ブログ

  • 第476号【快速シーサイドライナーに乗って東彼杵町へ】

     長崎駅から大村湾沿いを走る快速「シーサイドライナー」に乗り込んで、東彼杵町(ひがしそのぎちょう)へ出かけてきました。青い車体が爽やかな「シーサイドライナー」は、長崎~佐世保(JR長崎線・JR大村線・JR佐世保線)を走る電車です。先頭車両のどこか無骨な表情が旅情を誘います。  諫早駅を過ぎてしばらくすると、国道34号とさほど離れぬ道筋で大村湾沿いの線路に入る「シーサイドライナー」。このルートは、目的地の彼杵駅(そのぎえき/東彼杵町)まで、長崎街道の彼杵通ともほぼ並んであります。江戸時代、多くの商人や役人、文人墨客が行き交った長崎街道。「シーサイドライナー」が車体をやや海側に傾けながら、ガタン、ゴトンとゆるやかなカーブを描くとき、車窓には江戸時代の旅人たちも眺めた風光明媚な大村湾が一面に広がるのでした。  長崎駅から約1時間で彼杵駅に到着。ちなみに、ひとつ手前にある「千綿駅」(ちわたえき)は、レトロ感漂う木造の駅舎と大村湾を一望する眺めで、鉄道ファンならずとも魅了する人気スポットです(普通列車のみ停車。快速は停車しません)。東彼杵町内でJRの駅がある「千綿」「彼杵」は、長崎街道の宿場町でもありました。いまも家並みなどに当時の風情が感じられます。  ところで、長崎街道はここ「彼杵」の宿から、大村湾を対岸の時津港へ向かう海路もありました。秀吉の時代にこのルートを、禁教令で捕えられ長崎・西坂の丘で処刑されたキリスト教の宣教師や信者らが通りました。その海岸には「日本二十六聖人乗船記念碑」が建っています。  長崎県のほぼ中央に位置し、三方を緑豊かな山々に囲まれた東彼杵町。お茶(そのぎ茶)の産地として知られ、長崎県の茶の生産量の60~70%を占めます。朝霧の立つ山あいの土地を利用した茶栽培の歴史は古く、江戸時代には地元大村藩の特産品となっていたそうです。   苦み、渋みは控えめで、のどごしの良い「そのぎ茶」。道の駅「彼杵の荘」で飲んだセルフサービス(無料)のお茶の美味しいこと!堅実で研究熱心なこの土地の生産者の人柄が育んだ、茶葉を傷めないという伝統の製法に、美味しさの秘密があるようです。これまで数々の品評会で高い評価を得ており、昨年は「日本茶AWARD2014」で、消費者が選ぶ日本一美味しいお茶として「日本茶大賞」を同町の生産者の方が受賞しています。  陸路・海路に通じやすい地の利で、古くから交通の要衝として栄えた東彼杵町。江戸時代初めから明治期にかけては、捕鯨と捕鯨取引の中心地でもありました。鯨肉はこの地域の食文化に根づいていて、いまでも町内各所で販売されています。この辺りでは、お正月の雑煮にも鯨肉を入れるお宅があると聞いたことがあります。道の駅「彼杵の荘」のレストランでは、「鯨入りだご汁」が人気メニューでありました。  東彼杵町は、多良山系に続く山々に囲まれ、「龍頭泉」など美しい渓谷を擁していることでも知られています。豊かな緑と水に恵まれたこの地域には、遥か大昔から人々の営みがありました。その証のひとつとして、5世紀頃に大村湾一帯を統治していた首長の墓といわれる前方後円墳の「ひさご塚古墳」があります。   分け入るほどに自然も歴史も奥深く、興味をそそる東彼杵町。何度でも足を運びたくなる魅力あふれるまちでした。

    もっと読む
  • 第6回 中国料理編(一)

    1.はじめにザビエルが驚いた、日本人の食生活。当時は、雑炊を主とした朝夕2食。▲江戸時代に編纂された「清俗奇聞」食の部 食の文化は異国の文化との出会い・接触によって食事の洋式、味の嗜好などと大きく変化してくる。  一五四三年、初めて我が国に来航してきたポルトガルの人達はヨーロッパの食生活との相違に非常に驚いている。 一五五〇年九月上旬、平戸の港に上陸し、キリスト教の布教のため山口、京都、大分と旅を続けたフランシスコ・ザビエル上人は、その翌年の十二月マラッカに帰りつくと早速ローマに「日本という国のこと」について長文の報告書を綴っている。そして、その中に日本人の食生活について次のように記している。  一、日本の人達は家畜を殺して食べるということはありません。日本の人達はよく魚を食べるのです。  一、米や麦はありますが、その量は少ないのです。野菜は多く良く食べますが、果物は少ないのです。  一、日本の国では聖職者(坊さんや神父達)がもし魚や肉を食べるのをみたら、皆、大いに眉をひそめます。それですから私達神父は絶えず食物を制限する必要がありました。 当時の日本人の食事は朝夕の二食で中食をとることはなかった。慶長の頃(一六〇〇年頃)の一女性の物語を記した古文書「おあむ物語」というのがあり、その中に当時の一般家庭の食事のことが次のように語られている。 朝夕はたいてい雑炊を食べました。それでも兄さんが時々山に鉄砲うちに行かれます時には、朝から菜を入れた飯をたいて弁当にして持たせられました。その時には私達も菜めしをもろうて食べさせてもらいますので、たびたび兄さんに勧めて鉄砲うちに行かれるようにしたものでございます。 当時の神父達の報告書の中にも日本人は野菜を炊きこんだ雑炊を食べているという記録が多く残されている。2.長崎開港当時の食文化日本の食文化は、いつも長崎の町を中心に大きく変化。▲唐船持ち渡りのシッポク用具 ポルトガル船の入港とキリスト教の布教は急速に我が国の食生活を変化させてきた。そのヨーロッパ風食生活は常に長崎の町を中心にして大きく変化していった。 何故ならば、長崎の町は開港九年後には領主大村純忠の手によってイエズス会の知行所として寄進され、町の住民は全てキリスト教の信者であり、ポルトガルの人達は自由に街なかに住むことができた。そして、そのポルトガルの人達の奥さんは日本婦人であったので長崎の町ではパンが焼かれ牛肉の料理もつくられていた。 しかし、一六〇〇年頃になると幕府の命によりキリスト教徒への禁教政策が次第に高められてきたので、キリスト教の教義に深くかかわりのあるものは次第に排除されてきた。このような中で先ずキリスト教に直接関係のあるパンと葡萄酒の使用については注意がむけられた。特にパンの使用については一六四〇年以来は街中で自由につくる事が禁止されている。但し出島オランダ屋敷の蘭人の食糧として必要なパンの製造は許されていたが、それも長崎の街に一軒ときめられ、毎日製造するパンの数もきめられていた。そしてそのパンは一個たりとも日本人に渡すことは許されなかった。3.唐船来航五島や平戸への唐船来航から始まった、家庭料理としての中国料理。▲川原慶賀筆 唐蘭館絵巻 荷揚水門図(長崎市立博物館蔵) 長崎開港前の唐船は五島、平戸、松浦方面に入港している。その船団の中でも五峰王直の名は有名であった。王直は先ず天文年間(一五四一)五島に来航し江川(福江市内)に居を構え、次いで平戸に進んでいる。平戸では松浦隆信が五峰を援助し勝尾岳の東ふもと屋敷を構えさせている。現在、福江市や平戸市にある六角井戸(県文化財史跡地)は当時の唐船の人達が使用していた井戸であると伝えている。そして、その地では多くの唐船の人達が日本婦人を妻にむかえて家庭をもっていたので、それらの家庭では豚や鶏などをつかった中国料理がつくられていた。 長崎開港の当時はキリスト教徒でない唐船の人達は長崎の港に近づけなかったが、前述のように一六〇〇年頃よりキリスト教徒への弾圧が次第に強められたとき唐船の姿が長崎の港に見られるようになった。 しかし長崎の街中にはまだキリスト信者の人達が多かったので仏教徒である唐船の人達は先ず長崎の対岸、稲佐江ノ浦の港を中心にして立神、深堀方面に船づけし荷揚げしていた。 やがて唐船主の欧陽華宇、張吉泉の二人が中心となって航海安全、菩提供養を願って江ノ浦の台地に悟真寺を建立している。時に慶長七年(一六〇三)のことであり、この寺の建立が長崎の町における仏教復興の最初になったと記してある。 元和六年(一六二〇)唐船の人達は自分の手で唐寺興福寺を長崎市内の寺町に建立している。この時代になると唐船の人達は多く長崎の町に移り住み、今までのポルトガル人にかわって長崎貿易の主導権をとり、町中に自由に住むことが許されていたので、唐船の人達の婦人は全て長崎の人達であり、其処での家庭料理は全て中国料理であり、台所の鍋にはシヤンコという鉄鍋がつかわれていた。 先月、私は崇福寺でおこなわれた媽祖祭に招待された。主催は長崎華僑の三山公幇の人達で上供は全て福建の郷土料理との説明であった。私は長崎の唐風料理の参考書として有名な「八僊卓燕式記」や「唐山卓子菜單」の写しをもって出かけ、藩美官総代の解説を聞きながら、その料理の手控えをつくった。そこに私は初期の長崎に伝えられた唐風料理の片鱗を感じからである。  当日の料理メニューを記してみると、一、方肉、長崎地方でいう豚の角煮である。昔は莞菜という野菜を入れて醤油、砂糖、酒で煮込み茴香の粉をふりかける。二、羊兒、山羊肉を大根、里芋、人参などを淡白に漬汁仕立にし丼に入れる。三、炒鶏、この料理は江戸時代長崎で編纂された「清俗奇聞」にも記載してあり、鶏と野菜のいためものであった。四、蟹の油揚げ。五、魚の油揚げに野菜の味つけが上からかけられていた。六、車海老の油揚げ煮込み。七、まて貝の料理で福州地方の媽祖祭には必ず供えられるという。八、卵と野菜の油いため。九、ごまパン。十、最後に米麺の油いための大皿が出た。 昭和五二年三月、私は長崎市立博物館年報十七号に媽祖祭の資料を収録したがその参考資料として崇福寺の古記録「天保六年末八月改媽祖祭要言」も加えた。そこには媽祖堂の上供八盆や宴会用の卓子料理献立が記してあった。その料理には、一、小菜六皿。二、大菜三皿。三、中鉢六皿。四、味噌汁。五、澄免。それに菓子、餅などが記してあった。そして、それが全て精進料理であった。 考えてみると崇福寺は黄檗宗の禅寺であり、江戸時代には禅寺の食事は全てが精進料理であったので崇福寺内の媽祖祭も当然精進料理であったはずであり、現在のように山羊や豚などを上供として登場させたのは明治時代以降のことである。多分にこのことは福建地方の食文化の風習が大きく影響しているものであることが知られている。第6回 中国料理編(一) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

