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  • 第504号【美しい長崎の眺望。稲佐山と鍋冠山】

     残暑お見舞い申し上げます。日中、厳しい暑さではありますが、夜ベランダに出て虫の声を聞くと、かすかに秋の気配が感じられます。夜風に揺れる風鈴の音色に、心もからだもクールダウン。平和な夏の夜です。昨日8月9日は長崎原爆の日。71年前のこの日の夜をこの街の人々は一体どのように過ごしたのでしょう。当時を知る身内や原爆を体験した語り部の方々の話を思い出しながら想像します。普段は忘れてしまっているけれど、大きな犠牲をはらって、いまがある。原爆の日は、戦争のない普通の日々の尊さをあらためて気付かせてくれます。  炎天下、長崎のまちのあちらこちらできれいな花を咲かせているのが夾竹桃(キョウチクトウ)です。インド原産で、日本へは江戸時代に中国経由で入ってきたそうです。花は桃の花に似て、葉は竹の葉に似ているのがその名の由来だとか。排気ガスなどに強いとされ温かい地域では街路樹として利用されています。広島市では、原爆投下後いち早く花を咲かせ人々に希望を与えた花として、市花に制定されています。長崎でもあの夏の日につながる慰霊の花のひとつです。  夾竹桃の花が揺れるまちを行き交う人々。夏休みの真っ只中ということもあり、お子さん連れの観光客の姿が目立ちます。長崎の夜景スポットとして知られる稲佐山(標高333m)へひさしぶりに出かけると、ロープウェイの駅舎がリニューアルされ、すっきりした装いに。乗り場では、アジア各国の観光客が行列をつくって乗車待ちをしていました。  そろそろ日没という時刻に全面ガラス張りのかっこいいゴンドラで山頂へむかうと、展望台はすでに人でいっぱい。この時期、日本の西端にある長崎の日没は19時過ぎ(東京より30分以上も遅い)。刻一刻と変化する市街地の眺めは新たな道路や建物の光も加わって、美しさを増したようでした。  稲佐山から港をまたいだ向こうに側には、この春、リニューアルしたばかりの鍋冠山(なべかんむりやま)の展望台の電灯が見えました。鍋冠山は、グラバー園(南山手)の背後にある山で標高169m、稲佐山の半分ほどの高さです。新しい展望台は、半円形を描く広い眺望スペースが設けられています。市街地や長崎港内をより近くに見渡し、港の沖合に浮かぶ世界文化遺産の軍艦島も望むなど、稲佐山とはまた違った長崎の景色を楽しめます。ふだんは人も少なめでのんびり展望を楽しめるのですが、大型クルーズ船の入出港時は、展望台が混み合うほど大勢の人が訪れるそうです。  鍋冠山の展望台へは、長崎バスの「うみかぜ」というコミュニティバスで行くと便利(二本松団地バス停下車、徒歩約15分)です。もうひとつのルートで、グラバー園の第2ゲートから10分ほどで登れる階段もありますが、この秋くらいまで整備のための工事が入り利用できないそうです。   長崎観光のパンフレットやハガキでおなじみの景色を楽しめる稲佐山や鍋冠山。日常が美しい平和な長崎の景色を、この夏、ライブで眺めてみませんか。

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  • 第20回 異国の菓子物語

    はじめに私が本紙に「長崎開港物語」料理編を書き始めてたのは平成4年11月で今回が其の20回にあたる事と、「みろくや」が一般市民のため平成4年9月より年6回開講してきた「長崎食の文化講座」が、今年は其の10周年を迎えるという記念すべき年であるので、私の未発表の食文化関係資料と本紙に登載した長崎料理物語を一冊に編集し「十周年記念誌」として今秋には発刊して下さるとの事である。そこで、今回は料理の方向を少し変え、長崎異国趣味の菓子物語を紹介する事にした。1.異国の菓子物語西川如見が「長崎土産物」として広めた、2種類の異国趣味の菓子。▲サラセン模様絵皿長崎の開港は1571年のポルトガル船の入港に始まるのであるから、当然、長崎異国趣味の菓子は南蛮菓子、唐人菓子の順で始まっている。  南蛮菓子・唐人菓子の名を長崎名物の菓子として全国に広めたのは西川如見である。如見は長崎の貿易商西川家に慶安元年(1648)に生れ幼少の頃より儒学・天文・地理・暦学を修め、特に天文学者としては世に大いに認められ、亨保3年(1718)将軍吉宗によって江戸に招かれ天文・地理学を講義し、多くの著書も発刊している。其の中でも我が国最初の地理書といわれる「華夷通商考」は有名である。 その如見が長崎の歴史風土を記述し、亨保4年(1719)序文をのせ、京・大阪・江戸・の三都の書林より発刊している「長崎夜話草」があり、其の巻5に「長崎土産物」の項がある。その中に長崎には特産の菓子2種類があることをあげ次のように記している。○南蛮菓子色々。ハルテ、ケジヤアド、カステラボウル、花ボウル、コンペイト、アルヘル、カルメル、ヲベリヤス、パアスリ、ヒリョウス、ヲブダウス、タマゴソウメン、ビスカウト、パン、此外猶あるべし。○唐菓子色々。香餅、大胡麻餅、砂糖鳥、羅保衣、香沙?、火縄餅、胡麻牛皮、玉露?、賀餅頭、此外猶多し此唐人伝也2.南蛮菓子不ラ路とはポルトガル語の菓子の意。型により丸ボウル、花ボウル、カステラボウル。▲スペインの水差し(越中文庫)初期の南蛮菓子を紹介した文献に一つに東北大学内狩野文庫に収蔵されている「南蛮料理書」(狩第六門1978)がある。その中より菓子に関するものを取りあげてみる。一、不ラ路の事  小麦粉の粉壱升に白砂糖五十目、しを水にてこれうすくのべ厚さは五分ばか里にしてくるまて切、なべに紙をしき、上したに火を置き、やき候也。口伝あり不ラ路とはポルトガル語のBolo(菓子)のことである。現在は佐賀の名物の「丸ボーロ」として知られているし、前出の「長崎夜話草」にはカステラ・ボウル。花ボウルの名が記してある。これは型によって丸ボウル、花ボウル、カステラボウルと区別されていたと考える。 更に同書にはカステラ・ボウロの事について次のように記してある。 たまご拾二に、砂糖を六十目、麦の粉弐百六拾匁 この3品を加て鍋に紙をしきて、こをふり、そのうへに入れ、上したに火を置いてやき申也。口伝有之 このカステラの語源であるが、ポルトガル語でCasteloと言えば積みあげる、又は城などという意味である。又一説には昔、スペイン国のCastela地方の人より伝えられた菓子であるからカステラと言うと論ずる人もいる。現在ポルトガルではこの種の菓子はPao-de-loとよばれていてカステラという名称の菓子はない。恐らくカステラは城のように大きく膨らんだ菓子と言う意味であろうと私は考えている。この菓子は江戸時代の初期には既に全国に其の製法が伝えられていたが現在のカステラとは其の材料が違っている。それは現在のカステラは明治時代以降、前記砂糖、卵子、麦粉の3品の材料の他に水飴が加えられるようになったからである。これは中国より明治以降導入された中国菓子の製法に影響をうけたからである。3.ボウロをつくる鍋ポルトガル人によって持ち込まれた、ボウロをつくる鉄蓋の天火(オーブン)▲17世紀初期 南蛮趣味の日本人ボウロをつくるには鉄鍋に入れ其の鍋の上に火を置いて焼き申し候、といっている。従来の日本における鍋の蓋は全て木で造られており、その木蓋の上に火を置いて焼くことは出来ないことである。我が国には従来オーブン(天火)はなかったのであるが、ポルトガル人の来航によってこの種オーブン様式の鍋が持ち込まれたのである。 我が国における「天火」は鉄で平鍋をつくり、其の上に鉄で平板をつくって鍋蓋とし、その鉄蓋の上に炭火を載せ、ボウロをつくっている。この種「天火」を長崎の人達は引釜とよんでいる。それは、この種「天火」の鉄蓋は熱くて手で持てないので「引き棒」で引き下ろしていたからである。 鉄蓋の天火を考案したのはポルトガル人が16世紀マカオに進出し、其の地を基地として活躍するようになったとき、同地の人達の工夫で造られたものでと考えている。 ポルトガル人はパン(Pao)を我が国では常食としていた。前出の「南蛮料理書」には其の製法を次のように記している。一、はんの事麦の粉を甘ざけにてこね、ふくらかして津くり、ふとんにつつみ、ふくれ申時、やき申候、口伝あり然し、江戸時代禁教時代になるとパンは「キリシタンに関係あり」として一般には食べることが禁止されていた。(以下次号)第20回 異国の菓子物語 おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第503号【夏到来!鳴滝で司馬作品と出会う】

