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  • 第599号【西瓜と南瓜】

    令和2年7月豪雨により被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。一日も早く復旧し、安心・安全な日常生活がもどりますよう心からお祈りいたします。  シーボルト記念館(長崎市鳴滝)の庭園の一角で、ハマボウがレモンイエローの花を咲かせていました。その美しさは一服の清涼剤。オクラの花によく似ています。また、フヨウやムクゲの花なども連想させる姿です。あとで調べてみたら、みんなアオイ科の植物でした。  ハマボウは、19世紀にヨーロッパで著されたシーボルトの『日本植物誌』に掲載されています。この本で、ハマボウは新種として発表され、学名の「Hibiscus hamabo」には、和名のハマボウが取り入れられています。その名から想像できるように、ハマボウは海辺の砂泥地などに自生。近年では、絶滅の危険がある種として、長崎県や長崎市のレッドデータに掲載されています。  夏の花があちらこちらで咲きはじめるなか、この暑さに体調がついていかない、という方も多いことでしょう。そんな季節におすすめなのが、長崎にゆかりのある西瓜(スイカ)や南瓜(カボチャ)などのウリ科の野菜たちです。  体の熱をおさえ、喉の渇きをいやし、利尿作用や血圧を下げる効果もある西瓜。アフリカ大陸の赤道近くが原産地です。4千年ほど前の古代エジプトで、すでに栽培されていたといわれています。日本でのはじまりは、平安時代に唐との交流を通じてという説や南蛮貿易時代にポルトガル人がその種を長崎に伝えたという説、そして、江戸時代に長崎に渡来した隠元禅師が伝えたという説など諸説あります。そもそも西瓜という名称は中国語で、文字通り、西から伝えられた瓜を意味しているそう。日本で、その漢字をそのまま使用していることから、中国経由で伝えられたのは間違いないのかもしれません。  一方、南瓜は、南蛮貿易時代のポルトガル船によって、インドシナ半島の南部に位置するカンボジアから長崎に伝えられたといわれています。南瓜の漢字も中国語をそのまま当てていますが、発音は、カンボジアが転じてカボチャになったとか。ただ、九州では南瓜をボウブラと呼ぶことも。これはポルトガル語で南瓜を意味する「アボブラ」からきたよう。  江戸時代の長崎地図(延享二年(1745)/京都・林治左衛門版)に、こんな記述を見つけました。『古ハボウラ町ト云 南蛮人ボウラヲ作リシ故ニ』。その昔、南蛮人がボウラ(南瓜)を作っていたので、ボウラ町と呼んでいたというその場所は、南蛮貿易時代から江戸時代のはじめにかけて、「山のサンタ・マリア教会」や「サント・ドミンゴ教会」など、キリスト教の教会があった界隈です。市中に教会を建てた宣教師らが地元の信者とともにボウラ畑を耕していたことが伺えます。  緑黄色野菜を代表する南瓜は、抗酸化作用のあるカロテンが豊富で、免疫機能を高めてくれます。意外ですが、ビタミンCもたっぷり。南瓜のすぐれた栄養価を、海を越えてやってくる宣教師たちは実感していたのでしょう。わたしたちも風邪や夏バテ予防に、積極的に食べたいものですね。   ※参考にした本:シーボルト日本植物誌(大場秀章 監修/ちくま学芸文庫)、ながさきことはじめ(長崎文献社)、からだによく効く食べ物事典(三浦理代 監修/池田書店)

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  • 第598号【初夏のグラバー園へ】

     先週からの記録的な大雨で、熊本県をはじめ九州各地で大きな被害が相次いでいます。心からお見舞い申し上げます。引き続き大雨や土砂災害への警戒をお願いいたします。  先月30日、長崎市の諏訪神社で、恒例の神事「夏越大祓式(茅の輪くぐり)」が行なわれました。今年半年間の罪や穢れを、人形(ひとがた)に託して祓い清め、続いて茅の輪を8の字を描くように2回くぐります。『水無月の夏越の祓へする人は千歳の命延ぶといふなり』という和歌を唱えながらくぐれば、夏場の災厄を免れることができると伝えられています。拝殿の真正面に設けられた茅の輪は、思わず手を合わせたくなるしつらえでした。  梅雨の晴れ間が広がった今月初め、久しぶりにグラバー園へ行ってきました。新型コロナの影響で一時閉園していましたが、6月から開園。グラバー園近くの土産品店の通りは、まだ人もまばらでした。手指の消毒、マスクの着用、ソーシャルディスタンスを守るといった感染対策を万全にして園内をめぐりました。  長崎港を見渡す南山手の丘にあるグラバー園。幕末・明治期建造の複数の洋館が点在し、当時の息吹をいまに伝えています。モダンで洒落た外観の洋館に秘められたさまざまな歴史は興味深いのですが、今回、目を引いたのは、よく手入れされた園内の花々と豊かな緑でした。  園内では、アジサイ、アガパンサス、バラなど初夏の花が満開。釣鐘のような白い小花を咲かせたアベリアには、数種類のチョウがお互いに距離をとりながら、花から花へと飛び交い吸蜜に夢中。その中に大きなアゲハチョウの姿がありました。よく見ると、ナガサキアゲハのオスで、黒い翅(はね)を広げると表面の青い鱗粉(りんぷん)が輝き、シックで美しい。このチョウは、翅の付け根に赤い模様があり、多くのアゲハチョウに見られる後ろ翅の尾状突起がないのが特徴です。ちなみにメスは、オスよりも華やかな色合いです。  和名「ナガサキアゲハ」は、シーボルトが長崎で最初に採取したことに由来しています。もともと南国のチョウで、沖縄・九州・四国を中心に棲息していましたが、近年の温暖化で棲息地域がしだいに北上。いまでは関東あたりでも見られることがあるそうです。  園内では、ユニークな発見が相次ぎました。喫茶室の「旧自由亭」前にある池では、亀の石像を親亀の背中と勘違いしているようなアカミミガメの姿が。クスノキの大木が多い旧オルト邸周辺では、クスノキの枝にツル科の植物が巻きついて、別の樹木のような姿になっていました。   5年前「明治日本の産業革命遺産」のひとつとして世界遺産となった「グラバー邸」(国指定重要文化財)は、後世に引き継ぐための保存修理が行われていました。修理工事の様子は、建物の周囲に設けられた特設展望デッキから見学できます。工事中にしか現れない姿を見ることができる貴重な機会でもあります。興味のある方は、ぜひ、お出かけください。