    もっと読む
  • 第475号【博多商人と長崎 ~博多・御供所界隈~】

     眼鏡橋がかかる中島川では「紫陽花まつり(5/23~6/14)」がはじまりました。紫陽花に彩られた石橋群は、くもり空やそぼふる雨といった日にこそ、しっとりとした美しい光景を見せてくれます。どうぞ、お出かけください。  先日、長崎から博多へ足を伸ばし、博多駅に近い御供所(ごくしょ)地区のお寺をめぐりました。博多は港町としては長崎の大先輩。長崎は近世に入って歴史の表舞台に登場しますが、博多は古代より大陸に開かれ、港町として華やかな歴史を刻んできました。  博多の歴史を物語る由緒ある寺社が建ち並ぶ御供所地区には、806年に唐から帰ってきた空海が、日本で初めて開いた真言密教のお寺、「東長寺(とうちょうじ)」があります。また、日本に中国(宗)からお茶をもたらしたことで知られる栄西禅師が開創したという日本最初の禅寺「聖福寺」もあります。ちなみに栄西は、帰国の際、長崎・平戸に立ち寄り、「冨春庵」の裏山で茶の種を蒔き、喫茶や抹茶の作法を伝えたといわれています。  博多のまちの中心部とは思えないほど緑豊かな静かな通りが続く御供所地区。その一角にある「妙楽寺」には、長崎ゆかりの博多商人、伊藤小左衛門一族のお墓があります。伊藤小左衛門は博多の豪商のひとりで、長崎がポルトガルとの貿易のために開港してからしだいに発展していく、その初期の頃に活躍。博多時代から続く貿易で莫大な富を得、その財力は外様大名と変わらぬほどであったといわれています。しかし、鎖国の禁を破り、密貿易を行った罪で二代目伊藤小左衛門のとき一族郎党とも処刑されたのでした。  現在の「昭和通り」近くの、かつて伊藤小左衛門の居宅があったといわれる一角に「萬四郎神社」があります。処刑された伊藤小左衛門の子らを祀る神社で、いまは商売繁盛と子どもの健やかな成長にご利益がある神様として、地元の人に親しまれているとのことでした。  『伊藤小左衛門は 船乗り上手 昼は白帆で夜は黒帆 沖のとなかに お茶屋をたてて 上り下りの船を待つ』。これは、対馬に残る民謡で「密貿易の歌」といわれるものです。対馬海域を舞台に朝鮮との商いの様子を唄っていると思われ、伊藤小左衛門に対する島民に羨望のまなざしが感じられます。肥前の津々浦々に貿易船の拠点があったと思われる当時の貿易商。伊藤小左衛門の長崎市中における居宅は、当時、舟が横付けできる海辺の五島町界隈にありました。  伊藤小左衛門に限らず、長崎で活躍した一部の博多商人たちがいかに裕福であったか。寛永13(1636) 年に完成した「出島」造成時の費用は、25人の町年寄や貿易商などが出資していますが、そのなかに、「大賀」、「末次」といった博多からやってきた商人の名があります。この「末次」ものちに密貿易が発覚し処罰されますが、伊藤小左衛門にしても、末次家にしても、巨万の富を持つ豪商でその影響力の大きさを幕府側が恐れて、つぶしにかかったのではないかと推測する人もいます。  ところで、博多「妙楽寺」の近くにある禅宗のお寺「円覚寺」の山門前には、茶道「南方流」の看板が掲げてありました。「南方流」(「南坊流」とも書く)は、南坊宗啓を流祖とする流派で、立花実山(黒田藩士)による『南方録』を秘伝書として護り伝えてきた流派といわれています(『南方録』は、千利休の茶湯を伝える最も重要な秘伝書のひとつといわれるもの。その編集・成立に関しては諸説ある。)。博多には「南方流」が生まれる素地として、早くからお茶の文化があったと思われます。  かつて代官屋敷があった長崎市勝山地区では、茶の湯で使われるような茶碗(16世紀半ばのもの)が発掘されています。当時の博多の豪商等が長崎で茶の湯を嗜み、人をもてなした可能性もあり、それが茶の湯の文化を長崎に伝えたひとつの流れだったかもしれません。  ◎参考にした本/『博多~町人が育てた国際都市~』(武野要子/岩波新書)、『悲劇の豪商 伊藤小左衛門』(武野要子/石風社)、『茶の湯人物案内』(八尾嘉男/淡交社)

    もっと読む
  • 第5回 西洋料理編(三)