     先週、梅雨明けした九州。本格的な夏がはじまって、連日セミの鳴き声で目を覚ますという方も多いことでしょう。日中、暑さを逃れひと息ついた公園の木陰で、ふと、幹に目をやると、シャワシャワシャワと鳴くクマゼミが何匹もいて、びっくり!足元を見るとセミが抜け出た穴があちらこちらに。持っていた日傘を差し込んで深さをさぐったところおよそ5〜6センチ。この土の中で数年を過ごしたことを思い再びセミを見上げると、いきなりオシッコをかけられ、あやうくシリモチをつきそうになりました。  家事や仕事に明け暮れる大人になっても、セミの鳴き声に包まれると、童心に返り当時の夏の記憶が鮮やかによみがえることがあります。昆虫採集に夢中になったこと、毎日のように海で泳いだこと、蚊帳のなかでお化けの話を聞かされ泣く泣く眠った夜のこと…。あなたはどんな夏の思い出がありますか。  長崎のまちを歩けば、夏を告げるサルスベリがあちらこちらの庭先で花を咲かせています。眼鏡橋がかかる中島川のアオサギは、水しぶきを浴びて気持ち良さそう。中島川の支流のひとつが流れる鳴滝地区へ足を運べば、山々の緑は強い日差しのもとでいっそう濃く見えます。足元の畑には、俳句で秋の季語とされる、「えのころぐさ」(ねこじゃらし)が生い茂っていました。ちなみに、来月7日は「立秋」です。  野山はめくるめく季節を教えてくれます。この暑さも、ずっと続くわけではありません。ならば、季節に寄り添いつつ、暑さを忘れる日々の楽しみを見つけながら過ごしたいものです。この夏、「シーボルト記念館」で開催中の企画展「司馬遼太郎と幕末維新の群像」は、司馬作品のファンや幕末・明治の歴史に関心のある方々にとっては、そんな楽しみのひとつになるのではないでしょうか。  今年、没後20年を迎えた司馬遼太郎(1923-1996)。『竜馬がゆく』、『坂の上の雲』など名作の数々を世に送り出し、いまも新たなファンを生みながら読み継がれています。長崎やシーボルトにとくにゆかりのある作品としては、『竜馬がゆく』のほか、日本近代兵制の創始者・大村益次郎を描いた小説『花神』、医療の視点で幕末から明治維新の時代を描いた『胡蝶の夢』などがあります。  この企画展では、そうした作品の引用文に、シーボルトの娘イネ、シーボルトを尊敬したポンペ、長崎で蘭学を学び大坂で「適塾」を開いた緒方洪庵、そして坂本龍馬など、小説に登場する人物の資料を添えて紹介しています。登場人物にまつわる史実を知れば、初めて読む方はもちろん、既読の方も、より深く、広く小説を楽しめると思います。  かつて西欧の医学を学ぼうと日本各地の俊英たちが足繁く通った「鳴滝塾」。その跡地にたつ「シーボルト記念館」では、緑陰に包まれたシーボルトの像が迎え入れてくれます。「司馬遼太郎と幕末維新の群像」は小さな企画展ですが、今回のような司馬作品関連の展示は長崎では初めてのことだとか。平成28年8月28日(日)まで開催です。  ◎取材協力:シーボルト記念館 (長崎市鳴滝2-7-40)TEL095-823-0707        月曜日休館

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  • 第502号【ハスの花咲く唐比へ】

     泥水のなかからスクスクと長い茎を伸ばし白やピンクの多弁の花を咲かせるハス。仏教にゆかりの深い花として知られていますが、その姿はやはりどこか神秘的で美しい。清しい芳香とともに、古くから人々に愛されてきた花です。  ハスの名所として知られる「唐比ハス園」(長崎県諫早市森山町唐比)へ行ってきました。「唐比ハス園」は、橘湾に面した唐比海岸そばの唐比湿地公園内にあります。長崎市街地からは、国道251号線を雲仙方面へ走るバスに乗って小1時間ほど。諫早駅からは唐比行きのバスで約40分です。  「唐比ハス園」の広さは約2.5ha。地元のボランティアグループが長年コツコツと手入れを続けながら、その規模を徐々に拡大してきたそうです。ハスの花と同じくらいの高さに木造りの通路が張り巡らされているので、どこからでもハスを一望できます。園内には十数種類のハスと数種類のスイレンが植えられていて、ハスは8月上旬まで、スイレンは初秋まで楽しめるとのことでした。  この日、花を咲かせていたのは、「唐比古代ハス」、「ミセススローカム」、「王子ハス」、「誠ハス」など。色合いや花弁の形にそれぞれの美しさがあります。おおぶりのハスの花を引き立てているのが、さらに大きな緑の葉っぱです。露を受けて水玉を転がしている光景が涼しげでした。  花びらを落とし、花托があらわになったものもありました。花托の表面に空いた複数の小さな穴は蜂巣を思わせます。これが、ハスの古名である「ハチス」の由来ともいわれています。ちなみに花托の穴は、その中で育っているハスの実の通気口の役目を果たしています。ドングリくらいの大きさに育つハスの実は、自律神経を整えたり、疲労回復にも効果があるとして薬膳の食材として利用されます。地下にのびる茎は、おなじみのレンコン。また葉も食用に用いられ、花びらも花茶として楽しめます。ハスは花も実も葉も根も利用できるすごい植物なのです。  すごいといえば、ハスの生命力です。その強さを証明するきっかけのひとつとなった「大賀ハス」を園内で見ることができました。美しいピンク色をしたこのハスは、戦後、土器や石器が出土する落合遺跡(千葉県)で発掘されたハスの実を、植物学者の大賀一郎博士が発芽に成功させたものです。その実は、二千年前の弥生時代のものと推定されるものでした。  ハス園を訪れる際のポイントは、午前中に楽しむということ。「花は日の出とともに咲きはじめて、昼を過ぎたら閉じてしまうからね」と近くで農作業をしていた地元の方が教えてくれました。   島原半島に入る直前に位置する「唐比ハス園」一帯は、「島原半島ジオパーク」に含まれています。「島原半島ジオパーク」とは、地球のダイナミックな営みを観察できる公園のことで、海岸や温泉、田畑など、たくさんのジオサイトが点在するネイチャースポットです。ここ唐比湿地からは25万年前の火山灰も見つかっています。また、ハス園に隣接する唐比海岸は、橘湾と島原半島、天草の島々を一望する眺めがすばらしく、新観光百選にも選ばれています。とにかく、静かでのんびりできる唐比。この夏、足を運んでみませんか。

