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  • 第42号【気分爽快、長崎港クルージング!】

     気象庁の梅雨入り宣言直後に訪れた"梅雨の晴れ間"。お天気が良いのはうれしい事ですが、どうしていつもこうなの?と雨の季節への心構えをくじかれたようでちょっとプリプリ…。それはそうと、私にはやるべき事がある!そう、「長崎港クルージング」。さっそく、行ってまいりましたよ~。┌(^0^)┘GO!GO! ところで「クルージング」というと、船でさっそうと大海原を駆けめぐるというイメージが浮かびますが、今回のは少し違います。深く入り組んだ長崎港の一番奥から、港の沖合(出入口付近)までを海岸線をたどるように60分かけて1周するもので、遊覧船でゆっくり港を巡るのです。(⌒▽⌒)/ノンビリイコウ! 船の発着場所の大波止ターミナルからは、「やまさ海運」、「安田産業汽船」という2つの船会社が長崎港めぐりの定期便を出しています。いずれもルートが似ていて、所要時間も同じ(料金は違います)。両方の便を合わせると朝から夕方までの間に約10本は出ています。(‘▽’)利用しやすい! さてターミナルの窓口で大人料金1200円を支払い、朝10時45分発の船(安田産業汽船)が待つ桟橋へ。「ゼリーフィッシュ(くらげ)」というユニークな名を持つ遊覧船に乗り込むと、すでに約30名ほどの乗客が思い思いにくつろぎ、出航を待っていました。軽食やドリンク類が楽しめる船内は、1階が窓越しに展望を楽しめるスペース、2階は360度に視界が広がる屋根付きの広いデッキ。この日はお天気が良かったので皆2階へ。さあ、初夏の爽やかな風を感じながら、いよいよ出航です。(^〇^〃)ゞワクワク▲可愛い?カラーリングでひときわ目立っていたゼリーフィッシュ コースを簡単にたどってみましょう。まず三菱重工長崎造船所へ。巨大な工場をかなり近距離で見る事ができます。ほどなくして数年後に完成が予定されている女神大橋の架橋場所が見えて来ました。この橋は新しい観光スポットとして期待されています。次にキリシタン殉教にまつわる「高鉾島(たかほこじま)」、続いて昔、長崎市民が海水浴場として利用していた「ねずみ島」。▲すれ違う船に子供達も大喜びそして大浦天主堂の次に古い「神ノ島教会」と海に向かって立つ「マリア観音像」。ここで長崎港の沖合に浮かぶ伊王島、高島を望みつつUターン。三菱重工の「100万トンドッグ」、グラバーさんが明治元年に創業した「ソロバンドッグ」、異国情緒あふれる建物が目を引く「南山手の景観」と続いて終点です。▲神の島教会と船舶の安全を祈願して建立されたマリア観音像 船内では出港時からアナウンスで丁寧な解説があります。長崎の港にまつわる話をいろいろ聞けて得した気分になりますよ。それにしても、いつもと違う視点で見る長崎は格別の味わいでした。かつて長崎港へやって来た異人さんたちはその美しさを褒め讃えたそうです。時代を経てずいぶんその姿も変わったのでしょうが、何だかその気持ちがわかるような美しさでしたよ。(☆☆)行って、良かったァ

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  • 第41号【長崎ことはじめ(通信編)】

     今回は長崎ことはじめシリーズ(!?)通信編をお届けします。ひと口に「通信」といってもその意味はとても広く、広辞苑によれば『人がその意志を他人に知らせること。郵便・電信・電話などによって意志や情報を通ずること』とあります。 今やインターネットで世界中がつながっていますが、電気通信による情報ネットワークの歴史をひもとけば、1837年モールスによる電信の発明にまでさかのぼります。「トン・ツー」という電流の長短をテープに記録する「モールス信号」はご存じの方も多いはず。長崎の阿蘭陀通詞たちは出島のオランダ人や洋書によって、このモールスの発明を早くから知っていたといいます。日本初の電信機も、出島に持ち込まれたものがはじめだといわれていて、1854年(安政元年)に幕府の勘定奉行が出島を訪れた時、電信機を見て『脈一つ動くうち百里の内に通達合図の出来る品』と驚きぶりを記しています。\(◎◎)▲初期の通信機(長崎市歴史民俗資料館・展示パネルから) 出島の電信機とはまた別の話になりますが、日本初の国際電信も長崎がはじまりでした。明治政府は1870年(明治3)に、上海-長崎間およびウラジオストック-長崎間の海底電信線を長崎に陸揚げすることをデンマークのグレートノーザン・テレグラフ社に許可します。翌年には電線の敷設が完成し、通信が開始されました。これでめでたく日本はヨーロッパをはじめとする世界各地と電信線で結ばれたのでした。(^^)//。.:¨:・‘★パチパチ。▲国際電信発祥の地(左)と長崎電信創業の地の碑(長崎市南山手町) さて、モールスが電信機を発明してから約30年後の1876年(明治9)、アメリカのグラハム・ベルが電話を発明しました。日本はベルの電話器を輸入し、国産の電話機制作に乗り出します。そうして1890年、東京~横浜で電話が開通、これが日本の電話創業とされています。 しかし長崎ではそれよりも約8年くらい前に電話が使われていました。イギリス人貿易商のトーマス・グラバーが南山手にある自宅と、長崎港から約14.5kmほどの沖合に浮かぶ小さな島・高島に建てた別邸との間に電話線を引いていたのです。これは日本初の私設電話といわれています。いかにも幕末~明治期に数々の偉業を成し遂げたグラバーさんらしい話でもあります。(¨)ヘエ…。▲電信発祥の地はグラバー園に続く坂の入口付近にあります。

