ブログ

  • 第629号【初夏、プチ五島旅でリフレッシュ】

     コロナ禍3回目のゴールデンウィークは行動制限なし。なかなか会えずにいた知人を訪ねて五島列島で2番目に大きな島、中通島(なかどおりじま)へ行ってきました。五島へは、長崎港の大波止ターミナルから船で渡ります。ターミナルではマスク着用や手指消毒などの感染予防対策をしっかり行う一方で、コロナ以前を思わせる人の流れがみられ、ちょっと明るい兆しを感じました。  久しぶりに訪れた五島では、自然の美しさにあらためて感動。海岸に迫る山の斜面や入り組んだ海沿いを行く車道からは、五島灘を見渡す絶景をぞんぶんに楽しみました。澄んだ空気やきみどり色の初夏の山々の景色もすばらしく、こうした自然が五島の海の美しさにつながっていることを実感しました。  中通島での短い滞在時間のなかで、知人が蛤浜(はまぐりはま)という海水浴場へ連れ出してくれました。500メートルほどもある遠浅の白い砂浜で知られるこの海水浴場は、水質や安全性にもすぐれ、環境省の「日本の水浴場88選」「快水浴場百選」にも選ばれています。初夏の風が吹き抜けるシーズン前の浜辺は、訪れる人もまばらで、とても静か。野鳥の鳴き声を聴きながらブルー&グリーンのグラデーションを描く海をしばし眺めました。  コロナ禍ということもあり長居は禁物と、とんぼがえりのプチ五島旅でしたが、おおいにリフレッシュ。たまには、非日常を過ごすことも大切だなあと思いながら、いつもの中島川沿いの散策に出ると、高麗橋のそばでアマリリスなどの花々が開花。川沿いはすっかり初夏の景色になっていました。  おおぶりの花がひときわ目をひくアマリリスは、「ジャガタラ水仙」という別名があります。南米やアフリカ原産で、日本へ渡ってきたのは、一説には江戸時代の1850年頃ともいわれています。「ジャガタラ」は、インドネシアのジャカルタの古名で、長崎の歴史をふりかえるとき、必ず出てくる言葉のひとつです。憶測ですが、アマリリスは長崎に入港したオランダ船、または唐船が初めて日本に運んできたのかもしれません。  観光客の姿が目立つようになった眼鏡橋のそばでも、花穂をつけたチガヤ(茅萱)が風にゆれる、初夏らしい光景がありました。チガヤは、日当たりのいい田んぼの畦や土手、空き地などに生える草で、全国各地で見られます。その姿は、同じイネ科で多年草のススキによく似ています。ふさふさとした花穂は、茅花(ツバナ)と呼ばれ、甘みがあり、かつては子どものおやつがわりにされていた時代もあるそうです。   チガヤは、繁殖力が強いため「しぶとい雑草」と嫌う人もいるようですが、茅花がいっせいに風になびく光景には風情が感じられます。ちなみに、「茅花流し(ツバナナガシ)」という初夏の季語は、茅花を揺らすちょっと湿った南風のことです。ツバナの群生の向こう側に、日本でもっとも古いアーチ型石橋の眼鏡橋が佇む光景は、日本人の風流心をくすぐります。写真を参考に、「茅花流し」で一句作ってみませんか。

    もっと読む
  • 第628号【はじまりの春。新しい展開へ】

     3月下旬に満開を迎えた長崎の桜。今年は、朝晩の冷え込みが続いたこともあり、おもいのほか長く花を楽しめました。桜前線はいま東北地方を北上中。すでに、長崎の桜は初夏のような日差しを浴びて若葉の季節へ。こんな時代だからこそ、移りゆく季節を感じるひとときを大切にしたいですね。  進学、就職、退職など、この春、人生の節目を迎えた方も多いことでしょう。路面電車に乗り込むと、真新しい制服に身を包んだ学生さんたちが目を引きます。マスクを付け、友だちとひかえめに会話し、アイコンタクトで笑顔を見せ合う姿が気の毒でもあり、微笑ましくもあり。充実した学生生活を送ってほしいと願うばかりです。  この春、長崎での新しい展開といえば、先月18日に長崎駅の改札前にオープンした「長崎街道かもめ市場」が注目を浴びています。長崎を代表するお土産品や飲食店など、54店舗が一堂に。伝統の味から新しいおいしさまで、長崎の文化や食の豊かさを堪能できる新スポットです。各店舗には、かもめ市場限定のオリジナル商品があって、「みろくや」もちゃんぽん、皿うどんを長崎らしい絵柄のコンパクトなパッケージに包んだ商品を用意しました。本場のおいしさを、スマートに手渡せるお土産として、観光客や出張帰りの方々に好評です。  さて、折にふれ、中島川の野鳥をご紹介してきた当コラムでも、この4月に新しい展開がありました。2年ほど前に初めて確認して以来、めったに見かけなかったカワウ(川鵜)の撮影に成功。今回が3度目の遭遇で、潜水して川魚を採餌する様子や川面に浮く姿、歩いたり、飛び上がったりする様子など、じっくり観察できました。  カワウは、眼鏡橋より上流にかかる魚市橋から東新橋、すすき原橋あたりを行ったり来たりしていました。この冬、カイツブリがいた場所です。川魚が多く採餌しやすいのかもしれません。しきりに潜っては、川魚をくわえ水面に上がって来ました。カワウは、群れで採餌することが多いそうなのですが、中島川で見かけるときは、いつも一羽だけ。深緑色を帯びた黒い羽が美しい水鳥です。 全国各地に分布するカワウは、沿岸部の海水域から海水と淡水が混じり合う汽水域、そして内陸部の淡水域まで、幅広い水域で採餌するそう。ちなみに、カワウによく似たウミウ(海鵜)との見分け方は、口角の黄色の部分の形が尖ってないのがカワウ。また頬の白い部分が、目尻からまっすぐのびているのがカワウで、斜め上に伸びているのがウミウです。   中島川にときおり現れるカワウが、今後どんな展開を見せるのか、散歩観察を続けていきます。眼鏡橋からひとつ下流の袋橋の下では、春の風物詩、アオサが一面に茂りグリーンの絨毯のようになっていました。そこへ飛来してきたアオサギが、そろりそろりと細い足を踏み入れながら、獲物探し。ときおり羽根を広げて春の陽光を浴びる姿がきれいでした。