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  • 第19回 長崎開港430年

    長崎開港430年▲南蛮の小鉢(越中文庫)長崎の開港は元亀(1571)の初夏である。最初に長崎に入港してきたポルトガル船の船長はTristao Vas de Vesigaといった。当時の長崎の町は、港の中につき出ていた岬の上に新しく建てられた教会(サン・パウロ)と其の前に開かれた6町があった。そして其の町の住人は全て他国より移住してきた信者の人達で1,000人前後はいたようである。以来、毎年のようにポルトガル船が定期的に入港したので、他国の商人達が集まってきた。そして其の町の発展には目をみはらせるものがあった。協会の神父さん達は全てポルトガル、スペインの人達であり、ポルトガル船の人達も自由に町中を歩き、町の人達もすべてが信者であったので毎日曜ごとの教会のミサには、いつも信者で溢れ、ラテン語の賛美歌が遠くまで響いていたそうである。前号で私は、其の当時長崎の町でつくられたパンや輸入されてきた砂糖の事について記したので今回はその他の南蛮料理について考えてみることにした。1.平戸の南蛮料理長崎の南蛮料理のルーツは平戸の町にあり。平戸城の中にも南蛮料理を作る料理人がいた。▲スープを飲む南蛮人(越中文庫)長崎の南蛮料理のルーツを訪ねてゆくと、其処には長崎の開港よりも半世紀前(1520年)に既にポルトガル船の入港があり、以来南蛮貿易の街として栄えていた平戸の町がうかんでくる。そして平戸の町にも教会が建てられ信者の人達も多くいたのであるが、平戸は長崎の町とは違い古い城下町であり寺院や神官、山伏などの力も強かったので、事あるごとにキリシタンの人達と争っていた。然し当時の平戸の町は南蛮貿易の町として賑わっていたのである。1560年頃、平戸の町の様子をフェルナンデス神父は次のようにローマに書き送っている。平戸の人達は何でも食べるのですが、お坊さん達は牛肉を食べない。この地にはポルトガルと同じ食料がありますが其の量は少ないのです。平戸の人達の中には労働をしない人がいて其の人達は飢餓(貧乏)です。又この地方は寒いのです。これによっても平戸では既に牛肉豚肉が食べられていたことがわかる。現在も平戸の土産に「カスドス」という菓子がある。このカスドスの語源はカステラ・ドスというポルトガル語と考えている。カステラは我が国では一般にポルトガルの菓子(Pao-dose)であり、ドスはdose(甘い)でるので、甘いカステラの意味である。現在のカステラは非常に甘いが初期のカステラは甘味が少なかったので蜂蜜をつけたと記してある。その故に平戸のカスドスには今も蜂蜜が加えられているそうである。平戸には、この他にも南蛮料理の話がある。1621年スピノラ神父の手紙の中に「自分が平戸のお城に呼ばれた時、殿様からポルトガル式の肉の振舞いがありました」。又他の同神父の他の手紙には「城から帰ったとき夕食に冷たいけれども肉のパイ及びパンと鶏肉が運ばれ、平戸の殿よりポルトガルと日本の良い酒が贈られた」と記してあった。オランダ商館も1641年長崎出島に移される以前は平戸にあったので、オランダ人も最初は平戸に住んでいた。当時平戸オランダ商館日誌を読むと之にもヨーロッパ風料理が平戸の町で作られていたことや、当時の平戸の殿様は「鶏のむし焼き」が好物であったと記してある。そして平戸城の中には此のような南蛮料理を作ることのできる料理人がいたのである。2.長崎南蛮料理のルーツ長崎の南蛮料理は1571年の開港と共に始まる。▲江戸時代長崎港図(純心大学博物館蔵)長崎の南蛮料理のルーツは、前述したように長崎より約半世紀も前に開港した平戸の人達によって伝えられたと考えている。一体、半世紀近くも親しんだ平戸の町を離れてポルトガルの人達は何故長崎の港に来たのであろうか。そこには平戸の領土松浦隆信と大村領主大村純忠との勢力争いが第一の理由である。ポルトガルの史料によると、「松浦氏の一部の人達の中にポルトガル商人団に好意を持たない者がいる。次にキリスト教徒に不親切な人達がいるので、吾等に厚意を示している大村氏の領内の港に貿易港を移す」と記している。ポルトガル船は大村純忠と必要な協定を結び1561年7月には大村領内横瀬浦(現・裁西海町内)に入港、貿易を開始している。純忠は翌1562年6月、26名の家臣と共にキリスト教に転宗、霊名をドン・パルトロメと称した。じつに素早い行動である。之に対して反純忠派は同年11月末、横瀬浦を焼き払っている。1565年純忠は再起して長崎港外福田の港を開きポルトガル船を迎えている。神父達は1567年福田の隣り長崎村に布教を開始している。そして其処にすばらしい港を発見し1570年港を測量し、大村純忠の協力もあって1571年長崎開港となった。この時平戸の信者達は大勢移住し平戸町を作っている。ここに南蛮料理のルーツが開かれたのである。第19回 長崎開港430年 おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第501号【東洋と西洋のドラゴン・アイズ】

     すももが出回る季節になりました。すももの酸味(リンゴ酸、クエン酸)は疲労回復に効果があり、食物繊維の働きでお腹の調子も整えてくれます。何となく気分も体調もスッキリしない梅雨どきにうれしい果物です。  すももは、バラ科サクラ属の落葉小高木。枝に小ぶりの実が付いた様子は梅にも似てかわいいですね。ところで、沖縄にはすももと同時期の果実で、「竜眼(リュウガン)」と呼ばれるものがあるそうです。こちらはムクロジ科ムクロ属の木。ライチに似て、とってもジューシーだとか。名の由来はその形が「竜の眼」を思わせるからだそう。  長崎には、この果物と同名のかまぼこがあります。ゆで玉子をアジやイワシ、サワラなどのすり身で包み、油で揚げたものです。名前の由来もやはりその形が竜の眼に似ているからなのでしょう。てっきり、どこでも作っていると思っていたら、転勤族の知人らに聞いてみると、長崎以外では見たことがないという人ばかり。ということは、長崎の郷土料理ということでしょうか。  70代の地元の女性数人に話をうかがうと、「竜眼は、伝統料理とまでは言わないけれど、比較的新しい長崎の行事食かもしれないね」とおっしゃる。というのも、戦後間もない頃までは、玉子はとても貴重で、竜眼は作られていなかったと思われること。その方々が竜眼を食べるようになったのは、食生活が豊かになりはじめた昭和30年代半ば以降で、その頃から主にお正月や運動会、行楽時に作る行事食のひとつであったそうです。  ところで洋食に、「スコッチ・エッグ」というものがあります。イギリスでは惣菜の定番のひとつで、ゆで玉子をミンチで包み、パン粉を付けて揚げたものです。18世紀にロンドンのデパートで作られはじめたのが、イギリス中に広まるきっかけになったという説があります。ルーツをさらに辿ると、大航海時代にイギリスが拠点のひとつとした東南アジアから伝わったという説もあります。  長崎の「竜眼」も、「スコッチ・エッグ」も、玉子を包む素材がお肉か、魚かの違いだけで、作り方も姿もよく似ています。さしずめ「西洋と東洋のおいしいドラゴン・アイズ」といったところでしょうか。もしかしたら、長崎で竜眼が根付いたそもそものきっかけは、江戸〜明治期に全国でもいち早く西洋料理を見たり味わったりする機会があった歴史のなかで、すでに玉子をお肉で包んだ料理を目にしていて、手に入りやすかった魚のすり身で応用したということも考えられます。  一方で、「竜眼」はその名前も姿も、どこか中国料理っぽさがあります。長崎の郷土料理には、同じ「竜(龍)」が付く料理で、「飛竜頭(ヒリュウズ、ヒロウス)」があります。中国ゆかりの普茶料理(精進料理)の一品ですが、その名はポルトガル語で揚げ物の一種を意味する「フィリョース」に由来し、漢字を当てたものともいわれています。ちなみに、「飛竜頭」とは豆腐にニンジンやゴボウなどを混ぜて作る「がんもどき」のことです。   料理の名の由来や作られはじめたきっかけを辿っていくと、たくさんの枝葉に分かれ、収集がつかなくなります。ただ、ひとつ言えるのは、おいしいものは時代や地域性に応じた変化を遂げながら食べ継がれるということ。昔ながらの郷土の味をいただくことは、そうやって時代をくぐり抜けてきたパワーをいただくことでもありました。