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  • 第40号【遠藤周作文学館へ】

     我が社では、10年ほど前から「長崎の歴史と文化を学ぶ会」ということで長崎に関わるいろんな事をテーマにした講座を(隔月開催、参加無料)開いています。つい先日行われた第55回目のテーマは『遠藤周作と長崎』でした。講師は長崎県外海町(そとめちょう)にある『遠藤周作文学館』(H12年開館)の専門研究員の方。“遠藤周作と長崎との関わり”やキリシタン弾圧を通して心の深淵を描き出した代表作“「沈黙」について”などのお話がありました。あらためて長崎の歴史や人間について考えさせられる、たいへん興味深い内容でしたよ。(“)理解デキタト?((^,^;)ノ 実はコラムの読者の方からも「遠藤周作文学館」について知りたいというグッドタイミングなリクエストもあったばかりで、さっそく次の休みに「遠藤周作文学館」へ出かけて来ました。(^ー^ )アクションはハヤイ!▲遠藤周作文学館(長崎県外海町) 長崎市内から車で西彼杵半島の西側を通る国道202号線を30~40分北上したところにある遠藤周作文学館(西彼杵郡外海町)。ちなみにこの202号線は別名「サンセットオーシャン202」と呼ばれ、五島灘に沈む夕日を眺める海岸線が続く県内屈指のドライブコースなのです。(^^/絶景デス もしバスを利用するなら、長崎・新地のバスターミナルから「瀬戸板の浦」行きに乗り「黒崎支所前」で下車、そこから約5分ほど歩きます。バスだと所要時間は約1時間ほどです。(^◇^)バスも又よし 長崎市から外海町へ入ると、海が眼下に広がり山の緑とともに豊かで素朴で静かな自然の風景が続きます。どこかひそやかな佇まいを感じさせる外海町はキリシタンの里として知られ、小説「沈黙」の舞台となったところです。「遠藤周作文学館」は海も山も一望できる見晴しのいい丘の上にありました。▲自然が豊かな外海町 観覧料350円を支払って館内(開館時間:午前9時~午後5時)へ。生前の愛用品や膨大な蔵書が収蔵され、作家の生涯と足跡をたどる写真パネルや小さな字でぎっしり書かれた生原稿などファンにはたまらないものが多数展示されていました。ちょうど1周年記念企画展「作家の書棚より~書き込み本と狐狸庵(こりあん)アルバム~」が開催中(11月30日まで)で、創作の過程を垣間見られる資料をじっくり見ることができましたよ。ところで外海町にはこの文学館とは別の場所に遠藤周作ファンが訪れる場所があります。1987年に建てられた文学碑「沈黙の碑」のある丘です。除幕式の際は、夫妻で出席されたそうです。(¨)見たかったナ・・。 いつになく静かに物思いにふけった帰路、あいにくの曇りで夕日は見られませんでしたが、視界いっぱいに広がる濃紺の海は何だか心にしみる美しさでした。ふと浮かんだのは「沈黙の碑」に刻まれた言葉。『人間がこんなに哀しいのに主よ、海があまりに碧いのです。』(><)奥ガ深スギル~▲沈黙の碑(出津文化村内)「遠藤周作文学館」と外海町の情報はこちらからもどうぞ。http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/endou/

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  • 第39号【オランダ商館員の面白エピソード】

     アジサイが咲きはじめています。長崎ではアジサイといえばシーボルト。日本原産のアジサイに魅せられたシーボルトは帰国後、日本に残した妻・楠本滝(通称・オタキさん)の名にあやかり「ヒドランジア・オタクサ」という学名を付けました。そういう縁もあってアジサイは長崎市の市花に。街のいたる所にこの花木は植えられていて、これから梅雨が終わるまでブルーやピンクが微妙に七変化する花々を楽しむことができます。(^▽^)キレイカヨ~ さてアジサイの話とは打って変わって。今回は出島のオランダ商館員さんたちの話です。出島には商館長(カピタン)率いるオランダ商館員らは常時十数名ほどいました。荷物の管理者、会計担当者、書記役や医師などの役職にある彼等は基本的に出島の外へ出る事を許されず、貿易業務の少ない時期はたいへんたいくつな日々を送り、商館の中に設けたビリヤードに興じたり、遊女と戯れたりしていたそうです。▲ビリヤードに興ずる商館員 そんな中、今どきでいうなら三面記事に掲載されそうなエピソードを2つほど紹介します。1659年秋の某日。商館医師マルティン・レミが突如出島から姿を消しました。机に残された遺書によると、"遊女を愛しているが、自分のものにすることができない。だから死ぬよりほかにはない" という理由での失踪のようです。他の商館員や長崎奉行所の役人らはあわてて捜索をはじめ、出島はもとより民家や船、そして海中には網を投げるなどして長崎の町中を巻き込んでの大騒動になりました。そうして事件が解決したのは行方不明になってから3日目の夕暮れどき。出島の近くに停泊していた唐船の帆の下からひょいとレミが姿を現したのです。何でも失恋の末、海に身を投げるつもりだったのが、命が惜しくなり、さらには遊女に一目会いたくなって丸山へ向かおうと思っていたのだそうです。実際のところは空腹に耐えかねて出て来たところを無事に保護されたのですが、本当に人騒がせな話です。まあ、何といいますか「恋の病」は古今東西変わらぬようで…('-'*)。▲楽器演奏を楽しむ様子が伺えます。 もうひとつはちょっと悲しいお話。1811年冬、商館員スヒンメルがお酒の飲み過ぎで亡くなりました。せまい出島でのわび住まいに加え、その頃の世情も本国オランダがナポレオン軍に占領されていたためオランダ船の長崎への寄港が途絶えていて、商館員らは不安とあせりを感じていました。そんなストレスの多い日々を、スヒンメルは「人並みはずれた飲酒」で解消しようとしていたのでしょう。酒を飲み過ぎては治療を受け、周囲に迷惑をかけながら何度も禁酒の誓いをたてては破りをくり返していたそうです。(*^¬^*)ウィーッ▲食事風景(2階)と家畜の世話をする姿が見えます。 失恋も、お酒の飲み過ぎも現代によくある話。江戸時代のオランダ商館員さんたちがご近所の人のように感じませんでしたか?※各資料とも長崎県立美術博物館蔵「漢洋長崎居留図巻・長崎阿蘭陀出島之図」(画者不詳)より(一部)

