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  • 第312号【かよこ桜~原爆投下から63年目の夏~】

     「かよこ桜」をご存知ですか?長崎市の城山小学校に植えられている原爆慰霊の桜のことです。春には満開の花びらを優しく散らし、夏には緑の葉を生い茂らせ、校庭の一角に涼しい木陰をつくりだしています。「この桜は、昭和20年8月9日、長崎に落とされた原子爆弾で、15才の若さで亡くなった林嘉代子さんゆかりの桜です。いつの頃からか、かよこ桜と呼ばれるようになりました」とお話をしてくださったのは、田中安次郎さん。自らも3才の時に長崎で被爆し、現在、平和案内人のひとりとして修学旅行生らを対象に、原爆の恐ろしさと平和の大切さを伝える活動を続けていらっしゃいます。 田中さんのお話によると、当時の嘉代子さんは長崎県立高等女学校4年生。学徒報国隊員のひとりとして城山小学校で働いていたときに原爆にあいました。城山小学校(当時、城山国民学校)は、爆心地からわずか500メートルほどしか離れていない丘の上にあり、この時、1,400人あまりの児童が尊い命を失っています。 嘉代子さんのご両親は、爆心地から少し離れたところにいたので、かろうじて難を逃れました。惨状の中、連日、歯並びに特長のあった嘉代子さんを必死で探し回るお母さん。原爆が落ちてから22日目にやっと校舎のがれきの中で、亡きがらを見つけ出すことができました。そして、原爆から4年後、お母さんは、娘さんや一緒に亡くなった女学生の慰霊と平和への願いを込めて、50本の桜の苗を城山小学校に植えさせてもらったのでした。 田中さんは、今年春から『かよこ桜植樹100円募金』の活動を仲間とともにはじめました。「かよこ桜はソメイヨシノ。そろそろ寿命のようで、今は6本しか残っていません。この桜の平和を願う心を後世に伝えるために、かよこ桜の2世をみんなの募金で植樹したいのです」といいます。 田中さんが『かよこ桜植樹100円募金』の活動をはじめたのには、もうひとつ大きな理由がありました。それは、原爆の話をいまの子供たちにしても、なかなか伝わらず、危機感を感じていたからだといいます。「いまの子供たちにとって原爆の話は、江戸時代のように遠い過去の物語で、現実にあったものとして感じてもらえない。時間の経過とともに、戦争や原爆の怖さが伝わりにくくなっていることを痛感していたのです」。 これではいけない、どうしたらいいだろうと思っていたある日、「子供たちの年齢に近い嘉代子さんの話なら、子供たちに伝わりやすいと直感したのです」。嘉代子さんとお母さんのお話は、「かよこ桜」(山本典人著)という児童向けの本にもなっています。そこには、親が子を思う気持ち、子が親を慕う気持ちが描き出され、何度も胸があつくなります。 『かよこ桜植樹100円募金』の初年度となる今年は、ソメイヨシノ50本分の植樹をめざしていて、すでに10数本分の寄付が集まり、来年早々、長崎市内の小・中学校などに植樹されることが決まっているそうです。「これからも地道に活動を続け、平和の象徴であるかよこ桜の植樹を長崎から全国へ、そして世界へと広げていけたらと思っています」。 広島、そして長崎に原子爆弾が投下されたあの夏から63年が経ちました。被爆した方々は高齢となり、原爆の恐ろしさと平和の尊さを伝える語り部の方々も少なくなってきています。いま、できることをやらなければ、という田中さんの真剣な思いが伝わってきます。

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  • 第311号【長崎半島の海水浴場を訪ねて】

     夏といえば、海水浴。テレビゲームがなかった時代、海辺の小さな漁村で育った友人は、毎日のように素潜りを楽しみ、友だちと泳ぎまくっていたそうです。大人になって都会で暮らすようになると、海はいつの間にか遠い存在に。潮の匂い、海底の美しい砂模様、海中で出合った魚たち。今も忘れられない子供の頃の海体験は、大切な宝物だと話してくれました。 きれいな海に囲まれた長崎は、海水浴場も近場にいっぱい。長崎駅のある市中心部から車で30~60分であちこちに点在するお気に入りのビーチへ行くことができます。今回はその中から九州本土西南端に位置する長崎半島(野母半島)の海水浴場をご紹介します。 長崎半島は、長崎市街地から南西に伸びた半島で、緑豊かな山が連なり、周囲は五島灘、東シナ海、橘湾、天草灘と美しい海に囲まれています。長崎半島の先端にあたる地域は「野母崎」と呼ばれ、対馬暖流の影響もあって、気候は年間平均気温18度の温かさです。道路を走る車両の数は少なく、あたりは鳥の鳴き声や波音に包まれています。ここに、「脇岬(わきみさき)海水浴場」という長崎県でも最南端に位置するビーチがあります。周囲には、ハマユウが自生、さらにヤシ類など亜熱帯植物も植栽されていて、南の島のような雰囲気が漂っています。 「脇岬海水浴場」は、1、3キロメートルも続く白砂のビーチ。環境省が水質が良好で快適な水浴場として選定した「日本の水浴場88選」にも選ばれています。毎年、夏休みになると家族連れや若者たちを中心とした海水浴客で大賑わい。波がいいらしく、夏場以外でもサーファーたちの姿が見られます。波打ち際を歩けば、小さな貝殻やきれいな石ころがいっぱい。お気に入りの貝殻を集めて、名前を調べれば、夏休みの作品が一丁あがりです。 「脇岬海水浴場」から背後の山間へ向かって5分ほど歩くと、石崎融思や川原慶賀らが描いたとされる天井絵などで知られる観音寺があります。和銅2年(709)に開かれたという由緒あるお寺で、江戸時代には、「みさき道」と呼ばれる長崎から半島の先端にあるこの地までの道を通って、多くの人々が参拝に訪れたといいます。その昔、中国船が長崎へ入港する際、風待ち港として利用したといわれるこの地の港。このお寺で、航海の安全が祈願されたようです。 「脇岬海水浴場」から海岸沿いの道路を10数分ほど北上したところに、小さい子供連れの家族に人気の「高浜海水浴場」があります。延長約800メートル、波静かな遠浅の美しいビーチで、「日本の渚百選」、「日本の水浴場88選」、「快水浴場百選」に選ばれています。沖合いには真正面に端島(軍艦島)を望み、その光景を見るためにわざわざ訪れる観光客もいます。  「高浜海水浴場」の海水は、透明度が高くて本当にきれいです。聞くところによると、ウミガメの産卵もみられるそうです。この海水浴場も「脇岬海水浴場」と同じく、背後に緑の山が控えていました。山が豊かだと、海も美しいということを実感できます。ここで桟敷きを営業している方が、背後の山のひとつを指差して、「あれが、殿隠山(とのがくれやま)ですよ。歴史好きの人たちがときどき来てるみたい」と教えてくれました。ここ高浜地区には、鎌倉時代、関東から下向してきた深堀氏にゆかりの正瑞寺があり、「そのお寺に地蔵菩薩像という有名なお地蔵さんが安置されているんですよ」とのこと。どうやら、この界隈、興味深い歴史がいろいろありそうです。海水浴シーズンが終わったら、ゆっくり訪ねたいと思います。

