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  • 第327号【春の味覚、つわぶき】

     ふき、わらび、新タマネギ、春キャベツ…。いま、店先を賑わせている旬の食材たち。その香り、風味、味わいは、冬の寒さをくぐりぬけたものらしく生命力にあふれ、とてもおいしいですよね。栄養価もGoodで、大量に出回るから安いのもうれしいところ。きょうはどれをいただこうかしらと迷えるなんて、本当にありがたいことです。 今回はそんな旬の食材の中から、つわぶきをご紹介します。キク科の常緑多年草で、日本では九州、四国、本州(中部)あたりまでの暖かい地域の海岸近くに自生する植物です。ですから、寒い地域の方にとっては馴染みがなく、つわぶきを長崎で初めていただいたという声もときおり耳にします。 つわぶきは同じ春の味覚である、ふき(蕗)と混同してしまう人もいるようです。実際、つわぶきという和名はふきに似ていることから付けられたとか。たしかに、長い茎の先に大きな丸い葉を付けた形は似ています。しかし、見比べたらその違いは歴然。ふきの葉はライトグリーンなのに対し、つわぶきは深みのあるグリーンでツヤがあります。 長崎地方では単に「つわ」と呼ばれることが多いつわぶき。早春から春にかけて、山野に自生しているものなどを採取して食用にしますが、街の中でも歩道脇の土手など身近なところによく生えているので、そこから摘んできて食卓にあげるという方もいらっしゃるようです。 つわぶきは、煮しめや味噌漬など、ふきと似たメニューに仕上げられますが、それぞれ独特のほろ苦さがあり、やはり違う味わいです。この時期、長崎の料亭や和食のお店では、旬のワカメ、タケノコと一緒に煮た「若竹煮」が春らしい一品として出されます。それぞれの家庭では、干し大根、こんにゃく、油揚げなどと煮たり、きんぴらやつくだ煮、おつゆの具などにしていただいています。 毎年、庭のつわぶきを摘んで食べているという料理上手の友人から、お茶漬け用の塩昆布(適量)と煮るだけのとても簡単でおいしいつわぶきメニューを教えてもらいました(みりんや醤油で好みの味に調整してください)。ぜひ、お試しください。 観賞用としても多く用いられ、多くは庭の立ち木の根締めに利用されているつわぶき。春は産毛を着た初々しい茎と葉、梅雨どきになると葉はよりつややかさを増し、さらに、晩秋から初冬にかけてあざやかな黄色の花を咲かせて楽しませてくれます。 つわぶきを調理するときは、ふきと同じく茎の皮をむいたり、水にしばらくつけてアクを抜くなどしなければなりません。忙しい現代人は、そのひと手間を敬遠しがちです。でも、子供の頃、家族の誰かと1本ずつ皮をむいた経験のある人は、指先をその渋みで黒くしながら、独特の香りに包まれたそのシーンをほのぼのと思い出されることでしょう。それは、子供にとって家族や自然の恵みとふれあういい機会でもありました。あらためて、ひと手間を惜しんではいけないなあと思うのでした。◎ 参考にした本/大日本百科事典12巻(小学館)

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  • 第326号【出島に漂うコーヒーの香り】

     やはり今年は、全国的に桜の開花が早まるらしいですね。近所にある桜の前を通るたびに、つぼみの様子を観察している人も多いのではないでしょうか。ここ数年、長崎では3月下旬に開花、見頃を迎えることも多くなったような気がします。これから先、九州のように温かな地域では、桜は入学式ではなく卒業式シーズンの花になりつつあるのかもしれません。 さて、今回は見目麗しい桜ではなく、香り高きコーヒーのお話です。コーヒーが日本に伝えられたのは江戸時代(おそらく元禄期の1700年前後)、オランダ人によって出島に持ち込まれたのが最初であろうと言われています。出島のカピタン(オランダ商館長)と仕事柄、接触のあったオランダ通詞(通訳)は、ときおりコーヒーをいただいて飲んでいたそうです。 現在、出島は、19世紀初頭の建物や室内が復元されていますが、商館員らが過ごしたという部屋を見てまわると、必ず部屋の小さなテーブルにカップ&ソーサー、そしてポットが置いてあります。当時のオランダ人たちがどれくらいの頻度でコーヒーを飲んでいたのかわかりませんが、その調度品や器を見る限り、日常的にいれたてのコーヒーなり、お茶を楽しんでいたのだろうと想像します。その器類は、たいへん洗練されたデザインで、彼らがコーヒーブレイク(またはティータイム)を大切にしていたことが伝わってくるようです。 ずいぶん前、地元の美術館で、司馬江漢(しばこうかん)が作ったというコーヒーミルを見たことがあります。たしか「阿蘭陀茶臼」と紹介してあり、現在の手回し式のミルとほとんど変わらない姿でした。司馬江漢は江戸後期の洋風画家。18世紀も終わり頃、知り合いのオランダ通詞宅にあったコーヒーミルをまねしてつくったものなのだそうです。 江戸時代のコーヒーにまつわる話でよく語られるのは、文化元年(1804)、長崎奉行所の勘定役として江戸から赴任した太田南畝(おおたなんぽ)のエピソードです。彼は当時の狂歌師、蜀山人としても知られる人物。彼が著した「瓊浦又綴(けいほゆうてつ)」に、長崎でコーヒーを飲んだ際の感想が次のように述べられています。[紅毛船にて「カウヒイというものを勧む」豆を黒く炒りて粉にし白糖を和したるもの也。焦げくさくして味ふに堪ず]。子どもの頃、大人たちのカップから初めてブラックコーヒーを飲み、蜀山人と同じ思いをした人もいらっしゃるのではないでしょうか。 ところで、コーヒーはアフリカのエチオピアが原産地といわれていますが、人間がどんなきっかけで、いつ頃飲みはじめたのかは諸説あり定かではありません。10世紀頃には、アラビア人たちの間で民間薬として飲まれていたそうで、その後、イスラム教諸国を経て、17世紀にヨーロッパ各地に広がっています。オランダ東インド会社(出島のオランダ人らが所属する会社)は、17世紀末には、ジャワ島などへコーヒーの移植栽培を成功させており、日本にコーヒーを伝えたとされる時期とも重なります。日本では、当初薬用として一部の人の間で飲まれるだけでした。一般に広く飲まれるようになったのは明治に入ってからだそうです。◎ 参考にした本/長崎の西洋料理~洋食のあけぼの~(越中哲也)、コーヒーの歴史(マーク・ペンダーグラスト)、コーヒー~最高の一杯COFFEE BOOK~(嘉茂明宏)