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  • 第597号【日本遺産認定〜シュガーロード〜】

     先週の大雨のあと、眼鏡橋などの石橋群で知られる中島川沿いを通りがかると、桃渓橋そばに咲くカンナ(草丈1メートル以上)の群生が、増水した急流になぎ倒されていました。中島川は、昭和57年の長崎大水害後の拡幅工事によって、かなりの増水にも耐えられる川になりました。しかし、ふだんは静かなこの川が、ゴウゴウとしぶきをあげて流れる様子を見ると、短時間で集中的に降る雨のこわさを実感。家にもどったら、すぐに緊急時の避難場所と持ち出すものを再確認しました。みなさんも、ぜひ、ご確認ください。  コロナ禍のなか季節はめぐり、状況は変化しています。先週末、県境をまたぐ移動の自粛要請も解除されました。新しい生活様式をこころがけて、外出を楽しまれた方も多いことでしょう。長崎のまちにも少しずつですが、観光客の姿が見られるようになりました。  この移動の解除日と同じ6月19日、長崎県・佐賀県・福岡県にとって、うれしいニュースがありました。今年度の「日本遺産(Japan Heritage)」(文化庁)に『砂糖文化を広めた長崎街道〜シュガーロード〜』が認定されたのです。「日本遺産」とは、地域の文化財を生かして観光振興などにつなげることを目的にしたもの。今年度は全国各地から申請された中から21件が認定されています。  『砂糖文化を広めた長崎街道〜シュガーロード〜』は、長崎県(長崎市・諫早市・大村市)・佐賀県(嬉野市・小城市・佐賀市)・福岡県(飯塚市・北九州市)が申請。3県8市の自治体がいっしょになって申請した理由は、文化庁が発表した認定概要をよむとわかります。「室町時代末頃から江戸時代、西洋や中国との貿易で日本に流入した砂糖は、日本の人々の食生活に大きな影響を与えた。なかでも、海外貿易の窓口であった長崎と小倉を繋ぐ長崎街道沿いの地域には、砂糖や外国由来の菓子が多く流入し、独特の食文化が花開いた。……」  3県8市は、砂糖の歴史に甘く彩られた街道沿いの地域にあります。天ぷら、有平糖、金平糖、カステラ、おこし、大村寿司、小城羊羹など、それぞれの地域に伝えられた甘味は、銘菓・名物としていまも食べ継がれています。  江戸時代、長崎街道「シュガーロード」を経て、全国各地に運ばれた砂糖。海外交流の窓口だった当時の長崎には、オランダ船が出島へ、唐船が新地へ砂糖を運び込んでいました。現在、出島に行くと、「三番蔵」(復元)で、砂糖を保管していた当時の様子を見ることができます。砂糖は、丈夫な麻袋に入れられ積まれていました。  江戸時代、砂糖をはじめさまざまな文物が、長崎を拠点に全国各地へ、そして世界各国へ渡っていきました。そうした歴史について、展示パネルや映像でわかりやすく紹介しているのが、「筆者蘭人部屋」(復元)です。出島の中央付近の表門近くにあります。   現在の出島には、「三番蔵」や「筆者蘭人部屋」のように、19世紀初頭の建物が十数棟復元されていて、各所で出島にまつわる歴史を多様な視点で紹介しています。いずれも充実した内容なので、何度も足を運んで見るのがおすすめです。出島は、長崎市民を対象に今年6月1日から9月30日まで無料開放されています。この期間を利用して、出島のことを再度学んでみるのもいいかもしれません。これから長崎を案内するときに、きっと役に立ちます。

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  • 第596号【天文学者 西川如見(にしかわじょけん)】

     先月24日の夕方、偶然見上げた西北西の低い空に、月と水星と金星が接近し、三角形をなしているのを確認。細い月の右斜め上に、うすい雲におおわれた水星が見え隠れ。水星の右斜め下には宵の明星・金星が輝いて、幻想的で美しい光景でした。また、今月6日の満月のときには、午前3時前から6時頃までの間に、月が地球の半影に入る「半影月食」が見られたそう。私たちが眠っている間も、月や星たちは宇宙の神秘を語るように、刻々と壮大なドラマを繰り広げているのですね。  アメリカの先住民は、毎月やってくる満月に、その季節にちなんだ名前を付けました。たとえば、花咲く5月は「フラワームーン」、6月は「ストロベリームーン」というふうに。「ストロベリームーン」は、6月が野いちごの季節だということや、この時期の月の色が、赤みを帯びて見えることに由来しているとか。赤く見える理由は、朝日や夕日と同じ原理で、月が一年でもっとも地平線(水平線)に近い軌道を通るからといわれています。今月の満月がなんとなく赤みがかって見えたのは、そういうことだったのです。  月を見上げているとき、ふと、江戸時代の天文学者、西川如見(にしかわじょけん:1648〜1724)のことを思い出しました。如見は、長崎の歴史や地誌などについて記した『長崎夜話草』の著者として知られています(この書は、如見の子、正休が父の談話を筆録・編集したもの)。長崎の鍛冶屋町の商家に生まれた如見は、18歳のとき父を亡くし、その後、母によく仕え親孝行をしたと伝えられています。20歳を過ぎて学術を志した如見は、長崎奉行に招かれ京都から来た儒者・南部草寿の塾で学びました。南部草寿は、1672年から8年間長崎に滞在し、立山聖堂の祭酒(学頭)も務めた人物です。  海外から新しい知識が怒涛のように入ってくる長崎にあって、如見は師にも恵まれ、おおいに学んだようです。当時、西洋の天文学の大家といわれた小林謙貞(?〜1688)などから天文暦学を師事。研さんを積んで大成し、江戸にその名を知られるほどの天文学者になりました。日本人の学者らの間で、地球が球形であることが浸透していなかった時代に、如見は、早い段階で大地が丸いという説を唱えていました。  晩年には、天文好きの将軍徳川吉宗に招かれて江戸に上がり、謁見。天文学に関する質問を受け、意見を述べたと伝えられています。ところで、如見は、日本で最初の世界地理書とも評される『華夷通商考(かいつうしょうこう)』をはじめ『天文議論』、『日本水土考』など天文・地理に関する書籍を多く著していますが、そのなかでも博識ぶりがよくわかるのが、前述の『長崎夜話草』、そして町人道徳を記した『町人袋』、農民の経済を語った『百姓嚢』です。これらは江戸時代を知る名著として、文庫本にもなっています。   文庫本を読むと、如見の視野の広さと奥深さ、人柄の細やかさが伝わってきます。地理や天文学を通して、人智の及ばぬところがあることを知りつつ、貪欲に知識を求め、得た知識・経験は書に著し、後世の人々に役立つものを残そうとした姿が見えてきます。歴史書として、教訓書として、興味深いおすすめの一冊です。