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  • 第38号【謎に包まれた川原慶賀】

     今月中旬、長崎の地元新聞の一面にオランダで川原慶賀(かわはらけいが)の絵、2作品が新たに発見されたという記事が掲載されました。慶賀は江戸時代の町人絵師。その彼の話題が今、国民が大注目している新内閣の記事と並んでいるのを何だか不思議に感じながら、でも、やはり長崎にとって慶賀は重要な人物なのだなとあらためて思ったのでした。【“】ソウナノ? ご存じの方も多いと思いますが、慶賀は江戸時代後期に出島にやって来たオランダ商館医師シーボルトのお抱え絵師です。シーボルトの求めに応じて出島の様子や庶民の暮らし、職人の道具や植物など当時の日本の様子をさまざまな視点で描きました。▲蘭船入港図(蘭館絵巻)(長崎市立博物館蔵)先週お話しした唐絵目利(からえめきき)は日本側の絵師として西洋の文物を描きましたが、慶賀は西洋側の絵師として日本を描いたのです。ちなみに現存する彼の作品で国内に残っているのはおよそ100点ほどで、オランダには約1000点の作品が保存されているそうです。(’O’)タクサンアルンダ…。 通称・登与助(とよすけ)こと川原慶賀がどんな人物だったのかについては、残された作品の数とは逆に、資料も少なくたいへん謎が多いのが実情です。長崎画壇の中心的存在だった地役人・唐絵目利の文献資料にも慶賀の名は一切出てきません。これは士農工商という厳しい身分制度の時代、慶賀の身分が一介の町絵師にすぎなかったからだといわれています。(``)士農工商? 慶賀が出島に出入りできる絵師になったきっかけは慶賀の父で、同じく町絵師だった香山(こうざん)の交友関係にありました。香山と唐絵目利の石崎融思(※先週のコラム参照)が親しい間柄にあり、慶賀は父と融思に絵画の手ほどきを受けたと推測されています。そして慶賀が20代後半で「出島出入絵師」となった際、融思の強い後ろ盾があったと考えられています。融思はきっと慶賀の才能を見抜いていたに違いありません。〔’’〕ウンウン。▲瀉血(しゃけつ)手術図(長崎県立美術博物館蔵) 出島に出入りするようになってから12年後、慶賀はシーボルトと出会います。シーボルトは慶賀の優れた能力を知り、西洋の写実的な画法を徹底的に仕込んだそうです。当時のシーボルトの手紙や著作物にはしばしば「TOJOSKY(登与助)」の名が登場し、「無比に有能な画家」とまでいわしめています。(゛)スゴイ!▲シーボルト肖像(一部)(長崎県立長崎図書館蔵) ところで慶賀に関する文献資料が少ない中で実は2度、長崎犯科帳に罪人として記録されていました。1度目はシーボルト事件(1828年)に連座して約1ヶ月ほど牢に入れられています。2度目はそれから十数年後、国外不出とされていた藩の家紋を描き、オランダ人に渡そうとした罪で江戸並びに長崎払いの刑を受けています。その後、慶賀がどこで何をしていたのかというと、実はこっそり長崎にもどって来て眼鏡橋あたりで町絵師を続けていたようです。さて晩年の慶賀について…。また近いうちにご紹介しますね。(“)紙面がつきたからね

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  • 第37号【異国を描いた宮仕えの画家たち】

     南の方ではすでに梅雨入りした地域もあるようです。桜前線のあとは梅雨前線。日本の季節の流れと共に起きるさまざまな自然現象って本当に面白いですね。今は新緑がとても美しい。思わず見とれてしまいます。('_' )ジーッ さて先週、江戸時代の阿蘭陀通詞についてお話しました。彼等は「言葉」で異国の文化を国内に伝えましたが、一方「絵画」という方法で伝える者もありました。唐絵目利(からえめきき)といわれる地役人です。(□_□)メキキ? ここでいう唐絵目利の「唐」は海を渡って来たものという意味で使われ、外国を指すのだそうです。そして目利(めきき)といえば、私たちは「鑑定士」の事だと思います。確かに、唐絵目利のお役人さんも外国の絵画を鑑定していました。でもそれだけではありません。異国からやって来た鳥や動物等を写生して記録するのも大事な仕事のひとつだったのです。そしてたとえば珍しい鳥等が外国から入って来たとすると、まず写生したものを幕府に送り、欲しいかどうかを確認した後、実物を送り届けるということもしていたようです。メールで送るなんてことができない時代です。書簡のやりとりだけでもかなりの時間を要したに違いありません。〔“〕ウンウン。▲ヒトコブラクダ(作者不詳)(長崎市立博物館蔵) ところで当時の長崎は、貿易で入って来た南蛮絵や中国絵画などの影響を受けて洋画派、漢画派といったさまざまな流派の画家がいました。そんな長崎画壇の中心的存在だったのが、外国の絵画をいち早く目にすることができた唐絵目利の人々でした。彼等もまた阿蘭陀通詞と同じく世襲制の職業です。(当時はそれが普通。)名門といわれた荒木家では、今も日本の画壇に名を残す石崎融思(いしざきゆうし)、荒木如元(あらきじょげん)といった優れた画家を輩出しています。(~ヘ~;)ユウシ? ジョゲン?▲蘭人鷹狩図(一部) 荒木如元(長崎市立博物館蔵) 融思は長崎の名所や丸山遊女、そして唐人屋敷やオランダ商館など江戸後期の長崎の風俗を描いた「長崎古今集覧名勝図絵」(長崎市立博物館蔵)の作者として知られています。また鮮やかな色彩で描かれた「唐蘭館図絵巻」(長崎県立美術博物館蔵)は、建物や人物の様子がこまかくストーリー性を持って絵画化されていることから、文章の資料では読みとれないようなことがわかる第一級の資料として扱われています。ちなみに荒木家の石崎融思が「石崎」姓なのは、荒木家の子だった融思が、同じ唐絵目利の石崎元徳の家を継いだからです。石崎家へ融思を出した後、荒木家を継いだのは、養子の如元でした。如元はビードロ画や油絵を巧みに描き、日本における初期の洋画家を代表するひとりとなったのでした。(・_・)知ル人ゾ知ルオ話。▲蘭館図絵巻(一部) 石崎融思(長崎県立美術博物館蔵) 唐絵目利にしても阿蘭陀通詞にしても、当時は柔軟な感覚で養子縁組がされていたようで、個人の才能や才覚を上手く見極め、活かしながら家業を守り継いでいたようです。