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  • 第500号【人々と風土のたまもの】

     庭に植えられたザクロの花が咲きはじめた6月1日は、秋の大祭「長崎くんち」の稽古始めの日とされる「小屋入り」。今年の踊町である六カ町(上町・筑後町・元船町・今籠町・鍛冶屋町・油屋町)は、午前中に諏訪神社と八坂神社にお参りを済ませ、午後からは「打ち込み」(くんち関係先への挨拶)に廻りました。紋付の黒い羽織に唐人パッチ(ステテコ)姿の役員さんたち、担ぎ手や演者、そしてシャギリ(囃子)の人たちがまちを練り歩く姿は颯爽として、本番(10月7・8・9日)への期待感が高まりました。  賑やかな小屋入りの行列が通り過ぎた街角で、静かに咲いていたのが中南米原産の「トケイソウ」です。花のつくりが時計の文字盤に見えたのがこの和名の由来です。一方、英名は「passion flower」(パッション・フラワー)で、「キリストの受難の花」を意味するとか。16世紀、中南米に派遣されたイエズス会の宣教師が、この花の個性的な姿が十字架やイバラの冠などキリストの受難を象徴するものに見えたことから、そういう意味を持つラテン語の名前で呼び、のちに英語に訳されてパッション・フラワーになったそうです。  宣教師たちによって布教活動にも利用されたというパッション・フラワー。この花が日本へ渡来したのは享保年間(1716〜1736)だといわれています。当時の日本は鎖国下にあり、キリスト教は禁止の時代です。こんな曰く付きの花が一体どのようなルートで日本へやって来たのでしょうか。トケイソウは、ちょっと不思議なその容姿も相まって、いろいろな物語を想像させる花であります。  眼鏡橋がかかる中島川のそばに咲いていたトケイソウ。川面に目をやると、アオサギが獲物の小魚をじっと待つ姿がありました。中島川では、これまで数種類のサギを見かけましたが、毎年春になると新しい顔ぶれに変わるよう。現在、常連で見られるのは2羽のアオサギのみ。ここ数年、どこかペンギン似のゴイサギの姿はなく、半年前に見かけたシラサギもいません。サギ類は、各地に生息していて田んぼやあぜ道に限らず、まちなかを流れる川などでも見かけます。あなたのまちのサギはどんな様子でしょうか。  6月4日、九州地方は梅雨入り。タイサンボクの大きな白い花や、南天の小花がそぼ降る雨にぬれています。めぐる季節のなかで、港に出て海上から長崎のまちを見渡せば、恵まれているばかりとは言えない風土のなかで、長い寒村の時代を経て、16世紀からは商人のまちとして栄え、伝統の祭りやカステラ、ちゃんぽんなどのおいしい名物を生み、さらには平和の尊さを伝え継ぐまちとなった怒涛の歩みに感慨のようなものがこみあげてきます。   どの時代にも言えるのは、長崎はつねに近隣の地域や日本各地、さらには世界各国の人々とのさまざまな関わりやつながりに支えられてきたということ。人知れず大海原を越え長崎港を渡る潮風は、何にも記されることのない星の数ほどの人々の営みの先に私たちがいて、未来の人たちがいることを教えてくれるのでした。

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  • 第18回 長崎食文化の夜明け

    1.長崎食文化の夜明け長崎人が最初に口にした南蛮の味は、ホスチヤ(初期のパン)と葡萄酒。▲荷揚げ 山下南風作(純心博物館蔵)我が国ではポルトガル、スペインより来航する船を南蛮船といい、オランダ、イギリスより来航する船を紅毛船又はオランダ船といった。ヨーロッパより最初に我が国に来航した船は南蛮船である。それは1543年初めてポルトガル人が種子ヶ島に来航してより間もなくの事であったという。南蛮船は鹿児島、坊ノ津、豊後、博多などに寄港し、1549年には平戸、1571年には長崎の港に入港している。以来、本格的な我が国とヨーロッパとの通商が開始され、今年はその南蛮船が長崎に初めて入港して430年という記念の年である。この南蛮船の長崎入港には、長崎地方の領主大村純忠が熱心なキリシタンであった事とイエズス会の神父達の協力によるものがあった。その南蛮船が長崎に初めて入港して430年という記念の年である。住民は全てキリシタンの信者であり、そして此の町には神社もお寺も一つも建っていなかった。ポルトガルの人達は長崎の街中を自由に歩くことができたし、日本人女性と家庭をもっていたポルトガル人の人達も多く住んでいた。その故に長崎の町ではポルトガル風の南蛮料理や南蛮菓子がつくられ、ポルトガル語の会話もできた。私はその当時の長崎南蛮食の文化史を『第1回 西洋料理編(一)』に記しておいたので今回は其の続編として稿を続けることにした。長崎の人達が、最初に口にした南蛮の味はパンと葡萄酒であったに違いない。それはキリシタンの人達は必ず教会に行き洗礼をうけ、パンと葡萄酒を戴くことから始まるからである。パンはポルトガル語のpaoを語源としているのでポルトガル人が最初にこの言葉を我が国に伝えたものである事がわかる。パンは小麦粉さえあれば比較的容易にできるのであるが、我が国にはパンを焼く釜「オーブン」はなかったので日本では鍋を改良してパンを焼いたにしても一応の指導をポルトガル人にうける必要があったに違いない。▲ポルトガルの皿(越中文庫)我が国初期のパンは主として教会で作られていたのである。1599年10月28日付マニラ発・メスキタ神父のパンについて次のような報告書がある。京都でつくられた金箔のホスチヤの箱を去年おくりました。その中には日本の小麦でつくったホスチヤを入れておくりました。ホスチヤ(ポルトガル語hostia)については1600年(慶長5)6月長崎で発刊された「ドチリナキリシタン」を読むと次のように記してある。パンの上に、キリストの教え玉う言葉(聖書の言葉)をとなえ玉えば、それまでのパンは、即時にキリスト様のお身体の一部と変じホスチヤとなり玉う・・・・これ不思議のことなり。要約すると、同じパンであっても聖書の言葉を上からとなえると信仰的なものとして崇められるものになると言うのである。先日、長崎西坂町にある二十六聖人記念館を訪ねたら多くのキリシタン遺品の中に17世紀初期につくられたホスチヤがあった。そしてこのホスチヤこそ我が国に現存している唯一の初期のパンであろうという。2.我が国の食文化に大きな影響を与えた砂糖考南蛮船による砂糖輸入に始まる、調理用としての砂糖使用。▲ポ南蛮船の積荷 一般に我が国で砂糖を調理用として使用するようになったのは南蛮船による砂糖輸入に始まるとされている。1563年来航し1597年長崎で歿し日本についての種々の記録を残しているイエズス会のフロイス神父は日本人の食に関しても次のように記してある。1. 吾れ吾れ(ヨーロッパ人)は甘い味を好むが日本人は塩辛いのを喜ぶ。1. 吾れ吾れは砂糖、卵をつかって麺類を食べるが日本人は芥子や唐辛子をつかう。1.日本人の汁は塩からい。日本人は吾れ吾れのスープを塩気がないという。然し1600年を過ぎる頃には南蛮船が長崎に毎年運んでくる砂糖の味を日本人は楽しみ次第に次のような砂糖菓子がつくられているとポルトガルの文献に記してある。Sato Mochi(訳文) 砂糖を中に入れ餅。Mochi 米で作った円いBollo(菓子)。Yocan 豆と黒砂糖をまぜて作る菓子。Sato インド、アフリカで作る甘味。1600年以降の南蛮船の積荷を調べると次第に砂糖の積荷が増えている。そしてポルトガルの貿易記録には「白砂糖は仕入値が百斤につき15匁であるのに長崎では百斤30~45匁で売れ、黒砂糖は日本人が好むので仕入値百斤4~6匁に対して40匁~60匁に売れる」と記してある。そして1655年頃になると我が国の人達も黒砂糖より白砂糖を好むようになり1700年頃(元禄時代)の記録には「白砂糖二百五十万斤、氷砂糖三十万斤、黒砂糖七・八十万斤」を輸入したと記してある。我が国で使用される砂糖は全て長崎に毎年入港してくる唐蘭船によって大いに繁昌していたと言っても過言ではない。その故にか、今でも長崎料理の味は他所の味付けに比べて「甘い」と言われている。第18回 長崎食文化の夜明け おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第499号【去来と長崎】

