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  • 第488号【師走のひといき、柿とツュンベリー】

     師走に入ったとたん、気温は急降下。いっきに真冬になってしまい体調をくずす方も多いようです。バランスのとれた食事と十分な睡眠で、寒さと忙しさを乗りきりましょう。ときには雑事をちょっと脇に置いて小休止するのもいいと、ご近所さんからいただいた干し柿を囲んで、友人とコタツでほっこりすれば、柿にまつわる長崎ゆかりの話が出てきました。  柿は東アジア原産で日本も特産地のひとつです。ヨーロッパへ旅行した時に、果物屋の店先で「kaki」と商品名が書かれているのを見かけたことがある方もいらっしゃると思います。その呼び名はもちろん日本語の「柿(かき)」からきたものなのですが、そもそも柿の学名が「Diospyros  kaki  Thunberg(ディオスピロース カキ ツュンベリー)」。「Diospyros」は「神の食べ物」を意味し、「kaki」は「柿」。「Thunberg」はこの学名の命名者であるツュンベリー博士のことです。  ツュンベリー博士は、スウェーデンの植物学者リンネの高弟で、江戸時代に長崎にやってきたオランダ商館医のひとりです。ケンペル、シーボルトらとともに、出島の三学者として長崎では知られています。日本にいる間に、多くの日本の植物を採取し、帰国後に学名を定めて分類。このとき柿にも学名をつけました。ツュンベリー博士は、日本で出会った柿に「神の食べ物」と名付けたところをみると、よほどその美味しさに感動したのでしょうね。  分類などの功績で、のちに日本の植物学界の父とも称されるようになるツュンベリー博士。日本の植物に学名をつけるとき、「kaki」のように日本名をそのまま使ったものがほかにもあるようです。学名「Cammellia sasanqua  Thunberg」(サザンカ)もそのひとつ。長崎県立図書館前にある苔むした「ツュンベリー記念碑」の背後には白いサザンカが植えられています。  多忙なこの季節、しばし現実逃避したいなら、夜の長崎を散歩するのもいいかもしれません。徒歩圏内でつながるグラバー園〜大浦天主堂〜長崎水辺の森公園は、いまロマンティックなイルミネーションに彩られています(〜12月27日まで)。夕方5時を待ってグラバー園に出かけると、豊かな緑のなかに点在する幕末から明治にかけて建てられた洋館がライトアップされ、昼間とは違ったドラマチックな風情をかもしていました。  今年7月、世界遺産として登録された旧グラバー住宅もライトアップされ幻想的な雰囲気に。時空を超えて、激動の幕末を生きるグラバーさんや薩摩藩士らが現れそうな感じです。旧グラバー住宅の前には薩摩藩主がグラバーさんに贈ったというソテツが存在感たっぷりに枝葉を伸ばしていました。樹齢300年で、国内最大級だそうです。   旧グラバー住宅の前庭にはハートストーンが埋め込まれています。園内にはもうひとつハートストーンがあって、夕暮れのなかを探している方々がけっこういました。見つけて触れば、恋が叶うかもとか、良いことがあるかも、なんて言われています。人はいつだってloveやluckyを求めるものなのですね。皆さんがつつがなく師走を過ごせますようにと、ハートストーンにお願いしてきました。

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  • 第12回 長崎料理編(三)

    1.足立敬亭と長崎料理現在も原稿そのままに残る敬亭が編集した「鎖国時代の長崎料理」。▲長崎卓子用(蝙蝠染付)皿 敬亭は号で本名は清三郎といい長崎市榎津町の素封家海老屋別家足立家に安政4年(1857)2月22日に生まれている。 敬亭の畧伝は大正14年長崎小学校職員会編集の「明治維新以後の長崎」人物編に先賢の一人として集録されている。その伝記によると敬亭は少年期、当時来崎していた佐賀藩の漢学者谷口中秋について学問の手ほどきを受け、次いで京都に登り石津灌園、菊池三渓などについて修学し、特に漢詞文に長じ明治10年東京管城舎より出版された「古今名家詞抄」に既に敬亭の詩文は集録されている。 然し敬亭は家庭的には不遇で一人息子の靖一は五校・東大を卒業し朝日新聞社の評論員となった其の年に急逝し、敬亭の婦人ヒデも、亦その跡をおい、敬亭は靖一の一子で3才の孫巻一の手を引いて東京の小さな家に住まっていた。その間にあっても敬亭は「世事を顧みず読書に親しみ手つねに巻を離さず」と伝記には記してある。敬亭は郷土のため史書の編纂を思い立ち「鎖国時代の長崎」を脱稿し、その中編第9節に「料理の章」を設けている。  この本の脱稿は古賀十二郎先生が大正15年名著「長崎市史・風俗編」のなかで長崎料理のことを詳述される10余年も前のことである。但し、敬亭のこの著書は活字にされることはなく現在も長崎県立図書館古賀文庫の中に原稿そのままに製本されている。 敬亭は其の後、孫巻一の手を引いて長崎に帰り知人の援助で油屋町の裏家に住んでいた。ちょうど其の頃より長崎市史の編集が始まったので大正10年5月より敬亭はその編集員の一人として辞令を受けたが其の翌月6月30日入湯中に死亡し、巻一ひとりが残された。 その巻一氏に私は昭和19年秋鹿児島県の積部隊でばったりお逢いした。 戦後巻一氏は神戸に居住し本居太平の事を中心に書かれた「やちまた」により、新しい戦後の評伝作家として第24回芸術選奨文部大臣賞を受賞され、次いで祖父敬亭の評伝「蛟滅記」をさりげなく面白く書かれたほか、多くの著作を発表されている。2.敬亭婦人は料理の名手日本全国で大いに認められていた、日中欧三国折衷の味、長崎婦人の料理。 敬亭婦人のヒデは大変な料理の名手であったという。その影響もあってか敬亭の代表的著述「鎖国時代の長崎」の中に前期のように料理の章を設け其の「序」のところで長崎婦人と料理のことを次のように記している。 長崎の婦人は一概に言って翰墨を持たせると不向きの者が多いが、一度包丁を持たせると上手にあつかえない長崎婦人は一人もいないのである。その故は長崎の街は早くより国際都市であり、海外より渡ってくる多くの異国の人々に接し、その対応のため諸外国人に対する料理も心得、更に自国の塩梅を加えている。その故に長崎婦人の料理の味付け日中欧三国折衷の味であり、日本全国に於いても其の風味は大いに認められている。ヒデの得意の料理はシッポク全般であったが特に鯛豆腐入りの白味噌腕はすばらしいと記してある。製法は鯛の崩し身を摺り、裏ごしにし水にて溶く、ここが秘伝である。水が多いと身が固まらないし、水すくなければボロつくのである。これに葛をいれ、鍋にて煉り詰め、箱に美濃紙を布き其れに流し込んで固め、酒しおにて味をつけ方形のまま上白(じよう)みそ(汁)に入れる。その上に柚又蕗のとうを置く。凡そ百匁の鯛の身に葛三合の割りにてよし。上白味噌でも普段の時は鱧(はも)を入れる。3.敬亭の長崎料理カステラ、枇杷羹などの菓子から敬亭の好みの料理まで、その数26種。▲夜行杯(敦煌産) 敬亭は先ず26種の料理名をあげ、その料理法を述べているが其の中にはカステラ、一口香、枇杷羹などと菓子の製法も記している。次には別項として腥(なまぐさ)料理。精進料理。鍋料理とカシワ。婚宴の実例をあげ其の中に本膳の部と卓子部、新杯五丼の順で記し、最後に敬亭自身の好みの料理をあげている。  今私達はこの中より数点をあげ記してみることにする。第一に敬亭はソボロ(料理)のことを次のように記している。  ソボロは外国語なり、日本でいう合戝煮である。材料はもやし、豚肉のこま切れ、糸切りイリコ、干小海老、銀杏の小口切、それに松露、刻み人参、ハムを用意す。 次にこれらの物を共に大丼に入れ「だし汁」を加え、蒸器に入れて出来あがるが、この他、長崎の家庭でのソボロは豚の赤白肉を叩いて刻み、豚油にてジリジリという迄に煮て、其れに椎茸・もやし・銀杏などを加え酒しおとソップ・昆布のだし等にて味をつける、盛り分けに法あり。註、敬亭はソボロを外国語としているが、ソボロは我が国の言葉で「物の乱れ、からまる、まぜ合うさまを言う」ので「鯛のソボロ」などという言葉もある。ただ長崎のソボロには、江戸時代まで長崎の地以外では殆ど食べることのなかった豚肉を入れてソボロがつくられるというのが長崎ソボロの特徴で、長崎では浦上ソボロといって浦上地域のソボロはおいしいとの評判で、数年前までは浦上地区の宴席に行くと、よくこのおいしいソボロが戴けたので愉しみであった。4.長崎チャンポン考最初はチャンポン・皿うどんの区別はなく、共にチャンポンと呼んでいた?▲有田焼色絵鉢 敬亭の料理の五番には煎包と記し、これに仮名をつけて「チャンポン」と読ませている。 長崎で最初にチャンポンの事を本で紹介したのは敬亭ではなかったかと考えている。敬亭はチャンポンを次のように説明している。煎包 チャンポン その材料、玉ねぎ・蒲鉾・小椎茸・皮豚肉・薄焼卵などを小麦粉鉢にたかく盛り、五目飯、散目鮓のごとくにし、或は脂濃き煎汁をかけ、麺を同じく椀盛りとす。要は麺を下において前段の物は玉ねぎ等の油いためを上にかけ、後段は麺を丼に入れ汁をかけるという意味である。これは現在の「皿うどん」と「チャンポン」を指している。  敬亭の時代には現在のようにチャンポン・皿うどんとの区別はなく共にチャンポンとよんでいたのであろう。  そのチャンポンの語源については私は前県立図書館長永島正一先生の後をうけて次のように考えてきた。  先ず第一にチャンポンという言葉が長崎に登場してくるのは明治30年以降のことであることにより当時長崎に多く渡航してきた人達は福建省の華僑の人達であったので、早速、私は福建省にとんでチャンポンという料理を探した。然しチャンポンという料理はなかった。  たしか福州長楽県の食堂で腰掛けて話をしているときシャポンという言葉を聞いた。 私はこの時、これがチャンポンの語源ではないかと強く感じた。台湾に旅行したときにはチャンプと聞こえた。シャポンは吃飯と書く事もわかった。上海には此の発音はないと言われる。  すると長崎チャンポンの語源は福建省に始まり、台湾、沖縄、長崎と伝えられ、その意味は「軽い食事」を意味するようである。  其の後、崇福寺の中国盆のとき故薛春花老が庫裏の前で朝早く宿泊されていた中国の方達に「シャンプよシャンプよ」と呼びかけておられるのをお聞きしました。 朝御飯の準備が出来たという意味だそうであった。明治時代後期、福建から来られた人達が持ち込まれてきた簡単な食事チャンポンが、いつの間にか長崎の人達に親しまれ、それに更に工夫が加えられ、現在では長崎になくてはならぬ名物料理チャンポンとして有名となったのである。第12回 長崎料理編(三) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第487号【南蛮の食文化〜黄飯と浦上そぼろ〜】