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  • 第310号【涼あり、歴史あり、小島川】

     7月はじめは山開きや海開きのシーズン。テレビやラジオでそんな情報を見聞きするたびに、夏休みが待ち遠しくなります。さて、今回は、梅雨の晴れ間を利用して、長崎市街地を流れる小島川沿いを散策。夏のレジャーに先駆けて、小さな涼と長崎の歴史を楽しんできました。 長崎市の繁華街・浜町の東の先に小さくそびえる愛宕山(あたごやま:230m)。小島川はその麓を流れ、長崎港へと注ぐ川です。石橋群のかかる中島川とは違い、地元以外ではあまり知られていませんが、川底は岩があらわで、ところどころで樹木や草が生い茂り、流水も意外にきれい。市街地を流れる川にしては、まだまだ自然な風情が楽しめる川です。 散策のスタート地点は上流の「愛宕」地区。ここは、浜町から20~30分ほど歩いていける高台の住宅街です。長崎駅からだと、茂木や風頭方面へ向かうバスに乗って「愛宕バス停」で下車(所要時間:約15分)。このバス停付近から、愛宕山の麓のゆるやかな谷間に民家がぎっしりと建ち並んだ風景と、右手に、谷間の南側斜面を形成している小島地区の丘が見渡せます。 小島川沿いを浜町方面へどんどん下っていく散策ルートの終点は、川が暗渠となる「正覚寺下電停」。所要時間はのんびり歩いて30~40分ほどです。このルートで確認できた橋は、上流から「1、愛宕橋」「2、花やしき橋」「3、東川平橋」「4、小島橋」「5、ひさぎ橋」「6、桃源橋」「7、千畳橋」「8、高平橋」「9、鳴川橋」「10、新玉橋」と、計10本(私設らしき橋は除く)。たいていの橋がコンクリート造りで、石橋のような風情こそないものの、昭和の時代の懐かしさが感じられました。ちなみに、かつて「正覚寺下電停」のところには、「玉帯橋」があり、そのすぐ下流に「思案橋」が架かっていました。  小島川が流れる地域が、今のような住宅密集地になったのは戦後で、それまでは、清水が流れ水車が点在する緑豊かな地域だったとか。10本の橋をたどりながら川沿いを歩けば、ときおり川面からひんやりとした風が吹いてきて、気持ちがいいのです。また、この界隈には、長崎の歴史にまつわる話や史跡もいろいろあり、それも散策を楽しくさせます。たとえば、愛宕バス停から道路下に降りたところにある「2、花やしき橋」。華やかな橋の名の由来は、大正時代に活躍した長崎の実業家、永見徳太郎氏の別荘がこの近くにあったことに関係がありました。その別荘は、もとは「花やしき」と呼ばれた料亭を買い取ったものだったそうです。 「3、東川平橋」付近は、かつて薩摩藩の御用達であった服部氏の別宅があったといわれるところで、現在は、企業のアパートになっています。ここは小島の丘を通る茂木街道にほど近い場所にあります。茂木街道といえば、長崎から鹿児島へつながる重要な街道。服部氏の別宅は、鉄砲や弾薬といった当時の武器を密かに買い集め、薩摩に送っていたらしいという話が伝えられています。そして、この近くの小島の丘の一角にある「白糸の滝」付近にも、薩摩藩の要人の住まいがあったと伝えられています。どうやら、薩摩藩とのかかわりがいろいろありそうな地域のようです。また、この界隈には小説「お菊さん」を書いたフランスの文豪ピエール・ロチが長崎の娘お菊さん出合った茶屋「百花園」もありました。 さらに川を下って「5、ひさぎ橋」。そのたもとに井戸の跡が残っています。江戸時代、この井戸から湧き出る水が、出島のオランダ屋敷までひかれていたそうで、「オランダ井戸」とも呼ばれていました。続いて、小島小学校の裏に架かる「6、桃源橋」。これは、小学校専用の橋。昔は、このあたりの川で子供たちが釣りや水遊びをのびのびと楽しんでいたそうです。  まだまだ見どころ多彩な小島川沿い。観光スポットではありませんが、そこは長崎、の知られざる歴史の宝庫のようです。また別の機会に、あらためてご紹介したいと思います。◎ 取材協力/長崎歴史文化協会◎ 参考にした資料/「愛宕町から小島川を下る」B4プリント(長崎史談会/川崎道利)

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  • 第309号【長崎の夏の美味、草加家の大粒茂木びわゼリー】

     ひんやりと冷たい一さじが、ほてった夏の喉を潤す「びわゼリー」。日本一のびわの生産量を誇る長崎県ならではの銘菓のひとつです。ジューシーなびわの実をゼリーで包んだ「びわゼリー」は、長崎県下では、洋菓子店や和菓子店などを中心に、そのお店ならではの味が作られています。今回は、その中から特においしいと評判の草加家さんの「大粒茂木びわゼリー」をご紹介します。 「大粒茂木びわゼリー」は、ゼリーの色がほんのり琥珀色。今にもとろけそうなゼリーを、そっとすくって口にふくめば、ふるふるの食感に思わずニンマリ。キレとコクのある独特の甘味で、清涼感のある後味です。スプーンがびわにたどり着く前に、満足した気分になれるおいしさなのです。「めざしたのは、ゼリーだけでも食べたくなるようなおいしさです。徳島産の和三盆糖と、厳選した国産はちみつで、スーっときれるような甘味と、コクを出しました」と説明してくださったのは、草加家の二代目店主の髙木龍男さん。ゼリーが琥珀色なのは、そんな独自の工夫があったからなのです。 草加家さんは、佐世保の市街地から少し離れた、田んぼに囲まれたのどかな地域にお店と工場があります。工場を訪ねてびわゼリーの製造の様子を見せていただきました。10人に満たないスタッフが、それぞれの持ち場で真剣な表情で作業中。どの工程も丁寧な作業ぶりで、一つひとつの製品に目が行き届いているのが印象的です。ゼリー液を作るところでは、家庭にもあるようなサイズの鍋を使い、温度を細かくチェックしながら、つきっきりで出来上がりのタイミングをはかっていました。「ゼリー液はちょっとした温度変化で固さが微妙に変わるので、むずかしい作業なんです。小さめの鍋で少量ずつ作っているのはそのためです」。 びわゼリーの容器も特別なものを使っていました。「フタのフィルムは酸素を吸着する特殊なもので、酸化による中身の劣化を防ぎます。これにより品質保持期間も通常の商品より長くなります。このフィルムを採用しているのは日本ではまだとても少ないはず。カップの方もこのフィルムに合わせた特殊なものです」。コストがかかっても、何とかよりよいものを求めようとする髙木さんの姿勢には、誠実さが感じられます。食の安心・安全を求める私たちにとって、そんな作り手の存在は、とってもありがたく、うれしいことです。 「茂木びわは、長崎県内各地で作られていますが、その中で私は、収穫時期が早い茂木地区産で、しかも大ぶりのものを使うようにしています」という高木さん。そこには生産者に対する思いがありました。茂木地区は、江戸時代、中国のびわのタネをもとに栽培がはじまったところで、「茂木」というびわの品種の発祥地として知られています。「私が茂木地区にこだわるのは、昔ながらのやり方で、上へ高く伸びた木で栽培を続けているからです。このやり方だと、実が高い位置になるので、脚立などを使って管理や収穫をしなければならず、きついし、手間がかかります。他の生産地では、普通に立ったままで作業できる低木での栽培方法が増えているのです。茂木地区の生産者があえて栽培方法を変えないのは、びわづくりに対するこだわりをはじめ理由はいろいろあるようですが、私は、そんな農家の方々を、自分の仕事を通して応援したいのです」。 今回、「大粒茂木びわゼリー」を通してご紹介した草加家さんは、実はお店の名前の通り、草加せんべいのお店として半世紀前に創業しました。東京で修業した先代は、今も現役で草加せんべいを焼き続ける九州で唯一の人だといいます。また、草加家さんは現在、かんころ餅のお店として地元では知られています。さらに、数年前からはお芋を使った身体にやさしいパン作りもはじめ注目を浴びています。「いろいろなものを作っていますが、自分の中ではごく自然な流れなんです」とおっしゃる高木さん。その多彩な商品は、いずれも原材料の生産者やお客様とのつながりを大切にする中で生まれたものでした。草加家さんについてもっと知りたい方は、ぜひ、ホームページhttp://soukaya.co.jpをご覧ください。◎ 草加家 佐世保市重尾町210   電話0956―38―3808 FAX0956―38―1490