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  • 第595号【小満のとき】

     野山の緑は育ち、昆虫たちも活き活きとして、日に日に初夏めいています。二十四節気では、「小満(しょうまん)」(今年は5月20日から6月4日まで)のときを迎え、八百屋の店先では、やさしい緑色をしたグリンピースやぷっくり膨らんだそら豆、そして最盛期を迎えた橙色の路地びわが並んで、この時期らしい彩りを見せています。山や畑では、いつも通りに季節のめぐみが育っているよう。とても、ほっとします。  長崎市民の総鎮守、諏訪神社へ参拝にいくと、参道脇に植えられたザクロの木が、鮮やかなオレンジ色の花を咲かせはじめていました。長崎の家々では、庭木として植えているところも多いザクロ。毎年、5月下旬に開花して、秋の大祭「長崎くんち」の本格的な稽古はじまりを告げる「小屋入り」(6月1日)が近づいたことを知らせます。  しかし、今年は新型コロナウイルス感染拡大防止のために、「長崎くんち」の中止が先月決まりました。よって「小屋入り」も行われないことに。寛永11年(1634)にはじまって以来、脈々と伝統をつないできた「長崎くんち」。今年は、その賑わいや華やぎのありがたさを再認識することになりそうです。  新型コロナの収束やもろもろのお願いごとを抱えて出向いた諏訪神社。その境内の各所には、さまざまな願かけに応じてくれるという狛犬たちが鎮座しています。とくに、拝殿の裏手の路地は、狛犬通りと呼びたくなるほどいろいろな狛犬に出会えます。  拝殿の左側から裏手に回ってすぐの場所にいるのは、「止め事成就狛犬」。お酒やたばこなど止めてほしいことを、狛犬の足に白いこよりを巻いて祈願します。路地をすすむと、「高麗犬井(こまいぬいど)」があります。表情はごついのですが、体が小さいからか、どこか可愛らしい。狛犬の口から湧き出ている水でお金を洗うと倍増するといわれ、また、この水を飲むと安産になるというご利益も伝えられています。  路地をさらにすすむと、江戸時代の遊女ゆかりの「願掛け狛犬」や心のトゲを抜いてくれるという「トゲ抜き狛犬」がいます。拝殿裏手の石段を玉園稲荷神社にむかって登れば、頭にお皿が乗った「カッパ狛犬」が1対。狛犬定番の阿吽の表情です。お皿に水をかけて祈願します。  先にご紹介した諏訪神社のザクロの木は、参道の一角にある祓戸神社に植えられています。この祓戸神社の前でわるいものが入らぬよう見張っているのが、「立ち狛犬・逆立ち狛犬」です。名称のとおり、一方は後ろ足だけで立ち、もう一方は逆立ちという、とても珍しい姿をしています。こちらも、頭の上にお皿が乗っているので、カッパ狛犬の一種!?のようです。   よーく見ると、かっぱカッパ系と思われる狛犬が複数いらっしゃる諏訪神社。その不思議さと、どこか愛嬌のある個性的な姿に気を取られ、お願い事をするのを忘れそうになりました。

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  • 第594号【やさしく、やさしく、ハートフルに】

     みなさん、元気に過ごされていますか。長崎の大型連休は晴天に恵まれました。期間中、多くの方々が外出を自粛したことで、市街地の交通量は例年の半分以下だったとか。窓から見上げた5月の空が目にしみるほど美しかったのは、その影響もあったからなのでしょう。  今月はじめ、中島川の歩道で、長崎の郷土史家、越中哲也先生(98才)に偶然お会いしました。越中先生は、定期的に通っている病院の帰りとのこと。「体に電気ば通して来たとさ(笑)」と、相変わらず冗談めかしたもの言いで笑わせてくれます。杖をつきながらもワシワシと歩く姿は、いろいろな時代をくぐり抜けてきた方ならではの気概と気骨が感じられます。私たちが請えば、いつだって長崎の歴史のことをいろいろと教えてくださる、たいへんありがたい存在です。  川沿いのベンチの端と端に座って、少し休憩。新型コロナの話題から長崎の疫病の歴史について話をされました。江戸時代、長崎は海外との交流の拠点ということで、腸チフスやコレラなどの疫病が侵入し大流行したことが何度かあったそう。また、昭和6年にも腸チフスが長崎市で大流行。このとき越中先生は、お母様を亡くされています。「厳しい母だったんですよ…」。多くは語りませんでしたが、当時のことはいまも鮮明に記憶されていらっしゃるようでした。長崎市に発生したこの年の腸チフスは、患者数780人。死者数478人(長崎市衛生史年表より)。地元の医科大の教授は、「長崎市が未だ嘗て経験せざる程度の激甚なるものにして…」と、その猛威を記しています。  越中先生は、新型コロナに翻弄される現在の状況に、「いまは、なるだけ家でじっとしとかんばでしょうね」とおっしゃっていました。定期的に行われていたお寺での講座もしばらくはお休みで、いまは話のネタを集めていらっしゃるそう。そんな話をしていたら、目の前にアオサギがやって来ました。「おっ、鳥の来たばい」とひょいと腰をあげ、アオサギを指さす越中先生。立ち上がった勢いで、「さあ、ビールば1本買うて、早よ帰らんば」とおっしゃり、酒屋に向かって再びワシワシと歩いて行かれました。  越中先生とのたわいもない会話にリフレッシュ。ひとは、ちょっとしたことで気分が和んだり、ストレスが解消されたりするものですね。そこで、みなさんの気分が少しでも和むといいなあという思いを込めて、ハートフルなハートの画像をお届けします。  まずは、昨年度、市民の投票により長崎市の鳥に決定した「ハト」から。その顔をよーく見ると、クチバシの上あたりに白いハートが付いています。これは「鼻こぶ」とよばれるもので、大人のハトに見られるものだそうです。また、鹿も白いハート模様のお尻を持っています。以前、訪れた稲佐山公園の「しか牧場」で、ハートが並んで歩く姿を見て、思わず笑ってしまいした。  植物では、この春、咲き終えたローズマリーが、ハート型の袋に小さな種を携えていました。極めつけ!?のハートを持っていたのは、数年前、浦上天主堂の近くで出会った茶トラ猫です。お尻を地面につけ前足を立てた姿勢で座ると、お腹の上あたりの毛がキュッとハート型に!ちなみに、猫たちのこの姿勢は、エジプトの女神の神話にちなんで、「エジプト座り」と言うそうです。   まわりを丁寧に見渡せば、これまで見過ごしてきた小さなもののなかに、気分を和ませ、やさしい気持ちにしてくれるものがたくさんあるよう。さっそく、見つけてみませんか。