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  • 第36号【江戸時代の通訳者、阿蘭陀通詞】

     Can you speak English? いきなりですが、どうですか?今の時代は海外へ行ったり、教室へ通ったり、教材を手に入れたりなど、その気さえあれば英会話を学ぶ機会はいろいろあって、いくらでも勉強できる、そんなありがたい環境です。でも、江戸時代ならどうだったでしょう?( ̄エ ̄;)?? 鎖国中の日本で、西洋の言葉といえば、出島を窓口に貿易をしていたオランダの言葉でした。そのオランダ語を日本語に訳していたのが出島に勤務する地役人・阿蘭陀通詞です。彼等の主な仕事は、オランダ船がもたらした風説書(オランダ商館長が幕府に提出した海外の情報書)や乗船員名簿、積荷目録などの翻訳をはじめ、入札や荷渡しといった貿易業務における通訳などで、業務が忙しい時期は夜も泊まり込みで仕事をしていたそうです。 )゜O゜(キツー▲出島で重要な存在だった阿蘭陀通詞「蘭館図(一部)」/石崎融思筆(長崎県立美術博物館蔵) 江戸前期、総勢150人はいたといわれる阿蘭陀通詞たちは「通詞仲間」と呼ばれる団体をなしていて、その基本構成は経験と実力によって上位から大通詞(おおつうじ)、小通詞(こつうじ)、そして稽古通詞(けいこつうじ)の3つの段階に分けられ、さらに各段階でこまかく諸々の役職が設けられていました。▲今集覧名勝図絵(長崎市立博物館蔵)また阿蘭陀通詞は世襲制の職業で、たずさわる家々は40家以上に及び、特に石橋、西、吉雄、馬田、本木といった家は優秀な人材を輩出することから名門といわれていました。(“)ホウ 阿蘭陀通詞は西洋の医学書や天文学といった書物を翻訳するのも仕事です。そういった西洋の知識を目の当たりにできる環境と、語学の才能に恵まれた通詞の中には新しい医術の開拓者となり医師として活躍する者もいました。その者の下には語学や医学の知識を得ようとする遊学者たちが全国から集ったといいます。吉雄耕牛(よしおごうぎゅう/1724~1800)はそんな優秀な阿蘭陀通詞を代表する人物です。彼は25才の若さで大通詞に昇進するほどの逸材で日本の蘭学の基礎を築きます。蘭方医としての名声も高くその門弟は600人に及んだそうです。江戸蘭学の祖といわれる前野良沢、杉田玄白の師でもあり、彼等が翻訳した「解体新書」の序文は耕牛によるものです。おそらく師の教えに感謝して序文を依頼したと考えられます。▲吉雄耕牛宅跡にあったレリーフ(長崎市万才町) さて鎖国下の少ない情報の中、現代のようにまともな辞書もない時代に、通詞たちはどのようにして通訳・翻訳の仕事をこなしていたのでしょうか。残念ながらその辺の様子にふれる資料は見つけられませんでした。しかし彼等の苦労は相当なものだったに違いなく、それこそ身ぶり手ぶりからはじめたのではないかと想像できます。 西洋と日本の媒介人という重要な役割を担いながら、その多くは名も無い地役人として生涯を過した阿蘭陀通詞たち。歴史に名を残した当時の蘭学者らの成功の影には常に彼等がいて、日本の学術の発展に大きな貢献をしたことをここに書き留めておきたいと思います。(._. )ゴクロウサマデシタ

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  • 第35号【長崎ペンギン水族館、オープン!】

     花のゴールデンウィーク、皆さんいかがお過しですか?こよみ通りに仕事していた人も明日からはいよいよ4連休!思いきり楽しんで、文字どおり“黄金の日々”を過しましょう! Yeah! o(^o^o)(o^o^)o Yeah! さてお出かけシーズンの今、長崎でもっとも注目を集めているスポットのひとつが「長崎ペンギン水族館」です。長崎市宿町に先月22日にオープンしたばかりで、毎日大勢の家族連れで賑わっています。この水族館では飼育日本一を誇る7種類(全119羽)のペンギンをはじめ世界最大級の淡水魚「メコンオオナマズ」、長崎県沿岸に棲息する魚たちなど、全部で約180種類、約9千の海の生き物たちを見ることができます。へ(*^o^*)Vちょっとすごい?▲4月22日にオープンしたばかりの長崎ペンギン水族館 実はこのペンギン水族館のオープンを、長崎市民はちょっとした感慨を持って受け止めています。それはこの水族館が4年前に経営不振で閉館した「旧長崎水族館」を引き継ぐものだからです。旧長崎水族館は1959年、原爆復興事業のひとつとして誕生。当初は東洋一の規模の水族館として注目されました。捕鯨船が南氷洋からペンギンを連れて来るなどして、水族館には少しずつペンギンの数が増え、1992年には日本で1羽のコウテイペンギン「フジ」が28年5ヶ月という国内最長飼育記録を残すなどペンギンの水族館として全国的に有名になりました。( ^ __________ ^ )▲フンボルトペンギン手を伸ばせば届きそう・・ かわいいペンギンたちやさまざまな海の生き物たちに会え、しかも遊園地も隣接していたこの旧長崎水族館。現在30代以上の長崎っ子の多くはレジャー施設の少なかった子供時代に、この水族館で過した懐かしい想い出を持つ人が多く、閉館を寂しがる声が多く聞かれました。それだけが理由ではないのでしょうが、閉館後も市民による水族館存続の強い要望が起こり、その念願がかなって「長崎ペンギン水族館」はオープンしたのでした。(^-^)//""パチパチ 長崎駅前から「網場・春日車庫前」行きのバスで約30分。「水族館」前で下車すると、そこはのどかな漁師町。新しいペンギン水族館は海に面した場所にありました。旧館から引き継がれたペンギンの高い飼育技術で、現在、39年!で、長寿世界一を更新中のキングペンギン「ぎん吉」さんに会いました。その背中はいかにも長老らしい味わいをにじませています。▲キングペンギンこの中にぎん吉くんがいるかも? 大型水槽を自由に元気に泳ぎ回るペンギンたちの姿は、まるで飛んでいるかのよう。でも陸地に上がるとヨチヨチ歩きで、いちばん小振りなイワトビペンギンは思わず抱きしめたくなるようなかわいさなのです。ペンギンの習性なのか、数匹が同じ方向を向いて立っている姿は、群れていながら一羽一羽が自立しているような印象でした。水中を泳ぐ為に進化を遂げたペンギンたちは、本当に美しく、愛らしく、訪れた人たちを和ませてくれますよ。(^^)/GO! GO!