    1.幕末と共に長崎の洋風化は進む市街地の遊歩を許可された異国人たちが変えた、長崎の町▲ペトルレゴート社見本皿(長崎市立博物館蔵) 嘉永六年六月三日(一八五三)ペリー提督アメリカ大統領の国書をたずさえ浦賀に来航。  その年の七月にはロシアのプチャーチン三隻の軍艦を引きつれて長崎に入港。  この米国・ロシアの来航に続いてイギリス・フランスの軍艦が来航し幕府に和親条約の締結と開国を求めた。 安政二年(一八五五)これに対して幕府は遅まきながら国防の充実を計り、長崎の地に洋式兵学を学ぶ施設として外浦町西役所内に「海軍伝習所」を設立、旗本と諸藩のの中より、伝習生を募集し、講師陣にはオランダ海軍の士官、下士官を招いた。 このため従来は出島の地以外には自由に市中を歩き回ることを許されなかったオランダ人に対して「市街地の遊歩を許可する」という通達がだされ、又これに続いて奉行はイギリス人、アメリカ人の市街地遊歩も許している。 市街地遊歩を許可された外国人達は店に立ちより東洋の珍しい品々を土産に多く買いこんだ。これに目をつけた長崎の商家の人達は外人専用の土産品を店さきに並べはじめた。 安政五年(一八五八)十二月にはキリスト教徒の発見のため厳格に実施されてきた「踏絵」の執行が止められることになり町の様子も何か次第に洋風化してきた。 その頃、長崎の港に来航したイギリス海軍のオズボンは、長崎の町のことについて次のように彼の著書「日本近海航海日記」に中に記している。 私達は出島に上陸し、それより長崎の地にでて行きました。ある店で我々は顕微鏡、望遠鏡、日時計、定規、物指、時計、ナイフ、スプーン、ガラス器、ビーズ玉、など、皆これらの品はヨーロッパの型にならって長崎の地で作られたものだそうです。 2.長崎の開港居留地には洋館、外国人経営の店。外国人専用の英字新聞も刊行された。▲長崎板画・蘭人酒宴図(長崎市立博物館蔵) 安政六年五月(一八五九)幕府は遂に長崎、神奈川、函館の三港を先ず開港することにした。 イギリス聖公会のリギスン牧師は英語教師の名目で来航してきた。続いてアメリカのウィリアムズ牧師も英語教師の名目で来航し、密かにキリスト教の布教を開始している。 大浦地区の東山手、南山手には外人の居留が完成したので、そこには大勢の外国人、新しく渡来してきた中国人の人達が住むようになった。その大浦地区には、洋風建築が建ち並び外国人の商社、外国人の経営する日用品を販売する店、肉屋、パン屋、バーなどがあり、外国人専用の教会も建てられていた。 梅ヶ崎の海岸道路ができるまでは大浦地区の人達は皆十人町の坂を下り、広馬場、本篭町、船大工町を通り、浜町方面に買物にでかけた。 それ故に本篭町、船大工町の町筋には外国人相手の土産品店が軒をつらねていた。  長崎開港の3年後、プロシャ国の使節として長崎に寄港したオイレンブルグは街の商店の様子を次のように説明する。 長崎の人口は約六万人。日本人の店にヨーロッパの商品も多く並べてある。例えばイギリス製の木綿の反物、マッチ、ガラスのコップ、ブドウ酒の空ビン。動物屋もある。その店には有名な子犬や、珍しい鳥や小動物が篭に入れておいてある。長崎の店には全てヨーロッパ人が好んで買うであろうものが計算されておいてある。そしてそれらの店にはまた日本人には決して必要としないであろうスープ皿、ソース入れ、いろいろな大きな洋皿の一揃えが並べてある。 オイレンブルグはこのとき田上を越えて茂木まで使節の人達と共に遠足している。茂木では村の代表者達が出迎え、そこにはヨーロッパ風に飾られたテーブルが用意され、更にテーブルの上にはオランダの国旗と万国旗が飾られていたと驚いている。テーブルに座ったとき、プロシャの軍艦からつれてきた音楽隊が何回も何回も演奏したと追記している。3.日本の料理店もこの風潮にあわせる。幕末の頃、長崎の料亭で大いにもてはやされた洋風料理。▲青白色硝子腕(長崎市立博物館蔵) 幕末の頃の長崎の料亭は七十軒あり、東西南北の四組にわかれていた。慶応二年(一八六六)奉行所はこれら組員の中より上筑後町迎陽亭杉山村助、西山松森神社境内吉田屋内田重吉(後の富貴楼)伊良林藤屋松尾長之助、出来大工町先得楼本庄与吉の四名を御切紙を以て惣代御用を仰付けている。 これらの料理の料理控帳をみてみると必ず洋風料理の一皿乃至二皿が加えられている。中でも藤屋では従来のオランダ風洋食は二流なりと言って一族の松尾清兵衛を慶応元年二月上海に派遣し更に北京まで出張させてフランス料理を修得させている。  このことにより長之助は佐賀鍋島藩主に佐賀に招かれ清兵衛と共に早速、鶴のブラドを調進したところ大変お褒めにあずかったという。  さらに明治三年八月には鍋島老公が江戸で病気となられ、その薬飼として洋食が第一であるというので藤屋に東京までくるようにとの下命があった。そこで藤屋では四代松尾作市他数名が東京愛宕下藤屋掛屋敷の鍋島邸に伺候しフランス料理を調進している。  藤屋は今の若宮神社横の横田氏の所を玄関に後方は松田氏の庭園付近まであった大きな料亭であったが昭和の初年廃業している。 明治九年十一月二十六日長崎県令北島秀明の着任祝が藤屋で開催されているが、当時の献立が残っている。 料理は本膳にて向付、ひれ椀、向皿、鉢と並び大鉢四皿の中に「牛のフルカデル・野菜付」が加えられている。これが藤屋秘伝のフランス料理であると記してある。 本河内の入口、一ノ瀬にも有名な料理螢茶屋があった。ここでも二代の当主甲斐田政吉は幕末の頃より盛んに洋食を調進し評判のものであった。私が市立博物館に勤務していた頃、螢茶屋旧所蔵のガラス椀や洋皿を多数購入したことがあったが、それらには皆「文久二年流螢舎」と記してあった。文久の頃(一八六一)を頂点に長崎の料亭では大いに洋食がもてはやされていたと考える。第5回 西洋料理編(三) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

    もっと読む
  • 第473号【幕末~明治期、英語の学び場だった長崎】

     新年度のスタートに合わせて、テレビやラジオなどの英語講座をはじめた方もいらっしゃることでしょう。これまで何度も中途半端に終わったけれど、あらためてチャレンジしているという方も少なくないはず。いまは、学習法がいろいろあって悩ましいですね。そんなときこそ、限られた学習環境で懸命に英語を学んだ先人達に思いを馳せてみるのもいいかもしれません。  幕末から明治にかけての英語通訳者といえば、ジョン万次郎(中浜万次郎)がよく知られています。天保12年(1841)出漁中に漂流し、アメリカ船に救助されアメリカで教育を受けて嘉永4年(1851)に帰国。土佐藩、幕府に仕えました。  江戸時代、オランダ語や中国語以外の外国語、とくに英語修得の必要に迫られたのは、このジョン万次郎の時代、幕末になってからです。嘉永7年(1853)ペリー来航は、その大きな引き金となりました。4年後の安政4年(1857)、幕府はオランダ通詞や唐通事たちに英語を学ばせるために、「語学伝習所」を長崎に設けました。翌年には、「英語伝習所」と改称。その後、明治元年(1868)までに、「英語稽古所」「洋学所」「語学所」「済美館」「広運館」などと、数回に渡り名称と場所、教科内容を変えて行きます。これは、激動の世相を反映した結果でありました。また、慶応元年(1865)には佐賀藩が英語教育を目的に「致遠館」を設け、明治元年には、近代印刷の始祖・本木昌造が英語など複数の教科を無料で学べる「新町私塾」を開設しています。当時、日本で英語を修得するなら「長崎」がもっとも充実した環境だったようです。  ところで、ジョン万次郎が帰国したり、幕府が「語学伝習所」を設けたりする前に、長崎には小さな英会話教室が存在しました。先生は、本場のアメリカ英語を話すラナルド・マクドナルド。生徒は十数人のオランダ通詞たちです。この教室の大きな特長は、先生と先生の間に牢格子があったということ。そう、マクドナルドは捕われの身だったのです。  マクドナルドは、1824年アメリカはオレゴン州生まれ。父はスコットランド人で、母はネイティブ・アメリカン。母の先祖のルーツがあるといわれる日本に対し憧れを持っていたマクドナルドは、嘉永1年(1848)捕鯨船での日本への密入国を企て、北海道の利尻島で捕えられました。その後、取り調べのため長崎奉行所へ護送されたのでした。  礼儀正しく教養があり、温厚な人柄だったというマクドナルド。牢越しに交わされるのは、わずかな言葉やジェスチャー。その限られた環境下で懸命に日本の言葉を憶えようとする姿は、世話係をつとめた森山栄之助(多吉郎)らをはじめとする下級オランダ通詞らの心を動かしました。彼らはすでに英語修得の必要性を感じていたこともあり、マクドナルドが帰国するまでの半年ほどの間、日本ではじめてネイティブ・スピーカーによる英会話教室が開かれたのでした。  この教室で、マクドナルドから一目置かれていた森山栄之助は、数年後のペリー来航時やその翌年の日米修好通商条約締結時に通訳として活躍しています。 諏訪神社にほど近い上西山町には、「ラナルド・マクドナルド顕彰之碑」があります。この碑の真向かい辺りに、牢格子越に英会話教室が行われた「大悲庵(だいひあん)」(崇福寺の末庵)がありました。マクドナルド顕彰碑の隣には、通訳業務を通してアメリカとの交渉に命を燃やした森山栄之助の顕彰碑が建っています。幕府は栄之助の語学力と交渉能力に全幅の信頼をおいていたそうです。