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  • 第308号【レモンと長崎】

     レモンの弾けるようなフレッシュな香りは、気分をパッと明るくしてくれます。その爽快感は、柑橘系の中でもダントツではないかと思えるほどシャープ。アロマテラピーに詳しい友人によると、レモンの皮に含まれるオイルの香りには、確かにリフレッシュ効果があり、気分を落ち着かせ、やる気を出したいときや集中力を高めたいときなどに有効だとか。ジメジメのお天気が続いて気分がすぐれないなあという方は、レモンを一個買ってきて香りを楽しんでみませんか? レモンはミカン科の常緑果樹。温暖で乾燥した地域に適し、地中海地方やカリフォルニアなどが産地として知られています。最近、長崎のスーパーでよく見かけるのは、アメリカ産や南アフリカ産。そして、量は輸入ものより圧倒的に少ないですが、国内産もちらほら。その中には長崎産もあり、それぞれ微妙に姿や色合いが違います。どうやらレモンにもお国柄があるようです。 樹齢30数年のレモンの木を大切に育てている長崎の友人は、毎年冬になると収穫したレモンをお裾分けしてくれます。花の時季は5月で、とてもいい香りを漂わせる白い花を、今年も咲かせたそうです。夏場の台風を無事に乗り切れば、緑色の小さな実がだんだん大きくなり、冬、黄色くなったところで収穫します。酢のものや、はちみつ漬け、レモン酒、手づくりの化粧水と、いろんなものに利用するそうです。 レモンの歴史を百科事典で調べてみると、『原産地はインドで、古くヨーロッパに伝えられ、さらに新大陸に伝わった』とありました。レモンの伝播で大きな動きがあったのは、大航海時代です。15世紀末、コロンブスによってアメリカへ伝えられるなど、当時、海を渡った船乗りたちによって世界各地に運ばれたといわれています。 日本へは、江戸時代後期に唐船によって長崎に運び込まれたらしく、これが日本における最初のレモンではないかという説があります。しかし、その時は、定着するまでには至りませんでした。レモンが栽培という形で日本に根を降ろしたのは、明治に入ってからのことだそうです。現在、日本での栽培は、温暖な気候の瀬戸内海地方がよく知られています。  異国で味わったおいしい料理を帰国のたびに再現してくれる、旅行好き・お料理好きの友人がいます。彼女がイタリアから帰ったとき、とてもシンプルなレモンのパスタ料理を作ってくれました。作り方(2人分)は、1、細めのスパゲティ160gをゆでます。この時、スパゲティに塩味をしっかりつけるため、いつもより少し多めに塩を入れます。2、フライパンにオリーブオイル大さじ3を入れ弱火であたためアンチョビ2本くらい(量は適宜)を溶かしいれ火を止めておきます。3、レモン1/2個は手でしぼりやすいように、くし型に切り分け、皮も適量おろしておきます。4、ゆでて水切りをしたスパゲティをフライパンに作っておいたアンチョビのソースとさっとからめ、さらにレモンをギュッとしぼってまぜ合わせ、お皿に盛り、おろしたレモンの皮をかけて出来上がりです。 レモンのさわやかな酸味と、皮のほのかな苦味が効いたさっぱり味のパスタ料理。材料も、レモンと塩とオリーブオイルとアンチョビだけというシンプルさ。市場でも食卓でも、レモンを見かけない日はなかったというレモンの国・イタリアならではの料理です。参考にした本:ながさきことはじめ(長崎文献社編)、大日本百科事典(小学館)

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  • 第307号【坂のまち、長崎を歩く~相生町~】

     5月も下旬になると長崎のまちの空気は少し湿り気を帯び、そろそろ梅雨入りの気配。眼鏡橋などの石橋群で知られる中島川周辺では、そんな季節を知らせるように、「長崎あじさいまつり」がはじまり、街角のあちこちであじさいの姿を見かけるようになりました。雨の日も気分を明るくさせるブルーやピンクのやさしい色合い。坂のまちの風景に素敵な彩りを添えています。 坂のまち長崎は、平地がとても少なく、一歩裏通りに入ると、斜面地に続く坂道や坂段があちらこちらにあります。斜面地には、民家がぎっしり建ち並び、家々の間をせまい坂段が、さながら迷路のように縦横無尽につながっているのです。車が通らないところも多く、高台で騒音が届きにくいこともあり、市街地のほぼ中心部にいながら、街の喧噪を遠くに聞くような不思議な感覚があります。 今回は、長崎の坂道のある風景をテーマに、相生町(あいおいまち)へ出かけてきました。グラバー園のある南山手町のすぐお隣にある町で、南山手町同様、幕末~明治にかけて外国人居留地だったところです。どこか懐かしい雰囲気の漂う市場やお店、そして坂段があり、気ままな散策が楽しめます。 相生町へは、「築町」電停から5番系統「石橋」行きの電車に乗り、終点「石橋」電停で下車します。ちなみに、終点のひとつ手前が「大浦天主堂下」電停で、観光客の方々がグラバー園、大浦天主堂などに向かうときによく利用します。さて、「石橋」電停のすぐ近くには、グラバースカイロードと呼ばれる斜行エレベーターがあり、それを利用すると、グラバー園などがある南山手の丘の上へラクラク到着することができます。でも、今回は、「相生地獄坂」と地元の人が呼んでいる坂段を登っていくことにしました。 地元自治会が掲げた案内板の地図には、「相生地獄坂223段」と記されています。気軽な散策にしては、ハードなその段数。しかも坂段の下から上を見上げた時にわかったのですが、かなり急な傾斜でまさに名前の由来が想像できる坂段です。そこをボチボチ登りながら、途中、何度か後ろをふりむくと、少しだけ息を飲むような風景が目の前に広がります。向い側の丘全体が、家々にびっしりと覆われているのです。坂道はしんどいけれど、登って良かったなと思える長崎らしい景色でした。 「相生地獄坂」を登り切ると、「南山手レストハウス」という慶応元年頃建てられたという古い洋館の前に出ました。ここは、まち歩きをする人のための休憩所もかねていて、南山手と同じくかつて居留地だった東山手の景観を楽しむことができます。別の角度からは長崎港を望め、その景観を描いている若い外国人の姿がありました。港と洋館、石畳などのエキゾチックな風景が絵心をくすぐるのでしょう、この界隈はスケッチを楽しむ人の姿をよく見かけます。 「南山手レストハウス」のそばには、大浦天主堂の脇へと下る「祈念坂」と呼ばれる坂段があります。人ひとりが通るくらいの道幅の「祈念坂」は、どこかひっそりとした佇まいで、港側を見下ろす眺めには情緒があります。この坂は「沈黙」などで知られる作家、遠藤周作氏のお気に入りの場所のひとつだったそうです。 「祈念坂」を下りきると、「大浦諏訪神社」、「妙行寺」、「大浦天主堂」の敷地が接しあう場所に出ます。地元の人が「祈りの三角ゾーン」と呼んでいるところです。神社、お寺、教会がこんなに近くに何の違和感もなく建っているのは、長崎ならでは光景かもしれません。長崎とおなじくキリスト教ゆかりの地、平戸にもお寺と教会と神社がひとつのフレームにおさまる場所があったことを思い出しました。