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  • 第34号【出島は、なぜ扇型なの?】

     美しい扇形で知られる長崎の出島。江戸時代に描かれた長崎港湾の絵には、みな自然の海岸線とは明らかに違う、扇形がくっきりと描かれています。そう、出島は埋め立てで造られた人工の島なのです。では、なぜ扇形に造られたのでしょうか? 先に答えを言ってしまうと、実はその真相は闇の中なのです。期待させたのならゴメンナサイ。現在はいくつかの有力な説はあるものの、その内のどれともいいきれない状況なのです。それにしても人工の島ならば他の形もありえたかもしれず、また歴史上重要な役割を担った島なのに、その形の由来がはっきりしてないのはちょっと残念な話です。(-ρ-)ムネン▲1820年頃の長崎港と出島(絵葉書「長崎コレクション」より) さて扇形の有力な説をご紹介する前に、まず出島が造られたきっかけについて簡単におさらいします。そもそも出島はポルトガル人によるキリスト教の布教を阻止する為に江戸時代の初め1636年に造られたもの。長崎の街はそれ以前の安土・桃山時代からポルトガルとの貿易(南蛮貿易)や中国との貿易で栄えていて、幕府は、その頃から市中で自由に暮していたポルトガル人を、新しく造るこの島に強制的に住まわせることで、国を揺るがす恐れのある布教活動を取り締まると同時に南蛮貿易も掌握しようとしたのでした。(・△・)強引ダナ そうして長崎の町人(豪商)の出資で、埋め立て工事がはじまります。出資は民間でしたが、工事に直接手を下したのは当時の長崎奉行でした。奉行は大勢の人夫を雇い入れ、大々的に工事を進めたといいます。その甲斐あって、着工から2年後に広さ約1万5千m2の人工島を完成させたのでした。▲現在、復元中の出島にも扇のカーブは残っています さて話をもとにもどして出島が扇形である説について。現在3つの説が有力とされています。1つ目は『将軍の扇説』です。徳川家3代目の将軍・徳川家光が、長崎で造る小さな島の形についてたずねられた時、自らの扇を与えて「これを見本にするように」と言ったという説です。これはシーボルトの著書「日本」の中に出てくる話ですが、根拠が不明なため作り話だという人もいます。しかし全くありえない話でもないそうです。ヾ(^^) 2つ目は『波よけ説』です。海側をカーブにすると波の影響が少なくなるということで、なだらかな曲線を描く扇の形を採用したという説です。そして3つ目は『地形・地質説』です。出島はもともと中島川の河口に位置していたのですが、その河口にはすでに川から運ばれて来た土砂がたまり弧状の砂州(さす)が形成されていて、それを土台に埋め立てたのでないかという説です。その際に陸側は海岸線に沿って弧を描き、海側も埋め立て面積をできるだけ広くとるために弧を描いたので扇形になったのではないかといわれています。(・_・?) どの説をとっても、うなずけてしまうのですが、私はいろんな想像がふくらむ『将軍の扇説』が好きですね。あなたはどの説を支持しますか?それとも新たな説でも思いつきましたか?(^!^)▲出島の周辺には元の形に沿って目印の鋲が打たれています