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  • 第325号【幕末の志士らの足跡をたどる~勝海舟編~】

     ご近所の庭では、早春を告げるミモザが満開。これから三寒四温を経て、本格的な春へと向かいますが、暖かい日が続くと、つい厚手のコートやセーターを1枚2枚とタンスの奥に仕舞い込んだり、クリーニングに出すなどして、あとで後悔することも。季節の変わり目です。体調と衣服の管理にはどうぞ、お気をつけください。 さて、実はいま長崎では、NHK大河ドラマ「龍馬伝」の2010年の放映が決まり、その舞台のひとつになるとあって、幕末ゆかりの人物や場所などがにわかに注目を浴びています。また、幕末といえば、坂本龍馬や勝海舟をはじめ吉田松陰、福沢諭吉、榎本武揚、伊藤博文、高杉晋作、大隈重信など、多くの著名人が遊学の志に燃え、長崎を訪れた時代です。あれから130年ほどが経ち、新たな時代の転換期を迎えようとしている現代にあって、彼らの志や思いに触れることは、何か意味があるのかもしれません。 江戸から明治へ、大きく時代を動かした男たちの中のひとり、勝海舟(1823~1899)。幕府側代表として西郷隆盛と話し合い、江戸城の明渡しの任を果たしたエピソードはあまりにも有名です。 勝海舟が幕府の命を受け、長崎にやって来たのは33才のとき。ペリー来航から2年後の安政2年(1855)のことで、長崎奉行所西役所に設けられた海軍伝習所の伝習生頭役として4年間学びました。当時、海舟の宿泊先となったのが、現在、長崎駅前の筑後通りの一角にある本蓮寺(ほんれんじ)です。海舟は、この寺の境内にあった大乗院に寝泊まりしたそうです。 海舟は、長崎でお久さん(本名:梶クマ)という女性と恋に落ち、一男一女をもうけています。本蓮寺のすぐ隣にある聖無動寺(しょうむどうじ)の梶家墓地内には、お久さんのお墓があります。聖無動寺の方によると、いまもときおり、勝海舟の足跡をたどって、お久さんのお墓をたずねてくる方がいらっしゃるとか。お久さんが静かに眠るその墓地は、長崎の街や港を見渡す高台にあります。お墓に手を合わせ、そこからの景色を眺めていると、海舟とお久さんの恋が確かにこの街で育まれたことを強く感じるのでした。  ところで、聖無動寺は、出島のオランダ人とは非常に関わりのあるお寺で、オランダ船の航海安全の祈祷をしたり、江戸参府の際には、一行のために海陸の安全を祈願した守り札を贈るなどしていました。また、出島の火災時には、オランダ人の避難場所でもありました。のちに原爆で大きな被害を受けており、当時の面影は参道の階段、そして安全祈願の石灯篭などに残されているようです。 海舟は、万延1年(1860)に、咸臨丸艦長としてアメリカに渡りました。そして、万治1年(1864)には、四国(イギリス、アメリカ、フランス、オランダ)連合艦隊による砲撃を阻止するために、各国公使との談判の命を帯びて、再び長崎を訪れています。このとき、海舟に同行した門下生の中に坂本龍馬がいたのです。このときの宿泊先は海舟の日記によると福済寺。聖無動寺のお隣の寺です。どうやら筑後通り界隈は、海舟にとてもご縁のある通りのようです。◎取材協力/聖無動寺(長崎市筑後町)

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  • 第324号【幕末の志士らの足跡をたどる~龍馬編~】

     日中の気温が15度(3月中旬並)を超える日もあるなど、にわかに春めいてきた長崎。日本気象協会の予想によると今年は全国的に暖かな春で、桜の開花も早まるのだとか。長崎の市街地に近い桜の名所の山々を眺めると、樹皮の下で開花の準備が着々と進んでいるのか、桜の幹や枝がほのかに赤く染まって見えます。 そんな長崎の桜の名所のひとつに風頭山(かざがしらやま)があります。長崎の街や港を見下ろすその山には、坂本龍馬(1835~1867)の像があることでも知られています。日本の洋々たる未来へ思いを馳せるかのように外洋を見つめるその姿は、等身大の龍馬を彷佛させ、幕末の風雲児の底知れぬ魅力も伝わってくるようです。今回は、この像を出発点にして、龍馬の長崎での足跡をたどってみたいと思います。 龍馬が初めて長崎にやって来たのは、天保6年(1864)のこと。勝海舟(当時、幕府軍艦奉行並)の長崎出張の同行で、1カ月ちょっと滞在したと伝えられています。このときは長崎奉行所、長崎製鉄所、大浦の居留地にあった外国領事館などを訪ねたそうです。龍馬にとって初めての長崎は、相当なインパクトを与えたはず。このとき、近代日本の未来像を明確に頭の中に描いたのかもしれません。その後、はからずも晩年となった約4年の間に、龍馬は断続的に長崎を訪れ、特異な足跡を残すことになるのです。 風頭山を少し下ると伊良林(いらばやし)という地区に出ます。ここには、土佐藩を脱藩した龍馬とその同志らが設立した日本初の商社「亀山社中」(のちの海援隊)の跡があります。ここで海運・貿易を行いながら、倒幕運動にも参画。龍馬は維新の原動力としての大役を果たし、近代日本のはじまりに貢献していくのでした。 「亀山社中」跡から寺町通りへ下る階段は、社中のメンバーが往来したということで、「龍馬通り」と称され、親しまれています。その傾斜も急な長い坂段の途中には、「龍馬の片腕」といわれた近藤長次郎をはじめ陸奥宗光、沢村惣之丞、長岡譲吉、中島信之など亀山社中、海援隊で行動を共にした男たちに関する説明版が掲げられてます。幕末当時、同じ坂段を彼らはどんな思いで登り降りしたのでしょう。 「龍馬通り」のある寺町の近所には、幕末当時、龍馬をはじめ長崎を訪れた著名人らを撮影した上野彦馬(日本初の商業写真家)の撮影局跡もあります。場所は、中島川上流の阿弥陀橋にほど近いところ。ということは、この中島川界隈も龍馬をはじめ長崎を訪れた幕末の志士たちが闊歩したエリアであると想像できます。 長崎駅からほど近い五島町は、江戸時代、各藩の蔵屋敷が軒を連ねたエリアです。そのエリアにほど近いところに土佐藩士で藩政に関与していた後藤象二郎の仮住まいの跡があります。後藤象二郎は、慶応3年(1867)龍馬と長崎で会談。意見が一致し海援隊が組織され、土佐藩を倒幕派へと導きました。 長崎を歩けば、近代日本の夜明けに奔走した男たちの姿があちらこちらに見えかくれするから面白い。次回は、勝海舟を中心とした史跡をご紹介します。