     大分県臼杵市には、「黄飯(おうはん)」という郷土料理があります。くちなしの実のつけ汁で炊き上げたごはんで、文字通り、目にも晴れやかな黄色をしています。「黄飯」は、豆腐やごぼう、にんじん、エソ(白身魚)のミンチなどを炒め煮た「かやく」をかけていただく汁かけ飯で、一説にはスペインはバレンシア地方の郷土料理パエリアがルーツともいわれています。ちなみにパエリアの場合、お米を黄色に染めるのにサフランを使います。  戦国時代の臼杵藩は、キリシタン大名として知られる大友宗麟の城下町でした。時代は16世紀後半、イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸後、平戸、博多、山口、堺など西日本各地で布教活動を行っていた頃です。豊後でも宗麟の庇護のもと布教活動が行われ、そのさなかに宣教師のひとりがつくったのが「パエリア」だったと伝えられています。  当時、キリスト教の布教のため日本に渡ってきた宣教師は、スペインやポルトガルの出身者が多かったそうで、そのなかにバレンシア地方に生まれ育った者もいたのかもしれません。ちなみにザビエルは、スペインとフランスの間に位置するバスク地方(当時ナバラ王国)の出身。バレンシア地方(東部は地中海に面している)とはまた違う食文化なので、黄飯のきっかけはザビエルではないような気がします。  古くから漢方薬にも用いられ、現在もお漬物や栗きんとんなど食品を黄色に染めるときなどに使われる、くちなしの実。遥か昔、臼杵藩で「パエリア」を作った宣教師がサフランに代えてくちなしの実を使ったのは、日本へ渡る前、東南アジアあたりですでに知っていたのかもしれません。  「黄飯」にかける「かやく」は、見た目と醤油仕立ての素朴な味わいが、どこか長崎の浦上地区に伝わる「浦上そぼろ」を彷彿させます。浦上地区は、戦国時代にキリシタン大名の有馬晴信が治めたこともあり、一時期はイエズス会に寄進されていたこともあるところです。長崎港が南蛮貿易で賑わうなか、浦上川のほとりにはポルトガル船の船員たちによって教会も建てられました。「浦上そぼろ」は、その頃に宣教師によって伝えられたと言われています。  「かやく」は白身魚、「浦上そぼろ」は豚肉を使いますが、野菜は似たり寄ったり。拍子切りや細切りにして炒め煮るという調理法も似ています。戦国時代のキリスト教布教のつながりで、もしや何か関係があるのではないかと勝手な想像をしてしまいます。ただ、古く中国や西洋の影響を受けた長崎県下各地の郷土料理を調べてみても、お米を黄色に染める料理は見つけることはできませんでした。  さて、宗麟は秀吉の九州征伐後に病で倒れ死去したといわれています。大友家の没落後、その身内や家臣らのなかには、長崎へ亡命した者もいました。そのひとりが、宗麟の孫といわれる桑姫(くわひめ)です。桑姫はキリシタンが集う長崎市中を対岸にのぞむ浦上地区(当時の浦上村渕)にひっそりと暮らしました。桑を植え、蚕を飼って糸を紡ぎ、そのやり方を近隣の娘たちにも教えていたそうです。その生き方、人柄は地域の人々の心を動かすものがあったのでしょう。没後は塚がつくられ、いまも淵神社(長崎市淵町)に「桑姫社」として祀られています。  ◎参考にした本/「日本の食生活全集〜宮崎〜」(農山漁村文化協会)

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  • 第486号【長崎のリトル❤オータム】

     今年の秋は全国的に晴天の日が多いよう。ありがたい一方で、空気の乾燥が気になります。近頃のお肌のカサつき、喉のイガイガは、そのせいかもしれませんね。気分までカサつきそうになったなら、家事や仕事の手を休めて散歩に出ませんか。  長崎の中島川にかかる石橋群のひとつ、桃渓橋(ももたにばし)のたもとでは、夏のはじめに根元近くまで刈られたカンナが、早くも1メートルほどに丈を伸ばし鮮やかなオレンジ色の花を咲かせていました。大雨のときは全身川に浸かり勢いのある水流になぎ倒されることもしばしば。しかし、水が引けば何事もなかったように、すくっと太陽に向かって茎を伸ばす、本当にたくましい植物です。そこに「ツーン、ツーン」と少し甲高い小鳥の声が。数年前からこの界隈で見かけるようになった翡翠(カワセミ)です。カンナのつぼみにチョコンと羽を休めました。文字通り翡翠(ヒスイ)色の美しい羽。すぐそばでアオサギが小魚をねらっていました。  散歩に出ると、思わず頬がゆるんでしまう光景にしばしば出会います。住宅街の一角で、ミドリガメを日向ぼっこさせている方がいました。正式には「ミシシッピアカミミガメ」という種類で、20年ほど前にお祭りの出店で手に入れたとか。体長5cmもなかったのに、いまでは約20cmまで成長。ほぼ毎日、屋外で散歩させているそうです。人懐っこい性格で、水槽から出すと、人のあとを追ったり、名前を呼ぶと甲羅から首を出して反応します。飼い主の方にとてもかわいがられて、幸せなカメさんでした。  顔の横に黄色や赤い線が入ったそのカメと同種と思われるものを、中島川でよく見かけます。お天気がいい日には、何匹も甲羅干ししています。そのなかには飼い主によって川へ放されたものもいるかもしれません。ミシシッピアカミミガメは繁殖力が強く、川の生態系を乱す可能性もあるそうです。ご縁があって手に入れたカメ。最後まで自宅でかわいがってあげてほしいものです。  中島川上流から眼鏡橋へ下れば、石垣に埋め込まれたハートストーンを指差しながら記念撮影をする観光客の姿がありました。魚市橋のたもとから川へ降りたところにあるハートストーンがよく知られていますが、実は眼鏡橋をはさむ魚市橋(上流側)から袋橋(下流側)あたりの石垣には、複数のハートストーンがあります。熱意のある方は、探してみてください。  続いて、秋の修学旅行生の姿が絶えない浦上天主堂(長崎市本尾町)へ。お堂のまわりを歩いていたら、かわいい野良猫と目が合いました。つかず離れずこちらの様子をうかがっています。ちょこんと前足を揃えて座った姿を見たら、胸下の毛並みが❤型!もう、これは、かわいすぎ。こういうことがあるから、散歩ってやめられないのです。   さて、ハートフルな秋のひとときの締めくくりは、やはり食。乾燥する季節には肺を潤し、温める食材がおすすめです。ちゃんぽんに欠かせない豚肉は、うってつけの食材のひとつ。いつものちゃんぽんに、熱っぽい咳や喉の渇きを改善するアサリや滋養のあるカキなどの海鮮類を加えると、秋の体が喜ぶはず。今夜の食卓で、試してみませんか。