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  • 第593号【タケノコの季節です】

     窓から見える公園の桜は、すっかり葉桜に。数日ぶりに買いものに出ると、道すがらペラペラヨメナのまわりをシジミチョウが飛び交う姿に出合い、気分がほぐれました。お店に入ると、食料品はいつもと変わらない品揃え。野菜や果物などみずみずしい旬の食材も十分にあり、変わらぬ日常を支えてくれるもろもろの方々に、感謝の気持ちでいっぱいになりました。  さて、いろいろ出回っている旬の食材のなかで、存在感を放っていたのはタケノコです。タケノコは、パック入りの水煮が一年中手に入りますが、やはり独特の香り、歯ごたえは旬のものにはかないません。タケノコは、掘り出してから時間が経つほどエグミが増します。なので、朝掘りのものを手に入れ、できるだけ早く茹でてアク抜きをするのが、おいしくいただく秘訣です。  アク抜きをしたタケノコは、いろいろな料理にして楽しみますが、まずは、何と言ってもタケノコご飯ですよね。タケノコご飯は、かすかに土の香りがして、しみじみと郷愁を感じる味わいです。昔からこの時期の日本人の食卓にあがり、季節のめぐりを伝えてきました。手のひらで叩いて香りを引き出した山椒の芽を添えていただくのが定番スタイル。子どもたちは、山椒の芽は苦手のようですが、酸いも甘いも噛み分ける大人になれば、そのクセのある香りがないと物足りなくなるはずです。  タケノコは、タケノコ汁や土佐煮、若竹煮など、煮物や汁物にとレパートリーが広い食材です。また、皿うどんにもよく使われる具材のひとつです。旬のタケノコやキャベツを使った春限定の皿うどんはひと味違います。ちなみに皿うどんは、具材の種類や量など、けっこう自由に好みを反映できます。春に限らず、四季折々に旬の具材を取り入れて、いつもの皿うどんを季節の一品として楽しんでみませんか。  さて、タケノコは文字通り竹の子どもです。日本で竹といえば、孟宗竹(もうそうちく)、真竹(まだけ)、破竹(はちく)が知られています。現在、私たちが主に食べているのは、孟宗竹(モウソウチク)です。孟宗竹は全国各地に植えられていますが、実は中国原産で江戸時代に渡来したもの。琉球を経て薩摩に入ったという説や黄檗宗の隠元禅師がもたらしたという説、また、京都の黄檗宗の僧が中国から持ち帰ったなど、伝来には諸説あり定かではないようです。 ところで、この時期の竹林に行くと、葉は枯れたように黄色くなっています。これはタケノコに栄養分がいくためだとか。多くの木々が新緑をつける季節に、黄葉する竹の景色を、俳句では、「竹の秋」という春の季語で表現します。余談ですが、タケノコやタケノコご飯は、春の味覚と思う方も多いと思いますが、俳句では夏の季語になっています。実際に、タケノコが出回るのは春の終わり頃から初夏にかけて。ときおり、夏めいた日差しや風を感じる頃ではあります。   さて、たまの買い物に出かけた際、まちなかで、新しい市役所の建設工事(長崎市魚の町)や、新幹線の線路の橋桁工事(長崎市八千代町付近)を見かけました。長崎の未来のまちのかたちは着々と築かれているよう。さまざまな制限があっても、よりよい未来を願う気持ちはみな同じです。こういうときだからこそ見える大切な景色もあるはず。状況を前向きに受け入れて、明るい明日につなげていきたいものですね。