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  • 第306号【長崎ゆかりの花々(春~初夏編)】

     先日、カーネーションを買いに花屋へ行くと、その種類の多さにあらためて驚かされました。赤、白のほか、イエロー系やピンク系など多彩な色合いがあり、よく見ると姿も個性的です。どれも素敵だけれど、母の日はやっぱり赤を贈るべきなのかしらと思っていたら、「みなさん、お好みで選ばれていますよ。ピンクやイエローのカーネーションもよく出ていますね」と花屋さん。また、母の日だけ注目される花かと思いきや、かわいらしくて芳香があり、花もちもいいので、ふだんからバラと並んで人気ものなのだそうです。 カーネーションの原産地は南ヨーロッパおよび西アジア。ナデシコ科の多年草です。花屋さんでは一年中見かけますが、本来は初夏が開花の時期。俳句の世界では夏の季語で知られ、和蘭石竹(おらんだせきちく)、和蘭撫子(おらんだなでしこ)とも呼ばれています。「和蘭」とくれば、出島がらみの話がありそうです。調べるとすぐにわかりました。日本へは江戸時代にオランダ船によって輸入されたそうです。ただし、現在、花屋さんで見かける花びらがフリル状になった八重咲きタイプではなく、花びらが5枚の原種に近い種類だったようです。 カーネーションのように、江戸時代にオランダ船が日本に初めて運んできた花で、今も切り花として私たちの暮らしに身近な存在は他にもあります。春~初夏の花としては、ストック(南ヨーロッパ原産)、シロツメクサ(ヨーロッパ原産)、カラー(南アフリカ原産)など。夏のヒマワリ(北アメリカ原産)、オシロイバナ(メキシコ原産)などもそうです。原産地が世界各国に及んでいるところに、西欧の国々のダイナミックな各大陸と交流がうかがえます。 大陸と言えば、長崎県には4月末から5月初旬になると地元紙で必ず花の見頃がニュースになる中国大陸系の樹木があります。対馬・鰐浦(わにうら)のヒトツバタゴ(国の天然記念物)です。中国大陸に分布するモクセイ科の落葉高木で、白くて細い花びらのようなものがモジャッモジャッと咲いているのが特長的です。小さな入江を囲む山の斜面にたくさん自生していて、開花すると純白の花が緑の山に覆いかぶさり、まるで雪のようにも見えます。この白さが海を照らすようでもあることから、別名「ウミテラシ」とも呼ばれているそうです。 対馬は韓国との国境の島。その最北端からわずか49.5キロ先に韓国があります。一万年前まで大陸と陸続きだったといわれる対馬は、ヒトツバタゴのように大陸の流れをくむ植物や希少な生きものも多く、ツシマヤマネコなどが特に有名です。 長崎市内から対馬へのアクセスは、長崎空港(大村市)からの空路や、福岡に出て博多港からの船便で渡る方法などがありますが、なかなか行く機会がなく、実はヒトツバタゴの開花の光景は、地元の新聞やニュースの映像でしか見たことがありません。しかし、長崎市内では庭木として植えているお宅があって、同時期に白い花を見かけることがありました。先日も道すがら、あるお宅の庭先のヒトツバタゴを眺めていると、「この木は昔はめずらしい木だったらしく、何の木?という意味から、ナンジャモンジャとも呼ばれているそうですよ」と家の方が教えてくれましました。ユニークな複数の名前を持つヒトツバタゴ。それだけ人々の目を引く花だったのでしょう。◎参考にした本など/大日本百科事典ジャポニカ4(小学館)、日本大歳時記~夏~(講談社)、長崎事典~歴史編~(長崎文献社)

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  • 第305号【自然と長崎の歴史を楽しむ長崎公園】

     桜の花びらが散って、風薫る新緑の季節がやってきました。街を歩けば、日傘が欲しいほどのまぶしい日射し。長崎港を囲む山々の樹木は、まるでブロッコリーのようにモコモコと葉を茂らせ、早くも初夏の装いです。そんな話を北国の知人にすると、「やっぱり、南国・九州は違うね」と、電話の向こうからまだ肌寒い春を伝えてきました。南北に長い日本をあらためて実感する季節の変わり目です。 さて今回は、春の陽気に包まれた長崎公園を散策。ちょっとユニークな光景や史跡などをご紹介します。長崎公園は、長崎くんちで知られる諏訪神社のすぐ近くにあります(長崎駅から螢茶屋行きの路面電車で約8分、諏訪神社前で下車。そこから徒歩5分ほど)。かつて玉園山と呼ばれた丘陵地で、クスの巨木などの自然林が多く残る緑豊かな公園です。園内には、アナグマ、ウサギ、日本ザル、インドクジャクなどがいる「どうぶつひろば」もあり、子供連れのお母さんたちの姿をよく目にします。 長崎公園は、1873年(明治6)に制定(内務省第6号公布)された長崎でもっとも古い公園です。鯉の泳ぐ庭園風の池があり、その中央に、公園等の装飾用としては日本でもっとも古いとされる噴水(復元)があります。訪れたときはちょうど雨上がりだったこともあり、この池に棲む幾匹ものカメがお揃いで甲羅干し中でした。池のそばには、名物ぼた餅で知られる「月見茶屋」があります。地元では諏訪神社の参拝がてら必ず寄るという人も多いようです。 公園内ではユニークな木、珍しい木もあります。「どうぶつひろば」で見かけたのは、「多羅葉(たらよう)」というモチノキ科の樹木。葉の裏に先のとがったもので字や絵をかくと、くっきりと跡が残ります。昔はハガキの代用とされたことから、別名「ハガキの木」と呼ばれるそうです。また別の場所では、メタボな姿がほほえましい「トックリの木」にも出会いました。説明板によると、オーストラリア原産で、昭和7年に上海から長崎に運ばれてきたものとか。この木は、昭和初期の上海~長崎間の交流の歴史の証人でもあったのです。 園内には「東照宮」も祀られています。「東照宮」とは、徳川家康公を御祭神としてお祀りしている神社のこと。現地の説明板によると、1652年(承応元)、公園の入り口付近に僧・玄澄が安禅寺を建立されており、御神祭は、徳川家康東照公をはじめ徳川歴代将軍。かつては多くの人々の崇敬を集め、現在長崎公園になっている敷地にはさまざまな建物が造られていたそうです。今では、そういった建物は見られませんが、その参道の跡と思われる階段や、葵の門が記された石門が残されています。 長崎公園内には、長崎開港に大きな役割を果たした当時の長崎の領主・長崎甚左衛門、近代印刷技術の発展などに貢献した本木昌造など、長崎を舞台に活躍した人物の顕彰碑や、向井去来句碑、ピエール・ロチ記念碑など長崎ゆかりの文人たちの碑がたくさん点在しています。そういった碑をひとつひとつ見ていくだけで、長崎の歴史や文化の一端が見えてきて面白いものです。のんびりとした時間を過ごせて、気が向けば、歴史もたどることができる長崎公園。ぜひ一度、寄ってみてください。