    もっと読む
  • 第472号【土地の記憶をたどる(風頭山~伊良林界隈)】

     九州では先週、満開を迎えた頃、東北では開花宣言が出たとたん、春の嵐に見舞われましたが、あなたのまちの桜の様子はいかがですか?この時季、あちらこちらで聞こえてくる桜談義。転勤で各地の桜を見て来た知人たちによると、同じソメイヨシノでも、九州と北陸や東北地方などの寒い地方とでは、印象がかなり違うとか。温暖な九州のものは、おだやかでやさしい表情。一方厳しい冬をくぐり抜けたソメイヨシノは、どこか凛とした美しさで、満開を見上げたときの感動もひとしおなのだそうです。  嵐の翌日、長崎の中心市街地の桜の名所のひとつ「風頭山(かざがしらやま)」へ様子を見に行くと、案の定、花びらをあたり一面に散らしていました。花曇りのなかを行き交うのは花見客や観光客。風頭山の山頂から徒歩で10分ほど下ったところには、慶応元年(1865)に坂本龍馬が結成した亀山社中跡があり、ゆかりの地ということでこの山頂にも、長崎港沖を望む坂本龍馬像が建立されていることから一年を通して観光客が絶えません。  坂本龍馬が率いた亀山社中は貿易商社。ちなみになぜ亀山社中と呼ばれたかというと、近くに亀山焼と呼ばれる窯があったからです。亀山焼は19世紀はじめ頃に、オランダ船に売るための水瓶を製造するために開かれた窯。水瓶の「カメ」が、「亀」に転じて亀山焼と呼ばれるようになったそうです。しかし水瓶の販売は不振で、途中から白磁の陶器に切り替えました。絵付けには、中国から輸入した花呉須(はなごす)という発色のいい藍色の顔料を用い、長崎の三画人と呼ばれた、鉄翁祖門、木下逸雲、三浦梧門などが描いたといわれています。そうして上質の染め付けを製造していたようですが、残念なことに開業から約60年で廃窯に。奇しくもその年に亀山社中が誕生したのでした。たしか龍馬も亀山焼のご飯茶碗を持っていたはずです。  風頭山の北東側の斜面に位置する亀山社中跡や亀山焼窯跡がある一帯は、伊良林(いらばやし)とよばれる地域です。坂段が縦横に入り組むようにしてあり(長崎はそういうところが多い)、すれ違う観光客たちはみなフウフウ言いながら上り下りしています。それでも同じ道を、亀山社中の若者たちも歩いたのかと思うと、感慨深いものがあります。亀山社中のメンバーは、大里長次郎(近藤長次郎)、陸奥陽之助(陸奥宗光)など数人の正式な隊員ほか総勢20人ほどだったそうです。   同界隈で育った大正生まれのある方が、子どもの頃に聞いた話によると、「亀山社中のもんは荒らくれものが多くて、あんまり好かれとらんやったらしい」とのこと。若くて、血気盛んな彼らのこと。何をしでかすのか怖くて、遠巻きに見ていた地元の人もいたのでしょう。いまとなっては、ほほえましくもあるそんなエピソード。見えない土地の記憶としてこの界隈に刻まれています。

    もっと読む
  • 第4回 西洋料理編(二)

    1.横浜の西洋料理横浜初、洋風建築の西洋料理店。それは、長崎人によって始められた。▲明治初期のビードロ用具 横浜沿革誌を読むと次のように記してある。 明治二年八月、横浜姿見町三丁目に谷蔵なるものが西洋割烹を開業。当時は外国人の供養を目的とし 本邦人は之を嗜むものなし この横浜で最初に西洋料理を創業したとされる谷蔵は長崎県出身の人であったという。その谷蔵のことについて「明治車物起原」には次のように記してある。 横浜西洋料理の祖、長崎県の人大野谷蔵は初め姿見町三丁目に開業、後に今の相生町五丁目に移り開業・・・・ 次に明治五年三月二十三日発刊の横浜毎日新聞には、「西洋料理店崎陽亭」開業の広告が次のように掲載されている。 西洋料理御一人前、金二分より従来馬車道似て渡世士候ところ、類焼後、尾上町二丁目に開業まかり在り御ひいきを蒙り候ところ、今般西洋風家作造営、来る二十五日より開店、風味第一、且つ下直に差上候間、不相度ににぎにぎ敷ご入来、沢山御用仰付られ候よう 願上げ奉り候   崎陽亭利兵衛 この崎陽という言葉は長崎の別称であるので営業主の利兵衛は前記の大野谷蔵と同様長崎の出身者であり谷蔵と利兵衛は同一人物であるという人もいる。そして利兵衛の店は洋風建築であったっと紹介している。これは恐らく横浜における洋風建築の西洋料理店としては最初の物であったと考える。 私はここに、横浜における本格的西洋料理は全て長崎の人達の手によって始められていることに注目している。  これより少し前の文久元年(一八六一)横浜に滞在していたシーボルト父子は横浜における食事のことについて次のように述べている。 私達の横浜での食事はアカリーという黒人ボーイのレストランで過しました・・・・・其の後、私達は今度フランス教会で改宗した上手な料理人を雇うことができましたので大変愉快な食事となりました。 このフランス教会で改宗した人というのは、当時はまだキリスト教禁教時代であったので日本人ではなかったと考えている。2.長崎の西洋料理屋出島のオランダ人に料理見習い。長崎生まれの西洋料理人、草野丈吉。▲自由亭(明治11年建、グラバー園内) 長崎の町で一番早く西洋料理の専門店を開業したのは草野丈吉であったといわれている。 草野丈吉のことについては小冊子の伝記が出版されている。それによると丈吉は天保十年(一八三九)上長崎村伊良林郷次石、若宮神社前で生まれ、少年の頃、出島のコンプラ商人の一人増永文治の使用人として雇われている。このことが丈吉を西洋料理に向かわせる遠因となっている。 丈吉は幼少の頃より働きものでまじめで人と争はず、実に利発な少年であったという。この少年を信頼していた増永氏は、当時としては給料もよく高給とりとしてエリートの職業であった出島に居住していたオランダ人の使用人に丈吉を推挙している。 その出島での丈吉の働きぶりには大いにみとめられ、やがて在オランダ公使のゼネラル・デヴィットの使用人となった。公使デヴィットは丈吉がオランダ料理を研究したいという目的を知って、当時長崎に入港していたオランダ船セロット号の調理師見習いとして推挙している。ここでも丈吉は彼が真面目が大いに認められ、オランダ語を身につけ、横浜、函館と各地を廻り、めきめきと西洋料理の腕を上げ、外人はみな丈吉の料理を称賛したという。 これに自信をえた丈吉はデヴィット公使の許可で知人となった五代友厚に西洋料理専門店開業のことを相談している。友厚は丈吉に「これからの時代はきっと西洋料理を注文するものがふえてくるであろう」と言って開店開業のことを進めたと草野丈吉伝は記している。 五代は後に明治初年を代表する大実業家となった人物であるが当時は長崎海軍伝習所に学び薩摩藩を代表する一員として活躍していた。 この五代と丈吉の出会いは、後に五代が外国事務局判事・大阪府判事となったことにより丈吉の西洋料理の大阪進出への端緒となっている。3.草野丈吉の開業。グランド将軍や内外の賓客が訪れた、本格的洋風接待所「自由亭」。▲西洋料理発祥の碑(グラバー園内)文久三年(一八六三)丈吉は前述の伊良林若宮神社前の自宅に少しばかり手を加え、屋号を土地の名に因んで良林亭とよんだという。然し渡辺庫輔先生の「幕末長崎料理屋名寄」には東組の中に「伊良林郷 草野屋丈吉」とあり、慶応三年(一八六七)の名寄には「伊良林 自遊亭丈吉」とある。  草野屋(良林亭)時代には店の前に次のような張り紙がだしてあったという。料理代 御一人前金参朱 御用の方は前日に御沙汰願上げます。 但し六人以上の御方様はお断り申し上候。 部屋は六畳一間で椅子がなかったので酒樽を使用し、洋食器も六人以上は不備であり、使用人もなく、丈吉はコックとボーイ役を兼ねて一人で走り回っていた。 料理代三朱といえば、一両の3/16である。一両を現在の七万円とすれば三朱は一万三千円位となる。しかも店は伊良林若宮神社前という山の中腹にあって人力車も行かず、電話のない時代に前日より予約して御来店下さいというのであるから、西洋料理一皿を食べるのも大変であったと考える。然し、それでも丈吉の店は繁昌していたのである。  これは丈吉が外国人接待用のターフル料理を、要望に応じて其の処に出むいて調達していたからである。翌々年丈吉は店を自宅の下方でより便利なところに移し、店も広め料理代も一朱としている。今も土地の人達はこの場所をジュテイとよんでいる。 明治十一年丈吉は長崎市馬町諏訪神社前に進出、立派な洋風建築を新築し店名を自由亭と改称、長崎を訪問する各国賓客の本格的洋風接待所として活用している。その故に自由亭はアメリカ大統領グランド将軍をはじめイタリヤ、ギリシャ、ロシヤの賓客が次々と訪れた記録が残されている。 さて、丈吉が用意した料理の献立については殆ど記したものをみないが他の資料より考えて料理名をあげると、 牛のソウパ(スープ)、パスティ(肉入りパイ)、フルカデル(肉饅頭)、牛のロース煮、ハム、ビフテキ、ゴウレン(魚の油揚)、豚料理、鶏料理、サラダ、パン、コーヒーなどにカステラ、カスドースなどの洋菓子がつけられていた。 丈吉は商業都市大阪への進出を契機として、前述の五代友厚後からの力をかりて明治二年大阪川口梅本町に外人止宿所(ホテル)を完成、翌三年にはこれを自由亭と改称、丈吉は大阪府料理御用達を命ぜられている。 明治九年、京都で博覧会が開催されている。丈吉は、このとき祇園二軒茶屋にあった藤屋が廃業したので早速その跡地を買収、ホテルと西洋料理専門店を開業、屋号はそのまま藤屋といっている。 当時の料理の代金は「上等五十銭、中等二十七銭五厘、下等は二十五銭」であった。第4回 西洋料理編(二) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