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  • 第592号【季節はめぐる】

     先週4月3日に満開を迎えた長崎の桜。窓から見える公園の桜は、見頃もそろそろ終盤に入り、花びらが気持ちよさげに宙を舞っています。ちぢこまった気分と体をのびのびさせようと外へ出ると、通りの片隅で小さな植物たちが、元気いっぱいに花を咲かせていました。思えば、よく見かける草花なのに名前を知らないものばかり。ポケット図鑑を携えて、散歩に出てみました。  最初に目にとまったのは、黄色い花です。葉はアザミに似て、触ると痛いくらいのトゲトゲがあります。アザミの変種かも?と思いつつ図鑑のページをめくると、ありました!これは、「オニノゲシ」。ヨーロッパ原産の植物で花期は、春から秋にかけて。「オニノゲシ」より、細身で葉もやわらかなタイプは、「ノゲシ」。こちらも道路脇などでいっぱい花を咲かせていました。  ところで、春を代表する黄色い花といえば、「タンポポ」という人が多いと思いますが、西日本には白い花を咲かせる「シロバナタンポポ」という種類があります。黄色いタンポポより花期は短めのようで、3月にはよく見かけた花も、4月に入ってからは綿毛をつける準備に入った姿しか見られませんでした。ちなみに、私たちがふだん見かける黄色いタンポポの多くは外来種の「セイヨウタンポポ」だそう。在来種の黄色いタンポポと見分けがつきにくいのですが、花びらのすぐ下の緑色の部分で「総苞片(そうほうへん)」といわれるところが反り返っているのが、「セイヨウタンポポ」。反り返らずしっかり花びらの根元にくっついているのが在来種だそう。ちなみにシロバナタンポポは在来種ですが、「総苞片」は、やや反り返っています。  さて、春を代表する野の花に、「スミレ」をあげる人もいらっしゃるでしょう。可憐でさり気ない咲きようは、昔から日本人の心をくすぐってきました。「山路来てなにやらゆかしすみれ草」(松尾芭蕉)、「鼻紙を敷いて坐れば菫かな」(小林一茶)、「菫程小さき人に生れたし」(夏目漱石)。  長崎市民の総鎮守、諏訪神社の参道。その登り口にある最初の鳥居から3つ目の鳥居までの石段には、春になると「ヒメスミレ」が石の継ぎ目のあちらこちらから芽を出し、濃い紫色のかわいい花を咲かせます。この春限定で見られる「すみれ参道」の光景を、毎年楽しみにされている方もきっといらっしゃることでしょう。  桜咲く「シーボルト記念館」の庭園でも、「ヒメスミレ」と、うす紫色の「タチツボスミレ」が咲いていました。スミレはとにかく種類が多く、150種類以上とも言われています。小ささゆえに見過ごしがちですが、身近な場所に咲いています。見つけたら、花びらや葉の形、色、葉のつき方などを注意深く観察してみませんか。種類が分かると、ぐんと親しみがわいてきます。   『すべての事象は過ぎ去るもの 怠りなく励め』という言葉を残されたのは、お釈迦さま。季節はめぐり、みんながほっとできる日も必ずやってきます。いまは、手洗い、うがい、外出時のマスク着用を怠らず、暮らしのなかで小さな楽しみを見つけて、明るい気持ちで過ごせたらいいですね。

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  • 第591号【春を、おいしく、たのしく】

     春キャベツが出回っています。秋冬に採れるものと比べると、巻きがゆるめ。葉肉はやわらかく弾力があります。みずみずしい色合いも食欲をそそります。キャベツは、長崎ちゃんぽんに欠かせない野菜のひとつです。いつもより多めに春キャベツを加えると、器の中がいっきに春めいて気分も上がりますよ。  キャベツは、長崎にゆかりのある野菜です。日本へは、江戸時代にオランダ船が出島に運んできたのが最初といわれています。そのときは食用としては普及せず、もっぱら観賞用だったとか。食用として栽培されはじめたのは、明治に入ってからだそうです。  先日、遊びにきた親戚の子たちのために、春キャベツたっぷりのちゃんぽんを作りました。急だったので、タコ、イカ、エビなどのシーフードはあいにく切らしていたのですが、豚バラ肉、春キャベツ、玉ねぎ、ニンジン、もやし、キクラゲなど、台所にあった食材で対応。ちゃんぽんの具材は、豚肉、キャベツ、玉ねぎさえあれば、あとは柔軟に楽しめるので、とても助かります。おいしいちゃんぽん麺とスープの素を使えば、作るのも簡単。お子さんたちと一緒に「我が家特製春ちゃんぽん」を作ってみませんか。  春のひとときを子供たちと過ごすなら、バードウォッチングもおすすめです。わざわざ遠くの野山に出る必要はありません。近所の住宅街や公園、川沿いなどで、いろいろな野鳥と出会うことができます。  長崎の住宅街などで、ふだん見かけるのはスズメ、メジロ、ヒヨドリ、イソヒヨドリなどの留鳥たちです。花を付けた椿や桜などの枝がゆれていたら、そっと近づいてみましょう。好物の花蜜を求めて花から花へ飛び回るメジロがいるかもしれません。  まるで、おしゃべりでもしているかのように、強弱を付けて長くさえずるのがイソヒヨドリです。聞いているこちらも、「へ〜、そうだったのね」と返事をしたくなります。また、3月に入ってからは、ツバメも飛び交うようになりました。産卵期に向けて巣作りに励んでいるようです。  樹木の多い静かな公園などでは、カワラヒナ、ジョウビタキ、シロハラなどと出会えます。カワラヒナは、スズメよりやや大きく、緑がかった茶色をしています。翼と尾に鮮やかな黄色の斑があるのが特長です。ジョウビタキ、シロハラは、来月あたりロシアや中国大陸へ帰る冬鳥。ジョウビタキは、明るく開けた場所で見かけますが、シロハラは、樹林の暗がりが好みのよう。社寺の境内の片隅でカサコソと落ち葉の上を歩いていたりします。   石橋群で知られる中島川では、キセキレイ、ハクセキレイが縄張り争いをしている様子やシラサギ、マガモが餌取りに夢中になっているところを見かけます。長崎港では、もうすぐユーラシア大陸に帰るホシハジロのツガイの姿もありました。普段は見過ごしがちな身近な野鳥たち。野鳥を見つけるコツは、さえずりをとらえること。耳を澄ませば、ほら、あの枝、あの水辺にいますよ。