     中島川の上流では、オシドリがこの春生まれの子どもたちを連れて、のんびり泳いでいます。沖縄は一足早く梅雨入りしましたが、長崎はまだ五月晴れの爽やかな日が続いています。そんな中、紫陽花の季節がはじまって、夏服姿の人も増えてきました。  紫陽花や帷子時の薄浅葱(あじさいや かたびらどきの うすあさぎ)  芭 蕉 帷子とは夏用の麻の着もののこと。夏衣になった梅雨前、うっすらと青緑色を帯びた咲きはじめの紫陽花の初々しい姿を詠んでいます。長崎の紫陽花もちょうどいま、この句のような感じ。これから梅雨にかけて色合いが濃くなり七変化を楽しめます。  蕉門十哲のひとりである向井去来(1651-1704)に、紫陽花の句を見つけることはできませんでしたが、この季節の山の緑を詠んだものがありました。みずみずしい若葉におおわれた山の表情がまっすぐ伝わってきます。  ひかりあふ二つの山のしげりかな   去 来  芭蕉の信頼も厚かったと伝えられる去来は、長崎生まれ。長崎市立図書館そば(長崎市興善町)に「去来生誕の地」の碑が立っています。父、向井元升(げんしょう)は、儒学者で儒医でもありました。また出島に輸入されてきた海外の書物の内容を確認する「書物改め」もつとめていました。また、私塾の輔仁堂を開いて民間の子弟へ学問を教え、さらに長崎聖堂(学問所)を建立するなどしています。元升は、去来ほど知名度はありませんが、長崎の歴史に大きな影響を及ぼした人物です。別の機会にあらためてご紹介したいと思います。  さて、去来は8歳のとき父の意向で一家そろって京都に移住。十代後半には母方の親戚である福岡の久米家に身を寄せ武芸に励み上達するも、思うところあって二十代半ばで京都の家にもどります。そこでは、儒医としての名声を高めていた父の医業を継いだ兄・元端をサポート。その一方で天文学や暦数の知識を活かし、皇族や公家の家に出入りしていたそうです。  その後、去来が芭蕉に師事するようになったのは三十代半ばのこと。芭蕉は去来を高く評価し、「鎮西俳諧奉行」とまで言わしめたほどでした。去来は、身内が居住していたこともあり、たびたび故郷・長崎を訪れたといわれていますが、はっきりとした記録に残っているのは、40歳(1689年)のとき(約2カ月滞在)と、49〜50歳のとき(約15カ月滞在)の帰郷です。40歳のときの短い滞在中は、身内に問われるままにおしみなく俳諧の奥義を説いたとか。長崎を去るとき、日見峠まで見送りにきた卯七(義理従弟)との別れを惜しみ、「君が手もまじるなるべし花薄」の句が詠まれました。この句は約100年のちの1784年に長崎の俳人たちによって句碑が建立され、現在も日見峠に近い場所に残されています。  49歳のときの帰郷では、いろいろな人に招かれて度々句会に参加。長崎の俳壇に大きな影響を及ぼしました。高潔で恩愛の人であったといわれる去来。諏訪神社、春徳寺、梅香崎町、飽の浦町など長崎市内には去来ゆかりの場所がいくつも点在しています。興味のある方は、訪ねてみてはいかがでしょうか。  ◎  参考にした本/「俳諧の奉行 向井去来」(大内初夫・若木太一 著)、「向井去来の句碑・足跡を訪ねて」(宮川雅一 著)

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  • 第498号【大きなクスノキをめぐる】

     長崎港を囲む山々は青葉若葉におおわれて、すっかり初夏の装い。なかでも目を引くのが黄緑色のみずみずしい葉を茂らせたクスノキです。この時期は小さな白い花がたくさん付くので、若葉がますます輝いて見えます。あらためて長崎にはクスノキが多いことを実感する季節でもあります。  クスノキ(楠)は南の木と書くように、暖かい地域に育つ樹木です。「緑の国税調査」(環境省の自然環境保全基礎調査のこと)によると、クスノキの分布範囲は関東以南の太平洋側、とくに九州地方に多く見られるとのこと。九州のなかでも鹿児島は、特にクスノキとのゆかりが深いところのようです。江戸時代、出島を通して西洋に輸出された品物には銀や銅、漆製品、伊万里焼などがありますが、クスノキを原料に作られる樟脳もそのひとつでした。当時の樟脳の主な製造・輸出元は薩摩藩。そうした歴史もあって、クスノキは鹿児島の県木にもなっています。  クスノキは寿命が長く、巨木になる樹種です。スギ、ケヤキ、イチョウなども大きく育ちますが、「緑の国税調査」の全国巨木リストをみると、1位の鹿児島県蒲生町の大クス(幹回り24.2m)を筆頭に、上位の大半をクスノキが占めていて、ダントツで日本の巨木を代表する樹木であることが分かります。  さて、地元長崎の県下各地には樹齢数百年ともいわれる大クスが数多くあります。長崎市中心部では、「大徳寺の大クス」(西小島町)がよく知られています。樹齢は800年くらいと言われ、幹回りは約13m。長崎県内では島原市有明町の「松崎の大クス」と1、2位を競う巨木です。ところで、クスノキは常緑樹ですが、葉の寿命は約1年で、春、新葉が出る頃に落ちます。「大徳寺の大クス」の下は、この春の落ち葉でいっぱいでした。  諏訪神社や松森神社がある上西山町の山の斜面もクスノキが多く見られます。クスノキは英語で「カンファ・ツリー」といいますが、居留地時代、長崎にやって来た外国人が、この一帯の山を「マウント・オブ・カンファ」(クスノキ山)と呼ぶほど目立っていたようです。松森神社の境内にはクスノキが群れ、もっとも巨大なものは「松森の大クス」と呼ばれています。8mはあるという太い幹から天に伸びた枝葉、がっしりとした根はどこか神聖さを帯び、思わず手を合わせてしまいます。   浦上駅近くの山王神社境内入り口にそびえる2本の「被爆クスノキ」も長崎市内でよく知られる巨木です。数年前、このクスノキをモチーフにした歌が注目され参拝者が増えました。被爆する直前まで葉を茂らせ涼しい木陰を提供していたであろう2本のクスノキは、強烈な爆風と熱線を受け無残な姿になりました。しかし2年後、息を吹き返したかのように新芽が出て、71年後の今日に至っています。五月の風が吹き抜ける昼下がり、この木の下で耳を澄ませば、心地良い葉ずれの音が聞こえてきます。この音は、長崎県で唯一「日本の音百景百選(環境省)」に認定されたとか。いつまでも奏でてほしい平和の葉音でありました。

