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  • 第473号【幕末~明治期、英語の学び場だった長崎】

     新年度のスタートに合わせて、テレビやラジオなどの英語講座をはじめた方もいらっしゃることでしょう。これまで何度も中途半端に終わったけれど、あらためてチャレンジしているという方も少なくないはず。いまは、学習法がいろいろあって悩ましいですね。そんなときこそ、限られた学習環境で懸命に英語を学んだ先人達に思いを馳せてみるのもいいかもしれません。  幕末から明治にかけての英語通訳者といえば、ジョン万次郎(中浜万次郎)がよく知られています。天保12年(1841)出漁中に漂流し、アメリカ船に救助されアメリカで教育を受けて嘉永4年(1851)に帰国。土佐藩、幕府に仕えました。  江戸時代、オランダ語や中国語以外の外国語、とくに英語修得の必要に迫られたのは、このジョン万次郎の時代、幕末になってからです。嘉永7年(1853)ペリー来航は、その大きな引き金となりました。4年後の安政4年(1857)、幕府はオランダ通詞や唐通事たちに英語を学ばせるために、「語学伝習所」を長崎に設けました。翌年には、「英語伝習所」と改称。その後、明治元年(1868)までに、「英語稽古所」「洋学所」「語学所」「済美館」「広運館」などと、数回に渡り名称と場所、教科内容を変えて行きます。これは、激動の世相を反映した結果でありました。また、慶応元年(1865)には佐賀藩が英語教育を目的に「致遠館」を設け、明治元年には、近代印刷の始祖・本木昌造が英語など複数の教科を無料で学べる「新町私塾」を開設しています。当時、日本で英語を修得するなら「長崎」がもっとも充実した環境だったようです。  ところで、ジョン万次郎が帰国したり、幕府が「語学伝習所」を設けたりする前に、長崎には小さな英会話教室が存在しました。先生は、本場のアメリカ英語を話すラナルド・マクドナルド。生徒は十数人のオランダ通詞たちです。この教室の大きな特長は、先生と先生の間に牢格子があったということ。そう、マクドナルドは捕われの身だったのです。  マクドナルドは、1824年アメリカはオレゴン州生まれ。父はスコットランド人で、母はネイティブ・アメリカン。母の先祖のルーツがあるといわれる日本に対し憧れを持っていたマクドナルドは、嘉永1年(1848)捕鯨船での日本への密入国を企て、北海道の利尻島で捕えられました。その後、取り調べのため長崎奉行所へ護送されたのでした。  礼儀正しく教養があり、温厚な人柄だったというマクドナルド。牢越しに交わされるのは、わずかな言葉やジェスチャー。その限られた環境下で懸命に日本の言葉を憶えようとする姿は、世話係をつとめた森山栄之助(多吉郎)らをはじめとする下級オランダ通詞らの心を動かしました。彼らはすでに英語修得の必要性を感じていたこともあり、マクドナルドが帰国するまでの半年ほどの間、日本ではじめてネイティブ・スピーカーによる英会話教室が開かれたのでした。  この教室で、マクドナルドから一目置かれていた森山栄之助は、数年後のペリー来航時やその翌年の日米修好通商条約締結時に通訳として活躍しています。 諏訪神社にほど近い上西山町には、「ラナルド・マクドナルド顕彰之碑」があります。この碑の真向かい辺りに、牢格子越に英会話教室が行われた「大悲庵(だいひあん)」(崇福寺の末庵)がありました。マクドナルド顕彰碑の隣には、通訳業務を通してアメリカとの交渉に命を燃やした森山栄之助の顕彰碑が建っています。幕府は栄之助の語学力と交渉能力に全幅の信頼をおいていたそうです。

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  • 第472号【土地の記憶をたどる(風頭山~伊良林界隈)】

     九州では先週、満開を迎えた頃、東北では開花宣言が出たとたん、春の嵐に見舞われましたが、あなたのまちの桜の様子はいかがですか?この時季、あちらこちらで聞こえてくる桜談義。転勤で各地の桜を見て来た知人たちによると、同じソメイヨシノでも、九州と北陸や東北地方などの寒い地方とでは、印象がかなり違うとか。温暖な九州のものは、おだやかでやさしい表情。一方厳しい冬をくぐり抜けたソメイヨシノは、どこか凛とした美しさで、満開を見上げたときの感動もひとしおなのだそうです。  嵐の翌日、長崎の中心市街地の桜の名所のひとつ「風頭山(かざがしらやま)」へ様子を見に行くと、案の定、花びらをあたり一面に散らしていました。花曇りのなかを行き交うのは花見客や観光客。風頭山の山頂から徒歩で10分ほど下ったところには、慶応元年(1865)に坂本龍馬が結成した亀山社中跡があり、ゆかりの地ということでこの山頂にも、長崎港沖を望む坂本龍馬像が建立されていることから一年を通して観光客が絶えません。  坂本龍馬が率いた亀山社中は貿易商社。ちなみになぜ亀山社中と呼ばれたかというと、近くに亀山焼と呼ばれる窯があったからです。亀山焼は19世紀はじめ頃に、オランダ船に売るための水瓶を製造するために開かれた窯。水瓶の「カメ」が、「亀」に転じて亀山焼と呼ばれるようになったそうです。しかし水瓶の販売は不振で、途中から白磁の陶器に切り替えました。絵付けには、中国から輸入した花呉須(はなごす)という発色のいい藍色の顔料を用い、長崎の三画人と呼ばれた、鉄翁祖門、木下逸雲、三浦梧門などが描いたといわれています。そうして上質の染め付けを製造していたようですが、残念なことに開業から約60年で廃窯に。奇しくもその年に亀山社中が誕生したのでした。たしか龍馬も亀山焼のご飯茶碗を持っていたはずです。  風頭山の北東側の斜面に位置する亀山社中跡や亀山焼窯跡がある一帯は、伊良林(いらばやし)とよばれる地域です。坂段が縦横に入り組むようにしてあり(長崎はそういうところが多い)、すれ違う観光客たちはみなフウフウ言いながら上り下りしています。それでも同じ道を、亀山社中の若者たちも歩いたのかと思うと、感慨深いものがあります。亀山社中のメンバーは、大里長次郎(近藤長次郎)、陸奥陽之助(陸奥宗光)など数人の正式な隊員ほか総勢20人ほどだったそうです。   同界隈で育った大正生まれのある方が、子どもの頃に聞いた話によると、「亀山社中のもんは荒らくれものが多くて、あんまり好かれとらんやったらしい」とのこと。若くて、血気盛んな彼らのこと。何をしでかすのか怖くて、遠巻きに見ていた地元の人もいたのでしょう。いまとなっては、ほほえましくもあるそんなエピソード。見えない土地の記憶としてこの界隈に刻まれています。

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  • 第4回 西洋料理編(二)