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  • 第590号【はじまりの春、龍馬を想う(後編)】

     新型コロナウィルスの影響で、不要不急の外出を控えている人が多いよう。いつもより静かに感じる長崎のまちを歩いていたら、頭上をスーッと何かが横切りました。ツバメです。長崎地方気象台がツバメ初見日を発表したのは、翌日の3月5日。平年の初見日は3月20日なので、2週間ほど早い到来だったようです。  前回に引き続き、龍馬の長崎でのゆかりの地を訪ねます。今回は、長崎駅前に位置する筑後町の「本蓮寺(ほんれんじ)」から。ここは、勝海舟が海軍伝習所の伝習生頭取として長崎に派遣されたときに宿泊したところです。寺の境内にあった大乗院に4年ほど(1855-1858))滞在したと伝えられています。海舟は、異国文化の香りを胸いっぱいに吸い込みながら、航海術をはじめ海軍に関する技術や知識をおおいに得て、視野を広げました。このとき培ったものが、のちの神戸海軍操練所の開設につながり、数年後に出会う龍馬へ大きな影響を及ぼすことになります。  海舟と龍馬が初めて出会ったのは、文久2年(1862)の暮れ。同年春に土佐藩を脱藩したばかりだった龍馬は、海舟の考えに魅了されすぐに弟子入り。神戸海軍操練所を経て、元治元年(1864)、幕命で長崎へ行くことになった海舟に同行して初めてこの地へやって来て、長崎奉行所立山役所を訪れたと伝えられています。  その後、龍馬は断続的に長崎を訪れながら、翌年の慶応元年(1865)には日本初の貿易商社といわれる「亀山社中」(のちの海援隊)を結成。薩長同盟の締結や「船中八策」の起草など、時代を動かす大仕事を成し遂げていきました。  ところで、長崎奉行所立山役所跡(現・長崎歴史文化博物館)から、玉園町、筑後町と続く通りを抜けた先に、前述の「本蓮寺」があります。この寺の墓域には、龍馬とともに脱藩し海援隊のメンバーでもあった沢村惣之丞が眠るお墓があります。いまも、龍馬ゆかりの地を訪ねる人たちが墓参りに訪れているようです。  筑後町・玉園町界隈には、龍馬ゆかりのスポットがまだまだあります。唐寺「聖福寺」(長崎市筑後町)もそのひとつ。ここは、「いろは丸事件」の正式な談判が行われた場所です。事件は、海援隊が大洲藩から借りていた船「いろは丸」が、紀州藩の船と衝突し沈没したというもの。龍馬は相手船に責任があるとして、損害賠償交渉を行います。このとき、龍馬は世論を味方につける歌をまちに流行らせるなど、したたかな交渉術をみせました。  龍馬もくぐった「聖福寺」の山門を出ると、江戸時代創業の料亭「迎陽亭」跡があります。この料亭では当時、卓袱料理が出されていたとか。もしかしたら、龍馬も円卓に座し、和洋折衷の料理に舌鼓を打ったかもしれません。   同界隈から徒歩圏内に、後藤象二郎邸跡(長崎市金屋町)、小曽根邸跡(長崎市万才町)、土佐商会跡(長崎市浜町)や薩摩藩蔵屋敷跡(長崎市銅座町)など龍馬ゆかりのスポットがあります。さらに、丸山や大浦の居留地まで含めれば、当時の長崎まちの主な通りを、龍馬はくまなく通っていたことがわかります。ブーツを履いて長崎のまちを縦横無尽に闊歩する龍馬。世の中をいい方向へ動かすぞ、という胸のうちまで聞こえてくるようです。

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  • 第589号【はじまりの春、龍馬を想う(前編)】

     九州はいつもの年よりも早く、春めいています。大陸から飛来する黄砂で景色がかすむのは、だいたい3月くらいからですが、今年は2月に入ってから、何度も黄砂現象が見られました。  多くの人が人生の大切な節目を迎える春。進級や進学、就職の際の期待と不安が入り混じる気分は、大人になってからも蘇ることがあります。そんなとき、励ましや参考になるのが、先人たちの生き方です。なかでも、坂本龍馬は、新しい時代にいち早く目覚め、前例にこだわらない行動力で、会いたい人に会い、やりたいことには躊躇なく自ら足を運び、混沌とした時代を動かしました。その人柄や生き方は、時代を超えていまも多くの人を惹きつけてやみません。  慶応元年(1865)に龍馬が長崎で設立した貿易商社「亀山社中」(長崎市伊良林)の跡へ足を運びました。風頭山の中腹にある「亀山社中」へは、山裾の寺町通りから石段を登って行きます。社中のメンバーが往来したと伝えられるこの石段は現在、「龍馬通り」と名付けられています。急で長い石段なので、皆、「ふーふー」いいながら登り降り。それでも龍馬目当ての人たちの往来は絶えません。  「亀山社中」は日本初のカンパニーといわれ、のちに貿易や海運業を行いながら政治集団、「海援隊」に発展します。「亀山社中」の跡は、現在「長崎市亀山社中記念館」として公開されています。幕末の長崎や龍馬らの活動の様子がうかがえる写真や資料が展示されています。  血気盛んな志士たちが集った「亀山社中」のメンバーには、長岡謙吉、近藤長次郎、陸奥陽之助、沢村惣之丞などがいました。この界隈には、当時の彼らの姿を彷彿させるスポットがあちらこちらに。記念撮影をするなら、「亀山社中」の跡のすぐそばにある「龍馬のぶーつ像」で。日本で最初に「ぶーつ」を履いたとされる龍馬にちなんで造られた像です。  「亀山社中」の跡から狭い路地を数分行くと、若宮稲荷神社があります。社中の面々が折々に参拝したと伝えられています。境内の一角には、龍馬像も建立されています。若宮稲荷神社の参道を下ると、龍馬や土佐藩の重臣・佐々木三四郎、英国の貿易商トーマス・グラバーなどがよく利用したという料亭・藤屋跡があります。  そこからさらに数分足を伸ばし中島川のほとりに出ると、龍馬にもゆかりのある幕末の商業写真家、「上野彦馬宅跡」があります。中島川には眼鏡橋をはじめいくつもの石橋がかかっていますが、この石橋群も龍馬をはじめとする幕末の志士たちが闊歩したに違いありません。  寺町通りの一角にある、「晧台寺(こうたいじ)」。風頭山の斜面にある墓域には、「龍馬の片腕」と呼ばれた近藤長次郎のお墓が、後援者であった小曾根家の墓地内に設けられていました。墓石に刻まれた「梅花書屋氏墓」は龍馬の筆と伝えられています。「梅花書屋」とは、悲運の最後を遂げた小曾根家の離れの屋敷名だそうです。   長崎市中を見渡せば、あちらこちらに幕末の息吹をまとった亀山社中の志士たちの姿が見えてきます。それにしても、なぜ、龍馬は長崎へやって来たのでしょうか。次回へ続きます。