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  • 第11回 長崎料理編(二)

    1.長崎くんち料理旧暦9月1日の「庭おろし」が祝宴。本膳の馳走に、甘酒、栗柿饅頭を菓子として出す。▲南蛮料理「ヒカド」 旧暦の9月9日は長崎の氏神諏訪神社の祭礼日であり、土地の人達はこれを「クンチ」とよんでいる。 古記録を読むと「長崎くんち」の祝宴は、くんち当日は忙しいので旧暦9月1日を「庭おろし」といって其の夜は家に料理を用意し親類知者へ案内をだし馳走し、「甘酒を造り栗柿饅頭を台に盛りて菓子として出す」と記してある。 長崎くんちの当日、7・8・9日の3日間は踊町・年番町などと忙しいので殊更に人を招き馳走するなどという事はなかった。  この9月1日の「庭おろし」の時の祝宴はシッポクではなく、全て黒塗又は朱塗の本膳で用意されている。  このくんち料理の資料として今回は先に紹介した割正録<第10回 長崎料理編(1)参照>の中より「長崎くんち」のある旧暦9月上旬の料理を取り上げてみることにした。 同書によると最初に出される一の膳は次のように記してある。先ず前菜として次の4品がだされる。小箱 わさび味噌をしき・雉子のささ鳥・松たけ・ぎんなん猪口 あみの塩辛引肴 大つとの蒲鉾、切しそ吸物 塩煮、こちの薄背切、ゆ(註:ゆとは湯葉のことであろう)二の膳には次の3点がだされた。膾(なます) 酢いり酒・湯引いか・はす芋・黒くらげ・ざくろふりて註:長崎くんちの膾には必ず「ざくろ」を上にかける風習が今も残っている。 私はこの「ざくろ膾」のことについて拙著「続長崎食の文化史」(平成8・10・長崎純心大学博物館刊)の中で記しているが、その時長崎女子短大の大坪藤代先生よりザクロが朝鮮通信使歓迎の馳走の中にあることをお聞きした。 このことより考えてザクロを祝宴に使用する料理は「長崎くんち」のルーツが博多にあることより考えて、ザクロ膾のルーツも博多方面から「くんち行事」の風習の1つとして伝えられたのではないかと推測してみた。どうであろうか。二の椀 すまし汁・たいらぎ(貝)・子茄子木口切・岩たけ坪皿  とうふ・とろろ三の膳として次の3品が用意されている。汁  すり立小鳥・小かぶ・しゅんぎく平皿 にしめ塩梅・たたきたこ・燒栗・小梅干大皿 鮎やき・ひたし菜・あらめ短冊▲古伊万里赤絵金彩皿註:汁につかわれている「しゅんぎく」について同書の巻末に次のように記してある「しゅんぎくは方言也。高麗菊と言う。8月頃よりたうの内葉をつみてもちゆ」次に古賀十二郎先生の未刊原稿「諏訪社雑綴」(長崎県立図書館古賀文庫)によれば10月4日くんちの人数揃の日には次の料理を用意したと記してある。 当日(人数揃の日)踊町の家では来客あれば必ず馳走を出す。1,菓子は海老糖、湿地茸、カステラなどを大平にて盛て出す。2,料理の中に必須のものは鰭椀、中に松茸と栗を入るるを要す。 この他、柘榴なます、及び泥鱒汁を用ゆ 但しこの10月4日人数揃というのは明治5年旧暦が新暦に変更になったので長崎くんちの祭礼日が10月7・8・9日の3日と変更され、それにつれて10月4日を人数揃となった事より考えて本稿の料理献立は明治頃のくんち料理と考える。2.異国趣味の長崎料理「もうりう、すすへひと、ひかど」など鶏や家鴨を使い、塩味の南蛮の料理は、多分に中国風。▲清朝の急須 前出の「割正録」には長崎地方における異国府の料理として次の7種類の料理名をあげている。 1,くずたたき。 2,えひもち。 3,もうりう。 4,すすへひと。 5,ひかと。 6,くじいと。 7,てんぷら。 私は先年・東北大学狩野文庫より「南蛮料理書」の複写本を長崎県立図書館の渡辺庫輔文庫に見いだし、更に前出の松下幸子先生より東北大学所蔵の原本の複写をいただいた。  この本の成立は江戸時代の初期と言われているが渡辺先生は江戸時代中期と考えておられた。同書の中より南蛮菓子を除き南蛮料理を拾うと次のようになる。 1,ひりやうす。 2,南蛮料理ひりし。 3,てんぷらり。 4,とりやき。 5,うをの料理。 6,くぢいく。 7,たまごどうふ、(他略す)割正録に記す「くずたたき」は南蛮料理書の「うをの料理」と同じで、その料理法は次のように記してある。 魚をせぎりにして葛の粉をつけ、摺り粉木にてとろとろと身の切れぬように打ち開き、油にてあげる。ゆびきでも用ゆ。えひ・蚫などにても同じ仕形也。(後者の本には葛の粉を麦の粉と記し、油にて揚げた後、丁子にんにくをすりかけ味をつけ煮しめるとある。) 2,えひもち、うどん粉又は葛粉を海老の身にまじへ良くたたき葱を小さく刻みこみ、丸くして油にてあぐ。「くずな」にても同じ也。 3,もうりう(松下幸子先生の注に「もうりつ」は毛竜と記してある)鶏・家鴨いずれにても、骨ともに切りて大根、ねぎなど入れ煮也。身だけをささ鳥にして用ゆ。塩あんばい也。  酒水にて良くたたき正油はかくし味として塩にて味付けをする。この他水煮ソップなど色々仕形あり。取り合の貝もこの他あり。註:多分に中国風の料理であるが文化5年(1808)江戸で発刊された「料理談合集」には南蛮料理として次のような記録がある。鶏の毛を引き、首足としりを切すて、鍋に入れ、大根を厚く輪切りにして煮あげ、鶏の骨ともよくたつき丸めて酒・塩にて、うす味にするなり。すひ口に葱、唐辛子などよし。 4,すすへひと、異国の料理也。鶏か家鴨の身をさいの目に小さく切り、水・酒にてたき正味は少し、山芋を小さく切りて入、パンというものをときて入る。又はパンの代わりに「うどん粉」を入れ、とろりとし、葱をきざみ、玉子つぶしてときまじえて出す。是も塩あんばいがよし。註:この料理にはパンの言葉が使用してある。パンはポルトガル語のp~aoであり江戸時代にはキリスト教に関係があるとして一般に食べることは禁止されていた。但し出島のオランダ人のみは長崎の街でパンを製造することが許されていたパン屋がオランダ屋敷に毎日納入していたので当時一般の人達がパンを自由に口にすることは殆どなかった。その故に料理にはパンに代えて麦の粉としている。 5,ひかど これも異国料理也。鳥と大根を小さく賽の目に刻み葱きざみ入れ、玉子つぶし入る。是は麦粉を入れず、さらりとしたるようにする也。味付は「すすへひと」と同じ。 魚を使用するときはあま鯛・いとより・小鯛にてもする也。魚は油にていため、其の上にて味をつける。すすへいと、ひかと共に同じ塩梅なり。 註:ヒカドとはポルトガル語のpicadoすなはち小さく刻む、調理するという意味である。古賀十二郎先生は長崎市史風俗編の中でヒカドについて詳しく説明しておられる。それには鮪と大根・甘藷とを交ぜて煮込み正油にて味をつけると記し、ヒカドにはドロドロ汁を作る場合と作らぬ場合があると記しておられる。 「割正録」では前述のようにドロドロ汁した場合には「すすえひと」といい、さらりとした場合には「ひかと」と言っている。1800年頃までの長崎料理では前述のように両者を分けてそのように呼んでいたのである。第11回 長崎料理編(二) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第485号【秋の夜長、十六寸豆を煮る】