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  • 第323号【2009長崎ランタンフェスティバル好評開催中】

     長崎の冬の風物詩、「長崎ランタンフェスティバル」が開幕しました。中心市街地は、朱色、桃色、黄色のランタンに埋めつくされ、アジアンチックなオブジェがあちらこちらでお出迎え。ランタンの幻想的でやさしい灯りに導かれるようにして歩けば、どこか架空の国に迷い込んだかのよう。いつの間にか煩雑な日常を忘れ、明るい気分になってくるから不思議です。 旧暦のお正月を祝う、「長崎ランタンフェスティバル」。今年は1月26日(月)から2月9日(月)まで開催されます。中心市街地に点在する会場6カ所(湊公園・中央公園・唐人屋敷・興福寺・浜んまち・鍛冶市)では、今年も中国獅子舞、中国雑技、龍踊り、二胡の演奏など中国色豊かな催しが毎日、行われます。各催しはだいたい夕方近くからはじまりますが、各所で配付されている「長崎ランタンフェスティバル」のチラシやインターネットなどでイベントスケジュールをチェックしてお出かけになれば、見逃すこともありません。 毎年、大勢の来場者が楽しみにしているのが、メイン会場の湊公園に設けられる干支の巨大オブジェです。丑年の今年は、「富みの牛」を意味する「金牛(キンギュウ)」のオブジェが飾られています。激流を登る鯉と、金牛に乗った中国の貴士の姿をあらわした吉祥図の構成で、その貴士は昔、中国にあった「科挙」という高級官僚登用試験で、厳しい競争を勝ち抜き、筆頭合格した人物だとか。受験シーズンでもあるこの時期、高さ8.4mもあるこの縁起のいいオブジェを見上げれば、受験を勝ちぬく勇気が湧いてくるかもしれませんね。 ちなみに、干支の巨大オブジェが作られるようになったのは12年前の虎年から。今年で12支が揃ったことになります。昨年子年のオブジェは浜市アーケードの出口の鉄橋に、亥年のオブジェは長崎市役所前にと、各所に設けられているようです。ご自分の干支を探してみてるのも楽しいかもしれません。 ところで、全部で1万5千個ものランタンを使用する「長崎ランタンフェスティバル」。今年からエコな取り組みも少しずつはじまっています。新地中華街に飾られる朱色のランタンの内500個が、白熱灯から省エネ型の電球型蛍光ランプに取り替えられたのです。明るさはほとんど変わらず、消費電力は少なくなって排出CO2を削減、電球の寿命も長くなりました。これは地元企業の三菱電機オスラム株式会社、三菱電機住環境システムズ株式会社から提供されたものだそうです。新地中華街へお越しの際は、ぜひ、エコなランタンのことを思い出してください。 カップルに人気の縁結びの神様「月下老人」のオブジェ(浜市アーケード・浜屋百貨店前)をはじめ、歴史ある唐人屋敷での「ロウソク祈願四堂巡り」、土日に開催される「皇帝パレード」や「媽祖行列」、そして眼鏡橋界隈の黄色いランタン飾りなど、今年も見どころ満載です。一番星が輝きはじめる頃、灯りはじめるランタンの景色は、本当に美しいものです。ぜひ、長崎へ足をお運びください。◎ 取材協力/長崎ランタンフェスティバル実行委員会

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  • 第322号【長崎ことはじめ(東山手~南山手)】

     1月15日を中心としたこの時期は「小正月」と呼ばれ、1年の邪気を払う行事として小豆粥を食べる地域もあります。江戸時代の長崎でも、小豆と供えていた餅を割り入れた粥を炊いて食べていたようですが、現代、そうした家庭はずいぶん少なくなったようです。小豆もお餅も食べると不思議に力がわきます。小豆粥は、もっとも寒いこの時期を乗り切るための先人達の知恵だったのでしょう。 さて、今年最初のテーマはお正月らしく「ことはじめ」にちなんだ記念碑をご紹介します。これまで当コラムでもずいぶん取り上げてきましたが、長崎には「日本で最初」といったものがたくさんあります。街角にはそういった記念碑が各所に設けられているのですが、意外に見過ごされているようです。無言でひっそりと建つ「碑」そのものは地味ですが、観光地におけるゆるぎない記念撮影スポットであることに変わりありません。訪ね歩けば、「あら、こんなところに!」「やっと見つけた!」といった小さな感動ももれなく付いてきます。 今回は、観光客の皆さんがよく訪れる東山手、南山手界隈からピックアップしました。ひとつめは「近代塗装伝来の碑」。新地中華街そば湊公園内の一角にあります。碑文には、「わが国における本格的なペイント塗装は幕末より明治初年にかけて導入された洋風建築にはじまっているが、長崎出島のオランダ屋敷内では18世紀中頃すでに一部の建物にペイント塗装が行われていた。…」とあります。碑を建立したのは日本塗装工業会九州支部連合会とあります。なるほど、この碑は知る人ぞ知る、けっこうマニアックな碑といえるかもしれません。 湊公園からほど近い「大浦海岸通り」一帯は、かつて外国人居留地だったこともあり、「日本初」に限らず、近代日本の歴史を刻んだ碑が特に多い地域といえます。「我が国鉄道発祥の地」と刻まれた碑もそのひとつです。慶応元年(1865、英国人貿易商トーマス・グラバーが、この海岸沿いに数百メートルのレールを敷き蒸気機関車を試走させたことを記念した碑で、碑文によると、このアイアン・デューク(鉄の公爵)号という英国製の蒸気機関車は、日本の近代化まで牽引したとありました。機関車ファンならずとも、日本ではじめてレールが敷かれたこの海岸沿いを一度は訪れてほしいです。 この「大浦海岸通り」から徒歩数分でグラバー園のふもとへ出ます。お土産屋さんが連なる坂の下にある「ホテル」の前に、「わが国ボウリング発祥の地」という比較的新しい碑が建っています。ボウリングのピンとボールが型抜きになったおしゃれな碑で、平成15年(2003)に日本ボウリング場協会によって建立されたものです。説明文によると、日本最古のボウリング場「インターナショナル・ボウリング・サロン」が幕末の文久元年(1861)6月22日にここ大浦に開業されたとありました。当時、新装開店を告げる新聞広告も、日本で初めての英字新聞「ザ・ナガサキ・リスト・アンド・アドバタイザー」に掲載されたそうです。 ちなみにボウリング発祥の碑は、いつ頃からのものかわかりませんが、もうひとつ古いタイプが、「ホテル」横の坂道のお土産屋さんの一角に残っています。この「ホテル」の前には、ほかにも「国際電信発祥の地」「長崎電信創業の地」といった、ことはじめの碑が建立されています。幕末・明治期、この一帯はある意味、磁場のような存在となって、時代のうねりを生み出していたのかもしれません。 本年もいろんな視点で長崎の魅力を発信したいと思っています。どうぞよろしくお願い申し上げます。◎参考にした本/長崎事典~風俗文化編~(長崎文献社)