    1.横浜の西洋料理横浜初、洋風建築の西洋料理店。それは、長崎人によって始められた。▲明治初期のビードロ用具 横浜沿革誌を読むと次のように記してある。 明治二年八月、横浜姿見町三丁目に谷蔵なるものが西洋割烹を開業。当時は外国人の供養を目的とし 本邦人は之を嗜むものなし この横浜で最初に西洋料理を創業したとされる谷蔵は長崎県出身の人であったという。その谷蔵のことについて「明治車物起原」には次のように記してある。 横浜西洋料理の祖、長崎県の人大野谷蔵は初め姿見町三丁目に開業、後に今の相生町五丁目に移り開業・・・・ 次に明治五年三月二十三日発刊の横浜毎日新聞には、「西洋料理店崎陽亭」開業の広告が次のように掲載されている。 西洋料理御一人前、金二分より従来馬車道似て渡世士候ところ、類焼後、尾上町二丁目に開業まかり在り御ひいきを蒙り候ところ、今般西洋風家作造営、来る二十五日より開店、風味第一、且つ下直に差上候間、不相度ににぎにぎ敷ご入来、沢山御用仰付られ候よう 願上げ奉り候   崎陽亭利兵衛 この崎陽という言葉は長崎の別称であるので営業主の利兵衛は前記の大野谷蔵と同様長崎の出身者であり谷蔵と利兵衛は同一人物であるという人もいる。そして利兵衛の店は洋風建築であったっと紹介している。これは恐らく横浜における洋風建築の西洋料理店としては最初の物であったと考える。 私はここに、横浜における本格的西洋料理は全て長崎の人達の手によって始められていることに注目している。  これより少し前の文久元年(一八六一)横浜に滞在していたシーボルト父子は横浜における食事のことについて次のように述べている。 私達の横浜での食事はアカリーという黒人ボーイのレストランで過しました・・・・・其の後、私達は今度フランス教会で改宗した上手な料理人を雇うことができましたので大変愉快な食事となりました。 このフランス教会で改宗した人というのは、当時はまだキリスト教禁教時代であったので日本人ではなかったと考えている。2.長崎の西洋料理屋出島のオランダ人に料理見習い。長崎生まれの西洋料理人、草野丈吉。▲自由亭(明治11年建、グラバー園内) 長崎の町で一番早く西洋料理の専門店を開業したのは草野丈吉であったといわれている。 草野丈吉のことについては小冊子の伝記が出版されている。それによると丈吉は天保十年(一八三九)上長崎村伊良林郷次石、若宮神社前で生まれ、少年の頃、出島のコンプラ商人の一人増永文治の使用人として雇われている。このことが丈吉を西洋料理に向かわせる遠因となっている。 丈吉は幼少の頃より働きものでまじめで人と争はず、実に利発な少年であったという。この少年を信頼していた増永氏は、当時としては給料もよく高給とりとしてエリートの職業であった出島に居住していたオランダ人の使用人に丈吉を推挙している。 その出島での丈吉の働きぶりには大いにみとめられ、やがて在オランダ公使のゼネラル・デヴィットの使用人となった。公使デヴィットは丈吉がオランダ料理を研究したいという目的を知って、当時長崎に入港していたオランダ船セロット号の調理師見習いとして推挙している。ここでも丈吉は彼が真面目が大いに認められ、オランダ語を身につけ、横浜、函館と各地を廻り、めきめきと西洋料理の腕を上げ、外人はみな丈吉の料理を称賛したという。 これに自信をえた丈吉はデヴィット公使の許可で知人となった五代友厚に西洋料理専門店開業のことを相談している。友厚は丈吉に「これからの時代はきっと西洋料理を注文するものがふえてくるであろう」と言って開店開業のことを進めたと草野丈吉伝は記している。 五代は後に明治初年を代表する大実業家となった人物であるが当時は長崎海軍伝習所に学び薩摩藩を代表する一員として活躍していた。 この五代と丈吉の出会いは、後に五代が外国事務局判事・大阪府判事となったことにより丈吉の西洋料理の大阪進出への端緒となっている。3.草野丈吉の開業。グランド将軍や内外の賓客が訪れた、本格的洋風接待所「自由亭」。▲西洋料理発祥の碑(グラバー園内)文久三年(一八六三)丈吉は前述の伊良林若宮神社前の自宅に少しばかり手を加え、屋号を土地の名に因んで良林亭とよんだという。然し渡辺庫輔先生の「幕末長崎料理屋名寄」には東組の中に「伊良林郷 草野屋丈吉」とあり、慶応三年(一八六七)の名寄には「伊良林 自遊亭丈吉」とある。  草野屋(良林亭)時代には店の前に次のような張り紙がだしてあったという。料理代 御一人前金参朱 御用の方は前日に御沙汰願上げます。 但し六人以上の御方様はお断り申し上候。 部屋は六畳一間で椅子がなかったので酒樽を使用し、洋食器も六人以上は不備であり、使用人もなく、丈吉はコックとボーイ役を兼ねて一人で走り回っていた。 料理代三朱といえば、一両の3/16である。一両を現在の七万円とすれば三朱は一万三千円位となる。しかも店は伊良林若宮神社前という山の中腹にあって人力車も行かず、電話のない時代に前日より予約して御来店下さいというのであるから、西洋料理一皿を食べるのも大変であったと考える。然し、それでも丈吉の店は繁昌していたのである。  これは丈吉が外国人接待用のターフル料理を、要望に応じて其の処に出むいて調達していたからである。翌々年丈吉は店を自宅の下方でより便利なところに移し、店も広め料理代も一朱としている。今も土地の人達はこの場所をジュテイとよんでいる。 明治十一年丈吉は長崎市馬町諏訪神社前に進出、立派な洋風建築を新築し店名を自由亭と改称、長崎を訪問する各国賓客の本格的洋風接待所として活用している。その故に自由亭はアメリカ大統領グランド将軍をはじめイタリヤ、ギリシャ、ロシヤの賓客が次々と訪れた記録が残されている。 さて、丈吉が用意した料理の献立については殆ど記したものをみないが他の資料より考えて料理名をあげると、 牛のソウパ(スープ)、パスティ(肉入りパイ)、フルカデル(肉饅頭)、牛のロース煮、ハム、ビフテキ、ゴウレン(魚の油揚)、豚料理、鶏料理、サラダ、パン、コーヒーなどにカステラ、カスドースなどの洋菓子がつけられていた。 丈吉は商業都市大阪への進出を契機として、前述の五代友厚後からの力をかりて明治二年大阪川口梅本町に外人止宿所(ホテル)を完成、翌三年にはこれを自由亭と改称、丈吉は大阪府料理御用達を命ぜられている。 明治九年、京都で博覧会が開催されている。丈吉は、このとき祇園二軒茶屋にあった藤屋が廃業したので早速その跡地を買収、ホテルと西洋料理専門店を開業、屋号はそのまま藤屋といっている。 当時の料理の代金は「上等五十銭、中等二十七銭五厘、下等は二十五銭」であった。第4回 西洋料理編(二) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第471号【雨の石畳を歩く(東山手・南山手界隈)】

     西日本では3月中旬から4月にかけて、どこか梅雨を思わせるような天候が続くことがあります。「菜種梅雨」とも呼ばれるこの雨は、シトシトと降り続けるのが特徴ですが、気のせいか、ここ数年はドシャ降りが多いように感じられます。手元には、やさしい雨に濡れるオランダ坂の古い絵はがき。その風情を見たくて、幕末~明治期に外国人居留地だった東山手、南山手界隈へ出かけました。  路面電車に乗り、「市民病院前」電停で下車。絵はがきにあったオランダ坂は、そこから徒歩3分です。近くには旧長崎英国領事館の煉瓦づくりの建物があります。そぼ降る雨にうたれる石畳の上をカラフルな傘をさし、タブレットやスマホ片手の観光客が行き交っていました。幕末の開国にともない外国人居留地として街並が造られたこの界隈。石畳の通りの先々には、明治期に建てられた洋館が点在しています。地元住民には見慣れた風景も、やはり観光客の方々にとってはハイカラな歴史をかもす異国情緒は特別な感じがするようです。「初めて来たのに、懐かしい感じがする。不思議よね」という方がいました。雨にもかかわらず、熱心に観光案内の立看板を読む人や写真を撮る人の姿が絶えませんでした。  ブルーグレーの外観が印象的な東山手甲十三番館(国登録有形文化財)は、かつてフランス領事館として使用されたことがありました。ご近所にあるクリーム色をした東山手十二番館(国指定重要文化財)は、ロシアやアメリカの領事館として使用されました。また外国人向けに洋風にしつらえた東山手洋風住宅群(7棟)もこの界隈の異国風な景観のひとつになっています。そんな東山手を通り抜け、南山手にある大浦天主堂へ向かいました。  現存する日本最古のゴシック建築様式のカトリック教会で、国指定の重要文化財である大浦天主堂。1859年の長崎開港後にやってきたヒューレ神父によって建築が計画されました。完成し献堂式が行われたのが1865年2月。当時は「フランス寺」と呼ばれ、見物人が絶えなかったといいます。とはいえ、まだキリスト教の禁教令下にあった日本。献堂式にはフランス領事をはじめ、各国艦船の艦長や居留地の外国人らが正装して出席するなか、長崎奉行は招待を受けたものの、参列を断っています。  その日から約1ヶ月後の3月17日。約250年もの間、信仰をひそかに守り伝えてきた浦上のキリシタンが、祭壇前で祈っていたプチジャン神父に近付き、耳元でそっと自分たちの信仰を打ち明けます。「ワレラノムネ アナタノムネト オナジ」。プチジャン神父はその夜、「信徒発見」の大きな感動を手紙にしたためローマに送りました。そのニュースは瞬く間に世界中に伝えられたのでした。   「世界宗教史上の奇跡」ともいわれる大浦天主堂での「信徒発見」。先週3月17日は、その日から150年を迎えました。大浦天主堂では早朝から7回の記念ミサを行っています。新聞報道によると、法王の特使をはじめ国内外の神父や信徒が参列。さらに、宗派や宗教を超えて聖職者などが参列し、一緒に世界の「平和」を祈ったそうです。それは、宗教弾圧、被爆という哀しみを知る長崎の切なる願い。このまちを象徴するかのような光景であったに違いありません。