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  • 第17回 阿蘭陀料理編(二)

    地方史研究に外国文献を取り入れ、新分野「長崎学」を開拓した古賀十二郎。▲ポルトガルの絵皿(越中文庫)今年の長崎には"ながさき阿蘭陀年"の各種行事に軌をあわせるように、なかにし礼先生の小説・長崎ぶらぶら節の直木賞受賞、それに続いて市川森一先生の脚本、深町幸男先生の監督による映画化で観光地長崎は今更ながら全国的に大きく認められてきた。この小説の主人公は実在されていた古賀十二郎先生と名妓愛八である。古賀先生は長崎の二十世紀を代表される博学の人で明治12年長崎五島町の旧黒田藩御用達で素封家萬屋の長男として家督を継いでおられる。先生は長崎商業高校を卒業後、東京外国語学校に進学、やがて郷里に帰られて以後は長崎県立図書館の創立など長崎文化の推進に尽くされている。先生の学風は従来の地方史研究にみられなかった外国文献を大いに取り入れられ研究されたことで、ここに新しく、「長崎学」という新分野を開拓された功績は各方面より高く評価されている。1.長崎学における食文化長崎人の食習慣などを集録した、代表的著者「長崎市史風俗編」▲平戸三川内焼 デミタス・カップ(越中文庫)古賀先生の代表的著者に長崎市史風俗編があり其のページ数は上遍742ページ、下遍330ページの大冊で大正14年11月長崎市役所より市史佛寺編、神社編などと共に出版されている。風俗編は18章に分類され其の第9章が衣食住であり、同章の第2節(P618~700)が料理となっている。料理は先ず1,卓袱料理。2,南蛮料理。3,ターフル料理。4,長崎料理。5,揚屋。6,待合。7,料理屋。8,鰻屋。9,鋤焼屋。10,食事。11,牛肉類其他食用の禁。12,夜打。13,菓子其他。14,煙草と阿片。に分類されている。この内第10食事というのは長崎人の平常もちゆる食事のことが集録されている、その中より2、3の事を拾うとイ)長崎人の家庭では朝飯は冷飯の茶漬けに香のものを用う。味噌を朝飯に用うることはない。これは贅沢な家庭にてもこの習慣あり。 但し客人に対しては朝飯でも汁物、魚肉類を出すことは云ふ迄もなし。ロ)冬になると朝芋がゆを用うることもあり。天明8年(1771)長崎に遊学した司馬江漢の日記の文に「11月11日、雨天、朝・・・・・・夫よりしてサツマ芋の粥(かゆ)を喰ふ。」と記してある。2.長崎学とターフル料理ターフルとは、蘭語の食卓の意。パン、酒類など出島オランダ屋敷の食生活を解説。▲色絵コンプラ正油瓶(越中文庫)ターフルとは蘭語のTafelに外ならぬのである。そして食卓と云う意味を持っている。と先生の説明は始まっている。そして続いてパンの説明が記してある。パンというのは蘭語ではなくポルトガル語paoスペイン語でpanと称した。蘭語ではbroodというが長崎人にあわせてパンと言っていた。パンはオランダ人の主食で長崎の街に唯1軒のパン屋があり、毎日数をきめて焼かれていた。そのパンは出島オランダ屋敷に納入するだけの数が焼かれ日本人にはパンを売ることは禁止されていた。それはキリスト教とパンとは関係があり、「パンはキリスト教の肉、葡萄酒はキリスト教の血なり」と教会で教えられていたからである。出島のオランダ人と長崎のパン屋との間には次のような取り決めがなされていたと1649年8月4日の出島オランダ商館日記に記してある。向う1年間は1匁に10個のパンのかわりに善く焼いた目方もちがわぬパン11個半ずつ納めると言ってきた。これで目方65匁のパン100個であったのが115個となった。次にターフル料理によくでてくる言葉としてはボートルという言葉がある。古賀先生は「ボートルとは蘭語のboterである」と説明され元禄15年(1702)6月13日より来崎していた土佐藩士吉本八郎右衛門の日記を引いて出島のオランダ人の食生活について次のように説明されている。パンと申す小麦粉にて仕候餅に、牛の乳を塗り申候更に、先生は明和2年(1765)刊行の「紅毛詩」を引用されてバタは「牛の乳をねりつめたものなり。紅毛人諸食物にまじへ食す。日本の鰹節を用ふるがごとし。此もの丸薬となし、衣に砂糖をかけ小児の百日ぜきに用ゆ、効あり」と説明されている。洋食器の中にフォークがあらわれてくるのは出島のオランダ式の食卓からで、ポルトガル船の時代にはまだフォークがあらわれていない。先生の論考には次のように記してある。ホルコという。蘭語Vorkにあたる。蘭語辨惑には「物をこの器にてさし喰ふ俗に関さしといふなり」とある。長崎ではホコと称する。長崎名勝絵には三刃鑽と記し右傍にホコと片暇名をつけている。英語にてはforkという。ターフル料理には酒類もいろいろある。葡萄酒、麦酒、アラキ酒、焼酒の名をあげられている。このうち麦酒は蘭語のbierに外ならぬのである。蠻語箋には「麦酒 ビール」とある。亦長崎の出島で編集されたドーフハルマ辞書にはBiter Oomogite Kosiraje-tar' nomi mono.とある。ビールも亦紅毛船によって長崎に舶載されたものである。アラキ酒はよく出島オランダ屋敷の招待客のもてなしに食卓に並べられている。アラキ酒は蘭語orakと云う。ポルトガル語ではaracaスペイン語ではaracフランス語ではarack、英語ではarack(or racl)その母語はアラビヤ語aragに見いだすのである。古賀先生は更に言葉を続けられてアラキ酒は我が国では阿刺吉、荒気など書いた。蘭領インドのバタビヤ産のアラキ酒は最良のものである。アラビヤ語のaragは汗または汁という意味を持っている。東インドのイスラム教徒の間にこの言葉は普及した。そして強い酒と云う意味である。そして古賀先生は「これは要するに強い酒である」と結ばれている。古賀先生は上述のように東京外大の御出身で語学には非常に堪能であられ、この酒の解説は先生ご自慢の文であられた。第17回 阿蘭陀料理編(二) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第497号【崇福寺の吉祥文様と大釜】