     冷涼な空気に満たされる秋の夜長は、コトコトと白い湯気をたてながら煮込むスローな料理を作りたくなります。数日前の10月25日(旧暦9月13日)は、「十三夜」と呼ばれる月見の日でした。「十三夜」は、豆が食べ頃を迎える時期と重なるので「豆名月」とも呼ばれます。  ということで、今宵は卓袱料理の一品(小菜)でもある豆料理、「十六寸豆の蜜煮(とろくすんまめのみつに)」を作ることに。地元の60代以上の方はこの料理を「十六寸(とろくすん)」と呼び、親しみがあるようですが、下の世代になると「白豆の甘煮」と言わないと分からない人が多いようです。なかには「トロクスンって日本語ですか?」と尋ねる人もいます。聞き慣れない言葉に、パスティ、ヒカド、ゴーレンなど外来語に由来する長崎の伝統料理のひとつと思うのかもしれません。  「十六寸豆」は白インゲン豆の一種で、豆を十個並べたとき六寸の長さになることにちなんだ別称です。一寸が3.03cmですから、六寸は18.18㎝。扁平で腎臓みたいな形をしたこの豆を実際に並べて測ってみると、本当にその長さ!ちなみに、十六寸豆は同じく白い「白花豆(しろはなまめ)」と混同されがちですが、こちらはさらにサイズが大きく、「十八寸(とはっすん)豆」とも呼ばれています。  「十六寸豆の蜜煮」を作りましょう。洗って7〜8時間以上水に漬けた豆を火にかけ、数回水をかえながら3〜4時間煮ます。豆がやわらかくなったら、砂糖を加えてさらに少し煮て火を止め、じんわり味がしみるのを待ち、塩少々で味を整えて出来上がりです。白インゲン豆は食物繊維と、代謝を促すビタミンB 群も豊富に含まれ、その栄養価が再注目されています。おばあちゃん世代は豆1カップに対し、砂糖も1カップくらい加えとても甘く仕上げたようですが、甘さ控えめを好むなら砂糖はその半分くらいでもいいと思います。  「インゲン豆」にはもうひとつ、長崎ゆかりのものがあります。「サヤインゲン」です。江戸時代の書籍で、長崎土産や輸入品、特産品などを列挙した『長崎夜話草』の第5附録には、インゲン豆のことを「八升豆(はっしょうまめ)」と記し、「隠元和尚持来て種子を南京寺の内にうへしより世に流布す。…(省略)。」と紹介しています。ここでいう「八升」は、実がたくさんなるという意味合い。また、「南京寺」とは興福寺(長崎市寺町)のことです。  1654年春、弟子ら総勢30人で廈門(アモイ)を出港し、長崎に渡ってきた隠元和尚。このとき一行がもたらしたものは、インゲン豆だけでなく、寒天、煎茶(隠元茶)、「明朝体」といわれる書体、1行20文字の原稿用紙など、現在も用いられているものがいろいろあります。  サヤインゲンは薬膳では、食欲不振、胃や腹部の張り、体が重たい感じのときなどに用いられます。長崎ゆかりの白や緑色をしたインゲン豆。マメに食べて日々の健康づくりにお役立てください。  ◎  参考にした本…『長崎夜話草〜第五附録〜』(西川如見・岩波文庫)

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  • 第484号【長崎の家紋】

     秋の大祭「長崎くんち」が先週7、8、9日に行われました。長崎の中心市街地は、今年も奉納踊りや庭先回り(家々や事業所、官公庁などを回り、玄関先や出入り口などで演し物を呈上すること)で大にぎわい。心躍らすシャギリの音とともに、まちを練り歩く演し物の後を追っていたとき、ふと鼻先をかすめたのがキンモクセイの香りでした。いつもならくんちの後なのに、今年はちょっと早いかな。長崎県内各地のコスモスの名所はすでに満開。山々ではじきに紅葉もはじまります。遠出しても、しなくても、この季節ならではの澄んだ空気とさやかに見える月や星はいつもそばにあります。美しい日本の秋を楽しみたいものです。  日本の美といえば、「家紋」もそのひとつかもしれません。月や星、草花、生活の道具などをモチーフにした図柄は簡素化され、どの時代にも受け入れられる普遍性が感じられます。日本人の感性を映し出した大切な文化ともいえる家紋の歴史は約千年。現在その数は1万とも、2万ともいわれています。現代の生活のなかで家紋が用いられるシーンは少なくなりましたが、着物(背縫いの中央、両胸元、両外袖)に付けられているのは、いまでもよく見かけますよね。  長崎くんちでは、庭先回りで訪れる家々や事業所などの出入り口に、家紋と家名を染め抜いた幔幕(まんまく)が張られます。青や紺地に白抜きの家紋は、そのシンプルなデザインの力もあって、とても目を引きます。くんち見物でまちを歩いていると、たまにどこからか、「あ、うちと同じ家紋だ!」という声が聞こえたりもします。また、よく見かける紋でも、その名称は案外知らないものです。くんちの幔幕から、いくつかご紹介します。  長崎に生まれ育った知人の家は、「丸に隅立て四つ目(まるにすみたてよつめ)」。由来を尋ねると、「母親から、清和天皇ゆかりの紋だと聞かされてきたけど、よく分からん」とのこと。種類的には「目結紋(めゆいもん)」といわれる紋のひとつで、布を染める時、布の一部をくくってできる文様からきたもの。かつては武将たちに多く用いられた紋だそうです。  長崎でよく見かける紋のひとつが「橘紋(たちばな)」。ミカン科の常緑小高木である橘をモチーフにしています。聖武天皇より賜ったものといわれ、橘氏ゆかりの古い紋だそうです。葉と果実を組み合わせたデザインは、どこか愛らしさがあります。橘氏の系譜を持たない武家などでも用いられました。  九州の戦国大名・大友氏が愛用したという杏葉紋(ぎょうようもん)。杏葉とは馬に使う装飾用具のこと。大友氏は功労のあった家臣らに、この紋を与えたとか。その後、大友氏を倒した龍造寺隆信へ、さらに龍造寺家を倒した鍋島家に伝えられました。北九州地方の武士たちが憧れた名紋です。  江戸時代には武家を中心に用いられた家紋ですが、町人たちも使用を認められていて、多くの新しいデザインが生まれました。とくに商家は屋号として用い、のれんや半てん、てぬぐいなどにしるしました。庶民が広く家紋を用いるようになったのは、明治時代に入ってからだそうです。  家紋のルーツを辿れば、たいてい由緒あるものばかりで、いずれも吉祥や家訓に通じるものなど、家の繁栄を願う気持ちが込められています。さまざまなご縁を結びながらいろいろな時代をくぐりぬけてきた家紋。その由来や意義をひもとけば、あなたのルーツが垣間見えるかもしれません。   ◎  参考:『正しい紋帖面』(古沢恒敏)、『〜面白いほどよくわかる〜家紋のすべて』(安達史人 監修)、『イラスト図解 家紋』(高澤等 監修)

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  • 第10回 長崎料理編(一)