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  • 第470号【立山界隈のキリスト教関連史跡】

     長崎市街地のせまい路地裏を歩いていたとき、ふと鼻先をかすめた沈丁花の香り。夜気に漂うその香りの印象的なこと。「春のいろいろな別れや出会いが呼び起こされて、ちょっとせつない気持ちになる」と言った人のことを思い出しました。  ときおり厳しい寒の戻りがあるものの、日中、陽当たりのいい場所へ出てみるとスミレ、そして西日本で多く自生するというシロバナタンポポが咲いています。北国で春を告げる花として知られる辛夷(こぶし)も満開です。一方、ニュース映像で見る東北は、まだまだ冷たい風が吹いています。ささやかですが、一足早い九州・長崎の春の花を画像でお楽しみください。  春の花たちは今月初め、長崎市の立山界隈を散策したときに出会ったものです。立山は長崎の歴史を語る上で欠かせない特別な場所で、楠の巨木など樹木が生い茂るこの土地には何かを引き寄せる力でもあるのか、長崎が貿易港として歴史の表舞台に登場するずっと前には大きなお寺があったといわれ、南蛮貿易時代には「山のサンタ・マリア教会」、禁教令によって教会が破壊されたあとは、「長崎奉行所立山役所」が設けられるなど、時代に応じて重要な役割を果たす建物がありました。  明治維新後も公的な施設が置かれ、現在は「長崎歴史文化博物館」、「長崎県立長崎図書館」があります。この界隈の歴史は日本の近世・近代に大きな役割を果たした長崎の政治、経済、文化が複雑にからみあい凝縮され、ひもとくのは容易でありません。なので、散策で出会う史跡も南蛮貿易時代から現代までの数百年を何度も行き来するので混乱してしまいます。  今回はキリスト教関連の史跡を2つご紹介します。ひとつめは「長崎歴史文化博物館」の目の前にある「サント・ドミンゴ教会跡資料館」。桜町小学校の一角に併設された資料館で、1609年に建てられた「サント・ドミンゴ教会」の地下室や井戸の遺構を見ることができます。花十字紋瓦や長崎市内で発掘された当時のメダイや十字架などのキリスト教関連の出土品も展示。長崎でキリスト教が栄えた時代の遺構はあまり残されていないなか、たいへん貴重な施設でもあります。  現在は、埋め立てられこの辺りの南蛮貿易時代の様子は想像しにくいのですが、当時は、すぐ近くに舟が着く入り江がありました。この資料館のそばにある「八百屋町通り」は長崎で最初につくられた石畳の通りだったと言われ、江戸時代初めまでこの界隈にいくつかあった教会や教会関連施設へ運び込む物資が往来したといわれています。現在の通りはアスファルトに覆われてしまっているのが残念です。  「八百屋町通り」近くには、「西勝寺」があります。西本願寺の末寺として1632年に創建された「西勝寺」。禁教令後も転宗しないキリシタンが多くいた当時の長崎で、転宗させその証文を取って奉行所に提出していました。このお寺には、証人のひとりとして「忠庵」の名が記された証文の写しがあります。「西勝寺文書(キリシタンころび証文)」(非公開/長崎県有形文化財)と呼ばれるもので、書き損じたため寺に残ったと言われています。  「忠庵」とは、元イエズス会宣教師のフェレイラ神父のこと。1609年に来日し、24年間も日本で布教活動を行っていましたが、長崎潜伏時にとらえられ拷問の末に棄教。その後、日本名「沢野忠庵」として長崎奉行のもとでキリシタンを取り締まる側になった人物です。その忠庵も行き来した立山界隈。同じ場所を歩いても、彼の苦悩は想像を絶し、推し量ることなどできないのでした。

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  • 第3回 ターフル料理編

    1.その名前の事ターフルとはオランダ語のTable。テーブルで食事をするという意。▲グラバー園内旧オルト邸(国指定重要文化財) 寛延三年(一七五〇)、長崎奉行所に江戸より赴任していた小倉善就の父某の撰と記してある「紅毛訳問答」に、オランダ通詞より聞いた言葉として次のようなことが記してある。 一、シッポクと唱候は蛮語にて候哉 紅毛にはシッポクという言葉なし、紅毛にてはターフルと申候、シッポクはいづれの語たること、審ならず。  ターフルという言葉はオランダ語のTableという言葉からきている。ターフルは英語のテーブルという意味である。  すなわち、ターフル料理というのはテーブルで食事をする意味である。 その昔、長崎の人達はシッポク料理という言葉をつくりだしている。そのシッポクという言葉については、故古賀十二郎先生の研究論文中に次のように記してある。  シッポクとは東京(トンキン)語にて卓のことである。  トンキンというのは現在のベトナム国内の一都市の名であるが、昔はその地方の王国の国名で、そこの国王の名を阮氏といった。 それでは何故、そのような東京地方の言葉が長崎に伝えられ、シッポク料理として現長崎の名物の一つになったのであろうかと疑問を持たれる。それには、初期長崎の唐船貿易のことから考えてゆかねばならない。当時長崎の港から出発した貿易船を御朱印船とよんだ。御朱印船は多くベトナムを中心にして活躍した。中でもその中心地はトンキン王国であった。長崎の御朱印船主の一人に有名な荒木宗太郎がいた。宗太郎はトンキン王の信任をうけ遂に国王の娘アニオさんをお嫁にいただいた。宗太郎はアニオさんをつれて長崎の町に帰ってきた。そのアニオさんの上陸の行列は人々の目をみはらせ、今も「長崎くんち」の奉納踊りにその面影を残している。それは昨年石灰町が「くんち」に奉納した豪華な御朱印船入港絵巻にもあらわれている。 そのようにトンキン地方の文化は異国趣味の文化として急速に長崎の人達に大いに歓迎された。その中の一つに卓を囲んで食べるシッポク料理があった。この食事法は、これまでの我が国にはなかった食事法であり、料理であったので、人々は驚きの目をみはって食卓についた。やがてこのシッポク料理は江戸にまで流行していったのである。  このシッポク料理にかわる洋風の新しい様式の食事法・料理として長崎の町に登場したのがターフル料理なのである。2.新しきものオランダ人を持て成すために用意。出島オランダ屋敷の蘭料理。▲グラバー園内旧グラバー邸の食堂 ターフル料理は先ず出島オランダ屋敷の料理を基本としている。  このターフル料理の名前が長崎の文献にあらわれてくるのは安政初年頃(一八五四~)からである。はじめは蘭料理として記してある。安政四年(一八五七)四月の佐賀藩の記録の中に、 蘭船将其の他六人。ストークル三人え蘭料理御馳走おうせ付られ、右手当として十六日鵬ヶ崎え持出、給仕も相頼まれ申候。  また、同四月二十日の記録には当時用意された料理名が次のように記してある。  蘭料理鶏ケルリイ、豚フルカテル、豚ヒストック三種ならびに蘭酒二本、但し銘酒とシャンパンヤ このことより考えて最初に蘭料理を必要としたのは各藩が出島のオランダ人と商取引の関係上オランダ人を招待する必要があり蘭料理を用意したのである。佐賀藩はことに長崎港の警備役を兼ね長崎奉行所との交渉も親密であり、当時すでに安政二年(一八五五)十月には長崎西役所内(現在の県庁)に海軍伝習所が発足し、そこの教官としてファビウス以下二十名のオランダ士官・下士官が在留した。かくてオランダ人に対しては、出島を出て市街遊歩の事が許可された。又当時の佐賀藩主鍋島閑叟公は特に様式兵学の取り入れに力をもちいていた必要上、このようなオランダ士官との交渉の場を設けたのである。 当時の長崎の町にはまだ蘭料理の調理に堪能な人は前回のべたオランダ屋敷内の料理人三人以外にはいなかったので、佐賀藩では前記のように三人のオランダ人にその調理を依頼したのである。  安政六年(一八五九)正月、長崎奉行所「御用留」の中にロシア人が対岸の稲佐に上陸を許され酒宴を開いた模様を記し、その料理を「タアフリ料理」と記してある。翌安政七年十月五日の出島「万記帳」の中にも長崎奉行所目付役小倉九八郎が出島を訪ね、カピタン部屋でターフル料理を差し上げたと次のように記してある。  小倉様カピタン部屋にお入りなされ、御茶御煙草盆ターフル差上く、暫く御滞在、夫より出島商人の見世ご覧なされ候。 この時のターフルは簡単な洋風料理か菓子などであったと考える。3.ターフル料理は変化した。長崎西洋料理の始まりは、居留地の外国人の為の食料調達から。▲シーボルトが諫早候に送った酒瓶セット(長崎市立博物館蔵) 安政六年(一八五九)の開国と同時に長崎の町の様子は一変した。今までのオランダ人のみでなくアメリカ、フランス、イギリス、ロシアの各国の船が長崎に入港し、大浦方面には居留地や各国領事館がつくられ、外国人の食料として、「牛とき場」(屠刹場)が戸町海岸に文久二年(一八六二)官許によってつくられた。  これが我が国における官許の牛屠刹場のはじめである。イギリス領事館はこのとき奉行所に「食料として一年に牛五拾頭は確保しておいてもらいたい」と申しでている。これは、日本側が農耕用としている牛を外人側に差し出すことをあまり歓迎しなかったからである。 安政五年(一八五八)イギリス領事館開設準備のため長崎に渡ってきたホジリン氏の婦人は、彼女の書簡の中に当時の西洋料理事情を次のように説明している。長崎の地にはミルクもバターもありません。私たちは上海から食料用の羊を積んでいましたので、それを食べてどうにか過ごしました。牛肉を食べるのは困難です。私たちは上海からつれてきた中国人が早朝から出かけて九時頃やっと帰ってきて、すこしばかりの鳥や魚をもってきます。時にはこの中国の料理人が少しばかりの豚肉をさげてきて私達に自慢するのですが、これは私達の目からみれば食用にならないものが多いです。 次に彼女の文章をよむと、卵だけは充分にあったので毎日オムレツを食べたこと、外国船が入港したときには塩漬の貯蔵肉が手にはいるのでそれでカレーを作って食べたことが記してある。  さらに果物のことも記して、「日本の果物は早どりするので全てが固いので私達は二、三日おいてから食べます」と言っている。その果物は、香りのないメロン、かたい杏、石梨、かたい桃があったという。香りのないメロンというのは西瓜のことであろうか。 ここに安政六年に上海から入港した外国船の積荷の控がある。その中より食料の部を拾うと次のようなものがあった。 塩豚肉、酢、麦粉、パン、砂糖、豆、豌豆、ハム、干リンゴ、飲物 次に、居留地内の外人宅に日本人が次第に使用人として雇われるようになってきた事、外国人が必要とする食料を長崎の人達が調達しはじめてきた事は、長崎の人達をターフル料理に目をむけさせてきた。やがて、この外国人雇の日本人使用人の中に、西洋料理を学ぶ人達があらわれてきた。やがて長崎の人達は、一度は是非この西洋料理なるものを口にしてみたくなってきた。第3回 ターフル料理編 おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第469号【春めく、中島川】