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  • 第321号【家族の絆を深める雑煮】

     きょうはクリスマス・イヴ。気のおけない友人や家族と和やかなひとときを過ごせたらいいですね。クリスマスが過ぎるといよいよお正月の準備も大詰め。店頭はどこも、お正月関連の品々でいっぱいです。八百屋などでは長崎の雑煮に欠かせない唐人菜(長崎白菜)やくわいが待ってましたとばかりに店先に姿を現しました。 雑煮といえば、地方色が多彩なことで知られています。おおまかに分けると、東は角餅ですまし仕立て、西は丸餅で味噌仕立てとよく言われます。長崎は、丸餅ですまし仕立てなので、東西混合のパターンというべきなのでしょうか? 雑煮がお正月の定番になったのは、室町時代だといわれ、江戸時代の末期になると、多くの庶民が雑煮でお正月を祝っていたとか。前述の「東は角餅で…、西は丸餅…」というのも、江戸時代中期には、すでにそういうスタイルであったことが当時の関西人、関東人によって記されているそうです。 雑煮に入れるお餅も地域や家庭によって、角餅や丸餅を、焼いたり、焼かずに煮るなどさまざまです。中でも珍しいのは四国の香川県で、小豆のあん餅を使います。あんが白味噌仕立ての汁によく合うのだそうです。また、北関東から東北地域にかけて、餅を入れない地域もあり、里いもや大根などの根菜類などを煮た雑煮を食すとか。雑煮にはその地域独自の風俗・風習が色濃く残っているようです。 さて、長崎の雑煮は具だくさんで知られています。ブリ、伝統野菜の唐人菜、丸餅を基本に、鶏肉、かまぼこ類(紅・白・昆布巻)、大根、にんじん、ごぼう、里いも、くわい、しいたけ、たけのこ、きんこ(乾燥ナマコ)、卵焼など多いところでは全部で13種くらいがお椀に入ります。それより少なくても、具材の数は祝いをあらわす奇数にするのが決まりです。 同じ長崎でも、やはり地域や家庭ごとに特色がありました。その昔、捕鯨が盛んだった長崎県北部出身の知人は、子どもの頃の雑煮には鯨肉が入っていたといいます。長崎の市街地でもそうしたお宅がありました。いまでは高価になった鯨肉ですが、お正月料理の食材として欠かせないお宅も多いようで、この時期、長崎の鮮魚店や精肉店などでは鯨肉が目立つ場所に並べられています。 全国には長崎のように具材が多い地域もあれば、シンプルにお餅と青菜だけという地域もあります。今回、参考にするために地元や県外の友人たちと電話やメールで雑煮の話をしました。餅の形や具材の種類の違いに驚かされたりしながら、おおげさにいうと、日本の食文化の奥深さをしみじみ感じました。 その中で、地元ではなくお祖母さんの出身地の雑煮をつくっているとか、嫁ぎ先の具材が実家と違っていてカルチャーショックを受けたとか、お嫁さんが来てからちょっと具材が変わったなどの話がありました。雑煮には、脈々と受け継がれる家族の歴史も込められているようです。年のはじめ、そんな雑煮を一緒に食べることは、家族の絆を大切にすることなのだとあらためて思いました。 今年もご愛読いただきありがとうございました。どうぞ佳い年をお迎えください。◎参考にした本/日本の「行事」と「食」のしきたり(新谷尚紀 監修/青春新書)、全集・日本の食文化第12巻~郷土と行事の食~(雄山閣出版)

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  • 第320号【天草のキリシタン文化を訪ねて(2)】

     赤と緑のクリスマスカラーが目立ちはじめた街角。忘年会やパーティーの季節ですね。自慢の手料理でいつも仲間をもてなしてくれる友人が、「人が集うときのいちばんのごちそうは、『会話』なのよ」と言っていました。この冬のみなさんのさまざまな集いが、温かく楽しいものでありますように。 さて、先週に引き続き「天草史跡見学会」の後編です。一行は、天草下島をさらに南下し、山あいにある大江天主堂(天草市天草町大江)を訪れました。大江はキリシタンの里のひとつで、人々は厳しい迫害の時代もひそかに信仰を守り続け、明治になって信仰の自由が得られると、いちはやく教会を建てました。現在の白い教会は、昭和8年にフランス人のガルニエ神父が私財を投じて建てたもの。五足の靴の一行は、天草弁を話すこの神父に温かく迎えられたといいます。大江天主堂のそばには、「天草ロザリオ館」があり、かつてのキリシタンの暮らしや信仰の様子を伝える遺品や資料が展示されていました。 大江をあとにして海沿いのルートを辿ると、ここもキリシタンの里である崎津に出ました。波静かな湾のほとりに建ち並ぶ民家。その路地裏を歩くと突如として、ゴシック様式の崎津天主堂(天草市河浦町崎津)が現れます。明治以降、教会は3度建て直されており、現在の教会は昭和9年に建造されました。禁教の時代、この場所には庄屋があり、毎年踏み絵が行われていたそうです。ちなみに、長崎の浦上天主堂も踏み絵が行われた庄屋跡に建てられています。 昼食は島の小さな旅館でいただきました。野菜や魚介類など新鮮な地元の食材を使い、手間ひまをかけて作ってくれたごちそうです。天草の郷土料理、「せんだご汁」もありました。これは、宣教師が伝えたといわれる料理で、野菜の旨味がたっぷりのコクのある汁に、モチモチとしたのジャガイモの団子が入っています。長崎にはありそうで、ない料理です。地元の海で採れる緋扇貝(ひおうぎがい)の刺身もいただきました。オレンジや黄、紫のカラフルな貝殻で、ホタテ貝のような味わいでした。 ところで前回、地理的にも近い天草と長崎は何かとゆかりがあるという話をしましたが、江戸時代初めに起きた天草・島原の乱以後、天草は天領になりますが、同じく天領であった長崎とは、往来がしやすかったという話を聞きました。また、天草はもともと肥後国(熊本)ですが、明治に入ると一時期、長崎府や長崎県の管轄に入ったこともあったそうです。 一行は「天草コレジオ館」(天草市河浦町)を訪れました。「コレジオ」とは英語で言う「カレッジ」のこと。16世紀末、宣教師養成を目的とした神学校の最高学府「天草コレジオ」が、この地にあったといわれ、印刷や音楽など当時のヨーロッパの進んだ技術や文化も伝えたそうです。天正遣欧使節の伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアンも、帰国後の数年間、ここで学んでいます。館内には、当時もたらされた印刷機や西洋楽器などが展示されていました。 このあと、天草市本渡地区へ移動し、天草四郎率いる一揆軍の軍旗として使用された「天草四郎陣中旗」(国の重要文化財)を展示した「天草切支丹館」、45脚もの角柱で支えられた珍しいアーチ型石橋「祇園橋」、勝海舟が二度訪れ、本堂の柱に落書きした跡が残っている「鎮道寺」なども見学。小さな島ですが、一日では巡れないほど見どころが多彩。長崎と似ているけどちょっと違う雰囲気を感じるキリシタンの歴史を振り返りながら、再び船に乗り帰路についたのでありました。