    もっと読む
  • 第471号【雨の石畳を歩く(東山手・南山手界隈)】

     西日本では3月中旬から4月にかけて、どこか梅雨を思わせるような天候が続くことがあります。「菜種梅雨」とも呼ばれるこの雨は、シトシトと降り続けるのが特徴ですが、気のせいか、ここ数年はドシャ降りが多いように感じられます。手元には、やさしい雨に濡れるオランダ坂の古い絵はがき。その風情を見たくて、幕末~明治期に外国人居留地だった東山手、南山手界隈へ出かけました。  路面電車に乗り、「市民病院前」電停で下車。絵はがきにあったオランダ坂は、そこから徒歩3分です。近くには旧長崎英国領事館の煉瓦づくりの建物があります。そぼ降る雨にうたれる石畳の上をカラフルな傘をさし、タブレットやスマホ片手の観光客が行き交っていました。幕末の開国にともない外国人居留地として街並が造られたこの界隈。石畳の通りの先々には、明治期に建てられた洋館が点在しています。地元住民には見慣れた風景も、やはり観光客の方々にとってはハイカラな歴史をかもす異国情緒は特別な感じがするようです。「初めて来たのに、懐かしい感じがする。不思議よね」という方がいました。雨にもかかわらず、熱心に観光案内の立看板を読む人や写真を撮る人の姿が絶えませんでした。  ブルーグレーの外観が印象的な東山手甲十三番館(国登録有形文化財)は、かつてフランス領事館として使用されたことがありました。ご近所にあるクリーム色をした東山手十二番館(国指定重要文化財)は、ロシアやアメリカの領事館として使用されました。また外国人向けに洋風にしつらえた東山手洋風住宅群(7棟)もこの界隈の異国風な景観のひとつになっています。そんな東山手を通り抜け、南山手にある大浦天主堂へ向かいました。  現存する日本最古のゴシック建築様式のカトリック教会で、国指定の重要文化財である大浦天主堂。1859年の長崎開港後にやってきたヒューレ神父によって建築が計画されました。完成し献堂式が行われたのが1865年2月。当時は「フランス寺」と呼ばれ、見物人が絶えなかったといいます。とはいえ、まだキリスト教の禁教令下にあった日本。献堂式にはフランス領事をはじめ、各国艦船の艦長や居留地の外国人らが正装して出席するなか、長崎奉行は招待を受けたものの、参列を断っています。  その日から約1ヶ月後の3月17日。約250年もの間、信仰をひそかに守り伝えてきた浦上のキリシタンが、祭壇前で祈っていたプチジャン神父に近付き、耳元でそっと自分たちの信仰を打ち明けます。「ワレラノムネ アナタノムネト オナジ」。プチジャン神父はその夜、「信徒発見」の大きな感動を手紙にしたためローマに送りました。そのニュースは瞬く間に世界中に伝えられたのでした。   「世界宗教史上の奇跡」ともいわれる大浦天主堂での「信徒発見」。先週3月17日は、その日から150年を迎えました。大浦天主堂では早朝から7回の記念ミサを行っています。新聞報道によると、法王の特使をはじめ国内外の神父や信徒が参列。さらに、宗派や宗教を超えて聖職者などが参列し、一緒に世界の「平和」を祈ったそうです。それは、宗教弾圧、被爆という哀しみを知る長崎の切なる願い。このまちを象徴するかのような光景であったに違いありません。

    もっと読む
  • 第470号【立山界隈のキリスト教関連史跡】

     長崎市街地のせまい路地裏を歩いていたとき、ふと鼻先をかすめた沈丁花の香り。夜気に漂うその香りの印象的なこと。「春のいろいろな別れや出会いが呼び起こされて、ちょっとせつない気持ちになる」と言った人のことを思い出しました。  ときおり厳しい寒の戻りがあるものの、日中、陽当たりのいい場所へ出てみるとスミレ、そして西日本で多く自生するというシロバナタンポポが咲いています。北国で春を告げる花として知られる辛夷(こぶし)も満開です。一方、ニュース映像で見る東北は、まだまだ冷たい風が吹いています。ささやかですが、一足早い九州・長崎の春の花を画像でお楽しみください。  春の花たちは今月初め、長崎市の立山界隈を散策したときに出会ったものです。立山は長崎の歴史を語る上で欠かせない特別な場所で、楠の巨木など樹木が生い茂るこの土地には何かを引き寄せる力でもあるのか、長崎が貿易港として歴史の表舞台に登場するずっと前には大きなお寺があったといわれ、南蛮貿易時代には「山のサンタ・マリア教会」、禁教令によって教会が破壊されたあとは、「長崎奉行所立山役所」が設けられるなど、時代に応じて重要な役割を果たす建物がありました。  明治維新後も公的な施設が置かれ、現在は「長崎歴史文化博物館」、「長崎県立長崎図書館」があります。この界隈の歴史は日本の近世・近代に大きな役割を果たした長崎の政治、経済、文化が複雑にからみあい凝縮され、ひもとくのは容易でありません。なので、散策で出会う史跡も南蛮貿易時代から現代までの数百年を何度も行き来するので混乱してしまいます。  今回はキリスト教関連の史跡を2つご紹介します。ひとつめは「長崎歴史文化博物館」の目の前にある「サント・ドミンゴ教会跡資料館」。桜町小学校の一角に併設された資料館で、1609年に建てられた「サント・ドミンゴ教会」の地下室や井戸の遺構を見ることができます。花十字紋瓦や長崎市内で発掘された当時のメダイや十字架などのキリスト教関連の出土品も展示。長崎でキリスト教が栄えた時代の遺構はあまり残されていないなか、たいへん貴重な施設でもあります。  現在は、埋め立てられこの辺りの南蛮貿易時代の様子は想像しにくいのですが、当時は、すぐ近くに舟が着く入り江がありました。この資料館のそばにある「八百屋町通り」は長崎で最初につくられた石畳の通りだったと言われ、江戸時代初めまでこの界隈にいくつかあった教会や教会関連施設へ運び込む物資が往来したといわれています。現在の通りはアスファルトに覆われてしまっているのが残念です。  「八百屋町通り」近くには、「西勝寺」があります。西本願寺の末寺として1632年に創建された「西勝寺」。禁教令後も転宗しないキリシタンが多くいた当時の長崎で、転宗させその証文を取って奉行所に提出していました。このお寺には、証人のひとりとして「忠庵」の名が記された証文の写しがあります。「西勝寺文書(キリシタンころび証文)」(非公開/長崎県有形文化財)と呼ばれるもので、書き損じたため寺に残ったと言われています。  「忠庵」とは、元イエズス会宣教師のフェレイラ神父のこと。1609年に来日し、24年間も日本で布教活動を行っていましたが、長崎潜伏時にとらえられ拷問の末に棄教。その後、日本名「沢野忠庵」として長崎奉行のもとでキリシタンを取り締まる側になった人物です。その忠庵も行き来した立山界隈。同じ場所を歩いても、彼の苦悩は想像を絶し、推し量ることなどできないのでした。