     熊本地震で被災された方々には心からお見舞い申し上げます。長崎にとって熊本はお隣の県。熊本が揺れるとき、長崎はその余波を受けながらも日常生活への影響はなく、熊本・大分で避難生活をおくる方々へ多くの人が思いを寄せています。いま現地へはボランティアが入れるようになり、各地の自治体などで被災地への支援物資の受付がはじまっています。状況を見極めながら、微力でもできる支援を続けていきたいと思います。  クスノキの若葉がまぶしいこの季節。九州ではツツジが満開。アヤメ属の花々もあちらこちらで咲きはじめています。長崎市鍛冶屋町にある唐寺、崇福寺へ足を運ぶと花期を迎えた「カラタネオガタマ」がバナナに似た甘い香りを漂わせていました。モクレン科オガタマノキの仲間のひとつで、やや黄色をおびた花びらをもつ「カラタネオガタマ」は中国原産。江戸時代に日本に伝わったといわれています。ちなみに日本のオガタマノキの花びらは白です。  崇福寺の「カラタネオガタマ」は、参道の階段を上った先にある「第一峰門」(国宝)のそばに植えられています。1696年頃に建てられた「第一峰門」は、吉祥文様が彩り豊かに描かれた朱色の門扉です。扉に施された青いコウモリ、白いボタンの花が目を引きます。軒の部分にも、瑞雲、丁子、方勝(首飾り)、霊芝など、福につながる意匠がぎっしり描かれています。この絵のタッチは、いまどきのイラストめいていて楽しい。崇福寺ではこうした縁起かつぎの意匠が各所に見られます。そのご利益が被災者の方々に届くことを願いながら境内をめぐります。  江戸時代初期、長崎在住の福州のひとたちが唐僧・超然を招いて創建した崇福寺。境内はどこかおおらかでのんびりとした空気が漂い、日本の寺院とは違う趣き。国宝の大雄宝殿(本殿)をはじめ三門、媽祖堂、鐘鼓楼など多くの建造物が重要文化財や史跡に指定されているだけあって見応えがあります。  境内の一角には、大きな釜が祀られています。4石2斗のお米を炊くとされるこの大釜は、二代目住職の千がいが飢餓救済のためにつくったもの。そのきっかけは、延宝8年(1680)の全国的な不作による米不足でした。お米を諸国に頼っていた長崎は翌年には餓死者が出るという状況に見舞われます。大釜は不作の影響が続いていた2年後に完成。多い日には3千から5千人に及ぶ人々に粥を施したそうです。   いつの時代もさまざまな天災に見舞われ、日常生活を脅かされてきた日本。その度に、人々は助け合い、のりこえ、いまに繋いできました。未曾有の災害といわれるものでも、必ず復旧・復興の日は来ます。たいへんな状況にある被災者の方々が、まずは、きょう一日を無事に過ごされることを祈っています。

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  • 第496号【教会のある里山の植物】

     桜前線は青森あたりに到達したでしょうか。長崎のソメイヨシノは葉桜へ移行中。残りわずかな桜の花びらが静かに舞う春の休日、長崎市は外海(そとめ)地方へ足を運び、教会めぐりとのどかな里山の風景を楽しんできました。  西彼杵半島の南西部に位置する外海地方は、長崎駅から車で小1時間ほどのところにあります。半島の海岸沿いをいく国道202号線は、サンセットロードと呼ばれ、五島灘に沈む美しい夕日の名所として知られています。その道路沿いに、南から黒崎教会(上黒崎町)、出津教会(西出津町)、大野教会(下大野町)が点在。いずれも海に近い静かな里山の風景のなかに建っています。  「黒崎教会前」のバス停から石段を登ったところに建つ黒崎教会(1920年完成)。山の緑を背景にした煉瓦積みの外観が目をひきます。この地域は遠藤周作の小説『沈黙』の舞台となったことでも知られています。車から降りて最初に出迎えてくれたのは、イソヒヨドリです。教会の屋根の十字架の上から、まるでおしゃべりでもしているかのように鳴き声を響かせていました。鳥好きの知人によるとイソヒヨドリは、ヒトが鳴き声をマネすると、それに返答することもあるそうです。  黒崎教会から国道を北上。途中、遠藤周作文学館があり、その向こう側に丘の上に建つ出津教会(1882年完成)が見えてきます。出津教会は、風あたりの強さに耐えられるよう建物は低めで堅牢な設計になっているとのこと。出津文化村とよばれる教会周辺を散策していたら、ムサシアブミ(サトイモ科)を見かけました。黒紫色で縞模様のある花は、葉や茎とともにおおぶりで目立ちます。地域によってはレッドデータブックに記載される植物です。  出津教会から202号線をさらに北上して、山の中腹に建つ大野教会(1893年完成)へ。途中、山の斜面から海側を見渡せば、沖合にかつて炭鉱の島として栄えた池島が見えます。大野教会は石造りの小さな教会堂。出津教会もそうですが、フランス人のド・ロ神父が私財を投じ、信者さんたちの奉仕によって建造されています。ド・ロ神父は建築に造詣が深く、黒崎教会も敷地造成や設計などで関わっているそうです。  新緑と土の香に包まれた大野教会周辺の土手や道端では、紫色の小さな花をつけたキランソウ(シソ科)がたくさん生えていました。「ジゴクノカマノフタ」という別名を持つこの植物は、咳を鎮め、痰をのぞき、解熱や健胃の効果もある生薬にもなるとか。ちょっと怖い別名は、「病気を治し、地獄の釜に蓋をする」という意味なのだそうです。   近くには、四方竹(しほうちく)も生えていました。中国南部が原産の細めの竹で、茎部分が四角なのが特長です。長崎市では鳴滝塾跡(現・シーボルト記念館)の庭園の一角でも見られます。めずらしい竹だと思っていたら、高知県にも生えているらしく、煮物や炒めものなどにして食べている地域があるそうです。四方竹のタケノコは秋採れ。アクが少なく、歯ざわりも良いとのこと。江戸時代、密かに信仰を続けた大野教会周辺の集落でも食べられていたかもしれません。

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  • 第16回 阿蘭陀料理編(一)