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  • 第319号【天草のキリシタン文化を訪ねて(1)】

     早いもので、あと数日で師走ですね。長崎では、先週あたりから急に冷え込んで、街行く人々は厚手のセーターやコートに身を包みはじめました。気温が低くなるほどに、ますます食べたくなるのが、温か~いちゃんぽんです。夕暮れの帰り道、木枯らしが運んでくる夕飯のちゃんぽんの匂いは、気持ちがなごむ幸せの匂い。今日も、長崎の街角に漂っています。 さて、今回は11月8日に行われた長崎日本ポルトガル協会・長崎歴史文化協会共催の「天草史跡見学会」を通して、キリシタンにまつわる天草の歴史風土をご紹介します。天草は、天草灘を隔てた長崎県の南東部に位置する熊本県の島です。正確には「天草諸島」といって、天草上島、天草下島、御所浦島などの島々で構成されています。今回の見学会では天草下島を巡りました。 天草は、距離的に近いこともあり、長崎とは何かとご縁があります。よく知られているのは、幕末の長崎の開港にともなう南山手や東山手の外国人居留地の造成にまつわる話です。石畳や護岸用の多くの石材は天草産が使用されているのです。石工も天草の方々が多く活躍したそうです。「天草史跡見学会」の参加者(約30人)は、長崎市の茂木港からフェリーで天草・富岡港へ渡りました(所要時間70分)。ちなみにこの茂木~富岡のルートは、今から約100年前の明治40年、世に言われる「南蛮ブーム」の先駆けとなった「五足の靴」と呼ばれる若き文豪たち(与謝野鉄幹・北原白秋・吉井勇・木下杢太郎・平野万里)が、長崎から天草へ渡ったときと同じルートです。 富岡港からバスに乗り込み、島の西海岸沿いを南下。美しい海原やのどかな里山が連なる景色が続き、途中、何度も細く小さなトンネルを抜けて行きました。かつては、島内の隣の地区との往来も海路を利用したであろうと容易に想像できるほど、小さな山が入り組んでいます。「隠れキリシタンの里」と呼ばれる地域がこの先にあることがうなずけるような気がしました。参加者の中に、山登りが趣味という方がいらして、「天草の山は低くて簡単に登れそうに見えるけど、意外に難所が多いんですよ」とおっしゃっていました。 そんな天草に、キリスト教が伝えられたのは、ザビエルが日本に初めてキリスト教を伝えてから17年目の1566年(永禄9)のこと。ポルトガル人宣教師ルイス・アルメイダが、この天草下島の北部(富岡港を擁する苓北町あたり)を治める志岐氏に招かれて来たといいます。当時、天草は志岐氏を含む5人がそれぞれの領地を支配していましたが、中でも最も有力だったのが志岐氏でした。その領民500人は、またたく間にアルメイダの洗礼を受け、クリスチャンになったと伝えられいます。  一行が乗せたバスは、東シナ海に沈む夕日の絶景スポットとして知られる十三仏公園へ。国の名勝・天然記念物に指定された「妙見浦」と呼ばれる海岸の風景を楽しみました。公園内には、夕日を夫婦で堪能した与謝野夫妻の歌碑もありました。与謝野夫妻は昭和7年に子どもを伴ってこの地域の庄屋をつとめた上田家に宿泊しており、600坪の敷地に、7代目当主が1815年に建てたという日本家屋は文化材として大切に保存されていました。(次回に続きます)

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  • 第318号【フランスの家庭に伝わるケーキのお店「リトルエンジェ ルズ」】