    もっと読む
  • 第627号【そろそろ北へ帰る渡り鳥】

     この冬の北国は、これまでにないほどの大雪に見舞われました。一方、九州・長崎では小雪の舞う日が数日あった程度でしたが、2月の冷え込みは昨年より厳しかった気がします。そして、訪れた3月。春風に乗って大陸から西日本各地に黄砂が飛来。長崎の景色が霞みました。眼鏡橋などの石橋群で知られる中島川では、菜の花が満開に。春らしい色合いに気分も明るくなります。菜の花の花言葉は、「小さな幸せ」、「希望」など。いま世界中の人々に祈りを込めて捧げたい花です。  日に日に春めいてはいるものの、「春に三日の晴れなし」とはよく言ったもの。冷たい季節風に吹かれて身ぶるいする日もありますよね。そんな中、中島川では、先月ご紹介したカイツブリの姿が見られなくなりました。早々と北へもどったのかもしれません。市街地で見かけていたジョウビタキやアカハラといった野鳥も、春は北へ帰ります。そうした渡り鳥たちがいなくなるのは寂しいですが、中島川には、魅力的な留鳥(季節による移動をしない鳥)が何種類もいます。冬枯れの枝に留まっていたのは、カワセミでした。翡翠色の羽根はいつ見ても美しい。その長いくちばしで、水中の魚を狙い採ります。  真っ白な羽がきれいなコサギも、季節を問わず出会える野鳥です。見た目から「シラサギ」と呼ぶ人が多いよう。コサギは、全長約60センチ。白いサギの仲間のなかで、もっとも小さい種類だそう。黄色い足指が特徴です。  長崎市三和地区を流れる「大川」では、中島川では見かけない種類のカモがいました。コガモ(小鴨)です。マガモ(全長約60センチ)のつがいのそばにいたので、はじめは子ガモだと勘違い。コガモは全長37.5センチほどで、カモ類のなかでは、もっとも小型です。そのサイズ感がカイツブリを彷彿させますが、潜水は得意ではないよう。首を伸ばし、水面に顔をつっこんで餌を採っていました。  コガモは、越冬のため日本に渡ってきて、ツガイとなる相手を見つけます。そして春、北国へ帰ると繁殖して子育てをするそうです。そんなコガモもそろそろ北へ帰る頃ではないでしょうか。こうした渡り鳥たちは、はるか昔から国境など関係なく、季節に応じて自由に行き交ってきました。本能的に秩序を保ち、その小さな体で大海原を超えていく。すごいですね。   さて、中島川にもどり、近くにある長崎市民会館へ。会館前の広場は整備中でこの3月に「緑の憩いの空間」が完成するそう。ちなみに、市民会館は1974年にオープンした建物です。今年度は、長崎開港450周年記念事業が行われましたが、長崎市民会館は、開港400周年記念事業のひとつとして建設されたものだそう。完成から半世紀近く経ち、ほどよいレトロ感が漂う長崎市民会館の正面には、電車通りをはさんで、長崎市役所の新庁舎が建設中です。年内には完成し、来年1月に開庁予定。長崎のまちの新時代の風景がもうすぐ動き始めます。

    もっと読む
  • 第626号【中島川にかわいい新入りカイツブリ】

     春節(旧暦の元旦)を祝って華やかな催しが行われてきた「長崎ランタンフェスティバル」。新型コロナ感染拡大の影響で今年も中止になりましたが、春節の期間中(今年は2月1日〜15日迄)、新地中華街や浜町、中島川などの長崎市中心部では、新型コロナの収束と市民を応援する思いを託した希望の灯として提灯(ランタン)のみの装飾が行われています。来年こそは、たくさんの人々が笑顔でランタンを見上げて歩くことができますように。  何かと縮こまりがちな季節ではありますが、この冬、中島川ではかわいい水鳥やってきて、明るい話題を提供しています。全長約26センチ。小さくて丸い身体つきが愛らしいカイツブリです。ガイドブックによると、全国各地の河川や湖沼に生息している水鳥なのですが、中島川でカイツブリを見かけたのは今回が初めて。冬になると北にいたものが暖地へ移動するそうなので、その流れで渡ってきたのでしょう。  中島川でカイツブリを確認するようになったのは昨年11月末。このときは少なくとも5〜6羽はいて、列をなして泳いでいたので、カモの子どもだろうと思っていました。1〜2週間後に確認したときは、3羽に減っていました。この水鳥がカイツブリだとわかったのは、1月下旬のこと。石橋のたもとで水鳥をいっしょに見ていた地元の方が、「小さいけれど、親鳥だよ。この前、新聞にも載っていた。カモとは別の種類のカイツブリっていう鳥らしい…」。  地元紙でも紹介されていた中島川の「カイツブリ」。界隈では、その存在に気付いていた人は多かったようです。最初に見かけたときより数が減っていたのは、推測ですが、渡りの途中で休憩のために中島川に立ち寄った際、この3羽だけがそのまま残ったのかもしれません。  カイツブリは別名を「鳰(にお)」といいます。昔から日本人に親しまれてきた水鳥で、琵琶湖の古名「鳰の海」は、カイツブリが多くいたことにちなんだものだそう。その巣は、水草を集めて作る浮巣で、水位の状況に応じて上下します。そんなことから、不安定なもののたとえとして、『鳰の浮巣』という言葉が使われます。  カイツブリは、潜水が上手な水鳥です。脚がお尻の方に付いていて、脚指には弁状のヒレがあります。小ぶりな身体つきとその脚が潜水に適していて、一度潜ると十数秒は水の中をびゅんびゅん泳ぎ回ります。水面に上がってきたとき、川魚をくわえている場面を何度も目撃しました。   カイツブリが水面をスイスイすすむときの泳跡の広がりや一カ所にとどまっているときの水の輪もきれいで、観察していて飽きません。現在は、冬羽の姿で薄茶とグレー系の羽に包まれていますが、暖かくなってくると、頬から首にかけて赤褐色、頭は黒褐色の夏羽になるそう。春が来てまた北へ帰る頃、夏羽の姿を見られるかもしれません。中島川に集う青サギや白サギなどとともに、静かに見守りたいものです。