    もっと読む
  • 第3回 ターフル料理編

    1.その名前の事ターフルとはオランダ語のTable。テーブルで食事をするという意。▲グラバー園内旧オルト邸(国指定重要文化財) 寛延三年(一七五〇)、長崎奉行所に江戸より赴任していた小倉善就の父某の撰と記してある「紅毛訳問答」に、オランダ通詞より聞いた言葉として次のようなことが記してある。 一、シッポクと唱候は蛮語にて候哉 紅毛にはシッポクという言葉なし、紅毛にてはターフルと申候、シッポクはいづれの語たること、審ならず。  ターフルという言葉はオランダ語のTableという言葉からきている。ターフルは英語のテーブルという意味である。  すなわち、ターフル料理というのはテーブルで食事をする意味である。 その昔、長崎の人達はシッポク料理という言葉をつくりだしている。そのシッポクという言葉については、故古賀十二郎先生の研究論文中に次のように記してある。  シッポクとは東京(トンキン)語にて卓のことである。  トンキンというのは現在のベトナム国内の一都市の名であるが、昔はその地方の王国の国名で、そこの国王の名を阮氏といった。 それでは何故、そのような東京地方の言葉が長崎に伝えられ、シッポク料理として現長崎の名物の一つになったのであろうかと疑問を持たれる。それには、初期長崎の唐船貿易のことから考えてゆかねばならない。当時長崎の港から出発した貿易船を御朱印船とよんだ。御朱印船は多くベトナムを中心にして活躍した。中でもその中心地はトンキン王国であった。長崎の御朱印船主の一人に有名な荒木宗太郎がいた。宗太郎はトンキン王の信任をうけ遂に国王の娘アニオさんをお嫁にいただいた。宗太郎はアニオさんをつれて長崎の町に帰ってきた。そのアニオさんの上陸の行列は人々の目をみはらせ、今も「長崎くんち」の奉納踊りにその面影を残している。それは昨年石灰町が「くんち」に奉納した豪華な御朱印船入港絵巻にもあらわれている。 そのようにトンキン地方の文化は異国趣味の文化として急速に長崎の人達に大いに歓迎された。その中の一つに卓を囲んで食べるシッポク料理があった。この食事法は、これまでの我が国にはなかった食事法であり、料理であったので、人々は驚きの目をみはって食卓についた。やがてこのシッポク料理は江戸にまで流行していったのである。  このシッポク料理にかわる洋風の新しい様式の食事法・料理として長崎の町に登場したのがターフル料理なのである。2.新しきものオランダ人を持て成すために用意。出島オランダ屋敷の蘭料理。▲グラバー園内旧グラバー邸の食堂 ターフル料理は先ず出島オランダ屋敷の料理を基本としている。  このターフル料理の名前が長崎の文献にあらわれてくるのは安政初年頃(一八五四~)からである。はじめは蘭料理として記してある。安政四年(一八五七)四月の佐賀藩の記録の中に、 蘭船将其の他六人。ストークル三人え蘭料理御馳走おうせ付られ、右手当として十六日鵬ヶ崎え持出、給仕も相頼まれ申候。  また、同四月二十日の記録には当時用意された料理名が次のように記してある。  蘭料理鶏ケルリイ、豚フルカテル、豚ヒストック三種ならびに蘭酒二本、但し銘酒とシャンパンヤ このことより考えて最初に蘭料理を必要としたのは各藩が出島のオランダ人と商取引の関係上オランダ人を招待する必要があり蘭料理を用意したのである。佐賀藩はことに長崎港の警備役を兼ね長崎奉行所との交渉も親密であり、当時すでに安政二年(一八五五)十月には長崎西役所内(現在の県庁)に海軍伝習所が発足し、そこの教官としてファビウス以下二十名のオランダ士官・下士官が在留した。かくてオランダ人に対しては、出島を出て市街遊歩の事が許可された。又当時の佐賀藩主鍋島閑叟公は特に様式兵学の取り入れに力をもちいていた必要上、このようなオランダ士官との交渉の場を設けたのである。 当時の長崎の町にはまだ蘭料理の調理に堪能な人は前回のべたオランダ屋敷内の料理人三人以外にはいなかったので、佐賀藩では前記のように三人のオランダ人にその調理を依頼したのである。  安政六年(一八五九)正月、長崎奉行所「御用留」の中にロシア人が対岸の稲佐に上陸を許され酒宴を開いた模様を記し、その料理を「タアフリ料理」と記してある。翌安政七年十月五日の出島「万記帳」の中にも長崎奉行所目付役小倉九八郎が出島を訪ね、カピタン部屋でターフル料理を差し上げたと次のように記してある。  小倉様カピタン部屋にお入りなされ、御茶御煙草盆ターフル差上く、暫く御滞在、夫より出島商人の見世ご覧なされ候。 この時のターフルは簡単な洋風料理か菓子などであったと考える。3.ターフル料理は変化した。長崎西洋料理の始まりは、居留地の外国人の為の食料調達から。▲シーボルトが諫早候に送った酒瓶セット(長崎市立博物館蔵) 安政六年(一八五九)の開国と同時に長崎の町の様子は一変した。今までのオランダ人のみでなくアメリカ、フランス、イギリス、ロシアの各国の船が長崎に入港し、大浦方面には居留地や各国領事館がつくられ、外国人の食料として、「牛とき場」(屠刹場)が戸町海岸に文久二年(一八六二)官許によってつくられた。  これが我が国における官許の牛屠刹場のはじめである。イギリス領事館はこのとき奉行所に「食料として一年に牛五拾頭は確保しておいてもらいたい」と申しでている。これは、日本側が農耕用としている牛を外人側に差し出すことをあまり歓迎しなかったからである。 安政五年(一八五八)イギリス領事館開設準備のため長崎に渡ってきたホジリン氏の婦人は、彼女の書簡の中に当時の西洋料理事情を次のように説明している。長崎の地にはミルクもバターもありません。私たちは上海から食料用の羊を積んでいましたので、それを食べてどうにか過ごしました。牛肉を食べるのは困難です。私たちは上海からつれてきた中国人が早朝から出かけて九時頃やっと帰ってきて、すこしばかりの鳥や魚をもってきます。時にはこの中国の料理人が少しばかりの豚肉をさげてきて私達に自慢するのですが、これは私達の目からみれば食用にならないものが多いです。 次に彼女の文章をよむと、卵だけは充分にあったので毎日オムレツを食べたこと、外国船が入港したときには塩漬の貯蔵肉が手にはいるのでそれでカレーを作って食べたことが記してある。  さらに果物のことも記して、「日本の果物は早どりするので全てが固いので私達は二、三日おいてから食べます」と言っている。その果物は、香りのないメロン、かたい杏、石梨、かたい桃があったという。香りのないメロンというのは西瓜のことであろうか。 ここに安政六年に上海から入港した外国船の積荷の控がある。その中より食料の部を拾うと次のようなものがあった。 塩豚肉、酢、麦粉、パン、砂糖、豆、豌豆、ハム、干リンゴ、飲物 次に、居留地内の外人宅に日本人が次第に使用人として雇われるようになってきた事、外国人が必要とする食料を長崎の人達が調達しはじめてきた事は、長崎の人達をターフル料理に目をむけさせてきた。やがて、この外国人雇の日本人使用人の中に、西洋料理を学ぶ人達があらわれてきた。やがて長崎の人達は、一度は是非この西洋料理なるものを口にしてみたくなってきた。第3回 ターフル料理編 おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

    もっと読む
  • 第469号【春めく、中島川】

     ときおり訪れる小春日和。江戸期発祥の石橋群が架かる中島川沿いを歩けば、真冬にはなかなか姿を見せなかった鳥たちが元気に水辺を飛び交うようになりました。年中見かけるアオサギも、春めくなかで気分が良さそう。観光客が集う眼鏡橋から徒歩5分ほどの上流にかかる桃渓橋(ももたにばし)あたりでも、川面を素早く飛翔するカワセミの姿がありました。翡翠(ひすい)のような美しい色をしたカワセミは、渓流などに棲むと思われていましたが、いまではまちなかを流れる各地の川で見かけるようになったといわれています。川の水がきれいになったからなのか、エサを求めてなのか、その理由はわかりませんが、鳥たちがのびのびと暮らせるよう見守りたいものです。  早春の気配が漂いはじめる1月下旬~2月初旬、長崎県下では各地の海岸でアオサ摘みがはじまったというローカルニュースが流れます。深緑色をした海藻のアオサは、水洗いして乾燥させ、お吸い物や味噌汁、天ぷらなどにしていただきます。実は同時期、眼鏡橋のひとつ下流に架かる袋橋のたもとでも鮮やかな緑色をした海藻が目立つようになるのですが、よくよく見てみるとこれがアオサだったのです。  眼鏡橋あたりまでは、長崎港の海水と混じり合うところなので海藻が育っても不思議ではありません。早春の風物詩で、食卓に潮の香を運んでくれるアオサですが、さすがに中島川のそれを食するのは衛生上の問題がありましょう。また、ある漁村では原因不明の大量発生をして水質悪化につながり、漁師さんたちを困らせたこともあったとか。とはいえ、川の流れのままに揺れる深緑色はとてもきれいです。毎春この光景を楽しめますように。  その中島川はいま「長崎ランタンフェスティバル」の装飾に彩られ、黄色のランタンの下を連日大勢の人が行き交っています。今年も春節の休暇を利用して来た中国系の観光客の姿が目立ちます。袋橋の上は、上流の眼鏡橋を入れてランタンの写真を撮ろうとする彼らでいっぱいでした。  中島川沿いの散策を終え、中国語が飛び交うなかをくぐり抜けるようにして帰る途中、商店街で地元産の春キャベツとシマアジを購入。今夜は、白身魚の「ゴーレン」に春キャベツを添えていただくことに。「ゴーレン」は長崎の郷土料理のひとつで酒やみりん、しょうゆで下味をつけた白身魚(または鶏肉)に衣(小麦粉か片栗粉)を付けて揚げたものです。衣に甘味(砂糖)を加えて揚げるいわゆる「長崎天ぷら」とは別物です。   「ゴーレン」の語源は、ポルトガルやオランダにはないといわれます。東南アジアに「ナシゴーレン」という料理がありますが、そこでいう「ゴーレン」は、「炒め物」を意味するとか。江戸時代、出島には東南アジア出身の人々がオランダ人に付いて働いていましたから、そこらへんに長崎料理の「ゴーレン」の語源はありそうです。またキャベツも江戸時代にオランダ船が長崎に運んできたのがはじまりといわれます。今夜も長崎ゆかりの食材を、ありがたくいただきたいと思います。