     北の各地から初雪の便りが届きはじめています。南国・九州の長崎はまだ秋うららの過ごしやすい日が続き、街路樹も最近になってようやく本格的に色づきはじめたばかりです。秋の観光シーズン真只中ということもあり、きれいな紅葉が舞う石畳の街を、旅行者や修学旅行生たちが楽しそうに行き交っています。本当に美しい長崎の秋、あなたもぜひお出かけください。 今回は、長崎の小さなケーキ屋さん「リトル・エンジェルズ」をご紹介します。全国のスイーツファンの間では、つとに有名なお店で、中でもチーズケーキ「フロマージュ」と「クレームブリュレ」は、雑誌やTVでも紹介されるほどの人気商品。長崎の繁華街の一角にある「リトルエンジェルズ・万屋店」(長崎市万屋町)には、地元客はもちろん、観光客の方々や修学旅行中の学生さんなどの姿が後を絶ちません。 タルトやムース、クッキーなど多彩な洋菓子が揃った「リトル・エンジェルズ」。そのおいしさを生み出しているのは、パティシエのフランス人マダム、ベレニスさんです。15年前、長崎に嫁いで来たのをきっかけに、この街でケーキ屋さんを開店しました。「フランスの家庭には、祖母から母、そして子どもへと受け継がれるお菓子のレシピがあります。そんなフランスの豊かな食文化を日本の皆様へお伝えしたいと思ったのです」とベレニスさん。故郷ロワール地方で過ごしていた頃は、お母さんや妹さんたちと、新鮮な卵や牛乳、そして庭や近くの森から摘んできた季節のフルーツを使ってお菓子作りを楽しんでいたそうです。 「素材には徹底してこだわります」というベレニスさん。たとえば、人気商品のチーズケーキ「フロマージュ」も「クレームブリュレ」も、旭川産の牛乳と長崎の契約農家から届けられる新鮮な卵を使用。チーズケーキ「フロマージュ」は、直火でじっくり時間をかけて焼き上げられ、素材の風味豊かな上品でクリーミーな味わいです。「クレームブリュレ」は、香ばしく焼き上げた表面のキャラメルと、その下のなめらかなクリームが絶妙のバランス。バニラビーンズの甘い香りに思わずうっとりしてしまいます。 ベレニスさんのお菓子作りの思い出のひとつに、クリスマスケーキがあります。「クリスマスの一ヶ月前から、何度もケーキを作る練習をさせられました。そんなふうにして、いつの間にかケーキ作りのコツや勘を養っていたようです」。当時はクリスマスになると、親せきや友人など総勢40人近くが集まり、おおいに語らい賑やかに過ごしたとか。手作りのケーキと、フォアグラ、生カキ、エスカルゴなどおいしいメニューを囲んで過ごしたアットホームなひととき。深夜、教会から帰ると、ツリーの下には家族一人ひとりへのプレゼントがそっと置かれていたそうです。 クリスマスの夜は、毎年うれしさのあまりなかなか寝つけなかったというベレニスさん。そんな人との絆や愛があふれる思い出がつまったクリスマスケーキが、この冬も「リトルエンジェルズ」から期間限定で発売されます。新鮮な牛乳をたっぷり使った真っ白なムースに、木苺や苺をミックスをしたフルーティーな味わいが爽やかな「レーヌ・ブランシュ」と、甘さ控えめのチョコレートムースに香ばしいヘーゼルナッツやサクサクのフィヨンティーヌが入った「チョコレート・ムース・シャモニクス」の2タイプ。ケーキの上のサンタクロースやキノコなどの飾りは、買った方がご自分で好きなように飾れるという小さな楽しみがあります。 今年のクリスマス、洋菓子の本場フランスが香る「リトルエンジェルズ」のケーキを味わってみませんか?

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  • 第317号【おいしい『南蛮』あれこれ】

     爽やかな秋空の日が続いています。晴天を利用して虫干しを済ませた方もいらっしゃることでしょう。東日本では各地で紅葉が見られはじめたようですが、長崎はまだちょっと早いよう。これからしだいに深まる秋。美しい季節をしっかり満喫したいものですね。 さて、秋は食欲の季節でもあります。先日、魚屋さんで体長12~15センチほどの小アジを手に入れました。そこのおかみさんによると、マアジは春から夏にかけてよく出回るそうですが、小アジはちょうど今頃だそう。大衆魚で一年中あるものと思っていましたが、やはりそれぞれ旬があるのでした。 新鮮な魚介類がふんだんの長崎。この日の小アジは10匹180円でした。刺身で食べる方も多いのですが、わが家では、もっぱら南蛮漬けです。ぜいご、はらわた、えらを除いて、小麦粉をまぶしてカラリと揚げ(素揚げでもいい)、酢・砂糖・だし汁・醤油・唐辛子などで作った三杯酢にジュッと漬け込みます。味がしみ、骨までやわらかくなったらいただきます。アジはほかの魚と比べてカルシウムが豊富。頭から丸ごといただける南蛮漬けは特におすすめなのです。 南蛮漬けといえば、長崎の郷土料理には「紅さし」の南蛮漬けがあります(当コラム169号でもご紹介してます)。小アジの南蛮漬けと同じ作り方ですが、「紅さし」独特の風味があり、微妙に味わいも違います。 小アジの南蛮漬けに舌鼓を打ちながら、ふと思ったのは、「南蛮」とは一体何なのかしら?ということ。食べものでほかに「南蛮」の言葉が付くものは、カレー南蛮とか、鴨南蛮があります。いずれも、ネギや唐辛子などでピリ辛風味。また、宮崎県のローカルフードとして有名な「チキン南蛮」、東北あたりでは、江戸時代からの郷土料理で、ニンジンやゴボウ、トリ肉を刻んで唐辛子でピリ辛に味付けした具が入った「南蛮もち」というものがあるそうです。同じ「南蛮もち」でも関西あたりでは、クルミが入りのもちをそう呼ぶところもあるとか。 カステラやボーロなどは総称して南蛮菓子と呼ばれます。さらに食材では、赤唐辛子、トウモロコシ、カボチャなどが「南蛮」の別称を持っています。当社のホームページに掲載している「長崎の食文化」(越中哲也氏著)の中の「西洋料理編(一)」によると、南蛮料理は、我が国初期の西洋料理のことで、「南蛮人(ポルトガル人やスペイン人)が伝えたからそう呼ばれるようになったとのこと。とにかく、「南蛮」という名が付いたものは、その昔、西洋や東南アジアなどから海を渡ってきた食材だったり調理法だったりするものをいうわけです。 「南蛮料理のルーツを求めて」(片寄真木子著)という本によると、ポルトガルには今も、小アジによく似た魚を使ったまさに日本でいう南蛮漬けとそっくりの「エスカベージュ」という料理があるそうです。小魚を油で揚げて酢に漬け込むという調理法もやはり、もともとは日本にはなく、南蛮船が長崎にやってきた時代に伝えられたとされているといいます。 カステラのルーツといわれる、「パン・デ・ロー」もポルトガルですし、ほかにもきっとポルトガルをルーツにした日本の食があるはず。「南蛮」といいながら実は戸唐(中国)がルーツだったりするものもあるよう。「南蛮」が付く食べものは、まだまだ面白い発見がありそうです。◎参考にした本や資料/「南蛮料理のルーツを求めて」(片寄真木子著)、長崎の食文化「西洋料理編(一)」(みろくやHPより)