    もっと読む
  • 第625号【2022年初春 水仙と恐竜博物館】

     寒中お見舞い申し上げます。この年末年始、東日本各地では大雪に見舞われるなど厳しい寒さの日が多かったようですが、西日本ではおおむね暖冬傾向の穏やかな天気に恵まれました。とはいえ、一年でもっとも寒さが厳しくなるのは、これからです。みなさん、体調に十分気を付けてお過ごしください。  新しい年のはじめにふさわしい、すがすがしい画像をお届けしようと、長崎市で水仙の名所として知られる野母崎地区の「水仙の丘」へ出かけてきました。野母崎地区は、長崎市中心部から南西にのびる長崎半島の先端に位置するまち。自然豊かで温暖な地域として知られています。  長崎市街地から、路線バスで長崎半島の西海岸をひたすら南へくだること約50分。「水仙の丘」は、沖合に軍艦島をのぞむ海岸沿いにありました。丘の斜面を埋め尽くすように植えられた水仙の数はおよそ1000万本。潮の香と甘い水仙の芳香があたりを包み、すがすがしい光景が広がっていました。  水仙の種類は、古くから日本で親しまれてきたニホンズイセン。シンプルな姿の中に、凛とした美しさがあります。写真を撮りながら「水仙の丘」をめぐっていると、花の手入れをされている方に出会いました。その方によると、野母崎の水仙は花付きが良く、丈があり葉の色も濃いため、華道家の方々に一目置かれているとのこと。手入れのコツのひとつは、花が終わったあと球根を十分に休ませること。そうして大きくなった球根は、再び美しい花を咲かせるそうです。  水仙群のところどころで、ハマアザミも見かけました。夏から冬にかけて海浜に咲くアザミの一種で、葉が厚く光沢があるのが特徴です。ちなみに、葉や根は、山菜として食用も可能だそう。ゴボウのような形をした根は、「ハマゴボウ」とも呼ばれ、天ぷらなどにするとおいしいそうです。  海側からも山のほうからも野鳥の鳴き声が聞こえてくる「水仙の丘」。展望所から海岸を見下ろすと、岩場で羽を休めているウミウの姿がありました。  毎年、この時期に出かけていた「水仙の丘」ですが、すぐ隣に「長崎市恐竜博物館」がオープン(昨年10月)したことで、いろいろな変化が見られました。最寄りのバス停は「運動公園前」から「恐竜パーク前」に名称が変わり、バスを降りると恐竜の像が迎えてくれました。博物館前には、「こども広場」が設けられ、朝9時の開館前から子どもたちの歓声が飛び交っていました。  水仙をぞんぶんに楽しんだ後、長崎市恐竜博物館へ(新型コロナ感染防止のため、来場の際には予約が必要です)。世界最大級のティラノサウルスの全身骨格レプリカなど複数の大きな全身骨格標本が展示されていて、迫力いっぱい。展示室の海側は、一面ガラス窓になっていて、数々の恐竜の化石が見つかった長崎半島西海岸の三ツ瀬層と呼ばれるとても古い地層の一角を見渡せるようになっていました。生き物の進化や、長崎の自然史に関する展示も豊富で、恐竜好きの人に限らず、多くの人が関心を抱けるテーマが盛りだくさん。長崎市恐竜博物館については、あらためて別の機会にご紹介したいと思います。   ◎本年もどうぞ、よろしくお願い申し上げます。

    もっと読む
  • 第624号【2021年 師走の長崎】

     あっという間に12月がやってきました。11月は小春日和の日が多かったのですが、さすがに12月に入ってからは冬らしい寒さを感じるように。それでも、この時期にしては、比較的過ごしやすい天候が続いている長崎です。街路樹のナンキンハゼは、紅葉した葉を落とし、枝先につけた白い実をスズメたちがついばんでいました。ちなみにスズメが食べているのは、外側の白い皮だけ。中に入っている黒い種には毒があるそうです。  中国原産のナンキンハゼは、一説には江戸時代に長崎に伝わり、その後、日本各地に広まったといわれています。そんなご縁から「長崎市の木」に指定され、街路樹としておおいに利用されています。ナンキンハゼほどではありませんが、長崎のまちでは、ビワの木もあちらこちらで見かけます。初夏においしく熟す橙色の実が知られていますが、その実のもとになる花は、約半年前のこの時期に咲くのです。白い小花をたくさん付けますが、あまり目立たず、足を止める人は少ないよう。鼻を近づけると、甘い匂いがします。  新型コロナの感染者数が減ったこともあり、長崎では、先月から修学旅行生の姿が目立つようになりました。12月に入ったいまも、見慣れない学生服の子たちが路面電車で観光スポットを行き交っています。グラバー園や大浦天主堂などがある南山手も、修学旅行生たちで賑わっていました。実は、先月、その南山手から海側へ下り、「旧香港上海銀行長崎支店」前の横断歩道を渡ったところにある「長崎港松が枝国際ターミナル」付近に、人気漫画「弱虫ペダル」のキャラクターを施したマンホールが設置され、注目されています。  「週刊少年チャンピオン」に連載されている「弱虫ペダル」は、自転車競技をがんばる高校生たちを描いたスポーツ漫画。作者は長崎市出身の漫画家、渡辺航さんです。長崎市の下水道供用開始60周年を記念して、「弱虫ペダル」のキャラクターをあしらったマンホール全27点が長崎市内の観光施設や景観スポットに設置されることになり、先月、その第1弾として9点が設置されました。そのひとつが「長崎港松が枝国際ターミナル」近くにあるのです。「弱虫ペダルマンホール」は、まだ、あまり知られていないのか、気付かずに通り過ぎる修学旅行生も多いよう。見ると気分が明るくなるマンホールです。ぜひ、足元を探してほしい。残りの18点も今年度中に設置予定だそう。マンホールめぐりをしながら、市内観光を楽しんではいかがでしょう。  今年を振り返れば、長崎駅周辺の変化は大きなものがありました。新駅舎の建設をはじめ、駅の西口側には先月、国際会議や各種イベントが開催される「出島メッセ長崎」がオープン。これから新駅ビルも建設予定で、来年秋の九州新幹線西九州ルートの開業に向けてまだまだ変貌中です。現在、モダンな外観に変わった長崎駅は、戦後、長らく親しまれた三角屋根の駅舎から、2000年(平成9)に、大きな屋根付きの駅前広場のある駅舎に改築されました。当時の光景が、さまざまな出来事とともに蘇ります。旧駅舎より、少し西側(稲佐山側)へ移動した新駅舎。これから、どんなストーリーが刻まれていくのでしょう。いまから、楽しみです。  港に出ると、三菱長崎造船所の「ジャイアント・カンチレバークレーン」が対岸でいつもの姿を見せていました。1909年(明治42)に完成したこの大型クレーンは、大正、昭和、平成、そして令和と、110年余りの激動の時代をくぐりぬけながら長崎のまちを見守ってきました。近々、コロナ禍を乗り越えたまちの姿を見てくれるに違いありません。   ◎本年もご愛読いただきありがとうございました。どうぞ、良い年をお迎えください。