    1.割正録のこと長崎人が執筆した長崎料理の参考書、南蛮・異国風味を加味した、異色の献立集▲青華亀山向付 長崎料理のことを記した本に「割正録」というのがある。  この本のことについて昭和37年長崎調理研究会の機関誌「長崎料理」の創刊号に渡辺庫輔先生が初めてこの本を紹介され次のように記しておられる。 割正録は長崎料理に関し最高の参考書であると信じ、此こに復刻することにた。原本は私の所蔵である。 解説は最後に書くつもりである。原本には難読のところも少なくない。変態仮名は改め、片仮名はそのままにして置いた。    寅12月  渡辺庫輔識  渡辺先生が歿くなられたのは昭和38年6月であり、この割正録の復刻は臘月上旬で終わっている。そして先生所蔵の原本は現在長崎県立図書館所蔵の渡辺文庫の中には収録されていないようである。 その後、千葉大学教授松下幸子先生より御教示いただいて割正録の写本が題名を「料理集」と改められ国立古文書内閣文庫と東北大学狩野文庫にあることを知った。また私は東大資料史料編集所の加藤栄一先生から内閣本料理集の複写本を送って戴いた。 昭和55年松下先生はこの料理集を研究され「千葉大学紀要29」にその成果を次のように発表され私にも其の一部を送って下さった。  その紀要の中で松下先生もこの「長崎料理」の価値について次のように高く評価されている。 この料理集は長崎の人の執筆で、献立の内容は長崎の料理で所謂南蛮風、異国風料理の加味された日本料理、つまり長崎料理の献立集である。  その点については異色の献立集と言える。  これは長崎にある大音寺日鑑にみる献立や同地の料亭、各家庭の料理控類を除けば、他にこれに比敵するものは見当たらない。2.この本の執筆者は誰か雅号は「崎水」。茶道や俳諧にも一応の心得があり、教養のある料理屋の主人?▲南方青磁蓋物 本の筆者を考える前に、一体この本はいつ頃できたのであろうかと考えねばならない。 渡辺先生の「割正録」には年月の記載はないが、東北大狩野本にこの本を写した年号が「享和三正月吉祥日・和田市兵衛・増田半衛門因写之」とあり、同写本の序文の後には次のように記してあると松下先生は述べられておられる。 丁巳仲和  崎水  白蘆華 記  そして丁巳仲和の年とは寛政9丁巳年仲春(1799)のことであるとされている。 その故に此の本は寛政9年以前に著述されていたのであろう。  著者の崎水とは雅号である。長崎のことを崎陽といったので崎水は長崎の人であると考える。白蘆華の本姓は不詳であるし、どのような人物であったかも不詳である。  著者は同書の序文の中で「私は茶道にうとく」。料理のことについては「只聞伝え習い得たる事を組み合わせ、その仕方等を粗にしるし、又公案を加えた類のもの、塩梅なども書付」けたのであり、この本を書く動機になったのは「或る人のもとめよりて漫にかき記す所也」といっている。 著者は「茶道にうとく」と記しているが、料理の献立は「茶人の書によりて料理の序に従う」といっているので茶道についても一応の心得がある人物で、俳諧の事を料理献立に引いて「是は俳諧にいへるさび、淋しきにあらず・・・」と記しているので俳諧にも心得があり、「崎水」とは俳諧の雅号であると考える。 以上の事より白蘆華という人物を私は次のように考えてみた。 料理の事については習得することのできた人物で、茶人ではないにしても茶道については一応知るところがあり、俳諧についても心得があり、教養のある料理屋の主人像がうかんでくる。 寛政頃の長崎を代表する料理やとして西山松ノ森社の境内に千秋亭があった。古賀十二郎先生の長崎市史風俗編の中には「俳人紫暁」の浮草日記を引いて千秋亭のことを記しておられるので千秋亭主人は俳諧を嗜む人であったろうし、千秋亭は又の名を吉田屋といったので白蘆華の姓は吉田氏であったと思う。  又、寄合町・丸山の遊里の主人にも引田屋主人山口拝之のように俳諧をよくした文人もいたので崎水はその方面のひとであったかもしれない。3.長崎料理の献立正しい長崎料理を記すという意の題名。一汁五菜を基に四季に分けた、三十六種の献立表。▲台湾の竹篭 本料理集の書の原本には「割正録」と記してあるのは、先にも言ったが、「割正」とは諸橋漢和辞典に「割は断で、さきて正すの意」とあるので、ここでは正しい長崎料理を書き残すという意味の題名と考えてよいようである。 著者は四季に分けて献立をつくり、1ケ月に3回の献立をたてて作っているので、一季節の献立は9回の献立となっている。本書は四季の献立であるから全体は9回×四季となり36種の献立が表にして竝べてある。 次に本書の序文によると「一汁五菜をもととし、猶、二汁六・七の菜類に組合せ 肉類を撰びて繁を計り、闕けたるを補ひ・・・」と記してある。  一例に正月上旬のものを記すと 二汁七菜の時   汁、  たいらぎ・岩たけ・ねせり   猪口、  塩から   曲物、  敷葛にて・骨ぬき小鴨・くわい・しめじ   炙物、  きし・干いわし・やきのり   鱠、  酢いり酒・きす・しし貝生作り・巻すいせんし・しぶ栗・きんかん   平皿、  ねりみそ、むし鮒   引肴、  青のり粉まぶし・にんじんふとと煮   汁、  薄みそ・塩鱈背切・若め・すくひ豆ふ・ぬうと   坪皿、  青かちもどき・小鳥・松露・わさび   吸物、  ぬかみそ・しじみ註、以上の献立表の次には料理の造り方が記してある。例えば●しし貝生作は、一夜正油酒にひたし置き盛り合すべし。●鱈の味噌は、骨あたまを煮出し、盛合せしかるべし。●しぶ栗は、肉皮を付て切形 さび栗ともいふよし●青かちもどき 青かちは鶉雉子に限る、仕方青かちの所に記す。もどきは小鳥の身をひらつくりにして、骨のあばらを去り、もも等こもかにたつぎ、だし正油の煮汁にてときながし、身具を加ふ。塩梅はいり鳥の少しさらりとしたる良し、塩はたっぷりと盛るべし、小鳥もつぐみ可然。 更に本の最後に長崎地方の料理材料の方言をまとめて記してあるのは大いに参考となる、例えば 1,どせん   うどのことなり。 1,くるくる   あんこうのくるくる、餌袋也。 1,ゆすら   庭梅の衆類也。 1,金ひれ   ふかひれの肉すじ也。 (以下次号につづく・・・・)第10回 長崎料理編(一) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第483号【ヘルシーなイカを食べよう】

     ほんの少し前、「日本人はイカをいっぱい食べている」と言われた時代があったのをご存知でしょうか。昭和55年(1980)の日本のイカの漁獲量は68万トン。世界のイカの漁獲量の約半分を占め、国別ではダントツ一位でした(FAO漁獲統計)。その後、資源の減少や漁業の衰退にともないトップの座は他国にゆずりましたが、いまも日本国内における鮮魚の1人あたりの購入数量は、昭和40年(1965)がアジに次いで2位、昭和58年(1983)が1位、そして平成21年はサケに次いで2位(総務省「家計調査」、平成21年は水産庁作成データより) と、つねに上位にランクイン。やっぱり、日本人はイカをよく食べているようです。  三角のヒレをつけた長い筒状の胴体、そして10本の腕。本当は宇宙人?と思ってしまうような摩訶不思議な容姿をしたイカ。うんと昔、それをはじめて口にした人間は、ナマコ同様にちょっと勇気が必要ではなかったかと想像します。刺身のほか焼く、煮る、乾物、塩漬けなど、いろんな調理法がありますが、なかでも保存食でもある「イカの塩辛」は、料理名や漬ける時の材料に若干の違いはあるものの、北は北海道から南は九州・沖縄まで全国各地で作られてきました。  ところで、「イカの塩辛」には色合いが、白っぽいものと赤っぽいものがありますが、塩や米麹だけで漬け込むと白に、さらに内臓(肝臓)を加えると赤くなるようです。また、少数派ではありますが、黒いタイプもあります。イカ墨を加えたもので長崎県では「黒身あえ」といって、五島列島の北に位置する小値賀島をはじめ平戸島、そして大島といった島々で食べ継がれてきました。富山県にも「イカの黒作り」と呼ばれる同じような郷土料理があります。  この時期手に入りやすい「ヤリイカ」で「黒身あえ」を作ってみました。胴に包丁を入れ、なかの墨袋を破らないように取り出し、さっとゆでます。イカ墨をボウルにとり、少量の味噌、砂糖を丁寧にまぜるとつやが出てきます。これを短冊に切った身に加えてあえれば出来上がりです。  「黒身あえ」はヤリイカより肉厚で旨味のあるミズイカ(アオリイカ)だと、よりおいしいと思います。ミズイカは、これから冬場にかけてがシーズンです。さて、「黒身あえ」は、見た目が真っ黒なので抵抗がある方がいるかもしれませんが、イカ墨自体がもつ塩味と旨味は酒の肴に喜ばれそうな珍味です。未体験の方は一度お試しください。  「イカの塩辛」は発酵食品のなかでも酵母菌が豊富で、美肌効果が高いといわれています。また、イカは低脂肪、低カロリーで知られ、コレステロールを減らす働きをするタウリンを多く含みます。薬膳では、養血を補い心臓、肝臓を滋養するとされ、とてもヘルシーな食材として利用されます。  この秋もたくさん食べたいイカは、ちゃんぽんの大切な具材のひとつでもあります。とくに下足(げそ)部分は、いい出汁がとれ欠かせない存在です。塩辛もいいけれど、まずは、今夜あたりちゃんぽんで、イカを味わってみませんか。    ◎  参考:全国いか加工業協同組合ホームページ「日本人とイカ」、『ふるさとの家庭料理第17巻〜魚の漬込み 干もの 佃煮 塩辛〜』(農文協)、『聞き書長崎の食事〜日本の食生活全集42〜』(農文協)