     ときおり訪れる小春日和。江戸期発祥の石橋群が架かる中島川沿いを歩けば、真冬にはなかなか姿を見せなかった鳥たちが元気に水辺を飛び交うようになりました。年中見かけるアオサギも、春めくなかで気分が良さそう。観光客が集う眼鏡橋から徒歩5分ほどの上流にかかる桃渓橋(ももたにばし)あたりでも、川面を素早く飛翔するカワセミの姿がありました。翡翠(ひすい)のような美しい色をしたカワセミは、渓流などに棲むと思われていましたが、いまではまちなかを流れる各地の川で見かけるようになったといわれています。川の水がきれいになったからなのか、エサを求めてなのか、その理由はわかりませんが、鳥たちがのびのびと暮らせるよう見守りたいものです。  早春の気配が漂いはじめる1月下旬~2月初旬、長崎県下では各地の海岸でアオサ摘みがはじまったというローカルニュースが流れます。深緑色をした海藻のアオサは、水洗いして乾燥させ、お吸い物や味噌汁、天ぷらなどにしていただきます。実は同時期、眼鏡橋のひとつ下流に架かる袋橋のたもとでも鮮やかな緑色をした海藻が目立つようになるのですが、よくよく見てみるとこれがアオサだったのです。  眼鏡橋あたりまでは、長崎港の海水と混じり合うところなので海藻が育っても不思議ではありません。早春の風物詩で、食卓に潮の香を運んでくれるアオサですが、さすがに中島川のそれを食するのは衛生上の問題がありましょう。また、ある漁村では原因不明の大量発生をして水質悪化につながり、漁師さんたちを困らせたこともあったとか。とはいえ、川の流れのままに揺れる深緑色はとてもきれいです。毎春この光景を楽しめますように。  その中島川はいま「長崎ランタンフェスティバル」の装飾に彩られ、黄色のランタンの下を連日大勢の人が行き交っています。今年も春節の休暇を利用して来た中国系の観光客の姿が目立ちます。袋橋の上は、上流の眼鏡橋を入れてランタンの写真を撮ろうとする彼らでいっぱいでした。  中島川沿いの散策を終え、中国語が飛び交うなかをくぐり抜けるようにして帰る途中、商店街で地元産の春キャベツとシマアジを購入。今夜は、白身魚の「ゴーレン」に春キャベツを添えていただくことに。「ゴーレン」は長崎の郷土料理のひとつで酒やみりん、しょうゆで下味をつけた白身魚(または鶏肉)に衣(小麦粉か片栗粉)を付けて揚げたものです。衣に甘味(砂糖)を加えて揚げるいわゆる「長崎天ぷら」とは別物です。   「ゴーレン」の語源は、ポルトガルやオランダにはないといわれます。東南アジアに「ナシゴーレン」という料理がありますが、そこでいう「ゴーレン」は、「炒め物」を意味するとか。江戸時代、出島には東南アジア出身の人々がオランダ人に付いて働いていましたから、そこらへんに長崎料理の「ゴーレン」の語源はありそうです。またキャベツも江戸時代にオランダ船が長崎に運んできたのがはじまりといわれます。今夜も長崎ゆかりの食材を、ありがたくいただきたいと思います。

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  • 第468号【2015長崎ランタンフェススティバル(予告)】

     西山神社では、早咲きタイプの「元旦桜」が九分咲き。春が目の前にきていることを実感します。これから三寒四温で季節は移っていくのですね。変化の激しい天候に体調を崩さないよう気を付けてください。  寒さのなかに小さな春を感じはじめるこの時期に行われるのが、「長崎ランタンフェスティバル」です。開催期間は、来週の2月19日(木)から3月5日(木)まで。毎年1月~2月に開催されますが、今年はめずらしく3月にまで入り込みます。期間が毎年変わるのは「長崎ランタンフェスティバル」が、中国の旧正月(春節)を祝う行事だからです。今年は2月19日が、旧暦の元旦に当たります。  朱色、桃色、黄色の大きなランタンが街中を埋め尽くす「長崎ランタンフェスティバル」。よく「幻想的」と表現されるように、夢の中に現われるような独特の世界観が創り出されます。それは、古くからゆかりの深い長崎と中国との融合から生まれた世界。期間中は国内はもとより、中国や台湾をはじめアジア各国からの観光客でにぎわいます。目にもあたたかなランタンを見上げながら和やかに行き交う人々の表情は、とてもやさしい。ランタンが平和の象徴のようにも見えてきます。  長崎市中心部に設けられた会場は、新地中華街会場、中央公園会場、唐人屋敷会場、興福寺、鍛冶市会場、浜んまち会場、孔子廟会場の7カ所。それぞれの会場で中国色豊かな装飾が施されます。  新地中華街会場、中央公園会場、孔子廟会場では、夕方近くから(土日は昼過ぎから)連日催しが行われます。中国獅子舞、龍踊り、中国雑技、中国民族踊、二胡の演奏、中国変面ショー、中国マジックショー、太極拳など、催しは年々充実しています。なかでも見逃せないのは、孔子廟会場で毎日公演される変面ショー。中国が誇る伝統芸能のひとつで、世界でも特殊といわれる演技を間近で見る事ができます。また、各会場で披露される中国雑技も本場の演技を堪能できます。しなやかで強靭な身体で繰り広げる伝統の技は驚きの連続です。  新地中華街会場には、今年の干支「羊」にちなんだ巨大オブジェ(高さ約10m)が登場します。『九陽(羊)啓泰』(きゅうようけいたい)というテーマでつくられたそのオブジェは、「吉祥の光で万事思い通りになる」という意味が込められているとか。そのほか縁起のいいいわれのあるランタンオブジェが各所に設けられています。行く先々で、幸運をもらえたような気分になれますよ。   期間中の催しの日時については、長崎の市街地各所に置いてあるランタンフェスティバルのチラシをご参考に。「長崎ランタンフェスティバル実行委員会」のホームページでも確認できます。当日はしっかり防寒して、お出かけください。