    もっと読む
  • 第623号【晩秋と初冬が重なる風景】

     11月はじめ長崎駅近くにある本蓮寺(長崎市筑後町)を訪れると、銀木犀(ギンモクセイ)が白い小花を咲かせ、あたりに芳香を漂わせていました。それは、同じモクセイ科で、花がオレンジ色の金木犀(キンモクセイ)よりも、控えめな香り。金木犀は、銀木犀よりも1週間ほど先に開花しましたが、例年より10日ほど遅い10月下旬でした。長崎のまちを包み込んだ独特の甘い香りに、ようやく秋を感じた方も多かったことでしょう。  銀木犀の花言葉は「初恋」だそう。かわいい白い小花とやわらかな香りが、そんな言葉を彷彿させるのでしょう。一方、金木犀の花言葉は、「謙虚」「気高い人」「陶酔」などがあります。その強い芳香の印象とは裏腹に、花自体はとても小さいことから、「謙虚」という言葉につながったといわれています。  庭木などで見かけるのは、圧倒的に金木犀のほうが多いように思えます。ちなみに、園芸業界で「モクセイ」といえば、「銀木犀」を指すそうです。というのも、もともと金木犀は、銀木犀の変種として生まれたものだからです。原産はいずれも中国で、江戸時代に日本に渡来したといわれています。  さて、長崎のまちの樹木に目をやれば、イチョウの黄葉はまばらで、いつもよりやや遅れているよう。桜の木は、紅葉を楽しめないまま落葉したものが目立ちます。ここ数年、晩秋と初冬が重なり、秋が短くなっているように感じる中、これまでの秋の風情とは少しずつ違ってきている様子が伺えました。  この時期らしい草花を探していると、長崎駅前の斜面地で自生と思われる木瓜(ボケ)の花と実を見つけました。木瓜はバラ科の落葉低木。「木瓜の花」は、俳句では春の季語ですが、九州のような暖かい地域では、冬場に咲くものもあり、「寒木瓜」「冬木瓜」という冬の季語で表現されます。  木瓜は、花の後に直径5〜10センチほどの黄色い実を付けます。細い枝にいきなり実がくっついているのが特徴的です。その実が、瓜(うり)に似ていることから、木になる瓜(うり)を意味する「木瓜」の名前が付いたそう。ちなみに、「木瓜の実」は秋の季語。熟した果実は、滋養強壮、整腸作用のある果実酒としても楽しめます。  さて、近頃の気候変動は、渡り鳥の渡来時期にも影響を及ぼすかもしれないと気になっていましたが、秋に大陸から日本に渡ってくるジョウビタキの個人的な観測による初見は、例年並みといったところ。10月末に浦上地区の住宅街でかわいいメスの姿を確認しました。  11月7日立冬の日の夕暮れ時、西の空に宵の明星(金星)と新月から2日目の細い月が出ていました。翌日の昼間には、三日月が金星を隠す天体ショー「金星食」が見られるはずでしたが、長崎はあいにくの曇り空でありました。   今年の金星は、5月頃から夕方になると西の空で輝いています。ひときわ明るく輝いているのですぐに金星とわかります。12月頃まで見られるので、ぜひ、日没後に見上げてみてください。新型コロナのことも、一日の疲れもひととき忘れる美しさですよ。

    もっと読む
  • 第622号【2021年の秋 中川八幡神社】

     10月初旬の長崎は、秋らしい安定した晴天続きでしたが、日中は例年よりも気温が上がり、真夏のような蒸し暑さでした。それでも、庭先のザクロの木には赤い実がなり、山あいにはセイタカアワダチソウやススキが生い茂り、夕暮れには美しい夕映えが広がるなど、秋らしい光景があちらこちらに。季節はずれの暑さも今週までのようで、週末には気温が下がるという予報が出ています。体調管理に気を付けて過ごしたいですね。  コロナ禍2年目の長崎の秋は、感染者数が減っていることもあって、まちの賑わいが少しもどってきたような印象です。しかし、新型コロナの収束時期は、まだ見通しが立っていません。秋の大祭「長崎くんち」は、昨年に続いて中止となり、各地で行われる秋祭りも規模を縮小したところが多かったようです。  中川八幡神社(長崎市中川2丁目)も、秋の大祭のときに境内で行われる伝統の「こども相撲大会」が、昨年に続いて中止になりました。中川八幡神社は、江戸時代初期に創建された神社で、武運の神様である誉田別命(ほんだわけのみこと)、生長足姫命(おきながたらしひめのみこと)、武内宿禰命(たけのうちすくねのみこと)の御三神が祀られています。境内の一角には武道場があり、剣道、空手、なぎなたなどの稽古場として地元の人々に利用されています。  宮司さんによると、かつては「中川相撲」と呼ばれるほど、相撲が盛んに行われ、佐賀や諫早、島原などからも相撲取りたちが集ったとか。昭和30年代の半ば頃までは境内に土俵が設けられていたそうです。  江戸時代の中川八幡神社は、長崎街道の出入り口付近の街道筋に立地していたこともあり、長崎から旅立つ人や長崎にやって来た人々が参拝に訪れることが多かったそう。境内には長崎奉行や京都の商人と推測される人などから寄進された石灯籠がいまも残されています。  住宅街の一角にあり、どこか庶民的な雰囲気が漂う中川八幡神社の境内。手水舎に2つ並んだ手水鉢のひとつには、色とりどりの花が水面に浮かべられていました。「参拝者が、花を見て心が清められますように。そして前途が花開きますように」という宮司さんの思いからはじめたそう。梅雨には紫陽花、冬には椿と、季節の花々が参拝者をやさしく迎えてくれます。  手水鉢の花を眺めたり、樹齢400年という御神木のクスノキを見上げたりしながら境内を散策していると、御朱印を求めて、何人もの参拝者が訪れていました。宮司さんによる猫のイラストが描かれた個性的な御朱印が喜ばれているようです。  シンと静まりかえった昨年秋と比べたら、人々が動き、賑わいがもどりつつある今年の秋。時代の大きな変わり目を象徴するように、あちらこちらで新しい建物が生まれています。立山では、旧県立長崎図書館跡地に、「県立長崎図書館郷土資料センター」が完成していました。緑豊かで閑静な立山の地になじむ落ち着いた雰囲気の外観。長崎県関係の文献・資料を揃え、提供してくれます。開館予定は、来年3月。いまからとても楽しみです。