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  • 第482号【秋めく長崎市街地の花々】

     驚くような早さで秋めいています。寝冷えして風邪などひいていませんか?長崎のまちを歩けば、夏の間、目をうるおしてくれた「ノウゼンカズラ」や「サルスベリ」の花々がそろそろ終盤を迎え、花びらをちらしています。朝晩の涼風に誘われたのか、市街地の高台に位置する立山地区では「ヒガンバナ」が咲いていました。いつもより1〜2週間ほど早い気がします。  学名は「Lycoris(リコリス)」。秋のお彼岸の頃に咲くことからヒガンバナと呼ばれるようになりました。異名が多く、「曼珠沙華(まんじゅしゃげ、まんじゅしゃか)」とも呼ばれるのは、この花がサンスクリット語で「manjusaka」と書くことに由来。また「幽霊花」などとも呼ばれ、ちょっと不吉なものを連想させるイメージもありますが、サンスクリット語では、「おめでたいことが起こる兆しの天上の赤い花」という意味があるそうです。  住宅街を彩るさまざまな庭木に目を向けると、実をつけたものをたくさん見かけるようになるのもこの時期ならでは。初夏、鮮やかなオレンジ色の花を咲かせていた「ザクロ」もそのひとつ。たわわに実って細い枝をしならせていました。「ザクロ」は種子が多いので子宝に恵まれるとか、豊かな実りをもたらすといった縁起のいい木とされ、長崎くんちではお供え物にしたり、「ザクロなます」というくんち料理として食べ継がれています。  庭木の実で「ザクロ」とともに目立つのが「ツバキ」です。ピンポン玉くらいの大きさの実のなかに茶色の硬い種子が入っています。種子から絞り出されるツバキ油は古くから食用にされ、髪や素肌を健やかに保つ油としても利用されてきました。長崎県内では、五島列島や島原半島などが良質のツバキ油を生産することで知られ、近年その良さがあらためて見直されているようです。  中島川にかかる眼鏡橋あたりで、ときおり観光客の足を止めていた花があります。「タデ」です。背丈のある茎の先に、穂状に垂れ下がった鮮やかなピンクの花が目をひきます。夏場から咲きはじめるタデの花期は意外に長く、もうしばらくは愛でることができそうです。  眼鏡橋の上流にかかる桃渓橋のたもとあたりでは、「ヤブラン」が紫色の花を咲かせていました。ヤブに咲くランに似た花、というのが名前の由来だとか。穂先に密集する小さな花を虫眼鏡で見ると、確かに似てなくもありません。花期は夏から秋にかけて。ヤブランは昔から根茎に薬効があるとされ、乾燥させたものは漢方薬として、滋養のほか咳止めや利尿薬などとして用いるのだそうです。日陰でもよく育つらしく、桃渓橋の「ヤブラン」もほかの植物の影のなかで旺盛に育っていました。 鉢植えでよく見かける花に「マリーゴールド」があります。春から秋にかけて次々に花を咲かせ、ガーデニング初心者にも育てやすいといわれています。メンキシコ原産のこの花が、西洋に伝わったのは大航海時代のこと。その後、日本へはオランダ船が運んだともいわれていて、江戸時代初めに編まれた園芸事典に、「紅黄草」の名で記されているそうです。植物たちもいまに至るまでにいろいろな旅路を経験しているのですね。  ◎参考にした本・「四季を楽しむ花図鑑500種」(新星出版社)

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  • 第9回 中国料理編(四)

    1.長命水のこと酒毒を酔し腹中を健やかにする、オランダ伝来の橙菓汁▲唐船舶載の卓袱用具 前章でシッポクには長命水を用うべしと記したところ、東京のテレビ局より長命水のことについて詳しく記してくれと連絡をいただいた。  前出の「会席しつぽく趣向帳(1771年・江戸日本橋須原屋刊)」によると次のように記してある。 口伝●およそ卓袱料理は大酒におよぶものなればオランダ人の用ゆる倭語にて長命水といふを出すべし。其の方は▼白砂糖、百目に水一合入れ、鶏の玉子の白身ばかりを紙に少し入れ。強き炭火に煎ずれば砂糖のあく泡とかたまり浮くを杓子にてすくい捨べし。 但し油断すれば鍋より吹きこぼれる也。是すなはち砂糖密なり。馬尾篩(すいのう)にてこし用ゆべし。▼肉豆蒄(にくずく)細末(註・マレーの原産にて稚子は香気ありナッツメグといい、昔より我が国ではオランダ船より薬種として輸入。 胃病の薬という。又肉豆蒄油として輸入したものもあった。)▼酢(す)極上のもの▼焼酒 上品のもの この四味を水に入れて出す事なり。但し調合のあんばいは甘く、酢は櫁柑の味のようにする也。 此水をのめば酒毒を酔すゆへ二日酔せず腹中健(すこや)かにする妙方也。  この長命水は長崎の人達はポンスといった。 古賀十二郎先生の「長崎方言集覧阿蘭陀語編」に次のように記してある▼ポンス、橙菓汁、Pons 講談社オランダ語辞典 Pons の頃には「中陵漫録」を引いて次のように説明してある。 オランダ人、夏月、暑を防ぐにはポンスと云者を飲む。北方のアラキと云酒二合に橙の酢を入て白糖を和し、煎る事一沸して是を水煮少しさして飲む。甚だ冷にして宜し、其アラキは南蛮の焼酎にて・・・前出の古賀先生の書にはアラキについて次のように記してある。 アラキ 強き酒なり。荒気。arak 現代の長崎シッポクにはポンスは用意されないが、調味料を入れる猪口(ちょこ)には一つは正油、他の一つにはポンズ(酢正油)がだされる。 戦前の長崎の夏の飲み物に「梅ポンス」というのがあった。これは梅焼酎に少し砂糖を加え冷水にてうすめ飲むものであった。2.シッポクの種類京都祇園で始めた大碗12の食。そして文化・文政の江戸で流行、蜀山人も囲んだ卓袱料理。▲清朝同治年製急子 長崎での婚礼の宴席や正月法要などの正式の食膳では、全て黒(溜)塗の本膳で用意され、シッポクが用意されるのは家庭的なものか。 急ぐ場合に用意されるものと、珍しい異国風の料理として客に用意されるものであったが。  明治時代以降は料理屋の発展と共に長崎の地ではシッポク料理が次第に客席にだされるようになり、戦後は特に長崎名物シッポク料理として評判のものとなっている。  文政13年(1830)開板の「嬉遊笑覧」にはシッポクのことを次のように説明している。 シッポクは食をのする机なり。唐人流の料理をしかいう。享保年中(1716~35)佐野屋嘉兵衛といふもの京都祇園下河原にて初めて大椀12の食を始めたり。 大阪にてこの食卓料理あまた弘めたり。野堂町の貴得斉ほど久しくつずきたるなし。江戸にも処々にありしなるべけれど行はれず。(おこたり草より) 然し江戸でも相当にシッポクは流行していた。 特に江戸で文人趣味が流行するにつれ異国趣味のシッポク料理は江戸の名亭八百善の文政5年(1822)発行の「江戸流行料理通」に江戸卓袱料理の図を掲げ、その四季の料理の献立を魚類と精進の部に分けて記してある。 又同所には蜀山人、亀山鵬斎の序文や谷文晁の挿絵をはじめ蜀山人・錦華が卓袱を囲む図が描かれ、卓上にはコップ、トンスイ(匙)中央には大鉢、丼物3個、大蓋物、箸立、小皿がならべられている。▲江戸卓袱料理の図(江戸流行料理通より) 又天明4年(1784)出版された「卓子式」には料理の種類を小菜8品、中菜12品、大品8品とし、他書には大菜12碗、または8碗、点心16品、小品2・3品と記している。  そして同書にはシッポクの心得を次のように記している。  一,客人は時間を違えず主人の家に至るべし。  一,主人は床に古書画を飾り香花・筆硯・玩物をかざるべし。  一,次に畑盤(タバコ盆)を出す。茶は茶盆に客の数の茶碗をのせ、茶瓶台(茶托)にのせ客人に献ずべし。  一,其の時、密煮の竜眼肉あるいは密煮の白扁豆(長崎にてはトロクスンという。)を出すべし。  一,シッポク台は始めより座敷に出してあるべし。  一,シッポク台の下には、お祝いの時には緋毛せん、精進もの、茶会席の場合は紺色の毛せんを敷くべし。  一,陪客主人同時に食卓(シッポク)につくべし。正客は中央に座り、陪客は右、主人は左に座る。  一,清人は(中国ではの意)、主人箸を取り菜肉の美なるを選び小皿に盛りて客に進む。その後、客人より主人に挨拶し、それより食すべし。  一,盃に酒をつぎ客主ともに飲む。  一,箸を碗中に置く事なかれ。汁を卓上にこぼすことなかれ。  一,料理は小皿にて食し、汁は匙にて吸べし。匙は左の手に持つべし。  一,8碗のときは67碗でたときに客より飯を乞ふべし。飯は茶漬なり、飯でるときは卓袱おわり也。  一,卓袱おわりて後、甘き蜜饌などを出し、泡茶献すべし。其の後、緑豆またはキク苡仁の砂糖煮の粥を出すべし。  このように文化・文政期(180年前)の江戸では大いにシッポク料理は流行していたのであるが、安政の開国以後、新しい料理として前述のターフル料理が流行してくると江戸でのシッポク料理はその影をうしない、江戸でシッポクといえば前出の「嬉遊笑覧」には次のように説明している。 大平(おおひら)にそば又はうどんを盛り上げたるもの也。 と説明している。第9回 中国料理編(四) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第481号【かんざらしとともに夏を振り返る】