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  • 第2回 オランダ料理編

    1.出島オランダ屋敷の事奉行は、日本の牛を食べる事を禁止。オランダ人は、バタビヤから牛肉を運んだ。▲ミニ出島 我が国初期の西洋料理は南蛮料理といった。それは南蛮人が最初に西洋料理を伝えたからである。  南蛮人とは最初に我が国に来航してきたポルトガル、スペインの人達のことである。 平戸の町で、それまで自由に貿易していたオランダ人が、幕府の命令で長崎出島の地に移転することを命じられたのは寛永十七年のことである。 翌寛永十八年五月十七日(一六四一・六)オランダ人は出島に移り、長崎出島オランダ商館を設立している。  このオランダ商館を島原城主高力摂津守は早速見物ににおとずれている。このときカピタンは、見物客一同にオランダ風の料理を用意し、葡萄酒、アメンドウ、パンケーキを用意してもてなし、食事がおわると商館員が遊ぶ玉突部屋を案内し、ゴルフを見せたとオランダ商館日記に記してある。 そして、まもなく奉行所より次の連絡がとどいた。「長崎に入港してくるオランダ船の積み荷の中にある食品のうち牛肉、塩豚肉、アラク酒、イスパニヤの葡萄酒、オリーブ 油その他、キリシタンが通常使用するものを日本人、支那人に 売渡すこと贈寄することがあってはならない。そして日本の牛を殺して食べることも禁止する。」  出島のオランダ人はパンを食べたいのでパンを焼いてくれるようにと長崎奉行所に願いでている。 それまで長崎の町には多くのポルトガル人が住んでいたので何軒ものパン屋があったが、パンはキリスト教に関係があるというのでパン屋を廃業させられていた。奉行はオランダ人の願をきき入れ、パン屋の一軒を残しパンを焼かせることにした。但し、そのパンは絶対・日本人に売ってはならないという条件がついていた。  然し、豚肉と鶏は比較的に自由に手に入ったと記してある。それは豚肉は来航してくる唐人船の人達の食料として是非必要であったので奉行も豚を長崎周辺の農家で飼うことを許していたからである。 オランダ人は、日本の牛を食べてはならぬという奉行の命令があったので牛は年に一度、貿易のためにバタビヤから入港してくるオランダ船に牛を積みこんで出島に運んでいる。  出島のオランダ屋敷内で、この牛を屠殺する風景は当時評判のもので出島見物記の中によく記してある。出島カピタン・H・ドーフの日記の中にも次のように記してある。 「このバタビヤの牛を出島で屠る時、長崎奉行、代官は喜んで、その牛肉の 一部を贈呈うけるのである。そして牛肉は美味であるといって食べる。  それは牛肉は薬になると信じているからである。」 天明八年(一七八八)十一月長崎に遊学した洋画家で蘭学研究者の司馬江漢も、このオランダ屋敷の牛肉をオランダ通詞稲部松十郎の家で食べている。その試食のことを江漢は次のように訳している。  「稲部方に帰りて牛の生肉を喰う。味ひ鴨も如し。 ・・・オランダ人、出島にて牛を足のところより段々と皮をひらき、ことごとく肉を塩漬にする。2.オランダ屋敷の料理人カピタンの江戸幕府にも同行。「出島くずねり」と呼ばれた、 三人の日本人料理人がいた。▲現在の出島の石垣 オランダ屋敷内には勿論本国からつれてきた料理人もいたが、日本人の料理人もいた。  この日本人料理人のことを「出島くずねり」と呼んだ。日本人の料理人は三人いた。その給料は一ケ年、一人は銀八百八十匁、一人は七百九十匁、一人は七百拾匁であった。 この三人の料理人のうち出島カピタンが将軍拝謁のため江戸に旅行するときには、二人の料理人がテーブル一台、折りたたみ椅子三脚、必要な食料を持って同行している。 安永五年の春(一七七六)カピタンと共に江戸に旅行した出島の医師ツンベリーの「日本紀行」の中に、この日本人料理人のことを次のように記している。 「二人の料理人は旅行中、常に一人は本隊より一足先に出発し、オランダ人が宿についた時には、すぐに食事がとれるように準備し、オランダ風の料理を上手につくることができる」。 そして、この出島で料理をつくっていた人達が、やがて我が国に西洋料理を伝えた人達につながっていると考えてよいのではないだろうか。3.オランダ正月と西洋料理年に一度の饗宴は、和洋折衷仕立ての、珍奇なオランダ風フルコース。▲唐蘭館絵巻会食図(長崎市立博物館蔵)年に一度、出島のオランダ人は出島出入の役人を招いてオランダ風の洋食でもてなしている。この日は西暦の一月一日であったので長崎の人達はこの日をオランダ正月とよんでいた。そして、この行事は大変有名であったので、長崎版画の中に各種のものがつくられているし、絵画としても描かれ、その献立表も残っている。その中でも文政初年頃(一八一八)に編集された「長崎名勝図絵」には実に詳しく、その時の献立が次のように記してある。 大蓋物一ツ。味噌汁仕立・中に鶏かまぼこ、玉子、椎茸。 蓋物二ツ。一、味噌汁仕立、中にすっぽん、木耳(きくらげ)、青ねぎ。 二、味噌汁仕立・中に牛。鉢物十種。一、牛股油揚。二、牛脇腹油揚。 三、豚の油揚。四、焼豚。五、野猪股油揚。六、家鴨丸焼。 七、豚の肝をすって帯腸に詰る。八、牛豚すり合わせ同じく帯腸に詰る。 九、豚のラカン(ハムの事)。十、鮭のラカン。 大鉢一ツ。潮煮汁なり。中に鯛、あら魚、かれい。 ボートル煮鉢物四ツ。(註、ボートルとはバターの事)一、オランダ菜。 二、ちさ。三、ニンジン。四、かぶら。菓子、紙焼カステラ。タルタ。スープ。 カネールクウク。丸焼きカステラ。○オランダ本国米なし。ゆえに小麦粉を常食とし、小麦粉を粉にして固め、 これを蒸焼にす、その名パンと言う○コッヒー。オランダ人、我が国のお茶の如く飲む。コッヒーと言うものは、形、豆の如くなれども実は木の実なり。豆は日本の大豆に似たるものを砕いて湯に入れ、煎じ、白砂糖を加えて飲む。▲長崎港府瞰図(長崎市立博物館蔵) オランダ正月にこの料理が全て出されたのであろうか。 オランダ人の日記をよむと、「お客によばれた日本人はオランダ風の料理には殆ど手をつけず、懐より大きな紙をとりだして包むと、大急ぎで出島の門の所に走って行き、門の外に待たしておいた家来に、その料理を渡し、又再び宴席に帰って、今度は日本式の料理をたべて帰る」、と記している。 それは、オランダの料理は当時より諸病の薬になるといわれていたので、招かれた客は大急ぎで自宅に料理を持ち帰らせていたのである。  特にボートルは天下の良薬と言われて珍重されていた。そして、シーボルトの長崎日記の中にも次のようなカステラとボートルの面白い話が記してあることを思い出した。 私の手もとにボートルがあったが、これは貯蔵法が悪いので塩辛く且つ悪臭をもっていたのに、私をたずねてきた日本人の紳士達は、土産に持ってきた、美味しいカステラの上に私の例のボートルを塗って、これはオランダの味がするといって喜んで食べていた。  多分、これは、日本人の人達が西洋の生活を偏愛し、西洋の食事に憧れた理由によったと私は考えた。そして、この日本ではつい最近まで、「ボートルは肺病の特効薬といわれ」塩ボートルで団子をつくり毎日たべていた。 天明五年十一月(一七八五)長崎を訪れた蘭学者大槻玄沢は先ず大通事吉雄耕牛邸をたずね、出島見物に案内されている。  そこで玄沢はオランダの料理の数々を著書「紅毛雑話」の中に記している。料理は十三皿、菓子四皿、菓子物1皿の名前をオランダ語で記し、その内容が記されている。第2回 オランダ料理編 おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第467号【松陰先生、長崎を駆け巡る】