    1.幕末から明治初期の洋食最初のパスティに始まり、ペール(梨)コムポットまで13種。▲古渡オランダ皿(越中文庫) 私は前号で紹介した東北大学狩野文庫所蔵の「阿蘭陀料理煮法」と「阿蘭陀料理献立」を参考にしながら幕末より明治初期の洋食を今回は述べてみたいと考えている。  両書共に最初に出されている西洋料理としてパスティをあげている。その料理の材料としては家鳩、鶏かまぼこ、椎茸、ひともじ、ささ燕巣、鶏卵、粒胡椒、肉豆蒄の粉と記しその調理法は、○家鳩は四つ割りにしてボートルを以・赤く色つく様に炙り焦付ときは水を少しづつふりかけ撹する也。○鶏の肉コウ(かまぼこ)鶏の肉を細くさき、鶏肉、ビスコイト、粉胡椒、肉豆蒄の粉を入、塩を加えまぜ合わせおおよそ竜眠肉の大きさに丸くし鳩同様にボートルにて焚る。○鶏卵はゆで長さに四つきり右の具を一同にし胡椒の粉、肉豆蒄の粉を加え鶏汁にて煮込む。2番目の料理はケレーフトソップと記してある。その調理法については次のように記述してある。○材料。伊勢海老肉コウ、椎茸、ひともじ、海老を丸ながらゆで頭を去、竪に2つに切りて肉を抜き取り細くたたき、ひともじをきざみ、粉胡椒、肉豆蒄の粉、鶏卵、塩、ビスコイ此6品を加え撹ぜかまぼこを造る。これを海老のからにつめボートルにて煮る。煮方はゆで海老の頭をつき砕き鶏汁に入れ撹ぜ布にて漉しアクを去る、此汁にて上の具を煮塩を加え塩梅するなり。3番目の料理としては次の2品がでる。1,ゲコークト・ヒス(ゲコークト=煮物・ヒス=肴)鯛鱈鰈の類1,ゲブラード・ハルク(ゲブラード=揚物・ハルク=豕)炙豚 ボートル但是よりペールコンホット(梨子)まで13種あり。上のゲーコクト・ヒスを引取り、その跡に一同でる。ゲーコクト・ヒスの煮方は、魚・鯛、鱈、鰈の類の鰓腸を去り、塩水にて煮る。からし・ボートルにてゆるめ煮魚を浸し食す。1,ケブラード・ハルク 豚の体股を取、毛皮を去り、膝節より足先を切、接股のさかいの所に割のかたを付て二重になしてまげ糸にて伸びぬようにくくり付け水にてよく煮、汁を捨てる。ボートルおおよそ茶碗2盃入る。色つく様になるまで煮る。折々水をうちふり鍋に煮付ぬように煮あげ、其汁に塩を加えかけ汁とする也。但し豚に限らず野猪・羊・野牛の類いづれも是に倣ふ。2.阿蘭陀料理煮法鴨料理、小鳩料理、紙焼鶏等から菓子、スープの調理法まで。▲九谷焼金彩赤絵蓋茶碗 この後、料理はゲブラードフウドル(鶏料理)ケブラードアンドホヤゴル(鷺料理)他鴨料理、小鳥料理、紙焼鶏、焼豚、焼鰻、蒸魚の料理と続き次の野菜料理3品を用意する。○ゲストーフトラアプ(蕪菁) かぶらを蒸し芹葱を置て細くきざみ、ボートル・ビスコイト粒・胡椒の粉・肉豆蒄の粉を入れ撹ぜ塩を加え鶏汁をいれ煮て塩梅す。○ゲストーフトゲルウヲルトル これば前述の材料が胡蘿蔔とかわる。○スピナアジイ(菜または千さの類を用う) 野菜を柔らかにゆで鉋丁を以て至て細かにたたきボートル胡椒の粉、肉豆蒄の粉を加え鶏汁にて堅くにつめ若汁多き時はビスコイトを加えて塩梅す。鉢に盛るときは其上をハアカにて平らめに慣て其上に鶏卵を四つ割にしてならべ別にパンを上にきせる。竿まわり長さ一寸余りに拵えボートルににて焚、是を鶏卵のあいあいに御して置なり。 次にペールコムポットが用意される。その製法は次のように記してある。梨子の砂糖煮 梨を丸むきにし蔕付の所より穴をあけしんを抜去。水にてゆであげ穴の所より砂糖をつめこみローイウエを似て煮込むなり。但、肉桂少し香気に加え又砂糖を入れ汁を密の如く濃く粘るようにするなり。折々に梨子に汁をかけ赤く色つくように煮るべし。ローイウエインというのは葡萄酒のことであり、ボートルとはバターのオランダ語である。スコイトというのはビスケットのことであり、その作り方は次のように説明されている。○パンを薄くはき臼に晒し細末にす。悉なる時はパンの上皮をはき去り内の水に浸しぶりて用也。パンの拵様は次にのぶ。パンは麦粉を白酒にて堅くなておおよそ茶碗大に丸く少し長めに造り鍋に入れ上下より蒸焼にす。始めは至極く小火にて焼。少しふくらの出来た時、武火を以焼終わる也。但白酒はまんぢうを拵る時用る白酒なり。次に菓子の事が記述されている。○タルタ、○ソイクルブロートーかすていらに当たる。○ヒロース、○スペレッツ、○スース。そして前述の「阿蘭陀料理煮法」には、その菓子の製法が記してある。 次には「汁拵様」と記し、その調理法をつぎの様に記してある。「汁は鶏を骨抜にきり水にて骨の砕るまで能く煮、布にてこし、汁をとり、別に麦の粉にボートルを入れておく・・・」とある。現在のスープに調理法を述べている。次に本書は蒸焼調理法に関することも詳しく述べてある。3.終わりにこの時期の阿蘭陀料理は、現在の西洋調理法の出発点。▲19世紀長崎に輸入されたオランダ皿(越中文庫)この時期の料理が現在の西洋調理法の出発点になったのであり、これらの料理法が一般に普及するようになったとき我が国の料理史も大きく変化してきたのである。このオランダ料理の出発点は勿論出島のオランダ屋敷に勤務させられていた3人の「オランダくずねり」(料理人)であった事も忘れてはならない。第16回 阿蘭陀料理編(一) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第495号【長崎四福寺めぐり】

     先週末(3/19)、福岡でソメイヨシノが開花。いよいよ桜前線がスタートしました。今年の天気予測では、九州は見頃を迎える3月末頃までに気温が下がる日があるそう。花冷えが功を奏し、春の嵐にも見舞われず、桜を長く楽しめるといいですね。  日に日に温かくなっていくと散歩に出たくなります。そこで今回は、観光もかねて唐寺めぐりを楽しんできました。足を運んだのは、「長崎四福寺」と称される興福寺(1624年創建)、福済寺(1628年創建)、崇福寺(1629年創建)、そして聖福寺(1677創建)です。初代の住職が中国僧で、江戸初期につくられた興福寺、福済寺、崇福寺は、特に「長崎三福寺」とも呼ばれています。ちなみに、聖福寺の初代は中国人と長崎人の間に生まれた鉄心という僧侶でした。  まずは、長崎の桜の名所のひとつとして知られる風頭山の西側山麓へ。そこは「崇福寺通り」、「寺町通り」が続くところで、10数のお寺が並び建っています。通りの一角で出迎えてくれるのは、崇福寺の赤い山門です。三つの門があり装飾の美しさから竜宮門とも呼ばれていますが、正式には「三門」といい国指定重要文化財です。崇福寺には、国宝の「第一峰門」と「大雄宝殿」(本堂)をはじめ、いくつもの文化財を擁し、明末期の建築様式や吉祥模様など見どころ満載です。  「崇福寺通り」から「寺町通り」に抜け、興福寺へ。その山門では、大きな隠元禅師のお顔が出迎えてくれます。ここは、明末の1654年、約30人の弟子を伴って日本へ渡ってきた隠元禅師が初めて入山した由緒あるお寺です。隠元禅師は、黄檗宗の開祖として知られています。「長崎三福寺」は、隠元禅師の渡来後、黄檗宗に移行。隠元禅師の影響力がいかに大きかったかが分かります。風格ある興福寺の大雄宝殿(国指定重要文化財)は、大陸的なおおらかさが感じられます。境内の一角には三江会所門(県指定有形文化財)という門があります。三江(江南、浙江、江西)は、揚子江の下流に位置する地域で、興福寺はこの地域出身の中国人の社交場でもあったそうです。  寺町通りから徒歩約10分。長崎歴史文化博物館ある立山の麓へ。この界隈にはいずれも長崎駅へつながる「筑後通り」と「上町通り」があり、10近くのお寺が点在。福済寺と聖福寺は「筑後通り」にあります。  長崎駅により近い福済寺は、福建省は漳州、泉州の人々によって建てられました。かつては国宝を有する建造物もあり文化財の宝庫でしたが、原爆により焼失。現在は、亀の甲羅の上にたつ大きな観音像が目を引きます。この観音像は平和のシンボルとして建てられたものです。  最後は聖福寺。2014年に大雄宝殿、天王殿、山門、鐘楼の4棟が国の重要文化財に指定され話題となりました。建物の配置は、黄檗宗の大本山「萬福寺」(京都)に倣ったもの。一見、地味な印象ですが、随所に黄檗宗の建築様式が見られ、日本の寺院との違いを感じられます。    それぞれの唐寺は、長崎の歴史に大きく関与しています。一つひとつ、たっぷり時間をかけてめぐるのがおすすめです。

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