    もっと読む
  • 第621号【手水鉢の謎とヤマガラ】

     長崎の寺町通りの一角にある長照寺。こぢんまりとした境内は、日本庭園のように手入れが行き届き、四季折々の花も楽しむことができます。この時期には石畳沿いに植えられたタマスダレがいっせいに咲き誇るのですが、今年はいつもより20日ほども早く開花して、お寺の方も驚いていました。また、お盆の頃にヒガンバナが咲くなど、不順な天候に植物たちも翻弄されているよう。これは、先月の大雨や長雨などで気温の低い時期が続いたためと言われています。いつもと違うことが次々に起こる昨今ですが、自然への畏敬の念を忘れず、コロナ感染予防も怠らず、なるだけ明るい気持ちで日々を過ごしたいものですね。  9月に入ってすぐ、関東では気温が急降下したというニュースが流れましたが、長崎は、曇天ながら蒸し暑い日が続いています。リフレッシュしようと、緑豊かな松森神社(長崎市諏訪町)へ足を運ぶと、手水舍にヤマガラが飛んできました。ヤマガラは住宅街などでも見かける身近な野鳥です。手水鉢の水をクチバシでつつくと、しばし、そこにいて辺りを見回していました。  ヤマガラが留まった手水鉢は、ふちに植物の文様がほどこされた個性的なデザインで知られています。安山岩を削ってつくられたものですが、石工の名や制作年などは刻まれておらず、いつ頃、誰が松森神社に設けたのか、詳細は不明のよう。長崎市史(地誌編神社教会部・上巻/昭和13年発行)には、『〜其の形態は朝顔花を模し構造が巧妙であるので、鑑賞を惹いている』と紹介されています。  しかし、どう見ても、朝顔とは思えず、同じような文様の家紋がないか調べてみました。すると、「河骨紋(こうほねもん)」によく似ていることが分かりました。「河骨」とは、ハスのように水面に葉や花を浮かべる水生植物です。水にちなんだ植物でもあることから、もしかしたら、手水鉢の文様は、「河骨紋」の可能性もあるのでは、と思いました。ちなみに、「河骨紋」は、徳川家の「葵紋」に似ています。  松森神社から東へ3.3Kmほど離れた長崎市本河内地区にある妙相寺(みょうそうじ)。地元では昔から紅葉の名所として知られています。また、アーチ型の石門も有名です。実は、このお寺には、松森神社の手水鉢の雛形ではないかと言われるものがあります。それはお寺の池に、噴水鉢として置かれているもので、現在は池の水が抜け、鉢の全貌が丸見えになっていました。高さ約40㎝、直径約62㎝で、松森神社の手水鉢の半分くらいの大きさです。残念ながら、文様は、苔に覆われて確認できませんでした。写真で、苔がないときのものを見ると、確かに松森神社のものとそっくり。聞くところによると、妙相寺のそれは、蔓性植物のスイカズラを図案化したものだとも伝えられているそうです。   松森神社と妙相寺の手水鉢。実際のところ、何の文様なのか、いつ、誰が作ったのかなど、はっきりしたことは分かりません。だからこそ、いろんな想像を膨らませることになり、歴史探訪の面白さが増すのかもしれません。そんなことを思いながら、人の気配がない妙相寺の裏手に回ると、青々と茂るカエデの木の合間から「ツーツーピー」と鳴き声がしました。またもやヤマガラです。フヨウの木に飛んで来ると、蕾を足で器用につかみ、クチバシを差し込んで蜜を吸いはじめました。いまを夢中で生きる、微笑ましくて、たくましい、ヤマガラの姿でありました。

    もっと読む
  • 第620号【涼を探して、盛夏の長崎】

     暑中お見舞い申し上げます。連日猛暑が続いていますが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。今週はじめにやって来た台風9号、10号の進路を示した天気図に、早くも「秋雨前線」が現れました。大雨への警戒は引き続き必要ですが、猛暑のピークは過ぎようとしています。この夏は一段と暑さが厳しかっただけに、次の季節が早めにやって来そうだと思うと、ちょっと元気がでます。  涼しげな景色を探して長崎のまちを歩けば、人家近くの草地では、白いユリが夏草の中で揺れていました。テッポウユリかと思いきや、それによく似た「新テッポウユリ」(テッポウユリとタカサゴユリの交配種)でした。テッポウユリの原産は日本の南西諸島から九州南部にかけて。開花時期は、6〜7月です。一方、「新テッポウユリ」の原産は台湾といわれ、開花時期は8〜9月、テッポウユリより葉が細いのが特長的です。炎天下に咲く、清らかで美しいユリの花にしばし暑さを忘れるようでした。  長崎市八幡町の住宅街の一角にある宮地嶽八幡神社(みやじだけはちまんじんじゃ)の鳥居も涼し気な姿をしています。たいへん珍しい陶器製の鳥居で、冷たげな白磁の肌に青色顔料の呉須で唐草文様が施されています。明治21年(1888)に有田でつくられたもので、国の登録有形文化財になっています。有田の陶山神社に同じ製作者による同一の鳥居がありますが、希少性の高い存在です。  諏訪神社に隣接する長崎公園では、噴水が勢いよく水しぶきを上げていました。この噴水は、公園などの装飾用噴水としては、日本でもっとも古いといわれています。水しぶきのおかげで心なしかひんやり。周囲の緑とともに癒される光景でした。  お隣の諏訪神社には、個性的な狛犬が各所に据えられています。その中から、水にちなんだ狛犬をピックアップすると、まずは、「高麗犬(こまいぬ)の井戸」。本殿裏手の通路にちょこんと据えられています。くわえた筒から流れる水は、江戸時代から枯れることのない清浄水として史書に記され、安産に効くと伝えられています。また、「銭洗いの狛犬」とも称され、この水でお金を洗うと倍に増えるという信仰があるそうです。  諏訪神社本殿裏手の石段を登ると、蛭子神社の「河童狛犬」が迎えてくれます。どこか愛嬌のある小ぶりの狛犬で、会話でもしているかのような据えられ方です。頭のお皿に水をかけて祈願します。   神前を守護する役割があるという狛犬。長崎市役所別館の裏手通りにある「出雲大社長崎分院」(長崎市桜町)では、めずらしい動物が神前を守っています。それは、白兎を背に乗せた1対のワニザメです。出雲大社の御祭神は大国主命(おおくにぬしのみこと)。神話「因幡の白兎」にちなんだものなのでしょう。ワニの表情や左右の兎の姿勢の違いに作者の遊び心が感じられます。しかし、このワニザメ、いわゆる魚類のサメではなく、爬虫類のアリゲーターのようなのです。ずっと気になっているのですが、真相はいまのところ不明です。