     少しずつ伸びる日差しに春の兆しを感じている方も多いはず。あと1週間もすれば立春です。松森神社(長崎市上西山町)ではロウバイが水仙に似た甘くさわやかな香りを漂わせています。境内の梅はつぼみがいまにもほころびそう。植物たちは静かに、大胆に春に向かっています。  今回ご紹介するのは、大河ドラマで注目を浴びる幕末の志士、吉田松陰(1830-1859)の長崎での足跡です。長州藩士の松陰は志しが高く、むちゃなことでも失敗を恐れず行動する人物として知られています。明治維新で活躍した人物を多く育てた私塾・松下村塾では、心優しき熱血先生として慕われ、身分や階級にとらわれず、「共に学ぼう」という姿勢で塾生に接していたと伝えられています。  ところで長州藩は、他の藩へ遊学することを奨励するなど、江戸時代を通じて人の育成に力を注ぎ、藩内には私塾や寺子屋が数多くあったそうです。そうした環境のもとで生まれ育った松陰は、20歳を過ぎると東北各地から南は九州熊本まで各地をめぐりました。そのなかで長崎を訪れたのは21歳と24歳のときでした。  松陰が著した『西遊日記』には、1850年(嘉永3年/21歳)に平戸や長崎などを訪れ、どこで、誰と会い、何を思ったかなどが簡潔に記されています。この日記によると、松陰は諫早(永昌)~古賀~矢上を経て9月5日(旧暦)に日見峠を越えて長崎へ入り、長州藩屋敷(長崎市興善町)に到着。その日の短い日記には、よほど印象的だったのか、長崎市中では所々に木戸が設けられていることが記されています。  翌6日朝、西洋砲術を学びに来ていた人と一緒に、西洋砲術家・高島秋帆の息子、高島浅五郎を訪ねています。また、午後には舟を雇って停泊するオランダ船や唐船の近くを乗り回したとあります。いかにも好奇心旺盛な若者らしい行動です。その後、崇福寺(長崎市鍛冶屋町)に行き清国人のお墓を見たり、後山の高台から長崎のまちを眺めたりしたことが記されています。  7日、諏訪神社(長崎市上西山町)に参拝。平戸藩屋敷(長崎市大黒町)へ行き名刺(紹介状)を差し出したとあります。松陰は晴れ男だったようで、長崎入りしてから9月11日までの1週間、晴天に恵まれ唐人屋敷や出島のオランダ屋敷を訪れ、さらにはオランダ通詞のはからいでオランダ船に乗り込んだりもしています。時間をいっときも無駄にしない松陰の動き。その合間には、『海防説階』という書物を写したりもしています。短めの内容だったそうですが、いかにも松陰らしいエピソードです。  このあと、長崎をいったん離れ平戸でしばらく過ごし、再び長崎へ向かいます。今度の滞在は11月8日から12月1日までの約1ケ月間です。福岡藩と佐賀藩が長崎港警備にあたっていた西泊番所に行ったり、再び高島浅五郎と会ったり。また、ある唐通事と親交を深めたことがうかがえる記述もみられます。  長崎でのある日、松陰は春徳寺(長崎市夫婦川町)の後山にある唐通事・東海氏の墓を見学。背後の城址に上り長崎のまちを一望しながら、江戸時代初めに貿易港として賑わう長崎を静かに去った長崎甚左衛門(それまでの長崎の領主)に思いを馳せています。過去も未来も独自の視線で見通した吉田松陰。彼の眼に当時の長崎はどのように映ったのでしょうか。           ◎参考にしたもの/『吉田松陰全集 第九巻』(山口県教育会)、『藩と県~日本各地のつながり~』(赤岩州五、北吉洋一)

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  • 第466号【小正月~小豆よもやま話~】

     初春気分がどこか抜けきれなかった松の内も過ぎて、きょうは小正月。朝から小豆粥を召し上がった方もいらっしゃるのではないでしょうか。もともと小正月は新年最初の満月を祝うもので旧暦の1月15日(今年は新暦3月5日にあたる)に行われていました。新暦採用後も1月15日を小正月としましたが、いまも旧暦で祝う地域は少なくないようです。また小正月の期間も15日のみだけでなく、14~16日までや15~20日までなどいろいろです。  小正月に小豆粥を食べる風習は各地に残っています。ちなみに「小豆」は季語ではありませんが、「小豆粥」は新年の季語。1月7日に七草粥を食べて健康を祈願する風習と同じく、こちらも一年の無病息災を祈っていただきます。古来、小豆の赤色は邪気を祓う力があると考えられていましたが、薬膳では、新陳代謝を促し、デトックス効果がある(むくみや吹き出ものなどを解消する働きがある)とされ、実際、身体の毒素(魔)を出すという意味で、古来の人々の考えは正しかったのです。  赤飯、おはぎ、ぜんざい、あんこ餅…、小豆を使った食べ物は数多く、行事食や日常食として、たいへん身近な食材です。ところで、小豆によく似た豆で「ささげ」というのがあります。小豆より固く、煮崩れしにくいので、関東地方のお赤飯はこの「ささげ」を使うことが多いとも言われています。なかには小豆と混同している方もいらっしゃるかもしれません。東南アジアで広く食べられているる小豆は中国原産。日本では北海道が主な産地のひとつです。一方、「ささげ」はアフリカ原産ということもあってか、日本ではその多くが関東以西で栽培されました。関東地方のお赤飯に広く用いられたのも、そうした理由があるようです。  小豆を使った和菓子を見渡せば、ときに個性的なもの見られます。対馬市の小茂田浜神社(こもだはまじんじゃ)の秋の大祭のときに作られる「だんつけもち」は、そのひとつといえるかもしれません。小さなもちに塩ゆでした小豆をまぶしただけのシンプルな豆もちで、塩豆大福の元祖ともいえるような味わいです。文永の役(1274)で、蒙古軍の襲来に備えて、兵士に持たせるためのあん入りもちを作っていたところ、相手が思ったよりも早く攻めてきたため、もちの中にあんをいれる余裕がなかった、というユニークないわれがあります。  当時(鎌倉時代)砂糖は一般に使われておらず、塩ゆでした小豆を使う「だんつけもち」からはその時代背景がうかがえます。また、地理的に韓国に近く古くから交流があった対馬ですが、聞くところによると韓国では、小豆を砂糖で甘く煮ることはほとんどないそうで、韓国料理の影響もあったのでは?という想像も膨らみます。さらには、大陸との交通の中継地だった対馬ですから、都からの往来もあったことを踏まえれば、京都の食の影響なども考えられます。「だんつけもち」のルーツは、辿れば辿るほど収拾がつかなくなるのでした。 本年も弊社「ちゃんぽんコラム」をどうぞ、よろしくお願い申し上げます。          ◎      参考にしたもの/『聞き書き 長崎の食事』(農山漁村文化協会)、リーフレット『長崎の郷土料理 シリーズ⑧』(18銀行)、『日本の食材帖 乾物レシピ』(三浦理代/主婦と生活者)

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  • 第1回 西洋料理編(一)