     残暑お見舞い申し上げます。子どもたちの夏休みもあと数日でおわり。朝晩は風や日差しに次の季節の気配が感じられるようになりました。それでも日中はまだまだ厳しい暑さ。この夏を振り返りながら、冷たい甘味でひと息入れましょう。  8月15日の長崎の精霊流しは、14万1000人の人出。3300隻の精霊船が見送られました(長崎県警発表)。精霊船は1人で抱えられる小さなものから、数十人で曳いていく大船までいろいろ。江戸時代の船はワラ・竹製。1メートル前後から1メートル50センチほどの大きさで、1人〜数人で担いだそうです。「チャコン、チャコン」という鉦の音と、「ドーイドーイ」という男たちの低い掛け声とともに進むのは昔と変わらないようですが、現代の精霊流しは、耳をつんざくような爆竹の音が特徴のひとつかもしれません。故人を見送る哀しみを昇華させるかのように、あちらこちらで鳴り響くのでした。  精霊流しの翌々日、清水寺(長崎市鍛冶屋町)の「千日大祭」(毎年8月17・18日)へ出かけました。この日にお詣りすると、千日間お詣りしたのと同様の功徳があるとか。観音さまを祀っているお寺の大切な行事のひとつで、清水寺でも江戸時代から続いています。毎年お詣りをしているという知人は、ご接待で出される「人形いも」がお目当てのひとつ。それは、細長いサツマイモを蒸したもので、とても甘くて美味しいのだとか。でも、今年の「人形いも」は早くに出てしまい、そうめんのご接待を受けることに。そうめんも「人形いも」と同じく「細く長く元気で」という意味があるそうです。「観音さまのご利益を体に入れる気持ちで食べるといいのよ」と教えていただきました。  さて、この夏を振り返りながらいただいたのは、「白玉」。全国的にあると思われる昔ながらのおやつですが、島原地方では「かん(寒)ざらし」呼ばれる名物デザート。この地方の湧水を使った白玉団子とシロップは格別なのです。「かんざらし」の呼び名は、白玉粉の異名でもあり、原料のもち米を寒い季節に何度も水にさらし、すりつぶして作るところに由来しています。  白玉粉は、もち米を保存するために考え出された保存食です。いつ頃から食べるようになったのかは分かりませんが、夏場のお江戸では、「冷水売り」という商売があり、水桶に白玉を浮かべ砂糖をかけて売っていたそうです。  見た目も愛らしい白玉は、おうちで簡単に作れる和菓子です。白玉粉に水を加えて耳たぶのかたさにこね、小さな団子にしたものを茹でるだけ。お湯に入れてしばらくすると真っ白だった団子がややベージュを帯び、つやつやとした表情で鍋底から浮かびあがってきます。ここで2〜3分待ってからすくい、冷水に放ちます。あとは、好みの甘さのシロップをかけたり、きなこ、粒あんなどを添えていただくだけ。   楽しく作れて、しかもおいしい「白玉」。子どもはもちろん、大人にとっても夏の小さな思い出になります。

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  • 第480号【石ころから見える地球の営み(長崎市三和町)】

     小学生の頃、あなたの宝ものは何でしたか?友達のひとりに、学習雑誌「科学」の付録で手に入れた「石の標本」が宝ものだったという人がいました。プラスチックの小さな標本箱に並んだ十数個の石は、いずれも小指の先ほどの大きさ。黒光りした石炭をはじめ、コハクやピンクのきれいな色合いのものから灰色でザラザラしたもの、キラキラした粒子を含んだものなど個性的なものばかり。何度も眺めてはこうした石を産み育てた地球の不思議にドキドキワクワクしたそうです。  いろいろな姿形をした石に、興味や関心を抱いたことがある人は多いのではないでしょうか。なかには、偶然見つけたきれいな石ころが、水晶(セキエイ)だと分かって胸を躍らせたことがあるという人もいらっしゃるのでは?石は身近すぎて目立たない存在ですが、石が生まれるそもそものきっかけは、火山の噴火だとか、プレートの沈み込みにともなう圧力といった地球のダイナミックな営みによるものです。そこで今回は、気になる石や岩がある長崎市の三和地区(為石町、川原町、宮崎町など)へ行ってきました。  長崎港を付け根に、南西にのびる長崎半島。そのほぼ中央に位置するのが三和地区です。長崎駅からバスで約30分のところにあり、まちの東側の海岸は橘湾、西側は五島灘に面しています。前号でも少し触れましたが、長崎半島の西側の海岸は複数の恐竜の化石が見つかったことで知られています。ちなみに恐竜たちが生きたのは約2億5100万年前に始まる中生代といわれる時代。まだ日本が大陸と陸続きだった遥か遠い時代です。  今回は恐竜の化石が発見された方ではなく、東側の海岸へ向かいました。三和地区に入ると、道路に沿って流れる大川の川底には、緑色がかった石が目立ちます。岩石・鉱物の図鑑で調べると、緑泥石(りょくでいせき)という石に似ています。長崎半島は、「野母変成岩」と総称される結晶片岩類(けっしょうへんがんるい:地下の深いところで熱や圧力を受けた岩石)、蛇紋岩類(じゃもんがんるい:地球深部のマントルをつくる、かんらん岩が変質した岩)、変成はんれい岩(地球の深部で固まった岩石が変成したもの)という岩が広く分布しているそうですが、このような地質は、恐竜の時代よりもさらに古い約5億7000万年前の先カンブリア時代につながるものだそうです。  想像できないくらい大昔の地層の上を何気に車で走り、為石町と川原町の境にある年崎海岸沿い出ると、波風にさらされた「れき質片岩」がありました。全国的にもめずらしい岩だそうで、学術的にも重要なのだとか。さらにその先には、「蛇紋岩の円礫浜(えんれきはま)」というこれもめずらしい海岸が続きます。蛇紋岩は長崎県内では長崎半島と西彼杵半島以外では見ることができない岩。浜には、こぶし大の丸みのある蛇紋岩の礫が無数に広がっています。地元の女性によると、「この浜で泳ぐと小石の丸みが足裏にあたって心地いい」のだとか。波打ち際をよく見ると蛇紋岩の仲間なのか、いろいろな色合いの石がいっぱいです。   「蛇紋岩の円礫浜」のすぐそばには、野鳥、昆虫、淡水魚などが生息するネイチャースポット「川原大池」があります。池を囲む樹林の一角に花期を迎えたレモンイエローのハマボウが咲いていました。今回、三和地区で出会った石や植物、昆虫はデジカメに収め、あとで図鑑で名前や生態を調べることに(石や植物は自然保護のため、持ち帰らないようにしましょう)。自然豊かな三和地区で童心に帰った夏の一日でした。

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  • 第8回 中国料理編(三)