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  • 第304号【変わりゆく長崎港界隈】

     「長崎は、いい感じに発展してますね」。十数年ぶりに長崎に帰省した関東在住の友人が、長崎港界隈の散策をひとりで楽しんだ後、開口一番に発した言葉です。友人の記憶では、この辺りは古い建物などで視界がさえぎられ、もっと雑然としていたといいます。それが今や、のびやかな視界で港の景色が楽しめ、芝生でのんびりできる公園やモダンな美術館もあって、人々が楽しそうに行き交っている。友人は、故郷のうれしい変貌ぶりに心を動かされたようでした。 長崎港周辺はここ15年ほどで大きく変わりました。埋め立てによる新しい土地、新しい商業施設、新しい道路などが次々に誕生。こうして日々、新しい港町・長崎の表情が築かれていく一方で、ちゃんと古き良き長崎港界隈の魅力も残されています。今回は、そんな場所をいくつかご紹介します。 長崎駅から、稲佐山を右手に長崎港へ向かうとすぐに、波止場の方へまっすぐに伸びる「元船遊歩道」があります。この遊歩道は、昭和5年に長崎駅から出島岸壁まで延長された鉄道(臨港線)の跡を利用したもので、長崎上海航路(大正12年~昭和18年まで日華連絡船が就航)を利用する大勢の旅客を運んだ歴史を今に伝えています。この歩道のそばには新しい道路(都市計画道路浦上川線。この3月末に一部開通)ができ、これまでとは違った港湾の景色が広がっています。その景観を楽しむなら、巨大なオレンジの玉が目印の「ドラゴンプロムナード」がおすすめです。 「ドラゴンプロムナード」のそばには、地元の人々が「鉄砲玉(てっぽんたま)」と呼んでいる大きな鉄玉(全周約175センチ、直径約55.7センチ)があります。島原の乱のとき造られたという説がありますが、由来は定かではありません。この界隈を転々としながら、現在の場所に落ち着いています。小さい頃、鉄砲玉の上によじのぼって遊んだという70代の女性によると、鉄砲玉は見た目より軽く、中は空洞かもしれないとか。しかも江戸時代から存在しながら、長崎市指定有形文化財になったのは昨年のことだといいます。興味深い話がまだまだありそうなこの鉄砲玉については、いずれあらためてご紹介したいと思います。 「鉄砲玉」から徒歩3分のところに「長崎港ターミナル」があります。高島、伊王島、五島などへの定期航路のほか、長崎港遊覧船や軍艦島周遊の船もここから出ています。船着き場には、本来の役目を終えた大きな赤いアンカー(錨)が設置されています。これは大正時代、大型船をつなぐ係船ブイを固定するため港内に投入されていたもの。当時の長崎港には、日華連絡船をはじめオーストラリアやフィリピン、北米方面等の連絡船も寄港しており、このアンカーも名立たる大型船舶を係船したことでしょう。現在は陸上で、船舶の安全を見守っています。 さらに港湾沿いを進むと、かつての臨港線の「長崎港駅」があった中島川河口付近に出ます。そこには臨港線を記念する「レールと車輪」があり、そばには長崎港の歴史が書かれた本型の説明板があります。同型の説明板が他2ケ所、この界隈にありますので探して読んでみませんか。ちょっとした長崎港通になれるかもしれません。 出島岸壁沿いに出ると、飲食店が軒を連ね「出島ワーフ」があり、港の景色を楽しみながら食事ができます。そばには平成17年にオープンした「長崎県美術館」、そして運河が流れる「長崎水辺の森公園」があり、広々とした芝生の上や波打ち際で人々が思い思いに楽しんでいる姿がありました。1571年の開港以来、長崎港は西洋との唯一の窓口や海路の重要ポイントといった特別な役割を担った時代を経て、ようやく今、すべての人々に開かれ、その日常とともにある親しい存在になれたのかもしれません。◎ 参考にした資料など/ながさきの空~「大波止の鉄玉」の紹介~(十八銀行)、各所の案内板

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  • 第303号【どうして、ピントコ坂?】

     「オランダ坂」「ドンドン坂」「ヘイフリ坂」「勅使(ちょくし)坂」「地獄坂」…。長崎にあるいろいろな坂道の名前です。“オランダさん”と呼ばれた外国人たちが通っていたから「オランダ坂」、急な斜面を雨水がドンドン早く流れ落ちたから「ドンドン坂」、天皇の使い(勅使)が参詣するために整備されたから「勅使坂」…。名前の由来を知ると、坂のまち長崎の歴史や風土が垣間見えてきます。 そこで今回は、ちょっとユニークな名前の「ピントコ坂」についてご紹介します。この坂は、思案橋・丸山の背後に続く斜面地の住宅街(上小島地区)にあります。江戸時代の茂木街道(茂木~田上~長崎を結ぶ街道)の道筋にあたり、正覚寺下にある茂木街道の入り口から、高島秋帆旧宅跡(国指定史跡)前を通り、さらに少し登ったところの石段から「ピントコ坂」がはじまります。坂のゴールは、うんと高台にある県立長崎南高校(上小島4丁目)の校門前。最初から最後まで急な勾配が続き、休み休み登っても30分ほどかかりました。生活道として地元の方は利用しているようですが、坂道に慣れない方には結構しんどいかもしれません。 「ピントコ坂」からは周囲の山を見渡せ、市街地も見下ろせますが、民家やビルであちらこちらの景色がさえぎられています。でも、江戸時代には市中が眼下に広がり、きっといい眺めだったと思われます。ふと思ったのは、幕末の頃、長崎にきて倒幕のために奔走した薩摩の志士たちのことです。茂木の港は、薩摩へもつながる海路の重要ポイントで、早朝に長崎を発てば、風次第でその日の内に薩摩に着くことも可能でした。ですから、その頃何度もこの街道を往来した薩摩の人もいたでしょうし、「ピントコ坂」から見渡す長崎の街を特別な思いで眺めたものもいたのではないかと想像するのです。 さて、「ピントコ坂」の名の由来については次のような言い伝えがあります。『元禄の頃、唐の商人で何旻徳(カ・ピントク)という人物がいて、偽の貨幣を造った疑いで処刑された。馴染みの丸山の遊女・阿登倭(おとわ)がこの坂のあたりに亡きがらを葬り、自らも後を追い命を絶った』。この話に登場する旻徳さんの名前にちなんで、「ピントコ坂」と呼ばれるようになったといわれています。坂の途中には、のちに二人を哀れに思った地元の人々によって傾城塚と呼ばれる碑も建てられています。 しかし、旻徳さんと阿登倭さんの悲恋ストーリーは、まことしやかに語り継がれてきながら、同時に作り話であるとも言われています。当時、唐人さんと遊女との間の悲恋話はいろいろあり、そういった状況を語り継ぐものとして、旻徳さんと阿登倭さんの話が生まれたのではと推測されます。長崎の郷土史家のお話によると、この坂の辺りには、丸山の遊女たちの無縁墓も多くあったといいます。傾城塚もそういった遊女たちの慰霊の意味があるのかもしれません。ちなみにその昔、唐人さんは、丸山遊女を「ピャウツウ」(嫖子)と称していたそうです。「ピャウツウ」の発音が「ピントク」に変化したのかもしれないという郷土史家もいらっしゃいます。 ところで、「ピントコ」については他にも、石ころのデコボコという意味だとか、「ピントコ、ドッコイ」という囃子言葉と何か関係があるかもしれないという人もいます。歌舞伎では、細かい役柄の区別の中で、少しキリッとした男役を「ぴんとこな」というとか。また歌舞伎衣装のひとつで、唐人に扮装するときに使う「襟袈裟」(えりけさ)のことを「ぴんとこ」というそうです。ということは、もしや、あの「ピントコ」と、この「ぴんとこ」は、何か関係があるような気がしませんか? 言葉の語源や歴史の事実など、真相がわからなくなるものがたくさんある一方で、真実ではないけれど語り継がれるものもある。歴史って、本当に不思議なものですね。◎ 参考にした本/長崎市史~風俗編~、長崎の文学(長崎県高校国語部会 編)、長崎の史跡~南部編(長崎市立博物館)、NHK日本の伝統芸能(日本放送協会、日本放送出版協会 編)