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  • 第33号【西海橋で、うず潮見物】

     日本三大急流のひとつとして知られる細長い海峡(佐世保・伊ノ浦瀬戸)に架かる「西海橋」は、佐世保市と西彼(せいひ)半島を結ぶ橋。全長316m、海面からの高さ43m、“固定アーチ式”といわれる美しい形をしています。^◇^Beautiful Bridge!▲美しいアーチ型の西海橋 この橋は昭和30年(1955)に完成。当時の最高技術と、4年の歳月と、5億5千万円という巨費を投じ、東洋一を誇る固定アーチ式の橋として全国的に名を馳せました。急流とうず潮の海をダイナミックにまたぐ鉄のアーチを一目見ようと全国から大勢の人々が押し寄せたといいます。だから「西海橋」と聞いて懐かしい想い出がよみがえった方もいらっしゃるのではないでしょうか。ちなみにこの橋は日本初の有料道路橋としても名を残しています。{・〇・今は無料ダヨ さて、大村湾と東シナ海を結ぶこの伊ノ浦瀬戸のうず潮は、特に春の大潮の頃が見頃といわれ、直径10メートルほどの大きなうずを巻く事もあるそうです。毎年、この時期になると「観潮会」が催され、迫力のあるうず潮を楽しもうと地元や近隣から大勢の人が集まるのです。⌒_⌒Season!▲西海橋公園はたくさんの人で賑わっていました ところでなぜ、うず潮ができるのかというと、大村湾の海水が潮の干満の際にせまい瀬戸を一挙に通過するため潮流が速くなり、この時、海底の複雑な地形の影響を受けて起きるのだそうです。だから潮の干満の差が最大となる大潮(旧暦の1日と15日前後)の頃は、いつもよりも激しいうずが見られるそうです。うず潮は宇宙のリズムが起こす壮大な現象なのですね。◎☆◎wow! さて今年の「観潮会」は4月7日、8日の土日に開かれました。西海橋のたもとの桜の名所として知られる西海橋公園は、ちょうど桜の見頃を迎えていて、うず潮見物と花見の両方を楽しもうという人々で大賑わい。そして橋の上も見物人でぎっしり。その中に混じって瀬戸を見下ろすと、青い海をキャンバスに細い白波がまるでアートのようにいくつものうずを描き出していました。白波は消えたかと思うとすぐに別の場所に新しいうずを生み出します。橋の下へ降りて、うず潮を間近に見ると、潮に飲み込まれるのではないかと思うほどの勢い。潮の音も聞こえ、迫力満点です。海面は常に変化していて一瞬として同じ景色がないので、全く飽きません。時間が経つのも忘れて見入ってしまいます。あらためて自然ってすごいなと思いました。∪‐∪)トウゼンサ… 西海橋観光協会の人の話によると、ゴールデンウィークの頃も、いいうず潮が見られるとのこと。今回の「観潮会」を見逃した方や興味のある方は、お出かけになってみませんか? 余談ですが、西海橋から巨大な3本の塔が見えます。これは針尾無線塔(はりおむせんとう)で、真珠湾攻撃の暗号分「ニイタカヤマノボレ」が発信された無線塔です。▲針尾無線塔(高さ:137m)大正7年着工、11年完成

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  • 第32号【長崎のハタ揚げ】

     桜の花が見頃を迎えた4月はじめ。長崎の「唐八景(とうはっけい)」と呼ばれる山では市民1万人が集って毎年恒例のハタ揚げ大会が行われました。ハタ揚げは、夏の「精霊流し」、秋の「くんち」に並ぶ長崎三大行事のひとつ。この日も老若男女がハタ揚げに興じ、楽しいひとときを過しました。(“)ハタ? ところで「ハタ揚げ」と聞いて「?」と思われる方もいらっしゃることでしょう。長崎でいう『ハタ(旗)』とは他の地域でいう『タコ(凧)』のこと。それで、「タコ揚げ」といえば普通お正月の遊びですが、「ハタ揚げ」は昔から春先~梅雨前までがシーズン。この季節がやって来ると唐八景、風頭山(かざがしらやま)、金比羅山(こんぴらさん)、稲佐山(いなさやま)といった長崎の街をとりまく山々は、ハタ揚げの舞台となって賑わいます。ただ、ひと昔前に比べハタ揚げをする人や大会の数はずいぶん減ってはいますが…。【}ハタ≒タコ{】▲色鮮やかな長崎のハタは県の伝統工芸品に指定されています 長崎のハタ揚げの特徴は、ガラスの粉末を塗り込んだヨマ(糸)を使うところにあります。数十メートルもあるヨマの先にハタをつけ、空中に飛ばし1対1で相手のヨマを切り合います。巧みなヨマの操作と駆け引きの果てにどちらかのヨマが切られると、見物人たちの中から「ヨイヤー」の歓声が上がります。風と技量に左右される勝敗の行方。思わず見入ってしまう空中合戦です。ただハタを揚げるだけのシンプルな動作の中に、奥深い何かが隠されているようです。また長崎のハタの種類にはインドネシアやマレーシア方面から伝わった南方系と中国系のものがあり、図柄も外国旗や紋章、動植物などをモチーフにしたものが200種類以上もあります。そのひとつひとつが長崎の風土と歴史を物語るといわれています。[・。・]ホウ▲ヨマの手入れも怠りません専用のヨマかごもあります 長崎の伝統行事「ハタ揚げ」がいつ頃はじまったのかは定かではありません。江戸時代の前からという説や、出島でオランダ人に使えていたインドネシアの人が揚げたのがきっかけだという説もあり、出島側からと、海をはさんだ長崎側からハタを揚げ、親善合戦も行われていたとか…。いずれにしても江戸期の長崎では盛んに行われていたのは確かのようで、ハタ揚げの場所となった山は人で埋まり、空も大小無数のハタでおおわれるほどの盛況ぶりだったそうです。勝負で切り落とされたハタは拾った者のモノというルールで、若者や子供らはハタを奪い取るためにそこら中を走り回り、さらにケンカ、口論、大乱闘!?は毎度のことで、長崎奉行所はたびたび取締りのおふれを出したといいます。時には、畑を踏み荒らす、物干場や屋根をこわしてしまうなどの理由でハタ揚げ禁止となった時期もあるなど、長崎の庶民の常軌を逸した熱中ぶりが伝わって来るエピソードがいろいろ残されています。“]スゴッ! さて、近くの山へ繰り出し、空を見上げ、大地を踏みしめ、ハタを操れば、いつの間にか気分はスッキリ。私にとってハタ揚げは、いいストレス解消法なのでした。(^▽^)Y▲家族連れで賑わう唐八景