    もっと読む
  • 第468号【2015長崎ランタンフェススティバル(予告)】

     西山神社では、早咲きタイプの「元旦桜」が九分咲き。春が目の前にきていることを実感します。これから三寒四温で季節は移っていくのですね。変化の激しい天候に体調を崩さないよう気を付けてください。  寒さのなかに小さな春を感じはじめるこの時期に行われるのが、「長崎ランタンフェスティバル」です。開催期間は、来週の2月19日(木)から3月5日(木)まで。毎年1月~2月に開催されますが、今年はめずらしく3月にまで入り込みます。期間が毎年変わるのは「長崎ランタンフェスティバル」が、中国の旧正月(春節)を祝う行事だからです。今年は2月19日が、旧暦の元旦に当たります。  朱色、桃色、黄色の大きなランタンが街中を埋め尽くす「長崎ランタンフェスティバル」。よく「幻想的」と表現されるように、夢の中に現われるような独特の世界観が創り出されます。それは、古くからゆかりの深い長崎と中国との融合から生まれた世界。期間中は国内はもとより、中国や台湾をはじめアジア各国からの観光客でにぎわいます。目にもあたたかなランタンを見上げながら和やかに行き交う人々の表情は、とてもやさしい。ランタンが平和の象徴のようにも見えてきます。  長崎市中心部に設けられた会場は、新地中華街会場、中央公園会場、唐人屋敷会場、興福寺、鍛冶市会場、浜んまち会場、孔子廟会場の7カ所。それぞれの会場で中国色豊かな装飾が施されます。  新地中華街会場、中央公園会場、孔子廟会場では、夕方近くから(土日は昼過ぎから)連日催しが行われます。中国獅子舞、龍踊り、中国雑技、中国民族踊、二胡の演奏、中国変面ショー、中国マジックショー、太極拳など、催しは年々充実しています。なかでも見逃せないのは、孔子廟会場で毎日公演される変面ショー。中国が誇る伝統芸能のひとつで、世界でも特殊といわれる演技を間近で見る事ができます。また、各会場で披露される中国雑技も本場の演技を堪能できます。しなやかで強靭な身体で繰り広げる伝統の技は驚きの連続です。  新地中華街会場には、今年の干支「羊」にちなんだ巨大オブジェ(高さ約10m)が登場します。『九陽(羊)啓泰』(きゅうようけいたい)というテーマでつくられたそのオブジェは、「吉祥の光で万事思い通りになる」という意味が込められているとか。そのほか縁起のいいいわれのあるランタンオブジェが各所に設けられています。行く先々で、幸運をもらえたような気分になれますよ。   期間中の催しの日時については、長崎の市街地各所に置いてあるランタンフェスティバルのチラシをご参考に。「長崎ランタンフェスティバル実行委員会」のホームページでも確認できます。当日はしっかり防寒して、お出かけください。

    もっと読む
  • 第2回 オランダ料理編

    1.出島オランダ屋敷の事奉行は、日本の牛を食べる事を禁止。オランダ人は、バタビヤから牛肉を運んだ。▲ミニ出島 我が国初期の西洋料理は南蛮料理といった。それは南蛮人が最初に西洋料理を伝えたからである。  南蛮人とは最初に我が国に来航してきたポルトガル、スペインの人達のことである。 平戸の町で、それまで自由に貿易していたオランダ人が、幕府の命令で長崎出島の地に移転することを命じられたのは寛永十七年のことである。 翌寛永十八年五月十七日(一六四一・六)オランダ人は出島に移り、長崎出島オランダ商館を設立している。  このオランダ商館を島原城主高力摂津守は早速見物ににおとずれている。このときカピタンは、見物客一同にオランダ風の料理を用意し、葡萄酒、アメンドウ、パンケーキを用意してもてなし、食事がおわると商館員が遊ぶ玉突部屋を案内し、ゴルフを見せたとオランダ商館日記に記してある。 そして、まもなく奉行所より次の連絡がとどいた。「長崎に入港してくるオランダ船の積み荷の中にある食品のうち牛肉、塩豚肉、アラク酒、イスパニヤの葡萄酒、オリーブ 油その他、キリシタンが通常使用するものを日本人、支那人に 売渡すこと贈寄することがあってはならない。そして日本の牛を殺して食べることも禁止する。」  出島のオランダ人はパンを食べたいのでパンを焼いてくれるようにと長崎奉行所に願いでている。 それまで長崎の町には多くのポルトガル人が住んでいたので何軒ものパン屋があったが、パンはキリスト教に関係があるというのでパン屋を廃業させられていた。奉行はオランダ人の願をきき入れ、パン屋の一軒を残しパンを焼かせることにした。但し、そのパンは絶対・日本人に売ってはならないという条件がついていた。  然し、豚肉と鶏は比較的に自由に手に入ったと記してある。それは豚肉は来航してくる唐人船の人達の食料として是非必要であったので奉行も豚を長崎周辺の農家で飼うことを許していたからである。 オランダ人は、日本の牛を食べてはならぬという奉行の命令があったので牛は年に一度、貿易のためにバタビヤから入港してくるオランダ船に牛を積みこんで出島に運んでいる。  出島のオランダ屋敷内で、この牛を屠殺する風景は当時評判のもので出島見物記の中によく記してある。出島カピタン・H・ドーフの日記の中にも次のように記してある。 「このバタビヤの牛を出島で屠る時、長崎奉行、代官は喜んで、その牛肉の 一部を贈呈うけるのである。そして牛肉は美味であるといって食べる。  それは牛肉は薬になると信じているからである。」 天明八年(一七八八)十一月長崎に遊学した洋画家で蘭学研究者の司馬江漢も、このオランダ屋敷の牛肉をオランダ通詞稲部松十郎の家で食べている。その試食のことを江漢は次のように訳している。  「稲部方に帰りて牛の生肉を喰う。味ひ鴨も如し。 ・・・オランダ人、出島にて牛を足のところより段々と皮をひらき、ことごとく肉を塩漬にする。2.オランダ屋敷の料理人カピタンの江戸幕府にも同行。「出島くずねり」と呼ばれた、 三人の日本人料理人がいた。▲現在の出島の石垣 オランダ屋敷内には勿論本国からつれてきた料理人もいたが、日本人の料理人もいた。  この日本人料理人のことを「出島くずねり」と呼んだ。日本人の料理人は三人いた。その給料は一ケ年、一人は銀八百八十匁、一人は七百九十匁、一人は七百拾匁であった。 この三人の料理人のうち出島カピタンが将軍拝謁のため江戸に旅行するときには、二人の料理人がテーブル一台、折りたたみ椅子三脚、必要な食料を持って同行している。 安永五年の春(一七七六)カピタンと共に江戸に旅行した出島の医師ツンベリーの「日本紀行」の中に、この日本人料理人のことを次のように記している。 「二人の料理人は旅行中、常に一人は本隊より一足先に出発し、オランダ人が宿についた時には、すぐに食事がとれるように準備し、オランダ風の料理を上手につくることができる」。 そして、この出島で料理をつくっていた人達が、やがて我が国に西洋料理を伝えた人達につながっていると考えてよいのではないだろうか。3.オランダ正月と西洋料理年に一度の饗宴は、和洋折衷仕立ての、珍奇なオランダ風フルコース。▲唐蘭館絵巻会食図(長崎市立博物館蔵)年に一度、出島のオランダ人は出島出入の役人を招いてオランダ風の洋食でもてなしている。この日は西暦の一月一日であったので長崎の人達はこの日をオランダ正月とよんでいた。そして、この行事は大変有名であったので、長崎版画の中に各種のものがつくられているし、絵画としても描かれ、その献立表も残っている。その中でも文政初年頃(一八一八)に編集された「長崎名勝図絵」には実に詳しく、その時の献立が次のように記してある。 大蓋物一ツ。味噌汁仕立・中に鶏かまぼこ、玉子、椎茸。 蓋物二ツ。一、味噌汁仕立、中にすっぽん、木耳(きくらげ)、青ねぎ。 二、味噌汁仕立・中に牛。鉢物十種。一、牛股油揚。二、牛脇腹油揚。 三、豚の油揚。四、焼豚。五、野猪股油揚。六、家鴨丸焼。 七、豚の肝をすって帯腸に詰る。八、牛豚すり合わせ同じく帯腸に詰る。 九、豚のラカン(ハムの事)。十、鮭のラカン。 大鉢一ツ。潮煮汁なり。中に鯛、あら魚、かれい。 ボートル煮鉢物四ツ。(註、ボートルとはバターの事)一、オランダ菜。 二、ちさ。三、ニンジン。四、かぶら。菓子、紙焼カステラ。タルタ。スープ。 カネールクウク。丸焼きカステラ。○オランダ本国米なし。ゆえに小麦粉を常食とし、小麦粉を粉にして固め、 これを蒸焼にす、その名パンと言う○コッヒー。オランダ人、我が国のお茶の如く飲む。コッヒーと言うものは、形、豆の如くなれども実は木の実なり。豆は日本の大豆に似たるものを砕いて湯に入れ、煎じ、白砂糖を加えて飲む。▲長崎港府瞰図(長崎市立博物館蔵) オランダ正月にこの料理が全て出されたのであろうか。 オランダ人の日記をよむと、「お客によばれた日本人はオランダ風の料理には殆ど手をつけず、懐より大きな紙をとりだして包むと、大急ぎで出島の門の所に走って行き、門の外に待たしておいた家来に、その料理を渡し、又再び宴席に帰って、今度は日本式の料理をたべて帰る」、と記している。 それは、オランダの料理は当時より諸病の薬になるといわれていたので、招かれた客は大急ぎで自宅に料理を持ち帰らせていたのである。  特にボートルは天下の良薬と言われて珍重されていた。そして、シーボルトの長崎日記の中にも次のようなカステラとボートルの面白い話が記してあることを思い出した。 私の手もとにボートルがあったが、これは貯蔵法が悪いので塩辛く且つ悪臭をもっていたのに、私をたずねてきた日本人の紳士達は、土産に持ってきた、美味しいカステラの上に私の例のボートルを塗って、これはオランダの味がするといって喜んで食べていた。  多分、これは、日本人の人達が西洋の生活を偏愛し、西洋の食事に憧れた理由によったと私は考えた。そして、この日本ではつい最近まで、「ボートルは肺病の特効薬といわれ」塩ボートルで団子をつくり毎日たべていた。 天明五年十一月(一七八五)長崎を訪れた蘭学者大槻玄沢は先ず大通事吉雄耕牛邸をたずね、出島見物に案内されている。  そこで玄沢はオランダの料理の数々を著書「紅毛雑話」の中に記している。料理は十三皿、菓子四皿、菓子物1皿の名前をオランダ語で記し、その内容が記されている。第2回 オランダ料理編 おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