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  • 第302号【長崎のメインロードだった眼鏡橋】

     長崎の代表的な観光スポット、眼鏡橋。ここ数年の間に片側の川沿いに軒を連ねていた家々がなくなり、かわって遊歩道ができるなど、まわりの景色に大きな変化がありました。しかし眼鏡橋はそんな周囲のことなど、どこ吹く風といった感じで、370年余りも変わらぬ佇まいで、2連のアーチをくっきりと川面に映し出しています。 眼鏡橋は、長崎の中心市街地を流れる中島川に架かる石橋です。中島川には、ほかにも「ふくろ橋」や「桃谷橋」など江戸時代に何本もの石橋が架けられていますが、そういった石橋群の中でいちばん最初に造られたのが眼鏡橋です。日本に取り入れられた最初のアーチ式の橋ということで国の重要文化財にも指定されています。 眼鏡橋からほど近い寺町通りの一角に唐寺「興福寺」があります。眼鏡橋は、その寺の二代目住職で唐僧の黙子如定(もくす にょじょう:1597~1657)が1634年(寛永11)に架けたと伝えられています。長崎歴史文化協会の越中哲也先生によると、「如定禅師は、神仏に通じる不思議な力を持つ人物だったようです。そういうこともあり多くの信者を得ることができた。だから眼鏡橋を造る資金としての浄財もたくさん集めることができたのかもしれません」とのこと。橋の建設にたずさわった石工たちも、興福寺の諸堂をつくるために如定禅師が中国から呼び寄せていた工人技師の中にいた人たちだったと推察されるそうです。 ところで、中島川では石橋が造られる以前は、何本もの木橋が架けられていました。しかし、どの木橋も軟弱で洪水のたびに流出しては架け直していたそうです。そこで、丈夫な石橋をかけるにあたり、酒屋町と磨屋町の間に架かっていた木橋を最初の石橋(眼鏡橋)に造りかえることになりました。では、なぜ、その場所が選ばれたのでしょうか。その理由をひもとくにあたり、越中先生は「江戸時代の眼鏡橋は長崎では最も重要な道路でありました」と、ヒントをくれました。 「眼鏡橋のあった酒屋町は、筑後柳川方面より酒樽を運び込んでいた場所です。この両隣りの町は、魚市場があった魚町、小間物問屋があった袋町。その対岸は、細工職人らが居住した磨屋町、銀屋町、そして麹づくりを営むものが多かった麹屋町など、中島川から物資を運び入れ、生活に欠かせないものをつくる町が並んでいたのです」と越中先生。どうやら、江戸時代の眼鏡橋界隈は長崎の町の中心であり、庶民の活気と賑わいに満ちていたようです。 つづいて越中先生は、「当時のメインロードは天草や島原、そして薩摩にもつながる海路のポイントである茂木港から茂木街道を通り、長崎の市中(思案橋―寺町通り―眼鏡橋―小川町ー上町)に入り、さらにそこから、浦上街道(時津や大村の城下につながる街道)へ続くルートだと考えられる」とおっしゃいます。つまり眼鏡橋の位置は、茂木港~長崎市中~浦上街道を結ぶそのルートを念頭において選ばれた場所だというのです。メインロードならばいろいろな人や多くの物が往来するのですから、丈夫な石橋が必要なのもうなづけます。長い時を経た平成の今も変わらず多くの人が往来している眼鏡橋。建造当初からそういう特別な運命を背負った橋だったのですね。 さて、越中先生からは、眼鏡橋について記した古い資料として、1715年に著された『長崎図誌』を教えていただきました。「これは長崎における最初の史跡名勝を主にした地理・歴史の記述書です」。そこには、眼鏡橋はあくまでも俗称で、奉行所などが扱う正式な名称は「第十橋」であったことが記されています。当時は、中島川に架かる橋を上流から順番に「第一橋」、「第二橋」などとしていて、正式に眼鏡橋となったのは明治15年になってからでした。 最後に、眼鏡橋の両側面の中央付近にはめこまれた石版について。そこには文字が刻まれていたようですが、風雪にさらされわからなくなっています。「眼鏡橋の架設にまつわる確かなことが刻まれていたはずなのですがね」と越中先生も残念そうです。江戸時代の長崎の風俗や景色を描いた「長崎古今集覧名勝図絵」の中にある眼鏡橋には、この石版の姿も描かれています。*取材協力/長崎歴史文化協会

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  • 第301号【シーボルトも往来した、鳴滝界隈を歩く】