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  • 第31号【人情奉行、「遠山の…」】

      時代劇でおなじみの「遠山の金さん」は、桜吹雪の入れ墨が粋な江戸の町の人情奉行。テレビでは何度も再放送されたほどの人気者です。私も“しらす”での情け深いお裁きを、毎回楽しみに見ていた遠山ファンのひとり。今回はそんな名奉行の“父”が長崎に残した、これまた人情味あふれるエピソードをご紹介します。(☆☆)金さんのパパ? 舞台は江戸時代の長崎・出島。カピタン部屋で帰国を目前に控えたオランダ商館長のドゥーフが苦悩の表情を浮かべています。歴代のオランダ商館長の中で、もっとも長い間、出島に在職し大活躍したドゥーフ。彼は今、丸山遊女・瓜生野(うりゅうの)との間にできた息子・丈吉(じょうきち)をオランダへ連れて帰りたいと幕府へ願い出たものの、却下され困惑していたのです。▲ドゥーフはオランダ商館長として18年間在職した外国人の親を持つ子供に対する偏見の強かった当時の日本。かわいい息子を残していくことが不憫でならなかったドゥーフは、ならばと養育費を託し、息子が成人したら出島で仕事ができるようにと長崎奉行所に前代未聞の嘆願書を提出したのでした。(¨)親心だねえ… 前例がないこの難しい願いを快く引き受けたその人こそが、ときの長崎奉行、遠山左衛門尉景晋(とうやまさえもんのじょうかげみち)、あの「金さん」のお父さんだったというわけです。(“)金さんは、次男坊だって。▲長崎奉行所跡の石碑(長崎県立美術博物館敷地内) 自らも息子を持つ親としてドゥーフの心情を他人事には思えなかったのかもしれません。お奉行は約束を守り異例の取り計らいで14才の丈吉を地役人に任じました。さらには「ドゥーフ」と読める「道富」(みちとみ)という名字までも与えました。そこには、もう二度と会えないかもしれぬ父親の名を忘れず、誇りとして生きて欲しいという景晋の優しい思いがあったかもしれません。しかし残念なことに丈吉はまもなく17才の若さで亡くなっています。[´`]カワイソウ…。 ところで長崎奉行というのは、長崎の行政、司法、軍事全般を掌握、たいへんな権力を持っていました。特に貿易と外交が最も重要な職務とされ、唐やオランダとの貿易を監督し、諸外国に対して万一のときには将軍の名のもとに、号令を出す権限もあったほどでした。( ̄^ ̄)かなりエライ! その長崎奉行として遠山左衛門尉景晋が着任したのは1812から1816年のわずか4年。この頃の長崎はオランダ船があまり入港せず、財政が困難な時期でもありました。景晋は役所の雑費を節約させ二割減を成功させるという功績も残しています。【^▽^】ヨッ、節約上手! 現在、長崎奉行所の立山役所跡(現:長崎県立美術博物館)には、往時を偲ぶ池や石燈籠が発掘されています。その中に「遠山左衛門尉家中」の文字が刻まれている石燈籠が見つかっています。金さんのお父さんが確かに長崎にいたんだなあと実感できるうれしい証拠品です。▲遠山左衛門尉家中の文字が入った石燈籠

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  • 第30号【桜前線北上中!】

     テレビの天気予報コーナーでは、桜前線北上の様子が毎日伝えられています。全国的なお花見のシーズンはこれからだし、桜の話題はもうしばらくは続きそうですね。3月中旬の気象庁の発表によると、今年の開花は全般的に平年並み。長崎・宮崎・和歌山・横浜・東京はおとといの26日が予想開花日ということでしたが、長崎ではその予想より4日も早い22日に開花。今月末から来月初め頃に満開を迎える予定です。┏(⌒⌒)┘【'〇'】┛オハナミニイコウ!▲満開に開いた桜の美しいこと 気象ハンドブックの「桜前線」の項を読むと『桜の花が咲いている地域と、これから咲く地域の境目に引いた線は、天気図の前線とよく似ているので、桜前線と呼ばれている』と書いてあります。この前線が全国的に普及している桜の品種「染井吉野(ソメイヨシノ)」の開花日を基準にしているのはあなたもご存じですよね。【□□】!学校で習ったっけ?▲取材中に見かけた菜の花の鮮やかな黄色にウキウキ気分 ちなみに「開花日」とは花が数輪以上咲いた状態になった最初の日をいい、「満開日」とは約80%の花が咲き揃った状態になった最初の日をいいます。染井吉野の場合、開花してから満開になるまでに5日~1週間くらいかかるそうです。ここで各地域の予想開花日を見比べてわかるのは、東北や北陸、北海道を除く大半の地域が、入学式の頃に満開の時期を迎えてるということ。入学式に間に合わなかった地域でも、新学期の初々しい時期と桜の季節が重なるのは言うまでもありません。だからはじまりの季節のさまざまなエピソードに、桜の風景はつきもの。小学校に入学して間もない花冷えの日、先生にどうしても「トイレに行きたい」と言えず、とうとうおもらし。寒さと冷たさのあまり桜の花が雪に見えたのを今でもしっかり憶えています。(><)ゞハズカシカァ! それにしても桜は、大切な約束でも果たすかのように毎年、きっちり見事な咲きっぷりで私たちを楽しませてくれます。その律儀さが日本人の心をくすぐるのかもしれませんね。また花びらが散る様子や、散った後の若葉の輝きも、日本人好みの風流な美しさ。桜には底知れぬ魅力があるようです。【●●確かに…。 さて長崎県内で有名な桜の名所をひとつご紹介するならば、やはり大村市の大村公園です。ここは「全国さくら百選の地」に選定されていて、満開の時期になると約2000本の桜の木が公園一帯をピンク色に染め上げます。その中にひときわぽってりとボリュームのある淡紅色した桜があります。これは「オオムラザクラ(国指定天然記念物)」という品種で、花びらが60~200枚もあるという珍しい桜です。大村公園は長崎空港の近くにあります。機会があったらぜひ寄ってみて下さい。▲全国さくら百選にも選ばれた大村公園の「オオムラザクラ」