    もっと読む
  • 第619号【7月のあれこれ〜秋帆から東京オリンピックまで〜】

     長崎を含む九州北部は昨日、梅雨明け。梅雨末期の大雨で、各地で土砂災害や冠水などが相次ぎました。被害にあわれた方々に心よりお見舞い申し上げます。  今年も半年が過ぎました。早いですね。6月の最終日、長崎の諏訪神社では夏越大祓式「茅の輪くぐり」が行われました。この神事は、今年半年間の罪けがれを祓い、夏を無事に過ごせますようにと願うもの。拝殿前には、茅(かや)を束ねて大きな輪にした「茅の輪(ちのわ)」が置かれ、参拝者が次々に輪をくぐっていました。このとき、「水無月の夏越の祓へする人は千歳の命延ぶというなり」という和歌を唱えるのですが、くぐり方や唱える言葉は、地方によって違いがあるよう。でも、願うのはきっと、みな同じ。コロナ禍の夏を健やかにくぐり抜けることができますように。  「茅の輪くぐり」がうれしいことを引き寄せてくれたのか、その翌日、知人から「近江米(おうみまい)」をいただきました。産地である滋賀県は古くからの米所。ほんのり甘みのある「近江米」をおかわりしながら、ふと頭をよぎったのは、幕末の砲術家として知られる高島秋帆(1798-1866)のことでした。  長崎の町年寄(現在の市長に相当する役職)の家に生まれた秋帆。のちに11代目として家督を継ぐことになるのですが、そもそも高島家のルーツはというと、戦国時代は近江国(滋賀県)高島郡の領主で、戦国大名浅井長政に仕えていたそうです。長政が信長に背き滅亡したとき、高島家も離散。九州に逃れた領主の子と孫が、開港して間もない長崎にやって来たのが長崎・高島家のはじまりと伝えられています。  高島家は近江国を遠く離れた地にあっても、すぐに頭角を現しました。長崎・高島家の初代となる四郎兵衞茂春は、当時、長崎の町方を支配した4人の頭人(のちの町年寄)のひとりになっています。南蛮貿易港として栄えていたその頃の長崎は、全国各地のキリシタンが集まってきましたが、初代四郎兵衞茂春もゼロニモという洗礼名をもつキリシタンでした。その後、高島家は禁教令による混乱の時代を上手にくぐり抜け、町年寄の地位を代々維持したのでした。  高島家は、商取引の才もあり裕福な暮らしをしていたようです。長崎市万才町にあった高島家の跡地からは、17世紀の木製のチェスの駒、金のかんざし、西洋や東南アジアなどの陶磁器など、国際色豊かな品々が出土しています。また、三代目の四郎兵衞茂卿は、出島築造時に出資した有力商人のひとりとしてその名を連ねています。  長崎歴史文化博物館で開催中の「高島秋帆展」(2021年5月19日〜7月19日)へ足を運びました。砲術家として足跡だけでなく、能書家であった秋帆の姿を垣間見ることができました。展示された秋帆の書画のひとつ「猛虎図」は、捕まえた鬼(病魔)を虎に喰わせるという中国の話に、虎の絵が描かれたもので、安政の頃にコレラが流行ったとき、この虎の絵がコレラ除けとして多くの人に求められたというエピソードが紹介されていました。この虎の絵をあしらったエコバックを同館のショップで見つけ、迷わず買ってしまいました。  さて、話は変わりますが、いよいよ来週23日から「東京2020オリンピック」が開幕します。1964年の東京オリンピックをご存知の方々は、経済成長の只中にあった当時を振り返り、感慨深いものがあるのではないでしょうか。ちなみに当時の郵便はがきは5円、封書は10円。このオリンピックを3ヶ月後に控えた同年7月にみろく屋も創業しました。  いろいろな思いを乗り越え、コロナ感染予防対策を万全にして、テレビの前で選手たちの熱戦を応援したいものですね。ガンバレ、ニッポン!  参考にした本:「高島秋帆」(宮川雅一/長崎文献社)