     もうすぐ3月。卒業式のシーズンです。街角で花束を手にした卒業生を見かけたり、卒業式のシーンがニュースで流れるたびに、学校が懐かしくなる方も多いのではないでしょうか。当時は嫌いだった授業や先生も、時が経つほどにクスッと笑える思い出になるから不思議ですね。 「卒業」は人生の大きな節目。春休みを利用して、友達やご家族と思い出づくりの旅行を楽しむ方も多いようです。長崎でも毎年そのような旅行者の姿をよく見かけます。長崎はのどかな自然や異国情緒を楽しむと同時に、この街が近代日本の発展に大きな役割を果たしたことや平和の大切さについて学べるところです。進学や就職で新しい生活がはじまる前に、見たり、触れたり、聞いたりしてほしいことが山ほどあります。春の旅行はぜひ、長崎へお越しくださいませ。 長崎市中心部の観光は、路面電車を利用してめぐるのが定番です。今回、ご紹介する鳴滝地区へは、長崎駅から「螢茶屋」行きの路面電車に乗って、「新中川町電停」で下車します。この電停は観光スポットのひとつ「シーボルト記念館」(長崎市鳴滝2丁目7―40)をめざす旅行者がよく利用するところです。どなたも電車を降りると脇目もふらずに「シーボルト記念館」へ向かうようですが、せっかくですから、その道すがらちょっと寄り道をして、閑静な鳴滝界隈を味わってもらえたらなあと思うのです。 「新中川町電停」の陸橋を北側へ降りると「丸川公園」があります。ここには「長崎港開先覚者之碑」があり、大村純忠の時代までさかのぼる港町長崎の創成期の歴史が刻まれています。その当時、長崎の中心地だったのがこの一帯でした。公園近くにある桜馬場中学校は、かつて長崎を治めた長崎氏の館の跡地です。 「丸川公園」から川筋に沿って少し歩くと、小ぶりのアーチを描いた石橋、「古橋」が見えてきます。中島川の支流に架かるこの橋は、承応3年(1654)に架けられた文字通り、古~い橋。長崎街道筋にあり、当時の旅人の姿を想像させる風情ある佇まいです。 古橋を後にして、石畳の「シーボルト通り」を抜けると、大きな自然岩があらわになった「鳴滝川」に出ます。ふだんは水量が少ないのですが、雨の後など、ザーザーと滝のような迫力のある流れが見られます。一説にはそんな景色から、第23代長崎奉行の牛込忠左衛門(うしごめ ちゅうざえもん)が「鳴滝」と命名したと伝えられています。鳴滝川の岩のひとつには、「鳴瀧」の文字が刻まれていて、これは文学を好んだ牛込忠左衛門と交流のあった林道栄(りん どうえい:大通事・書家)の書だと言われています。ちなみに「鳴滝」は、その昔、「平堰(ひらいで)」と呼ばれる田園地帯で、川の水はたいそう清く、その両岸には桃の木が並び、江戸時代には長崎を代表する景色のひとつだったとか。のちに長崎にやってくるシーボルトもその美しい光景を愛でたに違いありません。 鳴滝川の自然岩から徒歩3分で、「シーボルト記念館」に到着です。現在、開催中の「シーボルトと中国文化展」(~平成20年3月9日まで)では、清時代の煎茶道具や色絵皿などの他、シーボルト妻子像螺鈿合子(国重要文化財)が展示されています。平成20年3月19日から4月下旬までは、ミニ企画展「長崎今昔展」が開催されます。鳴滝周辺の史跡や江戸時代の長崎の市民生活を紹介する絵図などが展示される予定です。どうぞ、お見逃しなく。 「シーボルト記念館」を出たあとは、背後の裏山に登る石段を上がってみましょう。竹林や畑の脇を抜け、ほんの数分がんばれば「鳴滝」を見渡す高台に出ることができます。山の傾斜に家々がびっしりと建ち並ぶ長崎らしい光景が楽しめます。 かつてシーボルトやその門下生らが往来した「鳴滝」。この地区には他にも、石の表面に琴の線のような筋が入った「琴石」や長崎でもっとも古いといわれる赤地蔵(高林寺)もあります。「シーボルト記念館」とともに界隈の散策もお楽しみ下さい。◎ 参考にした本/長崎事典~風俗・文化編~、長崎事典~歴史編~(長崎文献社)◎取材協力/シーボルト記念館 TEL 095-823-0707

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  • 第300号【大切にしたい年中行事~長崎の節分編~】

     約2週間にわたる長丁場のお祭り「2008長崎ランタンフェスティバル」も半ばに入りました(~2/21迄)。連日、ランタンのあたたかな灯りを求めて、大勢の人々が街へ繰り出しています。まだお出かけでない方は、ぜひ、足を運んでみてください。 前回コラムでもご紹介しましたが、「長崎ランタンフェスティバル」は旧暦の新年で春の到来を祝うお祭りです。2月は、ほかにも「節分」(3日)、「立春」(4日)と、春がはじまる時期ならではの行事や節気が続きます。「節分」のように季節ごとに行われる古くからの年中行事は、もともと自然を畏れ、その恵みに感謝して生活していた昔の人々が行ってきたもので、現代まで脈々と受け継がれてきました。そこには、自然の移り変わりに注意深くあった、いにしえの人々の生活のリズムが刻まれています。 たとえば、春の「節分」の場合、旧暦でいうと「大晦日」に当たるということで、その年の厄をはらって新年を迎えるための行事が行われます。その代表的なものが「豆撒き」です。私たちはついつい豆を食べることに夢中になりがちですが、悪い鬼をはらって一年の無病息災を祈ることを忘れてはなりません。ちなみに「節分の豆撒き」のルーツは奈良時代に中国から日本の宮中に伝わった「追儺(ついな)」という行事で、鬼(禍い)を払う大晦日の儀式だそうです。 ときは現代、「節分」の日に寺社で行われる「豆撒き」や「火焼神事(ほやきしんじ)」は、昭和の時代とあまり変わらな光景で、懐かしさや安らぎを感じる方も多いのではないでしょうか。江戸時代、長崎街道へ出る人たちが旅の安全を祈願したという桜馬場天満宮では、夕刻になると小さな境内にご近所の方々が次々にやってきて、参拝。神札や正月飾りなどが次々に焚き上げられる炎で暖をとる人や、お神酒をうれしそうに飲み干すお年寄りや会社帰りのサラリーマン、境内ではしゃぐ子供たちと、何だかほのぼのとした人々の様子が印象的でした。 長崎市民の総鎮守・諏訪神社は、さすがにたいへんな人出で大賑わいでした。ここでは、「豆撒き」をする年男・年女の参加者数が例年より増えたという話を小耳にはさみました。厄払いや、定年後の契機づけにと団塊世代の参加者が増えたのでしょうか?それとも、伝統行事が見直されているから?いろいろ理由が想像されます。 唐寺・興福寺(こうふくじ)では、「長崎ランタンフェスティバル」の装飾がほどこされた本堂・大雄宝殿の前で、「豆撒き」が行われていました。おおらかでのびやかな雰囲気は、やはり唐寺ならでは。長崎でしか見られない光景です。 ところで、節分の行事食ですが、以前は見られなかった「恵方巻(えほうまき)」が、ここ数年、長崎でも出回るようになりました。これは、もともと大阪の商人が商売繁昌を願ってはじめたものだとか。長崎の節分料理で代表的なのは、お金にあやかるとした「金頭(かながしら)の煮付け」、赤大根をたくましい鬼の腕に見立てたという「赤大根のなます」があります。他にも「尺八イカの煮付け」(お腹にお米などをつめて煮たもので、蓄えを意味する)や「鯨の百尋(ひゃくひろ)」(鯨は海の魔をはらうとされたこと、また鯨のように大きくという意味で)の酢のものや和えものなどがあります。 節分の行事や食を通して、人が明日の健康や幸せを願う気持ちはいつの時代も変わらないものだとあらためて思い知らされます。こうした年中行事には、人の根っこにつながるとても大切なものが秘められているようです◎ 参考にした本/日本大歳時記~冬~(講談社)、家族で楽しむ歳時記・にほんの行事(池田書店)、長崎事典~風俗・文化編~(長崎文献社)

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  • 第299号【美しい冬景色・2008長崎ランタンフェスティバル】