    1.長崎名物シッポク料理遠く南方海域との交流が運んだ、長崎・異国の食文化▲雍正年製粉彩中皿 前途したようにポルトガル船についで1600年頃より長崎に入港してきた唐船は、中国大陸の港より出航してきた船ではなく、当時の言葉で言うと安南・東京・交跡・カンボチア・シャム方面の港より出航してきた船である。 その唐船出航の地は現代でいうとベトナム・カンボチヤ・タイ方面の港より出航してきていた。そして船の型は中国船とほぼ同じジャンクの型であったので長崎の人達は、これら南方海域から来航してきた船も一括して唐船とよんでいた。 但し当時の人達は、このように遠く南方方面より長崎に来航した船を「奥船」。奥船に次いで福建省方面から来航してきた唐船を「中奥船」。1700年頃よりこ杭州(寧波)方面より来航してきた唐船を「口船」と区別してよんでいた。 そして、それら唐船の来航地によって船頭達の言葉が異なっていたので、それらに応じて唐通事(通訳)が任命されていた。例えば南京口の通事は口船。福州口は中奥船、東京口やシャム口は奥船の通訳をした。 奥船が入港していた頃、長崎より出航していた御朱印船も前途したように、その寄港地は奥船の出港地ベトナム、カンボチヤ、タイの各地に貿易に出かけていた。 1636年(官営十二)徳川幕府は御朱印船並びに日本人の海外渡航を禁じた。然しその間、長崎の町には唐船や奥船や中奥船の人達が来航し居住し、唐寺興福寺・福済寺・崇福寺の建立や唐僧の渡来、加えて南方に出かけた御朱印船乗組の人達が運んできた南方諸国の異国の文化が長崎の町にはあった。 そして、そこには当然のこととして、この町には南方や中国の食文化が多く移入されていた。2.シッポクその言葉は東京の言葉であるという。シッポクの語源は、現ベトナム。卓(テーブル)を用いて食べる料理。▲唐船舶載染付碗 古賀十二郎先生は先生の名著として有名な「長崎市史風俗編」の中でシッポクの語源について詳しく記しておられる。その要旨を整理すると次にようになる。 亨保十六年(1731)長崎奉行細井因幡守は当時唐人屋敷内に在留していた唐船より来航していた人達に「シッポク」という言葉について質問したところ、唐船の人達は次のように回答した。 シッポクという言葉は中国語にはございません。中国語ではシッポクという意味は卓子と書きシッポクとはよみません。卓のことをシッポクというのは広南・東京方面の言葉でございます。 広南・東京というのは現在のベトナム方面をいうのである。するとシッポクの語源はベトナム語ということになる。 私は先年NHKの国際ラジオ局でベトナム方面を担当しておられた富田春生先生(現奥羽大学英文学科教授)にシッポクの語源についてお尋ねしたが不詳ということであったし、一昨年来崎されたベトナムTV局の皆さんを通じて調査を依頼したが納得のゆく回答に接しなかった。 ここに考えられることは、細川奉行がシッポクの事について質問した亨保年間というのは、元禄二年(1689)に唐人屋敷が完成してより約五十年も後のことであり、当時来航していた唐船は寧波を中心にした口船の人達であり、一世紀も前に長崎に来航していた奥船のことについては詳しく知ることがなかったのである。 兎も角、卓(テーブル)のことをベトナム地方では「シッポク」と言い、我が国ではその「シッポク」(卓)で食事することにより、転じてシッポクを利用して食べる料理となり、更に「シッポク料理」という用語が生まれてきた。 このことは前途の西洋料理編でターフル(オランダ語でテーブルの事)を用いて食べる食事をターフル料理とよび、やがてそれが現在の西洋料理となってきたのと軌を一にする。 次にシッポク台も変化してきた。それは卓で食事するには椅子を必要とするが、この事は当時一般の畳敷の我が国の住宅では不便であった。その故に卓の足を短くし、型も収蔵するに便利な丸型の卓が造られるようになってきた。 1820年ごろ川原慶賀が描いた唐館絵巻の唐人宴席の図をみると、そこには朱塗の丸型の足の短いシッポク台をつかって会食している図が描かれているこれよりみると唐人屋敷内でのシッポク台も畳敷の部屋にあわせて朱塗丸型短足のシッポク台がつくられていたのである。 明和九年(1772)発刊の「普茶料理付卓子通考」に描かれているシッポクの図も、畳敷の部屋にあわせた短い足の長方形のシッポク(卓)で、卓の上には中国風の模様があるテーブル・クロスがかけられ、卓の上には箸袋に入った箸、小皿、酒瓶、匙などがおかれている。3.文献にみるシッポク料理卓袱(しょうふく)と書き、日本では「しつほく」。作法はありて、さらに無きに似たり。▲唐蘭館絵巻(長崎市立博物館蔵) 明和八年(1771)江戸日本橋の須原屋より刊行した本に「新撰会席しつほく趣向帳」という料理の本がある。これをみると当時江戸・京都で流行していた「シッポク料理」のことが詳しく紹介してある。その本の序文には次のように記してある。一、しつほくという言葉は肥前長崎にていう言葉にして、おそらくは藩語ならん、唐にては八僊卓(はつすえんちょ)というて猪豚の肉を専ら用揺る事なり。・・・一、しつほくは大菜五種・六種。小菜七種・八種のものなり。大宴なれば大菜九種・小菜十六種なり。 (中略) 一、しつほくは文字詳ならず、然れども朋友とねんごろに酒を飲むことを中国の演義文に卓袱(しょうふく)と書き日本にては「しつほく」と読むという。因って此の字を用ゆ、なお後人の考えを待つべし。(浪花 禿幕子著) 続いて同書には「卓袱器物全図」があり器物の一つ一つについて図を加えている。食事法については次のように記してある。 作法はありて さらに無きに似たり 次にシッポクには長命水という酒を用意し、それは金区ラ-あるいは骨杯(コップ)とも書く也-を用いて飲むとしている。 何故、長命酒を用いるかというと「およそシッポク料理は大酒に及ぶものなれば」健康のことを考えて長命酒を用いるという。そしてその長命酒というのはオランダ人が用いる酒のことであると説明している。第8回 中国料理編(三) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第478号【長崎よもやま話(レモン、石畳)】

     よそさまの庭先でたくさんの実をつけた李(すもも)の木を見かけました。梅雨前から終わりにかけて、木いちご、山桃、梅、杏など、おいしい実をつける植物がたくさんありますが、そんな季節もそろそろ終わりに近付いています。梅雨のはじめに漬けた梅シロップは、もう飲み頃を迎えました。水や炭酸で割って飲む自家製梅ドリンクは格別。クエン酸による疲労回復の効果があるので、暑さでバテそうなこれからの季節にぴったりです。  クエン酸といえばレモンです。スポーツをするときレモンの輪切りをはちみつ漬けにしたものを持参する方もいらっしゃることでしょう。また、レモンはご存知のようにビタミンCもたっぷり含んでいます。大航海時代の船員たちは、長い船上暮らしで生野菜や果物を食べる機会が少なく、ビタミンC不足から引き起こされる壊血病で命を奪われたものも多かったそうです。18世紀半ばになってイギリス海軍でレモンが壊血病に効果があることがわかり、予防のために果汁をしぼったジュースを飲むようになったといわれています。  レモンの日本への初渡来は明治になってからという説がありますが、江戸時代後期に唐船が長崎に運んで来たという説もあります。また、オランダ船の乗組員たちがレモンを壊血病予防に用いたという話は、これまで聞いたことがありません。オランダ船は拠点のある東南アジアで、緊急時の水分補給のためにザボンを積み込んだといわれています。ザボンは、ビタミンC、ビタミンEを多く含んだ柑橘類です。図らずもザボンで壊血病を予防したのかもしれません。  さて、レモンの爽やかな香りと独自の風味をいかしたレモンスカッシュやレモネードは、まさに〝夏の飲み物〟のイメージです。ちなみに、レモネードの呼び名が転訛したといわれるのがラムネです。ラムネの日本での製造のはじまりについては、幕末に長崎で、という説や明治初期に神戸で、という説もあります。  レモンの果汁に蜂蜜や砂糖などで甘味をつけ冷水で割ったレモネード。ハイカラともてはやされた時代を経て、日本人に飲み継がれ、いまとなっては昔懐かしい飲み物のひとつになっています。かつて居留地だった南山手界隈の一角にある小さな喫茶店でレモネードを飲みながら、そんなことに思いをめぐらしていると、窓越しに見える石畳にふと目が止まりました。  長崎らしい風景には、いつも石畳があります。かつて外国人居留地だった東山手・南山手界隈の石畳の多くは幕末~明治期に敷かれたものです。では、長崎市内に現存するもっとも古い石畳はどこにあるのでしょうか。長崎の郷土史に詳しい方によると、「サント・ドミンゴ教会跡」(長崎市勝山町・桜町小学校内)に残っているとのこと。サント・ドミンゴ教会は1609年に建てられ、わずか5年後に禁教令により破壊されました。遺構として残る石畳は中庭の一部と推測されるそうで、大きめの平らな石やいくぶん小ぶりの石を敷き詰めてあります。400年以上も前の宣教師や長崎の人々は、いったいどんな姿や思いでそこを歩いたのでしょう。想像するだけで歴史好きの血が騒ぐのでありました。  ◎参考にした本/「ながさきことはじめ」(長崎文献社)

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