    もっと読む
  • 第618号【 福沢諭吉と光永寺】

     雨にしっとりとぬれた紫陽花の美しいことといったらありません。長崎の家々の軒先に咲く紫陽花は見頃を迎え、すでに花期は終盤です。梅雨空のもと、花を咲かせているのは紫陽花だけではありません。アマリリス、ユリ、ノウゼンカズラなど初夏の花々が次々に開花。ナツツバキもそのひとつです。  直径5〜6センチほどの白い花を咲かせるナツツバキ(ツバキ科の落葉高木)。日本では別名「サラソウジュ(娑羅双樹)」「シャラノキ」などとも呼ばれ、古くから寺院などの庭に植えられてきました。中島川沿いにある光永寺(長崎市桶屋町)の境内でも育てられています。同寺に掲げられた説明版によると、この花は、朝に咲いて夕方には閉じる1日花。そのことが「無常」のたとえとなり、日本では平家物語の冒頭にある『祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 娑羅双樹の花の色…』の花とされました。実は、仏教の聖樹サラソウジュはインド原産のフタバガキ科の常緑高木。日本では育ちにくいため、ナツツバキをサラソウジュに擬したそうです。  ナツツバキは、通常6〜7月が開花時期。今年、光永寺では開花が早かったそうで、6月はじめには花が終わりました。  ところで、光永寺の境内の中央には、樹齢470年とも言われる大イチョウが鎮座し、春夏の青葉、秋の黄葉、冬枯れの姿と、四季折々に来訪者の目を楽しませています。167年前、このイチョウの四季の姿を眺めたと思われるのが、若き日の福沢諭吉(1834-1901)です。  福沢(当時19才)は1854年(安政元)2月、蘭学を志して長崎へ。約1年このまちで勉学に励みました。このとき食客として最初に世話になったのが光永寺です(のちに近所の砲術家の食客になる)。長崎滞在時のさまざまなエピソードは、『福翁自伝』(福沢諭吉著/岩波文庫)に綴られています。同書によると、当時の福沢は、たいへんな大酒飲みでしたが、長崎では周囲に下戸と偽っていました。「…トウトウ辛抱して1年の間、正体を現さずに、翌年の春長崎を去って諫早に来たとき、初めてウント飲んだことがある。……」と同書に記しています。諫早は長崎に近い宿場まち。おそらく長崎を離れた初日に諫早に着き、1年分のがまんを解き放ったのでありましょう。  また、同書には、1854年11月に起きた「安政の大地震」の揺れが、長崎にまで及んでいたことも記されています。そのとき福沢は、光永寺から歩いてすぐの砲術家のところで居候中。掃除などの家事に勤しむなか、表の井戸端で桶に水を汲んだとき、突如ガタガタと揺れが来て足を滑らせたそうです。  『福翁自伝』は、啓蒙思想家、そして慶應義塾の創始者で教育者でもあった福沢諭吉の目を通して、激動の幕末〜明治の空気を味わえる名著です。福沢は自身の良いことも悪いことも隠さず、ときにユーモア混じりで述べていて好感が持てます。   長崎・諏訪神社の参道の一角には、慶應義塾関係者によって建立された福沢諭吉像の碑があります。台座には福沢が『学問のすゝめ』の冒頭に記した「天は人の上に人を造らず 人の下に人を造らずと云へり」が刻まれています。

    もっと読む
  • 第617号【梅雨入り前の長崎】

     コロナ禍に迎えた2度目の春は、しだいに雨の季節へ移ろうとしています。先週5月5日「子どもの日」は、二十四節気でいう「立夏」でした。さわやかで過ごしやすい時候ではありますが、この日、沖縄・奄美地方は平年より1週間ほど早く梅雨入り。長崎を含む九州北部地方は、沖縄に遅れること約1ヶ月弱で梅雨入りするのが常ですが、季節は、前倒し気味に移り変わっているので、梅雨入りも早くなりそうな気配。長崎ではアジサイが色づきはじめました。  季節が早めに巡っていることが、花々の開花の状況でわかります。例年なら5月初旬に開花して、数日間だけ芳香を放つ一覧橋(中島川の石橋群のひとつ)のたもとのクスノキが、今年は4月下旬に満開になりました。ところで、クスノキの花は見たことがないという方もいらっしゃるかもしれません。クスノキは、春の終わり頃から初夏にかけて、黄白色の小さな花を無数につけますが、新緑の輝きにまぎれ、花は見過ごされがちです。その香りは、クスノキの枝や幹を原料に作られる樟脳とはまた違った、清涼感のある甘く心地いい香りです。  さて、長崎では、ザクロの花も例年より早く開花しています。毎年、6月1日の「小屋入り」(「長崎くんち」のはじまりを告げる行事)が近づくと咲きはじめるのですが、今年は4月末頃につぼみが開きはじめました。個人的にザクロの開花を確認する標本木としているのは、「長崎くんち」の舞台となる諏訪神社の参道の一角に植えられたものです。  先月、今年の「長崎くんち」の奉納踊りと御神幸が、新型コロナの影響で、昨年に続いて中止にしたと発表がありました。来年に繰り延べとなった踊町の方々が、この2年間のきびしい状況を乗り越え、来年すばらしい奉納踊を見せてくれることを楽しみにしたいものです。  季節が前倒し気味といいながら、例年通りの様子を見せているのが、路地ビワです。人の手入れが行き届かない川端や道脇などで自然に育ったビワの木が、梅雨入りを前に橙色の果実をたわわに実らせています。茂木ビワの産地でもある長崎は、毎年、大型連休が終わる頃から、店頭に並ぶビワの数がぐんと増え、お値段もお手頃に。ビワはやさしい甘さの果汁がたっぷりで、薬膳では、咳止めや熱が出て喉が渇くときなどに用いられます。葉や種にも薬効があることが昔から知られ、ビワ茶などは疲労回復に効果があります。  話は変わりますが、大型連休中、思いがけない場所でミサゴと思われる鳥を見かけました。そこは、長崎駅前の高架広場。餌を見つけたのか、急に上空から降りてきて低空飛行。餌を取り損ね上空へ上がったかと思うと2度旋回、再び下降しホバリングのような動きを見せ、床面に向かってヒュッと降り、その後、駅舎側へと飛び去っていきました。顔からお腹にかけて白かったので、トビではありません。あわてて写真を撮ったので、種類を見極められるほど詳細な写りでないのが残念です。   数ヶ月前ミサゴを見かけたのは、野母崎の海でした。ミサゴは海岸や大きな河川の近くに生息するタカの仲間。長崎駅は、海や河川が近いとはいえ、人や車の喧騒が絶えません。そんな場所でトビにも似た大胆な行動を見せたのには驚かされます。ただ、後になって知ったのですが、小動物を餌にすることが多いタカの仲間のなかで、ミサゴは、ボラやトビウオ、イワシなど、魚を餌にするそう。今回見かけた鳥は、広場の小動物らしきものを狙ったと思われるので、ミサゴではないかも…。では、いったい何という鳥だったのでしょうか。次の偶然の出会いを待ちたいと思います。