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  • 第588号【長崎稲佐山スロープカー】

     立春が過ぎ、日に日に日差しが春めいてきました。長崎のまちは、「2020長崎ランタンフェスティバル」が終わり、ひと息ついているところですが、実は、このランタンフェスティバル開催中の1月31日、長崎の観光にとってうれしいニュースがありました。  それは、「長崎稲佐山スロープカー」の運行開始です。スロープカーとは、斜面走行モノレールのことで、稲佐山の中腹に設けられた「中腹駅」から「山頂駅」までを約8分で結びます。    ところで、稲佐山には、長らく親しまれている「長崎ロープウエィ」があります。こちらは1959年に開業し、1960年代の長崎観光を牽引。いまでは、定番の観光施設となっているこのロープウエィも、もちろん健在です。稲佐山の山頂まで、東側から上るのがロープウエィで、長崎港を中心とした市街地の全景を楽しむことができます。一方、北側から上るスロープカーは、浦上方面や市街地北部の向こうに連なる山々の稜線を望み、途中からは長崎港沖合の軍艦島や伊王島などダイナミックな景観を楽しむことができます。  「長崎稲佐山スロープカー」は、2両連結。車両は、ガラス張りが広くとられ、車内のどの位置にいても外の景色をぞんぶんに楽しめます。スタイリッシュな車両のデザインが、どこか長崎ロープウエィのゴンドラにも通じると思っていたら、やはりゴンドラと同じ世界的工業デザイナー奥山清行氏率いるKEN OKUYMA DESIGNによるものでした。  スロープカーの乗り場となる「中腹駅」は、稲佐山公園の無料駐車場の一角にあります。「中腹駅」から稲佐山の尾根伝いに敷かれた約500メートルのレールは、ゆるやかに蛇行。約8分かけて上り下りします。静かで快適な運行なので、乗り物酔いをすることもありません。  標高333メートルの稲佐山山頂に到着したら、徒歩で展望台へ。港を含む長崎市街地を一望。ロープウエィやスロープカーともまた違った美しい景観が広がります。特に世界新三大夜景(2012年)に選ばれた夜景は格別です。  今回、「長崎稲佐山スロープカー」の登場で、あらためて注目されている稲佐山公園。稲佐山公園は、その広い敷地内に、山頂の「展望台」をはじめ、コンサート会場ともなる「野外ステージ」を擁し、さらに、猿舎、鹿放牧場、ドッグラン、遊具広場、草スキー場広場などもあり市民の憩いの場として利用されてきました。また、4月下旬から5月はじめにかけて、8万本にもおよぶつつじが咲き誇り、毎年「つつじまつり」も開催されています。   スロープカーの営業時間は、午前9時から午後10時まで。料金は一般で往復500円、片道300円。「山頂駅」は、ロープウエィの駅と隣接しているので、上りはスロープカー、下りはロープウエィというふうに、両方を楽しむのもいいかもしれません。

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  • 第587号【長崎ランタンフェスティバルと孔子廟】

     いよいよあさって24日(金)から「2020長崎ランタンフェスティバル」がはじまります(〜2月9日(日)迄)。例年より2日長い17日間の開催です。すでに長崎のまちはランタンの装飾を終え、準備万端。みなさまのお越しを心からお待ちしています。  長崎の冬の風物詩、「長崎ランタンフェスティバル」は、今年で26年目を迎えます。長崎市の中心部を埋め尽くすように飾られるランタンやランタンオブジェの数は、約1万5千個。日が沈む頃、ランタンが灯りはじめ長崎のまちはどこか夢見心地な雰囲気に包まれます。  期間中、市中心部に設けられた7カ所の会場(新地中華街会場・中央公園会場・唐人屋敷会場・興福寺・鍛冶市会場・浜んまち会場・孔子廟会場)では、中国雑技や龍踊り、二胡の演奏などの催しが繰り広げられます。各会場は、5分前後の徒歩圏内で結ばれていますが、孔子廟会場だけがちょっと離れていて新地中華街から徒歩15分ほど。「石橋」行きの路面電車を利用するといいかもしれません(「大浦天主堂」電停下車)。  「長崎ランタンフェスティバル」の期間中、催しを行う会場として賑わう「長崎孔子廟」。近年では、中国の伝統芸能である変面ショーが大人気。中国の国家機密という、瞬時にお面が変わる早業で人々を魅了します。  儒学の創始者である孔子(紀元前552〜前479)を祀る「長崎孔子廟」は、明治26年(1893)に清朝政府と在日華僑の人々が協力して建てたものです。湯島聖堂(東京都)、足利学校(栃木県)、多久聖廟(佐賀県)など日本各地に孔子廟はありますが、中国の伝統的な様式でつくられたものは長崎だけだそうで、たいへん見応えがあります。  強い印象を残すのは、やはり中国独特の色合いでしょうか。扉や柱などは、中国で魔除けとよろこびを表すとされる朱色。屋根瓦は濃い黄色です。清朝時代、屋根瓦の色は住人の地位を表すものだったそうで、黄色は皇帝が住む宮殿などに用いられていました。孔子の御霊は、皇帝と同等であることを意味しているのです。その屋根瓦には、守り神として伝説の神獣である龍、鳳凰、麒麟が配されています。廟内をつぶさに見ていくと、こうした神獣や伝説の動物たちが数多く見られます。なかでも龍はいたるところに配され、数えきれないほど。長崎孔子廟は、まるで龍の宿のようでもありました。  釈迦、ソクラテス、キリストとならび、世界の4大聖人のひとりとされる孔子。4人のなかでもっとも早くこの世に誕生したのが孔子です。孔子とその一門の思想が語られた『論語』は、儒教や中国伝統思想の根幹になっています。日本へは5世紀には伝えられたとされ、現在にいたるまで大きな影響を与えています。   誠実さ、中庸の徳、謙虚の徳を教えた孔子。人として守るべき八つの行いとして伝えられる「孔子の八徳」(孝・悌・忠・信・禮・義・廉・恥)は、人生の指針やいましめになります。戦国の世も、平和のときも、人々がけして手放さなかった孔子の教え。旧暦の年の初めに響く言葉がきっとあるはずです。