     一年でもっとも寒いといわれる大寒の時季、いかがお過ごしですか?ブルブル震えるような寒さの中でも、風や日射しにときおり早春の気配が感じられます。そういえば2週間ほど前、九州では4月のような温かい日がありました。「えっ、もう春?」と驚きましたが、やはり一時的なもの。本物の春は、まだちょっと先の方で待ってくれているようです。  誰もがコタツで丸くなっていたいこの時季ですが、長崎の街は逆にソワソワとして、人々は屋外へ目を向けはじめています。というのも、中心市街地の各所で、「2008長崎ランタンフェスティバル」の準備がはじまっているからです。長崎市民は、ランタン(中国提灯)や中国ゆかりのオブジェの装飾など、日に日に極彩色に彩られていく街の様子を肌で感じながら、「もうすぐ、はじまるぞ」とうれしい期待感に包まれています。 昨年は、全国から約92万人もの人々が訪れた「長崎ランタンフェスティバル」。旧暦の元旦から約2週間行われるこの一大イベントは、もともと長崎在住の華僑の方々が、旧正月(春節)を祝う行事として長崎新地中華街を中心に行っていたもので、平成6年から現在のように官民一体となり街をあげて祝うようになりました。旧暦元旦を初日とする開催期間は、今年は2月7日(木)~2月21日(木)。旧暦元旦は新暦だと1月下旬の年もあれば、2月中旬になる年もあり、開催期間が毎年変わります。ちなみに来年の旧暦元旦は1月26日、再来年の2010年は2月14日バレンタインデーだそうです。 ところで、同時期に中国や韓国などアジアの国々でも「春節」を祝う行事が行われています。ニュースでその様子を見るたび、「長崎ランタンフェスティバル」は、華やかさではどこにも負けてないぞと思ってしまうのです。長崎の中心市街地一帯にぎっしりと飾られる約15,000個のランタンは、夜になると温かくてやわらかな光を放ち、街の表情は一段と幻想的になります。徒歩5~10分圏内でつながる6ケ所の会場(湊公園・中央公園・唐人屋敷・興福寺・浜んまち・鍛冶市)では、中国雑技や龍踊り、中国獅子舞、二胡の演奏、太極拳などが毎日展開され、悠久の歴史を持つ中国の多彩な魅力をたっぷり楽しむことができます。 「2008長崎ランタンフェスティバル」のいくつもある見どころの中で、見逃せないのはメイン会場の湊公園に登場する干支の巨大オブジェです。「老鼠娶親(ラオ・スー・チィー・チィン)」という名前で、正月の3日に「ねずみ」が嫁にいくという中国の言い伝えにちなんだもの。8メートルの高さです。 眼鏡橋がかかる中島川界隈へもぜひ、足をのばしてください。たくさんの黄色いランタンが水面に揺れて、他の会場とはひと味違った美しい光景です。川沿いには、金魚や鴛鴦(おしどり)など、水にちなんだオブジェが並べられています。どこか愛嬌のある縁起のいいオブジェたちが、新年に福を運んでくれそうです。 今年こそ素敵なご縁を願う方は、中国の縁結びの神様「月下老人」にお願いしてみましょう(浜んまちの浜屋デパート前)。白髪、白眉、白髭の素敵な爺様です。特製の「赤い糸のお守り」(100円)も用意されています。 それから、興福寺、崇福寺などの唐寺めぐりや、週末なら江戸時代の唐人屋敷跡で、点心を食べたり、中国茶を飲んだりしながら古き良き中国を訪ねるのもおすすめです。新しい年をアジアらしく祝う「2008長崎ランタンフェスティバル」。新暦で出遅れた方は、長崎で新たな年をスタートさせましょう!◎ 取材協力/長崎ランタンフェスティバル実行委員会

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  • 第298号【言葉のことはじめ(方言と外来語)】

     あけましておめでとうございます。今年もみろくや「ちゃんぽんコラム」では、いろいろな長崎の魅力を探してお届けいたします。本年もよろしくお願いいたします。さて、今年最初のテーマは「言葉」。方言や長崎由来の言葉などをご紹介します。 さて、お正月、故郷へ帰省された方々は、迎えてくれたご家族や友人たちと、楽しいひとときを過ごされたと思います。ある方は、故郷の方言を思いきり使って会話をしていると、温かい気持ちになり、素にもどるようだとおっしゃっていました。方言はその地域の風土の中で生きる人々が長い間に育んだ言葉。人々の感覚や考え方が言語化されているといいます。端正に整えられた共通語よりも親しみを感じたり、素にもどったりするのは、より人間味のある言葉だからなのでしょう。 ところで、旅先などで土地の人が何を言っているのか全くわからなくて困ったことはありませんか?土地のお年寄りが話す筋金入りの方言は、まるで外国語。カルチャーショックをうけますよね。話が少しそれますが、外国語と言えば、英語、韓国語、中国語などいろいろありますが、そういった国や民族の言語は、世界におよそ6000ないし7000もあるそうです。しかし、今、その内の90~95%が、民族や話し手の減少などによって絶滅寸前あるいは消滅の危機に瀕しているとか。言語にはその国や民族の文化が宿っているだけに、1つの言語が消えることは人類にとって大きな悲劇だと学者さんは言っています。日本でいえば、アイヌ語も消滅の危機が懸念されているそうで、近年アイヌ語を残そうとする活動が展開されているようです。 絶滅危機の問題は、動物や植物の世界だけでなく言語の世界にも起きていたのですね。言語も多様性がある方がいい、専門家でなくても、そう思う人は多いのではないでしょうか。日本語の場合、全国津々浦々、たくさんの方言を擁していますが、方言を大切にすることは、地域の人々や文化を大切にすることにほかならず、最近では、方言が見直されているそうです。「おいしい」は、長崎では「うまか」、青森では「め」、岩手や秋田、山形は「んめぁー」島根は「んまい」、宮崎や鹿児島では「んめ」沖縄は「まーさん」。「大きい」は、長崎や福岡、佐賀、熊本では「ふとか」、同じ九州でも宮崎では「おっこね」、福島は「ずなぇー」、静岡は「いかい」、東京は「でっけー」、福井は「いけー」です。方言は基本的に「話し言葉」。実際に現地で耳にしたいですね。 長崎県・五島では驚いた瞬間に思わず「あっぱよ」といいますが、同じ長崎県でも他の地域にはない言葉です。こんなふうに津々浦々で独特の言葉が見られ、同じ言葉でも微妙にイントネーションやニュアンスが違ったりします。本当に方言って不思議で面白いものですね。 お次は、長崎ゆかりの外来語について。古く中国、ポルトガル、オランダとの貿易港として繁栄した長崎には、さまざまな海外の文物が持ち込まれました。同時にやって来た外国語も長崎人の耳が聞き取り、訳して生活に溶け込んでいったのです。中国ゆかりでいえば、たとえばトンスイ(湯匙)。中華料理で使うチリレンゲのことですが、長崎ではトンスイと呼ぶ人がまだまだいらっしゃいます。他には、サジ(茶匙)、ジタバタ(七転八倒)、ヒョウキン(剽軽)なども中国渡来。すっかり日本語として定着しています。 約400年も前の南蛮貿易時代にもたくさんの言葉が伝わりました。カステラ、カルタ、コーヒー、トタン屋根のトタン、パン、ボタンなど。オランダからは、おてんば娘のオテンバ、苦い薬を飲む時に欠かせないオブラート、ガス、コップ、コルク、ポンプなど。海外との交流で新しい言葉にあふれた当時の長崎は、おおいに人々の心を刺激したはず。こうした言葉の面からも、当時のこの街の豊かさ、華やかさが想像できるようです。◎参考にした本/世界の先住民族10~失われる文化・失われるアイデンティティ(明石書店)、長崎事典~風俗・文化編(長崎文献社)、いろんな方言がわかる本(メイツ出版)

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