    1.南蛮人の来航日本初の西洋料理は、「南蛮料理」。ポルトガル語のパンに始まる。▲長崎に最初にできた教会「トウドス・オス・サントス教会跡」 我が国初期の西洋料理は南蛮料理といった。それは南蛮人が最初に西洋料理を伝えたからである。 南蛮人とは最初に我が国に来航してきたポルトガル、スペインの人達のことである。 その南蛮人が長崎の地を最初に訪れたのは織田信長の頃であり、その人の名はルイス・デ・アルメイダといった。彼は医者であり伝道者イルマンであったと記してある。 アルメイダは領主長崎甚左衛門に大いに歓迎されている。そして翌永禄11年(1568)布教長トーレス神父が長崎の地を訪れ、長崎の港が大変な良港であることを最初に発見している。 永禄12年の初めトーレス神父は長崎地方の布教を更に進めるためヴィレーラ神父を特に派遣している。そのため、この地方は急速に信者がふえ住民の大部分がキリシタンになった。 長崎の領主は神父に屋形の近くの土地を寄進したので、神父はそこに小さいが美しい長崎最初の教会トウドス・オス・サントスを建てた。 パンと葡萄酒は当然この教会でも使用された。パンはポルトガル語のPaoである。この言葉が、西洋料理の始まりとなる。そして、そのパンは二種類がつくられていた。ひとつは教会で使用するホスチヤとよばれる煎餅のようなパンであり、他はヨーロッパ人が食料とするパンである。そのパンも船員用の堅パン、一般用の砂糖入りパンなどの種類があった。2.長崎開港パンを焼く店、牛肉を売る店があり、人々は、異国風の料理を楽しんだ。▲山のサンタ・マリア教会の碑 長崎の地は大村の殿の支配下にあった。当時の大村の殿は大村純忠といった。純忠は永禄三年(1563)さきのトーレス神父の指導で領内の横瀬浦の教会で洗礼をうけ日本最初のキリシタン大名となった。 この洗礼式後の宴会のとき「純忠は教会の食堂でビオラの演奏をききながらポルトガル風の洋食を喜んで食べました」とアルメイダは彼の書簡の中で記している。 トーレス神父の長崎港発見以来、ポルトガル船の長崎入港の準備が進められ元亀元年の秋(1570)には港の測量が行われている。そして、その翌年の初夏(1571)マカオより長崎に最初の南蛮船が貿易品を満載して入港してきた。 このとき長崎の街は大村純忠の手によって新しく開かれ、岬の先端にはサン・パウロの教会が建ち、その教会の前の広場をはさんで大村町、島原町、平戸町などの六町が造られていた。そして入港してきたポルトガル船の人達は、その新しい町の中を自由に歩くことができたし、町は年と共に急速に発展してきた。 町にはポルトガル商人の奥さんとなる日本婦人もいたので、この婦人達は上手にポルトガル料理をつくっていたと記してある。そして町中には教会、病院、学校が次々と建てられ、パンを焼く店、牛肉や鶏を売る店もあり、長崎にない食料品は船で運ばれてきていたという。 人々はこの町でつくられる異国風の料理を南蛮料理として賞味した。 1618年10月長崎の教会よりコロウス神父がローマに送った書簡には長崎の料理について次のように記している。 日本に住まっている神父達の中で一番楽しく生活している人達は、ここ長崎の町に住まっている神父達である。それは長崎の町の教会(建物)はヨーロッパ風であるし、町には食用とする牛を殺したり、パンを焼いたりすることのできる人達が多く住んでいたので、私達はポルトガルや、スペインに住んでいるのと同じような生活ができるからであると記している。▲南蛮人来朝之図(長崎県立美術博物館蔵) また、ほぼ同時代に長崎の教会で布教活動に活躍していたメスキータ神父も、長崎の町における食生活について次のように記している。 長崎のコレジョ(教会付属の学校)における食事は大変ヨーロッパ風の食事が用意されます。それは他の処ではみることができません。特に、祝日にはヨーロッパと同じ食事が用意されます。ここでは何でも用意されるのです。 又、中国からも多く安い品物が運ばれてきています。また、玉子、鶏、その他の鳥、果物、日本にある全ての果物も用意されています。又ヨーロッパでもめったに見ることのできない牛の骨の中にあるゼラチンで作る菓子も此処のコレジョではつくられますと言っている。3.長崎の町に今も残る南蛮料理「ヒカド・南蛮漬け・テンプラ・・・・・・」。ポルトガルを今に偲ぶ、長崎の家庭料理。 キリシタンが禁教になったとき、江戸幕府は牛肉とパンと葡萄酒はキリシタンに関係あるものとして食べることが禁止され、長崎のパン屋も肉屋も全て店を閉じてしまった。 そこで、長崎の人達は南蛮料理の牛肉のかわりに赤身の魚シビなどを其の代用として使用している。その代表的な料理として今も長崎の冬の家庭料理として「ヒカド」とよぶ料理が残っている。ヒカド、ポルトガル語のPicadoからきている。ヒカドは物を刻むという意味である。調理法はシビ・大根・薩摩藷などを四角に細かく切って、これに醤油で味をつけ煮込んだものと説明している。 然し今では、長崎の町でもよほどの旧家の人達でないとこの料理のあることを知らないし、市内の料亭でもヒカドを用意する店は殆ど見かけない。▲南蛮人来朝之図(県立美術博物館蔵)ヒロウズ、この言葉もポルトガル語のFillosからきている。江戸時代この料理は江戸にも伝えられ「守貞漫稿」の中には「飛竜頭」として紹介されている。 初期のヒロウズはポルトガルの菓子として記され、「小麦粉をこね油であげ蜜をつけて食べる」と説明されている。然し、いつの頃からか長崎地方では小麦粉のかわりに豆腐を摺り、その中に牛房、椎茸、木耳(きくらげ)、銀杏(ぎんなん)などを刻みこみ、薄味をつけ油で揚げた精進料理となり「ヒロス」とよんでいた。この料理は江戸に伝えられると更に工夫が加えられ「ガンモドキ」となっている。テンプラ。この料理もポルトガル語のTemporaからきているという。二十六聖人記念館長の結城了悟神父にお聞きしたところによると、長崎テンプラの語源はTemporaの時に食べる料理が転用された言葉であると言われる。Temporaというのは宗教用語でヨーロッパでは四季のかわり目の月、すなわち3月、6月、9月、12月のはじめの水曜、金曜、土曜の三日間は日本でいう精進日のようなものが定めらていて、この日は牛肉を口にしないで魚と野菜を食べていた。 長崎のテンプラは魚と野菜のテンプラで熱いうちには食べないし、天つゆもない。そしてテンプラの外皮は小麦粉、卵で味をつけ、その外皮は厚く、食べるとお菓子のようにつくられ、実においしい。現在はシッポク料理の小菜の一皿にこのテンプラがよく出される。南蛮漬。長崎の正月にはなくてはならぬ料理の一つである。そして南蛮漬の材料となる魚は秋より冬にかけて獲れはじめる「ベンサシ」という赤い魚がつかわれる。そのころになると魚屋さんは一夜干しにしてベンサシを売っている。家ではこの魚を油であげ、酢と醤油、砂糖でつけ込む。この料理は全国的に広く普及しているがベンサシをその材料とするところは少ない。 ポルトガル時代の食生活を収録したフロイスの記録を読むと次のように記してある。「日本人はフライにした魚をよろこばない。但し海藻(コンブ?)のあげたのを好む。日本人は油や酢、または香料の入ったものは食べない。」 南蛮漬、これこそポルトガル人が南蛮の味を長崎の人達に伝えた第一の味である。当時の我が国では味わえなかった異国の味であり、人々はその中にポルトガルを偲んでいたのであろう。第1回 西洋料理編(一) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第465号【やさしいきらめき~長崎夜景~】

     大雪や嵐で被害に合われた方々に心からお見舞い申し上げます。  例年より強い寒さを感じる今年の師走。天候不順が気になるところですが、ご家庭や仕事先で新年を迎える準備はすすんでいらっしゃいますか?長崎の郷土料理を得意とする先生のお宅では12月に入るとすぐ、お正月用の「紅さしの南蛮漬け」を作って冷凍保存したそうです。その先生から、伊達巻(だてまき)にまつわる面白い話をうかがいました。  伊達巻の名称の由来は、伊達政宗の好物だったという説や、見た目の華やかさから、お洒落とか派手さを意味する「伊達」の名が付いたとも言われています。先生によると、江戸時代に「カステラ蒲鉾」として長崎からお江戸に伝わり、洒落た装いをする人(伊達者)の着物に似ていたので、「伊達巻」と呼ばれるようになったとか。白身魚のすり身と卵を混ぜ合わせた生地をオーブンで焼いて作る伊達巻は、本当にカステラのような焼き上がり。いまでも長崎で「カステラ蒲鉾」と呼ばれるわけです。  きょうは、クリスマス・イブ。ちょうどいま、長崎のまちの中心部はイルミネーションとライトアップでクリスマスの装い。仕事や家事をちょっと脇において夜の長崎へお出かけになりませんか。  昔から変わらぬ長崎の夜景スポットは、やはり稲佐山(標高333m)。ロープウエイで登れば、「来て良かった♡」と思わせる見事なロケーションを楽しむことができます。以前来たことのある方は、きっとまちのきらめき感がアップしたように感じられるはず。聞くところによると、より美しい夜景をめざして市民にカーテンを開けてもらうなどの協力をお願いしているそうです。寒い季節なので人出は少ないかと思いきや、15分おきに発着するロープウェイは、ひっきりなしにお客さんを山頂へ運んできます。それに、焼けちゃうほどカップルが多い。真冬でも超ホットな稲佐山でした。  長崎駅や出島、長崎水辺の森公園、南山手の大浦天主堂やグラバー園も、それぞれの個性をいかしたイルミネーションで出迎えてくれます。ところでイルミネーションがLED(発光ダイオード)の灯りに変わったのは10年ちょっと前くらいからでしょうか。最初の頃は色合いも限られて、どこか冷たい印象がありましたが、年々技術が進化し、いまではほぼフルカラーのやさしいきらめきで、まちを彩っています。   ろうそく、白熱電球、蛍光灯に次ぐ、第四世代の灯りといわれるLED。今年、明るくエネルギー節約効果が高い照明を実現するとして、青色LEDの基礎研究と実用化に貢献した3人の日本人がノーベル物理学賞を授賞しました。多大な忍耐を要したという彼らの研究を知ると、LEDの灯りをたくさんちりばめた長崎の夜景がいっそう温かく心にしみてきます。今宵、みなさんにも、やさしいきらめきが届きますように。Merry Christmas and Happy new year.