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  • 第316号【2008年の長崎くんち】

     秋祭りのシーズンです。長崎も今、370余年の歴史ある諏訪神社の大祭「長崎くんち」が華やかに開催中です。前日(まえび:10/7)、中日(なかび:10/8)後日(あとび:10/9)と3日間あって、きょうは中日。「長崎くんち」独特のシャギリ(笛と締め太鼓が奏でる囃子)の音色が響き渡って、街はまさに「長崎くんち」一色といった感じです。 今年も当番の「踊町」が一生懸命に自慢の奉納踊りを披露しています。「踊町」は、長崎市内に約60町近くあって、その当番は7年に1回めぐってきます。今年は、新橋町(しんばしまち)、諏訪町(すわまち)、新大工町(しんだいくまち)、金屋町(かなやまち)、榎津町(えのきづまち)、西古川町(にしふるかわまち)、賑町(にぎわいまち)の7カ町。各町の奉納踊りをご紹介します。 新橋町は、本踊り「阿蘭陀万歳(おらんだまんざい)」。大道芸人風の派手やかな衣装に身を包んだ異人さん2人が、コミカルでユーモアが感じられる踊りを披露。長崎ならではの異国情緒が感じられます。 諏訪町の奉納踊りは、「龍踊り」です。青龍(せいじゃ)と白龍(はくじゃ)の2頭の龍が登場し、ダイナミックな踊りを見せてくれます。白龍は、諏訪神社の「つかい者」が白蛇であることに由来しているとか。かわいらしい子供の龍、孫の龍も見逃せません。 新大工町は、「詩舞」と「曳壇尻(ひきだんじり)」。詩舞の題目は「祝賀の詞 坂本龍馬を思う」。龍馬は幕末、長崎にやってきて亀山社中を立ちあげるなど、長崎とゆかりの深い人物です。男衆が力いっぱい引き歩く「曳壇尻」は、3トンもの重さ。それを豪快にグルグルと引き回す様子は圧巻です。 金屋町は、7年前にも好評だった本踊りで「秋晴勢獅子諏訪祭日(あきはるるきおいのししのすわのまつりび)」を披露。2匹の獅子のコミカルな動きが見物です。1匹の中に前足、後ろ足と女性2人が入り、息を合わせて演じます。さらに、ひょっとことおかめも登場するなど、観客を飽きさせません。 榎津町は、上部に鮮やかな紅葉と白菊を配した「川船」を引き回します。ゴロゴロと重い船を引く根曳衆(ねびきしゅう)たちの屈強な姿がかっこいい。船頭役の子供が網を上手く操って、魚を捕らえる姿も見逃せません。 西古川町は、14年ぶりの登場です。この町の伝統である相撲踊りが復活。力士の弓取り式、櫓太鼓(やぐらだいこ)などを披露します。前日(7日)に、長崎市矢上の中尾地区で伝承されてきた西古川相撲道中囃子(長崎県無形文化財)が披露されました。このお囃子の奉納は百数年ぶりだったそうです。 賑町は、その昔、町内に恵比須神社が祀られていたことに由来して、「恵比須船」を奉納します。船には、いけす用の大籠や錨が載せられ、その上にビードロ製の漁網が施されています。また、賑町は中島川に面した町で、古く魚市場があり、材木を商った材木町などが合併されて現在に至ります。船体の材木が目を引く恵比須船にはそんな町の歴史が込められているようです。 10月3日の庭見せも華やかでしたが、やはり本番はこの3日間。きょう明日と、浜町アーケード界隈に出向けば、街を練り歩く「踊町」やおみこしのお上り(9日午後1時から)を見ることができるはず。今からでも間に合いますように!

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  • 第315号【街道を歩く~矢上宿~】

     日中は蒸し暑いのですが、朝晩はけっこう冷んやり。油断してると鼻風邪をひくなど体調を崩しがちです。どうぞ、お気を付けください。今回は、陽射しが柔らかくなったので、ウォーキングをかねて長崎市矢上地区にある長崎街道・矢上宿の歴史散策を楽しんできました。 矢上地区は、長崎駅から東へ車で15分ほど。江戸時代でいえば、長崎から日見(ひみ)の次に来る2番目の宿場町です。ここ「矢上宿」は、長崎街道と島原街道との合流点で交通の要所でもありました。また、日見までは長崎奉行の支配下でしたが、矢上は佐賀藩(鍋島)の支配下にあった諫早氏の領地でした。つまり矢上宿は、長崎の東の玄関口で国境に位置する重要な宿だったのです。 散策は「矢上番所跡」からスタート。「矢上番所跡」は、橘湾の河口にほど近い中尾川にかかる番所橋のそばにありました。往時の矢上番所は、平屋瓦葺きの建物で、頑丈な門があったとか。説明板には、『頭役以下の役人が警備。長崎に向かう武士、留学生、商人など旅人の往来を厳重に監視した』と記されてました。 ちなみに番所橋は、現在はコンクリート造りですが、以前は石造りのアーチ橋で、1838年(天保9)に佐賀藩によって架設されたそうです。かつての諫早領で佐賀藩ゆかりの石橋といえば、本明川にかかる眼鏡橋が有名です。こちらは番所橋の翌年1839年(天保10)に架けられています。諫早の眼鏡橋の屈強さはよく知られており、一説には、日本が諸外国に開国を迫られていたその時代、軍備を整えはじめた佐賀藩の思惑が関係しているといわれていますが、この番所橋もその一連であったのでは?と想像してしまいます。 さて、「矢上宿」の街道は、国道34号線と平行してあり、宿場町らしくほぼまっすぐにのびています。番所橋から矢上宿のゴール地点と定めた教宗寺まで、早足で歩けば、わずか15分足らずの距離。そんな小さな宿場町も、近くの名所旧跡に寄り道しながら歩けば、1時間以上はかかるようです。 「矢上番所跡」から徒歩3分のところにある「諫早領役屋敷跡」。瓦のついた小さな門と木塀に囲まれた趣のある古い民家です。説明板によると、ここは長崎開港によって、近隣の佐賀藩主、諫早領主、肥後藩主との間で、頻繁に報告事項や紛争、願書の処理が生じたため、その執務にあたるために設けられたそうです。  宿場街道から少しそれたところには、大名や幕府関係者が宿泊したり、休憩したという「本陣跡」(現在の長崎自動車学校のところ)がありました。さらに、県下有数のクスの巨木(矢上八幡神社)とも出会いました。 「矢上宿跡」の碑が設けられた矢上神社を経て、いよいよゴールの教宗寺へ。長崎街道に面したこのお寺は、往来者の休憩所として利用されたそうで、1729年(享保14)に象と象使いが宿泊。1826年(文政9)にはシーボルトが休憩・昼食をとったそうです。 橘湾がすぐそばに広がる矢上宿は、中尾川、八郎川、現川川の3本の川にも囲まれています。街道沿いにはいくつもの恵比寿様が祀られていて、この地の人々が古くから川や海と深く関わっていたことを物語っていました。長崎への往来で賑わった江戸時代以前の歴史にも興味がわいた歴史散歩でした。