    もっと読む
  • 第616号【希望を携え龍馬像をめぐる】

     4月に入ってからの長崎は、春というより、早くも初夏の陽気に包まれる日が多くなりました。ぐんぐん上がる気温に乗って、ご近所の春バラが空に向かって大輪の花を咲かせました。つい先日まで桜が満開だったのに、季節はどんどん移り変わっています。例年よりも早く北上している桜前線は、いま青森あたりでしょうか。長崎市の桜の名所のひとつとして知られる風頭公園に足を運ぶと、龍馬の銅像が楠や桜の青葉を背景に、長崎港の沖合を見つめていました。   「龍馬さん、あなたなら、いまの時代をどんなふうに生きるでしょう?」。思わず、そんな質問をしたくなる龍馬像。幕末の志士、坂本龍馬(1836-1867)は、新しい時代に目覚め、前例にとらわれないやり方で突き進み、ズンズンと時代を動かしました。こだわりのないおおらかな人柄だったそうで、時代を超えて多くの人々を魅了し続けています。  新型コロナの影響で観光客が激減したいまも、マスクを付けた龍馬ファンとおぼしき人たちが、風頭山の山頂にあるこの龍馬像をめざして登っていく姿を見かけます。というのも、この界隈は龍馬たちが闊歩したスポットとして、龍馬ファンにはたまらないエリアなのです。風頭公園近くから「龍馬通り」と称する階段を下ると、山の中腹には龍馬が率いた「亀山社中の跡」があり、社中のメンバーが参拝に訪れたといわれる「若宮稲荷神社」や龍馬らが利用した料亭「玉川亭の跡」、上野彦馬の撮影局跡などがあります。ちなみに「若宮稲荷神社」の境内にも龍馬像がありますが、こちらは風頭公園の銅像の原型だそう。顔立ちがより若々しい印象です。  昨年11月には、聖福寺(長崎市筑後町)に龍馬像が建立されました。50センチほどの高さで、風頭公園の銅像と同じ作者だそう。こちらの像は、後頭部にまとめた髪がポニーテールになっています。聖福寺は、「いろは丸事件」(龍馬たちが乗った船と紀州藩の船が衝突した事件)の談判が行われた場所で、話し合いには龍馬も同席しました。その日、どんな気持ちで山門(国宝)をくぐり、参道を歩いたのでしょう。境内の古めかしい石畳や石段を龍馬も踏みしめたかと思うとドキドキします。  ところで、聖福寺はいま、修復工事の真っ最中。境内にあった大きな楠や金木犀などの樹木が工事の都合で伐採されたことで、はからずも大雄宝殿の全景を撮ることができました。修復作業は長丁場で、これから10年ほどかけて行われるそうです。  さて、龍馬の銅像は、丸山公園にも設けられています。丸山公園は花街丸山の跡地にあり、龍馬ら海援隊の面々も訪れていたようです。1867年(慶応3)に起きたイカルス号事件(英国人水夫が丸山で惨殺された事件)では、海援隊のメンバーが犯人ではないかと疑われ(のちに嫌疑は晴れる)、龍馬を悩ませたこともありました。   銅像をめぐりながら当時の出来事を振り返ると、龍馬はさまざまな試練や苦難を成長の糧にしていたこと、そして新時代への希望を抱いて行動していたことがわかります。時代を超えて龍馬が愛される理由はそんなところにありそうです。

    もっと読む
  • 第615号【長崎開港450年を迎える春】

     今年は記録的な早さで各地の桜が開花。長崎も今月14日に開花宣言が出て、いまはちょうど満開のときを迎えています。小鳥たちは桜の花の蜜を求めて、枝から枝へ。いつもなら動きが素早い小鳥も、おいしそうな蜜を求めてしばらく枝に留まるので、写真が撮りやすいです。  長崎港を見渡す高台に出て、ぐるりと見渡せば、港を囲む緑の山肌や住宅街のあちらこちらに薄桃色の花を満開にした桜が見えます。ただ、咲いてくれるだけで、心が浮き立つ桜。昔々の人々も、同じような気分でこの季節を迎えていたのでしょうか。  さて、はじまりの春を知らせる桜。1週間後には新年度がスタートします。長崎はこの4月に「長崎開港450周年」を迎えるということで、令和3年度はさまざまな記念イベントが予定されているようです。ただいま建設中の長崎市役所新庁舎の工事現場を囲う壁には、「長崎開港450周年」のロゴマークが描かれ、通行人の目をとめています。それを見てふと、50年前の400周年のときはどんなデザインのマークを使ったのかなと思って、調べてみました。  長崎開港400周年は、1970年。大阪で日本万国博覧会が開催された年でもあります。くだんのマークは、『長崎開港400年のあらまし』(「長崎開港400年記念実行委員会」発行)という冊子の裏表紙で見つけました。マークの説明には「波がしらと鶴の組み合わせは、将来への躍進を象徴し、これを出島の扇型で囲む。くちばしの部分は開港を示す。」とあります。  50年前のマークのモチーフのひとつに鶴が使われているのは、長崎港が「鶴の港」と称されていたからでしょう。「鶴の港」の由来は、港の輪郭が、鶴が翼を広げたような形に似ているからという説が主流でしたが、本当のところは定かではないそうです。振り返れば、長崎港が「鶴の港」と称されていたのは昭和の時代までだったかもしれません。平成に入り、埋め立てなどで港湾の形がますます変わっていくなかで、「鶴の港」という言葉をしだいに見聞きしなくなった気がします。  そもそも「鶴の港」と呼ばれはじめたのはいつの頃だったのでしょう。開港前の長崎の歴史をひもとけば、当時の領主だった長崎氏は、鎌倉時代の貞応年間(十三世紀前半)に、東国からこの地にやって来て、入江(港)から少し奥まったところに「鶴城(つるのしろ)」と呼ばれる居城を構えたと伝えられています(「城の古趾」(長崎市夫婦川))。勝手な想像ですが、「鶴の港」は、この「鶴城」の名にゆかりがあるかもしれません。港が整備される前の自然な入江の時代には、干潟のような場所もあり、その昔には鶴が渡りの際に羽を休めていたのではないかという話を聞いたことがあります。鶴が舞い降りる地に由来しての「鶴城」そして「鶴の港」だったかも、などと想像の羽は広がるばかりです。   半世紀前の「鶴の港」の写真には、「女神大橋」はなく、「長崎水辺の森公園」もありません。当時あった「長崎魚市場」はなく、埋め立てられたその界隈には現在、長崎県庁、長崎県警察本部が建っています。1571年にポルトガル船が初めて来航して以来、南蛮貿易時代、出島の時代を経て、幕末〜明治の居留地時代、そして大正〜昭和初期の上海航路の時代など、さまざまな表情で時代を物語ってきた長崎港。これから50年後には、どんな姿を見せているでしょうか。

    もっと読む

検索