりした部屋など数棟が完成し、往時の町並みが一部蘇っています。 出島を訪れた際、ぜひ見てほしいのが中島川をはさんだ江戸町側からの眺めです。ゆるやかなカーブを描く石垣護岸が見渡せ、扇形の人工島を再確認できます。その中央部分には表門も見え、かつてそこに出島と長崎市中を唯一結んだ橋があったことを想像する楽しみもあります。 鎖国時代、出島の隣町、江戸町につながるこの橋は、日本の中の国境のようなもので、常に番人が常駐し、厳しい監視のもとにありました。もちろん、出島のオランダ人らは自由に市中に出ることは禁じられ、江戸参府やくんち見物など特別な行事でもない限り、橋を渡る機会はありません。せまい出島での窮屈な生活を強いられた彼らにとって、ささやかな救いとなったのが、どうやら川を隔てた江戸町の人々との交流だったようです。 江戸町は、現在、長崎県庁の所在地として大勢の人々が行き交う市の中心地。もともと、この一帯は港へ突き出た小さな岬の高台で、長崎がポルトガルの貿易港として開港(1570年:室町時代)した時、最初に建てがはじまったところです。次々に新しい町が生まれて行く中、その岬の先端を切りくずして造成されたのが江戸町でした。江戸時代に入る直前の頃、誕生したようです。 江戸時代に入ってまもなく、江戸町の海を隔てた突端に出島が築かれました(1636年)。出島の住人は、はじめポルトガル人でしたが、キリシタン弾圧でわずか3年で国外に追放。その後、彼らに変わって200年以上もこの島に住んだのがオランダ人でした。彼らは出島への出入りの際には、必ず江戸町を通らなければならないため、自然と江戸町の人々との親交が生まれたようです。役人の目をかいくぐり日常的な所用を頼んだりすることもあっただろうと想像できます。また、当時の犯科帳には、江戸町のある男がオランダ人と貿易品にからむ密談をして盗みをしたり、売買をしたということが記されているそうです。 江戸町の人々とオランダ人にどのような付き合いがあったか、他に具体的なことはわかりませんでしたが、親交の証は残っています。それは寛政年間(1789~1801)の頃、オランダ商館長が江戸町に贈ったといわれる江戸町の紋章です。J、D、Mの3文字を組み合わせた洒落た紋章で、その形から「たこのまくら」と称されています。3文字は当時のオランダ人が、江戸町を「JEDOMATSI」と綴ったことに由来しています。 また、江戸町には、「オーフローファイノヘー、ノーフィヤーホーロセ…」で、はじまる不思議な語感の唄やかけ声も残っています。これは、オランダ人からの聞き伝えだといわれ、江戸町の人も意味はわからないままくんちの際に唄い伝えられてきたそうです。耳を澄ませば、オランダや東アジアの貿易の中継点にある地名らしき言葉も聞き取れます。そこには、大海原を渡り、異国で窮屈な生活をよぎなくされた当時のオランダ人の心情が込められているのかもしれません。 今年、江戸町はくんちの踊り町です。演し物のオランダ船には「たこのまくら」の町旗が飾られ、江戸時代から唄い継がれてきた不思議な言葉も聞けるはず。今から楽しみです。◎ 参考にした本/郷土歴史大事典~長崎県の地名(平凡社)、角川日本地名大事典、長崎事典~風俗文化編~(長崎文献社)、長崎町づくし(長崎文献社)

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  • 第238号【長崎骨董屋物語展(長崎市歴史民俗資料館)】

     もうすぐ子供たちの夏休み。海や山など家族揃ってのレジャーを計画中の方も多いことでしょう。たっぷり約6週間もあると思っても、あっという間に過ぎ去ってしまうのが夏休み。某CMのキャッチコピーではありませんが、「モノより思い出」を大切に、子供たちを見守っていきたいですね。 さて、今回は、「長崎市歴史民俗資料館」(長崎市上銭座町)で開催中の「長崎骨董屋物語展(ながさきこっとうやものがたりてん)」をご紹介します。この資料館は、長崎の歴史や風物を、ユニークな視点でとらえた企画展が多いことで知られています。去年の今の時期には、「長崎ラムネ物語」が開催され、地元でもあまり知られていないラムネ発祥にまつわる長崎の歴史が解き明かされました(※コラム195号に掲載)。 「長崎骨董屋物語展」では、明治~大正の頃、長崎で骨董屋を営み活躍した池島正造(いけしましょうぞう:1844~1907)氏、尾張榮太郎(おわりえいたろう:1871~1938)氏という二人の人物を紹介しています。 池島正造氏は、中島川沿いにある麹屋町で、江戸時代から続く家業の骨董屋を営みました。彼は、「池正(いけしょう)」の名で、地元はもとより、東京、大坂、京都にも名を馳せる豪商だったそうです。ちなみに彼は、当時の傘鉾町人(かさぼこちょうにん)のひとり。傘鉾町人とは、長崎くんちの踊り町の先頭に立つ傘鉾の費用を個人で負担する裕福な家で、その当時、人々の尊敬を集めた町内の実力者のことです。明治天皇が長崎にいらっしゃった際には、珍宝を天覧し、ロシアのニコライ皇太子が訪れた際には、この池正から骨董品を購入したそうです。 また、芥川龍之介が大正11年5月に長崎を訪れた際、東京のさる人物に宛てた書簡には、長崎で画を観たり丸山へ行ったりして過ごす中、「蘇東坡」という画家の作品を求め長崎中探したが見つからず、その名を知っていたのは、骨董屋の池正だけだったといったことが記されています。池正は、自らも画を描き(長崎の三筆のひとり、木下逸雲に手ほどきを受けたらしい)、茶道もたしなむ文化人でした。展示室では、彼が描いた「芦雁(ろがん)」の図を見ることができます。 もうひとりの骨董屋、尾張榮太郎氏は、麹屋町にほど近い諏訪町に1910年(明治43)に開業。創業時から亡くなる前年の1937年(昭和12)までの帳簿、「古物商明細帳」が展示されていました。そこには、「亀山焼」、「赤絵オランダ皿」、「朝鮮焼皿」、「唐物青磁一輪生」など、日本国内はもとより、中国やオランダの品々がひとつひとつ書き出され、いつ、いくらで、誰から購入し、誰に売ったかが細かく記されています。当時の骨董品の流れの一端が見えると同時に、開港後の激動の時代の中、外国商人が行き交い豊かだった長崎の町の気配も感じられ、興味深いものがあります。ちなみに「長崎ラムネ物語」もほぼ同時代(幕末~明治~大正)の話です。 展示室には、当時、流通し骨董屋の店頭にも並んだかもしれない(?)、亀山焼の香炉や、中国製と思われる「象」をかたどったトンボ(ガラス)の置物、古渡(こわたり)の色絵硝子器などが展示されています。たいへん貴重な品々だそうです。 「長崎骨董屋物語展」は7月31日まで開催。骨董には興味がないとおっしゃる方でも、「長崎市歴史民俗資料館」には、原始~古代の土器や石器など考古学資料をはじめ、昔の農機具や漁具、酒造りの道具など、長崎の民俗資料も豊富に展示されています。お子さんとご一緒にお出かになりませんか?◎取材協力:長崎市歴史民俗資料館◎参考にした本/長崎事典~風俗文化編~(長崎文献社)、芥川龍之介全集第11巻(岩波書店)

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