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  • 第464号【南蛮貿易時代の豪商・末次興善】

     長崎市中心部に、興善町(こうぜんまち)という南蛮貿易時代に生まれたまちがあります。国道34号線沿いにある長崎県庁と長崎市役所のちょうど真ん中あたりで、長崎市立図書館(長崎市興善町1-1)のある一帯です。  平成のいまにつながる長崎の町建ては、400年以上も前の元亀2年(1571)、ポルトガルとの貿易を行うために、港に突き出た岬に6つの町(島原町・大村町・外浦町・平戸町・横瀬浦町・文知町)を築いたのがはじまりです。全国各地の商人やキリシタンが集まり賑わいを増すなか、町域はしだいに拡大し、新しいまちが次々に生まれました。興善町はその初期の頃に開かれたまちのひとつです。  それぞれの町名は、住民の出身地や職業にちなんだもの(材木町、紺屋町、酒屋町など)が多いなか、興善町は当時としてはめずらしく人名ゆかりのもので、私財を投じてこのまちを開いた「末次 興善久四郎」(以下「興善」)の名が付けられています。  興善は博多商人でした。その父は、周防(山口県)の大内氏の旗下に属し、大内氏が明との貿易の本拠地とした博多に住んで貿易がらみの仕事をしていたようです。当時は群雄割拠の戦国時代。博多には俗にいう「武士崩れ」と呼ばれる商人が大勢いたそうです。大内氏もまた重臣の反乱をきっかけに滅び、興善の父もいわば失業の身、「武士崩れ」となります。その頃の興善はすでに父と同じく明との貿易の仕事に従事。商人としての活動するなか、縁あってキリスト教の宣教師たちと交流を持つようになります。  争いの絶えない世に生きる人に、キリスト教の教えは心に響くものがあったのでしょう。興善はたいへん熱心なキリシタンとなり、「コスメ」という洗礼名も授かりました。日本側のイエズス会の会計や雑務係をしていたともいわれ、ルイス・デ・アルメイダ(1567年に長崎で初めてキリスト教を布教した宣教師)の各地での布教活動に同行したこともあったようです。ルイス・フロイスの『日本史』にも興善が熱心な信徒であったことがわかるエピソードが記されています。  興善は布教活動に同行中の堺で、宣教師から長崎開港の話を聞いて、息子(平蔵)や使用人たちを連れて長崎にやって来たといわれています。ところで、当時、長崎にやって来た各地の商人たちは、みなキリシタンだったといわれています。キリスト教の布教と貿易を同時に行おうとするポルトガル側に対して、日本の商人たちは、まずキリシタンになることがスムーズな交渉の第一歩だったのです。ですから、興善のように慈悲、慈愛といったキリスト教の教えに導かれた者だけでなく、商売のために信者となった者もいたようです。  長崎での興善は、ポルトガルとの貿易で莫大な富を得、町建てにも関わり、慈善事業にも多額の寄付をするなどしました。その後、キリスト教の禁教令が敷かれ、取り締まりが厳しくなるなか、興善がどのように難を逃れたのか、その詳細については残念ながら不明です。一説には、かつて共に長崎入りした息子より長生きしたともいわれ、その墓はなぜか博多の妙楽寺にあります。ちなみに息子は、キリスト教を棄て長崎代官となった「初代・末次平蔵」です。  激動の時代をいくつもくぐり抜けるうちに失われる町名もあるなかで、いまもしっかり残る「興善町」。そのルーツを知るにつけ、キリスト教がらみゆえに繁栄の形跡をほとんど消されてしまった南蛮貿易時代の長崎が垣間見えるようで、面白い。「末次興善」は当時を知る重要人物であることは間違いないようです。           ◎      参考にしたもの/長崎史談会11月例会『長崎の豪商・末次興善』(松澤君代)、『長崎文化考~其の一~』(越中哲也)

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  • 第463号【狛犬いろいろ~踊る狛犬やグラバー家の唐獅子~】

     季節の深まりを感じるこの頃。長崎は穏やかな天候に恵まれて過ごしやすい日々が続いています。先日、浦上のカトリックの教会前を歩いていたら、千歳飴らしき長方形の袋を手にした園児の行列に出会いました。教会で七五三のお祝いをしてきたばかりのよう。ステンドグラスの光に包まれて、聖歌を歌いながら祝う七五三。これも長崎らしい風景のひとつかもしれません。  さて、今回は狛犬の話です。神社の拝殿前や参道などで、悪いものが入ってこないように見張っている狛犬。少々マニアックかもしれませんが、狛犬めぐりを楽しんでいる方もけっこういらっしゃるのではないでしょうか。また、特に関心がなくても変わった狛犬に出会うと、「あらっ?」なんて心を動かされたりするものです。そこで今回は、ちょっと目を引く長崎の狛犬をご紹介したいと思います。  「長崎くんち」で知られる諏訪神社(長崎市上西山町)は、狛犬の宝庫だと紹介したことがあります(当コラム384号)。その諏訪神社から背後の山を2kmほど登った先にある金比羅神社の境内の一角に、いわゆる「立ち狛犬・逆立ち狛犬」といわれるタイプが置かれています。諏訪神社にも同じタイプがありますが、金比羅神社のものは、まるで踊っているかのような躍動感があります。山頂近くの森林に囲まれた静かな境内だけに、「踊る狛犬」の姿は、より印象深く映るのかもしれません。  唐寺・崇福寺の近くにある八坂神社(長崎市鍛冶屋町)にも、個性的な狛犬が数体。そのなかにクリクリの巻き毛でぬいぐるみのような体型をした狛犬がいます。表情をよく見ると、けっこういかめしい。だけど、かわいい。洋風と唐風と和風が混じったような姿です。  長崎港を見渡す南山手の丘にたつ旧グラバー住宅(1863年築造)。現存する日本最古の木造洋風建築です。家屋の一角は温室になっていて、その入り口付近に狛犬のような石像が置かれています。どこか生々しさのあるしなやかな身体つきで、崇福寺の山門前に鎮座する唐獅子と系統的には似ています。おそらく日本の石工さんによるものではなく、中国ゆかりと思われます。  そもそも狛犬のルーツは古代オリエントの時代にまでさかのぼり、メソポタミア文明の初期の王朝の遺跡からも獅子をデザインした調度品が見つかっているそうです。その意匠モデルは獅子(ライオン)だといわれ、強さと威厳を感じるその姿は、洋の東西を問わず人々を魅了。東へはシルクロードを経て東南アジア諸国に伝わり、中国では唐獅子、日本では狛犬として定着します。西欧では、建築物の装飾や王家・氏族の紋章などに取り入れられています。  スコットランド出身の商人、グラバーさんの唐獅子は、この温室のある邸宅にずっと置かれていたそうで、彼が創始に携わったビール会社の麒麟ラベルのモデルになったというエピソードで知られています。獅子の意匠は、スコットランドの国章にもデザインされていますし、建築物の装飾にもふんだんに使われ、グラバーさんにとって故郷の風景のひとつだったと思われます。幕末に日本にやってきて、激動の時代を生きたグラバーさん。温室でつかの間草花を愛でるとき、唐獅子を通して遠い故郷へ思いを馳せることがあったかもしれません。           ◎参考にしたもの/『狛犬事典』(上杉千郷)、『日本全国獅子・狛犬ものがたり』(上杉千郷)

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