    もっと読む
  • 第467号【松陰先生、長崎を駆け巡る】

     少しずつ伸びる日差しに春の兆しを感じている方も多いはず。あと1週間もすれば立春です。松森神社(長崎市上西山町)ではロウバイが水仙に似た甘くさわやかな香りを漂わせています。境内の梅はつぼみがいまにもほころびそう。植物たちは静かに、大胆に春に向かっています。  今回ご紹介するのは、大河ドラマで注目を浴びる幕末の志士、吉田松陰(1830-1859)の長崎での足跡です。長州藩士の松陰は志しが高く、むちゃなことでも失敗を恐れず行動する人物として知られています。明治維新で活躍した人物を多く育てた私塾・松下村塾では、心優しき熱血先生として慕われ、身分や階級にとらわれず、「共に学ぼう」という姿勢で塾生に接していたと伝えられています。  ところで長州藩は、他の藩へ遊学することを奨励するなど、江戸時代を通じて人の育成に力を注ぎ、藩内には私塾や寺子屋が数多くあったそうです。そうした環境のもとで生まれ育った松陰は、20歳を過ぎると東北各地から南は九州熊本まで各地をめぐりました。そのなかで長崎を訪れたのは21歳と24歳のときでした。  松陰が著した『西遊日記』には、1850年(嘉永3年/21歳)に平戸や長崎などを訪れ、どこで、誰と会い、何を思ったかなどが簡潔に記されています。この日記によると、松陰は諫早(永昌)~古賀~矢上を経て9月5日(旧暦)に日見峠を越えて長崎へ入り、長州藩屋敷(長崎市興善町)に到着。その日の短い日記には、よほど印象的だったのか、長崎市中では所々に木戸が設けられていることが記されています。  翌6日朝、西洋砲術を学びに来ていた人と一緒に、西洋砲術家・高島秋帆の息子、高島浅五郎を訪ねています。また、午後には舟を雇って停泊するオランダ船や唐船の近くを乗り回したとあります。いかにも好奇心旺盛な若者らしい行動です。その後、崇福寺(長崎市鍛冶屋町)に行き清国人のお墓を見たり、後山の高台から長崎のまちを眺めたりしたことが記されています。  7日、諏訪神社(長崎市上西山町)に参拝。平戸藩屋敷(長崎市大黒町)へ行き名刺(紹介状)を差し出したとあります。松陰は晴れ男だったようで、長崎入りしてから9月11日までの1週間、晴天に恵まれ唐人屋敷や出島のオランダ屋敷を訪れ、さらにはオランダ通詞のはからいでオランダ船に乗り込んだりもしています。時間をいっときも無駄にしない松陰の動き。その合間には、『海防説階』という書物を写したりもしています。短めの内容だったそうですが、いかにも松陰らしいエピソードです。  このあと、長崎をいったん離れ平戸でしばらく過ごし、再び長崎へ向かいます。今度の滞在は11月8日から12月1日までの約1ケ月間です。福岡藩と佐賀藩が長崎港警備にあたっていた西泊番所に行ったり、再び高島浅五郎と会ったり。また、ある唐通事と親交を深めたことがうかがえる記述もみられます。  長崎でのある日、松陰は春徳寺(長崎市夫婦川町)の後山にある唐通事・東海氏の墓を見学。背後の城址に上り長崎のまちを一望しながら、江戸時代初めに貿易港として賑わう長崎を静かに去った長崎甚左衛門(それまでの長崎の領主)に思いを馳せています。過去も未来も独自の視線で見通した吉田松陰。彼の眼に当時の長崎はどのように映ったのでしょうか。           ◎参考にしたもの/『吉田松陰全集 第九巻』(山口県教育会)、『藩と県~日本各地のつながり~』(赤岩州五、北吉洋一)

    もっと読む
  • 第466号【小正月~小豆よもやま話~】

     初春気分がどこか抜けきれなかった松の内も過ぎて、きょうは小正月。朝から小豆粥を召し上がった方もいらっしゃるのではないでしょうか。もともと小正月は新年最初の満月を祝うもので旧暦の1月15日(今年は新暦3月5日にあたる)に行われていました。新暦採用後も1月15日を小正月としましたが、いまも旧暦で祝う地域は少なくないようです。また小正月の期間も15日のみだけでなく、14~16日までや15~20日までなどいろいろです。  小正月に小豆粥を食べる風習は各地に残っています。ちなみに「小豆」は季語ではありませんが、「小豆粥」は新年の季語。1月7日に七草粥を食べて健康を祈願する風習と同じく、こちらも一年の無病息災を祈っていただきます。古来、小豆の赤色は邪気を祓う力があると考えられていましたが、薬膳では、新陳代謝を促し、デトックス効果がある(むくみや吹き出ものなどを解消する働きがある)とされ、実際、身体の毒素(魔)を出すという意味で、古来の人々の考えは正しかったのです。  赤飯、おはぎ、ぜんざい、あんこ餅…、小豆を使った食べ物は数多く、行事食や日常食として、たいへん身近な食材です。ところで、小豆によく似た豆で「ささげ」というのがあります。小豆より固く、煮崩れしにくいので、関東地方のお赤飯はこの「ささげ」を使うことが多いとも言われています。なかには小豆と混同している方もいらっしゃるかもしれません。東南アジアで広く食べられているる小豆は中国原産。日本では北海道が主な産地のひとつです。一方、「ささげ」はアフリカ原産ということもあってか、日本ではその多くが関東以西で栽培されました。関東地方のお赤飯に広く用いられたのも、そうした理由があるようです。  小豆を使った和菓子を見渡せば、ときに個性的なもの見られます。対馬市の小茂田浜神社(こもだはまじんじゃ)の秋の大祭のときに作られる「だんつけもち」は、そのひとつといえるかもしれません。小さなもちに塩ゆでした小豆をまぶしただけのシンプルな豆もちで、塩豆大福の元祖ともいえるような味わいです。文永の役(1274)で、蒙古軍の襲来に備えて、兵士に持たせるためのあん入りもちを作っていたところ、相手が思ったよりも早く攻めてきたため、もちの中にあんをいれる余裕がなかった、というユニークないわれがあります。  当時(鎌倉時代)砂糖は一般に使われておらず、塩ゆでした小豆を使う「だんつけもち」からはその時代背景がうかがえます。また、地理的に韓国に近く古くから交流があった対馬ですが、聞くところによると韓国では、小豆を砂糖で甘く煮ることはほとんどないそうで、韓国料理の影響もあったのでは?という想像も膨らみます。さらには、大陸との交通の中継地だった対馬ですから、都からの往来もあったことを踏まえれば、京都の食の影響なども考えられます。「だんつけもち」のルーツは、辿れば辿るほど収拾がつかなくなるのでした。 本年も弊社「ちゃんぽんコラム」をどうぞ、よろしくお願い申し上げます。          ◎      参考にしたもの/『聞き書き 長崎の食事』(農山漁村文化協会)、リーフレット『長崎の郷土料理 シリーズ⑧』(18銀行)、『日本の食材帖 乾物レシピ』(三浦理代/主婦と生活者)

    もっと読む

検索