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  • 第314号【懐かしのサツマイモ料理】

     朝晩がだんだん涼しくなってきました。9月初め、高原の避暑地として知られる島原半島の雲仙で、なんと例年より2ヶ月半早く紅葉がはじまったというニュースが流れました。一方、長崎の市街地は、日中の残暑はまだまだ続いています。しかし、時折吹いてくる冷んやりとした風に、秋めく気配がいつもより早い感じがしないでもありません。とにかく、行楽の秋、収穫の秋が待ち遠しい今日この頃です。 気候が過ごしやすくなると、気分も体調も良くなり食欲が出てきますね。そこで今回は、食物繊維が豊富なヘルシー野菜のひとつ、サツマイモにスポットをあて、昔懐かしい料理をご紹介したいと思います。 荒れ地にも育つ強さのあるサンツマイモ。飢饉を何度も経験した江戸幕府は作付けを奨励。さらに戦後には、食料不足のピンチを救ったことでも知られています。周囲のお年寄りに子供の頃の食事について聞くと、蒸かした「イモ」や「イモ飯」ばかりを食べていたという方が多いようです。当時の「イモ飯」は、イモの占める割合いが多く、アワや米をわずかばかり足して炊いていたそうです。 サツマイモのことを「トイモ(唐芋)」と呼んでいた島原半島あたりでは、「イモ飯」は、「トイモ飯」と呼ばれていました。乱切りにしたサツマイモとアワを一緒に炊くのが基本で、これにお米(または麦)を加え、三種類を混ぜて炊くと「三品飯(さんちんめし)」と呼び名が変わりました。「三品飯」は、農作業が一区切りした時、麦やイモが新しく収穫された時など、暮らしの節目に炊いて食べていたそうです。 さっそく、サツマイモとアワとお米を使って、「三品飯」を作ってみました。お米(2合)とアワ(お米の量の30%くらい)をそれぞれ洗い、サツマイモ(中1本)を一口大に切って、炊飯器へ。水(約3カップ)を入れ、塩小さじ1、酒大さじ1~2を入れて炊き上げます。 炊きあがった「三品飯」は、アワがモチモチ、サツマイモがホクホクっとしておいしい。彩りも秋らしいご飯です。農作業の一区切りとして食べていた当時の人々に思いを馳せれば、お米ひと粒たりとも残しちゃいけないと、あらためて思いながらいただきました。 サツマイモを使った素朴なお菓子「イモ寄せ」もご紹介します。311号でもご紹介した野母半島に伝わるお菓子です。蒸したサツマイモをつぶし、小麦粉、砂糖、ショウガ汁、白ゴマを混ぜてこねたものを、さらに蒸したもので、素朴なイモ羊羹のような味わいです。祝い事や法事など人が集う時に作っていたそうです。「イモ寄せ」は2タイプあって、最後に蒸さずに、こねた材料をフライパンでホットケーキのように焼くパターンもあります。また、よりおいしくするために、白玉粉や卵を加える作り方もあるようです。 サツマイモの日本への伝来については当コラムの208号、また、サツマイモを使った他の郷土食を246号でもご紹介しています。合わせてお楽しみください。◎参考にした本/日本の食生活全集42~聞き書・長崎の食事~(農山漁村文化協会)

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  • 第313号【中島川の生きものとハート・ストーン】

     子供たちの夏休みもそろそろ終わりです。遊びまくって真っ黒に日焼けした親せきの子は今、半ベソをかきながらたまった宿題をかたずけてるところ。自分にも身に覚えのある光景に、思わずニガ笑い。皆さんは、いかがでしたか? この夏休みのはじめ、子供たちと一緒に中島川の水中の生きものを観察する催しに参加しました。中島川は、眼鏡橋などの石橋群で知られ、観光客の方々が多く訪れるところです。この催しで引率の先生から意外な話を聞きました。山あいの清流などにしか生息しないと思っていた「アユ」が、この市街地の真ん中を流れる中島川で8年ほど前から確認されているとのこと。さらに一昨年、これまた水がきれいな環境を好む「シロウオ」も、眼鏡橋から上流3つ目のすすき原橋近くで確認されたそうです。 中島川は思った以上にきれいな流れ。子供たちはザブザブと水の中へ入ったり、石を返したりして観察に夢中。ミナミテナガエビやモズクガニも捕まえました。中島川では他にも、カワムツ、オイカワ、ゴクラクハゼ、キンブナ、ヨシノボリといった川魚もいるそうです。 実はこの催しの2カ月ほど前、眼鏡橋やすすき原橋の近くで、コイの群れに混じって泳ぐナマズを発見。頭の形がコイよりも丸くて平べったく、身体は円筒状でウロコはありません。背ビレは、コイは体長の半分くらいの長さがありますが、ナマズのは小さい。中島川の近所で生まれ育った80代の男性は、「昔は、ウナギがいて、捕まえて食べよった。でも、ナマズがいるとは知らなかった」と驚いていました。 ちょっと話がズレますが、眼鏡橋付近の護岸の石垣にハート・ストーンがあるのをご存知ですか?詳しい人に聞くと、少なくとも10個はあるようです。眼鏡橋を訪れる機会があったら、ぜひ、探してみてください。ナマズもその界隈にいます。 さて、魚類以外で、中島川で見かける水生の生きものにミドリガメがいます。雨上がりなどには、よく甲羅干しをしています。聞けば、ミドリガメは外来種。誰かが飼っていたのを川に放したのだろうということでした。親亀、子亀と背中に乗せて日向ぼっこしている光景はほのぼのとして悪くないのですが、環境保全のことを思うと複雑です。 すすき原橋から、さらに上流5つ目の桃谷橋付近では、青緑の羽が美しいカワセミの姿を一度だけ確認したことがあります。気を付けていると鳥類もいろんな種類を見かけますし、植物も多様です。街の中で、人知れずたくましく生きる生きものたちをまた別の機会にご紹介したいと思います。

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