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  • 第586号【新春のシロハラとロウバイ】

     年が明けて、はや1週間。どんなお正月を過ごされましたか。長崎の年末年始は、穏やかな天候に恵まれました。帰省者や初詣を終えた人々が街に繰り出すのを横目に、静かな市街地のはずれに出向けば、ジョウビタキやシロハラなど越冬のため大陸から渡ってきた野鳥との遭遇が相次ぎました。  近年の夏の猛暑に加え、この冬の西日本は、寒の入りしたいまも例年より高めの気温が続いています。自然界への影響が気になるところですが、おなじみの渡り鳥たちは例年どおりにやって来たようです。シロハラは、全長約24センチ。枯葉の中にいると紛れてしまう灰褐色の姿ですが、お腹部分だけ羽毛が白く、名前の由来になっています。繁殖地は、中国の東北部からロシア沿岸地方。10月頃、日本へ渡り来て、春にまた繁殖地へもどります。  長崎の市街地で毎年シロハラを確認しているのは、県立鳴滝高等学校の庭園です。ここは、江戸時代には唐通事・彭城(さかき)家の別宅の庭園でした。現在は当時の面影を残しつつ、タイサンボクやオガタマノキ、クスノキ、マツなどが植えられ、小さな樹林の庭になっています。秋が深まるといつの間にかやって来たシロハラが、カソコソと枯葉を返しながら餌(昆虫)をとる様子を見かけます。  このシロハラを、新年早々、別の場所でも確認できました。鳴滝から約1km離れた上西山町の松森神社です。境内を散策していると、梅の古木に留まっているところを発見。ささいなことには動じない性格のようで、ムクドリが目の前のクスノキの枝葉をザワザワと揺らしても知らんぷり。単独行動を好むというシロハラは、肝が据わった野鳥でもあるようです。   渡り鳥シロハラを迎えた松森神社は、街なかにありながら豊かな緑に囲まれた神社です。境内では数本の大きなクスノキ(長崎市指定の天然記念物)がのびのびと枝葉を広げています。初詣に訪れた人々は、本殿まわりに植えられたロウバイ(蝋梅)を見るのが楽しみのひとつです。甘く清しい香りを放つロウバイの花は、毎年12月に開花し、1月上旬まで楽しむことができます。  ロウバイは中国原産の花木で、江戸時代初期に日本に伝えられたともいわれています。その名は、花びらが蝋のような光沢があることに由来します。12〜2月の寒い時期に花を咲かせることから、中国では梅、水仙、山茶花とともに「雪中四友(せっちゅうしゆう)」のひとつとして尊ばれているそうです。  松森神社のロウバイは2種類あるよう。花中央に赤紫色が見られ、花びらが細長くクリーム色をしているのは、原種に近いらしい。もう一種は、明るい黄色の丸い花びらで、本殿前の臥牛像の脇に植えられています。ロウバイの花言葉は「慈愛」。厳寒の時期、やさしい香りを漂わせる小さくて明るい花は、凍てつく心と身体を温めてくれます。ロウバイの花のように、慈愛に満ちた一年でありますように。  ◎本年もみろく屋の「ちゃんぽんブログ」を、よろしくお願い申し上げます。

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  • 第585号【現在・過去・未来を思う年末年始】

     イルミネーションに彩られ、ロマンチックな装いの長崎駅。隣接する「かもめ広場」では、美しくきらめく大きなツリーが、急ぎ足で行き交う人々の足をとめています。終着駅の哀愁漂うこぢんまりとした改札口がある長崎駅。この風景のあるクリスマスは、今年で見納めです。というのも、来年3 月28日に新しい長崎駅が開業予定で、新駅舎は現在地から西側(稲佐山側)に150メートルほど移動。高架になる本線にあわせて、ホームは2階に(改札と窓口は1階)設けられるそうです。  長崎駅を中心とした周辺エリアは、新しい整備事業のもと、大きな変化の真っ只中にあります。すでに、長崎県庁舎、長崎県警察本部庁舎は近隣に移転。これから3年のうちに、九州新幹線長崎ルートの開業(2022年予定)にともない長崎市交流拠点施設(MICE施設)をはじめ新しいホテルや商業施設などが生まれる予定。うれしい未来がすぐそこまで来ています。  時代とともに変貌をとげる長崎のまち。この年末、そんなことに思いを馳せる催しが、もうひとつありました。発掘調査が行われていた長崎県庁舎跡地(長崎市江戸町)の現地見学会(12/22)です。今年、前県庁舎が解体され、10月中旬から発掘調査がはじまりました。見学会では、その状況を広く一般に知らしめるため、現地を部分解放。発掘された品々も公開されました。 長崎県庁舎跡地は、長崎のまちだけでなく、日本の近世・近代の歴史にとって、たいへん重要な場所です。現在は、周囲が埋め立てられて分からなくなっていますが、その昔、この場所は長い岬の突端にあたり、長崎開港以前はうっそうと緑が生い茂るなかに、森崎権現社の小さな祠が置かれていただけであったと伝えられています。  元亀2 年(1571)、長崎にポルトガル船が初めて入港すると、この岬の突端を中心にまちづくりがはじまり、長崎は南蛮貿易港として急速に発展しました。以来、この場所には長崎の歴史の変遷を物語る重要な施設が入れ替わり立ち替わり置かれました。南蛮貿易時代には、「岬の教会」、「イエズス会本部」。江戸時代には、「被昇天の聖母教会堂」、「五ヶ所糸割符宿老会所」(のちに長崎会所に至る貿易機関)、「長崎奉行所西役所」、幕末には「海軍伝習所」、「医学伝習所」。そして、明治以降は「長崎県庁舎(初代〜4代目)」が長く所在しました。  見学会では、そうした時代背景をベースに、計画的に掘り下げられたポイントを見ることができました。埋められた古い石垣や歴代県庁舎の遺構などを確認。江戸時代のものと思われる瓦片や漆喰片をはじめ石灯篭、花十字紋瓦、コンプラ瓶、有田焼のタイルなどの発掘物も展示されていました。多くの人が期待しているのは、やはり、南蛮貿易時代の教会に関連する遺構の出土。当時の様子がうかがえるものが見つかるといいのですが。  ところで、発掘されたものの中で今回いちばん印象に残ったのは、小ぶりの牛乳瓶でした。瓶には『油屋町 吉田ミルクプラント』と文字があり、知り合いの女性から聞いた戦前の話を思い出しました。長崎の中心部に生まれ育ったその方は、子どもの頃、「吉田ミルクプラント」こと「吉田牧場」の牛乳を、毎日家に届けてもらっていたそうです。当時の牛乳は、現在とは別の方法の高温殺菌だったらしく、「届けられた牛乳は、いつも熱々だったのよ」とおっしゃっていました。「吉田牧場」は、明治から戦前にかけて小島川が流れる長崎市の愛宕界隈にありました。「牧場で、牛と牛の間を駆け抜ける遊びをしたことがあるんだけど、怖かった〜(笑)」。戦前の長崎のまちっ子ののびのびとした様子が伝わるエピソードでした。  ◎本年もご愛読いただき、誠にありがとうございました。

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