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  • 第29号【観光バスに乗ろう!】

     最近、県外ナンバーが目立ちはじめた長崎の街。今年も春の観光シーズンのはじまり、はじまり!ということで今回は、長崎をもっともお手軽に見て回れる観光バスについてご紹介します。\(^.^\) 観光バスの発着場所は長崎駅の構内にあり、ここから朝9時~昼15時まで1時間毎に1本、そして夕方からは18時、19時の2本、合計9本が毎日運行しています。所要時間は出発する時刻(コース)によって違いますが、だいたい3時間~4時間15分。夕方からの便を除くコースはすべてグラバー園、大浦天主堂、平和公園、原爆資料館等の主要観光スポットを網羅しているので、半日位しか時間がない時や、無駄なくいろんな場所を巡りたいという人には、特におすすめします。^^)good!▲長崎駅前で出発を待つバス参加者9人はちょっと寂しかった 料金は、たとえば10時発(4時間15分コース)は、昼食付きで、大人4260円、小人2060円。昼食のメニューはチャンポンや皿うどん等長崎名物を味わうことができます。また15時発(3時間コース)は大人2150円、小人1020円。いずれも施設入場料金含みで、かなりお得です。(・▽・)リーズナブル! 試しにと今回、私が乗ったのは夕方6時発の「むらさきの夜遊覧」コース。所要時間3時間20分で、〈平和公園~べっ甲資料館、めがね橋~長崎港近くのホテルで夕食~稲佐山(いなさやま)ロープウェイ〉という内容。食事は和食か洋食のいずれかを選べます。観光案内所で料金の4930円を支払い、目の前に止まっている観光バスに乗り込むと、悠々50名は乗れるようなバスに、参加者はわずか9名。この少なさは、たまたまその日が休み明けの平日だったからとか。乗客はみな県外からの観光客のようで、親子や夫婦、サラリーマン等。夕方からのこの便は出張中のサラリーマンが、せっかく観光地に来たのだからと利用されるみたいです。【“】長崎らしいね。▲うっすらと暗くなってきた平和記念像の前で 観光バスのいいところは、やはりバスガイドさん。ゆっくりとした口調で話す歴史やエピソードは、もう何十年も同じような文面が使われているのだろうと思われ、少々レトロな雰囲気が漂ってなかなか味わいがあります。「長崎の鐘」、「長崎の夜はむらさき」といった昔のヒット曲も飛び出して、隣の座席に座っていた老夫婦は感慨深い表情で、一生懸命拍手をしていました。(∧〇∧)♪こよなく晴れた青空を~ ホテルでの夕食は、和風のカウンター席で。今回は偶然にも全員が和食を選んでいたらしく、9つの膳が並べられていました。新鮮なアジの姿造りや豚の角煮、揚げ物、茶わん蒸しなど、長崎の郷土料理・卓袱料理風の品々がズラリ。お隣に座っていた新潟のミセスも「こんなお食事が付いて、お得ですよね」と満足げ。最後にロープウェイで稲佐山に登って見たむらさき色の長崎の夜景は、とてもきれいでしたよ。(※・。・※)ロマンチックやわ~▲稲佐山から見た1000万$の夜景はため息が出るほどきれいでしたよ

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  • 第28号【お江戸の春の風物詩、江戸参府!】

     ご近所の庭先から風が運んで来る沈丁花(じんちょうげ)の香り。この時期、いろいろな場所で新しい季節の変化が見られます。あなたはどんなことに春を感じていますか?(∪_∪)お日さまと眠気かな…。 今回は江戸の春を賑わしたカピタン(オランダ商館長)の江戸参府のお話です。江戸時代、各藩の大名が参勤交代で定期的に江戸へ上がったように、カピタンも江戸へ出向く義務がありました。これはオランダが幕府に貿易を許可されていることに対して謝意をあらわすのが目的で、将軍にご挨拶をし、西洋の珍品を献上するという習わしになっていました。(“)カピタンの参勤交代?▲カピタンの江戸参府の行列シーボルト著「日本」より カピタンの江戸参府は1609年にはじまり、18世紀の半ば頃、5年に1度に改められるまで、ほぼ毎年行われています。カピタン率いる江戸参府のメンバーは、医者や書記、阿蘭陀通詞、そして長崎奉行所の役人など。出発はだいたいお正月の頃(旧暦)、冬の最中に長崎を旅立ったのでした。 一行はまず長崎街道に入り下関へ。そこから兵庫まで海路を利用。兵庫からは大阪、京都を経て東海道を行く陸路を辿っていたとか。そうして江戸に到着するのが、毎年春頃だったのです。(・〇・)長い旅路だねえ…▲長崎街道の石碑(長崎市桜馬場) さて花のお江戸に到着した一行は日本橋本国町にある定宿「長崎屋」に宿泊。商館医ツュンベリーの記述によると、『長崎屋の通りに面した部屋の外には見物人が集まり、中には塀をのぼって覗き込む者もいて、チラリとでも異人を見ると大きな歓声を上げていた』そうです。物見高いは江戸の常。好奇心旺盛な江戸庶民で賑わう長崎屋の様子をあの葛飾北斎が描き残しています。また芭蕉の『紅毛も 花に来にけり 馬の鞍(くら)』『かぴたんも つくばいにけり 江戸の春』という句を詠んでいることからも伺えるように、カピタンらをとりまく騒ぎはまさに江戸の春の風物詩だったようです。[□□]ホウ、北斎も、芭蕉も…。▲江戸城で将軍に拝謁の図「ケンペル江戸参府紀行」より 長崎屋での彼等は、旅の疲れを癒す間もなく多忙な日々を送っていました。江戸の蘭学者や医者、文化人たちが西洋の知識を得ようと次々にやって来ていたからです。日本の学者らがあまりにいろんな質問をして来るものだから、『煩わしい訪問者』と記述したカピタンもいるほどです。しかしこれは一部の話で、総じてオランダと日本の両国がお互いを親しく観察できるいい機会になっていたと推測されています。余談ですが杉田玄白、前野蘭化が訳した「解体新書」の原本はこの長崎屋で譲り受けられた書物だそうです。長崎屋は、西洋への唯一の窓口だった長崎の“出窓“として重要な役割を担っていたのですね。

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